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世の中ってむつかしいね。
2016-05-27 23:5551pt
どもです。ここ2日間、エネルギーが尽き果てて休んでいました。
原因はたぶんその前の3日間で20冊くらい続けざまに本を読んだこと。
せっかく早起きできたんだから本を読むぜっ!とばかりに読みまくっていたらあっというまに気力が尽きてしまいました。
つくづく思うのですが、この世には面白いものがたくさんある。お金もそこそこある。時間すらぼくの場合は余っている。ただ、エネルギーだけが足りない。エネルギーをなんとかしないと人生を楽しみつくすことはできないなあ、と。
いままではわりと時間のある限りコンテンツを消化しつくそうと思っていたのだけれど、たび重なる失敗にさすがのぼくも学習しました。
いくらたくさんの作品があり、それを消化する時間があっても、エネルギーがないとすぐ倒れますね!
やっぱり一日中ひたすら本を読みつづけるとか、映画を見つづけるとかは無理があるんだろうなあ。少なくともぼくの場合、3日ともたないようです。
ぼくの人生テーマとして「どうすれば人生を最大限に楽しんで死ねるか」があるわけですが、とりあえずひたすら猪突猛進するビッテンフェルト的なやり方は問題があることがわかりました。
というか、精神力と体力の限界を考えずに突き進むって『銀英伝』的には愚か者だよね。申し訳ありません、わが皇帝(マインカイザー)。
まあ、1日に起きている時間がたとえば16時間くらいあるとして、その16時間を休まずコンテンツ消化しつづけることは無理だとわかったわけだから、次善は毎日適度な量を消化しつづけることかな、と。
たとえば1日1冊は読むようにするとか。体力と精神力がもつギリギリまでスケジューリングして、あとは休む、と。
ほんとうはそっちのほうが長期的に見ればたくさん消化できるような気もする。
でも、そうすると必然的に時間が余るのですよね。その余った時間を何に充てるか。
まあ休むことに充てればいいのだろうけれど、それはもったいないような気がしてならないんですよね。
いや、そういって倒れていたらなんにもならないわけだけれど……。
この、「時間を有用に使っていないともったいなくてならない」というけち臭い考え方、実に -
13時間の使い方。
2016-05-06 21:1651ptども。きょうも暇な海燕です。暇だから仕事をすることにします。
というか、パソコンの前に座ると指がかってに記事を書いているんですね。
テーマとコンセプトを決めないまま思いつきで記事を書くと薄い記事になるので良くないと思うのだけれど、頭から思考が漏れ出て指が動くことはいかんともしがたい。
お前の頭には穴があいているのか、と思われるかもしれませんが、あいているのですよ。で、そこから思考がだだ漏れになっているのです。困ったものです。
それにしても、この日常の暇さをどうにかする術はないものでしょうか。
いや、いまも積読と積み映画は山になっていて、その意味では「忙しい」という言葉すら使いたくなる状況なのですが、だからといって毎日毎日、本ばかり読んだり映画ばかり見て過ごせるかというとむずかしい。
ノンフィクション系の本はまだしも、映画は感情移入して見て初めて価値を持つものですからね。1日に何本も見ることはできそうにありません。だから、どうしてもいつも暇な時間ができる。
毎日たっぷり8時間眠るとして、それでも1日は16時間あるんですよね。
このうち2,3時間くらいは仕事(ブログの執筆)に使う必要があるとして、まだ13時間前後は残る計算になる。この13時間をどう使うかが課題です。
13時間。
一切無駄に使わなければ、本を2,3冊に映画を2本くらいは十分に消化してまだ余る時間ではある。
しかし、それは机上の空論。じっさいには、毎日そんなにコンテンツを消化していたら疲れ切ってしまいます。ブロガーに休日はありませんし。
だから、毎日本を1冊、映画を1本、漫画を数冊くらいは消化するとして、あとの時間は他のことに使いたい。
が、この「他のこと」が思いつかない。
まあ、毎日1時間くらいウォーキングする必要はあるでしょう。夕飯を自炊する場合は、そこにも1時間程度は費やす。
食事にも朝昼夕合わせて1時間以上はかかると思います。そのほか諸々の雑務でも時間はなくなるはずではある。
それでもまだ毎日4,5時間は余る。もっと余る日もある。この余った時間をどう使うか。いつも迷うところなのです。
じっさいには、ベッドに寝転んでスマホをいじっているうちに時間が過ぎているということが多いのだけれど、それはさすがにもったいない気がしてならない。
もっと有効に時間を使う手はないものなのでしょうか。記事の執筆でも、コンテンツ消化でもない第三の道はないのか。
いや、ほんと、何かいい暇つぶしはないですかね? ネトゲとかかなあ。
でも、 -
十分に頭が悪ければ、幸せになることはむずかしくない。
2016-05-03 16:3151ptひとはなんのために生きているのか?
その問いには色々な答えが考えられるでしょうが、「幸せになるため」というのもそのひとつでしょう。
ひとは幸せになるために生きる。シンプルだし、それなりに納得がいく答えです。
それでは、人間はどのようなときに幸福を感じるのでしょうか?
これにもさまざまな答えがありえるだろうと思います。ここでぼくが取り上げたいのは「自己肯定感の高さ」こそが幸福をもたらすというものです。
自分自身を心底肯定できているとき、ひとは幸福である。そういうことができるのではないでしょうか。
さらに考えてみましょう。それなら、どうすれば自己肯定感を得ることができるのか。
だれかに愛されたとき。なんらかの業績を挙げたとき。そんなことが思い浮かびます。
しかし、ひとに無条件に愛されたり、傑出した仕事を成し遂げることは容易ではありません。
もちろん、そんなことなしでもひとは自分を肯定できるし、幸せになることもできるはずだけれど、簡単にはそうできない人たちも多い。
それでは、どうしても自分を肯定する方法を見つけ出せない人はどうするのか。
実はこの問いにはひとつの明確な答えがあるのです。それは「ひとを引きずり下ろす」こと。
自分がひとの上に立つのがむずかしいのだとすれば、他人を引きずり下ろしてしばまえばいい――ロジカルといえばロジカルな結論でしょう。
だから、世の中には、なんとかして他人の価値を貶めようとがんばっている人たちがたくさんいます。
そういう人たちは、めったに他人を評価しません。金メダリストだろうがノーベル賞受賞者だろうが、たいした業績であるとは認めないのです。
そんなものたいしたことないよ、とかれらはいうでしょう。だって、その人物にはこんな欠点があるじゃないか、とも。
そう、かれらはいつもひとの価値を下げることにのみ熱中しています。
ちょっとでも瑕疵を見せた人を、かれらは徹底的に攻撃します。
それが、それだけが自分の「幸せ」に至る道であると信じているかのように。
じっさいには、かれらにそこまで深い考えはないでしょう。単純に、自分たちのうっぷん晴らしの行動が「正義」であると、ほんとうに信じていることもありえます。
ほんとうはそれは「正義」には程遠い、ただ自分のストレスを他者にぶつけるだけの醜悪な行為であるわけですが、かれらは決してそんなことには気づきません。
かれらはどこまでも自己を正当化し、他者を攻撃し、ひきずりおろそうと努力するのです。そうしないと「幸せ」を実感できないから。
インターネットの各所で常時起こっている「優越感ゲーム」、「上から目線ゲーム」は、この「引きずり下ろしマニア」たちが行っているものです。
かれらはだれか有名だったり、お金持ちだったり、業績が評価されていたりする人がミスを犯すことが嬉しくてしかたありません。
そういうとき、かれらは喜々としてその相手を引きずり下ろしにかかります。それこそがかれらの「幸せ」なのです。たぶん。おそらく。きっと。
ただ、かれらが気づかない、気づこうとしない問題点がひとつあります。
それは、 -
熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。
2016-02-06 13:3551ptふと思ったこと。
よく同性愛者は異常だという人がいる。ネットを検索してみるとたくさん見つかるだろう。
いまの常識から見ればそれは間違えた意見であるわけだが、そういう人と「議論」をしても相手の考え方を変えることは困難である。
というか、何らかの信念を抱いている人と議論をしてその人の考えを変えようとすることはいずれも不可能に近いくらいむずかしいと思う。
なぜだろう?
それは、ようするに「言葉」とか「理屈」の次元で話をしているからだと思う。
もちろん、議論は「言葉」で交わすよりないわけだが、そうやっていくら「言葉」を重ね、「理屈」を丁寧に説明しても、ひとの心は変わらない。
なぜなら、ひとはほんとうは「言葉」や「理屈」でものを考えたりしていないからである。
ほんとうは「心」ですべてを判断していて、その「心」を納得させるために「言葉」を生み出しているに過ぎないのだ。
いわば「心」は基地で、「言葉」はその先兵である。
だから、いくら「言葉」で相手を論破したところで、相手の「心」を変えない限り、ほんとうにその人を説得したことにはならない。
同性愛者を嫌う人は、同性愛が異常である理由を、十でも百でも並べ立てるだろう。
そして、同性愛者や同性愛者をサポートしようとする人はその「理屈」を打ち破ろうと自分たちの「理屈」を並べ上げる。
ぼくの主観では、後者の理屈のほうが「正しい」ように思える。
しかし、その理屈が「正しい」なら同性愛者異常説はそのうち消えてなくなるかというと、そうではない。
それは「言葉」のレベルでは勝利していても、相手の本丸である「心」を変えることはできていないからだ。
ひとは「心」が変わらない限り、また新しい「理屈」をいくらでも考え出してくる。
「同性愛者が異常である理由」という「理屈」は、「同性愛者が嫌いだ。気持ち悪い」という「心」を正当化するために、無限に生産されつづけるのだ。
つまり、だれかの意見が間違えていると思うとき、ほんとうに変えてもらうべきなのは「言葉」ではなく、それを生み出す「心」のほうであるわけだ。
しかし、ひとの「心」を動かすことは至難である。
そしてまた、ひとは往々にして「言葉」の次元での勝ち負けに拘ってしまうものだ。
「言葉」による「議論」が概して不毛なのはこういう理由もあると思う。
もちろん、相手を説得したり論破したりすること以外のところに目的がある場合はこの限りではないが。
この話はべつに同性愛に限ったことではない。あらゆる何かしらの信念を持った人との議論にいえることである。
たとえば一般に「歴史修正主義者」と呼ばれる人たちの議論は、限りなく不毛に陥りやすい。
修正主義者たちは、たとえばあるユダヤ人虐殺が実はなかったということを説明するために膨大な量の「理屈」を持ち出してくるからである。
それに反論する側はいちいちその「理屈」を潰していくしかないわけだが、どんなに「理屈」を否定してみせたところで相手は怯まない。
ユダヤ人収容所が実在しなかったことのそれらしい理由など、その気になればいくつでも生み出されるものだからである。
これは南京虐殺否定論でもなんでも同じことだ。
ほんとうに問題なのは、差別や虐殺がなかったと思いたがる「心」のほうなのだ。
しかし、 -
報告です。
2015-08-13 02:1151ptども。海燕です。ただいまパソコンがほぼお亡くなり状態で長文の更新ができません。さすがに買い換えようかと決心したので、もうちょっとお待ちください。
いや、iPadとかで更新できなくもないんだけれど、それはさすがに無理があるので……。
こうしている間もいつパソコンが落ちるかと気が気ではありません。
だましだまし使っていた機体だけれど、さすがに限界突破した感じで使いものにならない。すぐ落ちる。
ほんとうはパソコンなんかに希少なお金を使いたくないんだけれど、しかたないの新しい機体を買います。予算は10万円前後くらいかな……。
ではでは。 -
ハーフボイルドエッグが茹であがるまで。
2015-05-15 01:2351ptおととい、きのうと二日も休んでしまったのできょうは続けて更新することにします。
というのは半分は嘘で、ほんとうはいまひとつ書き足りないからもう一本記事を書こうかと。
あまり中身がある記事にはならないと思うので、読みたくない人は飛ばしてください。
さて、ブログというメディアはぼくに合っていて、基本的には楽しく書いているのですが、当然、不満もあります。
ブログで特に辛いところは、一本の記事という単位で読まれることです。
長いあいだ読んでおられる方はご承知かと思いますが、このブログはぼくの思考の軌跡をそのままに反映している一面があります。
つまり、ある記事で書いたことがその先の記事で発展し、あるいは反転し、形を変えてつながって行くということがひんぱんにあるわけです。
具体的にナンバーを振ったりはしませんが、あの記事の発展形がこの記事、といったことはわりあい強く意識しています。
ぼくとしては、全体でひとつの作品として捉えてほしいところなんですね。
しかし、じっさいにはある記事はそれ自体で完結したものとして読まれ、消費されます。
つまり、ほんとうは連続した思考の軌跡であるものがその一部だけを切り取って流通し評価されるわけです。
これがね、しかたないこととはわかっていても、ちょっと哀しい。
ぼく的には、ある記事単体が面白いとか面白くないとか、新味があるとかないとかではなく、果てしなく連続した思考の一断面を切り取ったものとして記事を読んでほしいわけなのですよ。
いや、わがままには違いないのですが、たぶんそうしないと、このブログはほんとうには理解できない。
なるべく平易な言葉遣いをするよう努めてはいますが、そんなにわかりやすいことばかり書いているわけじゃないと思うんですよね。
そもそも、書いているぼく自身がまだはっきりと形にはできていない思考の最前線の観念を、なんとか言葉の形に直して記事を書いているのだから、簡単に理解できたらおかしい。
それはたぶん、言葉にしづらいところを切り捨ててとりあえず言葉に直してみているからわかりやすく見えるだけのことだと思うのです。
そんな真似をしないで、考えたはっきり理路整然とまとまってから記事にするべきだという意見もあるでしょう。
それはそうだとぼくも思います。読むほうとしたらそちらのほうが断然読みやすいでしょうから。
ですが、 -
運命を受け入れて生きるということ。
2015-02-20 22:2651ptえー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
(ここまで2045文字/ここから2069文字) -
牢獄から、外へ。
2015-02-17 14:2751pt寒い日が続いていますね。きょうも関東では雪がちらついているとか。ただ、このところ数日にわたって更新が停止していたのは、当然、それが原因ではなく、べつの事情があります。ある問題に悩んでどうしても記事を書く気分になれなかったのです。
そういうわけで、きょうはもう一日休むことに換えて、ぼく自身の話をしたいと思います。しかし、どこから話し始めたら良いものか? 昨晩、考えに考えて、自分の人生についてあるひとつの結論が出たので、それをひとに話したいのですけれど、どういうふうに語れば理解してもらえるか、ちょっとわかりません。
なので、思いつくところから順々に話していくことにしましょう。さて、きのうはぼくにとって記念すべき発見の日でした。 -
「いまそこで苦しんでいる人々を見捨てるのか?」といわれたら。
2015-02-03 22:1451ptしばらくインターネットから遠ざかっていました。海燕です。いや、正確にはスマホでネットはしていたのだけれど、パソコンがネットに繋がらない状態が続いていたのですね。ブロマガはWi-Fiじゃないと更新できないのでちょっとピンチでした。
さて、一月もあっというまに終わって早くも二月ですねー。一月はスキー旅行へ行ったり、その足で東京まで遊びに行ったりとイベントが多い月でした。その直後、インフルエンザにかかったりもしていますが――。二月も楽しい月になるといいのですけれど、さて、どうなるやら。
ちなみに、お気づきかと思いますが、先月あたりから一本の記事の分量がいままでの倍くらいになっています。
そのほうが読みごたえがあっていいかな?と思ったわけなのですが、それだけの分量の記事を発案し書きつづけるのはやはりそこそこ大変なので、息切れしないよう気を付けたいところです。
さて、本題に入りましょう。ペトロニウスさんのブログ「物語三昧」には「Basic Skills」というタグがあって、そこには「そのブログを読む際の基本となる記事」が収められているのですが、この記事は、ぼくにとってのそのベーシック・スキルズにあたる記事だと思ってもらっていいと思います。「不条理を受け入れることとそれに対処すること」の話です。
人間、生きていると、色々な不条理に遭遇します。そのなかには、誰を恨みようもないようなほんとうにどうしようもないこともありますし、明確に責任者がわかっていることもあると思います。
ぼくはこの世界そのものに理由があり、人間にとっては不条理とも思えるが世界においては当然であることを、「世界の不条理」と呼んだりします。一方、人間社会に理由を持ち、人々の意思によって決まっているものを「社会の不条理」と呼びもします。
このうち、「世界の不条理」は基本的に解決不可能な性質のものです。まあ、「人は年老いる」とか「愛は色あせる」といったことで、超長期的に見れば科学のイノベーションによって解決されないとも限りませんが、とりあえずはどうしようもなく、ただ受け入れるしかないものですね。
ぼくはこれを世界のグランド・ルールと呼んだりします。たとえば、数年前の東日本大震災はまさに「世界の不条理」の表出でした。
地震そのものはだれに責任があることでもありませんし、「悪」も存在しません。それにもかかわらず、何十万という人々が人生を狂わされ、破壊され、なかには命さえも失う人々が出て来る。どんなに善良な、親切な生き方をした人もそれとは一切関係なく大切なものを奪われる。これが不条理でなくて何でしょうか。
しかし、そうでいて、それは本質的にどうしようもない、ただ受け入れることしかできない類のことです。
あるいはそういった天災も科学が進歩すればいずれは何とかできることかもしれませんが、それでも「人は生き方の善悪とは関係なく偶然に災厄に遭うことがある」というグランド・ルール自体は変えようもないわけです。
そもそも人が死ぬことそのものが人間から見れば最大の不条理であるわけですが、少なくともしばらくは人間がそのことをどうにかできるとは思えません。それはこの世界そのものに組み込まれた聖なる理なのです。
一方、「社会の不条理」のほうは人間の人間性に原因があり、変えようと思えば変えられる性質のものです。たとえば「いじめ」とか「差別」などは典型的な「社会の不条理」でしょうし、「戦争」は「社会の不条理」が極大化したものだということができます。
いわば「社会の不条理」とは人間社会が抱える課題そのものです。「世界の不条理」と違って、その気になれば何とかすることができるし、また何とかするべきである事柄たち。
そして、人類数万年の歴史において、ぼくたちは政治や科学や思想の進歩によって、多くの課題を解決してきました。「差別」そのものを解決することはいまだできていいませんが、現代日本は過去に比べれば相対的に差別が少ない社会を実現したといっていいでしょう。
こうやって、少しずつ、少しずつ、社会は改良されていくのだと思います。しかし、それなら「社会の不条理」はすぐにでも変えられるべきなのか? 改善されて然るべきなのか? いや、実は必ずしもそうではないかもしれない、というところに、この記事の主張があります。
あるいはこの文章を読まれている方は、「いじめ」や「差別」はすぐにでもなくなったほうが良いに決まっているではないか、と思われるかもしれません。
あるいは「戦争」や「原発問題」は明日にでも解決されなければならないだろう、といわれるかも。その理由は簡単で、「いま、そこに現実に苦しんでいる人がいるから」というものでしょう。「いますぐそこにいるその苦しんでいる人々をこそまず救わなければならないはずではないか」と。
これはちょっとすぐには反論できないような強烈な理屈です。「お前はいまそこで苦しんでいる弱者を見捨てるのか?」といわれて反論できる人がどれだけいるでしょうか。
しかし、だからといって「問題を急進的に解決しようとすること」は実は問題をさらに深刻にしてしまうことがあります。「社会の不条理」を急速に変えようとすると、それはそれで大きな反動があったりするわけです。
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愛欲の世界は遠く。
2015-01-20 23:5451ptども。このあいだぐだぐだ書いたトラウマの話についてまだ考えています。
『進撃の巨人』でも暗いトラウマ話(というか何というか)がありますけれど、やっぱりいまなおこの手の話が成立するのは「壁」の存在が重要なのかな、とか。
新世界系とはいっても「壁」の内側は「階段状の物語」が成立しているはず、というのが現時点での見立てなのですよね。
えーと、何いっているのかわからない方は過去ログを参照ください。ぐだぐだ書いてあるものが見つかるはずです。この辺はまとまったらまた記事になるかも。
さて、そういうわけで、きょうは手すさびに埋草記事をひとつ。まともな記事はあしたまでお待ちください。
ぼくがインフルエンザでゴホゴホいっていた間に、世間では平井和正さんが逝去されたり、岡田斗司夫さんの恋愛スキャンダルが持ち上がったり、色々あったようです。その辺の話をしましょう。
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