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2015年3月の記事 36件

プロフェッショナルブロガーの条件とは。

 三つ前の記事のコメント欄でペトロニウスさんの話題が出ていました。  いやあ、まあ、たしかにペトロニウスさんというひとも強烈なキャラクターだよなーと思いますね。  ぼくから見ると非常に面白い人なのだけれど、一方で鼻持ちならないと感じるひとの気持ちはよくわかる。まあ、そう思うよな、と。  たぶん何らかの自負がある人ほどペトロニウスさんとはぶつかりやすいんじゃないかな。  ぼくはまったく何の自負もないので一切ぶつからない(笑)。  そろそろ10年近く付き合っているというのに、ほとんど意見が衝突しないですからね。  相性がいいということもあるのだろうけれど、ふしぎといえばふしぎです。  まあ、お互いに合わせているという側面もあるのだろうけれど、ぼくはそれがまったくストレスになっていないのですよね。  それも含めて相性の良さというのもしれません。  ぼくは女子にはまったくすこしもこれっぽっちもかけらたりともモテませんが、男子にはけっこうモテます(笑)。  たぶん性格がアクが強くないから、アクが強いひとたちは話しやすいんじゃないかな、と分析しているのですが、じっさいのところ、どうなんだろ。  いやー、女の子にモテたいよね。まあ、口先でそういうだけで、べつに何の行動にも移さないのですが……。いまはそんなことをいっている場合じゃないしなあ。  ――こういう自分語り記事はエンターテインメントとしてのバリューがないので、読まされるほうは退屈かもしれませんが、書いているぼくとしてはなかなか楽しいですね。  やっぱりブログって、すべての記事を合目的的にしようとすると、辛くなってきちゃうんですよね。  意味もなく目的もない記事がたまに混ざっていないと窮屈に感じるわけです。  プロフェッショナルなブロガーとしてはあるまじき記事なのかもしれませんが、いいんだ、おれ、名ばかりのプロだから。  ちなみにブログをプロとして運営するとはどういうことかというと、 1)一定以上の水準の記事を、 2)一定以上の間隔で、  更新しつづけることでしょう。  理想としては「何かしら工夫が凝らされた面白い記事」を「毎日」更新することがベストだと思います。  ぼくは最近、「毎日複数本」更新していますが、それが意味があるかどうかはあと何日か経過を見てみないとわからない感じ。  以前にも書きましたがなぜか爆発的に会員数が増えた月には1日3本近いペースで記事を更新していましたから、ひょっとしたら毎日複数本の更新には意味があるのかもしれません。ないかもしれませんが。  とにかくこの「1」と「2」を両立させることは意外に簡単ではなく、ぼくは四苦八苦しています。  もっとも、 

プロフェッショナルブロガーの条件とは。

初音ミクは新時代のメディアミックスを導く天使となるか。

 しばらく前に初音ミクのジグソーパズル(300ピース)を買ったのだけれど、なかなかやる機会がありません。  まずはケースを買わないと始められないな、と思うのですが。  ぼくは以前から初音ミクが象徴するボカロ(ボーカロイド)文化に興味を抱いていて、ちょっとふれてみたいな、という気はあるのですが、どこから手を出したらいいのかわからなくて放置しています。  ニコニコ動画でミクさんの動画をいくつか見てみたのだけれど、それだけではボカロ王国の門のなかに入ったともいえないのではないでしょうか。  じっさいにいくつか聞いてみた感想といえば、センチメンタルな歌詞が多いかな、という程度。  もちろん、それもボカロの表面をさらっと撫ぜたような評価に過ぎないのでしょう。  なぜいまさらボカロに興味を持つのか?  それはやはりボカロが若い世代を象徴するカルチャーであるように思われるからです。  ぼくがしっている文化とはまた違うテン年代の若者たちの文化。  おお何か面白そう、わけわからなさそう、変な人がいっぱいいそう、ということでわくわくするのですが、でも、どこから手をつけたらいいかわからないんですよね。  まずは読みさしの『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』を読み終えなくてはならないのかもしれません。  それとも、もっとニコニコにアップされている動画を見て行くか――ぼくは初期のボカロはあまり受け付けなかったひとなのですが、最近上がっている曲の数々は素直に「ええなー」と思います。  技術が向上しているのか、こなれてきているのか? いや、ぼくがボカロに慣れただけかもしれません。  それにしても、ボカロ文化はいま、若者層において非常にメジャーなものなのでしょう。  ただ単にボカロそのものだけではなく、その周辺文化もすごい勢いで拡大していっているようです。  先日書店の店頭でぶらぶらしていたところ、ボカロ小説として有名な『カゲロウデイズ』がたくさん平積みされていて、780万部と書かれていました。  は?  既刊わずか6巻で780万部?  それがほんとうならいまのライトノベルで最も売れている『ソードアート・オンライン』を大きく上回る数字ですし、おそらくライトノベル史上でもここまで売れた作品はないはず。  『ロードス島戦記』の全盛期でも敵わないんじゃないかな。  うーん、ちょっと信じられないような数字なのですが、でも、まさか出版社がウソをつくはずはないから、事実なのでしょう。  ことほどさようにボカロ文化は若者層にとってメジャーだということなのでしょうね。凄いなあ。  年長の世代から見れば時にイミフとも思える作品なり文化が、若者の熱い支持を得てメジャーになっていく。  いつの時代もくり返されて来たことではありますが、ボカロ小説もまたそういうもののひとつなのかもしれません。  いや、もちろん、ボカロを支持する「大人」はたくさんいるけれど、それにしたってボカロ小説はやはり若者文化でしょう。  ぼくはいままでボカロこそある程度しっていても、ボカロ小説については???な状態でした。  いわばまったくのノーマーク。その上でただ遠巻きに眺めているだけだったのですが、これくらいはっきり数字になって出て来ると興味が湧いてきます。  うーむ、とりあえず「カゲロウプロジェクト」から入ってみるとするか。  実は『カゲロウデイズ』は2年近くまえにKindleで買ってあったりするのですが――買っただけで、読んでいなかったのですね。  ちなみに、ボカロ小説とその背景についてはこの記事がわかりやすいです。 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1308/02/news007.html  こういう内容を読むと、「オタク」という括りは、ほんとうに何の意味もなくなってしまったんだなあ、と感慨深い。  おそらくはご存知かと思いますが、初音ミクは一見してそう見えるようなオタクのアイドルでも何でもないのですね。もっと普遍的な存在だと捉えるべきなのでしょう。  この先、「ゆるいオタク」が増えていくことを見越して「ゆるオタ残念教養講座」と題したこのチャンネルのコンセプトも、どうやらもう古くなりすぎているようです。  だからといって、「次」の世代を指すネーミングはまだ存在しないので、どうしようもないのだけれど。  現時点でおぼろげに感じるのは、 

初音ミクは新時代のメディアミックスを導く天使となるか。

『秒速5センチメートル』はもう成立しない。

 LINEやTwitterなどのいわゆるソーシャルネットワーキングサービスが発達して変わったことはいくつかあるでしょうが、ぼくはここで「別れ」が変わってしまったことを挙げたいと思います。  いままでの社会においては、ひととひとは状況や環境が変わると何かしらの「別れ」を迎えることになることが常でした。  たとえば「卒業式」などは最も大々的な「別れ」のイベントであって、そこを過ぎると、それまでどれほど親しくしていた相手ともしだいに疎遠になり、ついには別れることとなる。  それが、いまままでの常識だったといっていいと思います。  もちろん、いつまでも地元に残って地元の友人とつるみつづけるという人もいるだろうけれど、それにしても状況なり環境が変化したらいままでの友人や家族や恋人とそのままの関係でいることはむずかしかったのではないでしょうか?  しかし、SNSはこの「あたりまえ」を決定的に変えました。  いつでもどこでも、ひととひとが空間の隔たりを超えて「つながっている」ことができる状態を作ってしまったのです。  じっさい、ぼくはLINEやmixiといったSNSを使って、日本中(というか世界中)の友人たちとつながっています。  ぼくは不勉強にして日本語しか使えない身の上なのでいまのところ友人は日本人に限られていますが、世界中の多様な人々と「つながる」ことも決して不可能ではないでしょう。  これによって、何が起こったか。  それは社会学者が研究するべきテーマですが、ひとつには恋愛小説やテレビドラマが「ドラマティックな別れ」を演出しにくくなったと思います。  携帯電話の普及は推理小説を作りづらくしたなどといわれますが、SNSの普及はドラマティックなラブストーリーを生み出しにくくしているかもしれません。  たとえば、幼い恋人たちが切ない別れを告げて離ればなれになる『秒間5センチメートル』などにしても、いまではそこまでほんとうに離ればなれになる必要はないかもしれません。SNSでつながりつづければいいわけですからね。  いや、 

『秒速5センチメートル』はもう成立しない。

ぼくに欠けているココロ。

 以前にも書いたことでもあるし、自慢話と受け取られると恐縮なのですが、ぼくはひとに嫉妬するということがありません。  どういえばいいのか、「他人の才能や成功を妬む心」というものが、ぼくにはまったく欠けているらしいのですね。  それはまあ人間だから、イケメンとかお金持ちとかを見ると「うらやましいにゃー」とは思うのですが、だからどうしようということはない。  「世の中にはすごいひとがいるにゃ」以上の感慨は湧いて来ません。  いや、劣等感は人並み以上にあるのですが、その劣等感をひとのせいにしたということは、まず一度もないと思う。  ぼくにはその種の感情をひとに向ける回路がないらしい。  だから、たとえば自分がほとんどお金がなくても、お金を持っているひととの付き合いが気おくれするということはありません。  じっさい、ぼくの友人は学者だの作家だの経営者だの医者だの、いわゆる社会的ステータスが高いといわれる職業の人が多いのですが、ぼくは「きっと何者にもなれない海燕さん」のままそういう人たちと付き合っているわけです。  だからといってまったく何とも思いません。  すごい話を聞くと「へえ、凄いですねー」と素直に思うだけ。  ぼくはそういうところは非常に素直です。  ひとの自慢話をきけば凄いと思うし、愚痴をきけば大変だな、と思うのですね。  だから、ぼくはだれかの自慢話とか愚痴を聞くのが嫌いではない。  初対面のひとの自慢話を延々と聞いていて、まわりのほうがいやな気分になっていた、ということもありました。  いまでも母の仕事の愚痴とか、何時間でもきいています。  ぼく、ひとのいうことをまず否定しないひとなので、わりと話しやすいんじゃないかと思うんですけれど。  まあ、「ききながされている」という印象になる場合もあるだろうけれど……。  こういうことを書くと「自分でそう思い込んでいるだけだろ」と思われるかもしれませんが、これに関してはほんとにそうだと思うんだよな。 

ぼくに欠けているココロ。

「小説家になろう」から生まれた傑作! 『リーングラードの学び舎より』のすごさはここだ。

 オーバーラップ文庫の新刊、いえこけい『リーングラードの学び舎より』を読んでいます。  「小説家になろう」の掲載作品を文庫化したものですが、いやー、面白い。  ぼくは「なろう」の作品では『勇者様のお師匠様』と並んでいちばん好きかも。  ランキングでは必ずしも上の方までは行かなかった作品なのですが、内容的には秀逸です。  まあ、第1巻の時点ではすべての真価は発揮されていないのだけれど、それにしても抜群に骨太。  物語の骨格に脆弱さ(ヴァルネラビリティ)がまったく感じられない。  今回、あらためて読んでいるわけですが、やはり素晴らしい作品だという印象は揺らぎません。  というか、文庫化にあたってシェイプアップされて、いっそう骨格のたしかさが増したかも。  ちなみにこの作品の編集さんはぼくの十年来の知りあいですが、この記事はこれっぽっちもステマではありません(笑)。奴に借りはねえ。  物語は、主人公の青年ヨシュアン・グラムが新たに始まる義務教育の教師に専任されてリーングラードと呼ばれる土地へ向かうところから始まります。  そこでかれを待っていたのは、それぞれに個性的な教師たち、そして生徒たち。  初めはあまりやる気のなかったヨシュアンですが、さまざまな事件を通じて、しだいに教育に熱中していくことになります。  そして明かされるヨシュアンの正体。実はかれは――と、まあこれはネタバレということにしておきましょう。  いくらか察しがいい読者ならすぐにわかることですけれどね。  いずれにしろヨシュアンは「術式」と呼ばれる魔術的なスキルの達人で、その能力はほぼ超人的な域に達しているとされています。  派手なチートというわけではなく、実戦で磨きあげた現実的な技術なのですが、この能力を使いつついかにして「次世代」を育て上げるか、がこの物語のメインプロットです。  そうなのですが――実はこの小説、一見するとその本筋とはまったく関係ないかに見える設定が膨大に存在しています。  それも本編のなかにさりげなく入れ込まれている。いちばんわかりやすいのは、「白いの」とか「黒いの」といった表現が主人公の語りのなかに頻出してくることでしょう。  白いの? 黒いの? それがいったい何を指しているのか、本文中では一切説明がないまま進んでいくので、読者は推理しつつ読む必要があります。  そう、この小説はそういう意味ではまったく読者に親切ではありません。読む力を要求する作品です。  しかも、クエスチョンに対するアンサーは必ずしもすぐには出て来ません。  しかし、だからこそ作品世界を読み解いていく面白さがある。  ちなみに「白いの」は絶対に人気がでると思う。みんな大好き白いの。可愛すぎるぞ白いの。でも、白いのルートはないんだろうなあ、うーむ。  まあ、とにかくこの背景設定をさりげなく、しかもあたりまえのような手際で物語のなかに散りばめていくあたりのやり方がこの作品の最大の特徴といっていいと思います。  作者のいえこけいさんはインタビューで影響を受けた作品などを語っているのですが、それを読んでも、その読書歴からどうしてこの作品が生まれたのかよくわからない(笑)。  これはもう「才能」というしかないのかもしれないけれど、それくらい独創的な作品ですね。  ただ、文庫版ではいくらか展開が早くなっているぶん、アンサーが早く出て来る印象が強いので、「いったいこれは何のことなんだ?」と悶々とする時間は減っているかもしれません。  ここらへんは一長一短かな、と思いますね。文庫版のほうがはるかに読みやすいことは間違いないけれど。  特に弱点といわれていた序盤が修正されていることは大きいです。  ウェブ版では序盤のバカ王との対話で脱落するひとが大勢いただろうからね。  普通わからないよな、あのバカ王がほんとうは英邁な名君だなんて設定があるのは。  そういうわけで膨大な謎と設定に彩られた作品には違いないのですが、しかし、その謎や設定こそがメインなのか?というと、実は「そうではない」。  この小説の面白さは、 

「小説家になろう」から生まれた傑作! 『リーングラードの学び舎より』のすごさはここだ。

アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

 いよいよ来週から『アルスラーン戦記』アニメ版がスタートします。  原作は田中芳樹のベストセラー戦記小説。  架空の王国パルスとその周辺の諸国家を舞台に、ひよわな王子アルスラーンの冒険と成長を描いた気宇壮大な大河ロマンです。  86年に始まった原作はこれまで既刊14巻が発売されていて、完結を目前に控えたところまで来ています。  原作は一度漫画化及びアニメ化されていますが、このたび、荒川弘という才能を得てふたたび漫画になりました。  荒川さんによる漫画は基本的には原作に忠実ですが、ところどころにオリジナル要素を盛り込み、壮麗な原作をいっそう勇壮な物語に仕立てあげています。  それがいまテレビアニメという形で展開するわけです。期待せずにはいられません。  そこで、この記事では「10分でわかる『アルスラーン戦記』」と題して、この未曾有の物語の説明をして行きたいと思います。 ■『アルスラーン戦記』ってどんなお話?■  広大な大陸を東西に貫く「大陸公路」の覇者、パルス王国はいま、西方からやって来たルシタニア王国の侵略を受けていた。  勇猛でしられるパルス国王アンドラゴラス三世はただちに軍勢を集結、アトロパテネの平原に布陣する。  無敵を誇るパルス軍が敗れることなど、かれは考えてもいなかった。  ところが、パルスの将軍として一万の兵を預かる万騎長カーラーンが味方を裏切ったことによって、パルス軍は壊滅、アンドラゴラスは敵軍に捉えられる。  そしてその頃、パルスのただひとりの王子であるアルスラーンはただひとり平原をさまよっていた。  かれは絶体絶命のところを「戦士のなかの戦士」ダリューンに救われ、ただふたり、戦場を抜け落ちる。  アルスラーン、ときに十四歳。  このひよわな少年がやがて長きにわたるパルス解放戦争を導いていくことになるのである――。  『アルスラーン戦記』は特にとりえがないように見えるパルス国の王太子アルスラーンの成長物語であり、パルスと野心的な周辺諸国を巡る戦記ファンタジーです。  ファンタジーとはいっても、魔法的な側面はそれほど強くありません。  後半になってくると邪悪の蛇王ザッハークの魔軍などというものが出て来てファンタジー色が濃くなっていきますが、当面、アルスラーンが取り組まなければならないのはパルス国を占拠してしまったルシタニア軍の討伐と国土の解放です。  したがって、あくまでメインの要素となるのは戦争や謀略。  そしてそこに、アルスラーンの出生の秘密が関わってきます。  そして、そもそもなぜカーラーンはパルスを裏切り、国土を灰にしたのか?  カーラーンを意のままに操るかに見える「銀仮面卿」と呼ばれる人物は何者なのか?   「銀仮面卿」に力を貸す暗灰色の衣の老人の目的とは何か?  アンドラゴラスが知っている秘密とは何なのか?  バフマン老人は何を悩むのか?  さまざまな謎が謎を呼ぶのですが、それらはすべてアルスラーンによるパルス解放にあたって解き明かされることになります。  ひろげられた大風呂敷がみごとにとじていく「王都奪還」のエピソードは見事としかいいようがありません。  まあ、そのあともさらに物語は続いてゆくのですが、この長い長い小説はいまになってようやく終わろうとしています。  これから読むひとはあまり長い間新刊を待たなくて済むかもしれません(はっきりとはわかりませんが……)。  田中芳樹は多くの魅力的なシリーズを生み出しては未完で放り投げていることでしられている作家なのですが、決して風呂敷をとじる能力に欠けている作家ではありません。  この流浪の王子と邪悪の蛇王を巡るあまりにも壮大なプロットがどのようにして完結を見るのか、期待しても良いでしょう。  「皆殺しの田中」と呼ばれるくらいの作家ですから、おそらく物語の終幕に至っては何かしらの悲劇が待ち受けているはずではあるのですが、その点も含めて続刊を楽しみに待ちたいところです。 ■どこが面白いの?■  先ほども書いたように、アトロパテネの野を命からがら脱出したアルスラーンに付き従うものは、最強の騎士ダリューンただひとりです。  それに対し、かれが打倒しなければならないルシタニア軍は、アトロパテネの野の会戦で多数の兵を失ったとはいえ、なお、その数30万。  いかにダリューンが無敵といっても、ひとりで30万の軍を倒すことなどできるはずがありません。  したがって、アルスラーンはパルス全土に残っている兵たちを糾合し、ルシタニア軍に匹敵する軍を生み出して戦いを挑まなければならないのです。  初めふたりだったアルスラーンたちが、やがて軍師ナルサスやその弟子エラム、流浪の楽師ギーヴ、女神官ファランギースといった人々の協力を得、また多数の軍勢を集め、しだいしだいに形勢を逆転していくそのカタルシスが『アルスラーン戦記』序盤の読みどころです。  いったい凡庸な王子とも見え、周囲からもそのように扱われていたアルスラーンがいかにしてこの非凡な人々をひきいる「王」にまで育っていくのか。その点もまた見どころのひとつでしょう。  そしてまた、きわめて劇的に演出された名場面の数々!  ことケレン味という一点において、『アルスラーン戦記』に匹敵する小説は日本にはいくつもないのではないでしょうか。  それくらい何もかもがドラマティックに描かれている。  そもそもいきなり無敵だったはずの軍隊の「敗戦」から物語がスタートするあたり、凡庸ではありません。  そしてその状態からの史上空前の逆転劇は大きなカタルシスがあります。  ひよわと見られていたアルスラーンはやがて「十六翼将」と呼ばれる最強の騎士16人を麾下にくわえ、「解放王アルスラーン」としてしられるようになっていくのですが、そこにまで至るまではいくつもの試練を乗り越えなくてはなりません。  物語が始まった時点では、アルスラーンはまだ何者でもないといっていいでしょう。  そのアルスラーンが、ちょっと「個性的」という言葉だけではいい表せないくらい個性的な面々をどのようにしてコントールしてゆくのか、ひと筋縄では行かない物語が待っています。  殊に旅の楽師にしてパルス最高の弓使いであるギーヴなどは、王家への忠誠心は皆無、美貌の女神官ファランギースに惹かれてアルスラーン陣営に入るという人物だけに、並大抵のリーダーに使いこなせるような性格ではありません。  しかし、最終的にアルスラーンはそのギーヴからすらも忠誠を誓われるようになっていくのです。  武術においても知略においても必ずしも秀でたものを見せないアルスラーンの才能とは何なのか?  ぜひ本編をお楽しみください。 ■『アルスラーン戦記』独自の魅力は何?■  そうはいっても、その手の戦記ものやファンタジーはもう見飽きたよ、というひともいるでしょう。  じっさい、『アルスラーン戦記』が開幕した頃にはライバルとなる異世界戦記作品といえば栗本薫の『グイン・サーガ』くらいしかなかったのですが、その後、雨後の筍の喩えのように膨大な数のその種の作品が生み出され、ファンタジー的想像力はすっかり陳腐化しました。  しかし、いまなお『アルスラーン戦記』はほかの凡百のファンタジーとはものが違います。  この小説のどこが特別なのか? 

アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

それは優しさのレッスン。『無職転生』で学ぶひとを赦す心。

 「小説家になろう」で連載中の『無職転生』漫画版第2巻が出ました。原作は佳境を迎えているようですが、漫画はまだ始まったばかりです。  うーん、ほんとうはKindleで欲しいところなのだけれど、いつになるかわからないから紙で買おう。  では、いまからちょっとTSUTAYAまで行って来ます。――(移動中)――しゅたっ。買って来ました。  さっそく読んでみましょう。――(読書中)――びゅわっ。読み終えました。  いやー、この巻も面白かったですね!  小説を漫画化したときのクオリティは当然ながら千差万別であるわけなのですけれど、この『無職転生』の漫画版はほんとうによくできている。  原作に対する理解度の高さ、エピソードの取捨選択の見事さ、純粋な作画能力、キャラクターデザインのセンス、いずれも文句なし。  まさに『無職転生』の世界がここにある、と感じます。  いまさらながら説明しておくと、『無職転生』はあるとき偶然に異世界へ転生することとなったひとりの中年ニート男性が、その世界で新たに「本気で生きる」ことを決心して生きていくというストーリー。  いくらかの才能はあるものの、特別にチートを与えられているわけでもない主人公が、ただ「本気」の力で少しずつ成長していくさまが読みどころです。  大長編ではありますが、大変面白いので未読の方は読んでみてください。「小説家になろう」の不動の首位です。  で、この漫画版はその原作を実にうまく処理しているように感じられます。  それこそ「わかってる度」が高いという表現を使いたいくらいですが、もうひとつ、おそらく作者が女性であることがプラスに作用しているんじゃないかな。  男性作家が描いていたらルーデウス(転生前)の気持ち悪さがシャレにならないレベルになっていた可能性がある。  文字で読むぶんにはスルーできても、ヴィジュアルで見せられるときついことってありますからね。  原作では転生前の現実世界におけるルーデウスはほんとうにどうしようもない男として描かれているので、それをそのまま執拗に描いていたら辛いところだった。さらっと流した選択は正しかったと思う。  で、この第2巻です。  この巻では、前巻のロキシー、シルフィに続いて、第三のヒロインであるエリスが登場します。  ルーデウスをして「狂犬」といわしめる凶暴なお嬢様なのですが、ルーデウスはある手管を使ってこの「狂犬」を調教していきます。  いかにして凶暴きわまりないエリスがルーデウスに「デレ」ていくのか、そこらへんが読んでいて実に楽しい。  原作でもここらへんから一気に面白くなってくる感じだったんですよね。  そして、この先では第一の「ターニングポイント」が待ち受けているのですが、それはいったいどのようにして描かれるのでしょうか? いまから楽しみです。  それにしても、「小説家になろう」の膨大な作品群のなかで首位に屹立する『無職転生』の魅力とは何でしょう?  ぼくはそれは「ひとに対する優しさ」に尽きるとぼくは思います。  主人公のルーデウスは一度、堕ちるところまで堕ち切った人間です。  ひととして最低のところまで堕落しきった経験をもつかれは、それがために軽々にひとを責めません。  かれのまわりの人間は欠点だらけの人物が多いのですが、そういう人々に対しても、かれの目はどこか優しいのです。  もちろん、作品世界は現実世界とくらべても相当にひとにきびしい世界で、ともするとひとは簡単に死んだり廃人になったりします。  また、現代日本の倫理からすればかなりゲスな行動に走るひとも少なくありません。  ですが、そういう世界であり人々であっても、ルーデウスが周囲を見る目は決して責め咎めるものではない。  その底知れない優しさこそが、この小説の最大の魅力なのではないでしょうか。  現代日本は、あまりに「正しさ」ばかりが強く語られすぎる社会であるようにも思われます。  ぼくはひとを責める「正しさ」だけでは、それがどんなにほんとうに正しいとしても、社会は行き詰まると思う。  愚かで欲望に走りやすい人間たちを赦し、認める「優しさ」があって初めて、人間社会は円滑に動く。そうでないでしょうか?  なぜなら、 

それは優しさのレッスン。『無職転生』で学ぶひとを赦す心。

長く成長していける人とそうでない人の小さくも決定的な差とは何か?

 ども、きょうからブログ強化週間に入ろうと思います。  いつもと何が違うのかというと、いつもより一生懸命に書く、これだけです。  3月29日の0時から4月4日の24時までの168時間のあいだに質量ともにどれだけの記事が書けるか、試してみようと思っています。  いっぺん自分の限界をはっきり知っておきたいと思うのですね。  そういうわけで、この間はむやみと記事が増えるかもしれませんが、気にせずスルーしてください。べつに全部読む必要はありませんから。  さて、ぼくはもう14、5年くらいブログを書きつづけているのですが、そのあいだ継続的に成長してきたという実感があります。  まあ、「前よりマシ」程度のことに過ぎず、一般的に評価を得られるほどの実力があるかどうかは怪しいものなのですが、それでも少しずつ少しずつ「マシ」になっていっていると自分では思っている。  もちろん、「昔のほうが良かった」という方もいるでしょう。  ひとの評価はそれぞれですから、そういう視点を否定することはできません。  しかし、ぼくとしては少しずつ少しずつ「前よりマシ」になりつづけている。そう思っているのですね。  まあ、たしかに失われたものはあるだろうけれど、得たものはそれ以上に大きい。  ほんとうにブログを続けて来て良かったと思っています。これがなかったらぼく、ただのひきこもりだったものなー。  いや、いまでもただのひきこもりなんだけれど、ひきこもり生活を楽にするためのお金を稼ぎ出せることは大きい。  お金さえあればひきこもりなんて気楽なものですよ。レッツエンジョイニート!  それはともかく、ブログであれ何であれ、「続ける」ということは大きい力を持つものです。  継続は力なり。だれもがその意味を知っているでしょうが、それでいてじっさいに続けることはむずかしい。  何かを10年、20年と続けていくためにはそれが「習慣」になっている必要があるからです。  ジョン・トッドは「われわれにとって怠惰ほど有害で致命的な習慣はない。にもかかわらず、これほど身につきやすく、断ちがたい習慣もない。」といいました。  あたりまえといえばあたりまえのことで、怠惰とはつまり「習慣の欠如」に他ならないからです。  そしてまた、それでいて、ただオートマティックにある習慣を続ければいいというものでもない。  常に現状をアップデートしつつ続けるということが大切だと思うのです。  自分はまじめに生きている、学校も会社も休んだことはない、怠惰とは無縁だ、そういうふうに語るひともいらっしゃるでしょう。しかし、そうでしょうか?  そういう方は実は「目の前の物事に対し思考停止してただ同じことを続けるだけ」というべつの形の怠惰に陥っているかもしれません。  ただ同じことを漫然とくり返すということは、周囲から見ればいかにもまじめであるかのように見えるかもしれませんが、成長の契機を欠いています。  それでは、どこへ行くこともできない。つまり、ぼくたちに必要なものは 

長く成長していける人とそうでない人の小さくも決定的な差とは何か?

『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

 アニメ『艦これ』の最終回の評価、さんざんだったようですね。  ぼくも見ましたけれど、たしかに「……」な出来。  とくべつ作画が崩壊したとかそういうことじゃないんだけれど、シナリオの脈絡がなさすぎる。  いや、脚本家としてはすべての描写に意味があると主張したいかもしれないけれど、ファンが一生懸命「解釈」しないと意味が通らない時点でやはり失敗でしょう。  シリアスをやりたいのかコメディをやりたいのかよくわからないですしね。シリアスな場面でむやみと萌えカットを挟むのはやめてほしいところ。  ただ、今回、このアニメ版が不評なのは、単純に出来が悪いという以上に、原作の設定を大きく改変しているという一点に問題があるらしい。  意味もなく原作を改変すると熱心なファンが沸騰するといういいサンプルですね。  その話を聞いてすぐに思い出したのがアニメ『真月譚月姫』であるキャラクターがスパゲッティを食べている描写があったこと。  本来ならまったくどうということはない一シーンなのですが、そのキャラクターは原作では根っからのカレー好きという設定なので、ファンは強烈な違和感を抱き、大きな話題になったのでした。  ことほどさように視聴者は作品のディティールに愛着を抱き、大切にするものだということです。  製作スタッフにしてみれば「そんなの、どうでもいいじゃん」と思うかもしれませんが、むしろそういう細部こそが作品に命がこもるかどうか決する決定的なポイントなのです。  『真月譚月姫』にせよ、『艦これ』にせよ、そこまでクオリティが低いアニメというわけでもない。  むしろそれなりにはよくできているからこそ、原作ファンは「何か違う」と感じてしまうのだと思います。  で、面白いのは、同じ『真月譚月姫』であっても、佐々木少年による漫画版の評判は非常に高いんですね。  ぼくも全巻読みましたが、たしかに傑作だったと思う。  ただ、漫画は漫画でオリジナル展開を付け加えたりしているんですよ。  それなのに、そのことに対して文句をつけるファンはほとんどいない。いったいどこが違うのか?  それについて、ぼくは昔、「わかってる度」という尺度を考えたことがありました。  「原作に忠実」と評されている作品でも、じっさいにはメディアが違うわけだからそこまで忠実に映像化しているはずはない。  やはり、原作の描写や設定を何かしら解釈して描き出していることには違いないわけです。  しかし、それらの作品では原作に対する理解とリスペクト、つまり「わかってる度」が高いから、ファンがそうしてほしいように解釈している。  結果、あたかも何もかも原作に忠実であるかのような印象を与える作品ができあがることになる――そういうことなのではないかと。  つまり、『月姫』の漫画とアニメでは「わかってる度」に差があるわけです。  「わかってる度」が高いとは、 

『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

反リア充革命ラノベは『涼宮ハルヒの憂鬱』の夢を見るか。

 ども。絶賛風邪ひきちう海燕です。  先ほどクスリをキメたのでだいぶ体調はよくなったけれど、まだ完調には遠い感じ。  ほんとうなら横になって体を休めるべきなのでしょうが、暇なので記事を更新します。  ほんとにこのブログはぼくにとって仕事なのか趣味なのかわかりません。このあいだ確定申告した時には「あー、そういえば、仕事だったっけ」と思い出したけれど。  さて、きょう取り上げるのは電撃大賞銀賞受賞のライトノベル『いでおろーぐ!』。  あまりインパクトのないタイトルですが、「反恋愛主義青年同盟部」を主催するひとりの少女と、彼女の活動に共鳴して同盟に入った同級生の少年のラブコメです。  ――で、ですね。いつもだとここからいかにこの作品が面白いのか詳細に説明していくところなのですが、正直、微妙な出来なんだよなー。  8000を超えるとかいうとんでもない量の応募作のなかから受賞作に選ばれているだけあって、アイディアは悪くないんだけれど、小説としての完成度はもうひとつ。  いや、つまらないわけじゃないんですよ? キラリとしたところはありますし、もし次巻が出たら買おうかなと思うくらいなんだけれど――でも、さすがに一本の長編小説として粗が多すぎ。  まず、ところどころあきらかに日本語がおかしい。  こういうのって校閲でどうにかならないんですかね。べつにライトノベルに美文は求めないけれど、基礎的な文法くらいは守ってほしいところ。  そして次に、設定に無理がある。  ちなみにあらすじを引用するとこういう話です。 「恋愛を放棄せよ! すべての恋愛感情は幻想である!」  雪の降るクリスマスイブ、カップルだらけの渋谷。街の様子に僻易していた平凡な高校生・高砂は、雑踏に向かってそんなとんでもない演説をする少女に出会った。 「我々、反恋愛主義青年同盟部は、すべての恋愛感情を否定する! 」  彼女の正体は、同じクラスの目立たない少女、領家薫。演説に同調した高砂は「リア充爆発しろ! 」との想いを胸に、彼女が部長を務める"反恋愛主義青年同盟部"の活動に参加する。やがて集まった仲間とともに『バレンタイン粉砕闘争』への工作を着々と進めるのだが――!? 「我々は2月14日、バレンタイン・デーを、粉砕する! 」  ただ、ここで書かれていない重要な要素がひとつあって、それは作中で「女児」と呼ばれている異星人の存在。  この神に等しい力をもつ(なぜか小学生女児の姿の)異星人、唐突に出て来て主人公とヒロインをくっつけようとするのですが、その理由がヒロインの反恋愛活動が彼女の目的にとって邪魔だからというもの。  なんと人類に恋愛感情を与えたのは彼女で、その目的は人類を繁殖させて地球の全生命体を絶滅に追い込むことだというのです――って、いくらなんでも無理だろ、その設定。  放っておくとヒロインの「活動」が全人類規模にまでひろがっていって人類を衰退させ、結果として人類以外の全生命を救う?  いやいやいやいや、そんなばかな。たしかに彼女の演説はちょっと面白いけれど、人類全体を衰退させるほどとは思えないぞ。  仮に紙面では伝わらない何か超能力めいたカリスマ性があると仮定しても、それならその子を殺してしまえばいいだけじゃん。地球の滅亡を企む異星人が何をためらっているんだか。  物語の最後のほうではこの女児も無敵ではなく、なるべく直裁的な手段には出たくないことが語られているのですが、それにしても邪魔者は消してしまうほうが簡単だろうに。  この点はAmazonレビューで的確に批評されています。  女児が出るまではかなりおもしろかったです。しかし領家を「『自分の利益を損ないうる現実的な脅威』と見なし、対処しようとする強大な存在」である女児を出したせいで「馬鹿な話を大真面目に」にも「馬鹿な話をとことん馬鹿に」のどっちにも徹しきれなくなってしまった感じがします。  まさにそんな感じ。  この手の「とっぴな妄想だと思われていたものが実は真実だった」というアイディアの作品は昔からたくさんあって、パラノイアSFと呼ばれたりします。  ライトノベルでも既に過去に大きな例がある。谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』ですね。 

反リア充革命ラノベは『涼宮ハルヒの憂鬱』の夢を見るか。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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