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フェミニストとオタクは永遠の宿敵なのか?
2018-09-16 00:0451pt近頃はもうほとんど使用していないが、それでもたまにTwitterを眺めることがある。そうすると、必ずといっていいほど何らかの論争が展開しているところを見つける。
「論争」とはいささか上品すぎる表現で、じっさいには「口喧嘩」ならぬ「文字喧嘩」といいたいようなありさまであることがほとんどだ。
そのなかでもぼくのタイムラインで目立つのは、「フェミニズム」と「表現の自由」を巡るやり取りだ。
表現の自由を重視する人間を「表現の自由戦士」と呼び、ののしるフェミニストは数多い。で、その表現の自由を尊ぶ側でもそのフェミニストのことを口汚くののしっていたりする。
そのどちらが正しいかはともかく、そういう光景を見るたびに実にうんざりする。ぼくは自分が気に入らない考えを罵倒することを本気で正義だと信じ込める単純な性格がたいそう嫌いだ。
まあ、ここでそういう人を罵倒すれば、ぼくも同じ類の人間になってし -
バーチャルYouTuber登場までに何があったか。
2018-09-12 03:1151pt前回に続いて、本を読んでいる。読んでいるのだが、積読の量が多くなりすぎてどうもモチベーションが上がらない。
読書沼は文字通りの底なし沼であり、年間に刊行される本の数は個人が読める量の数百倍にも及ぶわけで、まさにいくら読んでもきりがなく、いったんそのことを自覚してしまうとちょっと読む気がくじかれる。
もちろん、どうせ読み切れるものではないのだから一冊一冊の内容を楽しめればそれでいい、そもそも読書は数を読むために行うものではない、という意見は正論なのだが、でも、ぼくはどうも一定のゴールが見えないと行動を起こせないタイプなのだ。
目的がない時間をただゆったり、まったりと過ごすことができないというか、何か目に見える目標へ向けてダッシュすることを好む性格なのである。
これは一面では性格上の欠点なので直したいとは思うのだが、何しろ生まれ持った性分だからどうしようもないところもある。なるべく修 -
ぼくが知りたいと思うことのすべて。
2018-09-04 16:4151ptあいかわらず本を読んでいる。ほかにも色々とやるべきことがある気もするが、つい読書に耽ってしまう。性分としかいいようがない。
ぼくの読書の究極のグランドテーマとは、やはり「人間とは何か?」に尽きるように思う。もう少しいい方を変えるなら、「人間と世界」ということになるだろうか。この広漠たる宇宙において、人間存在は何を考え、どう行動してきたか、それを知りたいわけだ。
しかし、いきなり人間そのものに迫ろうというのは無理があるので、いくつかの方面からアプローチすることになる。たとえば、「経済」。人間にとって経済とは何なのかということに興味が行く。
べつに経済学の高度な概念を理解したいわけではなく、もう少し素朴な、あるいは根源的な「人間はなぜ経済活動を行うのだろう?」というところに関心がある。
その結果、モースの『贈与論』だとか、中沢知二の『愛と経済のロゴス』だとか、小野塚知二の『経済史』と -
人はなぜオカルトを信じるのか?
2018-09-02 20:3751pt「聖なるものと物語」というテーマで本を書きたくて、いろいろと資料を読んでいる。ここでいう「聖なるもの」とはルードルフ・オットーが創案した宗教学の概念で、Wikipediaによるとこんな意味らしい。
オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinöse"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。
ぼくはいまその『聖なるもの』を読んでいる最中だが、なかなかに難解で捉えがたい。しかし、まあ、ともかく、ぼくが「ウルトラマクロ」と呼んでいる領域の概念であることは間違いない。何か超越的なもの。形
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