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  • 観念と官能。不浄と豊穣。静謐と猥雑。そして、タナトスとエロス。

    2020-07-30 15:53  
    50pt
     作家・団鬼六の業績をまとめた『花は紅』という本がある。団鬼六といえばいうまでもなく日本の官能小説の礎を築いたSM文学の巨匠なのだが、いまとなってはあまり読まれない作家であるかもしれない。
     ただ、映像化された作品はいまなおNetflixなどで見ることができ、その名を知る者は少なくないだろうと思う。
     で、この本のなかに団鬼六とマルキ・ド・サドの対称性について書かれた一文がある。曰く、サドは女の尻を叩くとき、己のなかの宗教的桎梏を見つめている。それに対し、団はまさに女の尻を見ているのだ、と。
     この違いは村上龍も指摘しているところで、サドにおいては明確に存在する神という概念を持たない団鬼六のSM小説は、何ともあざやかでしなやかで、そして豊穣である。
     あえていうならサドは観念的で、団は官能的なのだ。ぼくはサドの不毛と、団の豊穣の、その両者につよく惹かれるものがある。
     日本のエロティシズム
  • 時の波濤と砂の城。そして「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」。

    2020-07-25 20:50  
    50pt
     どもです。先日、陰キャをやめて陽キャとして生きることを決意した海燕です。このまま行くと光属性のリア充になるまであとわずかといえるでしょう(?)。
     具体的に何が変わったかというと、「希死念慮(死にたい気持ち)」が消えてなくなりました。「将来への不安」とか「過去への悔恨」もどこかへ行ってしまいました。そして「強い怒り」や「暗い憎しみ」も、また。
     結果として「心の平穏」だけが残り、「静かな丘のうえにたたずむような気持ち」で日々を生きています。まあ、完全に感情の揺らぎがなくなったわけでは(もちろん)ないけれど、それでも激しい気分のアップダウンはほぼなくなりました。
     いまはもう、いわゆる「ネガティヴな感情」はほとんど感じません。いや、当然あしたにはどうなっているかはわからないわけですが、その「あした」の心配まで背負って生きることはどうやらなくなったようです。
     まだまだ「悟り」とまでは行かなくても、いままでの自分から考えると格段の進歩といえるのではないでしょうか。心理的な意味での「マイナス」がほぼなくなったというところです。ここまでたどり着くまで長かった。じつに40年もかかっていますからね。
     ぼくはだいたい幼稚園児の頃から心配性でネガティヴな性格の子供で、そのためにいろいろな損をして生きてきたのですが、ようやく「人生の方向転換」に成功したかもしれません。たとえ一時的なものに過ぎないかもしれないとしてもね……。
     そういうわけで、とりあえずそこそこ幸せに暮らしているのですが、ここに「大きなプラス」、つまり何らかの「素晴らしい至福」や「大いなる歓喜」を加えるにはどうすれば良いかと考えています。
     たとえば「人間性心理学」の開祖として知られ、「欲求五段階説」で有名なマズローは、「人生は素晴らしい!」としみじみと感じ入るような瞬間のことを「至高体験(ピーク・エクスぺリエンス)」と呼んでいます。
     さらにこの「至高体験」が長きにわたって続くと「高原体験(ハイ・プラトー・エクスペリエンス)」と呼ばれる状況になるのだとか。
     これは「人間の第六の欲求」である「自己超越」と密接に関わった概念で、ここまでたどり着くと人は人生の価値、そして意味を深々と悟ることになるらしいです。
     ぼくもそこまで行きたいなあと思ったりします。もっとも、マズローによると「至高体験」は求めて得るものではないらしいのですが。
     ちなみに、このマズローの思想から派生したのが「個」を超えた精神を仮定するいわゆる「トランスパーソナル心理学」です。
     ただ、そこまで行くとかなり怪しげというか、スピリチュアル風味な世界に突入します。いやまあ、まったくのインチキとも思わないけれど、眉に唾を付けておいたほうが良さそう。
     もっとも、至高体験やチクセントミハイの「フロー」はどうやら実在する観念であって、何やら幸福の実感や極度の集中と関係があるらしい。
     この種の感覚を抱いたまま生活しているひと握りの人たちは、たとえ金銭や社会的名誉に恵まれていなくても、「ほんとうに幸せな人々」といえるでしょう。ぼくもそうなりたい。なりたいぞ。
     もっとも、その幸せも永遠に続くものではありません。かれらがひとりの人間としてどんなにいまを幸福だと感じていても、何十年か経てばすべて消え去ってしまう性質のものです。
     その「弱さ」、あるいは「儚さ」こそがひとつ人間のみならず、この地上のあらゆる存在の本質でしょう。その意味ではおよそ人間の行為とはひとしなみに時の波濤のまえで砂の城を築くような真似であるに過ぎません。
     どれほど壮麗な砂の城砦を建ててみせても、「時」はあっさりとそれを消し去っていく。ぼくはそのことを想うとき、古代の覇王ラムセス二世を詠ったシェリーの詩『オジマンディアス』を思い出します。

    古の国から来た旅人に会った
    彼は言った――「二本の巨大な胴を失った石の脚
    沙漠に立ち……その近くに、沙(すな)に
    半ば埋もれ崩れた顔が転がり、その渋面
    皺の寄った唇、冷酷な命令に歪んだ微笑
    工人その情念を巧みに読んだことを告げ
    表情は今なお生き生きと、命なきものに刻まれながら
    その面持を嘲笑い写した匠の手、
       それを養った心臓より生き存らえて
    そして台座には銘が見える。
    我が名はオジマンディアス、〈王〉の〈王〉
    我が偉勲を見よ、汝ら強き諸侯よ、そして絶望せよ!
    他は跡形なし。その巨大な〈遺骸〉の
    廃址の周りには、極みなく、草木なく
    寂寞たる平らかな沙、渺茫と広がるのみ。」――

     あるいは『平家物語』の冒頭でも良いでしょう。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
    奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
    猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

     ここで語られているものはつまり「無常」、この世界のどのようなものもいつまでもは続かないという真理です。この真理をまえにして多くの人は「栄枯盛衰の儚さ」を悟り、「何もかもむなしい」と感じるのではないでしょうか。
     時の波濤はこの世のすべてを押し流すのです。すべての花々はいつか枯れ、すべての恋びとたちはいつか別れ、すべての城砦はいつか朽ち、すべての国はいつか亡ぶ。
     その絶対の摂理、「この世界のグランド・ルール」をまえにして、いったい人生に何の意味が残るというのでしょうか?
     「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」。何もかも皆むなしい。無意味でしかない。そう思ってしまうことも無理ではありません。
     しかし、ぼくはこの「時の摂理」こそが人生に「歓喜」や「至福」をもたらすものだと思うのです。いずれ死に、滅ぶことの歓喜! 塵となり忘れられてゆくこことの至福!
     決してシニカルな逆説ではありません。つまり、「たゆみなく進む時の大河」をまえにした「わが身の脆さ」や「世界の儚さ」を骨身に染みて知ったそのときこそ、この世のすべてのものに対して、透きとおった蝶の翅や散りゆく桜の花びらを目にするような感動を知るのではないかと思うのです。
     すべてのものは亡びてゆく。何もかもが忘れられてゆく。人類の偉大な業績のことごとくも、この惑星そのものも、いつかは。しかし、それで良い。まったくそれでかまわない!
     「時」が正しくながれているからこそ「いま」があり、やがて死が訪れるからこそ生の歓びがある。「無常」とは「何もかもが無意味だというむなしさ」を意味するものでは決してない。むしろその反対に、時が止まらずながれるからこそ人生には価値があるのだ。そのことの「素晴らしい至福」、「大いなる歓喜」を噛みしめよう。
     ――と、ぼくは思っているのですが、ぼく自身、はっきりとそこまで「実感」できたことはまだありません。あくまで頭のなかでそういうふうに考えているだけです。なので、その「実感」にたどり着くことがぼくの当面の目標になるでしょうか。
     もうそこまで行くと陽キャも陰キャもない、「究極のリア充」といえるかもしれません。あるいはそれこそが「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」なのかも。
     いずれにしろ、ぼくは宗教でも、自己啓発でも、せつな的快楽主義でも、スピリチュアルでもないかたちで人生を肯定したい、と思う。自己啓発やスピリチュアルが一概に悪いとはいわないけれど、それらにひたれない性格の人にとっての「救い」をめざしたい。
     この世の「底知れない無意味さ」という「虚無の深淵」をのぞき込んで、なおそれに呑まれず、「いま」を「ただ生きる」。その果てに「ほんとうに巨大な歓び」は待っているのではないでしょうか? いや、ぼくはそう思うんですよね。
     あるいはそこまでたどり着くためにはあと40年かかるかもしれません。ぼくの人生の最終目標ですね。世界の脆さと儚さを直視し、歓喜を抱いて無常を肯定せよ! はたしてその心境に至ることがあるのかどうかわかりませんが、まあ、頑張りたいと思います。 
  • サーバルちゃんとかカタリナ・クラエスみたいになりたいです。

    2020-07-20 15:16  
    50pt
     Kindleで『アダルトチルドレンから自由へ』という本を読みました。これがなかなか素晴らしい。タイトルの通り、「アダルトチルドレン」と「自由」について語っているんだけれど、そのなかで人の心の成熟度を示すレベルが書かれている。
     それが、

    レベル① 劣等感を許していない人
    レベル➁ 劣等感を許している人
    レベル③ 劣等感を魅力にしている人
    レベル④ 人の劣等感を傷つけない人
    レベル⑤ 人に自尊心を与える人(いつも笑顔、ぽかぽかハート)

     というもの。
     あるいは、これだけだとわかりづらいかもしれませんね。つまり、ここでいう「アダルトチルドレン」とは、多くは幼年期の経験によって、自分の劣等感、一流大学に入れなかったとか、顔にあざがあるとか、太り過ぎだとか、親から愛されなかったとか、そういう点を「許し」、「認め」、その劣等感と「和解」することができていない人のことをいうのです。
     そういう人は歳を取りはしても内面は「子供のまま」なのですね。ぼくは最近ようやくレベル①から➁になったところかなあ、と思っています。次は③を目指したいところ。
     で、『けものフレンズ』のサーバルちゃんとか『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』のカタリナ・クラエスはレベル⑤だよなーと考えます。
     サーバルちゃんやカタリナさんは「人が自分では欠点だと思っているところを認めて言葉にすることができる人」なんですよね。
     たとえば、カバンちゃんは何ひとつ野生の世界で役に立つ才能や資質を持っていない「人間のフレンズ」なんだけれど、サーバルちゃんは彼女に向かって「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから!」といい、彼女の唯一の長所である秀でた頭脳を認めます。
     そして、「カバンちゃんはすごいんだよ!」とはっきり言葉にして伝える。これがまさに「人に自尊心を与える」ということですね。
     また、カタリナも相手が自分では欠点だと思っているところを認めて褒める。「あなたは緑の指を持っているのね」とか「あなたのその白い髪と紅い目、とっても綺麗」とかね。彼女はそういうことがナチュラルにできるわけです。
     これはアダルトチルドレンに限ったことではないけれど、人は往々にして自分のほんとうの魅力をわかっていなかったりするものなんですよね。
     たとえば東大を出たことが自慢の人は「おれは東大を出たからまわりに好かれているだろう」とか思ったりするんだけれど、人は学歴によって愛されたりはしない。そういう「わかりやすい長所」は決して「愛されポイント」にはならないのです。
     もしその人がまわりから愛されているとしたら、じつは東大を出たわりに世間知らずで初心なところが可愛かったりするのかもしれない。人間のほんとうの「愛されポイント」とは、世間や本人には「欠点」として認識されるところだったりするんですよ。
     たとえば『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーがまわりの人から愛されるのはかれが戦争の天才だからじゃないですよね。むしろ仕事嫌いの怠け者だったり、生活能力が欠如していたり、まるで軍人らしくなかったりするあたりがかれの魅力だと思います。
     つまり、「欠点こそじつは魅力」ということ。それが世にも意外な「愛の法則」で、そのことをきちんとわかっている人は成熟度レベル③以上に達することができる。そういう人こそ、正しい意味で「大人」と呼ばれるにふさわしいでしょう。
     ところが、先述したように、機能不全家庭で育って親から十分な愛情を受けられなかったりすると、歳を取ってもほんとうの意味での「大人」になれず、レベル①のままでストップしていたりする。それが「アダルトチルドレン」。
     重要なのは、親から愛されなかったことそのものがほんとうの問題なのではないということです。真の難題は、そのことをキッカケにして、「自分は「いい子」でいないとだれからも愛されない」とか、「人に好かれるためには何か大きな欠点を持っていてはいけない」とカンチガイしてしまうことなのです。
     そういう人は往々にして何とか自分の「短所」を隠し、「長所」だけを見せることによって人から愛されようとします。『グイン・サーガ』のアルド・ナリスとか、まさにそれなんですけれど。
     でもね、それってまさにカンチガイなんですよ。いくら「長所」が秀でていても、それだけでは人間は愛されないからです。たとえばテストで毎回100点を取れるから愛されるということはない。
     それなのにナリスは「完璧な人間」を演じ、まわりに利益をまわすことで愛されることができる、自分のほんとうの貌を晒せば嫌われると思っている。いうなれば「自分は毎回100点を取ってまわりのためになることをしているから必要とされているんだ」と考えているんだけれど、いや、まさにどうしようもないカンチガイ野郎です。アホですね、アホ。
     それでは、アルド・ナリスのほんとうの魅力はどこにあるのか? それは、じつは陰険で、ハラグロで、いい歳してマザコンのロリコンで、母親に愛されなかったとかいってうじうじしている、そういうところだったりするわけです。
     本人は「そんな「欠点」をあらわにしたらまわりの人間はみんな逃げていくに違いない」とかカンチガイしているんだけれど、でも、その「欠点」は、じつは「見る人が見ればとっくにバレバレ」だったりするんですね。
     そして、そういう人たちは「あなたの陰険なところが好きですよ。ハラグロでロリコンでマザコンで、愛情不足のせいでいつもうじうじしている、そして自分ではそれをバレていないつもりでいる、でもいままで必死に頑張って生き抜いて来た努力家で勉強家のそんなあなたを愛していますよ」といってくれたりするのです。ヴァレリウスとかね。リギアとか。
     ナリスは全身の自由を失い障害者になって「役立たず」になることで初めて、「じつはほんとうは自分は愛されていたこと」に気付きます。そして、「人に迷惑をかけなければ生きていけないこと」の意味を知り、「人に何かをしてもらうこと」が愛の贈り物になることもあるのだと悟るのです。
     かれはその贈り物を「信頼」と呼ぶのですが、まさにこの「信頼」こそ、レベル①を抜け出して大人になるためにどうしても必要なものでしょう。
     一方で『グイン・サーガ』にはイシュトヴァーンという男もいて、かれは「王になる」という夢を叶えることによって、貧しい孤児だった自分の欠落を埋めようとする。その結果、一国の帝王になりはするのだけれど、どんどん不幸になっていってしまう。
     これも良くあるパターンです。かれの場合は「自分の不足している部分」を「地位や権力」で埋めれば幸せになれるというカンチガイをしているのですね。
     でも、読者から見れば、じつは「何もかも足りない」と思って、いつか王になるという夢を見ていた頃のイシュトヴァーンがいちばん魅力的だったりすることは歴然としているんですよ。
     ぼくはもしかれに逢うことがあったら言ってやりたい。「おまえは身勝手で法螺吹きでわがままで夢ばかり大きくてどうしようもない奴だけれど、おまえのそんなところが大好きだよ。おまえはたしかに王さまになれるくらいの器量があるだろう。でも、べつにそうならなくてもいいじゃないか。いまの何も持っていないおまえが、そのままで充分に魅力的だよ」と。
     ナリスもイシュトも成熟度がレベル①から抜け出せていないんです。だからいつまでも「不幸な子供」なんですね。で、「欠点のある自分には価値がない」という劣等感に震えている。
     でも、ほんとうはそんな欠点だらけのかれらこそが魅力的で愛されているのです。たしかに、無関係の人間はかれらの容姿や才能や財産や地位だけを誉めそやすし、それこそがかれらの美点だというでしょう。
     でも、そんな連中はほんとうに大切にするべき相手ではない。ほんとうに大切な人は、身近にいて、かれらの欠点も弱点も知り尽くし、なおかつその点を愛してくれている、そんな人たちです。
     たとえばヤン・ウェンリーは「無敗の魔術師」であることによって民衆から崇拝されたけれど、ヤンにとってほんとうに大切な存在はかれの死後、「連戦連敗でもいい。生きていてほしかった」と考えるユリアンやフレデリカであったはずです。
     ヤンの場合は十分に「大人」だったからそのことがわかっていたけれど、もしかれがあくまで「自分は連戦連勝だから価値がある人間なんだ」などと思い込んでいたら不幸だったことでしょう。
     人は「自分は欠点だらけだが、まさにそうだからこそ愛される価値がある」と考えるべきなのだし、また、そのようにしてまわりの欠点だらけの人間に愛情を注いでいけばいい。それがレベル⑤の人間、サーバルちゃんとかカタリナの領域。
     それが「ほんとうの大人」だよなーと思いますね。そういうふうになりたいものです。 
  • 『はめふら』と『けものフレンズ』、そして「思い込みの糸」のほどきかた。

    2020-07-12 06:20  
    50pt
     最近、アニメ版が完結したばかりの『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』という小説をご存知だろうか? じつはぼく、先日、そのアニメのほうを一気に見てドハマりし、いま、原作を全巻まとめて買って読んでいるところなのだ。
     いやあ、面白い。めちゃくちゃ面白い。まだ暫定だけれど、今年のベストはこれかな、というくらい。
     ただまあ、そこまで才気走った話ではない。世にも秀抜な傑作かというと、そうでもないかもしれない。しかし、ぼくはこの話が非常に好きだ。アニメを繰り返し流したり、小説を何巻も延々と読みつづけたりしてしまうほどに。
     それでは、この作品の何がそれほど優れているのか? それはひっきょう、主人公の「悪役令嬢」カタリナ・クラエスの魅力に尽きる。
     悪役令嬢ものというジャンルの解説は省くので気になる人は自分で調べてほしいが、この作品における「悪役令嬢」であるカタリナはじっさ