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  • 『新世紀エヴァンゲリオン』の狂気とは何だったのか。

    2014-10-29 11:27  
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     おそらくご存知のように、ぼくは物語が好きで、ずっと追いかけ続けている。その思考の軌跡はそのままこのブログに残されているわけだが、定期的にまとめて提示しなければ何を語っているのかだれにも理解できなくなることだろう。
     そこで、今回の記事では、いままでの思索をあらためて振り返り、過去ログの墓場に埋ずもれた論考を再び可視化するとともに、新たな一歩を踏み出すことを目指したい。
     さて、ぼく(たち)の思考はいま、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』といった作品が代表する「新世界の物語」にたどり着いている。
     「新世界の物語」とは、「いつ何が起こるかわからない過酷な現実」をそのまま物語化した作品群を指している。
     『進撃の巨人』の、「人が生きたまま巨人に喰われる」というゴヤ的にショッキングな描写が直接に表しているように、それは一切のヒューマニズム的価値が通用しない世界の物語である。
     日本では少年漫画が代表しているような通常のエンターテインメント作品では、通常、物語は「階段状」に展開してゆく。序盤から中盤へ、そして終盤へ、順を追うほどに敵は強くなり、試練は過酷となる。それが一般のエンターテインメントの描写であるわけだ。
     むろん、エンターテインメントの作法として、そのつど、「とても勝てそうにない敵」、「まるで乗り越えられそうにない試練」を用意しなければサスペンスが機能せず、読者の注目を集めることはできない。
     しかし、それでもなお、それらは最終的には超克されていくのであって、その意味でこれらの作品には畢竟、主人公の成長を促す「階段」が用意されているともいえる。
     この『ドラゴンクエスト』的に美しい予定調和展開は、特に『少年ジャンプ』でくり返し用いられ、膨大な読者を熱狂させた。
     とはいえ、それはフィクションの方法論として底知れない魅力を放っているものの、一面でリアリスティックとはいいがたいこともたしかである。
     現実ではもっと不条理なことが起こりえる。その人物の内面的/能力的な成長を待つことなしに最大の試練が襲いかかってくることもありえるのだ。
     その意味で、『少年ジャンプ』的な「階段状の物語」とは、クリフハンガーが連続する見せかけのサスペンスとはうらはらに、真の不条理が慎重に排除された予定調和の宇宙であるとひとまずはいうことができるだろう。
     ところが、「新世界の物語」においてはその不条理は前景化する。物語序盤において主人公であるエレンがあっさり殺害されるかと見せた『進撃の巨人』の描写がきわめて秀抜であったことは、既に多くの論者が書いている通りである。
     これはつまり「その世界の限りない不条理さ」をそのままに見せた演出であったわけだ。
     しかし、ただこういった「身も蓋もない現実」に登場人物を放り出すだけでは、物語はその猟奇描写で一部の残酷趣味的な読者を満足させるに留まり、広範な支持を集めることはできないだろう。
     そこで用意されるのが「壁」である。これはつまり『ドラゴンクエスト』的な「階段状の物語」世界と、真の意味で過酷な(ゲームバランスが調整されていない、とでもいえばいいか)「新世界」を分断する物語装置である。
     この「壁」が用意されることによって、物語は「新世界=身も蓋もない現実」と適切な距離を保ちながら展開してゆくことが可能となる。
     そして、この「新世界」的な「不条理な苛酷さ」は、虚淵玄脚本で知られる『魔法少女まどか☆マギカ』においても見ることができる。
     しばしば「鬱アニメ」と称されるそのダークな内容の骨子は、「ごく平凡な少女が突然、命がけの契約を結ばされ、戦場に放り出されて死んでいく」点にある。ここでは「契約」の内容をよく吟味せずに契約を結んでしまうたぐいの未熟者はまず生き残れない。
     少女たちの生きる日常世界そのものは決して「新世界」ではないだろうが、無邪気を装って彼女たちに死の契約を奨めるキュゥべえは「新世界から日常世界への侵入者」と見ることができるだろう。
     ここにおいて「壁」は存在せず、「新世界」と日常世界は地続きで、したがって少女たちの物語は決して階段状に展開しないわけだ。
     しかし、それではただ「新世界」的な「不条理な苛酷さ」を丹念に描けばそれで『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような傑作が生まれるのだろうか。換言するなら、『進撃の巨人』なり『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とは、その「鬱描写」にこそ存在するのか。
     しかし、思考を進めていくと、どうやらそうではないらしい、ということになる。
     そもそも「身も蓋もない現実」をただそのままに描くことは、特に作劇的工夫を必要としない、ごく容易な作業である。現実世界にはありふれている現実なのだから、ただそれを物語世界に移植すれば良い。
     じっさい、商業エンターテインメントならざる同人漫画などでは、そういった展開の物語を頻繁に見いだすことが可能だろう。
     しかし、当然ながらただそれだけでは一本の悪趣味な「鬱作品」を生み出すに過ぎず、せいぜいが一部にカルト的人気を誇る程度の作品に終わる。
     ここで発想の転換が必要である。現代(テン年代)において必要とされているものは、不条理に過酷な「新世界」そのものではなく、「その新世界のなかでいかに生き抜くか」、その実践的な描写であると考えるべきなのだ。
     「新世界」そのものはあくまで背景であって、主眼はあくまでもその新世界での主人公たちの行動にあるということ。この点を見誤ると、単に露悪趣味的な「鬱作品」しか出来上がらないだろう。
     この「新世界の物語」(より正確に語るなら「新世界と壁と階段状世界の物語」)は90年代の内的思索モード、ゼロ年代の決断主義(あるいは決断幻想)を経て物語がたどり着いた時代の最新モードである、とひとまず述べておこう。
     少なくとも豊饒を究めるテン年代サブカルチャーシーンを切り取る視点のひとつとして、「新世界の物語」というタームは機能するだろう。
     しかし、「新世界の物語」風のアンチ・ヒューマニズム的現実描写を行いながら、それでも「新世界の物語」とは呼びがたい作品も存在する。久慈進之介『PACT』のように。
     『PACT』は第一話にしてヒロインにあたる少女を死亡させてしまっている点などを見てもわかる通り、表面的には新世界的な世界観で貫かれているように見える作品である。
     また、そこには「壁」はなく、したがって物語は一貫して過酷である。しかし、そうであるにもかかわらず、『PACT』においては登場人物が奇妙なまでに感傷的で、「個」の権利を叫びつづける。
     つまり、世界観は新世界であるにもかかわらず、登場人物たちは階段状世界ないしより手厚く保護された世界の描写なのだ。これはいったいどういうことなのか?
     そう、『PACT』は一見して「新世界の物語」と見えるものの、似て非なるものを考えるべきなのだ。ここで思い出されるのが、既に風化しつつある「セカイ系」というジャンルである。
     『PACT』の描写は「新世界の物語」というよりセカイ系的なのではないか、と考えることができる――と、ここまでが「いままでのおさらい」。
     となると、次の作業は「セカイ系」とはどのような物語だったのか、その再考ということになるだろう。
     セカイ系とは 
  • 全9巻を140円で買える超絶最高傑作漫画を教えるよ。

    2014-10-27 17:23  
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     城平京&木村有里『ヴァンパイア十字界』全巻、ただいま読み終わりました。これが! これがね! もう、何というか、素晴らしくも凄まじいウルトラ傑作だったんですよ。
     ただ単に「いやー、良い出来だね」、「とても良く描けているよね」という作品は数あるながら、読み手の魂を抉るかのような本物の最高傑作はまず、めったにあるものではない。
     いや、それだけならあるのかもしれないが、そういう作品が正しくぼくのところに届き、この心臓を響かせるという「体験」は、どれだけ繊細にレーダーを張っていても、まず1年に1回あるかないか。ぼくの全人生でもおそらくはそうそうあるものではありません。
     しかし、いま、この奇跡の物語の全貌を読み終えたいま、悲劇の王ローズレッド・ストラウスの人生のありようにさめざめと泣かずにはいられません。
     ペトロニウスさんが既に書いていますが、何という気高さであり、崇高さであり、そして何と美しい生涯なのでしょうか。
     「うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください。」ではありませんが、あまりにも偉大なヴァンパイア最後の王に、花を贈りたいような気持ちです。
     しかし、これは――何をいってもネタバレになってしまうなあ。何をいってもネタバレになる、ということですらネタバレになってしまう。あまりにも端正に組まれた秀抜なシナリオは、ちょっと簡単に語り尽くせるものではありません。
     いずれ語る機会もあると思うのですが、いまはとにかく何もいいたくない。そこで、その背景となっている、ペトロニウスさんがいうところの「ヒーローものの系譜」についてちょっと語っておきたいと思います。
     何か最近になってようやくここらへんのことについて自分なりの言葉で整理できるようになったと思うんですよね。あらためて腑に落ちたというか。
     それにしても、いつものことですが、ぼくが書こうとしていることをわかってくれる人が、果たしてこの文章を読んでおられる方のなかにいるのだろうか、と考えずにはいられません。
     自分自身にとってすらきわめて茫漠としていて、捉えどころがない話でしかないわけですからね。ただ、ぼくに見えている景色を、幾人かの人には共有してもらいたいと思うので、それで書くのですが、ほんとうに伝わるものなのだろうか? わからないですね。でもまあ、書きます。
     さて、ペトロニウスさんは良く「ミクロとマクロ」がリンクしていて、しかもバランスが取れた物語が見たい、という意味のことをいいます。
     ぼくもまったく同感です。ぼくにとって良い物語の条件があるとすれば、それはミクロとマクロの相克が描けていることだ、といってもいいかもしれません。
     ミクロに寄りすぎても、マクロに寄りすぎても、一般的/普遍的な評価はともかく、個人的な評価としては高いポイントは稼げないようです。
     それでは、そもそもぼくはミクロとかマクロとかいう言葉で何をいい表そうとしているのか? ペトロニウスさんはおそらく経済学からこの概念を持って来たと思うので、ぼくとは解釈が違うかもしれませんが、ぼくなりの言葉でいうと、つまりこの場合のミクロとは個人が個人のみで影響を及ぼせる世界で、マクロとはそれを超えた広大な世界のこと、ということになります。
     こう書いた時点で既に問題含みの定義だという気がしますが、まあ先を続けましょう。
     まず常識的なところをさらっておくと、個人は世界に比べて矮小な存在です。個人がその意志だけで世界の命運を決定したり、銀河の運行を左右したりすることは、基本的にはできません。
     基本的には、と書くのはそういうことが起こる物語が現実にいくらでもあるからなのですが、とりあえずはそういうものだ、ということにしておきましょう。
     つまり、個人が決定し左右できる範囲は世界全体と比べてきわめて小さく、狭いのです。それが「ミクロの世界」。この小さな世界を描いているのが「ミクロの物語」です。
     日常ものとか、学園ラブコメとか、あるいはサラリーマンの悲哀がどうとか殺人事件がどうとかといった話はすべてこの「ミクロの物語」に含まれます。
     で、一方、この世界にはそういう個人の小さな事情とはかけ離れた大きな問題が存在します。国際情勢がどうこうとか、宇宙の運命がどうこうとかいう問題です。
     これは、基本的には個人の意志だけで決まって来ることはありえないことで、何十億という人の意志が複雑に関わっていたり、あるいはそれ以上の「世界の理」そのものを巡る問題であったりします。
     もはやはっきりと個人の世界とは断絶したこの世界のことを「マクロの世界」と呼び、その世界で展開する物語を「マクロの物語」と呼称します。
     『三国志』とか『幼年期の終り』みたいな国家の命運だの星々の盛衰が絡む物語は、いずれもみな「マクロの物語」だといっていいでしょう。
     ミクロの物語とマクロの物語。この両者が根本的に異なる性質を持つことはわかってもらえるでしょうか。
     たとえば、アーサー・C・クラークには有名な長編SFがたくさんありますが、それぞれの作品の登場人物の名前を憶えているひとなど、相当の読者でもほとんどいないのではないでしょうか。
     これが「ミクロが描かれていない」ということです。むろんそれは作品の欠点ではなく、ただそこに主眼がないだけのことなのですが、とにかく「ミクロの物語」と「マクロの物語」はある意味で別物なのです。
     ここが了解してもらえないと、いままでぼくが語ってきたこと、あるいはこれから語ろうとしていることも、ほとんど理解できなくなってしまうと思うので、どうかよくわかっておいてください。
     ミクロとマクロ――このふたつの世界、ふたつの物語は根本的に異なるものであり、異なるテーマを持っていますが、当然、完全に隔たった世界というわけでもありません。
     あるひとつの世界を遠景で見ればマクロが見え、近景で見ればミクロが見える。そういう視点の違いでしかないといってもいいでしょう。
     したがって、「ミクロ的な部分もあれば、マクロ的な部分もある物語」というものが存在しえます。さらにいえば、「ミクロ的な部分と、マクロ的な部分が、互いに影響を与え合っている物語」もまたありえるでしょう。
     というか、じっさいにあります。それが、ペトロニウスさんがいうところの「ミクロとマクロがリンクした物語」です。
     ただ矮小な世間の出来事を細々と描くだけでもなく、ひたすらに壮大な世界のありようをロングショットで追うばかりでもなく、その両者を同時に描き、なおかつ両者が影響しあうさまを克明に綴った物語――そういうイメージでしょうか。
     具体的には、先ほど名前を挙げた『ヴァンパイア十字界』など、ぼくやペトロニウスさんが好んで名前を挙げる作品が挙げられます。あんだすたん?
     『ヴァンパイア十字界』を例として取り上げると、この物語のなかでは、個人の、個人としての愛情や悲劇、運命、戦いなどが詳細に描かれていますが、その一方で、国家と人類の運命の展開もまた縷々と綴られ、しかもその両者が絡まり合い、渾然一体となっています。
     こういうの! まさにこういうのが見たいんですよ! あたりまえすが、『サザエさん』や『ゆゆ式』のようなミクロの物語でマクロの事情が問題にされることはありえません。
     また、マクロを描くことに専心するハードSFなどでは個人のミクロな事情がなおざりにされることがよくあります。しかし、ぼくはその両方を同時に起動させ、絡ませあって描く物語を見たいんだな、といまあらためて思います。
     ただ、作家の資質として両方を完璧に描ける才能の持ち主というものはまずなく、ミクロに寄るかマクロに寄るかするものなのですが。
     相当に天才的なバランス感覚の持ち主でも、たとえば栗本薫は最後にはミクロに寄りましたし、田中芳樹はどうしてもマクロに寄りますよね。そういうものなのです。
     だからこそ、その両者の相克を超絶的レベルで描き切った『ヴァンパイア十字界』がほんとうに信じられないような奇跡的な傑作だということになるのですが、まあそれはいい。
     とにかくそういう「ミクロとマクロがリンクした物語」をぼくは読みたいと思うわけです。
     ちなみに、ぼくはくわしくはありませんが、日本文学は伝統的にミクロの物語を仔細に描くことを良しとし、個人の内面を重視し、いささかマクロを軽んじているようです。
     それでぼくはどうしてもその種の文学に興味を持てず、主にエンターテインメントを読んで来たわけなのです。もちろん、主流文学のなかにも探せば巧みにマクロを描いたものを見つけ出すこともできるでしょうが。
     そして、このブログを長く読んでおられる方ならもうわかったことと思いますが、このミクロとマクロを限りなく近づけ、一体化させ、ミクロが直接にマクロに影響を与えるような、本来ありえざる世界を描き出しているのが「セカイ系」の作品だったのではないか、というのが、最近のぼく(たち)の「読み」です。
     そしてまた、あらためてより客観的に、ミクロとマクロの間の限りない距離を取り戻したのが「新世界の物語」ということになりそうです。ここまではおさらいですが、よろしいでしょうか?
     さて、「ミクロとマクロがリンクした物語」においては、純粋なミクロの物語でもマクロの物語でも発生しないような、「ミクロの事情」と「マクロの展開」のぶつかり合いが起きます。
     たとえば、『ヴァンパイア十字界』の主人公ローズレッド・ストラウスはきわめて傑出した王として国を運営していきますが、決して個人としての心を失わったわけではありません。
     したがって、国を思い民を愛する王(マクロを指導する為政者)としての心と、個の幸せを求めるあたりまえの人間としての心が衝突するのです。
     その具体的な描写はどうしてもネタバレになってしまうので『ヴァンパイア十字界』本編を読んでもらうよりほかありませんが、ともかくこのようなことを、ぼくは「ミクロとマクロの相克」と呼んでいるわけです。
     いい方を変えるなら、それは「個の心情と全体の事情の矛盾」を巡るテーマでもあります。ぼくは、シナリオの根幹のところにその「相克」を仕組んだ物語を読んでみたいんですよ。
     それはある時は「セカイ系」という形を取り、ある時は「新世界の物語」という形を採用することと思いますが、いずれにしろ、そこには「個」の心情を追うミクロの物語にも、「全体」の運命を描くマクロの物語にもない魅力があります。
     ここらへんは個人の好みが関わってくるわけで、ミクロの物語にしか興味がないという人も、マクロの物語にしか関心を抱かないという人もいることでしょうが、それはそれとして、そういうことなのです。
     もう少し話を続けてみましょう。「個」を追うミクロの物語のテーマは、当然ながら「個」の人生です。そして内面です。
     くり返しいうようにぼくはくわしくありませんが、これを極限まで突き詰めた形が私小説なのでしょうね。「わたし」の内面だけにフォーカスして、ひたすらその葛藤なり躍動なりを追いかける物語。まさに「私」の「小説」というわけです。
     一方で、「全体」を描くマクロの物語のテーマは「全体」の運命です。国家や企業や人類や宇宙がどのように変化していくのかという、そのダイナミズムです。
     これを突き詰めると小松左京あたりの巨視的スケールのSF小説になります。偉大な小松左京には傑作としかいいようがない作品がたくさんあるわけですが、しかし、やはり読み終えたあとには主人公の名前などすぐに忘れ去ってしまいます。
     そこではミクロのことはまったく問題にもされていないのです。まあ、あたりまえですよね。人類を描きたいのですから。
     したがって、当然というか、そのどちらかにしか関心がない読者に相反する物語を届けたりすると、不評になったりします。
     先に名を挙げた偉大なSF作家アーサー・C・クラークの代表作のひとつに『宇宙のランデヴー』があります。これはまさに宇宙的スケールでの異星人との接触(ランデヴー)を描いた大傑作なのですが、実は続編があるのですね。それも三作も。
     その続編のほうはじっさいにはクラークではなくジェントリー・リーという作家が書いているらしいのですが、それはSFファンにはきわめて評判が悪かったんです。
     というのも、それが家族がどうの恋愛がどうのというミクロの問題にばかり注目して、宇宙的視野でのランデヴーというマクロの問題をなかなか描かなかったからだとか。
     まあ、ぼくは評判を聞いて避けたのでほんとうかどうかはわかりませんが、とにかくそういうことはありえるし、ある。ミクロとマクロでは扱うテーマがまったく違うのだから当然でしょう。
     で、ぼくはミクロの物語が扱う究極のテーマは「愛」だと思う。「差別」といってもいい。ここらへんは『ヴィンランド・サガ』あたりでくわしく語られていることですが、ぼくは「愛」と「差別」とは同じものだと思うわけです。
     「だれかを愛すること」と「だれかを差別すること」は本質的には変わらないことだと。なぜなら、ある人とべつのある人を比べて、より価値がある人は存在する、つまりより価値がない人もまた存在する、と考えることが「愛」であり「差別」なのですから。
     ただそのポジティヴな面が「愛」と呼ばれ、ネガティヴな面が「差別」と呼ばれているだけのことです。
     もし人間に一切の愛がなかったなら、この世ははるかに円滑に運営されたかもしれません。そこには差別もまた存在しないのですから。
     たとえば、ぼくたちは一般に中東で起きた紛争のことよりも、自分の家族のいじめの問題のほうにずっと心を惹きつけられます。
     中東の紛争だってたくさんの人の命が関わる重要な問題なのだと理性では理解しているはずですが、感情的にはそうきれいに納得できていないわけです。
     しょせん大半の人間はミクロの狭隘な世界を生きているわけで、遠方のマクロの問題にそこまで関心を抱くことは普通はありません。
     しかし、もし、あらゆる人間が「中東の紛争で死んでいく人々」と「自分の家族」を平等に扱ったとしたら? ある種の理想世界が生まれるかもしれません。
     少なくとも戦争などはほとんど起こらなくなるでしょう。戦争とは、そもそも「自分の身近な人」に「遠くの無関係な人」以上の価値がある、と考えるからこそ起こるわけです。
     「敵」より「仲間」にバリューを見いだしているといってもいい。しかし、そういった発想がそもそも存在しない世界では、そんな愚挙は起こらないには違いない。ですが、その世界には「家族愛」などというものもまたありえはしないのです。
     ここらへんの物語を描いて、ぼくから見ると非常につまらない結論を出しているのが、山本弘の『アイの物語』や、『去年は良い年になるだろう』なのですが、それは長くなるのでカットして、また別に語ることにします。
     で、まあ、そういうわけで、ミクロの物語では「愛」ないし「差別」はきわめて重要なテーマです。だからこそ、ミクロの物語の最高のものは、皆、ラブストーリーになるわけです。『ロミオとジュリエット』とか『ノルウェイの森』とか『世界の中心で、愛をさけぶ』とかね。
     わかりますよね? 「恋人が突然死んでしまった。哀しくてたまらない」みたいなテーマは、「恋人」という「個」の死に非常に大きな意味があると考えているからこそ成立するのです。
     他方、マクロの物語で大切なのは「全体」の運命ですから、その構成員である個人が生きようが死のうが、ほとんど問題にされることはありません。あたりまえといえばあたりまえの話です。
     それでは「ミクロとマクロがリンクした物語」のテーマとは何でしょうか? それは「個」と「全体」がどのように矛盾し、ぶつかり合うか、ということになります。
     既に語ったように「個」と「全体」のそれぞれの事情はしばしば互いに相容れないのです。たとえば、「人類の他の惑星への移住プロジェクト」といったマクロな問題のリーダーは、そう簡単に個人の「愛」に溺れることを赦されないでしょう。
     いいかえるなら、ほかの人ほど簡単に人間を「差別」できないということです。マクロのテーマを背負った人間には、それなりの責任があり、好きな人も嫌いな人も平等に救わなければならないのですよ。
     しかし、そうはいっても、当然、ひとりの人間としての心が消えてなくなるわけではありません。それでは、どうするか? そういうことが「ミクロとマクロがリンクした物語」のメインテーマなんですね。
     この「相克」ないし「矛盾」を描いて失敗した良い例が、このあいだ取り上げた『PACT』です。
     日本という「全体」が危機に陥っていて、その命運こそがテーマになるべき時に、「個」の心理がセンチメンタルに語られることで、読者は何かしらじらとしてしまうわけです。「ていうか、そんなこといっていないで「全体」に殉じろよ」と思ってしまうというわけ。
     それで、成功例は何かといえば、まさに『ヴァンパイア十字界』というわけです。ここでは、己が治める「夜の国」という「全体」のために個人の事情を限りなく無視する「偉大な王(リーダー)」としてのローズレッド・ストラウスが主人公となっています。
     かれのような「偉大なリーダー」は「ミクロの存在(ひとりの人間)」でありながら、「マクロの展開(国家と人類の運営)」にたずさわってしまっているという、「ミクロとマクロがリンクした物語」における究極のキャラクターです。
     ミクロとマクロの相克を一身に体現してしまっているといってもいい。かれはミクロの個人としてあまりのマクロの重圧に苦しみ、悩みます。しかし、それでいて同時にマクロの為政者として個人の感情を度外視した超絶的スケールの「政策」を打ち出していくのです。
     ここではミクロとマクロが奇跡的に絶妙な均衡を取っています。ただミクロの悲劇に溺れるだけでも、マクロの計画を操るだけでも、ローズレッド・ストラウスはここまで魅力的なキャラクターにはなっていなかったでしょう。
     かれの肩には「マクロ」という名のあまりにも重い責任がかかっています。本来、それは個人が背負いきれるはずもないものです。もし背負おうとすれば、一切の「愛」を、「差別」を赦されなくなります。
     王たる者はあたりまえの人のように他者を愛することなどは赦されないのですから。しかし、かれは地獄のような苦しみに晒されながら、それでもなおそれらすべてを背負っていく。すべての弱き人々のために。
     その姿はあまりにも気高く、美しい。まさに王のなかの王、リーダーの規範というべきでしょう。こういうキャラクターをこそ、ぼくは見たいんですよ。
     べつの例でいうと、『アルスラーン戦記』や『十二国記』や、『黄金の王 白銀の王』や、あるいはそれこそ「ヒーローものの系譜」が思い浮かびます。
     そう、『ダークナイト』とか『スパイダーマン』とか、あるいは『東のエデン』とか『ZETMAN』といった作品のことです。そこでは「ミクロの個人」でありながら「マクロの無限責任」を背負ってしまった者たちの生き方が綴られています。
     ただ、このような「マクロを背負った英雄」のあまりにも悲劇的な生き方を見ているうち、ひとつの疑問が湧いてきます。
     なぜかれらだけがこんなにも重いものを背負わなければならないのか? かれらに守られる群衆(クラウズ)はただ守られるだけのかよわい存在であっていいのか? その「弱さ」とは、それ自体が問題視されるべき性質のものではないのだろうか?
     こういったテーマから生まれた物語を、我らがLDさんは「脱英雄譚」と呼びます。「ミクロとマクロがリンクした物語」の新しい展開です。 
  • 視点人物への感情接続によって初めて物語は起動する。

    2014-10-25 13:27  
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     周りが楽しそうに読んでいるので、「小説家になろう」掲載の小説『幻想再帰のアリュージョニスト』に手を出してみた(http://ncode.syosetu.com/n9073ca/)。
     なるほど、面白いですね。巷間いわれているように、たしかに初期古橋秀之っぽい。なつかしのいんちきサイバーパンク。
     情報がオーバーフローを起こしたわけがわからない世界を舞台に、隻腕の剣豪が活躍する話なのだが、どうやらそれでは終わらない。物語世界は延々と拡張を続けていくようだ。
     ただ、ハッタリ満載の世界の描き込みに比べ、物語がもうひとつ弱いかな、という印象。伝え聞く話では、平井和正は、小説ないし物語に重要なのは「ベクトル感覚」であるという意味のことを語っているそうだ。
     ひたすら先へ、先へと読者をひきずり回すエネルギーこそ肝要、という意味だろう。つまり、物語とは、より先の展開を知りたいという「未来志向の欲望」
  • 『ヱヴァ』と『妖怪ウォッチ』で考える責任論。

    2014-10-23 02:44  
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     ども。近所のゲオで『たまこラブストーリー』をレンタルしてきた海燕です。はたして寝る前に試聴することができるか、どうか。非常に楽しみな内容ではあるんですけれど、どうかなあ。
     さて、ここ数日、腰痛を初めとする身体不良にボロボロになっていたぼくであるわけなのですが、数度に渡る電気ショックと、注射と、数多すぎて何が何だかわからない錠剤のマジカルパワーによって、ついにここに復活を遂げました。
     まだ100%とは行かないけれど、だいたい90~95%くらいまでは回復したと思う。そうなると、いままで更新をサボってきたことが罪深く思えて来るわけで、枕を座椅子代わりにしてパソコンに向かおうと思ったしだいです。
     しかしまあ、ほんとうに大変な数日でありましたことよ。肉体的に相当やばい橋を渡っていた上、精神的にもどん底のさらにどん底。ついには体内のどこかの血管が破れたらしく、血まみれの痰を吐き出すようになって、真剣に死を考えました。
     というか、今回はまあ大丈夫だったとして、このままストレスフルな生活を続けていると、いつか確実にガンになって死亡すると思う。いまこそ人生を変える時!
     とはいえ、そう簡単に生き方を変えられたら苦労はしない。もちろんさまざまな出来事を経験するたび、理屈としては色々な「悟り」があるものの、押し寄せる現実のプレッシャーは圧倒的で、それを前にどうしようもなく流されてしまうのがきょうまでのぼくだったわけです。
     それはきっとあしたからも変わらないことでしょう。人生が格段に楽になる魔法のひと言なんて存在しない。ぼくの手もとにある美しい錠剤の数々も、人生そのものを一気に治療できるほどにはマジカルではないらしい。
     ただ、いくらか人生の重みを軽くしてくれる言葉は見つけました。それでは、ぼくが地獄のような自己追求の迷宮の底で、ついに悟ったこの世の真理をお教えしましょう。
     それはわずか一行で表せます。つまり、「この地上で起こる出来事は、何もかもぼくのせいではない」。以上!
     いやー、この単純な「悟り」はぼくの人生にとって革命的な意味を持つと思う。もちろん、現実にはこの言葉をどこまで実感しつづけられるかという問題があるのだけれど、それにしても、思考の基板となっているところにある倫理をドラスティックに変えてくれる一行なんじゃないか。
     この言葉にたどり着けた自分を褒めてやりたい気持ちである。偉いぞ>ぼく。まあ、いかにも極端かつ無責任きわまりまりない発言に思えることはわかっています。
     でも、ぼくの硬直しきった人生を変えるにはこのくらいの劇薬が必要だと思うのですね。ぼくはいままで「何であれひとのせいにしてはいけない。自分で自分の人生を背負わないことには成長はない」と考えて生きて来ました。
     ある意味では非常に「正しい」理屈だといまでも思う。「自分の問題をひとのせいにするな」というのは、ある意味で日本人好みのモラルではあると思うのですが――でも、これ、突き詰めていくと世界のすべてをひとりで背負わないといけなくなるんですね。
     『Fate』のセイバーとか衛宮士郎がこの陥穽に陥った典型的なキャラクターだと思うけれど、果てしなく拡大していく責任を、すべて自分でひき受けようとすると必ず破綻する。
     人間にはどうしたって個人でひき受けられる責任の限界があって、その外のことは「哀しいけれど、仕方ないよね」と割り切るしかないのです。
     たとえば、ぼくが全人生をつぎ込めばアフリカの飢えた子供の数十人くらいは救えるかもしれないけれど、ぼくはそうしない。それはある意味でその子供たちを見捨てているともいえるわけだけれど、それを「仕方のないこと」と合理化することなしには、ひとは生きていけないわけです。
     それでもなおかつ、「すべての人に平和を! 幸福を!」とかありえない理想を抱いてしまうと、それこそ『Fate/Zero』の衛宮切嗣のようになってしまう。
     だから、自分の適切な責任範囲を設定して、その範囲のことだけに集中するのが、まあ大人の態度なのでしょう。
     しかし――やっぱりそういう態度はどうしても妥協的なものに思えないこともありません。芥川賞作家の玄侑宗久は、金子みすゞや宮沢賢治の作風には「大乗仏教の呪縛」があるといい、まずは自利に努めなければならないと語っています。
     うなずける意見ではありますが、ほんとうにそうでしょうか? そういう都合の良い云い訳を用意して、自分をごまかしているだけなのでは?
     ぼくはずっとそう思って、割合に「理想の自分」を追求してきたように思う。「理想の自分」は無限に優しく無限に寛容です。
     どんなに傷つけられても、虐げられても、決して怒ることもなく、まして暴力を振るうことなどありえないデクノボー――そういうふうになりたいと思って生きて来た。
     ひとは知らず、己はそうでなければならないのだ、と信じて、滑稽な努力を続けてきたように思うのです。そうして、崩れつづける石を積むこと36年。よくやったものだ、と我ながら思います。
     高すぎる理想にたどり着くことはついになかったけれど、それでもその青くさい理想を折らずに追い求めつづけてきた。自分なりに妥協せず、真理だと信じるところを追いかけて来た。
     だけれど――その結果がストレスとなって積もりに積もって、文字通り血を吐く羽目になったわけです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。決して手が届かない高すぎる「理想」と、醜怪にして卑小な「現実」との耐えがたい落差は、そのまま重圧となって自分を苦しめるのですから。
     その苦しみを、しのぎ、しのぎ、何とか乗り越えて生きて来たのがぼくの人生だったと思います。
     苦しかった。聖賢に非ず、どこにでもいる凡人であり俗人であるに過ぎないぼくが、届かない理想に手をのばそうとしてきたのだから、その無理、矛盾はあまりにも大きかったといえます。
     そしていま、ついにぼくは「このままこの生き方を続ければ死ぬ」と悟らざるを得なくなったわけです。さて――さて。それでは、どうするか。
     死ぬとしてもあくまで自分の理想を貫くか。それとも妥協して普通のあたりまえの人生を送りつづけるか。もっとも、元々、普通の人生を送っていることには変わりはないのです。
     つまり、意識の上で理想を追うかどうかという違いがあるだけなのですね。だから、ぼくがどう決意しようと世界には何ら変化はないはずなのですが、それでも、迷いに迷い、苦しみに苦しみました。
     そして、いま、ぼくはついに世界という重荷を手放そうと思う。自分の行動に完全な責任を取ることをやめようと思うのです。つまりは、生きることを選ぶ――それがぼくの選択です。
     金子みすゞは、この究極の矛盾を整合させることができないまま、自殺を遂げました。その激烈な生に比べれば、ぼくの生き方はやはり微温です。ぼくにはそこまで自分を貫き通すことはできない。
     だけれど、そうであるとしても、ぼくはとりあえず生きることを選びたい。妥協するとしても、理想を見失うとしても、心を折るとしても、ひとりの人間として生きていくことを選びたいと思う。
     高すぎる理想と卑しい自分との乖離に苦しめられることは、もういいかげん限界だ。文字通り血を吐いてみて、それがようやくわかった。 
  • 腰痛が治らない。

    2014-10-22 20:48  
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     ども。海燕です。このところ更新がとどこおっていますが、実は腰痛がきつくて机の前に座りつづけられない状況でした。いや、マジで。
     ぎっくり腰は人生二回目で、前回は簡単に良くなったんだけれど、今回は長びいていますね。横になって寝ていると特に何ともないのだけれど、歩いたり、同じ姿勢で座りつづけたり、起き上がったりするとじくじくと痛みます。ラジオも寝ながら放送しました。
     ようやく何とか座っていられるようになったのでこうして更新をお届けるしだいですが、いまこうしているあいだにも微熱のような痛みが続いています。
     何だかもう、うんざり。こういう慢性的な痛みが長いあいだ続くと、だんだん世界に対しいいようがない怒りが湧いてきて、不機嫌かつ厭世的になって来ますね。
     難病の人が性格が悪くなるのは当然だという気がする。長時間にわたってこういうわけのわからない苦痛に晒されていると、聖人でもない限りそれは不機
  • 久遠の「道」。

    2014-10-17 23:17  
    51pt
     昨日、録画しておいたテレビ番組「アスリートの魂」を見ました。今回の題材は「弓道」。29歳にして最年少で弓道の頂点、天皇杯を制覇しながら、そのあと長い試行錯誤の道に入ったある選手を追いかける内容でした。
     これがね、面白かったんですよ。いや、ひとことで面白かったといっていいものなのかどうか、迷うところなのですが、それでもあえて面白かったといおう。
     何がそんなに良かったのかといえば、この選手、何と天皇杯制覇の翌年、すべて的にあてていながら予選で敗退してしまうのです。
     どういうことなのか? ぼくもよくわからないのですが、ようするに、弓道においてはただ的にあてればいいというものではないらしいのですね。
     そこには細かな作法やら礼法やら美意識やらが存在していて、それを無視すると、たとえ的にあてても評価されないらしい。
     いや、わけがわかりませんよね。あたればいいじゃん、と思うんだけれど、そういうものじゃないのかな? そういうものじゃないらしいんです、これが。
     じっさい、この選手は「きみがやっているのは弓道ではなくただの的当てだ」などと審査員から酷評されたとか。それからかれは長い長い迷いの道に入ってしまうわけなのですが、何だかなあ、と思いません? ぼくは思います。
     日本で一般に「武道」といわれる競技は、いずれも「礼」を重視します。「礼に始まり礼に終わる」。しかし、それはあくまで競技内容とは別のこと、少々非礼であってもその選手の得点とは別に考えることが普通だと思います。
     ところが、弓道ではそうではないらしい。「礼」とか「美」というものが、選手としての評価にダイレクトに関わってくることがありえる世界らしいんですね。
     ぼくもくわしいことは知らないから適当にいっているのですが、それにしてもそんなことがありえていいのか、と思ってしまいますよね。
     競技である以上、まずは矢が的にあたるかどうかがいちばん重要なんじゃないの、という考え方がそこでは通用しない。それはまさに「スポーツ」とは似て非なる「道」なのでしょう。
     そもそも日本人はスポーツにおいても独特の美意識を持ち、あくまで美しく戦うことをよしとするところがあります。柔道で一本勝ちにこだわったり、野球で敬遠を問題視したり、相撲で品格がどうこうといいだしたりするところですね。
     そこには単なる成否勝敗を超えた崇高な美意識が存在するのです。あるいは、存在するとされています。しかし、ほんとうにそんなものがあるのか、というと、その確証は何もないわけです。
     その道の名人とされる人々が「あるのだ」と主張しているだけで、科学的にその実在が確認されたわけではない。
     弓道にしても、名人は「大切なのはあてることではない」というようなことをいいます。それでは、何が最も重要なのかといえば、 
  • 検証。『進撃の巨人』は「セカイ系」の対極にある「新世界の物語」なのか?

    2014-10-15 04:30  
    51pt


     「新世界の物語」と「セカイ系」の話をちょっとどこかにまとめておかないといけないにゃー、ということで、ここに簡単に記しておきます。
     まあ、先日のラジオで話したことなんですが、あまりにも面白かったので文字にしておく必要があるだろうと。
     簡単にいうと「新世界の物語」と「セカイ系」は真逆であり対称である、という話なんですが。
     振り返ってみましょう。「新世界の物語」とは、ここ最近の漫画やアニメで登場して来ている「新しい世界」とは「現実」を指しているのではないか、という話でした。
     具体的にはこの記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582)で書きました。こんな内容です。

     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。

     これが「新世界の物語」です。ここまでは良いでしょうか? 今回話したことはこの続きにあたります。
     すべてはぼくが「それでは、久慈進之介の『PACT』はどうでしょう? これも「突然ひどいことが起こる」話だけれど、「新世界の物語」に含めることができるでしょうか?」とLDさんたちに訊ねたところから始まります。
     ここから、LDさんとペトロニウスさんの間で議論が発展していろいろと面白いアイディアが出て来たらしいのですね。その結論が、上記したような「新世界の物語」と「セカイ系」は対称を成しているという話です。
     ちょっとここはあまり軽々に断言できない、ほんとうのそうなのか?と思うところであるのですが、とりあえず話を進めてしまいましょう。
     まず、「新世界の物語」とは、「保護されていない現実」を舞台とした物語でした。それでは、「セカイ系」はどうなのか? それはつまり、「個人の内面世界を舞台とした物語」だったのではないか、ということなんですね。
     くり返しますが、ほんとうにそうなのかはまだよくわかりません。真偽をたしかめるためには、セカイ系の代表作といえる作品をひと通りさらい直してみる必要があるでしょう。
     しかし、ここでは当面、そういう理解で進めてみましょう。『ほしのこえ』であれ、『最終兵器彼女』であれ、「セカイ系」の作品においては、個人(主人公とヒロイン)と世界(セカイ)が直接に結びつけられています。
     つまり、そこでは個人の行動が即座に世界に影響を与えるのです。最も典型的なサンプルと思われる『最終兵器彼女』を見てみましょう。
     この物語の主人公であるシュウジとちせの行動は、「世界最終戦争」とダイレクトに結びつき、最終的には世界は亡んでシュウジとちせだけが生きのこります。セカイ系の宇宙とは一般にこういうものであるわけです。
     あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』(のテレビシリーズ及び旧劇場版)にしても、主人公である碇シンジの行動と決断がそのまま世界の命運を左右します。
     この「個」と「セカイ」が明確に分離されていない、むしろ融合してひとつになっているとすらいえる描写が「セカイ系」の特徴だといえるでしょう。
     ある意味で遠近法が消失した宇宙というか、「個」の内面が極限まで重視される世界ということもできると思います。
     さて、一方で「新世界の物語」では「個」と「セカイ」は明確に分離されています。いくら主人公が泣き叫ぼうが、あるいは必死に努力しようが、「世界の理(ことわり)」はそれとは無関係に動いていて、主人公やヒロインを圧殺したりもするわけです。
     このことが端的にわかるのが『進撃の巨人』序盤で主人公エレンが巨人に食われてしまう場面ですね。そこでは「主人公であろうがご都合主義のお約束で生きのこれる物語ではない」ということが示されているように思います。
     ここまでが、前提。ここからようやく『PACT』の話になります。『PACT』も、「壁」の描写こそありませんが、一見すると「新世界の物語」的であるように見える作品です。
     というのも、『PACT』でも次々とひどいことが起こるんですね。たとえば、これはネタバレになりますが、第1話の時点でメインヒロインと思われる女の子が死んでしまうわけです(あとで生きのこっているようにも見える描写がありますが、これはミスディレクションなのかな? クローンとか?)。
     ここだけ見ていると『PACT』も「新世界の物語」的な、「身も蓋もない現実」を描いているように見える。『進撃の巨人』のような斬新さがそこにあるということもできるかもしれない。
     しかし――しかし。それにもかかわらず、『PACT』は明白に失敗作である、とペトロニウスさんは喝破します。
     たとえば、日本を沈没させかねない危険な爆弾を解体しようとする主人公を守る兵士を見よ、と。
     かれは、あくまで任務を再優先に考える主人公に対し激発し、感情的に食って掛かる。これはリアリティのレベルを守りきれていない描写である。
     なぜなら、既にその同じ爆弾によってアメリカ合衆国が沈没しているという、つまり世界が半分滅亡しているような状況下において選ばれた兵士が、個人的な感情を責務より優先させることなどありえないからだ、と。
     つまり、この作品はテクニカルなレベルで完全に失敗している物語なのだ、と。まあ、納得が行く話です。ぼくも『PACT』が傑作だとは思いません。
     ところが、です。LDさんがその話を聞いて、しかし、と反論したらしいのですね。ペトロニウスさんのブログから引用するとこんな感じだったらしい。

     僕が言っているのは、技術レベルの話で、そもそも作者がやりたかったことの意を汲むべきだし、かなり失敗しているとはいえ、まったくそれができていないというわけでもない、とね。そこで、いやいや、そうじゃないです、、、、この技術的な問題点が、やりたかったこととコンフリクトしてて、、、という話になって、では、この物語がほんとうに示すことは何なのか?という話になり、、、という流れです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141010/p1

     つまり、『PACT』の失敗は単に技術的な問題「ではない」ということなんですね。
     『PACT』の問題点とは何か? それは作中の描写が作品の主題とコンフリクトしていることであるわけです。即ち、あまりにも「個」の感情を重視するあまり、「人類全体」が危機に陥っている状況下においてありえないような描写を行ってしまっているということ。
     思い出してみましょう。「新世界の物語」とは「個」の情緒と「世界」のありようが完全に分離している「現実」を描く物語でした。
     しかし、『PACT』においてはその「個」が「そんな世界のありようはおかしい!」と、いってしまえば甘ったるいことをいい出しているわけです。
     これが『PACT』の究極的な問題点です。さて、これはどういうことでしょう? つまり、『PACT』はどこかしら「新世界の物語」のように見えて、実は「セカイ系」的な作品なのだ、ということなんですね。
     ぼくなりにいい換えるならこういうことになるかもしれません。「セカイ系」は「個」の悲劇を描く物語である。つまり、「セカイ系」では「個」(主人公)と別の「個」(ヒロイン)の対幻想にもとづく悲劇は成立する。
     しかし、「新世界の物語」ではそういう「個」の悲劇はそもそも成立しない。なぜなら、その「個」の悲劇とは「無数にある悲劇」のなかのひとつに過ぎないからである、と。
     さらにいい換えるなら「セカイ系」は主人公とヒロインの関係を近景で見、「新世界の物語」は主人公を含む広大な世界を遠景で見ているということもできるかもしれません。
     したがって、『PACT』が失敗しているのは、「新世界の物語」的に過酷な状況設定を行っているにもかかわらず、「セカイ系」的な「個」を重視するロマンティシズムを持ちだしていることだ、ということになります。あんだすたん?
     ここまで考えてみると、「新世界の物語」と「セカイ系」はまったく正反対の、互いに相容れない物語なのだ、ということがいえそうに思えて来ます。
     そう、「個」の価値を極限まで重視し、そこに世界と同じだけの重みを見いだしたのがセカイ系だとするなら(ほんとうにそうなのかはよくわかりませんが)、「個」ではなく「全体」を見て、「個」とはあくまで「全体」のなかの一部分でしかない、と考えるのが「新世界の物語」ということが、当面はいえそうです。
     あるいは前者を左翼(レフトサイド)的な世界観、後者を右翼(ライトサイド)的な世界観と見ることもできるかもしれませんが、ここではあえてそういう政治的な言葉を使用する必要性を認めません。
     とりあえず、両者には「個」をどこまで重視するかという一点において、決定的な落差がある、ということを確認しておけば十分でしょう。
     そして、これはもちろんいずれが正しく、いずれが間違えているという性質のものではありません。ただ単に性格の違いがあるだけなのです。
     「セカイ系」の代表作としては『ほしのこえ』とか『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』あたりが挙がるでしょう。『新世紀エヴァンゲリオン』とか西尾維新の『戯言シリーズ』も同系統の作品であるかもしれません。
     ひとついえそうなことは、こういった作品がある程度ウケた頃とは、たしかに時代が変わったのではないかということです。
     もちろん、その背景にあるものは日本の社会の急速な変化であるのでしょうが、まあ、そこらへんはよくわからない。ただ、いま見るとこの手の作品は非常に甘ったるく感じられます。
     とにかく、たとえば『エヴァ』旧テレビシリーズでは碇シンジの存在は最後まで世界を左右しますが、それから十数年後の『新劇場版:Q』では「世界の中心」の座を外されます。
     そういう変化もまた、「セカイ系」と「新世界の物語」の対称性と似たところがあるように思われます。
     底なしに甘い、ロマンティックな対幻想の、心中ものの悲劇がウケた時代から、マクロ的な視点で世界を眺める、よりきびしい物語がウケる時代へ、とひとまずはまとめることができるかもしれませんが、ここは断定することなく保留しておきましょう。
     とにかく、これは非常に面白い話だと思うんですね。「新世界の物語」を巡る話が一歩進んだ感じ。
     もうひとつ「新世界の物語」について書いておくと、「新世界の物語」とはどうやらただ「あまりにもきびしい現実」を描くだけでは成立しないらしいということがわかって来たように思います。
     つまり、それは必要条件の第一に過ぎなくて、第二の条件がある。その条件とは「その過酷で残酷な世界において、どうやって生きのびていくか」ということである、と。
     ようするに「あまりにも過酷で残酷な現実を描き」、しかも「そこでどうやって生きのびていくか」を描き切った作品が「新世界の物語」のなかで名作として、あるいはヒット作として知られるようになる、ということかな。
     ちょっと系統が違いますが、『銀の匙』あたりがなぜヒットしたのかもここらへんの事情を踏まえると説明できるような気がします。
     あの物語では 
  • 偏見という名の迷路心理。「怖れの眼鏡」を外して気楽に生きよう。

    2014-10-15 02:36  
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     ども。風邪がぶり返してきて、薬を飲まなければと思ったところをぎっくり腰を起こして倒れた海燕です。
     これがもう、腰が割れたかと思うほどの激痛。ちょっと即座には立てませんでしたにょ。それが一時間も経つともうだいぶ平気になっているのだからふしぎというか。
     もちろん、ほんとうはまったく平気ではなくて、一時的に眠りに就いただけなのだろうけれど……。
     ちなみにぼくはこれが人生で二回目のぎっくり腰。一回目はコミケ参加の前日でした。その時は腰にバンドを巻いて参加したんだから恐ろしい。
     東京で再発していたら新潟に帰って来られなかった可能性もあったんだよなあ。つくづくよく行ったものだと思います。
     ぎっくり腰というとどこか間の抜けた響きがありますが、医学的には急性腰痛症といってとんでもなく危険なシロモノ。腰痛で人生をぶっ壊されたひとはいくらでもいます。
     まあ、原因はほとんどよくわかっていなくて、どうやらストレスが元らしい?ということがいわれていたりするようですねー。
     『腰痛は〈怒り〉である』なんてタイトルの本まであって、これがもう、我が身を振り返ると思いあたるところありまくり。もうちょっと怒らないようにしないと、次は確実にガンだな、と思います。抜本的な生活改善が必要ですね……。
     まあ、ぼくの場合、ストレスのもとはほとんど自己嫌悪にあるんだけれど、人生の考え方そのものを変えないと、ちょっとどうしようもない感じです。
     最近、『「恐れの眼鏡」をはずせば、すべてうまくいく!』という本を読みました。ちょっと胡散臭いタイトルなのですが、これが意外にいい本で、読みごたえがありました。
     〈アティテューディナル・ヒーリング〉という、ようはある種の認知療法の話なのだけれど、ぼくとしてはわりと切実に身に迫る内容でした。
     つまりは、ひとは時に「怖れの眼鏡」というバイアスでもの事を見ていて、その眼鏡によって歪んだ光景しか認知できないということなんですね。で、その眼鏡を外すと(バイアスを是正すると)、もの事は色々うまく行くんだよ、と。
     これはねー、ほんとにそうだと思いますね。「怖れ」という言葉で表現されていますが、ぼくは「不安の眼鏡」といいたい。ぼくの人生はわりと「存在の耐えがたい不安」との戦いでした。
     ペトロニウスさん的にいうと「ナルシシズム」の一種なんだろうけれど、ほんとうは何でもないいろんなことを「不安のバイアス」で見て、かってに恐怖したり、絶望したりして苦しむんですね。
     ほんとうはそれほどひどいことになっていないのに、「ひどいことになったらどうしよう」、「いや、そうなるに違いない」、「そうしたらもう生きていけない」とまで考えて、思考の迷路にはまり込む。
     その迷路には「怒り」や「憎しみ」や「差別心」がひそんでいて、認知をねじ曲げてしまうわけですね。おお、恐ろしい。
     この本のなかでは、ひとは「恐れの眼鏡」を手放すと「愛の眼鏡」を通してものを見ることになるということが記されています。愛というといかにも大げさですが、でもやっぱりそこなんだと思うんですよ。
     世界を、呪いではなく愛を通して見るということ。それがたぶん幸福な視点というものなのだろうと思う。
     アティテューディナル・ヒーリングとは、ある種の認知行動療法なんだろうと思うのですが、つまり「身も蓋もない現実」を直視することによってひとは救われるという話だと思うんですよ。
     現実を見ることはとても恐ろしいことだけれど、それを避けて逃げている限りひとは救われないのです。 
  • 愛と正義はいまそこで絶望している人を救うことはできるか?

    2014-10-14 00:47  
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     先日、『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』を読んでから、「絶望」についてぼんやり考えている。
     あの事件の犯人は、絶望している人だ。かれは自分の罪を反省もしないし後悔するつもりもないという。そして、懲役を終えた後はすみやかに自殺するつもりだという。
     それは、まあいい。個人の意志であり、自由である、とひとまずはいうことができるだろう。しかし、ぼくがどうにもうんざりしてしまうのは、そこからひとつの主張を感じ取ってしまうからだ。
     「ほら、おれはこんなに不幸で絶望している。おれの不幸や絶望を救うことができるか? できないとすれば、お前たちの愛も正義もすべて欺瞞だ」と。
     じっさいに犯人がそう口にしたわけではないので、ぼくの思い込みかもしれない。しかし、かれの時に繊細で時に粗雑な社会分析を見ていると、かれは絶望することで社会から自分を遊離させ、社会の欺瞞をあぶり出そうとしているのではないかと思えて来る。
     そして、それはある程度成功しているように思える。なぜなら、この社会ではその構成員全員に幸福に生きる権利がある、ということになっているからだ。
     ということはつまり全員が救われなければウソだという話になるわけで、いま現実に絶望している人はこの欺瞞をつくことができる。
     お前たちは全員が救われるべきだというが、おれは救われていないぞ。社会の犠牲になっているぞ。お前たちのいうことなんて全部ウソだ。欺瞞だ。世にもばかばかしい虚構に過ぎない、と。
     で、仮にぼくがそれに答えるとしたらどうなるか。ぼくはいうだろう。まったくその通り。全員を救うことなんてできません。でも、あなたの反社会的行動は社会にとって迷惑です。だからその行動の責任として課せられた罪状は受け容れてください。死にたいというなら社会に迷惑をかけずに黙ってそこで死んで行ってください、と。
     さて。この場合、ぼくはひどいことをいっているだろうか? まあ、こういうことをいうと基本的人権の立場から怒る人が出て来ることは当然である。
     どんな悪人であっても幸せになる権利はある、ましてこの犯人は哀れな虐待環境の犠牲者である、その可哀想な人物の告発に耳を傾けようともしないで「その場で死んでいけ」とは、お前はなんとひどい奴だ、と。
     まあ、そうかもね。ぼくはひどい奴なのだろう。ぼくはどうしてもどこぞの愛と正義と人権の使徒さまみたいに「すべての人間は幸せにならなくてはならない」と信じることはできない。
     この社会では、どうしたって、絶望して死んでいく人間が出て来るものだとしか思えない。
     「だれも社会から見捨てられるべきではない」というのはほんとうだ。しかし、その理想は理想として、現実には社会の監視の目が行き届かないところで死んだり絶望したりする人間は出て来る。
     そしてまた、そういう人を救うために無制限に社会的リソースを使うわけには行かない。そういうわけなので、「ほら、おれは絶望しているぞ。どうにかして救ってみせろ」という人に対しては、「残念だけれど、無理。死にたければ勝手に死んでね」というしかないと思っている。
     それでは、その可哀想な個人を救えない愛や正義や人権にはまったく価値がないのだろうか。いや、そんなことにはならない。なぜなら、それによって救われている人もいるからである。
     つまり愛も正義も人権も、決して万能ではないが、ないよりははるかにマシなのである。それは限定的な意味しか持っていないが、その限定された範囲の人々は救うことができる。それだけで十分に偉大な概念だといえる。
     ただ、それでもすべての人を救い出すことはできない。自ら絶望することを選んだ人を、無理やり幸せにするようなことはできないし、きょうも殺されて死んでいく子供を救い出すのにすら間に合わない可能性がある。
     それが、現実世界というものである。 
  • 傑作か? 凡作か? 久慈進之介『PACT』を巡る議論の扉がいまひらく(かも)。

    2014-10-11 07:00  
    51pt


     ふたつ前の『東のエデン』の記事にハラルヤさんがコメントを付けてくれているので、ちょっと転載しておきます(読みやすさを考えて改行とインデントを加えました)。

     名指しで呼ばれたら来るしか無いですね。
     『東のエデン』は名作ですよ。TVシリーズ劇場版Ⅰ・Ⅱ全て含めて俺オールタイムベストですよ。
     ペトロニウスさんがなんか言ってますが今回ばかりはトンチンカンな戯言ですね。
     何故なら『東のエデン』はあの時代の僕の為に作られた作品なので僕以外の人間には観賞する権利なんか無いからです(狂信者かつ極右な意見)
     まあもう少し観賞対象者を広くして滝沢朗と同学年(昭和63年4月1日〜平成元年3月31日生まれ)または当時ニートだった人間の為以外には作られていないんです!(カルトな意見)
     さらにさらに鑑賞対象者を極限まで広く捉えたとしても「あの時代」(2009年4月9日〜2011年3月10日)の日本