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記事 198件
  • いくつもの「それでも」を重ねて。

    2019-09-06 02:50  
    50pt
     ども。『マインドマップで語る物語の物語』、第八章の原稿をいじっています。これがいままでいちばん長くてですね、まあ、直しても直しても終わらない。いま、もう80000文字以上書いているのですが、これでようやく半分を越えたあたりじゃないかな。
     でも、冬コミまでもう時間がないんですよね。11月末が締め切りだと想定すると、あと3か月弱しかない。そのあいだに第八章と第九章を終わらせて、さらにそれを補う原稿も書かないといけないわけで、まあ、なかなか大変。がんばります。
     ただ、いま書いている第八章は、『物語の物語』全体のクライマックスともいえる箇所で、それはもうめちゃくちゃ面白いです。このシリーズで長いあいだ語られてきた「祭壇」と「天使」というふたつの概念にひとつの決着がつくポイントでもあり、「それまでの七章はこのためにあった」といっても過言ではない仕上がり。
     身びいき抜きでも素晴らしい内容だと思
  • 特攻による死は「無駄死に」だろうか?

    2019-08-16 05:44  
    50pt

    ネトウヨや愛国主義者は…
    「特攻隊は無駄死にではない」
    と言う。何度でも言ってやる、特攻隊の若者はアホでバカでマヌケで無責任な年寄り指揮官のエゴイズムによって「無駄死に」を有無を言わさず強制させられた犠牲者なんだよ。特攻作戦を完全否定する事が犠牲者の無念を晴らす唯一の手段なんだ。
    https://twitter.com/M16A_hayabusa/status/1160830120342409216

     こういうツイートを読んだ。
     で、この発言を巡って、「特攻は無駄死にだ/いや、無駄死にではない」という例によって不毛な(ぼくには不毛に思える)やり取りが行われているようだ。これがなかなか興味深いので、終戦の日の真夜中(というかもう翌日の朝か)に考えてみることにしたい。
     思うに、この問題について考えるなら、まずは「無駄死に」とは何か、「無駄に死ぬ」とはどういうことか、「特攻は無駄死にだ/
  • コミケ目前!

    2019-08-09 02:57  
    50pt
     ども。コミケもいよいよ近づいてきましたねー。というか、きょうからですね! ぼくが参加するのは11日(3日目)なので、まだ少し余裕がありますが、一応、前日には東京入りしている予定です。
     毎度のことですが、コミケの直前になるとドキドキします。う、売れるかなあ。今回はかなりの部数を刷ったので、足りないということはないと思いますが、できるだけたくさん売れてほしいことはもちろんです。
     『マインドマップで語る物語の物語』はもちろんですが、ぼくの『栗本薫カレイドスコープ』も売れてほしいところ。印刷代回収のためには、何十部かは売れてもらわないと困る。赤字になったら次回以降も続けて刷るのに勇気がいりますからね。
     たぶんどうにかなるとは思うけれど、事前の予想はまったくあてにならないから、ただひたすらドキドキするばかりです。
     皆さん、ぜひ当日はわがスペース、西館「け」の35bまでおいでください。ぼくは
  • イベント参加者募集ちうです!

    2019-07-12 18:04  
    50pt
     来たる8月17日、〈第一回アズキアライアカデミア〉を開催します。
    https://eventon.jp/17700
     第一回と銘打ってはいますが、毎年開いているオフ会イベントです。今年は海燕、LD、ペトロニウスによる「講義」に加えて、二次会も開きます。ひょっとしたら三次会もあるかも。
     一次会が4000円、二次会も4000円と、一見、けっこうなお値段がするように見えるかと思いますが、ほとんどが場所代と食事代です。例によって赤字になることを避けた程度で、利益は最小限に留めています。
     非常に楽しい場になるかと思うので、ぜひぜひご参加くださいませ。現在、40人定員のところ、15人まで埋まっています。残り25人。たぶんこれも埋まるだろうと思うので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。
     今年はぼくもちゃんと資料を使ってスライドを作り、それなりに中身のある「講義」をするよ! 「少年の夢はいかにして血の色に染まるのか」という話になるかと思います。来てね!
     まあ、ぼく(たち)のオフ会の歴史も長くて、かれこれ十数年にわたって数十回続けているのだけれど、しだいに洗練されていっていまのスタイルになりました。
     結局、和室でごろごろしながらひたすらしゃべるのがいちばん楽しいという結論ですが、さすがにそれだけではアレなので、主催者によるトークを加えたわけです。その結果、11時間にわたって話し、また聴くというそれは楽しいイベントができあがりました。何て素晴らしい。
     よろしくお願いします。でわわ。 
  • 「戦争賛美」、「平和祈念」といったくくりこそくだらない。エンターテインメントは虚無に面する。

    2019-07-10 11:11  
    50pt

     渡レイによるマンガ『Fate/Grand Order-Epic of Remnant-亜種特異点3/亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負(1)』(長い!)を読み終えました。
     山田風太郎の小説『魔界転生』にオマージュをささげたとされる作品ですが、なかなか悪くない、十分に面白いと思います。
     ただ、この設定だと、ぼくは『魔界転生』のあの冷え冷えと凍てつくような凄愴さを思いだす。で、『魔界転生』って凄かったなあと、あらためて故人の天才を思うのです。
     以前から思っているのですが、『魔界転生』の何が凄いって、ひとつには、過去の講談や小説などに登場するヒーローたち七名を集めて柳生十兵衛と対決させるという、ようするに『Fate』シリーズを遥かに先取りした設定があるのですが、でも、ぼくは本質的には「そこではない」と思っています。
     いや、そこも大切なのだけれど、ほんとうに凄いのは、そうやって「人類最強決定バトルロイヤル」みたいな設定を作っておきながら、作者自身がそこに何の意味も見いだしていないところなのではないかと。
     『魔界転生』という小説は、まさに時代小説最強を決定する超絶バトルロイヤルを描きながら、どこかで作者自身は、「ばかだよね」、「くだらないよね」とその凄絶無比の魔戦を見下ろしているようなところがある。
     そもそも「最強」の称号に何の意味があるとも思っていないというか。そして、それでいて「最強決定戦」に挑む各キャラクターの執念の描写は凄まじい。
     何の意味もない、値打ちもないものに人生をも命をもつぎ込むその戦い――そこがほんとうに凄いですね。
     何をいっているのかわかってもらえるでしょうか? うーん、どう話すのがいちばん良いか。そうですね、ちょっとまえにTwitterで「『ヤマト』や『ガンダム』は戦争賛美か?」という論争がありました。
     このツイートから始まった話であるようです。

    「宇宙戦艦ヤマト」にしても「機動戦士ガンダム」にしても、どう言い繕おうが戦争賛美だと思うんですよ。
    まあ検閲すべきだとは思いませんけども、そこにある「カッコよさ」に無警戒なまま大人になってしまう人は少なくないので、ああいう作品を簡単に称賛することだけは、してはいけない。
    (・ω・)
    https://twitter.com/booskanoriri/status/1144820452088373248

     これに対して、さまざまな反論が寄せられたのですが、ぼくが見る限り、そのほとんどが「『ガンダム』は戦争賛美なんかじゃない!」というものでした。これがね、ぼくは心底なさけない、つまらない話だなあと思うのです。
     たしかに、『ヤマト』にしろ『ガンダム』にしろ、ただ戦争賛美「だけ」の物語ではないでしょう。そこには反戦的なテーマもあれば、また戦争の残酷さを描いた場面もあるでしょう。
     ただ、ぼくは『ガンダム』が「ほんとうは反戦的な作品だから」、この作品に価値があるとは思わない。そもそも戦争賛美だとか、反戦だとか、そういう「思想」の話は『ガンダム』の面白さを語るとき、わりとどうでもいいことだと思うのです。
     たとえ、『ガンダム』がどれほど「戦争の悲惨さ」を描いているとしても、その一方でアムロが格好良くザクを叩き斬るカタルシスがあることもたしかであり、そして『ガンダム』の本質はその「『ガンダム』かっこいい! アムロ、シャア、かっこいい!」ということのほうにある。
     戦争賛美だの、反戦思想だの、そんなものは「おまけ」でしかありません。
     べつだん、『ガンダム』に限らず、ほんとうに優れたエンターテインメントとはそういうものだと思うんですよ。それは何らかのお偉い「思想」を伝える、そのための「方法」じゃない、それじたいが「目的」なのであって、ただただ面白いとか、ただただ格好良いという以外、何の役にも立たないものなのです。
     したがって、そこには「虚無」がある。何の役にも立たない、何の目的もなく、何の意味もない。そういう性質のものだという現実がある。ほんとうに面白いエンターテインメントは必ずこの絶対的な無意味さ、「虚無」と直面する。ぼくはそう思っています。
     『ガンダム』が傑作なのは、間違えても反戦思想を伝える平和祈念アニメだからではありません。物語が面白いからです。そして、アムロやシャアがカッコいいからです! ただそれだけなのです。
     まあ、人によっては、「いや、実は『ガンダム』には面白いとかかっこいいとかそういう幼稚なことに留まらない、深遠な哲学があるのだ」というかもしれません。しかし、ぼくにいわせればその哲学こそくだらない。
     なぜなら、そこには、エンターテインメントを何らかの形で役立てよう、その価値を社会に還元しようという「欲」があるからです。それはエンターテインメントの純粋さを損なう「邪念」でしかありません。
     「ただ面白い」、「純粋に格好良い」、それだけで十分なのであって、それこそが本質であり、神髄なのです。『魔界転生』はまさにそういう「ただ面白い、それだけ」の物語でした。だからこそ、ぼくは神域の傑作だと思うわけです。
     きのう取り上げた山本弘さんの話を思いだしてみてください。山本さんは物語にかれが信じる「正義」を持ち込み干渉しました。つまり山本さんにとっては、その「正義」こそが至上の価値を持っているということなのでしょう。
     いい換えるなら、物語を「正義」を伝えるための「方法」として使っている。だから、山本さんの物語はたいして面白くならない。「虚無」と直面していないのです。
     わかってもらえるでしょうか? 先の『ヤマト』や『ガンダム』を巡る論争で、「『ガンダム』や『銀英伝』を読んで政治や戦争をわかったと思っている人たち」を批判的に語る意見をいくつか見かけました。たとえば、このような意見です。

    僕はガンダムに戦争賛美は感じないのですが、賛美ととらえてしまう人もいるだろうとは思う。
    昨今にわか軍オタがガンダムや銀英伝で覚えたような知識ひけらかすのを見ると、この手の戦争もの作品の功罪を考えざるを得ないよな……
    https://twitter.com/marukashi/status/1145190942598520832

     しかし、ぼくにいわせれば「知識」の習得に役立たないことは『ガンダム』や『銀英伝』の「罪」ではない。そもそもエンターテインメントは知識の習得のためにあるわけでも、道徳教育のためにあるわけでもないからです。
     いくら戦争や政治について最先端の正確な知識を盛り込んでいても、つまらないものはつまらない。その反対でも面白いものは面白い。そして、どんな「偉い」、「正しい」イデオロギーをテーマにしていても、ダメなものはダメなのです。
     つまり、つまらない平和祈念アニメより、面白い戦争賛美アニメのほうがエンターテインメントとしての価値は上だということ。
     それは平和祈念より戦争賛美のほうが正しいからではなく、そもそも「どんな思想が正しいか?」ということとエンターテインメントの魅力はべつの次元にあるからです。
     もっとも、この世で自分の信じる「思想」なり「正義」が最も大切なものだと信じてやまない人たちはいる。大勢いる。そういう人は本質的にエンターテインメントの消費者に向きません。
     だから、そういう人はエンターテインメントを語るときにも、必ず「政治」を持ち出す。現実社会をどう運営するかという「政治」がこの世でいちばん大切なことだと信じているからです。
     ぼくにいわせればそれは人間にとっての「普遍的な価値」を奉じる幻想にしか過ぎない。まさに、山本さんがそうであるように、ですね。
     そういう幻想を信じる人たちは、そもそもエンターテインメントなんて大して好きでもないのでしょう。現実が大好きで、「いかに現実社会の役に立つか」が最も大切なことだと自明視している。
     でも、ぼくの価値観は逆です。「役に立たないものほど面白い」。社会の実利に還元不可能であるものこそ価値がある。その意味で、一見すると政治や軍事にかぶれているように見える田中芳樹も「こちら側」の人だし、司馬遼太郎なども実は「こちら側」の人だと思うのです。
     かれらはたしかに虚無に直面している。だから、『銀英伝』の政治理念がどうとか、司馬史観がどうとか、どうでもいいじゃん!と思うわけ。それよりロイエンタールが、土方歳三が悲劇的にカッコ良く描かれているということのほうがよほど大切だとぼくは思う。
     それを幼稚だという人もいるでしょう。ですが、ぼくから見れば、「ただ面白いこと」、「ただ綺麗であること」以上の価値はありません。
     少なくとも、政治について正確な知識が得られるとか、子供たちを平和教育に洗脳できるなんてことがエンターテインメントの真の価値だとは思わないということです。
     その意味で、『ガンダム』や『銀英伝』はやっぱり傑作だし、上述の『Fate』はなかなかいい線を行っていると思います。
     とまあ、これに関連するような話を今度の夏のイベントでは話そうと思っているので、良ければご参加ください。近々、参加者を募集します。
     でわでわ。
     以上! 
  • 安全保障のジレンマ。なぜ、外交だけで平和を維持することはできないのか?

    2019-06-08 04:16  
    50pt
     この頃、「無能な味方」問題について考えています。何かしら集団で運動しようとするとき、問題のある言動や行動を行う「無能な味方」にどう対処するかということです。
     個人的には、この「無能な味方」に対し、「そうはいっても味方だから」と甘い顔をすると運動は腐敗すると思う。
     フェミニズムがその典型ですよね。あからさまに問題があるツイフェミを放置したことによって、運動そのものが大きな反感を買うことになった。
     「敵か味方か」という党派性でしか物事の是非を判断できない人にとっては「問題行動を起こしていても味方は味方、その味方を批判する者は敵」ということになるのだろうけれど、「無能な味方」をかばいつづければその運動に自浄能力がないとみなされることは当然です。
     逆に「敵」に対するフェアネスも必要になると思っていて、たとえば安倍政権を打倒しようと思うなら、だれよりも安倍首相その人に対してフェアでなければならないのです。
     これはもちろん、甘い態度を取ることとは違う。批判するならするで、論理的に不正な批判は行わないということ。
     安倍政権だろうがトランプ政権だろうが、あいつは邪悪な「敵」だから手段を択ばず攻撃してやる、というのでは、しょせん多数派の支持は得られません。
     F35の問題などもそうですが、だれかを批判する目的で客観的なファクトをねじ曲げ始めるとその思想や運動はどこまでも堕落する。
     「安倍がギャンブル運営で年金15兆円を溶かした」などと非常に週刊誌的で煽情的な表現を使って安倍批判をあおる人もいますが、これはまったく事実と異なるし、そういうことをいっている人はどこまでも内輪の支持で終わります。
     そういう意味では、世の中、意外とまともなものなんですよね。このままではTwitterで感情的に吹き上がって「安倍政権を打倒できないのは日本人がバカだからだ」などといっている人たちはいつまで経っても政権を打倒できないでしょう。
     本気で批判するつもりなら、どこまでもフェアに批判しなければならないし、また、その余地は十分にあるのに、現実を見ず、脊髄反射的に情緒を爆発させる人たちは非常に残念です。
     政治は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』にあったように、「理想の火を掲げて現実の道を行く」ものでなければならないと思います。
     理想主義はけっこうですが、現実を無視することは許されない。逆にリアリズムの名のもと、理想を無視し始めても退廃する。そこら辺のバランスはむずかしいなあと思います。
     たとえば、日本は軍事力を使わず外交で平和を勝ち取るべきだ、という人たちがいます。ぼくももちろん、それができれば最善だと思います。
     しかし、リアリズムの観点に立つと外交努力だけで平和を維持することは、不可能ではないにしろ、限りなくむずかしい。「話せばわかる」というわけにはいかないのです。
     ローマの軍事理論家であるヴェゲティウスの「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」という言葉がいまに伝わっていますが、現実にはバランス・オブ・パワーが崩れるとき、平和もまた崩壊する場合が多い。平和のためにこそ軍事力が必要とされる一面があるわけです。
     ただ、それならどんどん防衛予算を増やしていけばそれだけで平和が維持できるかというと、当然、そういうわけにもいかない。防衛のための戦力は侵略にも使えるわけで、あまり軍事力を増強させつづけると周辺諸国の不信感をおあることになります。
     現代日本に周辺諸国への侵略の意図はないとは思いますが、諸外国から見てどう見えるかということはまたべつで、安全保障を求めて軍事力を増せばますほど、緊張は高まっていくかもしれないわけです。
     安全を求めれば求めるほど平和が遠ざかっていくという矛盾。この問題は平和学や政治学の世界では「安全保障のジレンマ」と呼ばれています。
     具体的な例としては、よく第一次世界大戦が挙げられるようです。第一次世界大戦は、当時、関係国のどこひとつとして戦争を望んでいなかったにもかかわらず、相互の不信が不信を呼んだ挙句、一本のマッチが大爆発をひき起こして開戦につながってしまった戦争だと見られているからです。
     このように、べつだん、国家やその指導者が血に飢えた狼ではないとしても、戦争は起こってしまうことがある。
     人類が戦争を克服できないのは、アニメでよくいわれるように人間がどうしようもなく愚かな生きものだからではなく、国どうしが互いに互いを信用できないからなんですね。
     ちなみに、この相互不信の問題は個人と個人のあいだにもあります。だから、国家が個々人の上に立って安全を保障する必要がある。そうでなければ、ホッブズが描いたように「万人の万人のための闘争」が起こるでしょう。
     しかし、現状で国家より上に立つ機関は存在しませんから、いまのところは国際平和はバランス・オブ・パワーに頼るしかない。SFでよくある「地球連邦」などが成立したらまたべつかもしれませんが……。
     ただ、それなら、このジレンマの克服は不可能なのかといえば、完全な克服はおそらくむずかしいものの、理論的には一定の緩和は可能だと考えられていますし、実際に緩和されているように見える例も存在します。
     互いに一切の軍備を放棄して完全な平和を実現することは困難だとしても、隣国間の緊張関係を解くことはできるということです。
     たとえば、ヨーロッパ諸国どうしとか、アメリカとカナダとか、あるいは日米は現状で互いに戦争を想定しなければならないような緊張関係にはありませんよね?
     同じ隣国どうしであっても、韓国と北朝鮮とか、インドとパキスタンといった例とはまったく違う。これはどこが違うかというと、互いに「まさか戦争を起こしたりしないだろう」と相手を信じることができるということ、つまり相互に信頼が存在している点が異なっているわけです。
     安全保障のジレンマとは相手を信じられないから軍備を強化するしかないという問題ですから、理屈のうえでは信頼関係を醸成すれば克服できる。
     そのためにこそソフトパワー(文化や政策の力)は必要になる。ただ、それだけではなかなか平和構築はむずかしいということも理解していてしかるべきだと思うし、じっさいに大半の人は理解していると思うのです。
     Twitterを見ると「軍事力なんていらない」みたいな極論をいう人も多いんですけれどね。それは声が大きい人が目立つだけだと思っています。
     声の大きい人たちはよく極論で対立をあおるけれど、そういう、エクスクラメーションマークを付けないと話ができないような人たちこそが戦争をひき起こすとぼくは思っています。
     自分の思いこみにもとづいて好き勝手に他者にレッテルを貼り、情緒的な正義感を暴走させ、敵か味方かといった対立構造でしかものを見ない。そういう人たちは、自分では平和を求めていると主張しますが、あきらかに好戦的です。
     ほんとうに平和を求めるなら感情的になってはいけないのです。「不正に対する正義の怒り」はたとえばフランス革命の原動力になったかもしれませんが、その革命で200万人が死亡しました。
     「もっと怒れ」などと感情をあおる人には注意が必要です。「正義の怒り」はたしかに人を行動的にさせるかもしれませんが、一方で盲目にしてしまうこともたしかです。
     先ほどの「戦闘機の爆買い」や「年金財政崩壊」に憤激する人たちもそうですが、自分では社会正義のために怒っているつもりで、いつのまにか視野が狭くなっていることは往々にしてある。
     社会の維持のために正義は必要ですが、感情的に暴走しさえすればうまくいくというほど世界は甘くないのです。
     あるいはなぜ感情的になってはいけないのか、と思われるかもしれません。正義のため怒りをたぎらせ、それを行動につなげることが「世直し」のためには必要なのではないか、と。
     それは一面の事実ではあるかもしれませんが、人間は感情に行動を任せるとしばしば判断を誤るものです。
     そもそも普段でも人間の行動には感情にもとづいたバイアスがかかっていて、純粋に論理的に動いているわけではない。これは社会心理学や行動経済学の世界では広く知られた事実です。
     たとえば、一般に人間は「名前と顔のある個人」については強い関心を抱きますが、「無数の名もなき人々」に対しては冷淡です。
     具体的にかわいそうな個人がいればその人のために感情を昂らせるけれど、それが十人、百人、十万人となると、とたんに冷たい態度しか取れなくなったりするのです。
     これは実験によってあきらかになっているファクトであり、かのスターリンはこのことを「ひとりの死は悲劇だ。しかし、百万人の死は統計に過ぎない」と的確、かつ冷酷に表現しました。
     じっさい、そうだろうと思います。理屈で考えるなら百万人の死はひとりの死の百万倍の悲劇であるわけですが、ぼくたちはなかなかそういうふうには認識できない。
     理屈ではそういうことだとわかっていても、たとえば遠いアフリカの紛争や虐殺事件に深い関心を抱くことはなかなか困難です。
     その一方で可愛い犬がみぞにはまって動けなくなったといったニュースには強い興味を抱いたりする。人間はそういう感情の生きものなのです。
     ですが、まさにそうであるからこそ、感情に支配されるのではなく、感情を支配しようと努力するべきなのではないでしょうか。
     ポール・ブルームの『反共感論』という本があるのですが、「共感」という感情にもとづく行動は、べつの見方をするなら差別的です。そのような感情に支配されることは危険だ。
     「心からかわいそうだと思える人たち」のためには動けても、「とても同情には値しないとしか思えない人たち」のためには動けないことになる。
     だからこそ、ぼくはあくまで理性にもとづいて行動するべきだと思うのです。少なくとも、そのようにあろうとするべきかと。
     「特定の個人やある集団に寄り添わない」理性による判断は、あるいは冷たいものと見えるかもしれません。
     しかし、「弱者に優しい」共感の政治がしょせんは「かわいそうに思える人たち」をひいきする差別的な行動でしかありえないのに対し、理性による判断は可能な限りフェアであろうとします。
     ぼくはそのほうがまともだと思う。だれよりも感情的な人間であるからこそ、そう考えるのです。
     おわり。 
  • 福島県産食品に関する統計なんてあてにならないと考える人へ。

    2019-06-05 05:30  
    50pt
     Twitterで室井佑月さんのツイートを追いかけています。雑誌やテレビ番組などでさまざまに活躍しておられる方ですが、Twitterでは福島県の食品に関する持論を繰り広げて大きな批判を受けています。
     ぼくの目から見ても、かなりトンデモに片足を突っ込んでいるように映るのですが、いまのところ、どんなに批判を受けてもまったくその信念に揺らぎはないようです。
     で、その室井さんのツイートのなかでも興味深かったのがこれ。

    国が出す数字もあてにならないんだから、そのほかの自治体が出す数字も、ってならない? だから、そういうことを怒らなくてはいけないと思わない?https://twitter.com/YuzukiMuroi/status/1135542752496631808

     この「国が出す数字もあてにならない」はおそらく昨年発覚した統計不正問題のことを指しているのでしょう。今回はちょっとこの話をしようと思います。
     いや、ぼくはべつだん政治評論家ではありませんから、あまり政治関連の記事を続けるのもどうかとも思うのですが、まあ、このブログはぼくが興味があることを不連続に提示していく趣旨だから良いとしましょう。
     さて、皆さんご存知のこととは思いますが、2018年、厚生労働省による統計の不正が報道されました。
     政府発表の統計情報が間違えていたわけですから、これは大問題であるわけですが、今回の論点はこれを指して「国が出す数字もあてにならない」といえるのかどうか、そして「そのほかの自治体が出す数字も」あてにならないといえるのか、さらにいうと室井さんが主張しているように福島県の食品の安全性に関連する統計は間違えている可能性があるのかということです。ひとつずつ考えていきましょう。
     まず、厚生労働省による統計不正問題とはどのような問題であったか。きちんとニュースを読んでいればわかることですし、また、ちょっとググってもらえばわかるとも思うのですが、簡単にいうと、以下の二点が挙げられます。
     ただ、例によってぼくのしろうと判断なので、どこか間違えているところがあったらご指摘ください。

    ①2004年から2017年にかけて、東京都の毎月勤労統計において、「全数調査」をすべきところを「一部抽出調査」を行っていた。
    ②2018年に、その都内の数字を全数調査に近づけるための復元処理を行ったが、その事実を公表しなかった。

     このことはくわしくは厚労省のサイトで情報が公開されています。
    https://www.mhlw.go.jp/content/10700000/000467631.pdf
     つまり、十数年にわたってちゃんとしたやり方で統計を取るべきところを簡易的なやり方で済ませ、さらにその数字を正しいものに近づけようとしたことも操作したことも公表しなかった、ということですね。
     繰り返しますが、個人的には、これは政府統計への信頼感を揺るがす大問題だと考えています。ぼくたち民間人は基本的に国が出すこの種の数字を信用して判断しているわけですから、それが誤っていたとなるとあらゆる判断が狂ってきます。
     さらに、そこにアベノミクス(どうでもいいけれど、このネーミング、最低だよな)の成果を偽装しようとする政府関係者の意向が関わっていたのではないかという疑惑が加わって、この問題は安倍政権にとっての汚点のひとつとなりました。
     しかし、それでは、この問題の存在をもって「国が出す数字もあてにならない」といえるのでしょうか?
     まあ、実際に「国が出す数字」が間違えていたのは客観的事実であるわけですから、これは一理あると思います。しかし、ひとつ間違いがあったからといって、「国が出す数字」全般が間違えていると考えるべきかというと、ぼくは否定的です。
     ごくあたりまえのことですが、「国が出す数字」の大半はかなり正確なものであるはずです。もちろん、そこには算出方法などにもとづくさまざまな問題があり、単純に無条件に正しいものと考えるべきではありませんが、数ある数字のひとつが間違えていたからといって統計をまったく信じないというのは行き過ぎでしょう。
     逆説的ないい方になりますが、ひとつが間違えていただけでも大問題になっているわけですし、さらにいうなら、そのひとつも指摘があって発覚したわけです。
     そもそも、常識的に考えて統計の数字を大きくいじれば最終的にはどこかでつじつまが合わなくなってくるはずですから、まさに今回の例のように、だれかが気づいて指摘します。
     そして、日本には「統計法」が存在しますから、指摘されたら関係者は罰則を受ける可能性があります。それほど簡単に意図して数字をいじることはできないのです。
     いや、そうはいっても、この不正には安倍政権の意向が関わっていたんじゃないか、少なくとも何かしらの忖度があったんじゃないか、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
     ですが、①の抽出方法の不正に関しては2004年からのことですから、現政権だけの問題とはいえません。②の数字の復元処理は、もしかしたら政権の意向が関わっていたといえるかもしれませんし、野党はその方向で政権を批判しているようですが、おそらくその可能性はそれほど高くないでしょう。
     この統計不正は単純にアベノミクスの結果をより良く見せているとはいえないし、その上、結果としては政権の足をひっぱっているからです。
     「アベがアベノミクスの成果を良く見せるために数字を偽装したに違いない」というのはいかにも陰謀論的な見方です。
     そういう可能性がまったくないとはいえませんが、問題の発端が2004年であることを考えると、この問題はむしろ、国の統計に関わる人材の質的、量的な不足の問題と見ることが妥当かと思います。
     たぶん単純に人が足りないんじゃないかな。それこそしろうと判断なのであまり迂闊なことはいえませんが。
     さて、これが「国が出す数字もあてにならない」ということです。必ずしも単純に「あてにならない」とはいえないし、まして政権が思うままに数字を操っているなどということは相当に考えがたいということはおわかりいただけたのではないでしょうか。
     で、それならここから敷衍して、「そのほかの自治体が出す数字も」あてにならないといえるかというと、やはりぼくは否定的です。
     もちろん、「国が出す数字」と同様、それらの数字が完全に正確なものであるとは限りませんが、まったくあてにならないということはないでしょう。
     さらにいうなら、福島県の食品の安全性に関する数字は、その気になればだれでも検証できる性質のものであり、国連や民間団体による調査も存在します。それが政権の意向により操作されていると見るのは、あまりに非現実的かつ陰謀論的な発想です。
     たしかに、政府や自治体が発表する情報に対して懐疑的態度を崩さないことは大切なことでしょう。権威の発表だからといって鵜呑みにすることは間違えている。
     しかし、「ある情報を鵜呑みにしないこと」と「怪しいと決めつけること」は本質的に異なります。
     国連を初めとする複数の機関による調査がそろって問題ないことを示しており、さらにいうならしろうとでもいくらでも調査が可能な数字を根拠もなく信用できないと決めつけることはやはり非合理的な態度だと考えます。
     たしかに「アベが政権の維持のために手をまわしてすべての数字を操っている」といった可能性は皆無とはいえないでしょう。ですが、このような発想は陰謀論そのもの。ユダヤ人が裏から世界を操っているという意見と何ら変わりません。
     陰謀論について考えるとき、むずかしいのは、実際にこの社会には大小さまざまな陰謀が存在しているので、大規模な陰謀の可能性を論理によって完全に否定することはできないことです。
     白か黒か、純白か漆黒か、という話はできない。だから、考えるべきなのはその陰謀説が合理的に考えてどのくらい妥当か、ということでしょう。
     そして、いままでつらつらと書いてきた理由によって、ぼくは福島産の食品に関して組織的な数字の不正が行われている可能性は限りなく低い、と考えます。室井さんは間違えている。あるいは少なくとも、その発言には合理的な根拠がない。そう思う。
     それにしても、どうして彼女はこのような偏った思想を強く思いこんでしまったのでしょうか? そして、批判されても変えようとしないのでしょうか? ようするにこの人は愚かなのだ、といって済ませてしまえば簡単ですが、ぼくはそうは思いません。
     むしろ、ぼくたちは彼女の例から客観的かつ合理的に考えることのむずかしさを学ぶべきです。
     人間は決してつねに論理的に考える生き物ではなく、その思考にはさまざまな偏り(バイアス)がかかっていることは心理学の知見として知られています。
     その「認知バイアス」は合わせて実に200以上もあるらしいのですが、そのなかでもぼくが重要だと考えるのが「認知的不協和」と「バックファイアー効果」です。
     簡単にいうと、認知的不協和とは自分が持っている信念と異なることを告げられると不快を覚えること、バックファイアー効果とは新しく信念と異なる情報を教えられても信念を正すことはできず、より強化してしまうことです。
     つまり、人間はいったん何かしらのことを信じてしまうと、後から正確な情報を与えられても修正は容易ではないのです。
     これは人間一般に共通するバイアスですから、相当に賢い人でもなかなか抜け出せないトラップだといえます。
     さらにいうと、ぼくは「発言行為にもとづくバイアス」もあると考えています。人間はいったん自分の意見を口に出してしまうと、後からそれが間違えていたことがわかってもなかなか訂正できないということです。
     室井さんはまさにこのバイアスに嵌まっているのではないか、と思うのです。そして、ぼくたちはだれでもこの種のバイアスに嵌まり込む危険がある。その可能性を回避するためにはどうすればいいのか、いま、考えているところです。
     これはイデオロギーの問題ではありません。思想的に右翼(ネトウヨ)であろうと、左翼(パヨク)であろうと、思考のバイアスのために誤った結論を導き出してしまい、またそれを修正することができなくなってしまう可能性はつねにあります。
     思うに、まず大切なのは、強い「信念」を持たないようにすることではないでしょうか。何かの思想なり価値観を信奉することはしかたないとしても、それを絶対視せず、なおかつ、そのほかの価値観に敬意を払いつづけること。
     つまり、保守ならリベラルに、リベラルなら保守に対しリスペクトを払う姿勢が大切だと思います。もっというなら、もし安倍首相が嫌いなら安倍首相に対してこそ敬意を忘れないようにするべきなのです。
     いうまでもありませんが、それは安倍首相の言動なり政策を無批判に受け入れるということではありません。そうではなく、「敬意をもって批判的に観測する」ことが大切だということ。
     そうでないと、邪悪な極右の独裁者であるところのアベシンゾウに関連することはすべて間違えているに違いない、というバイアスにあっさり嵌まり込んでしまいます。
     先日紹介したF35は欠陥機であるという見方はまさにその典型です。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではありませんが、人間はあらかじめ何かしらの信念なり偏見を持っているとどうしてもそれを強化する方向に進んでしまいがちなものなのです。
     もっというなら、インターネットでは「エコーチェンバー現象」が働くので、その方向性が強化されるのですが、いいかげん長くなったのでその話は省きます。
     なるべくイデオロギーにもとづくバイアスに嵌まらず、冷静かつ客観的に物事を考えたいものですね。でわでわ。 
  • F35はほんとうにポンコツ欠陥機なのか? ネットの疑問を検証してみた。

    2019-06-03 04:19  
    50pt
     えー、最近、Twitterを眺めておりますと、「F35大量購入問題」というものをよく見かけます。
     これは「アベがポンコツ戦闘機のF35を一度に100機も爆買いした! これは戦争のための準備に違いない! そんな金があるならもっと福祉に使え!」というようなご意見なのですが、あまりに一方的なトーンに、ぼくは疑問を感じずにはいられませんでした。
     ほんとうにF35はポンコツの欠陥機なの? 安倍首相はトランプ大統領へ献上するために購入したの? その点がちょっと鵜呑みにはできなかったわけです。
     そこで、書籍や雑誌を購入したり、Googleさんにお伺いを立ててみたりして、調べてみました。で、結論からいうと、F35の購入が適切であるかどうかは判断できないものの、少なくともネットの意見の多くは誤解や極論であることがわかりました。
     とはいえ、ぼくも特にミリオタでなし専門家でなし、あくまで短期間で調べ上げた情報ですからすべてが正しいとはいい切れません。ご意見、ご批判はうけたまわります。大筋としては間違えていないと思うけれどね。
     とりあえず、主だった「ネットの疑問」を六つ並べて答えてみたので、興味がある人は読んでみてください。ちなみに、『航空ファン』2019年7月号、『F35「超」入門』、それにいくつかのネット上の記事を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

    ネットの疑問① F35はつい最近、墜落したばかりだ。そして、アメリカでも墜落事故を起こしている。これは欠陥機としかいいようがないではないか。こんなポンコツ機体を購入するアベは売国奴だ。
    海燕の意見① これに関しては、墜落事故の事実そのものは間違いではない。先の4月9日、航空自衛隊第305飛行隊所属のF35A(70-8705/AX-5)が太平洋上で事故を起こしている。そして、昨年の9月28日にもアメリカでF35Bが墜落している。 しかし、逆にいえばF35の墜落は現在、この2件のみ。これは、アメリカ製戦闘機の歴史において、記録的な少なさであるといって良い。 実際、F35はこのアメリカでの事故が起こる前にF35は20万時間連続無事故記録を打ち立てており、これはきわめて異例の数字だ。現実に、現在のアメリカの主力戦闘機であるF22は累計飛行時間10万時間までに3機が墜落している。 もちろん、理想をいうなら事故はゼロであることが望ましいわけだが、1,2件の事故が起きたからといって特別に欠陥があるかのように喧伝することは間違いとしかいいようがない。


    ネットの疑問② F35の購入代金、維持管理費用は数兆円に及ぶ。この大金を福祉に回せば多くの人が救われるのではないか。
    海燕の答え② たしかに、一面ではそうだということができる。しかし、それをいうのならF35ひとつのみならず、自衛隊の運営にかかる費用すべてが無駄な出費ということになるだろう。 現実には、自衛隊の国防能力は日本の安全保障のために必要な経費であり、だからこそ国会で予算が承認されているのである。F35を購入しなければその分の予算が浮くことは事実だが、そのかわり、日本の領空警備能力は格段に落ちることになる。 その結果として、日本の安全保障は危機的な状況になるかもしれない。福祉は福祉として重要な問題だが、だからといって軍事費を削って良いということにはならない。


    ネットの疑問③ このような戦闘機の大量購入はあきらかに戦争を目的としたものだ。アベは戦争をしたくてたまらないのではないか。平和は外交で勝ち取るべきだ。
    海燕の意見③ 戦闘機を大量に購入したからといって、それで戦争をするつもりだとは限らない。事実、自衛隊はいままで多数の戦闘機を運用してきたが、先の太平洋戦争以来、一度も実戦に使用していない。 もちろん、だからといってそれらの戦闘機が無駄だったというわけことにはならない。航空自衛隊の兵器の役割の第一は日本の領空の制空権を守ることであり、その役割を果たしている以上、戦闘機に抑止力としての存在意義は十分にある。 また、安倍首相が戦争をしたくてたまらないのかどうかは何しろ内心のことなので何とも判断できないが、少なくともそうだと考えるべき根拠はない。 「これほどの数の戦闘機を買ったからには、戦争をするつもりに違いない」という人は、いままで自衛隊が200機のF15を所有していながら一度も戦争していないことをどう考えているのだろうか。 平和は外交で勝ち取るものであることはその通りだが、その外交の前提となるのは対等の軍事力である。軍事的に圧倒的に劣っている状況と、一定の利がある状況、どちらが外交的に有利であるかはあらためて語るまでもない。


    ネットの疑問④ F35の購入はアベがトランプとのゴルフで決めたことで、目的はトランプに大金を献上することだ。こんなことが許されていいのだろうか。
    海燕の意見④ あまりにもあたりまえのことだが、F35の購入は安倍首相がトランプ大統領とのゴルフの間に独断で決定したことではない。 この件に関する予算はすでに2018年の段階で国会の予算審議を通過しており、安倍首相がゴルフの間に決定することは純粋に物理的な意味で不可能である。 それでもトランプ大統領へのおもねりのためにF35の購入が決定されたのではないかという疑いを捨てられない人もいるかもしれない。 だが、実際には2013年12月に定められた「防衛大綱」および「中期防衛力整備計画(2014~2018)」には「近代化改修に適さない戦闘機について、能力の高い戦闘機に代替するための検討を行い、必要な措置を講ずる」、「航空偵察部隊1個飛行隊を廃止し、飛行隊を新編」と明記されている。 2013年のアメリカはオバマ政権下であり、トランプ現大統領はいち民間人、そのただの民間人のために戦闘機の購入予定を立てることなどありえるはずがない。


    ネットの疑問⑤ すでにイタリア、カナダ、ドイツ、の三国は欠陥機であると判明したF35の購入を中止している。そんなポンコツを日本が購入する意味があるだろうか。
    海燕の意見⑤ たしかにイタリアはF35の調達を断念している。しかし、それは「現在の情勢のもとでは、技術的諸問題と労働力不足に関連して戦闘機製造計画を縮小することは追徴金の原因となるため」という金銭的理由であり、F35が欠陥機であるからではない。 また、カナダは現在、次期戦闘機の導入を検討中だが、F35はその候補のなかに挙がっている。F35に決定しないのは、ユーロファイター・タイフーン、ラファール、スーパー・ホーネットなど、その他の機体でも十分に任務に耐えるという理由であり、F35が欠陥機だからではない。


    ネットの疑問⑥ アメリカの監査院ではF35に966件もの不具合が指摘されている。これはF35が欠陥機である証拠だ。このような機体を買わせられたのは災厄だ。
    海燕の意見⑥ ここでいう「アメリカの監査院」とはGAO(Government Accountability Office)という組織のことで、国民が収めた税金が適切に使用されているかという観点からさまざな政府の支出、あるいは事業などについて調査し報告書をまとめている。 「966件もの不具合」とは、このGAOがリリースした報告書に記載されている情報であるが、そこには対処しなければ安全にかかわる重大な不具合から、ごく細かい不具合に至るまで、試験・評価の過程で指摘されたものすべてが含まれており、飛行の安全に関係しないものもある(どうやらその大半は機体よりも超複雑化したソフトウェアの問題らしい)。 その966件のうち、「飛行の安全、情報保全、あるいはそのほかのクリティカルな要求事項に関わる不具合」にあたるカテゴリー1に属する不具合は111件、そしてそのなかで全規模量産開始までに対処が間に合わない見通しとなっているものは25件に過ぎない。 25件でも十分だと思われるかもしれないが、少なくとも不具合の所在はわかっているわけで、段階的にアップデートしていくことは可能だろう。 これはMicrosoftのWindowsが発売後にアップデートしていくことに近い。F35は戦闘機であると同時に「空飛ぶ巨大コンピューター」であり、「大規模ネットワークの突端」である。ソフトウェアの部分は後から改善していくことが可能なのだ。

     
  • フェミニズム批判が岐路に立つとき。いつまでも批判だけしていて良いのだろうか?

    2019-05-23 00:57  
    50pt
     おっと、更新するといっていたのに微妙に遅れてしまいました。申し訳ありません。
     きょうはYouTubeから離れて、Twitterでいま話題になっている痴漢と安全ピンの話をしたいと思います。これ、痴漢を撃退するために安全ピンで刺すことがいいと発言した人がいて、その是非を巡って論戦になっているんですね。
     ぼくはというと、「勝手にすればいいんじゃね?」くらいの立場ですが、あえていうなら、やめておいたほうがいいと考えています。その理由は主にふたつあって、

    1.人物の誤認の可能性が消し切れない。
    2.相手が痴漢であっても、正当防衛が成立せず、傷害罪で訴えられる可能性がある。

     この二項目ですね。まず、いくら安全ピン支持派が「痴漢を間違えたりするはずがない」と熱く語ろうとも、現実にはやはり「冤罪」の可能性は消し切れないと感じます。
     何といっても状況は多くの場合、満員電車のなかだと考えられるわ
  • 電子書籍の「直販」で作家が食べていくことは可能か。

    2019-05-20 02:58  
    50pt
     はろはろ。何やら幻冬舎と津原泰水さんのトラブルが騒動になっていますね。それについては特に関心がないのですが、その騒動に関連してこのような記事が書かれています。
    https://blogos.com/article/378019/
     「販売力のない出版社はいらない。作家直販時代の到来〜幻冬舎見城徹VS作家津原泰水騒動」といういささか長いタイトルがついていますが、まあ、そういう内容です。
     本を売る責任は本来、出版社にあるにもかかわらず作家にその責を負わせるのは間違えている、これからの作家は電子書籍で「直販」すればいい、という話ですね。
     まあそうだよな、とも思うのですが、その一方で「インディーズの電子書籍は売れない」というキビシイ現実もあると思っているので、そのことについてちょっと書きましょう。
     いまさらですが、「直販」の電子書籍は売れません。いや、売れている人もいないわけではないだろう