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なぜ男女は蔑み合い、そして非モテはいくらモテても救われないのか?

 ども。遥か遠くにかがやくあのリア充の星を目ざし、きょうも一歩、また一歩と進んでいる(つもりの)海燕です。  いやー、リア充への道は果てしなく長い。生きているうちにたどり着けるのかどうか、何かもうかぎりなく怪しいところ。でもね、あこがれるよね、リア充。  そういうわけで、きょうはリア充の必須スキルであるところの「コミュニケーション」について解説した漫画を読んでみました。その名も水谷緑&吉田尚記『コミュ障は治らなくても大丈夫』。  これさえ読めばきょうからぼくもリア充だ! と思ったのですが、これがね……じつに何ともいえない気持ちにさせられる本だったのですよ。どういうことなのか、これから説明しますが、ほんとにちょっと説明しがたい読後感でしたね。いやはやいやはや。  まず、この本ではいわゆる「コミュ障」であるにもかかわらず、なぜかラジオアナウンサーになってしまった著者(吉田尚記)が自分の抱える問題点を分析し、克服していく過程が書かれています。  それは良いんですよ。いくつか非常に参考になるところもあって、「ふむふむ」と関心しながら読んでいました。それが違和感がつのってくるのは、著者が芸人たちのコミュニケーションを学び始めるあたりから。  そこには「相手の発言から2秒間以上空けずに話を相手に投げ返すべき」ということが書かれています。いわば「2秒パスルール」ですね。つまり、話の内容は何でも良いんだと。  ただ、2秒以内に相手にパスしつづけることこそが肝心なのであって、そういう意味でコミュニケーションとは協調のゲームなんだということです。  そして、さらに読み進めると「愚者戦略」という言葉が出て来る。これは「人にバカにされても怒らずへらへらしていろ」というような「戦略」です(ほんとにそう書いてあるのよ)。  その名の通り、あえて愚か者の「キャラ」を受け入れることによって、その場を楽しくさせるのだ、ということなんですね。  ここまで読むと、ぼくははっきりと「ちょっと待って」と思ってしまいました。いや、それはあまりに「浅い」コミュニケーションでしょうと。  ただひたすらにバカのふりをして、「いじられキャラ」になって、2秒以内に言葉をパスしつづける。そういうコミュニケーションを続ければ、たしかに気まずくはならないし、その場の空気も崩さないし、楽しく話ができるかもしれない。  でも、それだけですよね。ただ「2秒パス」を続けるだけで人生を変えるような深い話ができるはずはない。もちろん、初対面の相手とはいきなりそんなに深い話はできないし、する必要もないでしょう。  だから、「2秒パスルール」はある限定された条件のもとでは有効だと思う。とはいえ、すべてのコミュニケーションを「2秒パスルール」や「愚者戦略」で切り抜けようとすることには無理がある。  もっとも、著者もそのことは良くわかっているようで、この本のあとがきにはこう書いてあります。  ただ、もしかしたら気になっている人がいるかもしれません。コミュニケーションは自己表現ではなく、会話の時間を繋いでいくゲーム。そして、相手が答えやすい質問をすることが大切。そんなことをしていたら、薄っぺらい関係しか作れないんじゃないの?と。  もう一つ、大切なことを書いていませんでした。和やかな会話をくり返していると、努力しなくてもいつまでも会話が終わらない相手が不思議と現れます。そういう相手とは、いつの間にか、大切なことを打ち明けたり、聞かせあったりすることになります。「この人と友達になろう」って思ったり「私たち、友達だよね」って確認をしなくても、一緒にいて楽な人。それこそ、友達、なんじゃないでしょうか。  でも、一足飛びに友達にはなれません。すべては会話からスタートします。普通の会話を繰り返しているうちに、いつの間にか、そう、なるんです。  なるほど。つまり、この本で解説されているのはすべて親しくない人と「浅くて楽しいコミュニケーション」を行うための方法論であって、「「大切なことを打ち明けたり、聞かせあったりする」深くてマジメなコミュニケーション」はその「浅くて楽しいコミュニケーション」を通して「友達(とか恋人とか)」になった相手とだけ行えば良い、ということなのでしょう。  これは良く理解できる。ただ、「浅くて楽しいコミュニケーション」のことだけを「コミュニケーション」と呼ぶのはやめてほしいけれど。  で、また、本書のAmazonレビューにはこのような文章があります。 自分は馬鹿にされても良い、愚者を装ってでも相手を楽しませる。イジられてナンボなんだ、と。 コミュニケーションは対戦型のゲームではなく参加者全員が協力するゲームだから、みんなが楽しくなれば、(自分も含めた)みんなの勝ちなんだと。 それはその通りなのかもしれないけど、それは本当に「楽しい」のだろうかと思ってしまう。少なくとも私はその場で笑えたとしても、次に同じ相手に会う時に気が重くなっていると思う。(だから私はコミュ障なんだろうけど) 著者はコミュニケーションは出世やお金儲けのような利益を得るための『手段』ではなく、それ自体を楽しむことが目的なんだ、とおっしゃるが、私は読めば読むほど「こんなこと、何か利益でも得られないとやってられないよ…」という気になりました。  これ、吉田さんのコミュニケーション理論に対する非常に本質的な批判だと思うんですよ。  あるいは、吉田さん本人は「2秒パスルール」や「愚者戦略」に基づくスピーディーな心から楽しめる人なのかもしれません。しかし、そういうやり取りを楽しいと思わない人は大勢いるはずです。  そういう人はどうすれば良いのか? そもそも浅いコミュニケーションができなければ深いコミュニケーションを取れる相手を見つけることはできないのだから、とりあえず浅いコミュニケーションのやり方、つまり「2秒パスルール」や「愚者戦略」を学ぶべきなのか? しかし、どうしてもそれがイヤだったら?  何より、ぼく自身、「2秒パスルール」や「愚者戦略」のようなやり方がコミュニケーションの本質だとか奥義だと思われると非常にイヤだな、と思のです。  吉田さんは、コミュニケーションというゲームに参加するプレイヤーたちの共通の敵は「気まずさ」だと書いています。つまり、浅いコミュニケーションにおいていちばん大事なことは相手と気まずくならないことなのだ、ということですね。  そのためにこそ、2秒以内に会話を相手に投げ返したり、真剣な顔をせずへらへらしたりする必要がある。しかし、ほんとうにそうでしょうか? もちろん、ほんとうに「浅い」内容しか理解できない相手とのあいだでは、そのようなやり方を採用するしかないかもしれません。  けれど、もう少し「深い」話ができそうな人が相手なら、たとえ親しい「友達」でなくても、もう少し違うやり方を試してみても良いのではないでしょうか? ぼくはそう思います。  とはいえ、この本は非常に面白いひとつの事実を教えてくれています。つまり、一般にコミュニケーションと呼ばれているものには、じっさいには「深さ」のレベルがあり、「浅い(表面的な)」コミュニケーションと「深い(熟慮を要する)」コミュニケーションはまったく違う性質のものだということです。  で、いささか唐突ではありますが、ここでぼくは非モテ界隈でよく聞かれる話を思い出すのです。つまり、「女は「男らしく」暴力的な男を好むものだ」という話です。無関係に思われるかもしれませんが、まあ、読み進めてみてください。  この話、かぎりなくマユツバではあるのですが、そうかといって否定できない真実の響きを秘めているように思います。というのも、少女漫画などを読むと、よく暴力的としかいいようがないイケメンの「ドS男子」が出て来て、主人公をいじめながら愛の言葉をささやいたりしているからです。  もちろん、それはフィクションであるに過ぎませんが、男性向けの漫画と同じく、現実の嗜好を繁栄している一面はあると思います。  で、それだけだと、まさに非モテの恨み節というか、「どうせ「ただしイケメンに限る」なんだろ?」みたいな不毛な話にしかならないのですが、面白いのは女性のほうも「男は「女らしく」従順な女を好むものだ」と考えている人がたくさんいるということなんですよね。  先ほどの『コミュ障は治らなくても大丈夫』と同じ水谷緑さんに『男との付き合い方がわからない』という本があるのですが、この本ではまさにそういうことが書かれています。  女性から見た男性の真実というか、まさに「ただしイケメンに限る」の裏返し、「ただし従順で貞淑で清楚な可愛い女に限る」というわけですね。  そして、ぼくもひとりの男性として、少なくとも「ただしイケメンに限る」と同じくらいには、この言葉が真実であると感じます。  しかし――ほんとうにそうなのでしょうか? 男性はみながみな、従順で貞淑な女だけを好み、女性はだれもがマッチョな金持ちのイケメンだけを好きになるものなのでしょうか? そうではない選択はすべて「妥協」の産物なのでしょうか?  ぼくはそうは思わないのですよ。本来、男性にしろ女性にしろ、好みは多様だと考えます。つまり、ほんとうは多様な需要があるはずだと思うのです。繊細な男性が好きだという女性がかなりの割合でいてもおかしくないし、気の強い女性が好きな男性だってそれなりにいるはずだと。  それなら、なぜ、奇妙なほど男女の「好み」は一様化している(ように見える)のか? そう、ぼくはその原因こそが「ジェンダーロールの呪い」だと思います。  つまり、じっさいには多様な需要と供給があるはずの恋愛マーケットのプレイヤーたちに「男は男らしいほうが良いに決まってる」とか「女は女らしいほうが良いに違いない」と思わせている「呪い」がある。それが「ジェンダー」なのだと。  ただし、ぼくは一部のフェミニストたちのように「ジェンダーの押しつけは悪なのだから、人をそこから解放しなければならない」といった考え方はしません。それはあまりにも単純すぎる見方に思えます。  じっさいには、ジェンダーにはある種の魅力がある。人はそれをむりやり押しつけられてジェンダーに従うだけではなく、その魅力に惹かれて自らジェンダーロールを演じるようになるのです。つまり、「ジェンダーにはアメの側面とムチの側面がある」ということ。  そのジェンダーの魅力とは、つまり、「ジェンダーロールに沿った行動をしていれば異性からの評価が上がる」ということです。より簡単にいい換えるなら、「男らしく」、あるいは「女らしく」していたほうが、モテやすい。  そういう意味では、非モテの人たちが言うことには、一面の真実がたしかにある。ぼくもたしかにそうだと思います。ただし! それはあくまで表面だけのことです。なぜなら、この世には多様な人間が存在し、やはり多様な価値観を抱いているからです。  「男はこうだ」とか「女はああだ」といわれるときの「男」とか「女」とは、まさにジェンダーロールの仮面に過ぎない。その仮面をかぶっていれば、たしかに異性からの評価は上がるかもしれません。  たとえば、女性は可愛い恰好をして清楚を演じて、そのうえで何かと「すごーい!」と男を立てていれば、モテやすくなるのはたしかでしょうね。ですが、それはやはり「浅いコミュニケーション」の方法論に過ぎないのです。  もちろん、男性が「ただしイケメンに限る」とか「女はマッチョで頼りになる男しか好きにならない」というのも、あくまで表面的な話です。  ようするに、不特定多数からやたらと好意を寄せられるという「モテ」とは「浅いレベルのコミュニケーション」の結果にしか過ぎないということ!  いや、もちろん、より「深い」レベルで他者からモテている人もいるのでしょう。めちゃくちゃに人間的魅力があり、異性(や同性)をやたらに惹きつける、そういう人はたしかにいます。ここではそういう人のことを「本物のモテ」といいたいと思います。  もっとも、そういう「本物」はやはり数少ないものです。大半の「モテる男」とか「モテる女」は、容姿とか収入とか、そういう「ジェンダー的長所」に魅力を依存しているのだと思います。  そして、世の中の「モテ本」などを読むと、たいていは意図して「男らしく」なったり、「女らしく」振る舞ったりすることによってモテよう、ということが書かれている。つまり、「男と女ごっこ」を演じさえすれば労せずしてモテるのだ、ということですね。  この手の恋愛観は男女を問わず見られます。いわゆる「恋愛工学」がそうですね。あれは徹底して女性をバカにして下にあつかう方がモテるのだという理論なのですが、その成功率はともかく、たしかにそれでトライアルアンドエラーを繰り返せば、一定の確率で女性と関係を結ぶことができるようになることはたしかだろうとぼくも思います。  そのような「男らしい」態度を好ましいと考える女性は一定数いるはずだからです。それは男性が「女らしい」女性を好む、とされていることの鏡像です。そう、単に「モテ」を目指すのならそれで良い。  しかし、このやり方にはひとつ問題があります。そのようなある種のジェンダーロールになり切る方法論を使っていると、モテればモテるほど異性が嫌いになっていくということです。  なぜか。それはジェンダーロールにもとづく「浅いコミュニケーション」にひっかかって拠って来る異性がバカにしか見えないからです。  この種のモテ理論は、「どうせ男はこういう女が好きなんだろ」とか「どうせ女はこういう男が好きなんだろ」という、一種の人間に対するニヒリズムが根底にある。  そして、恋愛を、あるいはコミュニケーションをそのような「浅い」ゲームだと認識している限り、「深く」相手を知ることはできない。それは人間を嫌いにもなるだろう、と思うところです。  それでもモテるなら良いだろうと思うかもしれません。そうでしょうか? 昔読んだ本に『モテる小説』という作品があります。この本の主人公は、モテる方法について考えに考えたあげく、最後にはネットで見つけた適当な相手にひたすら性的な誘いのメールを送りつけるようになります。  もちろん、その大半は断られたり無視されることはわかり切っている。それでも一定の割合で誘いに乗る相手はいる。その相手との関係を増やしていけば良い、という理屈なのです。  初めてこの本を読んだとき、ぼくはひとつの根本的な疑問を抱かざるを得ませんでした。「で、それって楽しいの?」と。ぼくにはこの主人公が究極的な本末転倒に陥っているように思われてならなかったのです。  楽しい時間を過ごしたいがために恋愛をするはずなのに、それをただの「退屈な作業」にまで貶めてどうする、と。もっとも、いや、楽しいかどうかという話ではないのだ、という人もいるでしょう。  重要なのはセックスができるかどうかであり、性欲さえ効率良く満たせるならそれに越したことはないのだ、と。そういう人はそれでかまわないのかもしれません。ですが、それを一生続けられる人は少ないだろうとぼくは見ます。  それで「モテ」たとしても、大半の人はどこかでむなしくなるはず。なぜなら、そこには「ほんとうの自分」を自ら開示し、「ほんとうの相手」を知ろうとするという意味での「深いコミュニケーション」が決定的に、そして致命的に欠けているからです。  「深いコミュニケーション」を抜きにして、いくらからだを重ねたところでむなしいのではないか、とぼくは考えます。ただ、それはぼくの個人的な価値観ですから、「女性に求めるものはセックスだけだ」とか、「男性に求めるものは金銭だけだ」というような価値観も否定はしません。  とはいえ、そういう人にはひとつだけいっておきたいことがあります。それは、「あなたがバカにして見下している男(女)は、同じくらいあなたをバカにしていますよ」ということ。  そう、男も女も、互いに対して呪いをかけあっている。男は女に「もっと可愛い女になれ。そうでないと愛されないぞ」と呪うし、女は男に「もっと強い男になれ。そうでないと選ばれないぞ」と呪う。さらにもちろん、同性への同じような内容の呪いもある。  したがって、非モテは基本的にいくらモテても救われません。かれらが救われるためには、本来、「素顔(ほんとうの自分)」での「深いコミュニケーション」が必要なのに、「仮面(偽りの自分)」で「浅いコミュニケーション」を繰り返し、その結果、「モテ」たとしても救いにはたどり着けないわけです。  そもそも非モテが不特定多数からやたらに好意を寄せられるという意味での「モテ」を目指すこと自体が間違えているというしかない。それは非モテがモテることが不可能だからではありません。むしろ、非モテがモテること自体はまったく不可能ではない。  けれど、いくらモテたところで仮面をかぶったままでは人は救われないのです。綺麗ごとをいうようだけれど、やっぱり人は「ほんとうの自分」をさらして生きていかないと幸せになれないのではないでしょうか。  我孫子武丸さんに「人形シリーズ」というミステリの連絡があるのですが、そのなかで主人公の女性が気の弱い男性を好きになって、より「男らしい」男を拒否するんですね。  ぼくは個人的にその描写に説得力を感じました。それはそういうこともあるだろう、と。すべての女性が同じ需要を抱えているはずはない。  でも、ジェンダーは「男らしく、女らしくしたほうがモテますよ。愛されますよ」と誘惑する。それで世の中ではときに互いに深く軽蔑しあったカップルが生まれるわけです。不幸な話。  このディスコミュニケーションは、ジェンダーが要求する仮面をかぶったままの「浅いコミュニケーション」では解決しません。どうしても「深いコミュニケーション」が必要になるはずです。  しかし、「ほんとうの自分」をさらし、「ほんとうの相手」を知ろうとする(もちろん、どんなに知っても知り尽くせるはずがないことをわかったうえでそうする)という意味での「深いコミュニケーション」は、「ザ・男」とか「ザ・女」のようなジェンダーロールを通したやり取りほど簡単ではありません。  「生身の女とは話が通じない」と思っている男性も、「男はバカばっかりで話し合えない」と感じている女性も多いと思いますが、それはどこまでも相手とのあいだに「浅いコミュニケーション」しか行っていないからです。  その不幸なすれ違いを脱するためには、相手と「深いコミュニケーション」を行うしかないでしょう。ぼくはいわゆる「ルッキズム」とか「収入至上主義」が一概に悪いとは思いません。顔や金だって、人間の重要な要素です。  そうではなくて、「そういった価値観で相手を選んで、自分はほんとうに幸せになれるのか?」と考えなければならないということです。  どこまでも「浅いコミュニケーション」しかできない相手と結婚し、一生、仮面をかぶったまま生活する。そんなことに耐えられる人はそう多くはないでしょう。  そうだとしたら、「深いコミュニケーション」にもとづく恋愛ができる相手を探すべきじゃないかな。それは必ずしも見た目とか収入のスペックとはマッチしないかもしれないし、そのやり方では男性であれ女性であれ、「モテ」になることはできないだろうけれど。  でも、それがたぶん「ほんとうに幸せな恋愛」をするための方法論なのではないかと。ぼくはそう思います。おまえがモテないから自己弁護でそんなことをいっているんだろうと思われるかもしれないけれどね!  うん、「浅い」レベルでモテているという意味での「リア充」にはならなくても良い気がしてきた。もっと「深い」レベルで人と話ができる人間になりたい。まずはそれが目標だと、いまは思います。 

なぜ男女は蔑み合い、そして非モテはいくらモテても救われないのか?

だれでもふたつ憶えておくだけで文章が上手くなる豆知識。

 文章術の本が好きだ。少しでも上手く文章を書けるようになりたいと日々切望しているから、参考になりそうな本は片端から読むことにしている。  ところが、この手の本で実践的に役に立つものというと、意外に少ない。有名な本はいくらでもあるが、いずれも意外に内容が抽象的で曖昧なのだ。  あの大文豪・谷崎潤一郎の高名な『文章読本』など、最初からいきなり「感性を磨きなさい」みたいなことが書かれてある。それはたしかにその通りだろう。しかし、いかにも迂遠な話で、すぐに役に立つとは惟(おも)われない。  音楽の教本にはあまり「感性が大事」みたいなことは書かれていないだろうから、文章技術の話がいかに曖昧になりやすいかがわかる。  世の中にはあきらかに「良い文章(名文)」と「酷い文章(駄文)」があるのだが、その両者がどこがどう違うのかは意外に説明しづらいものなのだ。  そのわかりそうでわからない微妙な、それでいて決定的な違いをどうにか明快に語った本はないものだろうか、ぼくはずっと探していた。で、ここで巷で話題の古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』の話になる。  この本は「名文」と「駄文」の違いをかなり明瞭に断定している。それは「論理性」にもとづく「リズム」の違いだというのだ。  「論理」とは「論」が「理」によって裏打ちされていることである。つまり、文章は「そこで語られている論」が綺麗に「理」で説明されているほどリズミカルになり、読みやすくなるという理屈である。  これは一面的ではあるが、真実だろう。ぼくも文章においてまず大事なのは論理性だと考える。もちろん、一定の限度はある。自然言語での論理性は、どうしても完璧とはいかない。それでも、可能な限りクリアにロジカルに書くべきだ。  それができて、初めて「美しい文章(美文)」を目ざす門のまえに佇(た)てる。美文とはただ感傷的な語句を並べ立てれば良いというものではない。そこにはどうしても透徹した論理が必要であり、それがあって初めてレトリックの「美」が際立つのだ。  まあ、ほんとうに一読して「美しい」と感じさせられる文章を書ける人など、いまの日本にもめったにいないとは惟うけれど。  そういうわけで、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』はなかなか良い本だった。文章術の本としては初歩的な内容だが、この本を読んでいるといないのとでは大きな違いがあるだろう。オススメである。  ちなみに、ぼくの場合の文章術の基本を、以下にほんの少しだけ公開しておこう。ぼくはいわゆる「上手い」文章を書くためには最低限、以下のふたつの認識が必要であると考えている。 ①「構想」と「構成」は違う。 ②「文」と「文章」は違う。  この二点を頭に入れるだけで、文章は劇的に上手くなる。必ず。少なくとも他の多くの人の文章とは確実に差がつく。なぜなら、プロの書き手はともかく、ほとんどの一般人はこの単純な事実を理解していないからである。  偉そうなことを云っているようだが、ぼく自身、このことに気づいて言語化できるようになったのは随分と最近になってからだ。気づいてしまえばどうということはない事実なのだが、気づくまでは意外と大変なのである。  どういうことか? まず①。この場合の「構想」とは「頭のなかで書きたいテーマについて思いを巡らすこと」、そして「構成」とは「その巡らせた想いを正しい順番に並べること」である。  違いがわかるだろうか? つまり、「構想」は古賀さんが「ぐるぐる」と云っているものを頭のなかに浮かべる行為なのだ。「何を書こうかなあ」と脳裡に思考を展開し、ああでもないこうでもないと考える。  あるいは紙に書いたり、エディタにメモしたりするのも良いだろうが、とにかく「ぐるぐるぐるぐる」と延々、考えるわけである。これはいわば文章の「素材」を用意することだと云っていい。  それに対し、「構成」はその「ぐるぐる」を的確に並べていく作業になる。云わば用意された「素材」を「料理」することに相当するだろう。  『20歳の自分に受けさせたい文章講義』には、「起承転結」とか、「序論・本論・結論」といった構成のスタイルが紹介されている。そのいずれを採用するかはともかく、とにかく適切な順番で話を展開することが重要だ。  ちなみにぼくは我ながら構成力がいまひとつのところがある。それもこれもすべての文章を一切構成せずに頭のなかで完結させて書いているからである。はい、手抜きですね。どうもごめんなさい。  いや、ちゃんとした依頼を受けて文章を書くときは ブログの文章くらいは良いかな、って。イイワケですね。ごめんよー。この文章も文頭からつらつらと書いています。ダメじゃん。  それはともかく(と、強引に話を変える)、②である。この「文」と「文章」の違いがわかると、文章力が劇的に成長します。注目。この場合の「文」とは、即ち「一文」を指す。つまり、  わたしは丹念に薔薇の花びらを摘み取った。  とか、  かれは人情家で、始終、金を貸しては逃げられている。  といった、句点で区切られた文のことだ。この「文」が集まって、全体として「文章」を形づくる。だから、「文」と「文章」を「一文」と「文章全体」と云い換えれば、もう少しわかりやすいだろうか。  それがどうした、あたりまえのことだろう、と惟われるだろうか。そうではない。重要なのは、この「文」と「文章」には、それぞれに「構成」が存在するということなのだ。  そして、「文(一文)」の構成とは単語を順番に並べることである。それに対し、「文章(文章全体)」の構成とは、 

だれでもふたつ憶えておくだけで文章が上手くなる豆知識。

腐女子がBLを描く権利が、ゲイが同性を愛する権利に劣るとは思わない。

 『少女漫画家のミナモトさんがカミングアウトします。』という本を読みました。  まさにタイトルですべてがわかるパターンで、ゲイの少女漫画家(より正確にはティーンズ・ラブ漫画家)である「ミナモトさん」が、じぶんがゲイであることをカミングアウトし、その半生を語る内容となっています。  かれはじぶんは「普通」の人間で、だからこそその「普通の人生」を語ることによってだれかを勇気づけることができるのではないかと考えているのですが、ぼくからすると、いや、ゲイなのに少女漫画家である時点で十分に普通じゃないですよね?と思ってしまいます。  まあ、性格的にはわりあい普通だというのもわかるのですが。でもねー。たぶん少女漫画が好きなゲイ自体はそれなりにいるだろうけれど、少女漫画の描き手になるゲイってほとんどいないんじゃないかなあ。  そういう意味では、十分に本にするに値するレアな来歴といって良いのではないかと。というか、ごく平凡に考えて、ゲイというのは同性を好きになる、あるいは同性しか好きにならない人であるわけで、男女のヘテロな恋愛描写の創作に興味を示さないことが「普通」だと思うのだけれど……。  ところが、じっさいに読んでみると、必ずしもそういうわけではないらしい。これは目から鱗だったのですが、「ミナモトさん」によれば、いわゆる「腐女子」が同性同士の恋愛にあこがれや幻想を抱いたりするのと同じように、ゲイもまた男女の恋愛に幻想を抱えたりするのだといいます。  男女のカップルは自分たちの性的志向を隠したりしなくても良いし、いくらでも人前でいちゃいちゃすることもできる。それは同性愛者から見れば素晴らしいものにも見えるのだそうです。  まあ、ゲイも色々だからそう思わない人も大勢いるでしょうが、こういう考え方自体がありえるとことそのものが、ぼくの思考の枠内にはなかった。本は読んでみるものですね。  また、この本では、「ミナモトさん」のまわりのLGBTの人たちの実像も語られているのですが、その実像はじつに多様で、いい方は悪いけれど非常に面白い。興味深い。  非常にあたりまえのことだけれど、「人生いろいろ。LGBTもいろいろ」ということが実感できます。  LBBTのなかには、自分がゲイやレズビアンであることに自殺を考えるほど苦悩する人も少なくないだろうけれど、その一方で何ひとつ悩まず受け入れて周囲にカミングアウトする人もあたりまえにいるようなのですね。  したがってあるひとつの形を採ってこれが「正しいゲイの姿」だとはとてもいえないということがあらためてわかります。仮にぼくが同性愛者だったとしたらやはり「正しいゲイの姿」にはあてはまらないだろうから、ものすごく当然の話なのだけれど、つい忘れがちになってしまう話ですよね。  ひと言で簡単に「LGBT」というけれど、じっさいにはそこには含まれない性的少数派(セクシュル・マイノリティ)も大勢いる。  また、性的に同性を好きであっても恋愛感情はまたべつであったり、そもそも恋愛感情を持っていなかったりと、究極的には人はひとりひとり違っているわけです。  「同性愛者」という概念そのものが近代に作られたものであるに過ぎず、べつに人間の普遍的な真理を表しているわけではないということもほんとう。  ここら辺は牧村朝子『百合のリアル』、『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』あたりを読んでいただけると参考になるかと思います。良い本です。  まあ、だから、「同性愛者の権利」といっても、そう簡単ではないわけ。あえていうなら「何であれ人がその人自身である権利」が大切ということじゃないかなー。  で、ついでにいっておくなら、ぼくはいわゆる「腐女子」がボーイズ・ラブ同人誌を描く権利が同性愛者が同性を愛する権利より劣るものだとは必ずしも思いません。  世の中には 

腐女子がBLを描く権利が、ゲイが同性を愛する権利に劣るとは思わない。

5Gがコロナウィルスを蔓延させている? 陰謀論の根深い背景。

 「5G」と「新型コロナウィルス」を結びつける陰謀論の本を見つけたので、紹介しておきます。この種の陰謀論が世界各地で猛威を振るっているのは知っていたけれど、日本でも唱えている人がいるんですねえ。  ちなみにアメリカではじつに30%近い人たちが「コロナウィルスは実験室で人為的に作られた」と信じているそうで、ここまで来ると何をどう信じることが「まとも」なのかわからなくなってきます。  たぶん、分厚い専門書をひも解いて時間をかけしっかり理解しようとするのでなければ、「よくわからない」、「特定するべき根拠はない」と考えておくのがいちばん「まとも」なのかもしれません。  新型コロナウイルスが世界に広がると同時に、ウイルスをめぐる根拠のない情報も蔓延(まんえん)している。ウイルスの発生源をめぐっても様々な言説が取りざたされ、米国の世論調査では国民の約3割が「ウイルスは人造」と考えていた。米政府はうわさを検証するためのサイトも立ち上げた。  米世論調査機関ピュー・リサーチセンターは今月、18歳以上の米国人を対象に調べた結果、43%がウイルスは「自然発生した」と答えた一方、23%は「意図的に作られた」、6%が「偶然作られた」と答え、計29%が実験室で人為的に作られたと考えていたと公表した。18~29歳と若い世代では35%が人造説と高く、65歳以上は21%だった。また、共和党支持者は人造説が37%で、民主党支持者の21%を上回った。 https://www.asahi.com/articles/ASN4N621LN4CUHBI00G.html?iref=pc_rellink_01  まあ、この本はまだ読んではいないので(さすがに読む気になれない)、意外にまともなことが書いてある可能性も微レ存なのですが、レビューを読むかぎりその確率は限りなく薄いことでしょう。  面白いのは、アンチワクチンもそうだけれど、この種の理論を信じる人たちは自分自身を「懐疑主義者」と定義し、自分と意見の異なる人たちを「愚かにもテレビや雑誌といったメディアを盲信して騙されている」と認識しているのですね。  ある意味ではより科学的な見方をしている人たちと鏡像のような関係にあるともいえ、この問題は単純ではないなあと思わせられます。  いわゆる「ポストモダン」の社会においては 

5Gがコロナウィルスを蔓延させている? 陰謀論の根深い背景。

「科学的な考えかた」と「魔術的な考えかた」の両立は可能か。

 鏡リュウジさんという人物をご存知でしょうか。「占星術研究家」を名のる人で、まあ、占いの本を書いているわけなのですが、ぼくはこの人のとても興味があるのです。  というのも、この人、「占星術研究科」であるにもかかわらず、占いの効果を信じていないのですね。占いというものが「あたる」ものだとは考えていない。むしろ、「あたるはずがない」とすら考えているようにも見える。  そして、そのうえでなお占いに価値を見出だすのです。その鏡さんに『「占い脳」でかしこく生きる』という本があって、これが非常におもしろい。  オススメの一冊なのですが、この本が何をいおうとしているのか、わからない人にはわからないかもしれない。そこで、ここでちょっと解説しておこうと思います。  この本では、占いは「科学」とは異なる知の体系であることがていねいに説明されています。そして、「科学」はクールだけれど、「占い」はウェットだと語られているのです。  一般に「科学」はその「再現性」に本質があるとされています。つまり、ある事象が真実なのかどうか、何度でも「再現」してチェックすることができる。それが科学的手法なのだと。  しかし、逆にいえば、この科学的なやり方では「ただ一回限り」の現象について調べることはできません。その「ワン・アンド・オンリー」の現象とは、ほかならぬぼくたちの人生です。  たとえばあなたが何かの災難に出くわしたり、病気にかかったりしたときに「なぜわたしはこの世に生まれてきたのか。そして、なぜこのような災厄に遭い、苦しまなければならないのか」と問うたとして、「科学」は答えを与えてはくれません。  彼女はただ冷ややかにこう告げるだけでしょう。「ただの偶然だ。統計的に見れば一定の割合でありえることであって、何の意味もない」と。これが「科学的真実」。  しかし、このような「この世の無意味さ」に、人間はなかなか耐えることができません。何しろ、この種の「科学的真実」を通すと、「虚無」の深みが垣間見えるのです。  この世のすべては単なる確率的な偶然の連続でしかなく、人間的な意味での善も悪も意味も価値もない混沌にすぎないという「虚無」が。それは、あらゆる倫理的判断や「生きる喜び」を破綻させかねないあまりにも恐ろしい「無意味の深淵」です。  べつだん、善い生き方をしたとして、良い結果が出るとはかぎらない、善悪や倫理などといったものは幻想に過ぎない、むしろ人間がやることなすことすべては無意味で無価値なのだ、このような「真実」をまえにして、それでも充実した「いま」を生きていこうとできる人間がどれほどいるでしょうか。  Amazonの『「占い脳」でかしこく生きる』にこのようなレビューが載っています。 あえて言わせていただきます。占い脳などいりません。人間が人間らしく生きるうえで、自分の能力と人格を陶冶すべきです。その基本もできない中学生、高校生ぐらいが読む本としては不適当な内容です。単なる娯楽本のような体裁をとりながら、社会の中に害悪となる思考を蔓延させるべきではありません。こんな社会だから、こんな環境だから、あんなやつがいるからできないなどと泣き言をいうまえに人間らしく生きようと努力すべきです。出版界の正義はどこにあるのでしょうか。  ぼくにいわせればあまりに無邪気な内容です。鏡さんが本書のなかで語っているのは、そもそもここでいう「人間らしさ」は偶然が支配する世界のなかでまったく通用しない、あるいは少なくとも通用すると考える根拠はないということなのですから。  この世では、どんなに善良に、親切に生きたとしても「不条理」で「理不尽」な出来事が起こる。それは科学的に見れば「無意味な偶然」でしかない。そういうふうに考えると、この世界に一切の救いはありません。ただ荒涼たる「虚無」が広がっているばかりです。  その「虚無」を直視してそれでもつよく生きられる人もいるのかもしれません。たとえば風の谷の姫君ナウシカあたりは、そういう人間なのかも。  しかし、そうではない人間は「この世に生きる意味」を欲します。「いったいなぜわたしは地震に遭ったのか? ガンにかかったのか? 事故で子供を喪わなければならなかったのか?」といった「不条理な出来事」の「答え」を。  そのとき、役に立つのがまさに 

「科学的な考えかた」と「魔術的な考えかた」の両立は可能か。
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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