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  • 映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

    2021-06-17 01:40  
    300pt
    映画版『映画大好きポンポさん』が腑に落ちない。

     先日、すでに各地で好評を集める『映画大好きポンポさん』を観て来たのですが、いまひとつ自分のなかでどう評価するべきなのか納得が行っていないところがあって、考え込んでしまいました。
     特にクライマックスのあたりをどう解釈するべきなのか、正直、良くわからなかったんですね。
     通常、映画作りテーマの作品でも光があたることが少ない「編集」という作業にスポットライトをあてていることはわかるのだけれど、それが何を意味しているのか、主人公のジーンくんが何を選び、何を捨てているのか、明確には理解できなかった。
     そのあたりのとまどいは哲学さんと放送したYouTubeを聴いていただければわかるかと思います。
    https://youtu.be/Ivcr1xm0XGs
     思いっきり腑に落ちない感じで話している。
     そのことについて語るまえにまずは物語のあらすじから話をしますと、この映画の主人公は映画の都ニャリウッドへやって来て天才プロデューサー・ポンポさんのアシスタントをしている青年ジーン・フィニ。
     「えっ、ポンポさんが主役じゃないの!?」と思われるかもしれませんが、ポンポさんはあくまでそのジーンくんが召使いのごとく忠実に仕える美少女プロデューサー。『ドラえもん』でいえばジーンくんがのび太、ポンポさんがドラえもんの役どころですね。
     ジーンくんは、伝説の超大物映画プロデューサーから地盤も人脈も才能もすべて受け継いだニャリウッドいちの敏腕プロデューサーであるポンポさんのもと、映画作りのノウハウを学んでいくのですが、あるとき、ポンポさんが書いた脚本を映画化するというビッグチャンスが舞い込んできて――というところからストーリーは始まります。
     まあ、おおまかなあらすじはほぼ原作通りですね。少なくとも前半前半のあたりはほぼ原作そのまま。原作に出てこないキャラクターが顔を見せたりして気になるところもあったのですが、原作既読のぼくは「まあまあかな」などと偉そうに思いつつ、スムーズに見れました。
     ところが、映画は後半に入ると、お話は大きく原作から逸脱しはじめます。
    いったい「それ」は何を意味しているのか?
     それは、具体的には、映画の撮影が終わったあと、監督であるジーンくんが自ら映像を編集するくだりです。原作ではわずか数ページしかないこの場面が、映画では物語のクライマックスとして長々と語られます。
     じつはぼくはここがわからなかったんですよね。どう考えたら良いのか、どうにも釈然としなかった。良い話のような気はするのだけれど、いまひとつ心から納得はできないというか、ナチュラルに受け止めることができなかったのです。
     というのも、この後半で、ジーンくんはいままで撮った膨大なシーンを片端からカットしていくのですね。
     良い映画を作るためには不要なシーンを捨てなければならないという信念のもと、いままで苦労して撮ったシーンの数々を捨て去っていくわけなのですが、それでは、そうやって「いらないもの」を捨てていったあとに残るものは何なのか? かれにとっての選択の基準とはどういうことなのか? そこがいまひとつわからなかった。ピンと来なかったんです。
     良い映画を作り出すためには、スタッフがどれだけ苦労して撮ったシーンであっても、捨てなければならないことはある。それはよくわかる。その通りだと思う。でも、それでは、その良い映画、優れた作品とは何なのか?
     この『ポンポさん』という映画は一種のメタ構造になっていて、物語が進んでいくにつれ、作中のジーンくんと、作中作(映画内映画)『Meister』の主人公、天才指揮者のダルベールとが重なり合っていくようになっているのですが、そのダルベールが最後に指揮に成功する「アリア」とはどのような性質のものなのか? ええ、白状しますと、もうさっぱり理解できませんでした。
     作中の設定によると、アリアとは感情を乗せなければ表現できない曲であり、孤独で尊大なダルベールはいったんその指揮に失敗してしまいます。
     その後、ヒロインのリリィと出逢って過去の感情や思い出を取り戻し、再度挑戦して成功するのですが、そのことは具体的に何を意味しているのか? ここがどうしても判然としなかった。
    二度目の鑑賞に挑んでみた。
     そこで、しかたないので、もういちど映画館に行って同じ映画を見てきました! 日々、赤貧にあえぐぼくとしては同じ映画を二度も見に行くというのはきわめてめずらしいことです。それくらい、この映画のことが気になっていたのですね。
     ぼくがこの映画について抱いていた「謎」とはこのようなものでした。作中で、ダルベールは「感情」がなければ指揮できないアリアを成功させる。ということは、かれはリリィと出逢ったあと、「感情や思い出」を取り戻したと解釈できるはず。
     したがって、そのダルベールと重ね合わせられて描かれているジーンくんもまた「感情や思い出」、いい換えるなら「愛」を取り戻したと見ることができるはずなのだけれど、作中の描写を見ると、かれはひたすら「友情」や「生活」といったものをカットしていっている。
     これはなぜなのか? いったいジーンくんは捨てているのか得ているのか、どちらなのか? うーん、わからないよう、と。
     どうも同じような感想を抱いた人はやはりいたようで、某映画感想サイトにはこのような意見が載っています。

    「一番気になったのが追加撮影からのジーン。
    まず追加撮影で何を撮りたかったのかが、イマイチピンとこない。
    何よりマイスターのダルベールは作中劇でリリーと出会い、忘れてたものを取り戻し、それを音楽に還元したのでは?
    ジーンが映画以外を削ぎ落として作品を完成させたのならそこが一致してないのがモヤモヤする点だった。
    結局削ぎ落とすのか、拾うのかがわからなかった。
    「アリア」というワードも急に出てきた感じがしてしまう。後半にテーマ(情報量)が増えてちょっと集中しにくかった。」
    https://eiga.com/movie/91732/review/02568914/
     そうそう、ぼくもそう思ったのよ。ジーンくんは自分にとって大切なその他のものを捨てて、犠牲にして、映画を選んだように見える。
     しかし、作中作のダルベールは「忘れていたもの」を取り戻して、アリアの指揮を成功させている。その意味でふたりは同じではない。それにもかかわらず、かれらは重ねあわされて演出されている。これは矛盾ではないのか、と。
    ジーンくんは「映画の鬼」になったのか?
     もし、ジーンくんは映画を作るという目的のためだけにすべてを捨て去って、ただ最高の映画を撮ることだけを目指す一匹の修羅になり果てただ、ということならそれで良いし、それはそれで凄い話なのですが、どうもそういうふうにも見えない。
     創造や芸術の傲慢と狂気を描く、たとえば芥川龍之介の「地獄変」とか、そういう系統の物語だとは思えないのです。
     たしかにかれは自らの「狂気(映画作成を至上目的とする傲慢なエゴ)」の命じるまま、「映画にとって不要なもの」すべてをカットし、自らの人生を重ね合わされた映画を編集しつづけるのですが、論理的に考えるなら、かれが最終的に「これがぼくのアリアだ!」と叫ぶほどの傑作を作ることができたのは、そこに「愛」があったからであるはず。
     そうでなければ、「ただの傑作」はともかく、「かれにとってのアリア」は撮ることができなかったと思うのですね。
     LINEで色々と話をしたところ、狂ったように編集にこだわるジーンくんの姿に、『シン・エヴァ』の庵野秀明さんを重ね合わせて見た人もいたのですが、ぼくが思い出したのはむしろ『かぐや姫の物語』の高畑勲さんでした。
     高畑さんは映画を一本作るために、ほんとうに人が死んでしまうところまで追い込むような作り方をしているわけですよね。作品至上主義をつらぬいて、それでほんとうに死者が出ている、ということはまことしやかに語られているところです。
     これはもう、映画の鬼というか修羅というか、そういう境地であるわけですが、ジーンくんがめざしたのもそういうところなのか。それだったらそれで凄いけれど、どうにもそうは思えない。
     いや、高畑勲ではなく、宮崎駿の『風立ちぬ』でもかまいません。あの映画は、おれは自分が美しいと思うもののためなら人も殺すし国も滅ぼすんだ、良い仕事をするとはそういうことでしかありえないんだ、というテーマであったように思います。
     『風立ちぬ』はそれによってものすごい傑作になっているのですが、ジーンくんもあの映画のなかの堀越二郎と同じような道を往こうとしているのか?
    ジーンくんはなぜ「かれにとってのアリア」を撮れたのか?
     そう、ジーンくんが捨てて捨てて、最後に残そうとしたものは何だったのか?と思ったのですね。作中作のダルベールの場合、それは家族との思い出、家族への愛だった。それでは、その作中作を撮っているジーンくんにとっては何だったのか?
     映画はかれとダルベールが重なるように作られているので、かれにもまた何らかの愛があるはずであるという結論が出て来そうなのだけれど、そうなのか? ジーンくんは映画しか愛していない男だったのではないのか? そんなかれの「アリア」とはどのようなものなのか? そこがどうしても解釈し切れなかった。
     ダルベールは家族への愛があったから感情がこもるアリアを指揮できた。それはわかる。理解できる。では、ジーンくんはなぜかれにとってのアリアである『Meister』という映画を作れたのか? そこがわからない。
     ただ映画しか愛していない男にダルベールにとってのアリアに相当するような映画が作れるのか?
     ここで気になるのがジーンくんがすべての撮影が終わったあと、スケジュールを延長してまで追加撮影するシーンです。
     それはダルベールと家族との確執と別れの場面であるわけなのですが、これはつまり、ジーンくんはダルベールが家族を愛していることを説明するシーンがこの映画には必要不可欠だ、それがダルベールの音楽の核心なのだから、とそう思ってその場面を撮影したのだと見るべきだと思うのです。
     しかし、それだったらこの『映画大好きポンポさん』という映画にも、ジーンくんにとってのコアのところにあるものを説明する箇所が必要なんじゃないの?と思ったんですよ。
     まあ、随分と長々と話してしまいましたが、ぼくはその点がどうにも納得がいかなくて、それでこの映画の評価を保留していたわけです。「どうやら傑作のような気はするけれど、まだ断定できないぞ」と。
     
  • 傑作? 迷作? 『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観た!

    2021-06-16 00:41  
    300pt

    ひたすら「ぽかーん」。理解を絶する暴風映画。
     先ほど、映画『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観て来ました。いやあ、めちゃくちゃ面白かったけれど、まったくわからなかった(笑)。
     だれだよ、初見でも大丈夫とかいったの! 全然ちっともこれっぽっちも大丈夫じゃねえよ!! こんな映画、事前情報なしで見て理解できるわけないだろ!!!
     テレビシリーズの総集編だと聞いていたので、見ているあいだじゅう「???」が頭のなかを飛び交い、「こんな総集編があってたまるか!」と思っていたけれど、いや、新作だよね、これ。良かった。
     いや良くないけれど、テレビシリーズ続編の新作ならまだ理解できる。理解できなさが理解できる。これがほんとうに総集編だったならどうすれば良いのかわからなくなるところだった。
     まあ、どうやらある演劇系の名門学園に集った舞台少女たちの友情と葛藤の物語らしいのだけれど、もうストーリーはあってないようなもの、ひたすらヴィジュアルの絨毯爆撃が続くモンスタームービーですね。
     あるいはもしかしたらぼくが理解できていないだけという可能性もありますが、一般的なストーリーの構成から逸脱している作品であることは間違いありません。逸脱しているというか、だれが主人公なのかも良くわからない。
     でもまあ、テレビシリーズを見ていたらわかるのだろうけれど……いや、ほんとにそうか? これ、ひょっとしてテレビシリーズを見ていてもなおぽかーんとするやつなんじゃないのか?
     アニメーションの快楽を感じさせることはたしかだけれど、それにしても視聴者を信頼しすぎ。こんなシロモノがちゃんとエンターテインメントとして、何なら『ラブライブ!』あたりのお仲間みたいな顔をして、堂々と劇場公開しているあたり、ぼくらの日本という国は凄いと思います。
     文化的に成熟し過ぎやろ。いったい何をどうしたらこんな映画ができて来るんだ? しかもふつうにアイドル的な萌え美少女映画として見れなくもないし。何が何やら。
     
  • テレビアニメ『スーパーカブ』ネタバレ感想。「それでも幸せになれるのか?」

    2021-06-11 10:24  
    300pt

    ライトノベル原作の傑作アニメ『スーパーカブ』第一話が神回で凄すぎる。

     この頃、ちょっとひとりのオタクとしてさすがに堕落し過ぎたことを実感していて、一から鍛え直そうと思い立ち、色々アニメを見たり本を読んだりしています。で、そのなかでも何かとんでもない傑作だと感じたのがアニメ『スーパーカブ』。

     これがねー、じつに凄かった。どうしてこの作品を見ようと思ったのかもう良く憶えていないけれど、だれかに教えてもらったのかな? まあ、人に奨められたとしても興味が湧かないと見ないので、何か直感が働いたのだと思います。

     正解でしたね。これは、素晴らしい。ほんとうに素晴らしい。おそらく原作もよくできているのだと思うし、漫画版も面白かったのですが、アニメのクオリティは圧巻です。

     アニメ版はストーリーやキャラクターデザインそのものは漫画と共通しているのだけれど、演出の方法論がまったく違っていて、そのため、アニメと漫画では大きく印象が異なっています。

     漫画が、わりと女子高生の日常ものとして楽しめるようキャラクターも含めてコミカルに描かれているのに対し、アニメのほうはもっとリアリスティックな演出になっている。

     まあ、主人公以外のキャラクターが続々とストーリーに参加して来る中盤以降はいわゆる「空気系」としても楽しく見れるのですが、それでもこのアニメの見どころはやはり「何もない女の子の世界が輝きはじめる瞬間」を描きだした序盤にあると感じます。

     才能も、友達も、恋人も、財産も、何ひとつ持っていない「ないないの女の子」である主人公が、なかば偶然にスーパーカブというバイクを手に入れたことから少しずつ世界が広がっていくところを丁寧に描写する第一話はまさに神回。

     ここにこそこの作品の神髄がある、と感じます。自転車と違い、一定以上の年齢にならないと乗れないバイクには自由の象徴という側面があって、だからこそ『十五の夜』では「盗んだバイクで走りだす」わけですが、この作品でスーパーカブが保証してくれるのはほんとうにほんの少しの「視野の拡張」でしかありません。

     しかし、その「ほんの少し」だけで世界は劇的に変わって来る。このアニメはそのことをじつに丹念に見せてくれます。

    スーパーカブと出逢ったことによって、少女・子熊の人生は一転する。

     2020年代に入っていよいよ驚異的な次元に達しようとしているテレビアニメとしても見るからに図抜けた作画と演出のスーパークオリティに支えられた「灰色の日常」の描写は、ちょっとこれはさすがにエンターテインメントとしてどうなのか?と思うくらい、ものすごく地味でありながら、しみじみと「何もない」、「だれにも頼れない」孤独感に満ちていて、何ともやるせなさを感じさせます。

     でも、それがスーパーカブとの出会いによって一転してまわりが鮮明に輝きだす場面を支えている。

     その後、物語を通し一貫して子熊のきわめて狭く限られていた世界は拡大していくことになるわけなのですが、それもべつに何らドラマティックなこととはいえません。ただちょっと古い原付を手に入れて移動が楽になった、それだけのこと。

     しかし、その、たったそれだけで人生が劇的に変わって来るというのが、そこまで彼女がいかに追い詰められていたのか逆説的に語っているのですね。

     「何もない」主人公がすべてを手に入れていく物語というと、ぼくは羽海野チカ『3月のライオン』を思い出します。でも、『3月のライオン』の主人公には、ほかに何はなくとも将棋の才能だけはあった。

     かれはその唯一の才能にすがるようにして懸命に努力を続け、状況を打破していくわけなのですが、子熊にはそういったスペシャルな才能は何もありません。さらに彼女は経済的にも限界的な状況にあり、また、何か活動を起こすようなモチベーションすら持っていません。

     ある意味ではこれ以上ないくらい追い詰められているのです。もうここまで来たらどうにも逆転しないのでは?と思ってしまうくらい、ギリギリのところにいる。

     それが、ただ「人を三人殺している」ためにやたらに安く売られいていた中古のバイクを入手した、それだけで変わる。そこにこの作品の見どころがあります。

     とはいえ、突然経済状況が改善するわけでもないし、失踪した親が帰って来ることもありません。そういう意味ではほとんど何も変わりはしないのです。それなのに、たしかに子熊の生活は一変する。この説得力。

    「ないないの女の子」に救済はありえるのか?

     これはもう萌えアニメとか、美少女アニメといって良いものではないように思います。たしかに可愛い女の子たちは出て来るのだけれど、状況設定に花やかさがまったくない。

     この作品、一応は萌え四コマとかいわゆる「空気系」に近いところに属するアニメーションではあると思うのだけれど、それにしてはあまりにも異色です。というか、その進化の樹形図の最新のところにある姿といったほうが良いのかも。

     空気系の進化の系譜、それは、まあ『あずまんが大王』まではさかのぼらないとしても、『らき☆すた』や『けいおん!』あたりから連綿と続いています。

     そしていまさらいうまでもないことですが、このジャンルの楽しさは、「女の子しかいない平和な仲良し空間」の演出にあるのだと思います。

     空気系のアニメでは、一般にたいした事件は起こりません。人が死んだり、異能バトルが起こったり、世界が滅びたりといったことは基本的にありえないわけです。

     だから従来の物語の方法論でいうとそれでは何も面白くないはずであるわけなのですが、その平和でのんびりとした「空気」そのものを味わうというのが、これらの作品の要目なのですね。

     ある意味では恋愛もののアニメから恋愛と男性主人公をカットしてできた世界といえるかもしれません。『スーパーカブ』も、やはりこの空気系の文脈で見るのが正しいのだろうとは思う。

     ところが、空気系として見るとこの作品はきわめて異色です。まず、空気系とは主人公の少女たちの「仲良し空間」を描くところに眼目があるのに、この作品の主役である子熊にはひとりも友達がいない。

     まあ、それだけなら、序盤でひとりぼっちの女の子が友達を増やしていくプロセスを綴った作品もあるからそこまでめずらしいことではないかもしれませんが、じつは彼女には両親すらいないのです。

     どうやらふた親とも死ぬか失踪するかしてしまったらしいのだけれど、とにかく現役女子高生でしかない子熊には「保護者」がいない。このきびしさ。ここを物語のスタートポイントに持って来たことが、この作品の特色です。
     
  • 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』完全ネタバレレビュー「あなたのことが好きだから」12000文字!

    2021-03-15 00:02  
    50pt

     以下、全文にわたって『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の全面的なネタバレがあります。繰り返します。『シン・エヴァ』のネタバレありです。未見の方は間違えても読まないでください。読んでしまったうえで文句をいわれてもこちらは対応できません。オーケー? それでは、行きましょう。
     ◆◇◆
     何という正統(オーソドックス)な作劇であり、表現なのだろう。劇場で『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観終えたとき、最初に思ったのはそのことだった。
     端正といっても良いし、いっそ品行方正と評したい気持ちもある。とにかく、この映画はいままでの『エヴァ』とは決定的に違う。そう考えざるを得なかった。
     そもそも『エヴァ』は、毎回毎回、その強烈なインパクトで見る人を驚かせてきた作品である。
     その当時のテレビアニメの常識から大きく逸脱した内容から「自己啓発セミナー」という批判も生んだテレビシリーズの最終回、そのあまりにショッキングな結末から伝説となった「旧劇場版」、また、『エヴァ』の陰鬱な印象を塗り替えたかと見えた『新劇場版:破』、そしてそこから一転、再び悪夢的な物語を描く『Q』と、『エヴァ』はつねにスキャンダラスなまでに衝撃的な内容をともなっていた。
     必然、その評価はつねに賛否両論であったが、それにもかかわらず一貫してファンは拡大し、『エヴァ』の「作者」としての庵野秀明の声望もまた高まっていったのである。
     しかし。
     『シン・エヴァ』はここに来てまたもいままでの『エヴァ』を裏切る。そこで描かれたものは、初めに「正統」と述べたが、あるいは「王道」とも評したいような再起と成長の物語だったのである。
     なぜ、こうなったのか。「つまりは庵野秀明も衰えたのだ」、「年老いて凡庸な成長物語に回帰するしかなかったのだ」とシニカルに見透かした態度を取ってみせることはたやすい。
     だが、『エヴァ』という圧倒的に真剣に制作されたことがあきらかな作品を前にして、そういった自己防衛的姿勢はいかにも安易に思える。ここでは、「そもそも『エヴァ』とは何だったのか」を一から振り返って、『シン・エヴァ』の真価を問い直してみることにしたい。
     それでは、そもそも『エヴァ』とは何だったのか。いまとなっては大昔とも思えるテレビシリーズ、その少なくとも前半において、『エヴァ』は「かつてないほどシリアスなハードSFエンターテインメント」であるように見えていたように思う。
     むろん、この作品に何を見たのかは人それぞれではあるだろう。ただ、いままで何度となく語られているように、途中までこの作品は「ただひたすらに無類に面白い娯楽アニメーション」として消費されていたと思われるのだ。
     その物語的な「面白さ」がピークに達するのが第19話「男の戦い」であることも異論の少ないところだろう。このエピソードにおいて、主人公・碇シンジはひとりの「男」として父と対峙し、自ら決戦兵器「エヴァンゲリオン」に搭乗してあれほど怖れていた「使徒」との戦いへ向かう。
     『エヴァ』の後半の展開を「女性的なるもの(ガイネーシス)」の噴出として捉えた小谷真理の批評を引用するなら、ここでシンジはようやく明確な「男性性」を確立し、そのスーパーロボットパイロットとしての天才を存分に発揮して、「使徒」に立ち向かう。
     それはいかにも「正しいロボットアニメ」的展開であり、陰鬱さを増しつつあったストーリーはここから一気に盛り上がりを増し、気宇壮大な決着へと向かうかと見えた。
     そう、たとえば庵野が若き日に監督した『トップをねらえ!』のような、センス・オブ・ワンダーあふれる終結を期待した向きは多かったことだろう。
     ところが、いまではだれもが知っているように、そうはならなかった。むしろ、この第19話を経て、『エヴァ』のストーリーは「崩壊」していく。最終2話を残した第24話においてシンジはついに完全に立ち上がれなくなる。
     そして、その後の第25話、第26話で綴られたのは、これもまた皆さんがご存知の通り、当時、「自己啓発セミナー」と揶揄されたような、徹底して生身のリアリティを欠いたシンジの心の「補完」だったのである。
     往年の天才SF作家コードウェイナー・スミスの『人類補完機構』を持ち出すまでもなく、きわめて壮大で意味深なSF的イメージを意味するものと考えられていた「人類補完計画」の行き着いたところがこれだった。
     あえて否定的に話すなら、「人類」を「補完」する「計画」という、あまりにも雄大な構想を思わせるジャーゴンは、結局はただ思春期の中学生の精神を安定させるためだけの洗脳技術でしかなかったということもできる。
     その意味で、この最終回について当時、賛否両論の激論が巻き起こったことは必然であっただろう。
     そして、その後、この賛否両論を受けて、ふたつの劇場映画、『シト新生』と『Air/まごころを、君に』が制作される。それに対し、「今度こそ」と考えたファンはやはり少なくなかったであろう。「今度こそすべての謎が解き明かされ、人類補完計画の全貌も判明し、人類全体の問題を巡るSF的クライマックスを迎えるだろう」と。
     しかし、結果を語るなら、その『旧劇』でも、数多くの謎は謎として残り、物語が「正しいロボットアニメ」的なカタルシスを迎えることはなかった。何といっても、この作品でシンジは最後まで「エヴァに乗る」ことを拒絶するのである(正確には、乗るには乗ったが、それを使って颯爽と戦うことはしない)。
     これはロボットアニメの長い歴史上、あるいは「少年向けエンターテインメント」のさらに長い歴史のなかでも、おそらくは初めての展開だったと思われる。シンジはだれかのために戦うことそのものを放棄したのだ。
     そして、「人類補完計画」を象徴する赤い海から抜け出したシンジがたどり着いたところ、それはヒロインのひとりである惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」というひと言に象徴される「他者という名の地獄」であった。
     当時、これはやはりひとつの「事件」だった。かくいうぼく自身、この『旧劇』を見終えたあとは、あまりのことに呆然として劇場を出て来たことを記憶している。それは何という「狂気」に満ちた映像と物語であったことだろう!
     たしかに、それまでにも陰鬱な展開と激烈な内容で知られたテレビアニメはあった。たとえば『無敵超人ザンボット3』。あるいは、『伝説巨神イデオン』。さもなければ、『機動戦士Ζガンダム』。
     そういった、いまでは「黒富野」作として知られる作品群は、『エヴァ』の前史を成し、『エヴァ』を予告するものであったということができる。『エヴァ』は決して孤立した異端の作品ではない。長い「少年向けヒーローエンターテインメント」の歴史のなかに正しく位置付けられるべき一作なのである。
     だが、それにしても『旧劇』のインパクトはただならないものがあった。これ以降、『旧劇』はその「オタク批判」として受け取られたメッセージとともに伝説的に語られることとなる。
     そして、それからしばらくの時を経て、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が始まる。総監督・庵野秀明は、今度はこのように語った。

    最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
    当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
    誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。

     「誰もが楽しめるエンターテインメント映像」。じっさい、新劇場版四部作の前半の『序』と『破』はその宣言にふさわしい作品であった。この時点では、いったん終わった作品を再開させることそのものに対する賛否はあったかもしれないが、それでも「賛」のほうが圧倒的に優勢だったといえるだろう。
     だが、続く『Q』で事態は一変する。そこで描出されたもの、それは一挙に14年もの時を飛び越えさせられ、変わり果てた世界に困惑する碇シンジと、かれに辛くあたる(ように見える)人々だった。
     そこでシンジは世界を再生させようとして失敗し、親友・渚カヲルを喪って再び絶望の底に突き落とされる。ここにおいて、『新劇場版』はまたも『旧劇』と同じ隘路に迷い込んだ、かと見えた。
     このとき、『Q』を『旧劇』を再演する物語として見た人は多かっただろう。『Q』とは即ち、『旧』の意味であり、『破』によって進展したかと見えた物語の針を逆転させる作品なのである、と。
     そこにはうつ病に陥った庵野秀明のそのときの信条が露骨に反映されているのだという解釈もまことしやかに語られた。たとえばこのように。

    『破』でシンジが綾波を呼んだ魂の叫びは何の意味も持たないどころか最悪の事態を引き起こし、画面は赤と黒に染め上げられ、床には巨大な頭蓋骨が一面に敷き詰められていたのです。これは誰もが楽しめるエンターテインメントなのだろうか? という疑問は、今も払しょくされてはいません。
     それからしばらく、アニメ系ライターとして活動していた筆者の携帯には友人からの問い合わせが殺到しました。みんな答えを求めていましたが、筆者自身、何も答える術を持っていなかったのです。
     後に庵野監督は『Q』の制作後、ひどいうつ病を患い、自身が設立したアニメ制作スタジオ「カラー」に近寄ることすらできなくなったことを明かしています。確証はありませんが、庵野監督は制作後ではなく、制作中からうつ状態になっており、当時の心理状態が『Q』に投影されてしまった可能性もあります。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/a0ffed64561accb8ab9eb6ba7d2ebaffc12ad121

     しかし、少なくとも『シン』を観終えたいまになって振り返ってみるなら、『Q』は決して「作者」のそのときの気分によって野放図に創られた作品ではなく、むしろ台詞のひと言ひと言に至るまでが緻密に計算された映画であったことが判然とする。
     あるいは、シンジが叩き落とされた恐怖と絶望は『旧劇』と同種のものであるかもしれない。しかし、シンジを取り囲む人々が決定的に違う。
     これも『シン』まで見てみるとあまりにも自明のことにも思えるが、『Q』で描かれたものは『エヴァ』テレビシリーズでくり返し描写されたような、あまりにも互いの距離が近すぎることに起因し複雑な多重トラウマに根ざした近親憎悪めいたヤマアラシのジレンマ的ディスコミュニケーション「ではない」のである。
     おそらく、『新劇場版』を解釈しようとするとき、最も解釈が分かれるのはこの点であると思われる。『Q』を『旧劇』と同種の「鬱展開」と見てしまったなら、『新劇場版』全体が理解できなくなる。
     そこで描かれたものがきわめて陰鬱かつ陰惨な物語であったたしかだが、それにもかかわらず、ぼくたちはそこに「希望」を見るべきだったのだ。じっさい、『Q』の公開当時、ぼくはこのような文章を書いている。

     『Q』はシンジとカヲルの共依存的なクローズドな関係性というドリームを見せ、その破綻まで描いているという意味でたしかに「鬱展開」の物語ではあります。ある意味ではたしかにそれは旧作の「鬱展開」をもう一度くり返しているといえないこともない。
     しかし、それでいて作品全体は旧作とは決定的に違っている。なぜか。それは世界そのものがオープンな方向に舵を切っているからです。世界はもはや共依存の地獄に閉ざされているわけではなく、群像劇の方向へと開放されているのです。
     たしかにシンジとカヲルの関係性の破綻というそのイベントだけを見れば、そこにあるのは昔なつかしい狂い歪んだ人間関係なのだけれど、しかし、今回は「それではない」「その方向性は間違えている」ということははっきりと示されている。
     そして「より正しい」方向への「道」も示されている。それがシンジとアスカ、レイ(のクローン?)が歩み出すラストシーンです。ここで重要なのは、そこにあるものが「ふたり」の閉ざされた関係ではなく、「三人」という開かれた関係であることです。
     「ふたり」ではたがいをひたすらに見つめ合う歪んだ関係が生じえますが、「三人」はそれじたい小さな社会です。そこではシンジとカヲルという「ふたり」の関係のオルタナティヴとしての「三人」がここでは明確に志向されている、とペトロニウスさんやLDさんは読んでいるようです。
     したがって『Q』はいかに凄愴であっても、世界が滅びかけていても、基本的には明るい希望の物語なのです。だからこそ『Q』に対しては「物足りない」「いままでの『エヴァ』のような狂気が感じ取れない」といった声が集まりもしました。
     それでは「『エヴァンゲリオン』の狂気」とは何か? それは結局、関係性の歪みに起因する果てしない歪んだ展開の連鎖に集約されるものだったと思います。つまり、どこまで行っても開放されることなく、果てしなく暗黒の共依存に閉ざされた世界。どんなに努力しても健全な関係を築くことができず、大人として成熟していくこともできないアダルトチルドレンの箱庭。それがつまり『エヴァ』の「狂気」であったのでしょう。
     今回、「希望」を志向し、「王道の娯楽作品。エンターテインメント」へと向かっている『新劇場版』が、そうした「狂気」を失くしたように見えることはむしろ自然なことです。ある意味では「狂気」を克服しつつあるといってもいい。
     そこにあるものは、もはやひたすらに狂気と暗黒に淫する物語ではありません。もちろん、そうかといって急速に楽観的な空気に変わるはずもなく、暗黒と絶望はそこかしこにあるのだけれど、しかし、もはやそれに捕らわれて足を止めはしない、それが『新劇場版』なのです。
     旧作のような暗黒と狂気の物語に対して、明暗の物語とでもいばいいでしょうか。光と闇、希望と絶望、善意と悪意とが、縄のように分かちがたく編みこまれた物語世界。たとえば『ベルセルク』の「蝕」以降の物語にも似ているかもしれません。
     『ベルセルク』も、その暗黒と狂気がクライマックスに達する「蝕」のエピソードで、「抜けた」印象があります。それ以降の『ベルセルク』は、むろん甘い感傷にひたることを許さない厳しい展開ではあるにせよ、ひたすらにダークなだけではなくなりました。
     恐ろしい暗黒の展開を通して「しかし、そうはいっても世界は暗黒ばかりではない」「悪意と絶望だけでできているわけではない」という「悟り」にいたったようにも思えます。一方で『軍鶏』のようにいつまでも暗黒の展開ばかりが続き、その先が見えない物語もありますが、しかし基本的にはぼくは暗黒を抜けて「その先」へと至った物語が好きです。
     つまり、世界には二面性があり、そのいずれかに目を取られることはほんとうではないということです。世界は闇だけでできているわけではなく、もちろん光だけでできているわけでもない。悪夢のように残酷な一面があったかと思うと、限りなく甘い一面もある。それが世界。
     その真実を悟ったならば、もはや「他者」は恐怖ばかりを喚起する存在ではなく、喜びを生み出す存在ともなりえます。カヲルくんのように100%すべてを受けいれてくれるわけでもないけれど、そうかといって逆に100%拒絶されるわけでもない、自分の態度しだいで白とも黒とも見えてくるほんとうの意味での「他者」がそこに出現するのです。
     その後に出てくるものは「健全な等身大の人間関係の構築」というテーマでしょう。ようするに「友達をつくる」ということ。そのためには、自分から「最初の一歩」を踏み出す必要があります。
     この「一歩」がいちばんむずかしく、勇気がいることはたしかですが、しかし、その「一歩」さえ踏み出したなら、その先には善悪明暗いり混じる豊穣な世界が広がっています。『魔法先生ネギま!』で最後の最後に語られていたように「わずかな勇気が本当の魔法」なのです。
     少しだけ勇気を出して「最初の一歩」さえ踏み出せば、あとは転がるようにして展開が変わっていくこともありえる。それは『エヴァンゲリオン』旧作のような暗黒と絶望と狂気の展開に魅力を感じるひとにとってみれば、いかにも甘ったるい結論であるように見えるかもしれません。
     しかし、世界は一面ではたしかに甘いのです。決してひたすらに「気持ち悪い」と拒否を伝えてくるだけではない。それが、それこそがぼくたちの「希望」。巨大地震が起こっても、原子力発電所が爆発しても、なお連綿と続いてゆくぼくたちの日常を輝かせる希望です。
     続く『シン』は積極的にその希望を語る物語になるかもしれません。何も絶望する必要などない。世界は終わりなどしない。物語はいつまでも続いてゆく。ぼくもそう思い、そう信じ、次なる作品を待とうと思います。
     「絶望」から「希望」へ。「狂気」から「解放」へ。時代は劇的に変わっていく。次回作を楽しみにしましょう。それはきっと、ぼくたちが見たいと望んでいるものを見せてくれるはずなのですから。
    https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar21409

     『シン』を観たいま、この見方はまずは正しかったといって良いだろうと感じる。
     『シン』は『Q』と裏表を成す物語だ。『Q』でシンジを追い詰めた言葉、態度は再解釈され、その真意が洗い出される。『Q』ではシンジを徹底的に追い詰めていった人間関係は今度は底知れない優しさでかれを快復させる。
     そして、かつて、テレビシリーズで「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」と叫んだシンジはここでなぜ皆が自分にこれほど優しくしてくれるのかと当惑するのだ。その答えは「あなたが好きだから」。
     凄惨なうえにも凄惨だったはずの物語は、ここに至ってきわめて穏やかな、優しい顔を見せる。しかし、シンジを取り囲む状況の酷烈さは変わっていない。
     シンジ自身がひき起こした「ニア・サードインパクト」を経て、人類の生存圏はごく狭く限られたものへと変わり果てている。その生活状況の一端を垣間見せるのが、シンジが放浪の果てにたどり着く、いわゆる「第三村」の描写である。
     ある種の農村社会とも限界集落とも解釈できるその「第三村」を、シンジやアスカとともに訪れた「黒綾波」とも呼ばれる「初期ロットの綾波シリーズ・クローン」は、そこで農作業を通して社会生活を学び、ほんの少しだけ人間的な成長を遂げる。
     おそらく、この展開に鼻白む層も大勢いるはずだ。「何だ、結局は現代のデジタルな生活に馴染んだオタクに素朴な農村生活へ帰れ、とでもいうのか」。
     そうではない。そもそも、一見すると素朴なこの農村の生活は汎人類規模でネルフ撲滅を目ざしていると思われる組織「ヴィレ」の超高度な科学技術の支えなしにはありえないものである。
     ここでは「都市/田舎」、「科学/農耕」というシンプルな二項対立的図式では世界を読み解けない。
     また、重要なのは、レイが村の生活に馴染んでいく一方で、アスカはその「労働」にまったく参加せず、シンジはひとり自分の殻に閉じこもりつづけることだ。ここでは、それぞれの個性にもとづく行動がパラレルに、群像劇的に描写されている。
     シンジが「ヒーロー」から追放される前作を経てのこの展開は必然であっただろう。ここにおいて、シンジはただひとり世界を救う英雄ではなく、無数のキャラクターのひとりとなっている。
     その後、紆余曲折を経てシンジはまたも「エヴァに乗る」。さて、このとき、かれを快復させ再起させたものは何だろう? それは結局、「適切な距離感の人間関係」と「ひとりで考え抜く時間」であったというしかない。
     「第三村」でシンジと再会したかれの旧友トウジとケンスケは、シンジを追い詰めることをせず、また見捨てて放置することもしない。徹底して「適切な距離感」を保ちつつかれを見守るのである。
     かれらはまたシンジに対し「エヴァに乗れ」とも「エヴァに乗るな」とも命じない。ただ、シンジがいつかまた立ち上がることを信じ、見守るだけである。トウジやケンスケは口々にいう。「ニアサーも悪いことばかりじゃなかった」。「友達だろ?」。
     こういった切ない友情によってふたたび絶望から立ち上がったシンジは、エヴァに乗り、父ゲンドウとの決戦に臨む。十数年ぶりの再会を遂げたマリからアスカの魂を救出することを求められたシンジが返すひと言は感動的である。「やってみるよ」。
     きわめて穏やかな、あるいは小さな決意。それは世界を救う英雄の宣言というより、もっとあたりまえの少年の素顔から出た言葉のようだ。
     思えば、『エヴァ』に前後するロボットアニメ、ヒーローアニメはひたすら主人公を追い詰め、追い込んで来た。それはたとえば『Ζガンダム』においては、主人公を発狂させるところまで至っているのだ。
     『エヴァ』とは、そのような歴史のなかで、それでもなお「エヴァ(ロボット)に乗る」べき理由とは何か、それを延々と探し求める物語であったということもできるであろう。
     そのため、『シン』がついにたどり着いた結論は、いかにも素朴すぎるものに思われるかもしれない。シンジはただ「自分がやれることをやる」ために「エヴァに乗る」のである。
     ここにおいては、もはや本質的に「エヴァに乗るかどうか」は問題ではなくなっている。かれはただ「自分の起こしたことに決着をつける」、そのための方法としてエヴァを使っているだけであって、エヴァ初号機が必要なくなったらすぐにそこから降りて、ゲンドウとの対話を始める。それはまさに成熟した「大人」の態度だ。
     「大人」。『シン・エヴァ』で(特にマリやゲンドウの口から)くり返されるこの言葉が『シン・エヴァ』を象徴するものであることは間違いない。碇シンジは幾多の苦難と絶望を通してついに大人になった。成熟を遂げたのだ。
     思えば『エヴァ』とは「成熟が困難な時代に成熟を目ざす物語」であった。それは『エヴァ』の「作者」である庵野秀明の自身の未成熟さに対する煩悶が投影されたストーリーであるともいわれる。
     おそらくその通りなのかもしれない。しかし、『エヴァ』がただそれだけの作品であったのならこれほどまでに広く評価され、熱狂的なファンを生み出したはずはない。
     『エヴァ』が熱く厚く支持を得た背景、それは、いつまで経っても「男らしく」なれない、「成長」も「成熟」もできない碇シンジに「シンクロ」させる「時代の空気」があったからに他ならないであろう。
     したがって、『エヴァ』はたとえどれほど「私小説」的であるとしても、きわめて普遍性の高い「エンターテインメント」でありえたのである。その『エヴァ』がここに来て「大人になった碇シンジ」を描き出したことに対する抵抗は根強いものと思われる。
     「おれたちはそう都合よく大人になんてなれないよ!」という悲鳴が聴こえてくるようだ。「おれたちを見捨てて勝手に大人になんてなるな!」と。
     インターネットには例によって例のごとくそういった呪詛とも受け取れる「感想」や「批評」が散見される。そういった記事がはたしてどこまで「感想」ないし「批評」と呼べるレベルに到達しているかはともかく、少なくともそれらは正直な意見ではあるだろう。
     また、かれらが『エヴァ』に求めた「狂気」が今回の『シン・エヴァ』に欠けていたことも事実だろう。たしかに今回の『エヴァ』は「何が何だかよくわからないがとにかくすごい!」といいたくなるような作品ではない。
     『シン・エヴァ』は間違いなく複雑難解をもって知られる『エヴァ』の歴史上最も丁寧でわかりやすい作品である。その情報量こそ膨大だが、ほとんどすべての大きな謎がこの上なく丁寧にひも解かれ、観客はある種の「憑きもの落とし」を受けて劇場を出ることになる。
     いかにも『旧劇』を思わせる楽屋落ち、あるいはメタフィクション的な前衛手法すらも今回は観客を混乱に突き落とさない。人類と生命を巡るスーパーマクロなドラマは親子のミクロな葛藤に終息し、穏やかな対話を経て決着する。
     それは、何という穏やかな、優しい、しみじみと心に染み入るような展開であることだろう。ここには『エヴァ』の持ち味であった「狂気」も、『新劇場版』をつらぬいていた「殺気」もない。
     あえていうなら、そこにあるものは「永遠に理解しあえず、溶け合うこともできない他者への思いやり」という、あまりにあたりまえの、自然な人間的心情である。
     はたしてそこには、庵野秀明自身の成長や成熟が投影されているのだろうか。そうかもしれない。庵野秀明は『エヴァ』シリーズや『シン・ゴジラ』を経て、いまや日本を代表する映画監督であるにもならず、一企業の経営者として、また、役者として、声優としても大きなキャリアを持つ、マルチタレントな人物として立派な「大人」になっている。
     その奇人変人らしさはあいかわらずなのかもしれないが、少なくとも同輩であったガイナックスの同僚たちのような醜態は見せない。そしてまた、経営者として、経済人としての庵野のクレバーなインテリジェンスはいっそ意外なほどのものである。
    https://togetter.com/li/1680058
     「成熟が困難な時代に成熟を目ざす」。庵野の、そして『エヴァ』のその挑戦は徹底して真摯かつ誠実なものであった。
     あえて個人名を出しはしないが、『エヴァ』に関する批評の歴史においては、つねに庵野や『エヴァ』の「幼稚さ」を皮肉り、「大人」である自分自身を誇ってみせた人物がたくさんいたものだ。
     しかし、いまになって思う。はたしてそういった人物たちはどれほど「大人」になれただろうか。あるいは庵野は「精神年齢14歳の子供」に過ぎなかったかもしれないが、かれはそこから逃げなかったのではないか。
     だからこそ、かれは最終的にひとりの「大人」として、自分が生み出した作品に決着をつけることができたのだ。
     ぼくは『シン・エヴァ』という巨大なプロジェクトの成果を、既存のメディアに露出した情報を適当にパッチワークして作り上げたイマジナリィな庵野のイメージ(つまりは「脳内庵野秀明」)に集約する「私感想」的解釈につよい違和感を抱くものであるが、一方で碇シンジや碇ゲンドウの「未熟」と「成熟」の描写が庵野の内心が投影されたものであることを完全に否定することもできない。
     おそらく、庵野自身が心理的な成長を遂げたことと、『シン・エヴァ』の内容は不可分なのかもしれない。
     『シン・エヴァ』には鬼面人を驚かすサプライズやインパクトは薄い。正確には、それらは過去の『旧劇』のカタストロフィのイメージの再演として描き出される。
     「こんなものはしょせん二番煎じに過ぎない」と失望してみせることもできるが、ぼくはそうは思わない。ここで重要なのは、テレビシリーズから『旧劇』、『新劇場版』を通して『シン・エヴァ』に至るテーマの一貫性である。
     『エヴァ』とはひっきょう、「大人になろうとして、なれずにもがく」物語であった。その結末が「いつのまにか大人になっていること」であったことは必然であろう。
     ここであえてさらに問題を提示してみせるなら、その「成熟が困難な時代」そのものがすでに過去となっている事実を指摘することができる。現代とは「成熟できない人間は見捨てられて死んでいく時代」であり、『エヴァ』のテーマはあまりにも古くさいということも可能だろう。
     だが、そうだろうか。『シン・エヴァ』においては、いつまでもなかなか成熟できないシンジを、トウジは、ケンスケは、アスカは、レイは、マリは、決して見捨てない。世界がこれほど過酷さを増しても、なお、かれらはシンジを見守りつづける。
     その理由はたったひとつ、「あなたが好きだから」。
     ここにはいままでの「前期/後期新世界系」作品、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』や『チェンソーマン』にはない親しみと優しさがあるように思う(正確にはそれらの作品にも紛れもなく「優しさ」はあるが、『シン・エヴァ』のそれはもっとプライベートな親密さに根ざしているようだ)。
     その意味で『シン・エヴァ』は圧倒的な未見性で視聴者を置き去りにする作品ではないが、ほんとうにしみじみと優しく心を撫ぜて来る映画である。
     この作品を置きみやげに、庵野やスタッフは『エヴァ』と別れ、「次」へ行くだろう。そして、ぼくたちもまた、『エヴァ』に別れを告げるときが来たようだ。
     「こんなものは庵野の私小説でしかない!」と憤懣をぶつけることは自由だが、ぼくにはその態度はどうしようもなく子供っぽく思える。ついに人類が「補完」されなかった以上、わたし(あなた)は庵野秀明ではなく、庵野秀明はわたし(あなた)ではない。
     「わたしたち」のあいだには無限の空漠が存在し、それを乗り越える方法は存在しない。わたしたちは永遠に孤独だ。しかし、まさにそうだからこそ、わたしたちは「ほのかなぬくもり」を求めて他者と触れあう。あいてを傷つけ過ぎないように、どこまでも優しく。
     『シン・エヴァ』は、いまや大人の余裕と自信を感じさせる、映画監督・庵野秀明とスタジオカラーの最高傑作である。この映画の大ヒットを、心より祈る。
     最後に、庵野秀明監督、スタッフの皆さん、素晴らしい作品をほんとうにありがとうございました。『シン・ウルトラマン』、そしてそのまた次の、次の次の作品を期待しながら待つことにします。いつまでもあざやかな夢を見せてください。
     すべてのチルドレンに、ありがとう。そして、さようなら。 
  • 『転スラ』の人気の秘密は「面白さ」を「最小単位」で並列提供する「マルチ・カタルシス・システム」にあり!

    2021-03-05 07:00  
    50pt
     ペトロニウスさんがYouTubeで引用していた記事が面白い。例によっていくらか長くなりますが、引用します。

    荒木:僕らの世代はなんだかんだで「頑張れば報われる」という右肩上がりを前提で生きてきた。会社に入って、新人時代は給料低くても地道な努力をすれば、いずれ偉くなって処遇もよくなるぞ。そんな「修行モデル」で生きてきたんです。つまり、今はつらくてもいずれペイする、という長期的な採算で帳尻を合わせる前提で頑張ってきた人は多いはずなんです。ところが、バブル崩壊後の不況や終身雇用の崩壊でじわじわとその前提が崩れていき、このコロナでとどめを刺されてしまった。この劇的な前提の転換を冷静に受け止めないといけないですし、子どもたちはもっと純粋にこの前提をインストールしていることを認識しないといけないと思っています。
    すると、子どもたちにかけるべき言葉も変えなければいけないということでしょうか。
    荒木:そう思います。修行モデルが通用しなくなった世界では、何が大事になるのか。それは、「今この瞬間が楽しいか」という一点ではないでしょうか。例えば、野球に打ち込む子どもに「毎日素振りを100回やりなさい。頑張れば3年後の大会でヒットを打てるはずだから」というロジックはもう響かないと思ったほうがいい。「不確定の未来に向けての努力」は、彼らのストーリーには通用しないんです。素振りの意味を言い換えるならば、「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」といった感じでしょうか。
    つまり、努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている。
    荒木:おっしゃるとおりです。すると、これからより大事になってくるのは、その都度その場で得られるリターンを自分で発見する能力です。昭和の大流行ドラマ『おしん』のような、耐え忍んで、耐え忍んで、耐え忍んだ先に……という期待感は、今の子どもたちは持ちづらくなっているでしょう。かつて、体育会系の部活で「体罰」が黙認されていたのも、受ける側の生徒たちが「この痛みの先に最高の結果が待っている」という文脈で許容できたからです。大人だって、会社の上司から理不尽なパワハラを受けても、10年後には「あの時の叱責があったから今の俺がある」と美談に変えられた。そのロジックはもう通用しないのだと自覚しないといけませんね。
    https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00128/00050/

     ペトロニウスさんはこの話を「小説家になろう」の作品群と重ね合わせて語っています。よければ聴いてみてください。
    https://www.youtube.com/watch?v=shffngyNx6A
     ここで語られている「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」。これが、キーワードです。
     「小説家になろう」の作品は、しばしば「努力」が描かれていない、と批判されます。努力もしていないのに成功するなんてリアリティがない、と。
     しかし、現代において「長年にわたって努力を続けた結果、成功する」という「修行モデル」の物語はもはや説得力がないのですね。
     かつては、努力を続けさえすればその果てに「報い」が待っているということが信じられたのでしょう。それは社会全体が「右肩上がり」の成長を遂げていたからです。
     だけど、現代ではその成長がほぼストップしてしまっているから、どんなに努力したところで「報い」を得られる可能性は非常に少ない。そこで、「努力に対する成果の“収支”の確定」が、「極端に短期」でしか認識されなくなったわけです。
     いま努力したらすぐに成果が欲しい。あるいは、そのような成果しか信じられない。それが、現代の若年層のリアルだと思います。
     これに対して、「辛抱が足りない」といった説教をすることはできます。でも、繰り返しますが、そうやって「辛抱」したところで、報われる可能性はほとんどないのが現代社会であるわけです。その種の説教はもはや無効になっているといって良いでしょう。
     そこで、LDさんがいう「面白さの最小単位」の話が出てくる。「面白さの最小単位」とは、つまり、「いかに短いスパンで読者に先を読むインセンティヴを与えることができるか」というテーマです。
     LDさんがいうには、かつて「紙帝国」がメディアを支配していた頃と現代とでは、メディアのあり方そのものが変化してしまっていると。
     たとえば漫画は、「紙帝国」の栄光の象徴であるところの『少年ジャンプ』が最大部数600万部を売り上げていたときには、「ひたすら物語を長大化する」ことが最適戦略だった。なぜなら、ヒット作が出たらそれを延々と長続きさせることが必要だったから
     ところが、ソシャゲやネット小説など、他の多数のエンターテインメントと激しく競合しなければならない現代においては、そのやり方は通用しない。そこで、読者に先を読んでもらうため、「面白さ」を「最小単位」で提供する方法論が起こることになる。
     これは、たとえばTwitter漫画などを見ていると最もわかりやすいことでしょう。そこではわずか4ページで「面白さ」を提供しなければならない。エンターテインメントの表現のあり方そのものがメディアの変遷にともなって根本的に変わってしまっているわけです。
     現代においては、たとえば主人公が延々と「努力」を続け、その結果、大きな「成果」を得るといった「修行モデル」の描写、いい方を変えるなら「面白さの最大単位」を求める方法論は通用しない。
     その理由は、そう、「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」からです。
     それでは、「面白さの最小単位」とは具体的にどのようなものなのか? 色々考えられますが、最も端的なものは「小さな成功体験」でしょう。「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」というそれです。
     いま、「小説家になろう」発のアニメ『無職転生』や『転スラ』で描かれているものは、まさにその積み重ねですね。『無職転生』では、ちょっと努力すると、すぐに成功する。『転スラ』に至っては、ほとんど何も努力することなしにひたすら成功だけが繰り返される。
     もちろんそこには苦難も失敗もあるけれど、この場合、それは本質ではない。これは、「努力なしに栄光なし」という「修行モデル」の考え方すると、単なる甘ったるいファンタジーであるに過ぎません。「なろうは現実逃避だ」という類の批判が生まれることも無理はないといえるでしょう。
     ですが、何度も繰り返しますが、「努力」と「成功(栄光)」をワンセットで考える思考のフレームそのものが、すでに過去のものになってしまっているのです。
     こういった「修行モデル」なり「努力神話」のナラティヴはもう現代においては通用しない、とぼくは考えます。
     『転スラ』は「面白さ」を「最小単位」にまで煮詰めるために、「努力」というパートをほぼカットした。いわば、「フリ」があって「オチ」があるという方法論から「フリ」の部分を切除してしまった。これが、『転スラ』から非常にスマートな印象を受けるその秘密だと思います。
     しかし、「フリ」をカットして「オチ」だけがある、そんな物語が面白いのか? いや、あきらかに面白いのですが、それはなぜ面白いのか? そこがいまひとつうまく言語化できない。
     そこで、他者の言説に目を向けてみましょう。飯田一史さんは、『転スラ』の魅力について、このように語っています。

    作品内容に目を向けてみよう。『転スラ』は何がおもしろいのか?
    用意しているおもしろさの種類が多様なのである。
    キャラのかけあいの楽しさもあるし、複雑な物語展開もあれば、主人公リムルなどの転生者たちがなぜ異世界に召喚されたのかといった「世界の謎」もある。大集団同士が戦略を練って戦いあう「戦記」要素もあるし、コミュニティをいかにして導いていくかという「内政」要素もある。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79230?page=2

     さすがというか、この意見は非常によくわかる。『転スラ』は「おもしろさの種類」が多彩なのです。よくなろう小説は『ドラクエ』をフォーマットにしているといわれますが、『転スラ』はむしろより現代的なゲームに近い。
     ぼくはここでたとえば『ルーンファクトリー』というゲームを思い出します。『ルーンファクトリー』では主人公にはいくつものパラメーター、つまり成長要素が用意されていて、それがいろいろな行為によって少しずつ向上していきます。たとえば、ただ一定歩数を歩いただけでもあるパラメーターが上昇したりする。

     『転スラ』はこれと似ているんじゃないか。最初の段階ではシンプルに主人公のレベルアップが「気持ちよさ」を生んでいるんだけれど、どんどんレベルが上がり、視点が高くなるにつれて、べつの「最小単位の面白さ」が開放されていく。
     たとえば、主人公であるリムルの成長だけじゃなくて、脇役のだれそれの成長といった要素も入ってくるわけです。あるいは、国家の拡大とか内政の充実といった要素も出てくる。
     そして、それぞれの要素で「ちょっとずつ気持ちよくなれる」ようになっている。いわば、マルチ・カタルシス・システム。これが『転スラ』の「面白さ」の根幹にあるものであるように思います。
     なろう小説とはつまり「ビデオゲーム疑似体験小説」であるといって良いと思うのですが、『転スラ』にはロールプレイングゲーム要素もあれば、アドベンチャーゲーム要素もあれば、シミュレーションゲーム要素もある。
     そして、つねにそのどれかの「ゲーム性」が動いていて、「小さな成功体験」が続く、なので読者は飽きずに見つづけることができる。そういうことなのではないか、と。
     そのひとつひとつを取れば、おそらく『転スラ』より優れた作品はあるでしょう。もっとよくできた「成長もの(ロールプレイングゲーム)」もあれば、「内政もの(国政シミュレーションゲーム)」もあるだろうし、「学園もの(教育アドベンチャーゲーム)」もあるに違いない。
     しかし、『転スラ』の特徴は、それらの「面白さ」を細かく細かく打ち出してくるところにある。ひとつひとつの「面白さ」は、あるいはカタルシスは小さいかもしれないのだけれど、それが次を読むインセンティヴを生み、いつのまにか「大きなストーリー」に、つまり「最大単位の面白さ」に到達して大きなカタルシスを得るまでになる。
     ようするに『転スラ』から得られる教訓はこうです。「面白さは最小単位まで分割し並列せよ」。この作品の本質的な魅力は、たしかに「面白さが多様であること」にあるのだけれど、それだけでは言葉足らずかもしれない。 むしろ「多様な面白さが並行していることによって常に「小さな成功体験のカタルシス」が提供される仕組みができていること」にあるというべきではないかと。
     いまでは最初から「最大単位の面白さ」を目指す「修行モデル」のような超長期的な物語スタイルは受け入れられない。しかし、 
  • 「正義」と「寛容」は矛盾し対立する。

    2021-03-04 07:00  
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     きのう、『無職転生』の「低俗の肯定」というテーマに関する記事を書いたわけですが、それからちょっと考え込んでいます。つまり、「低俗を肯定すること」はほんとうに正しいことなのか、と。
     この場合の「低俗の肯定」とは、たとえば性的なだらしなさを許容することを差しています。
     べつだん、性的にだらしないことを「正しいこと」と見なすわけではない、それはダメなことであるには違いないのだけれど、ダメなことをダメなことと認めた上で、その存在を許すこと。それが、現代社会に最も欠けている視点なのではないか、という話でした。
     ぼくは、個人的にこの考え方に強く共感するところがあります。何といっても、現代社会は、というよりインターネットは、あまりにも個人の失敗に厳しすぎる。
     芸能人が何かちょっとセックススキャンダルでも起こした日には、再起不能になるまで叩いて、叩いて、叩く、それがインターネット、あるいはソーシャルメディアのスタイルです。
     そこには一切の容赦はないし、許容もない、「寛容の美徳」など夢のまた夢というしかありません。
     ネットではよく「また××が炎上した」などといいますが、このいい方は誤解を招く余地がある。「炎上事件」はかならずしも「炎上」した本人に責任があるとはかぎらないのです。
     もちろん、そこには何かしらの「火種」があるには違いないけれど、その「火種」が完全に倫理的な悪であるとはいい切れないことも多い。「燃えあがらせる」側が何らかの誤解や誤読にもとづいて一方的に怒り狂っている場合も少なくないのです。
     じっさいのところ、「炎上」という言葉は、「集団での一方的な袋叩き」というほうが遥かに実態に即していると思います。それが「炎上」と呼ばれているのは、結局は「炎上」させる側が責任を負いたくないからに過ぎないでしょう。
     インターネットにはあまりにも「正義」が、いな、「独善」が強すぎる。「自分で勝手に正義の味方だと思い込んだ頭のおかしいネットストーカーたち」が徒党を組んで(ただし、自分の自覚ではたったひとりで)何か問題を起こしたとみなされた個人を攻撃している状態こそが、「炎上」の本質です。
     そして、「炎上」に参加した各人は、その後何が起こっても、たとえば自殺騒動に発展しても、決して責任を取ることはありません。この種の「正義の味方」ほど醜いものはないとぼくは思います。
     いやー、ひどいですね。ここら辺、『推しの子』という漫画の最新三巻を読んでいただくとわかっていただけると思います。面白いですよ。

     さて、そのあまりにも「正義」が過剰すぎるいまのネットに決定的に欠けているのが、 
  • 『無職転生』はほんとうに「低俗を肯定」しているのか?

    2021-03-03 07:00  
    50pt

     アニメ『無職転生』を見ています。すでに各所で話題になっていますが、このアニメ版、非常に出来が良い。おそらく2クール続くと思うのだけれど、原作を適度にアレンジしながらそれでいて原作の本質を非常にうまく取り入れている印象です。
     もともと原作がよくできた話だけに、ここまでうまく映像に置き換えられると素晴らしいクオリティの作品ができあがる。「小説家になろう」原作作品の理想のアニメ化といっても良いのではないでしょうか。
     「なろう小説」のアニメ化としては比較的遅いスタートになったことによって、結果としていままでのアニメ化の知見が蓄積されていたことも大きいのかもしれません。とにかく面白いし、よくできている。未見の方にはぜひ見ていただきたいですね。
     さて、この作品についてTwitterで興味深いツイートがあったので、ちょっと長くなりますが、引用させていただきたいと思います。

    『無職転生』のアニメ版を見て、やっぱこの作品はなろう小説においての金字塔で、同時に異形でもあるなと改めて思ったので、「何が」傑出しているのかちょっと書き起こしてみます。
    『無職』の異様さは、「低俗の肯定」にある。
    後発作品では「意図的にフック・サービスとして描く」か、無意識にマイルドにされている性描写が平然と「ここではそういうもの」として置いてある。
    親は子供がいても二人目作ろうと毎日お盛んだし、貴族は子供の前でもメイドで性処理する。
    とかく作品内のモラルというのは、現代の常識が反映されがちではあるけど、それにしたって性の描写というのは「逃げ」られすぎている。
    本来、中世レベルの文化を描くならそこから逃げられるはずもない。『無職』は当然のように描く。女性の自慰も平然と描く。無料連載だったから越えられたタブーだ。
    ダメな主人公はダメなまま肯定されるわけではない。
    ダメな部分を消して高潔になるわけでもない。
    ダメなりに反省し、善く生きようともがき、結果として「許容される」。
    この「ダメだけど許容する」という視点が昨今のメディア文化に欠けている視点であるように思うのだ。
    ルーデウスは成長する。しかしもと変態中年の精神は変質しない。それでも「報われていい」。
    ここには他者への赦しがある。
    「ダメだから袋叩きにして排斥してやろう」的なヘイトの対極にある。
    俗物の変態に生理的嫌悪感を感じる人もいるだろうが、それでも許されることがこの作品のテーマである。
    ちょっと盛りすぎかもしれないが「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の精神にも通じるのではないだろうか。
    https://twitter.com/kakashiasa/status/1365850988792356866

     これ、どうなんだろうと思うんですよ。LINEでもちょっと話しあったのですが、「低俗」が肯定されているのは男性陣だけで、女性陣に対してはやはり理想が仮託されているのではないか、と。
     たしかに「女性の自慰も平然と描」かれてはいる。しかし、そこで女性の性のセクシュアリティのあり方が十全に「許容」され、「肯定」されているかというと、そんなことはないんじゃないか。
     これ、作品を批判するつもりでいうわけではないから誤解しないでほしいのだけれど、『無職転生』の「低俗の肯定」の描写はやっぱり男性中心的なハーレムものの限度を超えてはいないと思うのです。
     繰り返しますが、超えなければならないとか、そこが男女平等でなければならないというつもりはまったくないんですよ。ただ、客観的に見たとき、女性のほうの「低俗」が男性ほど「許容」されているかというと、どうしても否定的にならざるを得ないのはほんとうのところなのではないか。
     『無職転生』の物語のなかで、主人公ルーデウスの父・パウロは浮気をし、子供を作り、妻と息子を含む家族から「許容」されます。作者もそれを「許容」する描写をしているし、読者もまた「許容」したと思う。
     そして、 
  • 『シン・エヴァ』を見て死ね。

    2021-02-27 16:12  
    50pt

     『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の上映が3月8日に決まったそうですね。おそらく会議に会議を重ね、熟考の上にも熟考を経てこの日に決まったものと思われますが、予想よりだいぶ早い。初夏あたりになるんじゃないかと思っていたので嬉しいです。
     あとはこのままコロナが収まってくれることを望むばかりですが、そうはうまくはいかないかもしれませんね。
     さて、ここでいままでの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を振り返ってみましょう。『序』、『破』、『Q』と三作続いてきたわけですが、この構成はそのまま「起承転結」の「起」、「承」、「転」であるように思えます。
     いままで出ている情報によれば、『シン・エヴァ』が「結」になることは確定的であるようなので、この四作で物語は綺麗に「起承転結」を構成することになるかもしれません。そうなると良いのですが。
     いままでの三作のなかでおそらく最も評価が高いのは『破』のクライマックスあたりでしょうが、最もショッキングであったのは間違いなく『Q』でしょう。
     主人公でありながらヒーローであることを拒絶しつづけてきた碇シンジが、その主人公の座から追放されたとも見ることができる衝撃的な展開の連続は、絶賛とともに激しい拒否反応をも呼びました。
     まあ、いまどきのアニメにあるまじき「鬱展開」が延々と続いているわけで、「こんなのってないよ!」な反応が返ってきたことはむしろ自然にして当然といえるかと思います。
     いくら調教もとい訓練済みの『ヱヴァ』ファンたちといえど、さすがにあの苛烈な展開はそうそう受け入れられないことも無理はないところかと。
     ただ、もちろんそこで物語が終わるわけではないわけで、『シン・エヴァ』ですべての伏線が回収されて綺麗なエンディングを見られたならば、『Q』を否定していた人たちもくるっとてのひらを返すであろうことは予想できることです。アニメオタクなんてそんな人種だ。
     いやまあ、『シン・エヴァ』までじつに10年もかかったために、いままでてのひらを返すチャンスもなかったのですが。
     この10年間で、日本の社会情勢はよりいっそう深刻化し、また、エンターテインメントの世界もだいぶ様変わりしました。ぼくたちが「新世界系」と呼んでいる作品群もすでに古くなり、次の世代の物語が登場して来ているのが現状です。
     『鬼滅の刃』は 
  • 『天気の子』対『鬼滅の刃』。

    2021-01-08 04:16  
    50pt

     昨日は何と暴風のためインターネットが使えなくなり、更新できませんでした。ごめんなさい。
     さて、先日、新海誠監督の『天気の子』が初めてテレビ放映されました。この機会に初めて作品に触れた人も少なくなかっただろうと思うのですが、衝撃的なクライマックスがどのように受け止められたのか気になるところです。
     いまさらネタバレに配慮する必要も感じないので語ってしまいますが、この作品の終盤で、ヒロインである「天気の子」を失った東京は水没してしまいます。
     そしてその水に沈んだ都市のなかでも人々は健気に懸命に暮らしているのでした、というオチなのですが、どう考えても何万人か何十万人か、膨大な数の人が死んでいるんですよね。
     これは一般に「世界」か「ヒロイン」か、二者択一の状況を突きつけられて、どちらを選べば良いのかわからないというセカイ系の問題軸に対し、「それでもヒロインを選ぶ」というアンサーを示したものと見られています。
     劇場で見たときはあまりにあまりの展開に呆然としたもので、はたしてこの結末をどう受け入れれば良いのか、いまでも悩むところです。
     たしかに、水没した都市のなかで人々は頑張って生きのびている。しかし、それはいってしまえば「たまたまそうだった」というだけのことに過ぎず、可能性としては文字通り都市がひとつ死滅してしまった可能性もあったわけです。
     もっと云うなら、人類が滅亡したかもしれなかったでしょう。それでも、なお、「ヒロインを選ぶ」なら、それはたしかに意味がある。しかし、ほんとうにそうだったのか。ぼくはいまでも思い迷う。
     ここでぼくが思い出すのはディズニー映画『アナと雪の女王』です。この作品でも、アナは姉エルサに対し無償の愛を示し、そのことによって彼女をも国家をも救うことになるのですが、ぼくにはそこで示された「絶対の愛情」がいかにも無根拠なものに思われてしかたなかった。
     ようするにアナは王族であるにもかかわらず何も考えていないからこそ、その国でささやかな人生を生きつづける無辜の人々について思いを馳せていないからこそ、無邪気に「エルサを選ぶ」ことができたに過ぎなかったのではないか。そう思われてならない。
     もちろん、「ヒロインか、世界か」というとき「世界」を構成するひとりひとりの市井の人々の人生にまで思い馳せることは人間には不可能で、だからこそ目の前のひとりの少女を救うことを選ばざるを得ない、という事情はあるかもしれません。
     「世界よりヒロインを選ぶ」と宣言するとき、「そこで犠牲になる「世界」の重さを、ほんとうに十分に想像したか」とぼくは考えてしまうわけですが、そもそも「十分に想像する」ことなどありえないのであって、人は限定された想像力のなかで決断していかなければならないものなのだということです。
     しかし、『天気の子』はともかく、『アナと雪の女王』の「めでたしめでたし」なハッピーエンドを見ていると、どうにも釈然としないものが残ります。
     悪く取るなら、そこにあるものは、ようは自分に関係のない人々のことは知ったことではない、自分にとって好ましい人間だけ生きのこれば良いというエゴイズムであるとも云えるからです。
     一方でその問いをまえに決然と「世界」を選び取ることを描く作品も存在します。他ならない『鬼滅の刃』です。

     『鬼滅の刃』では、 
  • おばあちゃんはずるいだろ! 『STAND BY ME ドラえもん2』は日本のCGアニメ最高峰の秀作。

    2020-11-20 18:26  
    50pt
     映画『STAND BY ME ドラえもん2』を初日で観て来ました。
     50周年を迎えた『ドラえもん』の世界をCG(コンピューター・グラフィックス)でよみがえらせたアニメーション映画ですが、あいかわらずCGの出来は素晴らしく、子供ののび太たちが生きる現在の世界(しかし、その描写はほとんど遠い過去としか思えない)、大人ののび太が暮らす未来の世界(現在から見てたった15年後とは思えないハイテク・シティ)の双方をじつに繊細に描き出しています。日本のCG技術もここまで来たんだなあ、と思えるくらい美しい。
     今回、共同監督を務めた八木竜一さんと山崎貴さんは随分と昔からCG映画を作って来たわけですが、ここに来て文句なしのクオリティに達しているように思います。
     「どら泣き、再び」とかそういうコピーで先入観を抱いている人もいるだろうけれど、ふつうに良い映画なのでぜひ映画館へ足を運んでほしいですね。
     突