-
夢の『ドラクエ』がここにある! 『ドラゴンクエストヒーローズ』は歴史を刷新する一作。
2015-02-28 21:1451pt
テレビゲームをやりたい! しかも国産ゲーム! リアル路線よりキャラクターものを! というわけで、ずっと発売を待ち望んでいた『ドラゴンクエストヒーローズ』を購入しました。PS4は持っていないので、PS3版です。
で、早速、プレイしてみたわけなのですが――お、面白い! 発売前には『ドラクエ無双』と呼ばれていたようですが、ぼくは無双シリーズをプレイしたことがないので比較しての評価はできません。
しかし、一本の『ドラゴンクエスト』としては、十分に満足できる出来かと。まさに『ドラクエ』ファンの夢を叶える一作となっています。
いや、ほんと、こんな『ドラクエ』がプレイできるのは幸せというほかない。まあ、『ドラクエ』に思い入れがない人がプレイして面白いかどうかはわからないけれど、端から端まで『ドラゴンクエスト』のアトモスフィアに満ちた世界を冒険してまわる展開は、それだけで十分に楽しく面白い。
いうまでもなく『ドラクエ』は日本で最大の人気を誇るロールプレイングゲームです。世界的に見ればもっとヒットしている作品はいくらでもあるだろうけれど、この極東の島国においては驚異的としかいいようがない人気を誇る作品であるわけです。
シリーズ全10作を数えるに至ったいまなお、その覇権は続いているわけですが、スクウェアとエニックスが合併してからの最近作には物足りないものを感じていた人も多かったのでは。
何といってもグラフィックの面での進歩が止まってしまっているに等しく、平均的なRPGと比べてもさほどインパクトのある作品ではなくなった状況が長く続いていました。
まあ個人的な評価になりますが、7、8、9、10と、洗練されたゲームシステムこそ魅力的であるものの、衝撃を感じるような何かは特になかった。
いまさら『ドラクエ』にそれを求めるほうが間違えているのかな、と思っていたのですが――だがしかし。『ドラクエ無双』、じゃない『ドラクエヒーローズ』はその思い込みを打破してくれています!
まあ、じっさいにはスクウェア・エニックスだけで作ったソフトじゃないらしいあたり、微妙に「うーん」と思うところはあるのですが、結果が良ければどこが制作していても問題ないとは思う。次の『ドラクエ』ナンバリングタイトルも面白いといいけれどなあ。
とにかく、1や2の時代から変わっていないなつかしのデザインで登場するモンスターたちを初めとするヴィジュアルは美しく、そして音楽や効果音はいつもの『ドラクエ』そのもの。
『ドラクエ』ファンにとってはまさに楽園というにふさわしい理想の『ドラクエ』を再現したゲームといっても過言ではないのではないかと思います。
ちなみにAmazonレビューの平均評価はそれほど高くないけれど、これは一部の荒らしが極端な低評価を付けているせいもあるみたい。おそらくそれを除けばもう少し高い評価が出るでしょう。『ドラクエ』とか『FF』はファンも多いけれどアンチも多いので大変ですね。
ただまあ、『ドラクエ』が好きじゃない人にとってはそこまで響かない作品であるかもしれず、「とにかくやれ!」とまではいえません。
とはいえ、『ドラクエ』好きならマストのアイテムなので、少年時代をすぎやまこういちのミュージックと共に過ごした向きには自身をもって推薦できる一作です。コマンド選択型じゃない、アクションRPGになっているからって遊ばないのは損かと。
(ここまで1411文字/ここから1459文字) -
地元の友達が欲しい!
2015-02-28 05:1051pt
きのうは月末ということで、いつもの日の倍くらいの予算を蕩尽し、母に代わって一切の料理をぼくが担当して作り上げました。何となく料理を初めて以来数年、ようやくひとりで台所を切り盛りできるようになったわけですね。実に感慨深い。
メニューは、ほたて貝柱の中華風カルパッチョ、ゆでえびとブロッコリのサラダ、とりむね中華五目炒め、鯛のづけ丼、つぶ貝の刺し身、しじみ汁、それにデザートのアイスクリームと、ぼく的には豪華絢爛。
ちょっとサラダの味つけとご飯の水加減をしくじったものの、全体期にはかなりうまくできたのではないかと。母も料理しなくて良くて満足、ぼくも美味しいものが食べられて満足、とみんなハッピーな一日でしたとさ。
そんなことどうでもいいという読者の声が聞こえてくるかのようですが、このブログは半分はぼくの日記なので一応メモとして残しておきます。
料理の腕という点ではほんとに成長したとつくづく思う。まあ、世間的に見ればまだまだレベル3くらいかもしれないけれど、何しろスタートがゼロからなので、とりあえずひと通りの料理を作れるようになっただけでも感動もの。
ひとは努力すればそこそこは成長するんだなあ、と思いますね。べつだん、料理の達人になる必要はないわけで(なれたらいいけれど)、ちょっと上達するだけで満足感が得られるあたりが素晴らしい。
ちなみにぼくが活用しているのはクックパッドの「プロのレシピ」です。月額360円取られるものの、クックパッドに寄せられる一般のレシピより格段にレベルが高いプロのレシピを活用できるスグレモノのサイト。これから料理を始めようという方にはオススメです。
ひとつ料理に限らず、最近はいろいろと細かく自己改革に励んでいるのですが、まだ決定的なことは何もできていない感じではあります。
もちろん、「こうすれば人生が変わる!」なんていう魔法の手段は存在せず、日夜、正しい意味での自己啓発を続けていくよりほかないのだとは思いますが、でも何とかして変わりたいですねえ。
まあでも、以前に比べればいくらか前向きにはなったと思う。昔から変わろう、変わろうとはしていたんだけれど、ひたすら空転するばかりでしたからね。その頃に比べれば、いまは着実に前進しているんじゃないかなあ。わからないけれど。
ただまあ、自己啓発という言葉にはあからさまに胡散臭さがただようこともたしかで、ほんとうにひとがそう簡単に成長できるのか、そもそも成長しなければならないものなのかという疑問を消すことはできません。
もっと変わりたい、成長したい、と願う一方で、ぼくはいまのままでもいいじゃないか、変化する必要なんて何もないじゃないか、とも思うのですね。 -
恋愛ってほんとうに良いものなの? 石田衣良の小説を読んで思う疑問。
2015-02-27 21:1751pt石田衣良『スイングアウト・ブラザーズ』を読み終えた。どうもぼくは文体が合う作家ばかり続けて読んでしまう傾向があるのだけれど、石田衣良もそのひとり。軽快でリズミカルな文体に惹かれて、ほとんどの作品を読んでいる。
石田の作品の第一の特徴はその驚異的なリーダビリティだろう。とにかく入りやすく読みやすい。一旦、読み始めたら物語の結末まであっというま。
スリル満点な小説をジェットコースターに喩えることがあるが、石田の作品はさしずめラグジュアリーな高級車の乗り心地だ。
たしかに、ただ読みやすいだけじゃないか、と悪口をいうことはできるだろうが、そういうことをいう人はただひたすらに読みやすい小説を書くだけのことがどれほど途方もない才能の産物であるかわかっていないのだろう。
読み手が一切のノイズなく作品世界を駆け抜けられるとき、書き手のほうはおそろしく繊細に気を遣っているものなのである。たとえ、一見してそうは見えないとしても。
さて、『スイングアウト・ブラザーズ』。物語は、大学時代から古い友人の中年男たち三人が、付き合っていた女性たちからほぼ同時に三下り半を突きつけられるところから始まる。
まさにスイングアウトの三者連続三振。いったい自分たちに何が足りなかったのか? 思わず考えこんでしまう三人の前に、大学時代の先輩が現れる。
彼女がいうには、モテない男たちを立派なモテ男に成長させるというビジネスを始めるつもりだという。ついては、三人には特待生として無料入学してほしいのだと。
その願いを聞いて、半信半疑ながら彼女に付いていくつもりになった三人を待っているのは、モテ男に成長するためのさまざまな試練だった――というのが概要。
三者三様に、髪が薄かったり、時代遅れの長髪だったり、体重が三桁近かったりと、モテには程遠い状況にいるスイングアウト・ブラザーズたちが、ファッションや教養やコミュニケーション・スキルを学びながら成長していくプロセスはなかなかに興味深い。
この手の小説の面白さは「モテるための自分の磨き方」にほんとうに説得力があるかどうかで決まって来ると思うのだが、そこは「学生の頃から現在に至るまで、恋人がいない期間がほとんどなかった」と公言する石田衣良、さすがにうまい。
特別、変わったことを提示するわけではないのだが、だからこそ王道の正しさがある。
しかし、読めば読むほどに、「女性にウケるための努力って大変だなあ」とげんなりしてくるのも事実。読み進めるうちいつしか、なぜそこまでして恋愛しなければならないのか?という根源的な疑問が浮かんで来ることは止められない。 -
この世は運ゲー! 偶然が支配する現実世界の摂理を学ぼう。
2015-02-25 10:0051pt
先日、『極私的ドキュメント にっぽんのリアル』というNHKのドキュメンタリー番組を見たんですけれど、これが面白かった。タイトルは「私と幼なじみ」。3月15日にBSプレミアムで再放送されるので、衛星放送に加入している人はよければ見てみてください。
どういう話なのかといえば、まあタイトル通り「わたし」と「幼なじみ」の物語なのですが、その「わたし」はNHKでアシスタント・ディレクターをやっている身。
築何十年という古びたアパートに住んでいて、いまのところ恋人はいません。一方、「幼なじみ」の友人はオーストラリアでオーストラリア人の恋人といっしょに住んでいて、何だかフラダンスを学んだりして優雅かつ充実した日々を過ごしているらしい。
昔は何をやらせても「わたし」のほうが上だったのに、いったいいつ逆転してしまったのか? 「わたし」は考えこんでしまう――という筋書き。
いつのまにか人生で追い越されてしまった「幼なじみ」のことを妬み半分疑問半分の視線で眺めながら、なんでこんなことになってしまったのかと考えこんでいく話、というふうに書くといかにも陰湿なストーリーが思い浮かぶけれど、じっさいにはそんなこともありません。
何だかんだとはいっても「わたし」もそれなりに自分の人生に自信を持っていて、満足しているから、「幼なじみ」に過剰なルサンチマンをぶつけたりしないのだと思う。
じっさい、「わたし」と「幼なじみ」はSkypeで国境を越えて話をするくらい仲が良くて、ほほえましい。いろいろな情緒が行き交うところも含めて、女友達というものもいいものなのだろうな、と思わせられます。
まあ、Skypeの画面の一方は豪邸で、他方はねずみ付きアパートであるわけなのですが、それはそれ。
しかし、それでもなお、やっぱり「わたし」の心には釈然としない思いが残っていることもたしかであるようです。
何といっても、昔から何をやるにしても自分は常に向上心を持って頑張ってきた。それなのに、その「幼なじみ」はいつも何だかふわふわしてばかり。
部活だって、自分はバレー部を選んで必死に努力してきたのに、「幼なじみ」はオタク系の部に入ってひたすら漫画を読み耽っていた。
だからほんとうなら自分のほうが上のポジションにいなくてはならないはずなのに、なぜか彼女はオーストラリアの豪邸で、自分はねずみがダンスを踊るアパート――おかしいじゃないか、というわけです。
これはじっさいもっともな話だと思うのだけれど、まあ、現実がそうなのだから仕方ない。それにしても、何をやらせてもふわふわしている「幼なじみ」が、いったいどうやってオーストラリアの金持ちをゲットしたのか? この話が面白い。
(ここまで1122文字/ここから1527文字) -
切なくもほろ苦い胸キュン恋愛映画『きっと、星のせいじゃない。』で泣く。
2015-02-25 02:2351pt
ども、海燕です。Amazonで専用の鍋を買ってご飯を炊いてみたところ、あからさまに美味しく仕上がりました。何というか、米粒のひとつひとつが立っている感じ。
Amazonなら4000円くらいで買えるし、使い方も簡単なので、美味しいコメが食べたい人にはオススメです。まだ炊飯釜で消耗しているの?といいたいくらい。
さて、それとはまったく関係ないことながら、映画『きっと、星のせいじゃない。』を観て来ました。
ぼくはどういうわけかこの手の乙女系胸キュン映画が好きで、『ラブ・アクチュアリー』とか『アバウト・タイム』なんかも大好きなんですけれど、この映画も期待を裏切りませんでした。
主人公は13才の頃からガンをわずらっているハイティーンの少女、ヘイゼル。末期ガンのため学校に通うこともできず、不毛な日々を送る彼女の前に、ある日、やはりガンで片足を失った青年オーガスタスが現れます。
ヘイゼル -
夢のリストの項目をひとつ実現してみた。
2015-02-23 00:1151pt
きのうのきょうですが、早速、オムライスを作ってみました。どうでしょう? そこそこ上手にできたんじゃないかと思うのですが、まだまだかなあ。
オムライスは亡くなった祖母の得意料理で、ぼくも過去何十回と作っているのですが、どうしてもチキンライスの上に卵をうまく載せられません。
ただ、たしかに少しずつ進歩はしていて、最近はだいぶうまく作れるようになったと思っているのだけれど、傍目から見てどの程度のものでしょう。
きょうは「そうか、フライパンを熱し足りなかったんだ!」と気づいたので、これでもかなりうまく卵を処理できたほうなのです。
たぶんチキンライスをペーパーで整形したらもっときれいな形になったはずだし、新鮮なパセリがなかったので緑がきれいに映えていないことなど改善点はまだまだあります。
しかし、それは次回以降直せばいいだけのこと、ぼくは自分に甘くすると決めたので、夢のリストの「上手にオムライスを作りたい。」にはこれで○を付けておこうと思います。
いや、ほんと、生きているとつくづくひとは変わるものだと痛感します。もちろん、一切変わろうとしなければ何も変わらないのかもしれないけれど、変わろうと志している限り、必ず変わっていく。
それはまあ一朝一夕に欠点を克服できるはずもありませんが、長い時間をかければ、いつかはまったく新しい自分を見つけることができるかもしれません。
ぼくはこの10年くらいで大きく変わったと思っています。良い方向へ変わったと思いたいところですが、ほんとうのところはよくわからない。ですが、とにかくだいぶ楽になったことはたしかです。
そのためには、過酷な自意識の葛藤を経なければなりませんでしたが、どうやらいま、ぼくはそれなりに幸せなようです。この幸せとは、自分の人生を屈託なく自分のものだといい切れることから来ているものだと思えます。
(ここまで780文字/ここから809文字) -
夢のリストを作ってみた。
2015-02-21 04:2051pt -
運命を受け入れて生きるということ。
2015-02-20 22:2651ptえー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
(ここまで2045文字/ここから2069文字) -
牢獄から、外へ。
2015-02-17 14:2751pt寒い日が続いていますね。きょうも関東では雪がちらついているとか。ただ、このところ数日にわたって更新が停止していたのは、当然、それが原因ではなく、べつの事情があります。ある問題に悩んでどうしても記事を書く気分になれなかったのです。
そういうわけで、きょうはもう一日休むことに換えて、ぼく自身の話をしたいと思います。しかし、どこから話し始めたら良いものか? 昨晩、考えに考えて、自分の人生についてあるひとつの結論が出たので、それをひとに話したいのですけれど、どういうふうに語れば理解してもらえるか、ちょっとわかりません。
なので、思いつくところから順々に話していくことにしましょう。さて、きのうはぼくにとって記念すべき発見の日でした。 -
SF漫画特集! 『ぼくらのよあけ』から『クロノスヘイズ』まで。
2015-02-12 01:4651pt
どもども。先日の予定通り髪を切ってキラキラボウズヘッドになった海燕です。
いやー、この寒いというのにさらに頭を寒くしてどうするのかという気もしますが、まあ、前髪はもともとかなり抜けていたので大して変わらないかも。
いつもの理髪店で刈ってもらったのですが、「やっちまってください、姉さん」とばかりにバリカンをかけてもらっている最中はさすがにドキドキ。
36年間付き合ってきた髪の毛ともいよいよ今生の別れかと思うと、涙がちょちょ切れる思いでした。まあ、べつにその髪の毛がずっとぼくの頭にあったわけじゃないけれど。
というわけで、あっというまになけなしの頭髪は失われ、後ろ頭はともかく、前から見る限りはゆで卵みたいな頭になってしまいましたとさ。
何しろ前髪が全部抜けているので、正面から見ると辮髪みたいに見えないこともないかも。全体的には、香港映画の悪役というか、ジャッキー・チェンの前に立ちふさがって三秒でやられる奴、みたいなイメージ。
後ろ頭はソフトモヒカン気味にしてもらったので、度入りサングラスとかかけたら完全に悪役ですね。
せっかくなので写真をアップしたいのは山々ながら、そこまで自虐的でもないのでやめておきます。うーん、人生は何が起こるかわからないね。さっさと円形脱毛症が治って普通の髪型に戻せる日が来ることを祈りたい。
えーと、お前の髪型になんて興味はないんだよという読者の皆さまのツッコミが聞こえるようなので、この話はこれくらいにしておきましょう。
それにしても、よく我ながらこうあっさりと髪を切る決意ができたなあ、とちょっと感心。昔だったらもうちょっと悩んだと思うんだけれど、やっぱりぼくも変わって来ているんだなあ。ある意味では成長したのだともいえるし、べつの意味ではただ鈍くなっただけかもしれません。
それはともかく、きょうは最近読んだSF漫画の話でも。ここのところ続けて何冊か面白いサイエンス・フィクションを読んだので、そのことについて語りたいのですね。
まず、今井哲也『ぼくらのよあけ』。いまどきめずらしい正統派ジュヴナイルSFの佳作です。技術的特異点が乗り越えられて人工知能が社会に組み込まれた近未来を舞台に、遥か彼方からやって来た異星の宇宙船をもとの航路へ帰還させようと試みる少年たちのひと夏の冒険が描かれています。
深宇宙からやって来た謎の宇宙船はじっさい平和的かつ友好的なヤツなのですが、もしその存在が発覚したらこれはもう全人類的大事件。
しかも、いろいろな理由で「かれ」の来訪をばらすことはまずいことに繋がるというわけで、少年たちは自分たちだけで事件を解決しなければならなくなる。しかし、それは当然、簡単ではなく――と話は進んでいく。
ちょっとキレイに出来すぎている感じはあるものの、まずまず、よく出来た作品なのではないでしょうか。面白かった(というと偉そうですが)。
とにかく特筆すべき凄いアイディアとかはないけれど、めちゃくちゃストレートな内容で、切なくほろ苦く胸に迫って来る作品です。
印象的なのは少女たちのいじめが関わってくる辺りの話で、宇宙へ進出するほどの科学力を身につけたにもかかわらずいじめひとつ解決できない人間たちの業が興味深い。
じっさい、人工知能が発達して生活が改善されるくらいの未来になったとしても、暴力と仲間はずれはなくならないかもしれないですね。
ある意味、お手本にしたいくらいのジュヴナイルの良品なので、ぜひ、映像化されたものを見てみたいという気がする。実写映画化は無理としても、どこかでアニメをやらないかな、と。
まあ、いまどき特別の萌えキャラひとりいない地味な漫画なので、そういうメディア展開は無理かもしれません。
ただ、ぼくとしては大量に出て来る美少女キャラクターの名前を憶えるのに必死になるアニメだけではなく、この手の地味な良作も作られつづけるといいなあ、とは望みたいところです。それが商売として成立するかどうかはわからないけれど。
一方、町田洋『惑星9の休日』はどこか彼方にある惑星9で繰り広げられるちょっとエキセントリックなSF的出来事を独特の乾いた絵柄で描いた短篇集。
(ここまで1720文字/ここから2338文字)
1 / 2