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『俺ガイル』は分裂と対立の時代における最先端のテーマを扱った文学的傑作(!)だったという話。

 賛否両論のNIKEのCMについて、この記事が面白かった。 https://this.kiji.is/706779517293429857  賛成、反対、両方の意見が載っているのだけれど、ぼくが興味深かったのは、やはり批判的な意見です。 他方で、幼少時にイタリアでいじめられた経験があるという元経産官僚の宇佐美典也氏は、「ものすごく嫌な気分になった。嫌いだ」と切って捨てる。 「吐くほどいじめられた。今でも夢に出るくらいだ。だからアングロサクソンに対しても、ずっと不信感を抱いてきた。しかし東日本大震災のときに米軍が日本人を助けてくれている姿を見て、自分の中のモヤモヤしたものが抜けていった。一方で、僕もいじめる側になったこともある。差別というのは、する側とされる側がいる。そのお互いがいかに理解し合い、問題を解決していくのか。そういう姿を描いてほしかったのに、今回の動画では差別される側だけが取り上げられているし、しかもスポーツによって一人で克服していくヒーローのように描かれていると感じた。逆に言えば、克服できなかった奴、スポーツができない奴は弱い奴になってしまわないか。僕がイタリア人にいじめられていた時にほしかったのは、“一緒にスポーツしようぜ”と手を差し伸べてくれる存在だった。いま、現実にイジメられている人たちが何を求めているかということも考えないといけなかったのではないか」。  これ、すごく面白い意見だなあと思うんですね。つまり、このCMで「弱者」、「被差別者」、「マイノリティ」として描かれている人物たちが、じつは他方では「スポーツによって一人で克服していくヒーロー」としての属性も持っているという指摘であるわけです。  人種的には「マイノリティ」だけれど、能力的には「ヒーロー」なんだよ、という描写のCMになっているということ。これはほんとにそうで、このCMは「選ばれしヒーローとしてのマイノリティ」を描き出したものなんですね。  じゃあ、ヒーローになれない人間はどうすれば良いんだということにはまったく答えていない。もちろん、たかが一本のCMにそこまでの内実を求めることは必須ではないけれど、単純なヒーロー礼賛に留まってしまっているという評価にはならざるを得ない。  で、なぜこのCMが反発を受けるかというと、ようするに「上から目線の説教」になっているからですよね。おまえらは気づいていないだろうけれど、この国にはこんなに人種差別があるんだよ、だから反省して注意しなさい、というめちゃくちゃ偉そうな説教。  これが左派が嫌われる理由を端的に示していると思う。自分たちの正義を疑わず、それをウエメセで押しつけてくるという尊大さ。  でも、左派のほうはその傲慢に気づかず、ひたすら「あいつらはあまりに正しいことをズバッと指摘されたから受け入れられずに困っているんだろ」としか考えない。そのことを象徴する発言が、たとえば、これ。 また、動画への批判についても、「“自分の周りにはなかった”とか、“大したことないと言える人が、この社会のマジョリティなんだろうと思うし、このような社会問題を気にしなくても済んでいる状況にたまたま位置づけられている人々が反発しているのだと思う。だからこそ、自分たちが知らない間に差別に加担したと指摘され、すごく動揺しているのだと思う」と分析。「マイノリティが何かを言うことによって分断が生まれているわけではなく、そもそも人種差別などの不平等と不公正が存在し、そのことによって楽しい学生生活や、アスリートとして活躍するチャンスそのものを与えられない人たちがいるということ可視化・認識するところから始めていかなければいけないのではないか」と話した。  おそらく無意識だと思うけれど、批判者を非常に下に見て、「自分たちが知らない間に差別に加担したと指摘され、すごく動揺しているのだと思う」と決めつけている。  ぼくにいわせれば、じっさいに差別していないのに「差別に加担したと指摘」されたら怒って当然だと思うのですが、この方はその「告発」をまっすぐ受け入れて反省するのが「正しい態度」だと考えているのでしょうか。  しかし、この記事のあとのほうで佐々木俊尚さんも書いている通り、もはやシンプルな「弱者/強者」、「マイノリティ/マジョリティ」という図式を固定的に考えることは無理があるのだと思います。  あるひとりの人のことを単純に「あいつは弱者だ」とか、「こいつはマジョリティだ」などと決めつけることはできないのです。  なぜなら、ひとりの人間には複数の「属性」があり、見方によっていくらでも「マイノリティ」とか「マジョリティ」といった位置づけは逆転するから。  たとえば「黒人」の「レズビアン」の「女性」はいつも「被害者」で「被差別者」かといえば、かならずしもそうではない、世界はそんなに単純に出来ていないのです。  しかし、だからといって、そこに「差別」なんてものはないのだと開き直ることもまた間違えている。「差別」は厳然としてあるし、それは認めなければならない。ただ、だれが「加害者」でだれが「被害者」なのかは、かならずしも自明ではないのです。  これ、あきらかにテン年代のライトノベルが「非リア(オタク)」対「リア充」という硬直した図式を壊していったプロセスと重なる話ですよね。ペトロニウスさんがこのように書いている通りです。 

『俺ガイル』は分裂と対立の時代における最先端のテーマを扱った文学的傑作(!)だったという話。

女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。

 前回の話の続き。前回は、女性たちの真似をしてクオリティ・オブ・ライフを上げようと試みているというところまで話しました。これはほんとうのことなのですが、意外にこういう人はまだ少ないのかもしれません。  まあ、たしかに南青山のオサレなレストランはカップルばかりでしたし、『ドラえもん』の映画をひとりで見に行ったら子連ればかりでした。  世の中にはどうやら「男ひとりで入るところ」、「女ひとりで入るところ」、「男同士で入るところ」、「女同士で入るところ」、「男女で入るところ」、「子連れで入るところ」といった場所柄の「常識」があるようです。  いまはもうそうでもないかもしれませんが、昔はラーメン屋なんかは女性ひとりでは入りづらかったようですね。  フェミニズム的にいうとジェンダーの問題ということになるのだろうけれど、ぼくはほぼ無視しまくっているのでまったく気になりません。  ひょっとしたら周りからは「あの人たち、男同士でこんな場所に来ているわ。場違いだと気付かないのかしら。ひそひそ」とか噂されているかもしれませんが、まあ、べつにいいんじゃね? そういうジェンダーにもとづく常識なんて、どんどん壊していくのがいいと思いますね。  女性だってひとりでラーメンや牛丼を食べたいこともあるだろうし、反対に男性だってスイーツを食べたいこともある。それが変な目で見られるということは、それこそがおかしなことなんじゃないかと。  じっさい、「男はこういうものだ」とか「女はこういうものだ」みたいな社会的な定義はほとんどあてにならないと思います。それらは大抵、「だからいまのままでいい」と開き直るために編み出されたものであるに過ぎません。  脳科学的に見れば男性の脳も女性の脳もほとんど差がないらしいんですよね。だから、男性はこう、女性はこうというような特性は、結局、社会的に形成されたものに過ぎないと思うのです。  ちなみに、そういう特性は生まれつき性別によって決まっているのだ、という考え方をジェンダー理論の用語で「本質主義」と呼び、その界隈では必殺技のように使われているのをよく見かけます。  「それは本質主義だ!」とびしっと指さして指摘するとかっこいいとか良くないとか。  で、よく「男は論理を求め、女は共感を求める。故に男は結論のない雑談が苦手だ」みたいなことがいわれるわけですが、これもつまりは教育の問題だと思いますね。女性はそういうふうに育てられているからそういう特徴が見られるようになっているというだけのこと。  その証拠に、ぼくのまわりのおじさんたちは結論のない雑談を何より好んでいます。そう、ぼくの友人たちはおしゃべりな人がほとんどで、逢うととにかく話すのです。  最近はわりと高級店の個室を借り切ったりもするようになりましたが、料理やお酒に舌鼓を打つ一方で、やっぱり話は止まりません。というか、そもそも周りに邪魔されることなく話をしたいから高級店を選ぶのですね。  さらにそこからたとえばカラオケへ場所が移ったとしても歌ったりはしません。ただひたすらしゃべるだけ。まさに女子高生もかくやというほど雑談に熱心です。  先に書いたように、よく女性の話は「落ち」がなく、それ故に延々と続くが、男性は話に論理的決着を付けようとする、それは実は脳の構造の違いが原因なのだ、いや原始時代の生活習慣の影響なのだなどといわれていますが、あれは嘘だと思いますね。  それがほんとうなのだとすれば、ぼくのまわりのおじさんたちはほぼ中身は女の子です(笑)。皆よくしゃべるんだよなあ。ぼくもあまり人のことはいえないけれども。  ペトロニウスさんとかLDさんとか、ラジオでもたしかによくしゃべるのだけれど、リアルで逢うとさらにもっとしゃべりますからね。あれはどういうことなんだろうな。  ひょっとしたらラジオで話しているときは手足に鉄製のパワーアンクルを付けていて、それを外すと戦闘力が上がるのかもしれない。  そういうわけで、ぼくは「男性はこう、女性はこう」という決めつけのことはまったく信じていないのですが、そうはいっても現実に統計的な「男性らしさ」、「女性らしさ」の偏りは存在することは事実。  それがたとえ社会において後天的に身に着ける特質だとしても、ほんとうにあることは間違いありません。まあ、やっぱり女性は牛丼屋にひとりでは入りづらいとか、そういうことはどうしてもあると思うんですよね。良し悪しはともかく。  しかし、そういうジェンダーの桎梏も、だんだん緩んできているように思います。何といってもいまは、あるいは建前だけかもしれないにせよ男女同権の世の中、「男は外で働いて、女は家を守るべき」というようなこという人は、皆無ではないにせよ、格段に減っているでしょう。  つまり、男性も女性も、しだいに変化しているということです。女性が社会に進出するようになり、ある意味ではかつての男性にポジションにあることは周知の事実だと思いますが、男性もおそらくは女性に近づいているとぼくは思う。  というか、そうあるべきなのではないか、と考えます。というのも、前回の記事でちょっと触れたように、何気ない日常を楽しむことにかけては一般に女性のほうがはるかに優れた蓄積を持っていると思うのですね。  たとえば女性たちはカフェでコーヒーとケーキだけで楽しく時間を過ごすことができるけれど、男性は同じ真似ができなかったりする。平均的にいって女性たちのほうが余暇を豊かに過ごすことが上手なのだと感じます。  いや、ぼくのまわりの人たちはそうでもないかもしれないけれど、それはやっぱり「例外」的だと思う。その証拠に、仕事を失い、また伴侶に先立たれた男性はすぐに亡くなってしまうのに対し、女性はひとりになっても長生きしたりします。  これは統計的なデータとしてちゃんと結論が出ているようです。いま、経済成長がかなりのところまで行き詰まってしまった日本社会において、「男らしく」競争して勝ち組になれる確率はかなり低くなっています。  つまり、ただ「成長」を目指すだけではなかなか幸せになれない時代なのです。だったら「成長」ならぬ「成熟」を志し、一日一日をより楽しく生きることに専念するのも悪くないことなのではないでしょうか。  そして、そういう人生を志向する時、手本となってくれるのが女性たちの生き方だと思うのです。「競争」ではなく「協調」を、「成長」ではなく「成熟」を求め、あたりまえの日常を少しでも楽しく生きようとするとき、女性たちは男性の「先生」になってくれるでしょう。  まあ、そういう態度を良しとしない頭の固い男性もいるかもしれませんが、現に「日常系」といわれる漫画の主人公はほとんどが女の子ですよね。  ああいう物語を見て心癒やされている男性たちは、内心ではやっぱり女性たちの、いまのところ女性にしか許されていないかに見えるライフスタイルをうらやんでいるのではないでしょうか。  少なくともぼくはうらやましい。ぼくも『ゆゆ式』みたいな日常を……いや、さすがにそれは送りたくないかもしれないけれど、『けいおん!』みたいな生活は送りたいぞ。  じっさい、ちょっと気をつけて時間を過ごすことを覚えたなら、「あたりまえの日常」は素晴らしい輝きを放ち始めます。それはほんとうは「あたりまえの日常」などというものは存在せず、時は仮借なく過ぎていき、すべてを変えていくからです。  「あたりまえ」が「いつまでも続く」とは、単なるぼくたちの思い込みに過ぎないのですね。そのことは『灰と幻想のグリムガル』を見てもわかりますし、『よつばと!』においては素晴らしいセンス・オブ・ワンダーとともに描写されていることです。  平凡な平穏のなかにこそ黄金の輝きはある。男性たちはこれからそのことを学習していかなければならないのだと思います。暖かで和やかな日常や、他者による理解と共感を求めているのは女性たちだけではない、男性だってほんとうは変わらないのですから。  とはいえ、それでは変わり映えのしない「出口のない日常」を楽しむにはどうすればいいのか? そのためには生活の三大基礎である「衣・食・住」と、そして「趣味」を充実させていくよりほかないと思います。  このブログでぼくが「衣・食・住」をテーマにした記事をいくつか書いているのはそのためです。つまりは、すべては「成長が行き詰まった成熟社会において、いかにしてクオリティ・オブ・ライフを向上させ、センス・オブ・ワンダーを獲得するか?」というテーマであるわけなのですよ。  いい換えるなら、大人になってなお『よつばと!』のよつばのように新鮮な発見に満ちた人生を送るにはどうすればいいのかということ。  それはおそらくは「脱男らしさ」の道であり、そしてある意味では「脱オタクらしさ」であるかもしれません。  仮にオタクでありつづけるとしても、少なくともさまざまな「知識自慢」や「センス自慢」を繰り返し、「縦の関係」を作ろうとしてきたかつての男性オタクたちとは違う意味でのオタクにならなければなりません。  それがどんなものなのか、どんな名前で呼ばれるべきなのか、その答えをぼくは持っていませんが、ぼくがたとえば『妹さえいればいい。』という小説を好きなのは、そのテーマを鋭く実現しているフロントラインの作品だと思うからなのですね。  そういうふうに捉えてもらえると、ぼくが単発で書いてきた記事も、実は色々と地下水脈で繋がっているのだということがわかってもらえると思います。  そして、そういうふうに読めば、このブログも少しは楽しいものに思えて来るのではないか、と。まあ、そういうわけで、ぼくは最高の人生を実践しながら模索しているのでした。  ああ、あとは恋人か伴侶がいればいうことなしなんだけれどな! 毎度同じ落ちですが、まあしかたないでしょう。  現実は、きびしい。 

女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。

「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

 こんな記事を読みました。  もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。  スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。  私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。 http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000  うーむ、どうなんでしょうね。  たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。  まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。  でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。  SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。  ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。  もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。  ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。  何より、読書とはそもそも孤独な行為です。  電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。  その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。  それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。  でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。  本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。  ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。  本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。  SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。  しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。  ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。  それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。  というか、 

「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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