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2015年12月の記事 10件

もっとひとと逢いたい。

 今年ももう終わりですね。  まだクリスマスとか大晦日といったイベントを残してはいますが、特に活動する予定はないので、ほぼ終わってしまったといえるかと思います。  振り返ってみるに、今年はもう、ほんとうに何もしなかったという印象が強いです。  というか、じっさいにほとんど何もせず終わってしまったといっていいと思う。  実に無念というか忸怩たるものがあるわけですが、さて、それではどうすればいいかというと、わからないですね。  何かアクションを起こしたい気はあるのですが、ではじっさいに何をすればいいのかというところでストップしてしまいます。  まことに情けない限りで、何をやっているのかという気持ちになります。  来年は少しでも行動に移せるといいのですが――うーん、どうだろうなあ。  いや、ここは行動に移す!と決意しなくては。  あいまいな気持ちでいると絶対また何もしないで終わるものなあ。  このブログにしても、後半はだいぶ更新が滞っていたことはご存知の通りです。  これも明確な理由があるのですが、来年はどうにかしたいなあと思いますね。  どうにかしたい、したいといって結局何もしないのがダメ人間のパターンであるわけなんですけれどね。  でもまあ、今年は何も行動しなかったぶん、お金が溜まったりもしているので、来年は何かできるでしょう。そうだと思う。  まあ、何もしなかったとはいっても、色々イベントに参加したりはしているんですけれどね。  でも、全体的には不毛感がただよう一年だったのでした。  もうひとつ、ここ最近、外部に開いたオフ会をまったく開いていないので、人間関係が一向に発展していないということもいえますね。  ペトロニウスさんが日本からいなくなったこともあって、なかなかこれといった人と出逢う機会を持てずにいるのです。  一度会ってしまえば、いまはLINEなどで常時つながることもできるのですが、会う機会がないとどうしようもない。  おかげで関係性を発展させることができず、そのかわりにひたすら内輪で戯れています。  そういえば今年は仲間とスキーに遊びに行ったりもしたんだよなあ。あまりに前のことで忘れていた。  何もしなかったようで、意外と行動していますね。  しかしまあ、発展性のあるイベントはほとんど開催していないのもたしか。そこのところをどうしようかなあと考えますね。 

もっとひとと逢いたい。

『乙嫁語り』で感じる峻烈なセンス・オブ・ワンダー。

 ども。色々気力が衰えてきている今日この頃ですが、さすがに三十代半ばにして廃人になるわけも行かないので頑張ります。  さて、森薫『乙嫁語り』最新刊を読みました。  いわゆるメジャータイトルでこそないかもしれないものの、漫画読みの間では広く知れわたっている名作ですね。  森薫はデビュー作である前作『エマ』を全10巻で綺麗に完結させたことで知られています。  『エマ』はヴィクトリアン・ロンドンを舞台に、おとなしいメイドの女性を主人公にした物語でしたが、『乙嫁語り』は一転して中央アジアが背景となっています。  日本人にはまったく馴染みがない風土なのですが、森薫は細密な描写力でもってその世界を描き出してみせます。  そう、なんといっても微に入り細を穿つ描写力こそがこの人の武器です。  『エマ』の頃からそれはそうだったのですが、『乙嫁語り』に至っていっそう凄みを増しています。  とにかく複雑な模様を細かく描く、描く。  好きなのでしょう。好きなのだとしか考えられません。しかし、そうはいっても尋常ではない執念です。  森さん、特に筆が速いほうではないと思うのですね。  ところが、徹底的にディティールにこだわった作画を実行している。  これはもう、メンタルが普通ではないのだとしかいえないと思います。  それはそれで、ひとつのたぐいまれな才能でしょう。  前巻は「番外編」ともいえる内容で、ふたりの女性の交流と友情を描いていましたが、今回、話は本筋に戻って来ます。  「第五の乙嫁」パリヤさんの出番です。  「第一の乙嫁」アミルの友人として、いままでも物語のそこかしこに登場していたパリヤ。  不器用で思い込みが激しく、どちらかといえばネガティヴな性格で、いままでのどの乙嫁にも増して親しみやすい性格のキャラクターです。  しかし、本人はそんな自分を持て余している様子で、結婚を前に悩みに悩みます。  その悩む様子が読者からすると非常に可愛らしく、またそこまで気にすることもないのにと思わされるところなのですが、本人は非常に自己評価が低く、自分には結婚などできるはずもないと思い込んでしまいます。  客観的に見るとなかなかうまくいきそうなカップルなのですが……。  パリヤさんはそのある意味、少女漫画的な苦悩を抱えたまま、もう少し成長しなければならないようです。  もちろん、彼女は内面の悩みを抱えているだけではなく、外面にも課題を持っています。  そこでクローズアップされるのが 

『乙嫁語り』で感じる峻烈なセンス・オブ・ワンダー。

もっとSF映画を見たい。

 ども。  世間は『スター・ウォーズ』上映で大騒ぎになっているようですが、ぼくはそこまで関心がないので家で漫画を読んでいます。  『スター・ウォーズ』が色々と凄いのはたしかなのでしょうが、何しろぼくはリアルタイムで体験していないのでどうも実感がありません。  むしろ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』あたりのほうが「すげー」という印象がありますね。  そのあとのSFX系映画に関してはあまり知見がなく、「きっとすごい映像になっているんだろうな」と予想している程度。  最近のそれ系映画で見ているものといえば、『アベンジャーズ』と『パシフィック・リム』くらい。  どちらも友人の家で観ました。ひとりだったら観なかったかも。  この手の映画に興味がないかといえばそんなこともなく、基本的にヒーローの物語は大好きなのだけれど、どちらを優先するかとなると人間ドラマのほうを重視して映画をセレクトしているため、結果としてはSFX系の映画から遠ざかることになってしまっているのでした。  ちなみに、『ハリー・ポッター』も見ていません。  『ロード・オブ・ザ・リング』は全部見ましたが、それも10年以上前のことですよね……。  うーん、気づいたらほんとうにこの手の映画から遠ざかっているな。  その理由のひとつに、ものすごい特殊効果を見てもあまり素直に「すげー」と思えなくなったということがあって、まあ、ようするに慣れて食傷気味になってしまっていたのですね。  でも、それからもう十数年とか経っているわけだから、現代のコンピューター・グラフィックスなどには普通に感動したりするかも。  『スター・ウォーズ』も見に行ってみるか……。  しかし 

もっとSF映画を見たい。

何をやってもうまくいかないチャーリー・ブラウンに自分を見る。ため息。

 ども。  間違えて先週号の『マガジン』を買って来てしまいました……。そうだよ先週は合併号だったんだよ。がっかりだ。が、まあ、『サンデー』は今週号だったからまだ良いか。とほほ。  さて、それはともかく、映画『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』を観て来ました。  そう、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが出て来るあの漫画のタイトルは『PEANUTS』というのですね。知っていました?  この映画はそのスヌーピーとチャーリー・ブラウンの世界をそのままに、最先端の3DCGアニメに仕上げた逸品。  あの『PEANUTS』をどうすれば映画になるの?と思われる方も納得の傑作映画に仕上がっています。  いや、じっさい、『PEANUTS』のファンなら楽しめること間違いなしのエンターテインメント・ムービー。  スヌーピー以外は何も知らない人だとちょっと苦しいかもしれないけれど、それでもどうにか味わえるであろう一作に仕上がっています。  雨の中をわざわざ見に行った甲斐があったというもの。個人的には素晴らしい出来と思えました。  もともと『PEANUTS』は新聞連載の漫画作品で、世界中で数億冊を売り上げたといわれる有名な漫画です。  シニカルなかかにも子供たちへの愛情を秘めたストーリーが売りで、一度味わったら忘れられないような癖になるテイストを持っています。  主人公は何をやっても必ず失敗する少年、チャーリー・ブラウン。  何にせようまくいかないかれの救いは愛犬のスーパービーグル、スヌーピーです。  また、チャーリーのまわりにはライナス、シュローダー、サリー、ルーシー、マーシー、ペパーミント・パティといった一風変わった子供たちがいつも遊んでいて、失敗続きのかれをときに慰め、ときにからかったりします。  今回はこの「おなじみの面々」に加えて、チャーリーの初恋の「赤毛の女の子」が転校して来るというイベントが発生し、ちょっと『小さな恋のメロディ』めいた、一方通行のラブストーリーが展開します。  一方的にほれ込んでしまった彼女のために、チャーリーはテストで満点を取ったり、ダンスの練習をしたり、トルストイの『戦争と平和』を読み込んで読書感想文を書いたりと、懸命の努力を続けますが、いつもどういうわけか最後にはうまく行きません。  まるでありとあらゆる運命がかれを失敗へと導いているかのよう。とにかく何をやっても最後にはドジで失敗してしまうのです。  そんなチャーリー・ブラウンは、はたしてあの「赤毛の女の子」に振り向いてもらうことができるのでしょうか――?というプロットはほぼ原作を踏襲したものですが、今回の映画にはもうひとつスヌーピー演じる「フライング・エース」が、宿敵レッドバロンと決死の空中戦をくり広げるというサブプロットが含まれています。  もちろん、 

何をやってもうまくいかないチャーリー・ブラウンに自分を見る。ため息。

遊んでも、遊んでも。

 寝て起きて、また寝てばかりいる日々です。  わずかに起きている間は『NEWスーパーマリオブラザーズU』などプレイしています。  3年ほど前に出た2Dマリオの最新作ですね。  WiiUは遊べるソフトが少ないので必然的に買うことになるのだけれど、まあ、さすがに面白い。  『マリオ』に何を求めるかによるとは思いますが、「いつもの『マリオ』」を求める向きならまず満足できるかと。  ただ、マンネリといえばマンネリの極みなので、そこらへんが気にかかる人もいるでしょう。  思えば、『スーパーマリオギャラクシー』は斬新で面白かった。  『マリオ』にしては相当にむずかしかったけれど、ぼくはなんとかクリアしました。  あの頃はまだ購入したゲームはクリアする意地があったんだなあ。いまはもうほとんどないけれど。  これはテレビゲームが全体に長大化していることとも無関係ではないと思います。  最近のゲームは平気で80時間とかかかるから、ちょっとやそっとじゃクリアまで持っていけないんですよね。  『ウィッチャー3』とか、それはまあ面白いけれど、何もかも本格的だからプレイ時間がかさむ、かさむ。  ただなんとなくやっていてクリアできるゲームが恋しいです。  また、『スカイリム』あたりはそもそも「クリア」という概念が存在しないわけで、その気になればいつまでもプレイできてしまう。  で、仕方ないから『マリオ』に回帰したりするわけです。  『マリオ』なら一定のステージをクリアすればそこで終わりになりますからね。  ゲームのボリュームが増えることは良いことなのかもしれないけれど、もうちょっとお手軽にプレイできる作品もやりたいところ。  とかいっていると、どんどん新しい作品を購入することになってしまい、やっぱりいつまで経っても終わらなくなってしまうのですが。  さらに、ぼくの場合、PlaystationPlusに入っているので、毎月、手もとに一定の数のゲームが増えていくのです。  PlaystationPlusとは、月額500円程度で何本かのゲームをダウンロードできるシステムのことで、これに入会すると際限なくゲームが増えていくのですよね。  自分で買わなくてもプレイできるゲームが増えるわけですから。  おかげでいわゆる積みゲーは増えていく一方。どうしたものかと頭を悩ませる日々です。  まあ、昔買ったゲームとかは切り捨てればいいのだけれど、ついもったいないと思ってしまうのですよねー。  ここらへん、生き方の不器用さがもろに出ています。  時間は有限なのだから、無限のゲームをプレイできないことはあきらかなのだけれど……。  そういえば、 

遊んでも、遊んでも。

『杉原千畝 スギハラチウネ』は泣けないけれど凄い映画だ。

 最近、生活が昼夜逆転していて、あまり陽の光を見ていない海燕です。  ただでさえ日が短い真冬にこれではいけないなあと思うのですが、普通に暮らしているとどうしてもそうなるんですよね……。  というわけで、真夜中に一本映画を観て来ました。『杉原千畝 スギハラチウネ』。  タイトルロールの杉浦千畝は、数千人のユダヤ人に「命のビザ」を発行し、その生命を救った日本人として最近非常に有名になった人物で、映画にも当然、そのエピソードが出て来ます。  しかし、この作品はその出来事を単純に「いい話」として描いて終わるのではなく、その前後に連なる歴史の文脈を重厚に描き出し、一本のストーリーとして魅せることに成功しています。  特別な大傑作というわけではないかもしれませんが、深々と心に染み入るように印象的な歴史映画の力作です。  この映画に出て来る杉浦千畝は、単なるお人好しの外交官ではありません。  まず何よりも動乱の時代において、ソ連やヨーロッパ諸国で、複雑な諜報活動を展開した人物なのです。  冒頭から杉原がほとんどスパイそのものといった活躍を繰り広げる場面が続き、いったいどういう映画なのだろうと戸惑わせられますが、もちろんアクションが主体の映画ではありません。  物語はやがて、戦乱のヨーロッパにおけるナチスドイツとユダヤ人の運命にフォーカスしていきます。  この、複数の国家や民族に注目しているところで、映画全体に複雑な陰影を与えることに成功していると思う。  杉原千畝という「美談の人」を集約に選んだところから、「日本人すげー」的なシナリオを予想して見に行く人も少なくないと思われますが、そういう単純な見方を強いる映画ではまったくないのです。  さりとてひたすらにウェットな涙、涙の作品というわけでもない。  非情な歴史の荒波のなかで、それでもなお懸命に自分の良心に恥じない行動を取ろうとする個人を描いた物語です。  そういう意味でははたしてヒットするのかどうか微妙なところですが、ぜひあたってほしい。あたるべき映画作品だと思います。  偶然ではありますがヨーロッパで難民問題が話題になっているいま、タイムリーな作品ということもできるでしょう。  日本人が主役ではあるものの、舞台の大半はヨーロッパで、日本語の場面はごく少ないという映画なので、気楽に見に行くには辛いかもしれませんが、見て損はないだけの格式のある作品です。  ネットの感想サイトを見に行くと、「感動できなかった」、「泣けなかった」という意見が散見されますが、そもそもそういうわかりやすい感動を描く映画ではないんですよね……。  相当にドライな作風なので、ひとを選ぶところはあるでしょうが、日本にはウェットな映画が既にたくさんあるわけで、ぼくはこういうドライな映画もあっていいと思いますね。  全編でも特に印象的なのは、 

『杉原千畝 スギハラチウネ』は泣けないけれど凄い映画だ。

「裁きの視点」で見るか、「赦しの視点」で捉えるか。

 ども。風邪をひいてぶっ倒れていました。  寒くなって来るとすぐ風邪をひくんですよねー。体力ないな、と思います。  ふしぎなもので、体調を崩すといくら寝てもまだ眠くなるんですよね。  今回は2日間で30時間以上寝ていたのではないでしょうか。  おかげで熱も下がり、病院に行くこともなく病状回復に至ったようですが、まだ安心してはいけないでしょう。もうしばらく安静にしたいと思います。油断は禁物。  さて、きょう取り上げるのは『透明なゆりかご』。  タイトルからわかるかもしれませんが、産婦人科の実情を描いたいわゆる「エッセイ漫画」です。  産婦人科漫画といえばテレビドラマにもなった『コウノドリ』が有名ですが、こちらはほぼドキュメンタリー。作者がじっさいに遭遇したらしい事件について記されています。  と、普段ならここから感想なり批評らしきものなりを書き連ねていくところなのですが、実はまだこの本を読みあげていないのでそうするわけには行きません。  なぜ読み上げないのかといえば、病み上がりの身に内容があまりに重すぎるから。  この漫画、淡々とした描写ではあるものの中絶や性的虐待などの題材がリアルに描き込まれており、読んでいるととにかく疲れます。  なので、今回はこの話を肴に「人間」のことを書いていきたいと思います。  人間。  こういう本を読むと、人間とはよくわからないものだなあ、と思います。  この上なく自己犠牲的なほどに尊い行動に出る人もいる一方で、悪逆を究める行為に耽る人もいる。  より具体的にいえば、献身的に我が子を愛する親もいれば、子供を虐待してやまない親もいる。  いったいこれはどういうことなのでしょう? 

「裁きの視点」で見るか、「赦しの視点」で捉えるか。

無職を楽しむには条件がある。

 きのう、大人の日常系作品では「仕事」が重要なポジションを占めるよね、と書いたのですが、よく考えなくても当然、無職の主人公を描いた作品もありますよね。  その手の作品は必然的にどこか重くならざるを得ないのかな、と思い、参考までに『働かないふたり』を読んでみました。  うん、全然重くないですね。あくまで軽いコメディとして楽しく読める。  ただ、リアルニートの身の上からすると非常に身に詰まされる話で、ほんとうに楽しく読んでいていいのかな、と疑問に思ったりします。  あるニートの兄妹が主役の楽しい日常ものなのだけれど、このまま行くといつかは破綻する生活だよなあと思えて来るところが微妙に辛いです。  もちろん、そういうことは考えないで単なる日常ものとして読むこともできるのだけれど、いや、どうしても考えてしまうよなあ。  まあ、ぼく自身がこの兄妹と変わらないごくつぶしの生活を送っているわけなので、ことさらに非難しようとはまったく思いませんが、先の見えない人生にはどうしたってある種の緊張感がただようもの。  『のんのんびより』を読むのと同じ感覚で読むのは無理でしょう。  いや、『のんのんびより』だって未来は閉ざされているかもしれないけれど……。  そうですね、たとえば『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』にしたところで、主人公は作家という不安定な職業です。  あすをもしれぬ、とまではいかなくても、決して明るい未来が保証されているわけではない。  こうしてみると、案外、不安定な境遇こそがいまの楽園性を強化しているのかもしれません。  ある種の逃避には違いありませんが、将来が不安であればあるほど、いまは輝きを増したりするのかも。  いまの時代、日本全体が未来が見えない状況にあるわけで、将来の幸せまで確実に見えている人は少数派でしょう。  となれば、未来が見えないにもかかわらずいまの日常を楽しむ姿にこそ、リアリティがあるのかなあ、とも思います。  とはいえ、完全に社会と隔絶したひきこもり生活はどう想像してもあまり楽しいものにはなりそうにありません。  だから、どこかで社会との接点を持つ必要がある。  この場合は、 

無職を楽しむには条件がある。

日常系作品の四象限図を作りたい。

 先ほど、『よつばと!』の第13巻と『イチゴ―イチハチ!』の第2巻を購入して来ました。  どちらも待ち望んだ新刊で、もったいなくてすぐには読めない。  こういう作品の存在はそれ自体が生きる張り合いになりますね。  この2冊を同時に読めるなんて、生きていて良かったと思うもん。  『よつばと!』にしろ『イチゴ―イチハチ!』にしろ、いわゆる日常系の物語なのだけれど、その描写はかなり進歩して来ているように思います。  日常系の魅力はいかに平穏な日常の楽しさを描くことができるかに尽きるわけですが、最近の日常系ってそこがほんとうに洗練されているなあ、と。  いやまあ、まだ読んでいないのでこれらの巻についてはわかりませんが、既刊の描写はそうだったのです。  三つほど前の記事で書いた「いま、青春群像劇が面白い」ということも、この日常系というジャンルと密接に関わっています。  というか、ぼくがいうところの新しい世代の青春群像劇もまた、日常系の成果として生まれて来たものだと思うのですよね。  『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』がやたら生活のディティールに拘るのも、日常のリアリティを演出したいからに違いありません。  それは『よつばと!』とか『海街diary』といった作品がありふれた日常をどこまでもていねいに描き出して来たことに通じています。  『妹さえいればいい。』はオタクネタが飛び交うので異質なものに見えるかもしれませんが、本質的には『よつばと!』などと同じ日常を楽しく過ごすことの賛歌だと思うのですね。  あるいは四象限の図とか作れるかもしれません。  「オタク⇔非オタク」、「目標がある⇔目標がない」の二軸で作る日常系マトリクス。  そこに『よつばと!』、『イチゴ―イチハチ!』、『けいおん!』、『響け!ユーフォニアム』、『ゆゆ式』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』、『バクマン。』(映画)、『SHIROBAKO』、『エロマンガ先生』、『妹さえいればいい。』、『海街diary』、『ちいさいお姉さん』、『冴えない彼女の育てかた』、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』あたりをマッピングしてみると、色々なことが見えて来るかも。  いや、これはぼくが反射的に思い浮かべたタイトル群なので、まだ欠けているものがいくらもあるに違いありませんが。  ちなみに目標意識が強ければ強いほど日常系っぽくなくなると思います。  ちょっと『バクマン。』を日常系と呼ぶのは抵抗がありますよね。  でも、ぼくの目から見ると、あの作品もまた紛れもなく同時代的な精神の産物と映るわけです。  Excelとかでちょっと作ってみるといいのだろうけれど、もうニート生活が長すぎてExcelの使い方なんて忘れたよ……。だれか作らない?  これらの作品を見ていくと、 

日常系作品の四象限図を作りたい。

『SHIROBAKO』と作品の受け手はどうあるべきなのか問題。

 アニメ『SHIROBAKO』を全話見終わりました。  ついこのあいだ見始めたばかりなのに、ぼくとしてはめずらしいくらいのスピードで最後まで見てしまった。  いやー、面白いですね!  近年まれに見る――かどうかはわかりませんが、傑作といっていいかと。  東京郊外にあるアニメーション制作会社を舞台にさまざまなトラブルに立ち向かう群像を描き出した作品なのですが、とにかくよくできている。  どこがどう凄い!とはっきりいえるものではないのだけれど、逆にいうとそこが凄いのでしょう。  極端に深刻にしたり、萌えに走ったり、リアルに徹したりしているわけではないのに、ちゃんと面白い。全体の完成度の高さで勝負できている。  その点を高く評価するべき作品なのだと思います。  こういう作品はこれはこれで凄いように思います。  たぶん極端に振っちゃったほうが簡単なんですよね。  アニメ制作現場の描写なんて、その気になればいくらでも先鋭的にできるだろうに、そうしないでバランスを取っている。その良識が感動的です。  個人的に感心したのは、このアニメ、ストーリーが途中から始まっているんですよね。  いきなりあるアニメの制作状況の途中から始まって、そのまま話が進んでいく。  それまでどうだったのかの説明は一切なし。だれがどういう性格なのかも説明なし。  ただ、各登場人物の芝居のなかでいつのまにかどの人が何者なのかがわかるようになっている。上手いなあ。  初めは何がなんだかだったのに、いつしかすべてがわかるようになっているのだから、スマートです。  こういう地味ともいえる作品が一定以上話題になってちゃんと評価されている事実は素晴らしいですね。  各登場人物も萌えキャラといえばそうなんだけれど、あまりそこが強調されているわけでもないので、地味といえば地味なはずなんですけれどね。  見ているとまったくそういう印象は受けない。とにかく楽しい映像体験でした。  登場人物といえば、出て来るキャラクターのうち何人かは業界関係者がモデルになっているらしいんだけれど、よくわからない(笑)。  庵野さんくらいかな、ぼくがわかるのは。庵野さん、思い切り庵野さんでしたねー。アニメになってもよくわかる個性ですね。  そういうわけでとてもとても面白かったのですが、いち視聴者としては身に詰まされる作品でもありました。  いや、ぼくたち視聴者はいつもかってなことばかりいっているけれど、作るほうは大変だよなあって。  ほんとうはさらにさらに大変なのでしょう。  そうやって作ったものをただみたいな価格で観ているのだから、もうありがたいというか申し訳ないというか。  ぼくは 

『SHIROBAKO』と作品の受け手はどうあるべきなのか問題。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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