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記事 3件
  • 非モテを「属性」のせいにはできない。

    2016-06-18 05:53  
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     皆さん、お元気でしょうか。ぼくは趣味で大学受験をするべく地道に勉強しています。
     世界史とかいまやり直すと非常に面白い。人類の歴史は戦争に次ぐ戦争で、そのたびに善悪とか文明対野蛮という二項対立的なフィクションが作られるんだなと実感しますね。
     人間はどうしたって自分を中心に考えるわけで、ちょっと文化が栄えると自分の国がオンリーワンな文明だと思い込む。
     それは大局的に見れば滑稽でしかないのですが、なかなかその幻想から覚めることはむずかしいようです。
     人ってそういうものなのだろうなあと思います。
     さて、最近色々と漫画を買いあさって読んだのですが、そのなかでも面白かったのがちぃ『花嫁は元男子』。
     ちぃというのは作者さんのお名前です。念のため。
     まあ、タイトル通り男性から女性へと性別適合手術を受けた人物の自伝ふう漫画なのですが、途中、主人公のちぃさんの恋愛遍歴を綴った部分があります。
  • 同性愛という概念はいつ頃生まれたのか知っていますか?

    2016-04-27 12:10  
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     牧村朝子『同性愛は「病気」なの?  僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』を読みました。
     『百合のリアル』の著者によるタイトル通りの本です。

     同性愛を「病気」、あるいは「犯罪」とみなし、さまざまな方法で「診断」、「分類」しようとした人々、そしてそれに対抗しようと試みた人たちの歴史を紹介しています。
     あなたは「同性愛(Homosexual)」という言葉、あるいは概念がいつの頃からあったものか、だれが作り出したものかご存知でしょうか?
     おそらくご存知ないでしょう。ぼくも知らなかった。なんとなく太古の昔からあるように思っていました。
     しかし、歴史的に見ればごく最近まで「同性愛」という概念は存在しなかったのだそうです。
     ひとはみな異性を愛するように生まれついているのだと素朴に信じられていて、同性との性行為は「病気」とか「犯罪」とされていた。
     それが「同性愛」という言葉で捉えられるようになるのは、1869年にケルベトニという人物が論文で発表したところから始まるのだそうです。
     つまり、「同性愛」という概念は、わずか150年ほどの歴史しかないわけです。
     そこから同性愛が「人権」として認められるまで、さまざまな人々の、まさにさまざまな苦闘がありました。
     そしてまた、その一方で「同性愛は病気である」とした人々の偏見や決めつけの歴史もまたあったのです。
     この本には、そういったこっけいとしかいいようがないような「同性愛治療法」の数々が紹介されています。
     しかし、ひとつひとつはこっけいであっても、現実にそれが通用してきた歴史があることを考えると、まったく笑えません。
     たとえば、ナチスでは「人工睾丸」を同性愛者に移植するという手術が行われていたという話を聞くと、おぞまさしさに震える思いです。
     「同性愛者」の歴史は、被差別と偏見にさらされてきた歴史でもあるということ。
     しかし、著者は過大な被害者意識に溺れることなく、あくまで淡々と、ときにコミカルに「同性愛」病理化の歴史を追いかけていきます。
     同性愛は生まれつきなのかそれとも後天的に身につけるものなのか? 幾人もの学者たちの多様な論説が紹介され、それらの問題点が現代の視点からつまびらかにされたのち、ついに「伝説の心理学者」エヴリン・フーカー登場に至ったときには大きなカタルシスがあります。
     当時、女性ひとりで男性社会に切り込んでいったこの人物は、友人である同性愛者フロムの頼みによって、当時の「同性愛研究」の権威的な学者たちに対して、こんな形で「挑戦状」を送りつけたといいます。

    ・フロムの人脈を生かし、男性同性愛者を(刑務所からでも病院からでもなく)30人集める。
    ・続いて、男性異性愛者も30人集める。
    ・合計六十人の被験者に、ロールシャッハ・テストなど、当時主流であった心理検査を受けてもらう。
    ・その結果をまとめたうえで、被験者のプロフィールだけ隠して心理学会の権威に提出し、「あなたたちはこの心理検査結果だけで同性愛者を見分けることができますか?」と問う。

     心理学会のお偉いさんたちは、自信満々でこの挑戦を受けて立ち――そして、だれひとりとして正解する者はいませんでした。
     やがて、百数十年に及ぶ長い長い「同性愛」病理化を巡る戦いは終わりを告げることになります。
     1973年、 
  • 『ファイアーエムブレム』への同性婚システムの導入にまずは大きな拍手を送ろう。

    2015-06-25 02:20  
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     任天堂は6月24日、ニンテンドー3DS向けソフト「ファイアーエムブレムif」(25日発売)で、主人公キャラクターの同性婚が可能になっていることを明らかにした。同社が昨年発売した「トモダチコレクション」欧米版では同性婚ができないことで批判を受け、「次作では努力する」としていた。同社は今回の対応について「ゲーム体験は、当社が事業活動を行う地域社会における多様性を反映させたものであるべき」とコメントしている。http://news.nicovideo.jp/watch/nw1659408

     というわけで、『ファイアーエムブレム』の最新作で同性婚が可能になったようだ。
     『ファイアーエムブレム』の結婚システムはスーパーファミコンの『聖戦の系譜』以来のものであるわけですが、ついにそこに同性同士の関係が導入されたわけで、長年のファンとしてはなかなかに感慨深い。
     より保守的であることも可能であろう局面で、革新を選んだ任天堂の判断にひとまずは拍手を送りたい。
     じっさいにゲーム内でどのような描写になるのかはやってみないとわからないところだが、プレイしてみたいという意欲は増した。
     ただ、「ゲーム体験は、当社が事業活動を行う地域社会における多様性を反映させたものであるべき」といわれると、一抹の違和感を覚えないこともない。
     いや、文言としてはもちろん正しいのだが、多様性を反映させる方法が「主人公を異性、同性ともに結婚させることができるシステムを導入する」ことであるのかどうか、ぼくとしては微妙に迷うところだ。
     というか、『ファイアーエムブレム』一作がその手法を導入することは問題ないのだが、それがスタンダードとして今後のゲームにおいても活かされるべきかというと、そうとは思えない。
     あくまで『ファイアーエムブレム』一作の手法としては高く評価するというのがぼくの判断になる。
     とはいえ、任天堂のテレビゲームに同性愛の描写が導入されることはやはり画期的であり、その判断は偉大な英断であるといえる。
     ぼくとしては、それがなんらかの政治的な強制力を持たない限り、コンピューターゲームに同性愛の描写を増やしていくことには無条件で賛成だ。
     なんといっても、現在の状態が社会の実情を反映していないことは明白だからである。
     敵、味方の双方に一定の割合でLGBTがいることを前提としてシナリオが組まれてもいい。
     というか、そうなることが自然ではないだろうか。
     ただ、そういった配慮をシステムに落としこむときに、同性結婚を許容するという形が唯一の正しいあり方かというと、ぼくはそうは考えないということだ。
     ほかにもいろいろな方法論が考えられるだろうし、「恋愛/結婚描写が存在するゲームの主人公はバイセクシュアルであるべき」といえるかというとそうではないだろう。
     『ファイアーエムブレム』の方法論はひとつのやり方として尊重されてしかるべきだが、ほかのゲームはほかのやり方を考えてもいいと思う。
     LGBTを含む多様性の描写が「唯一の正しいあり方」に収斂していくのではなく、「無数の多様なあり方」に拡散していくことこそが、最も重要だと考える。
     ただ、いままでの国産ゲームでは「異性愛を前提とした異性婚に限定したシステム」以外がほとんどない状況だったのだから、それに比べれば一歩進んだとはいえるだろう。
     まあ、じっさいにプレイしてみないとその革新性についてはなんともいえないということも事実だが。
     いまの時点でああでもないこうでもないということは早計であるかもしれない。
     しかし、