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記事 7件
  • 都市のなかにコミュティを作る。

    2017-04-23 22:59  
    50pt
     Phaさんの「シェアハウスの限界」という記事が面白い。
    http://pha.hateblo.jp/entry/2017/04/22/210504
     意義深くはあるものの色々とトラブルの火種を抱えたシェアハウスという概念を拡張し、都市のなかにひとつのコミュニティを作ろうという企画らしい。niryuuさんという方が書いている「ニアハウス」という構想のリピートだということだ。
     これはとても面白いと思う。ペトロニウスさんは普段から「歳を取ったら近くに集まって暮らそうぜ」みたいなことをいっているわけだけれど、それはまさにこのニアハウス構想に近いんじゃないか。
     もちろん、いままでにも気の合う仲間だけで小さなコミュニティを作り出そうというコミューンの構想はあった。たとえば佐々木俊尚さんの『そして、暮らしは共同体になる』で紹介されているエコビレッジ「サイハテ」などまさにそうだ。
     しかし、この「ニ
  • 愛とモテについて語るらじお。

    2017-04-21 23:57  
    50pt
     22日午後9時からラジオを放送します。お相手はいつもの……と見せかけてそうでもない感じ。
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv296302361 ラジオ放送中です!
  • 非モテなう。

    2017-04-17 05:59  
    50pt
     うに。既に夜明けが近くなっているのですが、昼夜逆転生活の結果、まったく眠気がやって来ないのでもう一本記事を書くことにします。 
  • 女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。

    2017-04-17 04:01  
    50pt
     前回の話の続き。前回は、女性たちの真似をしてクオリティ・オブ・ライフを上げようと試みているというところまで話しました。これはほんとうのことなのですが、意外にこういう人はまだ少ないのかもしれません。
     まあ、たしかに南青山のオサレなレストランはカップルばかりでしたし、『ドラえもん』の映画をひとりで見に行ったら子連ればかりでした。
     世の中にはどうやら「男ひとりで入るところ」、「女ひとりで入るところ」、「男同士で入るところ」、「女同士で入るところ」、「男女で入るところ」、「子連れで入るところ」といった場所柄の「常識」があるようです。
     いまはもうそうでもないかもしれませんが、昔はラーメン屋なんかは女性ひとりでは入りづらかったようですね。
     フェミニズム的にいうとジェンダーの問題ということになるのだろうけれど、ぼくはほぼ無視しまくっているのでまったく気になりません。
     ひょっとしたら周りからは「あの人たち、男同士でこんな場所に来ているわ。場違いだと気付かないのかしら。ひそひそ」とか噂されているかもしれませんが、まあ、べつにいいんじゃね? そういうジェンダーにもとづく常識なんて、どんどん壊していくのがいいと思いますね。
     女性だってひとりでラーメンや牛丼を食べたいこともあるだろうし、反対に男性だってスイーツを食べたいこともある。それが変な目で見られるということは、それこそがおかしなことなんじゃないかと。
     じっさい、「男はこういうものだ」とか「女はこういうものだ」みたいな社会的な定義はほとんどあてにならないと思います。それらは大抵、「だからいまのままでいい」と開き直るために編み出されたものであるに過ぎません。
     脳科学的に見れば男性の脳も女性の脳もほとんど差がないらしいんですよね。だから、男性はこう、女性はこうというような特性は、結局、社会的に形成されたものに過ぎないと思うのです。
     ちなみに、そういう特性は生まれつき性別によって決まっているのだ、という考え方をジェンダー理論の用語で「本質主義」と呼び、その界隈では必殺技のように使われているのをよく見かけます。
     「それは本質主義だ!」とびしっと指さして指摘するとかっこいいとか良くないとか。
     で、よく「男は論理を求め、女は共感を求める。故に男は結論のない雑談が苦手だ」みたいなことがいわれるわけですが、これもつまりは教育の問題だと思いますね。女性はそういうふうに育てられているからそういう特徴が見られるようになっているというだけのこと。
     その証拠に、ぼくのまわりのおじさんたちは結論のない雑談を何より好んでいます。そう、ぼくの友人たちはおしゃべりな人がほとんどで、逢うととにかく話すのです。
     最近はわりと高級店の個室を借り切ったりもするようになりましたが、料理やお酒に舌鼓を打つ一方で、やっぱり話は止まりません。というか、そもそも周りに邪魔されることなく話をしたいから高級店を選ぶのですね。
     さらにそこからたとえばカラオケへ場所が移ったとしても歌ったりはしません。ただひたすらしゃべるだけ。まさに女子高生もかくやというほど雑談に熱心です。
     先に書いたように、よく女性の話は「落ち」がなく、それ故に延々と続くが、男性は話に論理的決着を付けようとする、それは実は脳の構造の違いが原因なのだ、いや原始時代の生活習慣の影響なのだなどといわれていますが、あれは嘘だと思いますね。
     それがほんとうなのだとすれば、ぼくのまわりのおじさんたちはほぼ中身は女の子です(笑)。皆よくしゃべるんだよなあ。ぼくもあまり人のことはいえないけれども。
     ペトロニウスさんとかLDさんとか、ラジオでもたしかによくしゃべるのだけれど、リアルで逢うとさらにもっとしゃべりますからね。あれはどういうことなんだろうな。
     ひょっとしたらラジオで話しているときは手足に鉄製のパワーアンクルを付けていて、それを外すと戦闘力が上がるのかもしれない。
     そういうわけで、ぼくは「男性はこう、女性はこう」という決めつけのことはまったく信じていないのですが、そうはいっても現実に統計的な「男性らしさ」、「女性らしさ」の偏りは存在することは事実。
     それがたとえ社会において後天的に身に着ける特質だとしても、ほんとうにあることは間違いありません。まあ、やっぱり女性は牛丼屋にひとりでは入りづらいとか、そういうことはどうしてもあると思うんですよね。良し悪しはともかく。
     しかし、そういうジェンダーの桎梏も、だんだん緩んできているように思います。何といってもいまは、あるいは建前だけかもしれないにせよ男女同権の世の中、「男は外で働いて、女は家を守るべき」というようなこという人は、皆無ではないにせよ、格段に減っているでしょう。
     つまり、男性も女性も、しだいに変化しているということです。女性が社会に進出するようになり、ある意味ではかつての男性にポジションにあることは周知の事実だと思いますが、男性もおそらくは女性に近づいているとぼくは思う。
     というか、そうあるべきなのではないか、と考えます。というのも、前回の記事でちょっと触れたように、何気ない日常を楽しむことにかけては一般に女性のほうがはるかに優れた蓄積を持っていると思うのですね。
     たとえば女性たちはカフェでコーヒーとケーキだけで楽しく時間を過ごすことができるけれど、男性は同じ真似ができなかったりする。平均的にいって女性たちのほうが余暇を豊かに過ごすことが上手なのだと感じます。
     いや、ぼくのまわりの人たちはそうでもないかもしれないけれど、それはやっぱり「例外」的だと思う。その証拠に、仕事を失い、また伴侶に先立たれた男性はすぐに亡くなってしまうのに対し、女性はひとりになっても長生きしたりします。
     これは統計的なデータとしてちゃんと結論が出ているようです。いま、経済成長がかなりのところまで行き詰まってしまった日本社会において、「男らしく」競争して勝ち組になれる確率はかなり低くなっています。
     つまり、ただ「成長」を目指すだけではなかなか幸せになれない時代なのです。だったら「成長」ならぬ「成熟」を志し、一日一日をより楽しく生きることに専念するのも悪くないことなのではないでしょうか。
     そして、そういう人生を志向する時、手本となってくれるのが女性たちの生き方だと思うのです。「競争」ではなく「協調」を、「成長」ではなく「成熟」を求め、あたりまえの日常を少しでも楽しく生きようとするとき、女性たちは男性の「先生」になってくれるでしょう。
     まあ、そういう態度を良しとしない頭の固い男性もいるかもしれませんが、現に「日常系」といわれる漫画の主人公はほとんどが女の子ですよね。
     ああいう物語を見て心癒やされている男性たちは、内心ではやっぱり女性たちの、いまのところ女性にしか許されていないかに見えるライフスタイルをうらやんでいるのではないでしょうか。
     少なくともぼくはうらやましい。ぼくも『ゆゆ式』みたいな日常を……いや、さすがにそれは送りたくないかもしれないけれど、『けいおん!』みたいな生活は送りたいぞ。
     じっさい、ちょっと気をつけて時間を過ごすことを覚えたなら、「あたりまえの日常」は素晴らしい輝きを放ち始めます。それはほんとうは「あたりまえの日常」などというものは存在せず、時は仮借なく過ぎていき、すべてを変えていくからです。
     「あたりまえ」が「いつまでも続く」とは、単なるぼくたちの思い込みに過ぎないのですね。そのことは『灰と幻想のグリムガル』を見てもわかりますし、『よつばと!』においては素晴らしいセンス・オブ・ワンダーとともに描写されていることです。
     平凡な平穏のなかにこそ黄金の輝きはある。男性たちはこれからそのことを学習していかなければならないのだと思います。暖かで和やかな日常や、他者による理解と共感を求めているのは女性たちだけではない、男性だってほんとうは変わらないのですから。
     とはいえ、それでは変わり映えのしない「出口のない日常」を楽しむにはどうすればいいのか? そのためには生活の三大基礎である「衣・食・住」と、そして「趣味」を充実させていくよりほかないと思います。
     このブログでぼくが「衣・食・住」をテーマにした記事をいくつか書いているのはそのためです。つまりは、すべては「成長が行き詰まった成熟社会において、いかにしてクオリティ・オブ・ライフを向上させ、センス・オブ・ワンダーを獲得するか?」というテーマであるわけなのですよ。
     いい換えるなら、大人になってなお『よつばと!』のよつばのように新鮮な発見に満ちた人生を送るにはどうすればいいのかということ。
     それはおそらくは「脱男らしさ」の道であり、そしてある意味では「脱オタクらしさ」であるかもしれません。
     仮にオタクでありつづけるとしても、少なくともさまざまな「知識自慢」や「センス自慢」を繰り返し、「縦の関係」を作ろうとしてきたかつての男性オタクたちとは違う意味でのオタクにならなければなりません。
     それがどんなものなのか、どんな名前で呼ばれるべきなのか、その答えをぼくは持っていませんが、ぼくがたとえば『妹さえいればいい。』という小説を好きなのは、そのテーマを鋭く実現しているフロントラインの作品だと思うからなのですね。
     そういうふうに捉えてもらえると、ぼくが単発で書いてきた記事も、実は色々と地下水脈で繋がっているのだということがわかってもらえると思います。
     そして、そういうふうに読めば、このブログも少しは楽しいものに思えて来るのではないか、と。まあ、そういうわけで、ぼくは最高の人生を実践しながら模索しているのでした。
     ああ、あとは恋人か伴侶がいればいうことなしなんだけれどな! 毎度同じ落ちですが、まあしかたないでしょう。
     現実は、きびしい。 
  • 「男らしさ」から遠く離れて。

    2017-04-13 05:40  
    50pt
     田中俊之『男がつらいよ』という本を読んだ。日本における「男性学」の識者のひとりである著者が、現代における男性の生き方について語った一冊で、学問的な専門性は低く、エッセイに近い内容になっている。
     ぼくはこの手の本をたまに読むのだが、多くの場合、内容に満足することはできない。どうにも内容が古くさくあたりまえのことに感じてしまうのである。
     この本もその意味でやはり完全に満足できる内容ではなかった。この本のメインターゲットは昭和的な意味での「男らしさ」の規範に捉われている男性読者であり、そのような人に向けて「ちょっとその規範から自由になってみてはいかがですか」と訴えているのだと思う。
     しかし、ぼくは既にここでいわれている「男らしさ」というジェンダーから逸脱しまくっている身であり、その意味でこの本の内容のほとんどは無関係なのである。
     何しろ、無職なので社会的な「競争」からはドロップアウトしているし、独身だし、恋人もいないし、当然、子供もいない。その上、趣味はアニメやマンガだ。ぼくはほとんどあらゆる意味で「男らしさ」から脱落している、よくいうなら自由になっている人間なのである。
     そして、それで特に辛いとも思わず気楽に生きている。「世間からの偏見や差別」はたしかになくはないだろうが、ほとんど気にしていないので特に問題はない。
     そういうぼくからすると、この本の内容はあまりにも初歩的というか、当然のもので、特にインパクトを受けることはなかった。一か所、面白いと思ったのが女子高生の売春、そして中高年男性の買春について語った以下の箇所だ。

     あまりにも女子高生やそれを連想させる衣装に魅力を感じる男性が多いので、たまに現実の女子高生を観察してみるのですが、アラフォーの私からすれば本当に子どもであり、性的な引力を感じる要素は皆無でした。
     現実の女子高生は子どもです。それにもかかわらず、女子高生という単語を聞いただけで、性的な興奮を覚えてしまう男性がいます。本当に重症です。早く目を覚ましてください。

     これはおかしいのではないだろうか。たしかに、大人の男性が女子高生を「買って」性的関係を結ぶことには大きな問題がある。ぼくもそう思う。
     しかし「ある男性が女子高生に対し性的に興奮すること」そのものは個人の自由の範疇であり、だれに咎められる理由もないはずだ。そんな個人の性的な自由を問題視することはそれこそ差別であり、ある性的規範の押しつけである。
     たとえば同性愛者を差別してはいけないのと同じように、女子高生萌えのおじさんも差別してはいけない。
     こう書くと、あるいはすぐに反論が返って来るかもしれない。同性愛は自分では変えることができない「性的志向」であるのに対し、女子高生好きは単なる「性的嗜好」に過ぎない。前者を差別することは良くないとしても、後者を批判することは当然のことだ、と。
     しかし、いったいいつ「性的嗜好」であれば蔑視してもかまわないということになったのか。「性的志向の自由」も大切だが、「性的嗜好の自由」だってやはり重要である。
     たとえば、あるおじさんが女子高生をむりやりレイプする妄想でしか性的興奮を得られないとしても、決して蔑まれるべきではない。
     この理屈が届かない人が大勢いることはたしかだ。世の中には(ネットにも)、同性愛者を差別することは良くなくても、腐女子がボーイズ・ラブ小説を読むことを蔑むことは大した問題ではない、と考える人は大勢いる。
     そういう人は大抵、自分はリベラルな人間だと信じ、同性愛者の人権といった大問題に比べれば、腐女子の小説の趣味などどうでもいい問題だと思っているのだろう。
     しかし、これはこの発想自体が差別である。ある人間が抱える問題の軽重を外部から決めていいはずがない。同性愛者の抱える問題こそが重く、腐女子の問題が軽いとは必ずしもいえないはずだ。
     思うに、こうしたことをいいだす人はほんとうの意味で差別を嫌っているわけではないのではないか。ただ「同性愛者を差別することはいけない」という規範をインストールされて機械的にそれに従っているだけで、「そもそもなぜ差別はいけないのか?」ということはまったく考えていないのだろう。
     たぶん「差別は悪いに決まっている」として思考停止しているのだと思う。その結果、「同性愛者を差別することは良くなくても腐女子を見下すくらいはあたりまえだろう」といった判断に至る。
     そんなわけはないのだが。だが、社会学の専門家ですら「本当に重症です。早く目を覚ましてください。」などと書いてしまうわけで、こうした「似非リベラル問題」は根が深い。
     ぼくが既存の男性学に違和を抱くのは、それが男性たちを「古い男性像」から解放しようとするのはいいのだが、その一方で「正しい男性像」、「新しい男性像」にアジャストさせようとするからである。
     たしかに「古い男性像」は現代において批判されるべきだろうが、だからといってだれもが「新しい男性像」に適応できるわけでもないのである。そして、それでべつに問題はないはずだ。
     それにもかかわらず、あえて「新しい男性像」というライフスタイルのみを推奨するのなら、そこには「古い男性」たちに対する差別心があると見なければならない。そうではないか。
     著者は「オタク差別」を問題視しているが、「女子高生に欲情するおじさんなんて異常だ。早く目を覚ませ」といった論理から、「二次元の女の子に欲情するオタクなんて異常だ。早く目を覚ませ」までは半歩の距離しかないはずである。
     こと性に関しては「まとも」や「正常」といった規範を持ち出して人を咎める限り、どうしたって差別に繋がらざるを得ない。
     ぼくはおじさんが女子高生に欲望を感じてもそれ自体は何ら咎められるべきことではないと思う。もちろん、それを少女買春といった形で現実化しようとすれば話は別だということは、先に述べた通りである。
     それにしても、この本を読んで自分が「男らしさ」規範からいかに遠いところに来てしまっているか、あらためてつくづく思わされた。
     この本には「男は雑談が苦手だ」といったことが書かれているのだが、ぼくは何時間でも平気で雑談していられる男である。友人とSkypeやLINEを使って会話をすると5,6時間に及ぶことはざらであり、「女子高生でもここまでしゃべらないよ」といわれるくらい話をしている。
     また、ぼくは男同士で平気で「女子会」的なイベントを開き、南青山のオシャレなレストランを予約して食べに行ったりしている。もちろん、といっては何だが、同性愛者なのではなく、ただただ美味しいものが食べたいからである。
     その上、ニートで非モテ(単に異性にモテないという意味での非モテ)なのにそのことを特別に問題視してはいないし、「リア充」に嫉妬することもない。ぼくはその意味では、この本で書かれている「男性」ではないのだ。
     ぼくがこのようなライフスタイルを確立するまでには、女性たちの生き方を真似することが大いに役に立った。その意味で、現在のぼくのライフスタイルはいくらか「女性的」だと思う。ほんとうに、「男らしさ」などといったものはまるで役に立っていない。
     もっと現代的な男性学、ないし男性論の本を読んでみたいと思う。何かいい本はないだろうか。ないのだろうなあ。男性学の夜明けは遠いぜよ、といった気分になってしまうのであった。 
  • 善と悪と善悪では語り切れないもの。

    2017-04-11 07:03  
    50pt
     ども。深夜(というか既に早朝か)になってもまだ寝つけずネットサーフィン(死語かな)で暇を潰している海燕です。
     何となく山本弘さんのブログにたどり着いてちょっと読んでいたのですが、その内容が興味深かったので言及しておきます。
     「と学会がやっていたことは「弱い者いじめ」だったのか?」と題する記事で、山本さんは自分が「と学会」で書いてきた文章について、こう書いているんですね。

     じゃあなぜ、単に間違いを指摘するだけでなく、笑い飛ばす必要があるのか?
     理由は簡単、その方がアピールするからだ。http://hirorin.otaden.jp/e438451.html

     ぼくはこの箇所を読んで、何ともいえない気持ちになってしまいました。「トンデモ本」シリーズにおける山本さんのあの何とも意地の悪い印象を受ける文体は、「アピールするから」やっていたことだったのか!と。
     ということはつまり、山本さんのそのほかの何だかひどく意地の悪い印象を受ける文章も「アピールするから」採用されていると考えるべきなのでしょうね。
     同じ記事のなかで、山本さんは「抱腹絶倒一回は三段論法千回に勝る」という言葉を引き、このように書いています。

     もちろん事実を論理的に説明して批判するのも大事だ。だが、「そんなの信じちゃだめだよ」とアピールするには、笑い飛ばすのが早道なのだ。実際、原田実氏はそうやっている。事実関係をきちんと調べたうえで、「江戸っ子大虐殺」のような笑える部分を指摘するのも忘れない。

     ここで、山本さんは気付いていないのか故意に無視しているのかわからないのですが、「笑い飛ばす」ことと「笑える部分を指摘する」ことを同一の文脈で使用しているように見えます。
     しかし、よく考えてみればわかるように、「笑い飛ばす」ことと「笑える部分を指摘する」ことはまったく違うことなのですね。著者自身がどんなに痛快にだれかを笑い飛ばしていても、読むほうはまったく笑えないということはありえる。
     「だれかひとを笑い飛ばした文章」=「笑える文章」とは限らないということです。ネットにはその手の文章が山ほどあるので、あえて例に挙げる必要もないでしょう。
     で、ぼくは山本さんの文章もそれに近いものがあると思うのですね。たしかに率直に笑えることもあるのだけれど、読み終えてひたすら嫌な気持ちになるだけの文章も少なくない。
     もっというなら、個人的にはと学会での活動の後期に行くほど底意地の悪さばかりが目立って笑えなくなっていく印象でした。
     もちろん、それはぼくの主観ですから、「最後までめちゃくちゃ笑えた」という人もいるかもしれません。しかし、今回、ぼくがこの文章を読んでショックを受けたのはそれに関連することではなく、ああ、山本さんって、本気で自分は社会正義のために人を笑い飛ばしていると信じているんだ、ということなのです。
     社会正義のため、といういい方は適切ではないかもしれません。ですが、続く以下のような文章を読むと、山本さんは「トンデモ本を笑い飛ばす」ことを少なくとも社会的に正しい行為であると認識しているように思えます。

     そうして1999年7月は何事もなく過ぎ去った。
     パラレルワールドのことなんか分からない。でも、もし僕が『トンデモノストラダムス本の世界』を書かなかったら──abさんが言うように、「本人に直接言うなり手紙やメールを出すなり」で済ませ、広く世間に警告しようとしなかったらどうなっていたか……それはいつも考える。
     少なくとも僕は、災厄を防ぐために、自分がやるべきことをやったと、今でも誇りを持って言える。

     つまり、山本さんは自分はあくまで社会のために皮肉や嫌味をいって「広く世間に警告」しているのだ、と信じているのだと思うのです。これがぼくには何ともいえない苦い気分でした。この人は本気で自分を正義の味方だと信じているのだなあ、と。
     ぼくは小学生のときから山本さんの小説を読んでいて、直近の数冊を除いてかれの小説をほとんど読んでいると思うのですが、山本さんの価値観の素朴さには時々、真剣に驚かされることがあります。
     山本さんの小説のなかでは「善」と「悪」ははっきり分かれていてまったく異質なものとして認識されているとしか思えないのですね。これはある種のまた聞きになりますが、

     このほか、平井和正『アンドロイドお雪』や、眉村卓『わがセクソイド』などについても触れ、人間はダメな奴なんだという発想からスタートしている当時の小説が後の自分たちに与えた影響などについても触れた。山本氏は、ダメなんだけどいいところもあるよという形で描こうとしているという。 
    http://robot.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/11/06/250.html

     という文章があります。
     これは山本作品の読者として非常によくわかる主張なのですが、しかし、この「ダメ」なところと「いいところ」がまったくかけ離れたものとして描かれるところに山本さんの小説の、ひいては文章一般の特徴があると思います。
     その上で、上記のような文章を読むと、この人は「善(いいところ)」と「悪(ダメなところ)」は明瞭に区別することができると考えているのではないか、という推察に至るわけです。
     まあ、ほんとうのことはわかりませんが、ずっとかれの文章を読んでいると、どうにもそういう気になるんですよね。たとえば、以下の文章。

     僕は昔からSF小説やマンガなどで、ロボットがあまりにも人間そっくりに思考し、人間のように喋るのに反発を覚えていた。人間と同じように考えるなら、それはすでに人間じゃないかと。
     ロボットと人間の違いは、単にボディが金属でできているかどうかではないはずだ。最大の相違点は心のあり方の違いではないのか。
     彼らに「ヒトと同じになれ」と要求するのは無意味である。ロボットはヒトにはなれない。たとえば性的欲求や種族維持本能を持たない彼らに、恋愛感情や母性愛というものが芽生えるとは思えない。
     それでも彼らは心を持つはずだと、僕は信じる。「心」とは「人間そっくりに考えること」ではないはずだ。
     作中に登場する「スカンクの誤謬」とは、『鉄腕アトム』の「電光人間」というエピソードで、悪役のスカンク草井が口にする台詞から来ている。
    「アトムは完全ではないぜ。なぜなら悪い心を持たねえからな」
    「完全な芸術品といえるロボットなら、人間とおなじ心を持つはずだ」
     この言葉は、「完全なもの」=「人間と同じもの」という誤解に基づいている。実際、多くの人がそう考えている。ヒトは万物の霊長、進化の頂点にある。進化を続けるロボットにとって、ヒトは到達すべきゴールであると。
     そんなことはない。ロボットにとって、ヒトはゴールでもなければ、通過地点でもない。ロボットにはロボットの進む道があり、ゴールがあるはずだ。
     実際に遠い未来、ロボットたちがこの小説で描いたようなゴールに到達するかどうかは分からない。これもまたフィクションだからだ。だが、こういう結末を迎えて欲しいと、僕は切に願うものである。
    http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/ainomonogatari.htm

     ここで山本さんは「ロボットの進む道」や「ゴール」は人間とは違うということを主張しているわけですが、少し深読みするなら「人間とは違って悪い心を持たないロボットのほうが完全だろう」といっているようにも思えます。
     じっさい、この文章の背景になっている『アイの物語』という小説を読むと、そこで描かれているものは人間より倫理的に上位であるとみなされるロボット(マシン)たちの「ゴール」です。
     この小説についてもいいたいことがあるのですが、まあ、それはさらに長くなるので省くとして、ぼくはここで「誤謬」といい切られているスカンクの主張が理解できる気がするのですね。山本さんは文意を読み違えていると思うのです。
     作者である手塚さんの主張まではわからないにしろ、少なくともスカンクがいいたかったのは、「人間と同じもの」こそが完全だということではなく、「「悪い心」をもち、単純明快な倫理の教科書的存在を超えて、善悪では割り切れない複雑な心の領域にまで到達してこそ、完全なロボットだといえる」ということなのではないでしょうか。
     山本さんがそれを上記のように読んでしまうのは、「悪い心」を単純な意味で「悪」と認識してしまうからなのではないか、と思うのですよ。そして、その認識は小説作品にも影を落としていると考えています。
     ぼくは直近の数冊を除いて山本さんの小説本をほとんど読んでいるのですが、そのなかでも愛着の深い本に『サーラの冒険』があります。
     この小説の主人公サーラ少年は、物語の途中でデルという名の少女と恋に落ちます。しかし、最終巻のひとつ前の第五巻で、サーラの前に大きな試練が訪れます。
     サーラにかけられた呪いを解くために、デルが人をひとり殺してしまうのです。ぼくはこの小説の発表当時、この箇所を読んで興奮しました。おお、これで物語は勧善懲悪のレベルを離れ、ハッピーエンドの呪縛から抜け、善悪では計り知れない人の心の闇を描くのだな、と期待したからです。
     ところが、最終巻で、この期待は大きく裏切られることになります。この巻において、デルと再会したサーラはこういい放つのです。

    「どうやって……?」デルは弱弱しく反論した。「何をしたって、私の重い罪……消えっこない……」
    「ああ、そうさ。君の罪は消えない。でも、償うことはできるだろ? 君のその力を、いいことにだって使えるだろ?」
     その時、サーラの脳裏にひらめいたのは、ドレックノールの下町で目撃した光景――泣き叫びながら連行される娘の姿だった。
    「そうだ、この世には苦しんでる人が大勢いる。力を持たなくて、強い者に虐げられて泣いている人たちが――その人たちのために戦おう。君は人を殺した。だから今度は人を救おう。一〇〇人でも、二〇〇人でも、三〇〇人でも……」
     サーラは涙を流しながら、必死になって呼びかけた。
    「君にだけやらせない。僕も協力する。君を支えてあげる。君に負けないぐらい強くなる。二人で償おう! 一生をかけて償い続けよう!」

     この箇所を読んで、当時、ぼくはがっくりとしてしまいました。いやいや、それはおかしいでしょ、と思ったわけです。一〇〇人救おうが、一〇〇〇人救おうが、それとデルが無辜の人を殺してしまったこととはべつの問題であるはずです。
     サーラは殺された女の子に対して「そのかわりいっぱい人を救うから赦してね」とでもいうつもりなのでしょうか。もし、ほんとうに罪を償う気があるのなら、少なくとも殺した子の家族には会って謝罪するべきでは?
     ぼくには、てっきり善悪では割り切れない問題に踏み込んでいくかと思った物語が、非常に安易かつ安直に偽善の罠に嵌まってしまっているように思えてなりませんでした。
     たとえば『Fate/stay night』の桜ルートにおいても、主人公である衛宮士郎は同種の問題に直面するわけですが、ぼくは『Fate』にはそういった問題は感じませんでした。
     そして、ある種の失望とともに、これが山本弘という作家なんだな、とも思ったのです。この人は「善」と「悪」を分けて考えるというところから、ほんとうに進む気がないんだなあ、と。
     というか、たぶん山本さんにとってそれはあまりにあたりまえで、疑う余地のないことなのでしょう。「だって、悪いことは悪いに決まっているじゃないか!」といったことなのかもしれません。
     普通、作家になるような人は、大人になるまでのどこかで必ずしも善悪に分かつことはできない人間という存在の不思議に打たれることが多いと思うのですが、山本さんのなかでは「善いことは善いことで、悪いことは悪いこと」という認識は少年時代からまったく揺らがなかったのだ、と考えるしかありません。
     たとえば田中芳樹さんの小説を読んでいてもそういう過剰な潔癖さを感じることはあります。人間の醜悪さ、愚かしさ、おぞましさを憎む少年的な心理。
     しかし、田中さんはそうはいっても(少なくともその全盛期の作品においては)単に善悪に分けられないキャラクターをもそこそこ好意的に描いていると思うのです。
     たとえば、『アルスラーン戦記』のギスカールなどがそれで、この男のせいで少なくとも何十万人もの人間が虐殺されたはずなのですが、作中ではわりに格好良く描かれています。
     もちろん、山本さんの小説にも『サーラの冒険』のジェノアのように、「かっこいい悪役」は登場します。しかし、それはあくまで「魅力的な悪」という域を逸脱しません。そこはやはり違いがあるのでは、とぼくなどは感じる。
     まあ、ここらへんは微妙なところで、ぼくも感覚的にしか語れないのですが、ぼくはやはり山本さんは「善悪の彼岸」を描けない、というかそもそも認識できない作家なのだと思うのです。
     先にも書いたように、「善いことは善いことで、悪いことは悪いこと」というところから一歩も外へ出ない印象なのですね。つまりは、懐疑主義者を自認する山本さんであるにもかかわらず、「善悪という概念そのもの」は信じて疑わないようにしか見えないのです。
     山本さんがブログで批判している栗本薫さんなどは、あきらかにこうした概念を信じていません。もちろん、いち生活人としては善悪の観念はあったでしょうが、それを小説世界に持ち込むことはしなかった。
     栗本さんの小説世界には「主人公」と「悪役」といった対立構造そのものが存在しないのです。たとえば、『グイン・サーガ』の主人公のひとりであるイシュトヴァーンなどは、最終的に「殺人王」にまでなって虐殺を繰りひろげてしまうわけで、善悪にこだわる人がこうした小説を書くわけはありません。山本さんの小説と栗本さんの小説はそもそも前提条件が違うわけです。
     しかし、山本さんはその点を認識せず、そのおかげで、山本さんの栗本さんへの批判は、その一部が非常にずれたものになってしまっている印象です。

     1979年、栗本薫〈グイン・サーガ〉シリーズの第1巻、『豹頭の仮面』が出版された。その中に「癩(らい)伯爵」という悪役が出てきた。癩病に冒され、全身が醜いできものに覆われ、膿を垂れ流し、悪臭を放っているという、すさまじいキャラクターだ。そのおぞましさ、嫌らしさ、邪悪さが、これでもかというぐらいねちっこく描かれていた。(もちろん、本物の癩病=ハンセン病は、そんな病気ではない。
     しかもその患者をおぞましい悪役として描いたのだから、これはもうどう考えてもアウトだ。http://hirorin.otaden.jp/e314706.html

     「おぞましい悪役」。ここらへんが、いかにも山本さんらしい表現だと思うのですけれど、山本さんにとって「悪い心」をもって「悪いこと」をするキャラクターは即ち「悪役」なのですね。
     しかし、おそらく栗本さんは小説を書くにあたって、そもそも「悪役」という概念による認識そのものをもっていなかったのではないかと思います。
     「世間的には悪とされていることをやっている人物」という程度の認識はあったでしょうが、「悪役が正義に亡ぼされる」とかそういうふうに物語を捉えて構築することはなかったでしょう。
     というのも、栗本さんはあきらかに「善悪の彼岸なるもの」にこそ興味があった作家だからで、山本さんのこの批判が適切かどうかとは別に、ふたりの間の壮絶なずれにぼくはため息を吐きたくなってしまうのです。
     山本さんは良くも悪くも本心から「正義の味方」をやっているんでしょうね。そこらへんはたとえば岡田斗司夫さんあたりとは決定的に違うところで、ぼくは、どちらが良いかということとはべつに、岡田さんのほうがはるかによく理解できます。
     たとえば、山本さんの『魔法少女まどか☆マギカ』の感想などを読むと、その自分とあまりにかけ離れた感覚に、ものすごく違和を感じるのです。もちろん、感想は人それぞれなので、それが悪いといっているわけではありません。ただ、違和はある。どうしようもなくある。

     これは安直なご都合主義のハッピーエンドではない。 
     他の可能性をすべて否定された末にたどり着いた、大きな犠牲を伴うハッピーエンドだ。 
     すべての人が幸せになれたわけではない。 
     悪は絶えることはなく、魔法少女たちは永遠に戦い続けなくてはならない。 
     でも、最後にほむらが見せた微笑みで、すべてが救われる。
    http://hirorin.otaden.jp/e173632.html

     「悪は絶えることはなく」か。山本さんはそういうふうにあのアニメを見たんですね。ここまで来ると違和を通り越して真剣に感心してしまうくらいです。なるほど、そういう感想になるのか、と。
     この文章自体がいくらか皮肉っぽくなってしまったかもしれませんが、ぼくには山本さんを貶める意図はありません。ただ、ずっと読んできた作家だけに、やっぱりちょっと残念な気はするのです。ぼくのかってな思いには違いないんですけれどね。うーん。 朝だ。 
  • 非モテの悩みはモテによって解決できない。

    2017-04-05 03:52  
    50pt
     ども。ここ数日、てれびんといっしょに自動車で旅行をしたり、家を訪ねて来た甥っ子や姪っ子と遊んだりしていてまったく生活に余裕がありませんでした。ようやくすべてのタスクが終わったのでちょっと長い記事を書きたいと思います。
     ちなみにぼくはわりに子供が好きで、ふしぎと子供とはすぐに仲良くなれる人だったりします。女の子にはまったくモテないけれど子供には不思議なくらいモテるんだよね、これが。
     じっさい、旅行の前日にてれびんの知人の家に寄ったときもあっというまにそこの家のお子さんと仲良くなってしまい、うーん、これはちょっとした才能なのではないか、などと思ったりしました。
     子供にはかなり人見知りする子もあまりしない子もいますが、一様に見知らぬ大人に対する警戒心は持っているものだと思うのです。だから、それをいかに解いていくか、ということが子供と向き合うときのひとつの課題となる。
     でも、そこで「自分になつかないなんてつまらない子だな」などと考えてしまうと相手はなおさらなつかなくなるでしょう。まずはその子と対等に向かい合って、自分は敵ではないし、上位者でもないのだというメッセージを伝えていくことが大切だと考えます。
     子供相手に対等の関係などというと、いぶかしく思う人も少なくないかもしれません。しかし、ぼくは相手が三歳だろうが五歳だろうが、同じ人間として対等である、と考えます。
     ぼくはよく「お子様に遊んでいただく」といういい方をするのですが、ぼくとしては「子供と遊んであげる」といった上から目線的な感覚はあまりなく、あくまでいっしょに楽しんで遊んでいるだけなのです。
     このあいだ、小学六年生になるいとこの娘さんをプールに連れて行ったら「え、連れて行ってくれるの?」といわれて、なるほどなあ、大人が子供をプールに連れて行ったら、子供から見たら「連れて行ってくれる」という感覚になるのだなあ、としみじみと感じました。
     ぼくとしてはいっしょに遊びに行くという程度の認識だったんですけれどね。いやー、ぼくのような子供っぽい男でも、子供から見たらやっぱり大人なんだなあ、とふしぎな気がしました。あたりまえのことなのかもしれませんけれど。
     それにしたって昨日までのぼくは姪っ子のしもべみたいな地位でした。まあ、ことほどさように、子供と大人の間にはある種の権力関係、パワーゲームともいうべき「力の天秤」が存在しています。
     それはたいてい大人側に傾いているわけですが、これが大人同士となると、どちらに権力があるかは微妙な問題になります。しかし、本来、どんな人間関係にもこの権力関係は介在しており、人は相手は自分より上か下かということを無意識的にせよ気にしながら関係を築いているのです。
     このことを端的にテーマにしていたのが作家の栗本薫です。栗本の特にボーイズラブ小説(より正確にはJUNE小説)は、そのすべてが人間同士のパワーゲームを主題にしています。
     そのことが最も端的に表れているのはおそらく彼女がデビュー前に綴った長編小説『真夜中の天使』でしょう。これは、今西良と滝俊介というふたりの主人公の権力関係がしだいに逆転していくという展開の作品です。
     初め、圧倒的弱者であり支配される側であった今西良が、いかにして強者に、そして支配する側になっていくかを描いた小説といってもいい。ここで、栗本は強いものが弱く、弱いものが強くなっていくという反転のドラマツルギーを劇的に描き出すことに成功しています。
     しかし、ぼくにとってこの小説である意味では本編以上に印象的だったのは、あとがきの一節です。そこで、若き栗本はこんなふうに書いているのでした。
     ただ私にとってそのとき切実に知りたかったこと――それは、一人の人間が、どうしたら、ほんとうに孤独ではなくなるか、ということでした。
     これが、これこそが、作家栗本薫がその生涯と全作品をかけて追いかけたテーマである、といい切っていいと思うのです。どうしたらほんとうに孤独ではなくなるのか。どうしたら、人の魂の孤独は癒やされえるのか。
     これはつまり、ペトロニウスさんがよくいうところのナルシシズム(閉ざされて空転する心)はいかにして解決されるかという問題です。この、ナルシシズムとその解決という大テーマを、栗本薫は生涯にわたって模索していました。
     そして――このクエスチョンのアンサーとなるものが、アドラー心理学でいうところの「共同体感覚」だとぼくは考えるのです。
     共同体感覚とは何か。「哲人」と「青年」の対話という形でアドラー心理学について詳細に書いてベストセラーとなった『嫌われる勇気』から引用してみましょう。

    哲人 前々回だったでしょうか、他者のことを「敵」と見なすか、あるいは「仲間」と見なすのか、という話をしましたよね?
     ここでもう一歩踏み込んだところを考えてください。もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち――つまり共同体――のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
    (中略)
    哲人 アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。
    青年 はっ?
    哲人 つまり、われわれが「共同体」という言葉に接したときに想像するような既存の枠組みではなく、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだと提唱しているのです。

     これです、これ。すべての人間、そしてこの世の森羅万象すべてが「仲間」であり、そしてそこに「自分の居場所がある」という感覚、それを抱くことができたとき、人はほんとうの意味で孤独から解放される。それが、アドラー心理学とは独立して、栗本薫がたどり着いた結論だったとぼくは思っています。
     そのことが端的に表現されているのが、『グイン・サーガ』におけるアルド・ナリスの死の場面です。人としてきわめて優秀な麗質に恵まれ、そのことにプライド(優越感)を抱いていたナリスは、あらゆる肉体的能力を失い、ほとんど廃人寸前となって初めて、人を信じ、人に頼ることを覚えます。
     そして、それによってそれまで「敵」であると信じていた人々が、実は「仲間」であったことを悟るのです。『グイン・サーガ』第65巻で、かつての能力のほとんどを奪い去られたアルド・ナリスは、部下を死なせてしまったことを悩む黒太子スカールに対し、こう語ります。

    「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」
    「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物ものあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」

     信頼。これこそが、人を孤独地獄から救うための唯一のキーワードなのではないでしょうか。まわりのすべての人間が、否、人間以外の存在までも含めたこの全宇宙が、自分の「仲間」なのだと信じること。それができたとき、人は孤独から自由になる。
     これは『嫌われる勇気』には記されていないことですが、ここで重要なのは、あくまで「仲間」であって「味方」ではない、ということだと思います。
     「味方」とは「敵」の対義語ですが、「仲間」はそうではありません。「敵/味方」といった二項対立的な発想を飛び越えた概念なのです。
     この世には、たしかに自分の敵もいる。味方もいる。しかし、その敵も味方も、すべて同じ世界に生まれ、同じように悩み、苦しみ、歓び、生きる「仲間」である、と捉えること。それが人が孤独から解放されるために必要な感覚なのだとぼくは考えます。
     それでは、具体的にどうすればその「宇宙のなかに自分の居場所があるという感覚」に至ることができるか。『嫌われる勇気』では、そのための具体的な方法が記されています。
     自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替えていくことです。そのために必要なのが「横の関係」を作るということだとされているのですが、「縦の関係」を前述した「権力関係」だとすると、「横の関係」とは「非権力関係」だということができるでしょう。
     人との間に「一切の権力が介在しない、対等の関係」を作り、それを段階的に広げていくことによってやがて「共同体感覚」に至る。それがアドラーが示した階段なのでしょう。
     しかし、人と人との間にはどうしても権力が介在しがちです。人はだれかより自分のほうが優れていると感じて優越感に耽り、だれかより劣っていると感じて劣等感に耽ります。
     こういった優越感や劣等感の問題が最も表出するのが恋愛です。以前、「恋愛工学」について話をしましたが、恋愛工学とはまさに恋愛において自分に有利な権力関係を築くためのその方法論であるといえます。
     だから、ただ「モテる」ためであれば恋愛工学はまったく間違えていないのです。女性にモテたいのなら、女性より上手に立てるポジションを獲得し、そのうえで「優しくしてあげる」ことは有効です。
     つまり、強者となって弱者に恩恵を垂れるわけです。その際、重要なのは自分が強くなれるポジションはどこであるかを正確に理解し、そこで勝負することです。
     もし、相手があらゆる面で自分より強者であればその地位を下げればいい。恋愛工学が「高学歴の女はDisるべし」と説いているのは、ある意味では論理的な必然だといえるでしょう。
     こういった権力獲得の方法論を身に着けた上で、ひたすらトライアル&エラーを繰り返せば、たしかに「モテる」ことはできるに違いありません。しかし、そうやって「モテた」ことによってその人の孤独が救われるかというと、相当に怪しい。
     そう、それで解決することなら、アルド・ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、悩む必要はなかったのです。この恋愛工学と同じ理屈を、極限的な形で実践したのが岡田斗司夫さんでしょう。
     かれはじっさい、9人の女性と同時に関係を持っていたといいます。ただ、それにもかかわらず、恋愛工学にしろ、岡田さんにしろ、非常に非モテ的です。それは結局、かれらが人との間に「縦の関係」しか築けない人種だからでしょう。
     そう、非モテの問題は究極的にはモテるかどうかとは関係ないのです! どんなにモテても本質的にはまったく解決しないのですね。
     非モテもまた、その孤独を癒やすためには、人との間に「横の関係」を築くしかない。「縦の関係」をどんなに築いたところで、むなしいわけです。
     たとえばペトロニウスさんあたりは、「縦の関係」ならいくらでも作れる人だと思うのですが、本人を見ているとそこには価値を見いだしていないことがよくわかる。
     あくまで重要なのは対等な「横の関係」であることをわかっているのだと思います。もちろん、「縦の関係」で充足する人もいるでしょう。しかし、世界を縦に認識する限り、どこまでいっても上には上がいるわけで、劣等感から解放されることはできません。
     非モテの人がしばしばミソジニー(女性嫌悪)に走るのは、まさに世界を縦に見て、女性を自分より下の存在と認識しているからでしょう。非モテの人は、女性を一個の独立した人格ではなく、「自分に奉仕するべき存在」と見て、その義務を怠っているといって責めます。
     これこそまさに『嫌われる勇気』で書かれている自己中心的なライフスタイルそのものです。非モテが苦しいのは、ただモテないからではなく、自分を男性社会の序列において下位の存在と位置づけるからなのです。
     恋愛工学と非モテは、コインの裏表のような存在であるに過ぎません。どちらも世界を縦の認識(権力構造)で見ていることには違いないのです。
     それでは、どこまでいっても共同体に奉仕するという感覚にはたどり着けません。岡田斗司夫さんが、二村ヒトシさん的にいうなら「キモチワルイ」のは、かれの自我がナルシスティックに閉じていて、ほかのすべての他者を「自分に奉仕するべき存在」と見ていることが見え透いているからでしょう。
     もちろん、それは倫理的な悪ではありません。そして、「壁ドン」が流行ったりするところを見ると、女性たちのなかにもまた世界を縦に認識し、それこそが恋愛であると考える人が大勢いそうではあります。
     ぼくはそういった認識が間違えているとはいいません。しかし、それではほんとうの意味では孤独の檻から外に出ることはできないとは思うのです。
     共同体感覚――ただひとり、己の孤独を突き詰めるのではなく、あるいはだれかとふたりきりの「愛」に閉じてしまうのでもなく、どこまでも自分を開き、森羅万象に心から共感するとき、人は初めて孤独ではなくなる、そういうことなのではないでしょうか。
     むろん、そのとき、もはや「特別な個人」は存在しません。どれほどの美貌や才能に恵まれた者も、まったく恵まれなかった者も、完全に対等なのです。つまり、ある意味ではすべての存在が「平凡」で「普通」な存在として認識されることになるといえるでしょう。
     『嫌われる勇気』には、まさに「普通である勇気」という言葉が登場します。これこそ、アルド・ナリスが死の直前に手に入れた勇気です。
     そして、この勇気を発揮したことによって、あれほど地位と美貌と才能に恵まれ、それにもかかわらず不幸で孤独であったナリスは、幸福に死んでいくのです――すべての「仲間」たちと同じ、平凡なひとりの人間として。ぼくにとって、『グイン・サーガ』とはそういう物語です。
     長くなりましたが、ここらへんでこの記事を終わりにしたいと思います。お読みいただいてありがとうございました。この話はまだ続くかもしれません。