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タグ “平坂読” を含む記事 13件

いまが旬の百合ライトノベルを紹介するよ。

 平坂読さんの新シリーズ『〆切前には百合が捗る』の第一巻が発売されたので、さっそく購入、読んでみました。しばらくまえから小説投稿サイト「カクヨム」で連載されていることは知っていたのだけれど、本になるのを待っていたのです。  ドストレートなタイトルからわかる通り、「ライトノベル作家×百合」もの。田舎の高校にかようある女の子が、ついつい自分がレズビアンであることをカミングアウトした結果、そこに居づらくなって家出、東京に飛び出して美貌の女性作家の家に居候することになるところから始まるストーリー。  いやー、さすが平坂読、今回も安定して面白い。よくできている。冒頭からすらすら読めてひっかかるポイントがない。これね、ラノベならあたりまえであるように思えるかもしれないけれど、なかなかできることじゃないのですよ。  ぼくは自分の文章力をどうにか鍛えた結果、最近は一定水準以下の拙劣な文章を受けつけない哀しいカラダになってしまったのですが、平坂さんの文章には拒否感が出ません。乱暴に書いているように見えて、きちんと基本を押さえているということだと思う。  平坂作品のフォントいじりのページなどを取り上げて「これだからラノベは」とかいい出すダメなアンチもいるようですが、それはまったく無意味な意見だと思いますね。  だって、平坂さん、ふつうに文章が巧いもの。わからないんですかね。わからないんだろうなあ。  まあ、シロウトに文章の良し悪しがわからないのはしかたないとしても、そのレベルで他人の文章力を語らないでほしいのはありますね。それがインターネット、といえばそれまでですが。  で、この『〆切前には百合が捗る』で面白いのは、先述したように主人公がはっきりと「レズビアン」としての性自認を持っていることです。  わりと百合作品では自分が同性愛者なのかどうかあいまいな認識のキャラクターが多くて、それはそれで良いのだけれど、この作品では主人公ははっきりと「わたしは同性愛者だ」と認識していて、それが物語に関わってきます。  ある意味では当然のことながら、同性愛者に対する差別や偏見も登場する。通常の百合作品ではわりと避けられがちな生々しいところに踏み込んでくるあたり、いかにも平坂さんらしいな、という気がしますね。  平坂さんはぼくが新作が出るたびにかならず買って読んでいる数少ないライトノベル作家のひとりなのですが、ライトノベルの常道からは少しずれたところがあるかもしれません。  もう話が「大人の世界」に足を踏み入れていて、そこら辺の生々しさが避けられなくなっているのですよね。  ちなみに『〆切前には百合が捗る』は前作『妹さえいればいい。』と共通する世界が舞台で、同じキャラクターも少しだけ出て来ます。あまり大きな関係はないかもしれませんが。  さて、この作品もそうなのですが、この頃、ライトノベル界隈における百合ものの躍進は目覚ましいものがあります。少しまえには「女性主人公のライトノベルは売れない」とかいわれていたのがウソのよう。  まあ、すでに『スレイヤーズ』とかあったわけで、この手の「定説」とか「常識」って、ほんとうにまったくあてにならないなあと思ってしまうわけですが……。  さて、いま、百合はラノベのなかのワンジャンルとして完全に定着した感があります。アニメ化された『安達としまむら』などもそのひとつですが、やはり何といってもみかみてれんさんの活躍が目立つところでしょう。  いままで 

いまが旬の百合ライトノベルを紹介するよ。

平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。

 きょう発売の平坂読『妹さえいればいい。』の第3巻を読み終わりました。  現在継続中のシリーズもののなかでは最も楽しみにしている作品なので、今回も手に入れるやむさぼるように読み耽ったわけですが、期待に違わず面白かった。素晴らしい。実に素晴らしい。  いろいろな意味で現代エンターテインメントの最前線を突っ走っている作品だと思います。非常に「いま」を感じさせる。  この巻まで読むと、この作品の特性がはっきりして来ますね。  紛れもなくある種のラブコメではあるのだけれど、普通のラブコメみたいにすれ違いで話が停滞することがあまりない。  各々の登場人物たちは自分が好きな相手の気持ちをはっきり悟ってしまうのです。  だから、関係性はどんどん変化していく。  しかし、悟ってもなおかれらはどうしても関係を変えることができずに悩むことになります。  ここらへん、人間関係にリアリティを感じます。あまり都合のいいファンタジーが入っていないのですね。  いや、このいい方は誤解を招くかな。  もちろんファンタジーではあるのだけれど、ここでは「ひとを好きになったら、相手も好きになってくれる」といったご都合主義の法則がありません。  いくら純粋な想いをささげていてもそれを表に出さなければ相手は気づかないし、反対に積極的なアプローチを続ける人物は相対的に高い確率で相手に好かれるという、あたりまえといえばあたりまえの現実があるだけです。  ここがあまりラブコメらしくないというか、ライトノベルらしくない。  ラブコメの法則といえば、「ツンデレ」などが象徴的だと思うのですが、相手がいくらいやな態度を取っても主人公は好意的でありつづけたりするわけです。  でも、それはファンタジーであるわけで、現実にはいやな態度を取られたらその相手のことは嫌いになる可能性が高い。現実はラブコメのように甘くないのです。  そういう意味で、この作品は現実的な人間関係の描き方をしていると思う。  平坂さんは前作『僕は友達が少ない』の結末で、「表面的には仲が悪く見えるが、じっさいには仲良しの関係もある」という描写を裏返して、「表面的に仲良くしていても、ほんとうは嫌い合っている関係もある」という事実にたどり着いてしまったのですが、『妹さえいればいい。』でもそういうシビアな認識があちこちで顔を覗かせます。  はっきりいってライトノベルの快楽原則から外れていると思うので、人気が出るかどうかはわかりませんが――現時点でそこそこ売れているようなのでまあよかった。  この作品にはぜひヒットしてほしいですね。  それはまあともかく、そういうわけでこの小説はあまりわざとらしく関係性がすれ違いつづけ、ご都合主義的に好意が操作されることがありません。  その意味ではわりにむりやり関係性を停滞させようとしてあがいていた『僕は友達が少ない』とは全然べつの方法論で書かれた作品であることがわかります。  同じ作家がたった一作でこうも違う価値観を提示できていることには、素直に感嘆するしかありません。  平坂読すげー。ちゃんと前作から進歩しているんだよね。  しかし 

平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。

プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

 平坂読の代表作『僕は友達が少ない』、通称『はがない』の最終巻を読み終わりました。  面白かった! ライトノベルの一時代を画した作品として迎えるべき終幕を迎えたように思います。ありがとう、ありがとう。  シリーズ通して素晴らしく面白かったです。  それにしても、Amazonレビューのあの酷評の山はなんなのだろうな。  読んでいるとげんなりしてくるので途中で読むのをやめてしまったけれど、あれはさすがに不当な評価が多いのではないかと思う。  いつも思うことだけれど、ネットでレビューを書く読者層ってほんとうに保守的。  ほとんど冒険も実験も許さないように見える。  もちろん、個々の意見としては素晴らしいものもいくらでもあるのだろうけれど、総体として見ると、やたらに保守的だなあという意見になりますね。  まあ、一般の読者はこんなものなのかな……。  平坂読さんは世間に認められづらい作風で実に可哀想です。  だれにでも書けそうに見えるんだろうなあ。じっさいにはものすごい才能と修練の結晶なのだろうけれど。  この「「このくらい自分にだって書ける」と思わせる小説がベストセラーになる」という事実は何十年か前に中島梓が『ベストセラーの構造』で指摘していまして、けだし慧眼だったな、といまにして思います。  まあ、このレビュー群だけではなく、最近、ネットでひとの意見を読みつづけることに神経が耐えられなくなって来ているぼくがいるのですけれど。  あるいは退歩なのかもしれませんが、読めば読むほどにげんなりしてしまうのですね。  なんだか何もかもどうでもいいように思えて来てしまう。  だれもが自分だけは正しいと考えて、他人の非を鳴らしてばかりいる。そんなふうに見える。  いや、べつだんぼくひとり高みに立つつもりはなくて、ぼく自身が何かひとことでも言葉を口にした途端に、そのどうでもいい正当性の競争に巻き込まれているのです。  うんざり。  それではどうすればいいのかというと、結局、沈黙するしか方法はないのかもしれない。  無言の者だけが賢者でありえる。何であれ口にした瞬間に、その言葉の成否を巡っていさかいが始まる。  どうでもいいといえばどうでもいいが、どうにも疲労させられる話です。  ほんとうに自由でありたいのなら、黙るしかないということ。  うーん、憂鬱な結論だね。  もちろん、そうだからといってぼくなどは黙り込むわけにもいかないので、自分の責任のとれる範囲内で発言していくつもりであります。  しかし、自分のいっていることがすべてではないということはどうにか自覚しておきたい。  これがじっさい、むずかしい。  世の中には、たしかに間違いなく正しいと思えることがあって、そういうことですら意見は四分五裂する。  そしてまた、どうしようもなく間違えていると思えていることもあるけれど、そういうことさえ正しいと主張する人がいる。  1000人いれば、1000通りの意見があるのが現実。  しかし、ぼくも含め、ひとはそれを単色に塗りなおさなければ気が済まない性質があるようです。  ひとが何か間違えたこと(と、自分には思えること)を主張するのが気に食わない。  原発を停止しつづけるべきなのは(あるいは、再稼働させるべきなのは)あきらかなのに、それがわからない人物の愚かさが気に入らない。  それが有名人だったりするとなおさらいやになる。だから、その意見を否定して、世界を正常に戻してやらなければならない。  そういうふうに信じて、どれだけの人が泥沼の論争にひき込まれていったことでしょう。  何がいいたいかというと、もうネットで自分の意見の正当性を巡っていい争うのはやめようということなんですけれどね。  自分は正しい、正しい、正しい、お前は間違えている、間違えている、間違えている。  そんなことを繰り返しいいあって何になるというのか? 

プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。

 敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。  読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113  ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232  ……時代とシンクロしていやがるなー。  えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。  ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。  思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。  でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。  それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。  昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。  そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。  ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。  それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。  このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。  広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。  ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。  いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。  まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。  普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。  ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。  それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。  まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。  それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。  そういえば、 

ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。

オタクとリア充の境界線を超えていけ。平坂読『妹さえいればいい』が日常ものの新境地を切り拓く。

 待ちに待った平坂読『妹さえいればいい』の第2巻を読みました。  面白かった!  ぼくの場合、現在刊行継続中のライトノベルで続きを楽しみにしているのはこれくらいなのですけれど、じっさい待つに値する面白さ。  第1巻の要素を発展的に継続させているところが素晴らしい。  ライトノベルの第2巻としてはお手本にしたいような出来といっていいでしょう。  この巻のあらすじはこんな感じ。  俺達はアニメの原作を書いてるんじゃない!  妹バカの小説家・羽島伊月は、人気シリーズ『妹法大戦』最新巻の執筆に苦戦していた。 気分転換のためゲームをしたり混浴の温泉に行ったりお花見をしたり、担当への言い訳メールを考えたりしながら、どうにか原稿を書き進めていく伊月。彼を取り巻く可児那由多やぷりけつ、白川京や義弟の千尋といった個性的な面々も、それぞれ悩みを抱えながら日々を生きている。そんな中、伊月の同期作家で親友・不破春斗の『絶界の聖霊騎士』のテレビアニメがついに放送開始となるのだが――。  妹と全裸に彩られた日常コメディ、第2弾登場!!  そういうわけで、この巻のメインイベントは不破くんの作品のアニメ化ということになります。  紛らわしい帯の文句のおかげで『妹さえいればいい』そのもののアニメ化が決まったと思い込んでいる人も散見されますが、残念ながらそうではない、あくまで「アニメ化のエピソード」が挟まれているというだけのことです。  この巻のクライマックスではそのアニメ化の顛末が描かれることになります。  具体的な内容に関するネタバレは避けますが、さすがというか、非常に攻めている印象が残りました。ここまで踏み込んでくるとは思わなかった。  さらなるラブコメ展開への伏線も張りつつ、物語は進んで行きます。  もちろん、そのあいだにテーブルトークRPGをしたり、お花見を開いたりと楽しいイベントは目白押し。お色気もあるよ☆  ここらへんの日常描写のさじ加減はさすがに『はがない』の作家というべきか、まったくそつがありません。  よくこの小説が売れるのはエロが多いからだといういい方をされるのだけれど、エロいラノベなんて掃いて捨てるほどあるわけで、その点はほかの作品との差別化になってはいないでしょう。  『妹さえいればいい』がヒットしているとすれば(Amazonを見る限り相当売れているようですが)、それは純粋に作者の技量のたまものです。  ライトノベル作家を主人公に楽しい日常を描く、それだけならきわめてありふれた素材であり、料理であるといえるでしょう。  しかし、料理人の技量の差は細部に表れます。 

オタクとリア充の境界線を超えていけ。平坂読『妹さえいればいい』が日常ものの新境地を切り拓く。

平坂読『妹さいればいい。』は動機がない時代のバイブルとなるのか。

 七月です。今年ももう半分終わってしまいましたね。  この半年、いろいろありましたが、厭なことは忘れてゼロからスタートしたいと思います。よろしくお願いします。  さて、当然、厭なこともあれば良かったこともあるわけで、上半期はたくさんの面白い作品と出逢えました。  そのなかでも個人的に高い評価を与えたい作品といえば、平坂読『妹さえいればいい。』がまず挙がります。  一見するとライトノベル作家の他愛ない日常を綴っただけの作品とも見えかねないものの、じっさいには壮絶に計算されつくした一作とぼくは見ました。  日常系ライトノベルもここまで来たのかと感嘆せずにはいられないという意味で、今年のベスト候補です。  もちろん、シンプルに一本のラブコメディとして読んでもめちゃくちゃ面白い。  ただ、これをぼくのようなすれっからしの読者ではない、いまの若い層が読んで面白いと思うかというと、それはよくわからない。  Amazonなどでくり返し指摘されている通り、「一本の小説としての起承転結が構成されていない」作品だからです。  物語はなんとなく始まりなんとなく終わっているように見えます。  おそらくじっさいには見た目に反して精密な計算があるものと思われますが、それにしても一貫したストーリーは存在しないといってもいいくらい極端な構成に仕上がっている。  一般的な意味での「物語」がないのです。  そのかわり、くり出されるネタの「手数」で勝負している印象。  いわば一撃入魂の必殺パンチではなく、計算ずくのコンビネーション・ブローで戦っている作品といえるかと思います。  それでは、なぜ極端に「物語らしさ」を欠いたプロットになっているのか?  もちろん、 

平坂読『妹さいればいい。』は動機がない時代のバイブルとなるのか。

そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

 いまペトロニウスさんとLINEで話していた内容がちょっと面白かったのでメモ。  平坂読『妹さえいればいい。』の話なのですが、これ凄いよね、さすがだよね、でも単純に面白いかというとどうなんだろう――という内容だったのでした。  というのも、『妹さえいればいい。』は「あまりにも成熟しすぎている」作品に思えるからです。  すべての登場人物がバランスよくトラウマとかコンプレックスを抱えていて、「特権的なリア充」とか「特権的な非リア」とかが存在しない。  しかも各人物はみな自分の人生に責任をもてる大人で、特別大きな「欠落」といったものはない。  したがって、極端な行動に出る動機がない。「いまこのとき」をひたすら幸せに過ごす――ただそれだけといえばそれだけの物語になっている。  それは中高生向きの作品としてどうなのか、ということです。  さすがペトロニウスさんはクリティカルなポイントを突いてくるなあ、と思うのですが、そうなのです。  『妹さえいればいい。』は恐ろしくよくできた作品なのですが、それでもあえてひとつ足りないところを挙げるとすれば、「童貞マインド」が足りないとはいえると思うのです。  世界が成熟しすぎている。童貞くささがない。中二病もない。  いかにもそれっぽく装ってはいるけれど、じっさいはそこからは遥かに遠い。  これは大人の小説なのです。  前作『ぼくは友達が少ない』は「友達がいない自分たち」と「友達がたくさんいるリア充」を比較することによって、その「落差」でドラマを駆動していました。  そう、面白い物語には必ず「落差」があります。  王子とこじきでもいいし、光の鷹と狂戦士でもいいのですが、とにかく極端なコントラストが描けていればいるほどその物語は面白くなります。  しかし、社会が成熟していけばいくほどに、そういう「格差」は失われていくのですね。  『妹さえいればいい。』はあきらかに意識して「友達さがし系」の「次」を狙って来ているわけなのですが、そしてそれはきわめて考え抜かれた計算の結果だということもわかるのですが、「ぼくは友達が少ない」という呟きに続く世界は「ぼくは何もかも満たされている」としかいいようがないものだったのではないか、と思わざるを得ません。  いや、正確にはちょっとした「欠落」は全員が抱えているのだけれど、もはや大騒ぎしてそのトラウマを叫びださないくらい状況が洗練されている。  なぜなら、だれもが何かしらのことは抱えているということはわかっているのだから。  それでどうなるかというと、もうほんとうにただ楽しいだけ、の世界にたどり着いてしまったのですね。  悪くいうなら、ここには確固たるドラマツルギーがない。なぜなら、ドラマを牽引するモチベーションが存在しないからです。  「何も欠けていない」のだから、あえて現状を変革する必要もないということ。  あたりまえといえばあたりまえのことですが、しかし、ここには「それでは物語が存在する意義は何なのか?」という深刻な疑義が挟まれる余地があります。  伏見つかささんの『エロマンガ先生』なんかもそうなんですけれどね。  ある意味で、もはや「問題は解決してしまっている」のです。必死になって解決しなければならない問題は、もはやべつにない。  したがって、 

そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?

 平坂読の最新作『妹さえいればいい。』をくり返し読み返している。  面白いなー。面白いなー。  一般文芸とはまったく異なるライトノベル特有の世界なのだけれど、ぼくとしては非常にしっくり来る。  作中では主人公がAmazonレビューを罵倒していたりもするのだが、じっさい、この小説のAmazonレビューを見ると「まあ、罵倒したくもなる気持ちもわかるよな」と思えて来る。  もちろん、普通に読んで評価している人もいるのだけれど、★ひとつ付けているレビュアーとか、あきらかに本編を読んでいないものなあ。  まさに「アマゾンレビューは貴様の日記帳ではない!」といいたいところ。  一方で「小ネタの連続ばかりでストーリー性が薄すぎる。その割には変な商売っ気だけはやたらと豊富」という★★の評価もあって、これは非常によく理解できる。  普段からライトノベルを読みなれていない人が読むとこういうふうに思うだろうな、と。  ただ、ある程度この手の小説に慣れている人間から見ると、やはりいくらか筋違いに思えるのもたしか。  「普通の小説であれば、おそらく必要不可欠の要素である一冊の本を通してのストーリーと言うべき物が全く無いのである」ということなのだが、すいません、平坂読の作品は「普通の小説」ではないのです。  『妹さえいればいい。』をあえてジャンル分けするなら、いわゆる「日常もの」にあたるだろう。  この作品に「一冊の本を通してのストーリー」がないという指摘は正しいが、そういう物語は既に膨大な数が出ており、しかも読者に受け入れられているのだ。  『ゆゆ式』にも狭い意味での「ストーリー」らしきものはほとんどないが、いまさらそれを問題視する人はほとんどいないと思う。  たとえば『To Heart』あたりから数えるとすれば、オタク文化はもう既に20年くらい日常ものを描いている。  『あずまんが大王』から数えると15、6年かな。  一般的な意味での「ストーリー」がほとんど存在しないように見えるプロットは、ラノベ慣れしていない人にはさぞ奇妙に見えるだろうが、実はそれなりの歴史と伝統を背負っているのである。  また、作中にオタクネタをやたらと散りばめるのも、既に何年も前に確立された方法論だ。 そのストーリー性の薄さの代わりにやたらと詰め込まれていたのがラノベネタである ラノベ作家を主役にした作品なのだから当然だろうという方もいるだろうけど、ここで言う「ラノベネタ」というのが現実に出版されたラノベなのだから仰天させられた  とあるのだけれど、これはべつに『妹さえいればいい。』の独創ではなく、いまのライトノベルにおいてはむしろスタンダードな方法論であるわけなのだ。  そしてそういうやり方が採用されているのは「商売っ気」というより、単純に読者が喜ぶからだろう。  じっさい、ぼくは217ページ5行目のネタで死ぬほど笑った。  この種のジャンル自己言及はジャンルを狭いターゲットに向けて閉じていくから良くないという評価もあるとは思う。  しかし、それをいいだしたらSFとかミステリが自己言及を重ねながら進歩していった歴史も否定されなければならないことになる。  新本格ミステリなんて全部ダメになるんじゃないですかね?  綾辻行人のクリスティネタとか有栖川有栖のクイーンネタは良くて、平坂読の『Fate』ネタ、『ソードアート・オンライン』はネタは良くない、という理由もないだろう。  まあ、そんなことばかりやっていたから本格ミステリは商業的に衰退したんだ!といわれると一理ある気はしますが……。  ここらへんはもうちょっと深堀りしないといけないテーマかもしれない。  そういうわけで、このレビューの批判的な「読み」は、何をいいたいかは非常によくわかるのだけれど、あまりにもいまさらな指摘に思える。  ラノベを読みなれていない人がそういうふうに感じることは非常に無理がない話ではあるのだが、現在のラノベではこの程度のことは善かれ悪しかれ常識なのである。  つくづく思うけれど、ライトノベルを読むためにはライトノベル特有のリテラシーが必要なんだよなあ。  「タイムパラドックスって何?」という人がSFには向かないように、「密室殺人ってどういうこと?」という人がミステリには適さないように、ライトノベルを読むためにはそれなりの知識と感性が必要になるということなのだろう。  まあ、それが良いことなのかどうかということは、先述したようにたしかに議論の余地があるだろうけれど……。  しかし、一方で『妹さえいればいい。』は非常に間口が広い作品でもあると思う。  たしかにラノベ特有の異色の方法論を用いて入るのだが、見方を変えればほんとうにただの青春小説だからだ。  オタク版『ハチミツとクローバー』だよなあ、と思うくらい。  たしかに 

『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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