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あなたはほんとうに「人間」なのか? 境界線を巡る不埒な思考実験。
2017-12-01 02:4051pt
もし普通の人が「持っていない臓器」を持っていたとしたら、人間と呼べるだろうか?
もし手足が「すべて義手や義肢になった」としたら、まだ人間だろうか? それともサイボーグと呼ぶべきだろうか。
その違いはなんだろうか? 彼女に会った後「人間」と「人間ではない」の境界が溶けていくよう感覚を覚えた。
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人間とは何か? その哲学的ともいえるクエスチョンは、古来、幾度となくくり返されてきた。そして、いくつもの傑作サイエンス・フィクションが、そのテーマを扱ってもいる。
たとえばアシモフ(かれの自伝によると、ほんとうはアジモフと発音することが正しいらしい)の『われはロボット』は、ロボットという視点から人間を考察した作品だ。
アシモフにとって、あきらかに重要なのは人間の理性であり、かれはそれがある限りロボット -
「カボチャ大王」を信じ込んだ天才ジョン・W・キャンベルとSF作家アイザック・アシモフの物語。
2014-07-31 07:0051pt
タイトルからわかるように、スヌーピーの登場する漫画『ピーナッツ』を通じて人生の知恵を学ぼう、という趣旨の本。 『ピーナッツ』は実に奥深い漫画で、そこで見られる悩みの深さはちょっとアメリカ人が書いているとは信じがたいくらい。
アポロ10号が建造されたとき、司令船と月面着陸船が「チャーリー・ブラウン」および「スヌーピー」と名づけられたことをご存知の方も多いでしょう。アメリカ人にとってはそれくらいメジャーな作品なのです。
さて、この作品にはライナスという有名な少年が登場します。非常に頭がいい少年で、たぶん『ピーナッツ』の全登場人物中、いちばん聡明かもしれない。聖書をすらすらと暗唱したり、哲学的な警句を吐いたりと、その非凡な知性は行動にあらわれます。
ところが、その反面、幼い頃からもっている古い毛布を手放せないという癖ももっています。
依存症ですね。いくら理性ではばかばかしいと思ってもどうしても手放せないわけです。「ライナスの安心毛布」といえば、英語では辞書にも載っているほど有名な言葉だそうです。
また、かれはハロウィンにはカボチャ大王がやってくるという迷信を信じています。ほかのことにかけてはあれほど聡明なライナスが、そういうばかばかしい話を信じ込んでいるというおかしさ。
しかし、このライナスの姿にはどこか人間の本質を衝いているところがあるように思います。現実にも、同じような人物は大勢見かけるのではないでしょうか?
ジョン・W・キャンベル・ジュニアという編集者をご存知でしょうか。『アウスタンディング』というSF雑誌の編集長として、アシモフ、クラーク、ハインライン、ブラッドベリ、スタージョンら超一流の作家たちを育て上げた辣腕編集者です。
まず編集者としてはSF史上でも一、ニを争うくらい有名な人物といっていいでしょう。編集者になる前は作家で、作家としてもそれなりに優秀だったようですが、編集者としての腕前はそれを凌ぐと思います。
とにかく頭のいいひとだったらしく、マサチューセッツ工科大学で学んだ経歴のもち主です。しかし、結果としてはMITを卒業することはありませんでした。このことについて、アーサー・C・クラークは、このように書いています。
彼もMITで学んだが、そこを卒業はしなかった――ドイツ語に落第したからだという伝説があるが、わたしは信じない。ジョン・W・キャンベルにとってドイツ語などは児戯に等しかったろうし、勉学の妨げになるほどSFを書いていたから、MITの厳しい基準に合わなかったというほうが、もっともらしく思える(ささやかなものだったにちがいないが、おそらく金も必要だったのだろう)。
あのクラークをしてここまで言わせるほどの人物だったわけです。その風貌と人柄は、キャンベルの直弟子ともいうべきアイザック・アシモフによると、この通り。
現代SFの基礎を築いた男は、背が高くて、肩幅が広く、髪の毛が薄く、クルーカットで、メガネをかけ、高圧的、強烈、いつも煙草をくわえ、独断的で、話好き、移り気な心を持つ、ジョン・ウッド・キャンベル・ジュニアという人物である。
これだけだと、たいして褒めているようには見えません。しかし、アシモフは続けてこのように記しています。
わたしの文筆生活の全部が彼のおかげである。わたしに『夜来たる』の冒頭の引用句を含むあらすじを示唆してくれ、その小説を書くようにと、わたしを家に帰らせた。わたしの三度目か四度目のロボット小説では、首を振って、こう言った。『いや、アイザック、きみはロボット工学の三原則を無視しているよ、それは――』。そんな用語を聞いたのは、それが初めてだった。
「わたしの文筆生活の全部が彼のおかげである」――いったいこれほどの感謝と賛辞を一編集者にささげる作家がどれだけいるでしょう。キャンベルがアシモフに与えた影響の大きさがわかります。
「夜来たる」はアシモフの短篇を代表する名作であり、ロボット三原則は、いうまでもなく、SF作家アイザック・アシモフを有名にしたロボット・シリーズの基本原則です。
アシモフによると、この三原則は決してかれひとりで考えたものではなく、キャンベルがいてこそ生まれたものだったとか。
また、クラークによれば、かれは投稿された作品を没にするときでさえ、「投稿した短篇より長い断りの手紙」を書いてよこしたといいます。
それだけだったなら、キャンベルはサイエンス・フィクションの「黄金時代」を演出した名伯楽としてのみ歴史に名をのこしたことでしょう。
ところが、晩年のキャンベルはさまざまな疑似科学運動にのめりこんでいくことになります。まさに、聡明なライナスがカボチャ大王の実在を信じ込むように。その様子をクラークはこう書きます。
彼は晩年に近づくにつれて、ありとあらゆる(ひかえめに言っても)論争を呼ぶアイデア――ダイアネティックス、超心理学、反重力機械(〝ディーン駆動〟)、極端な政治的見解――に関与し、かつての示唆に富む編集後記は意味不明に近くなった。
ダイアネティックスとは、SF作家のL・ロン・ハバードの創案になる疑似科学的アイディアです。
「サイエントロジー」という名前をご存知の方もいらっしゃるでしょう。あのトム・クルーズも信者だというアメリカの巨大新興宗教です。その教義の根幹になっているのがダイアネティックス。『アシモフ自伝』にはその運動にはまっていくキャンベルの姿がえがかれています。
それからニューヨークに戻ると、四月十四日にキャンベルを訊ねた。彼の話題はダイアネティックスのことばかりだった。私はあまりさからわなかった。ただ無感動に聞いていて、自分は信じないといっただけだった。ついにキャンベルは、怒りとも冗談ともつかない口調でいった。「まったく、きみは先天的な懐疑論者だな、アシモフ」
「ありがたいことですよ、キャンベルさん」と私はいった。
注目すべきは、アシモフにしろクラークにしろ、かれの信じる疑似科学をかけらほども信じないにもかかわらず、ひとりの人間としてのキャンベルに対する尊敬を失ってはいないということです。クラークはキャンベルをこう評しています。
もう一度、アイザック・アシモフから引用しよう。「科学や社会に対する観点がいかに型破りであっても、個人的には正気の穏やかな人物でありつづけた」。そしてわたしは、「本質的には思いやりがあった」とつけ加えたい。
ここにもキャンベルとライナスの共通点を見出せるような気がします。ライナスの友人たちはカボチャ大王などという迷信をこれっぽっちも信じないにもかからわず、それでも人間としてのかれを見捨てようとはしません。
ただ、もっとも聡明な人物が、もっともばかばかしいことを信じ込んでしまうという事実に皮肉な何かを見るのです。
キャンベルは1971年7月11日、61歳で亡くなりました。アシモフは「そのショックは、二年前に父の死を知ったときに次ぐものだった」と書き記しています。
――と、ここで終わってもいいのですが、実はこの話には後日譚があります。
『アシモフ自伝』によると、
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