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なんじゃこりゃ。リメイク版『転校生』を観て、大林宣彦の才能に圧倒される。
2014-01-29 23:0853pt『ふたり』に続いて大林宣彦監督の映画『転校生 さよならあなた』を観ました。2007年に制作されたリメイク版ですね。
ぼくはオリジナル版を観ていないので、比較して語ることはできないのですが、いやー、これは――何といったらいいのだろう。たぶん傑作なんでしょうね。
うん、傑作なんだと思う。ただ、あまりにも規格外の作品すぎて、単純に良いとか悪いとかいうことがむずかしい。とにかく『ふたり』よりはるかにコミカルで、初めの辺りは笑える内容なんだけれど、後半は――うーん、まあとにかく何とか語ってみましょう。
原作小説のタイトルが『おれがあいつであいつがおれで』であることからもわかる通り、これはいわゆる「男女入れ替わりもの」です。
ある街に「転校生」としてやって来た少年が、幼なじみの少女と肉体が入れ替わってしまう、というところから物語は始まります。
で、ヴィジュアルとしては、「中身が少年の少女」と「中身が少女の少年」がパラレルに描かれることになるわけです。ここらへんをどう描くかが映画の勘所であり、また役者の力量の見せ所でもあるわけですが、いやー、女の子が可愛い。
『ふたり』の時もそう思いましたが、とことん、思春期の少女を描くことにこだわる監督なのだなあ、と。
ただ、この設定が成り立つのは、男女の差が現代より大きかった25年前だからこそだったのではないかという気もします。いまこの設定をやると、漫画的というか、現実から5センチくらい浮遊した印象を受ける。
もちろん、現代においてすら男女の仕草や習慣、そして肉体の差がなくなったわけではないけれど、25年前とはやっぱり違うと思うんですよね。
25年前だったら、リアリティとはいわないまでも、ある程度の説得力を持って通用した描写であっても、現代ではとても通用しないということがあるんじゃないか。
もっとも、ここらへんはオリジナル版を観て比較してみないと何ともいえないかもしれません。オリジナル版の鑑賞を宿題にしておきましょう。まあ、ぼくには果たしていない宿題が山のようにあるのですが……。
それにしても、「少年の心が入った少女」を演じる主演の少女の上手いこと上手いこと。途中までは普通の女の子に見えるのですが、「男」に入れ替わってからは、歩き方から仕草から、何もかもがひとつひとつ男子のものに変わります。
もちろんその間、「女」に入れ替わった少年のほうも女らしくしているわけですが、やっぱり女の子のほうが上手いと思う。これはもちろん演技指導の力もあるのでしょうが、女優としての才覚がなければこうは行かないでしょう。感服しました。
そういうわけで、途中までは、いささか古風で大時代ではあるものの、まあ十分な名作というふうかと思ったのですが、後半に入ると同時に、映画はとんでもない展開へ突入していきます。
聞いたところによると、この展開はリメイク版オンリーのものということで、きっとオリジナル版のファンは唖然としたに違いありません。これはもう、賛否両論があるだろうなあ。
いったい、この展開をどう評価するべきか? ぼくとしては、いやもう、呆然として言葉もない状態だったわけですが、途中からこみ上げてくるものがありましたね。
通常いう「感動」とは違うものかもしれないけれど、何かこう、奇妙な迫力がある。それはおそらく監督の感性に依るものなのでしょう。
すべてがコミカルに、非現実的に演出されていて、リアリティなんてまったくないはずなのに、何かふしぎと現実的に感じる。ああ、ひとが生きるということは、こういうことなのかもしれないと思わせるものがある。
具体的な展開はネタバレなので語らずにおきますが、案外、ひとの人生とはこういう種類のものであるのかもしれません。
もちろん、 -
『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』を観て来たよ!
2014-01-26 17:1353pt昨日、劇場版『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』を初日で観て来ました。
ぼくはテレビアニメ版『アイドルマスター』、いわゆる『アニマス』のファンで、熱烈な感想を書いたりしているのですが、その勢いそのままで観に行ってしまったわけです。
つまり、期待値はMAX! 最高の作品を想像して観に行きました。あまり期待値を上げすぎると、いくらか裏切られることになることもなくはないのですが、この映画は期待に違いませんでしたね。最高の出来です!
昨年から今年にかけて、無数の傑作アニメーション映画が制作されていますが、これもまず傑作の名に値する作品といえるでしょう。
もっとも、『かぐや姫の物語』みたいに異様になめらかな映像というわけではなく、現代のアニメ映画としては標準的な作画品質に留まっているといえるかもしれません。
じっさい、目を見張るほどの映像体験かというと、さすがにそこまではいえないかと思います。でも、これは良かった。磨きぬかれた脚本と、音楽、演出、そしてキャラクターそのものになりきった声優たちの熱演があって、すばらしいクオリティの作品に仕上がっています。
少なくともぼくは大好き。テレビ版の頃から良い作品だと思っていたけれど、この劇場版を見てなおさら好印象になりました。
つまらないきれいごとの映画と見る人もいるかもしれないけれど、ぼくは好きでたまらない。きっとこういうものを見たいからこそ映画館に足を運んでいくのでしょう。
物語は、テレビシリーズのあと、春香や千早たちがトップアイドルに成り上がったところから始まります。
春香は賞をもらい、美希にはハリウッドでの仕事が舞い込み、千早はニューヨークでの録音が決まり、と各人がさらにステップアップしていることがさりげなく示されます。
そして決定するアリーナ公演。少女たちはさらなる高みへ向けて、駆け上がっていくかに見えたのですが、意外なところからトラブルが起こります。はたして765プロのアイドルたちはその危機を乗り越え、公演を成功させることができるのでしょうか――?
いやまあ、結論からいうとできるに決まっているのですが、この映画の見所はそこではない。それではどこがポイントなのかといえば、今回、リーダーに抜擢された春香がどうやって仲間たちを率いていくかというところなんですね。
以下、なるべくネタバレなしで書いていきますが、いや、春香さんのかっこ可愛い行動にメロメロです。
今回、春香は彼女個人の努力ではどうしようもないある「現実」に直面します。そして、 -
TONOとよしながふみの落差。
2014-01-24 18:3453ptさて、ふたつほど前の記事で書いたように、山梨のてれびんの家に二日ほど居座って漫画を読んで来ました。ちょうどTONO『カルバニア物語』が床に散らばっていたので、拾い集めて再読してみたのですが、いや、これ、ほんとすばらしいですね。
掲載誌がいつのまにかボーイズ・ラブ雑誌になっていた『Chara』ということもあって、あまり一般的な知名度は高くない漫画だと思いますが、でもこれは必読クラスの名作といっていい。
てれびんもいっていたけれど、おがきちかさんの『Landreaall』に近い気がする。まあ、ペトロニウスさんがいつだったか書いていたように、ほぼミクロの関係性に終始する少女漫画なので、つまらないと思う人もいるだろうけれど、ぼくにとっては至上の作品です。
何が面白いのか。ひとつにはやっぱり性差の問題を繊細に描き込んでいることがあるでしょう。
主人公はカルバニア王国のうら若き女王タニアと公爵令嬢のエキュー・タンタロット、彼女たちは国を統べる頑固な男たちとさまざまな局面で対決させられます。そしてしばしば性差別的ともいえる「壁」にぶつかって悩んだり怒ったりすることになるのです。
しかし、それなら「性差別反対!」「女性に権利を!」的な物語なのかといえばまったくそうではないあたりが面白い。
いや、たしかにタニアたちは差別的な扱いにうんざりしながら抵抗を続けていくのですが、だからといって彼女やエキューが常に正しいというわけでもないんだよね。
時には頭の硬いおっさんたちのほうが正論をいっていることもあるし、どっちもどっちということもある。重要なのは決して物語が「政治的正しさ」の奴隷に堕ちないということです。
すべてのエピソードはあくまでナチュラルに、スムーズに進んでゆくのです。で、ぼくとしてはたとえばよしながふみの『きのう何食べた?』とか『フラワー・オブ・ライフ』あたりと比べると、格段にこちらのほうが好みなんですね。
このふたりの作品、どこが違っているんだろうとよく考えます。表面的にはそう大きな違いがないように見える。どちらも非常に政治的に公正で、ユーモラスで、マイノリティへの配慮が行き届いている。それにもかかわらず、ぼくにとってはまったく違う作風です。
たとえば志村貴子さんという作家さんがいますが、彼女の作品に対してはぼくは特段の違和は感じません。『青い花』であれ、『敷居の住人』であれ、とても楽しんで読むことができます。
それに対し、『きのう何食べた?』に対しては何かこう、いいようがない読後感を覚える。いったいどこが違っているのか? さっぱり言葉にならないのですが、あえていうなら -
ものづくりの歓喜と残酷。映画『夢と狂気の王国』に観るスタジオジブリの現在。
2014-01-21 07:0953ptども。海燕です。五日間に及ぶ東京遠征から何とか生きて帰ってきました。いやー、疲れたー。あいかわらず旅先ではうまく眠れず、睡眠不足のまま歩いたり喋ったりでふらふらでした。
人間、2、3日眠らなくてもなんとかなるものだ。何ともなっていなかった気もしますがまあいいや。その間、更新がストップしてしまって申し訳ない限りです。
基本的にはあるオフ会のために上京したのだけれど、そのほかにも色々楽しいイベントが目白押しで、いろいろなひとと逢えました。いずれこのブロマガのオフも開きたいですねー。いつになるかはわかりませんが、ぜひやりたいと思います。
で、上京最終日に千葉まで行って映画『夢と狂気の王国』を観ました。いま、日本でこの作品を上映しているのは千葉だけなんですね。
なんて時代の最先端を行く千葉。あるいはいちばん遅れているということかもしれませんが、気にしない気にしない。新潟なんてそもそも上映 -
勉強と創作ではどちらが簡単か。
2014-01-17 14:5553ptども。海燕です。ただいま山梨県を訪れております――いやなんとなく。
以前、半月ほど居候したことがあるてれびんのうちにふたたび厄介になっているのですが、更新がとどこおっていることがさすがに気になったので、漫画喫茶からこの文章を書いています。まあてれびんに頼めばパソコンがある部屋を貸してくれるとは思うけれど。
さて、何を書こうか――特に何も思いつかない。てれびんの面白発言エピソードとかだったらいくらでも思いつくのですが、そんなものを書いてもな。
ちなみに彼奴は某難関学部に通っているのですが、「勉強は楽だ」というようなことを時々いいます。
これをぼくの言葉に変換してみると、つまり勉強はやればやっただけ成果が出るから良いものだ、という意味なのだと思います。てれびん語は謎が多いからよくわからないけれど、たぶんそう。
で、まあたしかにそれはそうだと思うのですね。勉強は30時間やったらやっぱり30時間分の成果が出るわけです。
これがアスリートの練習だとか、あるいは創造的行動とかだと、いくらがんばってもまるで成果が出ないということがありえる。というか、そっちのほうが多いかもしれない。 そう考えると、たしかに「勉強は楽」といえなくもないんでしょうね。しかし、逆にいうと勉強では30時間ぶんの内容を憶えようと思えば30時間かかってしまうんですよね。
これをショートカットして、たとえば3時間にすることは、不可能ではないにしろ、きわめてむずかしい。勉強というのは、「この道を30時間行けばここまで到達する」というルートが比較的に見えているジャンルだといえると思います。
で、先ほどもいいましたが、創作においてはそのルートはほとんど見えません。そもそも何をどう努力していいのかすらよくわからない場合が大半だと思うのです。
まあもちろんまったく見えないわけではないんだけれど、少なくとも教科書的なものはないことが多いと思います。またあったとしても、どこまで信じられるかわからない。
たしかに「これで小説家になれる!」見たいな本はたくさん出てはいますが、じっさいにああいうノウハウ本を読んで作家になったひとがどれくらいいるものでしょう?
行く手がまったく五里霧中で、目標まで遠いのか近いのかよくわからないのが創作というジャンルだと思うのです。
これをどちらが簡単だと考えるかはひとそれぞれだと思うんですよ。たとえば
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時にはあまあまラブコメディを。
2014-01-13 18:3453pt秋★枝『煩悩寺』全三巻を読了しました。いやー、最近あんまり読んだ記憶がない良質のあまあまラブコメディで、これは実にすばらしいですね!
最初から最後まで、波瀾万丈の「は」の字もない、平穏無類な、それでいて愉快痛快な恋愛物語でありました。
特に主人公たちが正式に結ばれる第二巻から後は、あまあまあまあまあまあまあまあまーい、ディオでも口を噛むんじゃないかと思うほどの展開で、それはまあ、読んでいて楽しいです。
リア充爆発しろ!というあの言葉にどれほどの意味があるのかはともかく、たしかにこいつらは爆発して四散して宇宙のチリとなったほうが良い気がする。それくらい幸せそう。
タイトルの「煩悩寺」とは、カオスなものがたくさん置かれた主人公の部屋のことを指します。その煩悩寺を舞台に、ボーイとガールというにはいささか歳をとりすぎたふたりが少しずつ近寄っていて、らぶらぶな関係になるまでと、なってからを丹念に描いたのがこの物語です。
うん、まったくドラマティックでないから、書くことがないですね。いや、いい漫画なんですけれど。少なくともぼくは最近ちょっと思いつかないくらい幸せな読後感でした。
この秋★枝さんという作家さんのことを、ぼくはいままでほとんど知りませんでした。だって、掲載誌が『コミックフラッパー』とかなんだもん。メジャーな雑誌はだいたい追いかけているけれど、『フラッパー』はちょっときつい。
しかし、絵が可愛いという、くだらないといえなくもない理由で読んでみたら、これが何と大あたり。超ぼく好みの内容でした。
ふだん恋愛漫画なんてそうそう読んでいませんが、でも、たまに読むといいものですね。ぼく自身が恋愛から遠いわくわく非モテ独身ライフを送っているんだけれど、恋愛分をフィクションで摂取することは好きです。
現実の恋愛ではなかなか味わえない妙味をたくさん味わうことができますからね! ま、いいかげん非モテ非モテいっているのも辛いお年ごろではあるのですが……。
いや、ぼくの悲惨な身の上話はどうでもよろしい。とにかく秋★枝さんの話。恋愛漫画にも、比較的現実的に、切ない内容を綴ったものもあれば、こういう恋愛の多幸感にフォーカスしたものもあるわけですが、ぼくはどちらかといえば後者が好きです。
ただ、それが完全な萌え漫画になってしまうと、あまりに現実離れしているから、少し好みからずれる気がする。あくまでリアリティを失わない範疇で、らぶらぶしたりえろえろしたりしているものが好みですねー。
最近、雑誌『楽園』とかで連載されている漫画なんかは好みのものが多いようです。あまりチェックしていないのですが、そろそろチェックしてみようかな、と思っています。
もちろん、なかなかマーベラスな作品には出会えないのが現実なのですが、それでも探求はあきらめないのだ! そうすると、時にはこの『煩悩寺』のような、すばらしい発見に巡り会えることもあるわけです。
もちろん、知っているひとはすでに知っている作品なのだろうけれど、ぼくは知らなかったので、ぼくにとってはこれは「発見」なのです。
いやー、幸せだった。まあ、男性読者がほとんどだろうけれど、女性が読んでもそんなにいやな気もちにならない作品なんじゃないかな? ぼくとしては花丸付きのオススメ作品なので、恋愛漫画が好きなひとは読んでみてくださいまし。
他人が幸せなところを見るとアレルギーが発症して死にそうになるという向きにはまったく推薦できませんが――。
いや、ほんと、何なのでしょう、この、ひとが幸せそうにしているところを見ると自分も幸せになる感覚は。「ほっこりする」という言葉がありますが、まさにそういう感じ。心の底からほっこりする気もちが湧いてきます。
主人公ふたりの初エッチシーンの、初々しいこと! -
ひとは相性の悪さを乗り越えられるか。
2014-01-11 03:5053ptあまりこの手の雑文は需要がないのかもしれないが、書いておこう。「相性」について。
人と人には相性があって、相性が良い人同士は放っておいてもうまく行く。反対に、相性が悪い人同士を結びつけようとするとむずかしい。
しかし、相性が良い人とばかり付き合っていると、どうしても世間が狭くなる。だから、時にはあえて相性が悪い人と付き合うことも必要になってくる。
それでは、相性を超えて人と付き合うためにはどうすればいいのか。ひとつには、人の欠点について寛容になることだろう。
欠点とはいっても、それは自分の目から見て欠点になるのであって、他の人の目から見ればなんでもないことかもしれないという認識が必要だ。
たとえば、言葉遣いが乱暴な人が苦手だといっても、他人から見ればどうということでもないかもしれない。そういうふうに冷静に判断できなければ、相性が悪い者とは付き合えない。
とはいえ、書いてみて思 -
フラワー・フォー・フレッカ。TONO『ダスク・ストーリィ』にひとの勇気を見る。
2014-01-10 22:3553ptそれはたそがれ時の物語だ。ダスク・ストーリィ。昼と夜の狭間、世界が暮れゆく時間のお話。
その時、昼間は影の裏側にひそんでいた者たちが立ち現れ、可憐に踊り始めることだろう。忘れ去られた者たちのダンス。ごく一部の人だけがそれを視、かれら死者たちの声を聴く。
TONO『ダスク・ストーリィ』はその「ごく一部の人」である少年タスクを狂言回しに、人々の生と死を繊細に綴った異色作。
TONOには『カルバニア物語』や『チキタGuGu』といった傑作長編があるが、この全二巻は内容的にそれらに劣らない。いくつもの短編によって構成されているのだが、いずれも傑作としかいいようがなく、実に不思議な印象が残る。
ハートウォーミング――ひと言でそういって良いものだろうか。たしかにどれもこれもきわめて涙腺を刺激する作品ぞろい。しかし、ただ「泣ける」といって済ませてしまうにはあまりに複雑な興趣を感じる。
たしかにある種のゴースト・ストーリーではある。だが、それに留まるものではない。美しくも哀しいファンタジーではある。しかし、それだけで済ませられる代物ではない。
どういったらいいのだろう――いや、どう語ろうとしても、容易には説明しきれないだろう。それほどの作品である。
ひとついえるとすれば、これほど優しい物語を読んだことはひさしぶりになるということだ。
TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。
そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。
たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。
しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。
やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。
何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。 -
弱く醜く臆病なものたちのために楽園を提供するべきか。
2014-01-08 16:2753ptちきりんさんと堀江貴文さんの対談を読んだ。
ちきりん 苦労して頑張ってやってきたのに、そんな言われようだと、悔しいというより、悲しいですよね。でも、そういう人は無視してしまうという方法もあったでしょ? 私の世界観では、世の中には「言わなくてもわかる人」が少しだけいて、そのまわりに「言えばわかる人」がある程度はいる。でも、残りは「いくら言ってもわからない人」ばかりだから、もうその層にはわかってもらえなくてもいいかな、というイメージなんです。
http://diamond.jp/articles/-/46413
ぼくがこの一節を読んで思い出したのは、『SWAN SONG』の一節だった。この物語のなかで、ある宗教団体のリーダーである母親が、娘に向けて教団の本質を伝える場面がある。こういう内容だ。
「彼らは本当のことを知りたいわけではなくて、自分に都合のいい甘い夢を見て、他人と共有することだけが望みなのです。弥勒菩薩だろうと、イエスキリストだろうと、それが彼らを夢から分断する存在ならば、たとえどんな正法を携えていようとも、理解しようともせずに石を投げるでしょう」
「だから、その真実の素晴らしさを上手に話すことが出来たのなら……」
「勘違いしてはいけません。それが出来るのは全てを知った選ばれた人間だけです。お前は覚者ではありません。お前に人を導く力はありません。そもそも私は、そんな人間が実在し得るとも思っていません。求めない人間に与えることは出来ません」
「そういう人は、きっと居ます」
「その信念は勝手ですが、お前はそれが自分だと言いたいのですか? もしくは、そうなりたいのですか? 勘違いもいい加減になさい」
「……」
「私たちに出来るのは、自分の力で夢を見られない弱い人間のために、夢の管理人を買って出ることだけです。彼らの美しい夢を守るために、彼らが自分の醜さに気が付かないように、こっそり真実の芽をつみ取るのが私たちの仕事です。彼らが真実を携えた聖者を望まないのなら、彼らのかわりに殺してしまうのが私たちの仕事です。私たちは正しさの味方ではなく弱さの味方です。弱く醜く臆病なものたちのために楽園を提供するのです」
初めて読んだ時、何ときびしい見方なのだろう、と思ったものだ。「求めない人間に与えることはできません」。「彼らは本当のことを知りたいわけではなくて、自分に都合のいい甘い夢を見て、他人と共有することだけが望みなのです」。
ちきりんさんの言葉を借りるなら、 -
「凄さ」は相殺される。
2014-01-07 13:4353ptきょうは「凄さ」の話。ひとの「凄さ」を的確に判定するのってむずかしいよねー、という話題です。
まあペトロニウスさんとか、LDさんとか、リアルで逢って話してみるとその思考速度や情報連結力の凄さに圧倒されるものがあるのだけれど(『3月のライオン』で島田くんの思考を受け止めた零くんが圧倒された感じといえばわかってもらえるでしょうか)、ネットだけ見ているとあの凄みはなかなかわかりづらいだろうな、と思うわけです。
いざ追いつこうと考えるととんでもなく大変な人なんだけれど、欠点に着目すればそりゃ貶すこともできる。このブログ、誤字が多いよねとか(笑)、そういうふうに語ることはできるわけですよ。で、それは一面では正しい。
べつにぼくの仲間内だけではなく、ひとの能力を客観的に認識することはじっさいむずかしい。どうしても過小評価したり過大評価したりしがちになってしまう。
特に一流のプロフェッショナルの力量は、なかなかシロウトが判定できるものではありません。ぼくたちはイチローが凄いことを知っている。本田圭佑が、浅田真央が、凄いことをわかっている。
しかし、ほんとうの意味で知っているか? わかっているか? といったら、怪しいものなのではないでしょうか。というか、少なくともぼくにはわからない。ただ想像することができるだけです。
というのも、一流は一流同士で競り合っているから、その凄さが相殺しあって、そこまで凄く見えないのですね。もちろん、完全に相殺されるわけではないのだけれど、そのほんとうの凄さはなかなかわからない。
どういうことか? たとえばサッカーを考えてみると、じっさいにはJリーガーは超正確なパス、ものすごい軌道のシュートなどを使いこなしているはずなんですよね。
でも、敵も超正確だったりものすごかったりする技を使うから、互角の勝負になる。そうなると、シロウト目にはもう凄さがよくわからなくなる。
「ああ、たぶん凄いんだろうな」とぼんやり想像することはできるとしても、真の意味での凄さを正確に理解することはむずかしいでしょう。
それを理解できるのはサッカー経験がある人間だけです。たとえば自分が必死に努力して全国大会に何とか出場した、というような人物は、Jリーガーのプレイがいかに傑出しているかを知ることができるはずです。
しかし、シロウトにも凄さがわかる場合があります。その凄さが一流同士においてなお相殺しきらない場合です。つまり、一流のなかに超一流が出現した時ですね。
1位が2位以下に大差をつけて凄ければその凄さがわかるんです。したがって、スポーツ漫画などでは、強敵を表現しようとする時、そういう描写がなされることがある。
つまりは『黒子のバスケ』の「キセキの世代」とか、ああいうのはだれでも凄さがわかるんです。しかし、じっさいには、大抵の場合、1位と2位ではそう大きな差がつくことはありません。
たしかにウサイン・ボルトみたいな大天才が2位以下を大きく離して優勝したところを見た時、ぼくたちは「凄え!」と感嘆します。で、たしかにボルトは凄いのでしょう。
だけど、ここで誤解が生じる恐れがある。つまり、そういう超一流だけが凄くて、一流は大したことないんだな、と思ってしまうのです。
つまり、抜きん出た金メダリストの凄さはよくわかるとしても、銀メダリスト以下の凄さはよくわからないので、ああ銀メダルなんて大したことないんだな、と考えてしまうとか。
それは極端な例ですが、そういうことはありえると思うのですね。たとえばサッカーを見て「ブラジル代表は凄いけれど、日本代表なんて大したことないよね」という人はわりにいる。
でも、日本代表は凄いんだよね。というか、ただのJリーガーでも凄い。全国大会出場でも凄い。「どこにでもいる普通の選手」ですら、実は一般人から比べれば相当に凄いのです。
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