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  • 謙虚で礼儀正しい天才は嫌いですか? 大谷翔平や羽生結弦を非難する人たちの共通項とは。

    2023-11-20 06:23  
    300pt

     苛烈な時代は不世出の才能を生むものなのだろうか、いまの日本を一望すると、さまざまな分野で異質なほどの能力を示す若者が幾人も見つかる。
     そのなかでも、しんじつ最高の天才と呼びたいのが以下の三人だ。
     野球二刀流の大谷翔平。
     フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦。
     将棋八冠の藤井聡太。
     いずれもその分野における最高の実力者である。
     そしてまた、それだけではなく、この三人にはあきらかに共通項がある、と感じる。
     また、そう思うのはぼくだけではないらしく、Googleで「大谷翔平 羽生結弦」と入れると「藤井聡太」がサジェスションされたりする。
     まったくべつのジャンルの人物ではあるが、どうにも並べて語りたくなるところのある三人なのだ。
     それでは、そんなかれらの共通点とは何か。
     いうまでもないだろう、いままでの常識では考えられないような快挙を実現した並はずれた天才であるのみならず、ふだんから礼儀正しく、いつも謙虚で偉ぶらないその人格の高潔さだ。
     ただその成績だけを見ても、それぞれの競技でかれらほどの業績を成し遂げた者はかつてないわけだが、それ以上に印象に残るのは人を分け隔てせず、だれに対しても優しく接するその人間的な度量の大きさである。
     かつて、「天才」というと、世間知らずだったり常識がなかったり、あるいは放埓な性格だったりと、ある側面では巨大な力量を示しながら、べつの面では何か欠落を抱えているものという印象が強かった。談志とか。
     それはときにかれら自身を破滅に追いやることもあるほどで、ある種、その種の天才たちに対して一般人は崇拝とともに見下しを抱いていたのではないかと思う。
     しかし、上記の三人は違う。その成果だけをみてもそれはもう途方もないほどの大天才たちである上に、人格的にもきわめて成熟しているのである。
     あるいは、これからフィクションで天才を描くとき、才能と欠落を等量に抱えているような描写をすると古くさい印象になってしまうかもしれない。
     それくらい、かれらの人間的な素晴らしさは「天才」のイメージそのものを塗り替えてしまった。
     現在20代の三人を一世代としてくくるとしたら、この世代はほんとうに立派な人間を生み出したものだと感心するしかない。
     まあ、将棋の場合、羽生善治という人がいて、かれもまたいつも笑顔でだれにでも気さくな「新時代の天才」だったわけだが、やはりかれはその全盛期においては突出した存在だったと思う。
     こういった凄まじい才能と繊細な人格を併せ持つ若者が次々と出て来る現代日本は案外と悪くない時代なのではないかと思えてくる。
     もちろん、一部の突出した人間だけをサンプルに世代を語ることはできないわけだが、じっさい、「いまどきの若者たち」は平均的に見ても心やさしく温和で折り目正しい人が多いと感じられる。
     そう、おそらく問題なのはもっと上の世代なのかもしれない。羽生や大谷の世代が中心になったら、日本はまた変わって来るのではないか。
     そんなささやかな期待を抱かせるほど、この世代のスターたちは素晴らしいのだ。
     しかし、世の中は広いもので、こういう「できた人たち」が嫌いな人もいるのである。
     あるいはほとんど完璧な才能にしか見えるかれらに対する「逆張り」というものなのかもしれないが、たとえばフェミニストの北原みのりさんはこのように書いている。

     「羽生結弦」が苦手だ。
     などと言えば、日本全国どころか今や世界中の反感を買いそうだけれど、女は意外に「羽生結弦」が苦手なのではないか。羽生結弦さん個人のことではなく、「羽生結弦」というプロジェクトに対する苦手意識のようなものだと思ってほしい。結婚の報告を読んで、やっぱり「羽生結弦」が苦手……という以前からどこかで感じていた気持ちがむくむくとわき上がってしまっている。あんまりモヤモヤするので、なぜ「羽生結弦」が苦手なのか、言語化してみたい。
     率直に言えば、「羽生結弦」はとても重たく、そして直視するには、あまりに痛々しいのである。https://dot.asahi.com/articles/-/198345

     自分個人が苦手だというだけのことを「女は」と主語を大きくするところがなかなか最低な上に、この後には羽生結弦と「羽生結弦」に対する批判が延々と続いている(ただし、最後は大谷翔平には「悲壮感がない」と褒めている)。
     「「羽生結弦」というプロジェクト」のことを「重い」、「痛々しい」と感じることは理解できなくもないものの、そういう単なる個人的印象をもとに人をジャッジする厚顔さには反発を感じる。
     こういう人もいるのだ。
     また、作家の白饅頭さんは「大谷翔平のただしさと息苦しさ」と題した記事で、以下のツイートを取り上げ、

    大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモいと思ってしまう自分がいる。ネオテニーっぽさと言うか。
    https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186

    https://twitter.com/pannacottaso_v2/status/1633783099481026561
     「個人の感想にすぎないものが、ここまで罵詈雑言を浴びせられなければならないほど大炎上するのかと笑って驚いてしまった。」と語っている。
    https://note.com/terrakei07/n/na4181dacf5c5
     かれはこれらのツイートの「炎上」を「大谷不敬罪」としてかなり冷笑的に揶揄しているのだが、ぼくにいわせれば、いまや世界的大スターでたくさんの人のリスペクトを集める大谷を「キモい」、「ネオテニーっぽ」いなどと中傷すれば批判を受けるのはあまりにもあたりまえのことである。
     まして、薬をやったりしないから人間的魅力がないなどという意見はちょっと理解を絶するトンデモツイートとしかいいようがなく、大炎上して当然の暴論としか考えられない。
     これらをあえて「個人の感想に過ぎない」とみなして弁護するなら、白饅頭さんが大嫌いな北原みのりさんのようなフェミニストの意見だって「個人の感想に過ぎない」と捉えるべきだろう。
     そもそも白饅頭さんが「恐ろしいほどの火柱」、「火あぶりの刑」、「罵詈雑言」とひとまとめにしているものもいってしまえば「個人の感想に過ぎない」わけで、もし「個人の感想」に対し批判が浴びせられるのが「息苦しい」というなら、白饅頭さん自身がやっていることは何なのかという話になってしまう。
     さらにいうなら、白饅頭さんはふだんからリベラリストやフェミニストの意見に対してはみずから率先して「罵詈雑言」を浴びせて「火あぶりの刑」に処しているのだから、よくもまあこういうしらじらしいことがいえるものだというしかない。
     ようは自分の同意見のお仲間が批判されることは一方的に「ただしさ」の押しつけとみなして「息苦しい」と感じるが、自分が他人を批判することは「ただしさに対する抵抗」と捉えて正当化しているのだろう。
     その意味で、かれの姿勢は北原さんと大差ないくらい恣意的だと感じてしまうのだけれど、まちがえていますかね。
     人が自分のいちばん嫌いなものに似ていくというのはこういうことである。そういうぼく自身もまた他山の石としなければならないだろうけれど。
     フェミニストとアンチ・フェミニストの有名人ふたりが期せずして羽生結弦と大谷翔平というふたりの天才アスリートについて、「痛々しい」とか「ただしさと息苦しさ」という言葉で批判的に語っていることは印象的だ。
     このふたつの意見にも、何となく共通項があるのが見て取れる。
     そう、北原さんと白饅頭さんの記事に共通しているものは、かれらの真摯で誠実な姿勢をある種の「過剰さ」とみなして攻撃する態度である。
     つまりは人間的な立派さそのものに対する反感なのだ。
     北原さんは羽生を「痛々しい」というし、白饅頭さんは大谷を「ただしい」と語るのだが、これらはようするに「完璧すぎるのが気に喰わない」という言葉のパラフレーズであるに過ぎない。
     もちろん、それではかれらが人間的に小物であったら好感を示すかというとそうではないだろう。
     こういう人は有名人がどれほど謙虚で誠実で理知的な態度を取ろうと関係なく、自分の「お気持ち」でジャッジしてはやれ「痛々しい」とかやれ「息苦しい」といって非難するものなのだ。
     フェミニストとアンチ・フェミニストと、思想的立場は真逆であるはずのふたりだが、自分の個人的な「お気持ち」を屈折した論理を駆使して一般論にまで拡大していく手つきはよく似ている。
     仲良く対談でもしてほしいくらい。羽生結弦と大谷翔平のどちらがひどいかをテーマに話したらどうですかね。意外と意見が合うかもしれない。
     大谷や羽生や藤井は少なくとも人前ではこういう繊細さを欠いた人の悪口をいわないわけで、それだけでもかれらが尊敬されるのは当然だと思える。
     北原さんたちに理解できないのは、世の中には練習をなまけたりだれかの悪口をいったりしなくても辛いと感じない人間もいるのだ、ということなのではないか。
     自分たちのレベルで考えると異常に見えても、大谷や羽生にとってはそれがナチュラルな態度であるという可能性もあるのだ。というか、おそらくそうなのだろう。かれらはかれらなりに自然体なのだと思われる。
     人として立派な態度で活躍する人物を見て「弱さ」がない人間なんて気持ち悪い、などと批判することはたやすい。
     しかし、大谷や羽生や藤井のような若き天才たちも努力して「弱さ」を克服してきた側面もあるはずなのである。
     それすらも批判されることは人間のさがとしてわかる。だが、それはもはやかれら天才たちの問題ではなく、どうにか天才の欠点を見つけて批判しようとする凡人たち自身の問題でしかないだろう。
     ひとりの能なしの凡人として、心からそう思うのである。
     

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  • 電子書籍新刊発売!&RTで5000円+αがあたる販促企画実施ちう!

    2023-05-31 09:03  
    300pt

     電子書籍新刊『Simple is the worst -単純すぎる扇動言論がこの世界を焼き尽くす-』をAmazon Kindle Storeにて(ようやく)販売開始ました。ぱちぱちぱちぱち。
     まあ、そういうわけでひさしぶりの新刊なのですが、原稿そのものは随分前からできていました。ちなみに『ヲタスピ(仮題)』上下巻の原稿もすでにしあがっています。なぜすぐに出ないんでしょうね。不思議だ。
     まあそれはともかく。『Simple is the worst』はタイトルの通り、「単純すぎる言説」を批判する内容となっています。
     シンプル・イズ・ザ・ベスト。一般に、世間ではそのようにいわれることが多いでしょう。シンプルであることは当然に「良いこと」であり、言葉をもちいるときにはよりシンプルな内容になるよう工夫するべきであると。しかし、本書の内容はそれとは正反対です。
     シンプル・イズ・ザ・ワースト。本書は「シンプルであること」がときに非常な問題を孕むことを指摘し、多数の参考資料をもとに、その問題を解決するためにはどうすれば良いかを語っています。
     ただし、単にシンプルさを否定しているわけではありません。本書で問題として取り上げるのはあくまで「過剰な単純さ」であり、決してシンプルであろうとすることそのものを問題視しているわけではありません。
     アインシュタインがいうところの「simple(適切な単純さ)」と「simpler(過剰な単純さ)」の差はどこにあるのか、それもまた本書のテーマのひとつといって良いでしょう。
     また、本書は男性と女性、右翼と左翼、フェミニズムとアンチフェミニズム、リベラルとアンチリベラルといった、ネットでよくみられる素朴な対立項を解体することも目的としています。
     このような一見すると不倶戴天の関係は、しかし、その実、見た目ほどわかりやすい対立を抱えているわけではないと著者は考えます。
     じっさい、普段からソーシャルメディアをお使いの方のなかには、このような対立する党派の人間が延々と議論ともいえないようないがみあいを続けているところを見てうんざりしたこともおありなのではないでしょうか?
     Twitterなどでは一見するとほとんどすべての人間が対立する派閥のどちらかに属しているように見えてしまう一面がありますが、じっさいにはどちらにも属さない「サイレント・マジョリティ」が大勢いるが大勢いるはずです。
     本書の想定読者の第一はまさにそのような方たちです。もし、あなたにそのようなところがあるとすれば、本書を読み、いっしょに問題についてお考えになってくだされば幸いです。現在、特価100円で販売ちうです。よろしくお願いいたします。
    https://www.amazon.co.jp/dp/B0C6MY3WY8
     ちなみに、新刊発売記念の販促企画ということで、以下のツイートをリツイートすると5000円+αが当たります。ぜひ、RTしていただけると非常に助かります。よろしくお願いします。
    https://twitter.com/kaien/status/1663675372851056640
     以下に、本編の冒頭第一章までを掲載しておきます。
     まえがき
    「今や社会そのもの、さらには社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の「正しい答え」が、あらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある。だが、そのうちかなり正しいと言えるものさえ一つもない。」
     経営学の巨人ピーター・ドラッカーが著書『新しい現実』のなかでこのように述べてからすでに四半世紀が経ちます。
     その間も社会はいっそうの複雑化と不透明化を遂げ、ドラッカーが「新しい現実」と呼んだその難解な社会状況を作り上げています。
     もはやきわめて多面的な社会の全体像を理解している者はひとりもおらず、諸々の問題に対して唯一にして明快な「正しい答え」を見出すことは不可能になってしまったかのようです。
     たとえば原発稼働問題や少子化問題ひとつ取ってみても、往古、アレクサンドロス大王が一刀両断したというゴルディアスの結び目さながら、あまりにも多くの事情が絡み合っていて、シンプルに解き明かすことはきわめてむずかしいでしょう。
     もちろん、それこそ現代のアレクサンドロスたらんと、自分こそはこの時代と社会に対して明快な処方箋を提示する人物は多数存在します。
     しかし、その意見に対しては同程度の説得力を持つべつの意見が必ず存在し、熾烈な言論闘争が繰り広げられることになります。そして、その双方が自分の主張こそ絶対的に正しいとみなしているようなのです。
     分断と対立の時代。
     思えばドラッカーが上記の内容を記したのは1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が本格的に終わりを告げた年のことでした。
     善悪も成否もすっかり理解しづらくなってしまった現代の社会が冷戦終結による「大きな物語」の失墜から始まるとすれば、わたしたちはまさに「混迷の三分の一世紀」を見て来たことになります。
     そういうわけで、何もかも複雑で手に負えない時代であるわけですが、逆説的なことに、まさにそうであるからこそ、世界各地で極度に単純化された言説が飛び交っています。
     もちろん、粗雑なまでに単純な扇動が人々を動員する事態はいまに始まったことではありません。
     文豪ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読むとき、わたしたちは人々を突き動かすアジテーションの実体が何も変わっていないことに苦笑させられるでしょう。
     しかし、そうはいってもインターネット、特にいわゆるソーシャルメディアを通して「インフルエンサー」たちがアジテーションを続け、影響力を発揮する現代特有の問題は看過できないものがあります。
     わたしの目から見ると、そういったインターネット・インフルエンサーの意見はしばしばあまりにも単純すぎます。
     必ずしも端的に間違えているというのではありません。ただ、きわめて複雑で難解な問題をシンプルに読み解きすぎている、極端な党派性に拠って自派の正統性を盲目的に信頼しすぎている、そのような印象を受けます。
     ドラッカーがいうには、「あまりに複雑」なこの社会に対して「正しい答え」は「複数ある」。
     ですが、それにもかかわらず、その複数の「答え」のもち主がいずれも自派の主張のみが絶対的に正しいと主張し、他派を揶揄し嘲弄し罵倒し攻撃する、「合理的な批判」という美名のもとに。そのような事態をあまりに多く見かけることになりました。
     それは思想的に右派であるか左派かといった違いに依存しません。むしろもはやイデオロギー的な左右など、表面的な差異に過ぎないようにすら感じられるほどです。
     たしかに、ものごとをよりシンプルに切り詰めて考えることを奨める「オッカムの剃刀」という言葉があるように、複雑なことを単純化して捉えることは重要です。
     大半の人はあまりに複雑すぎる情報を一瞬で把握できるような特殊な頭脳を持っていないので、わかりやすく説明することによって初めて他者の理解を得られる一面はあります。
     とはいえ、その剃刀で色々なものを切り落とし過ぎて本質を見失っては元も子もありません。ものごとを単純化して認識する際には、なるべく丁寧かつ慎重に自己批判しながら実行するべきでしょう。
     それが本書の基本的なスタンスです。
     もっとも、本書の姿勢そのものが丁寧さと慎重さを十分に備えていないというご批判はありえます。
     可能な限り公正を心がけたつもりですが、読者諸氏のご意見ご批判を承れれば幸いです。
     わたしは学者でもなければジャーナリストでもありません。また、べつだん、社会に対し高邁な識見を持っているわけでもなければ、崇高な理想を胸に抱えて活動しているともいえないでしょう。
     一介のライターないしブロガーです。つまりはどこにでもいる在野の一市民に過ぎません。
     しかし、そのわたしの目から見ても、いま、あまりにも単純な言説が飛び交い、しかも一定の支持を受けていることは大きな問題に思えます。
     もちろん、そういった粗雑な意見に対してはそれなりの批判が寄せられるのですが、管見するところ、その批判に対する反応が成熟した対話なり議論なりに進むことはほとんどなく、ただ相手に対する怒りと憎しみが増進しつづけているように思われます。
     本書は、そのような現実に対する危機感から書かれました。
     特定の思想なり理念を指示するものではなく、そういった理想を表明する際の方法論について記したつもりです。
     よろしくご一読をお願いします。
     

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  • 2022年に面白かった作品ランキング1位から50位まで。

    2022-12-31 08:38  
    300pt
     早くも、というかいつものようにほとんど何も成さないうちに大晦日ですね。ぼくの人生は何も成し遂げないで終わるのだろうかと思ってしまいますが、そんな感慨は無視して時は経ちます。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。そういうわけで、2022年のまとめをランキング形式で書いていきたいと思います。フィクション、ノンフィクション、マンガ、映画などすべて混合です。1位から50位まで行きたいと思います。
    ・1位『実存的貧困とは何か』
     今年のベスト・オブ・ベストはこれですね。今年というか、過去10年でもベストに近いかも。「実存的貧困」とは聞き慣れない概念ですが、ようは「愛情に恵まれなかったこと」を意味しています。「愛を実感できずに育つこと」が人をどのように変えてしまうのか? 膨大なエビデンスをもとに実証的に描き抜かれています。ハードカバーで700ページを超えるという大部な学術書ですが、意外に読みやす

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  • 電子書籍『小説家になろうの風景』980円を無料販売中!

    2022-10-19 17:37  
    300pt
    Amazonにて電子書籍『小説家になろうの風景』、無料キャンペーン中です! 日本最大の小説投稿サイト「小説家になろう」の現状について解説した内容となっています。良ければ0円で買ってください。よろしくお願いします。  また、近日中に新刊『ヲタスピ』上下巻を発売したいと思っています。すでに原稿はほぼ書き上がっているので、あとは表紙イラストが仕上がってくれば出せる状態です。18万文字とわりと大作ですが、それなりに内容はあるものと考えています。こちらも読んでくださるとありがたいです。 とりあえず、でわ。

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  • 『ONE PIECE FILM RED』はアンチ少年漫画として「女の子の物語」の夢を見る。

    2022-08-29 18:44  
    300pt
     一昨日、映画『ONE PIECE FILM RED』を観て来ました(以下『FILM RED』)。
     ぼくは特に『ONE PIECE』の熱烈なファンではなく、一応は物語を履修はしているものの、細部となると記憶が怪しいというよくいるレベルの読者に過ぎません。
     過去の映画もほとんど見ていないし、「まあ、すごいマンガだよな」とは思いつつ、熱心に連載を追いかけるつもりにもなれない程度の熱意しか持っていなかったのが実際のところです。
     そういうぼくなので、周囲からいくらかのネタバレを喰らいつつ、あまり期待もせずに劇場に赴きました。それで、じっさいに観てみるとどうだったかというと――
    「ウッキー! 大傑作じゃないか!」
     ということで、『トップガン マーヴェリック』を抜いて今年の映画ベスト確定、過去数年でもトップを争う傑作という認識になったのでした。
     いったいこの映画のどこがそんなに凄いのか? 過去の『ONE PIECE』映画とどう違うのか? これから延々と語っていくつもりなのですが、「ネタバレ」なしで語ることはできないので、ここから下では一切、ネタバレについて配慮することはしないことにします。これから『FILM RED』を観賞される方はご注意ください。
     また、『FILM RED』の他にも、『ONE PIECE』本編を初めとするいくつかの過去作品のネタバレがあります。その点にもご注意ください。まあ、いつものことではあるけれど。
     いやあ、しかし、ほんとに素晴らしかった! 僕はめちゃくちゃ感動したので、可能なかぎり熱く語り尽くしたいと思っています。
     ただ、何しろ『ONE PIECE』に関してはかなりにわかなので、細部の間違い、あるいは解釈の違いなどはあることでしょう。もし気になる点などありましたらご指摘をよろしくお願いします。それでは、語り始めましょう。この、稀代の歌姫の物語について。
     しかし、そうはいったものの、いったいどこから語り出したら良いものか。何しろこの映画ひとつはまだしも、『ONE PIECE』という物語には膨大な設定と物語の蓄積があり、さまざまな論点が絡んでいます。
     それらをどう整理しながら語るのか?はなかなかの難題です。まず、『FILM RED』がどのような映画なのか、簡単な概略を書いておきましょう。
     この映画の舞台はかつて音楽の国として繁栄し、そしてなぞめいた滅亡を遂げた「エレジア」。そこで、世界一の歌姫である「ウタ」のファーストライブが開催されようとしているのです。
     そこに集まった何万人もの人々(どうやって集まったんだろうという気はするが、気にしてはいけない)のなかにもルフィと仲間たちも混じっていました。
     そしてライブが始まるのですが、ルフィは彼女が幼なじみの少女、シャンクスの娘ウタであることに気づきます。かれはひさしぶりの再開を喜びますが、かれが船に帰ろうとすると、ウタは引き留めようとし、しだいにライブは混乱していきます。
     そして、じつはウタは「ウタウタの実」の能力者であり、その能力で世界中を彼女の内面世界「ウタワールド」に引きずり込んで永遠に楽しく過ごそうとしていたことがあきらかになります。
     このまま彼女が死ねば、彼女の歌に捕らわれた人々の精神は永遠にウタワールドの虜囚となるのです。この事実を知ったルフィはウタを止めようとしますが、その裏にはさらなる秘密が隠されており――と、物語は進みます。
     ここで重要なのはウタが「闇堕ち」して悪の存在になったわけではなく、混乱が打ち続く「大海賊時代」において、本気で世界を救うために「ウタウタの実」の能力を使おうとしていることです。
     海軍や世界政府はもちろん、さまざまな組織や海賊たちをも敵にまわして、彼女はたったひとり、歌の力だけで世界を救おうとしているのです。
     ウタの目的が「間違えている」ことは物語が始まってすぐにわかります。いままでたくさんの物語を観てきた人なら「ウタウタの実」、そして「トットムジカ」から「人類補完計画」や「Cの世界」を連想し、それが人間の現実と可能性を否定するものであることを思い出すでしょう。
     ウタの理想は気高いけれど、その手段は端的に「間違えている」。そのため、ウタはルフィにとっての「ラスボス」にならざるを得ない。こうして、物語はルフィとウタの対立構造に収斂していきます。
     しかし、それでも『FILM RED』の構造はいままでの『ONE PIECE』とは決定的に違っています。ウタはたしかに物語においてルフィの「敵」であり「ラスボス」なのですが、ルフィはウタをいままでのようにウタを殴って倒そうとはしません。
     かれにとってウタの理想が打倒するべきものであることはたしかなのですが、ウタ個人は決して嫌いではないのです。
     その意味で、『FILM RED』従来の『ONE PIECE』とは異なる。むしろ、アンチ『ONE PIECE』なのではないかとすら思うくらいです。
     もちろん、そのアンチ『ONE PIECE』的な要素をも含んでさらに続いていくのが『ONE PIECE』という物語なのでしょうが、いずれにしろ、ここで『ONE PIECE』は決定的にアップデートされたと感じました。
     ここに来て、さらに内容を刷新するのが『ONE PIECE』の凄みなのでしょう。圧巻としかいいようがありません。
     それでは、『FILM RED』が『ONE PIECE』ではないとはどういう意味なのか。それは、この映画の主人公がルフィでないということです。
     いままでの『ONE PIECE』の主人公はいうまでもなくルフィです。しかし、この映画はじつはルフィの物語ではない。あくまで「ウタの物語」なのである。これが、ぼくが『FILM RED』を観ながらたどり着いた結論でした。
     否、あとから冷静になって振り返ってみると、単に「ウタの物語である」といい切ることには無理があり、むしろ「ウタの物語」と「ルフィの物語」が対立し、対決していると見るほうが自然であるように思えます。
     このふたつの物語は相互に矛盾する関係にあり、両立は不可能なのです。それは、どこまでも自由に「海賊王をめざす」ルフィと、海賊を憎んで「世界を救おうとする」ウタ、ふたりの目的が対立しているというだけではありません。
     ルフィが貫こうとする「男の子の物語」とウタが背負う「女の子の物語」、その語りの方法論、つまりドラマツルギーが対立してるといったほうが良いでしょう。
     「男の子の物語」とは、少年ないし男性を主人公とした物語のことです。その物語においては、世界の中心にいるのはあくまでも男の子であり、女の子は「冒険の仲間」として扱われるにせよ、「救済するべきヒロイン」として描かれるにせよ、従属的存在に留まることになります。
     主人公である男の子が戦いと冒険の日々を繰りひろげるとき、女の子には席がないのです。これは世界的に見てもそうだったと思いますが、特に戦後の日本では、敗戦のトラウマが作劇にダイレクトな影響を与えています。
     その結果、「男の子の物語」は「正義が悪を討つ」というシンプルでストレートな構造を採用しにくくなり、きわめて複雑な自己懐疑/自己批判をくり返すことになりました。
     そのひとつの頂点が、たとえば永井豪の最高傑作『デビルマン』だったことでしょう。『デビルマン』においては善悪は完全に逆転し、人間たちは「悪」の烙印を押され、世界は崩壊してしまいます。
     こういった流れについては同人誌などで散々書きましたが、適当にはしょっていうと、その流れが決定的なターニング・ポイントを迎えたのがかの『新世紀エヴァンゲリオン』でした。
     『エヴァ』において、「男の子の物語」は決定的に挫折し、破綻しました。主人公碇シンジはあらゆる意味で「男の子らしさ」を剥奪され、ひたすら苦しげにうずくまるばかりだったのです。
     ここで詳述する余裕はありませんが、その背景にあるのはこの社会が複雑・多様化し、いわゆる「大きな物語」が失われて、不透明化していったことです。
     現代においては、何が正しく、何が間違えているかの判断が非常にむずかしい。善意で、正義のつもりでやったことでも、結果として最悪の顛末に至ることがありえる。そのため、男の子たちは正義を実行しづらくなり、ただ碇シンジのようにうずくまるしかなくなってしまうわけです。
     もちろん、その状況を突破しようとさまざまな取り組みがなされたわけですが、そのことを細々と語っている余裕はありません。
     ここでは、精神科医の樺沢紫苑さんは著書『父滅の刃』において、現代の物語において「父性」が通用しなくなっていくプロセスを丹念に検証していることを挙げておきましょう。
     良くも悪くもぼくたちは「父なき時代」に生きているわけであり、「父殺し」の物語は容易に成立しなくなったのです。
     しかし、『エヴァ』以降、それでも『少年ジャンプ』を初めとする少年漫画は「男の子の物語」を貫いてきました。『ONE PIECE』はその代表的作品といって良いでしょう。
     『ONE PIECE』を初めとするジャンプ漫画は、しばしばジェンダー描写の古さを批判されることがありますが、見方を変えれば、だからこそいまなお「男の子の物語」を描き切れたという一面もある。
     『ONE PIECE』が、「不透明な正義」の問題に突入することなく、「男の子の物語」を貫徹させつづけられたのは、この物語が犯罪者たる海賊を主人公にした一種のピカレスク・ロマンであり、そもそも「正義」を志向していないからということが大きいと思います。
     ルフィはそれぞれのステージにおいてただ自分の嫌いな相手を感情に任せて打倒しているだけであり、その結果については関与していない。無責任といえばかぎりなく無責任なのですが、その姿勢がルフィを善悪倫理を巡るはてしない葛藤から救っています。
     つまりまあ、色々と書いてきましたが、主人公であるルフィがしばしば苦戦しながらも、かれにとっての「悪」を殴って倒して事態を解決するのが『ONE PIECE』という作品のシンプルで力強い「男の子の物語」の王道ともいうべき構造でした。
     ところが、『FILM RED』においてはルフィはウタを最後まで殴らない。これは、ほんとうに最後の最後まで「ウタの物語」と「ルフィの物語」が交錯しなかったことを意味しています。
     いや、このいい方は誤解を生むでしょう。ぼくがいいたいのは、「ウタの物語」は最後まで「ルフィの物語」に取り込まれなかった、ということなのです。
     それを「女の子の物語」が「男の子の物語」に取り込まれなかったといっても良いでしょう。画期的なことだと思います。少なくともぼくは過去、このような例を見たことがありません。
     もっとも、このように書くとすぐに反論が返って来そうです。そのことの良し悪しはともかく、いまではポリティカル・コレクトネス概念の普及によって、女性主人公の冒険物語はたくさん存在するようになりました。
     また、日本には「戦闘美少女」ものと呼ばれる一ジャンルもあり、必ずしも女の子の冒険物語が語られてこなかったわけではありません。その意味では、「男の子の物語」に拮抗する「女の子の物語」はいくらでもあるではないか、ということはできるでしょう。
     それは一面の真実です。ただ、それでも、男たちが「男の美学」にのっとって誇り高い戦いを繰りひろげるとき、女の子たちはどうしても蚊帳の外に置かれる傾向がある。
     これはそれこそ『ONE PIECE』において端的に表れている問題で、『ONE PIECE』はあくまでも何より「ルフィの物語」であるが故に、ルフィのまわりの女性陣はルフィに従属的なポジションしか与えられない印象がつよい。
     たとえばナミのように、あるいはニコ・ロビンのように、最終的には彼女たちは「ルフィに救出される立場」を選ぶのです。
     ぼくは必ずしも「ポリコレ」的に、それが悪いというつもりはありません。ただ、ともかく『ONE PIECE』はそういう物語であったという事実はある。そして、それに不満を持つ人たちも相当数いたはずです。
     そしてまた、『ONE PIECE』がおそらくは少年漫画史上最高最大ともいうべき怪物的大傑作であることは論を待たないものの、それでも、四半世紀になんなんとする連載を経て、その方法論は少し過去のものになっていたと思うのです。
     それをリファインし、アップデートしようとしたのが今回の『FILM RED』だったのではないかという見方はできます。
     もちろん、そうはいっても、膨大な蓄積の上に成り立つ『ONE PIECE』をいまさら刷新するのは容易なことではないはずですが、谷口悟朗監督は今回、完璧な仕事をしました。
     ここではウタという女の子と、その「女の子の物語」がルフィの「男の子の物語」と対立し、拮抗し、そして、ぼくの見方では「勝利」しています。
     いや、じっさいのところは、それはあまりに偏った見方に過ぎないかもしれません。物語のなかでウタの目論見は失敗しており、また最後には彼女は(おそらく)死んでしまいます。
     ルフィにも、シャンクスにもウタは救えなかった。『ONE PIECE』にはめずらしいビターでセンチメンタルな結末だと見る人が多いことでしょう。ですが、ぼくにいわせれば、ウタはまさに勝ったのです。
     少なくとも彼女はルフィの「男の子の物語」に負けることなく、自分の「女の子の物語」を貫徹している。これはほんとうに素晴らしいことだと思います。
     いったいいままで「男の子の物語」とその背景にある「男の美学」をまえに「敗北」した女の子を何人観てきたことか。その意味で、ウタはまさに「新時代」を予感させるキャラクターだといえます。
     それでは、いったい「男の美学」とは何か。これはまさに『ONE PIECE』のバックボーンとなっているある種のジェンダー規範です。
     いまの男女平等志向社会では「男の美学」などという言葉はあまりに古くさく、時代遅れの印象があるかもしれませんが、何より『ONE PIECE』が大ヒットしつづけているという事実は、この「美学」がいまなお魅力的であることを示しています。
     「男の美学」を格好良く描いた少年漫画には枚挙にいとまがない名作傑作があるのだけれど、『ONE PIECE』はその系譜の最高傑作のひとつといって良いでしょう。
     もちろん、「男らしさ」そのものは随分と前に変質しました。少年漫画だけを見ても、たとえば70年代の『男組』あたりではシリアスに描写されていた「男らしさ」は、80年代の『魁!!男塾』ではかなりパロディ的に扱われるようになっています。
     「男らしさ」は暑苦しく、むさくるしく、スマートではないものという意識が強くなっていったのでしょう。ですが、それでも「男の美学」そのものは形を変えて連綿と生き残っているのです。
     だからこそ、『FILM RED』におけるウタの「勝利」はあまりにも輝かしい。それでは、「男の美学」の物語のほうが「勝った」例を考えてみましょう。
     いくらでも例を挙げられるのですが、たとえば、『ファイブスター物語』第11巻収録のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語は、ぼくの考えではそれにあたります。
     あるいは、『ベルセルク』でのガッツとグリフィスの対立においても、「女の子」であるキャスカは第三者的なポジションしか与えられなかった。
     しかし、もっと印象的なのは、『FILM RED』と同じ谷口悟朗監督による、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の例です。この物語のなかで、ユーフェミア・リ・ブリタニアこと、ユフィは主人公ルルーシュに対し、ある合理的なアイディアを提案します。
     それはルルーシュの立場を理解した上でかれをも仲間に引き入れるという優れた発想であり、ルルーシュすらもそのことを認めるのですが、その後、あろうことかユフィはある「偶然の事故」によって死亡してしまうことになるのです。
     ぼくは、この展開に何らシナリオ的な必然性を見て取ることができません。これは、あきらかにユフィという存在が物語にとって邪魔でしかなかったことを意味しているのだと思っています。
     そう、ユフィがあまりに活躍しすぎてしまうと、まさにルルーシュの立場がなくなる。男性のスザクであれば、ルルーシュの「ライバル」であることができるけれど、「女の子」であり、根本的に土俵の異なる価値観を掲げるユフィは物語のなかに居場所がない。
     そのため、彼女は物語から「追放」されてしまったのです。
     こういった唐突ともいえる展開は、「男の子の物語」のドラマツルギーにおいては、そもそも「仲間」でも「ヒロイン」でもない女の子は居場所がない、つまり「男の子の物語」はそういう女の子を語る方法論を端的に持たないことを示しています。
     「男の子の物語」はあくまでも主人公の男の子のためにあり、そこでは女の子はどうしても従属的な位置づけになってしまうのです。これは、差別というよりも作劇的な必然と見るべきでしょう。だからこそ、『FILM RED』は画期なのです。 

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  • オタク文化はどこまで宗教に接近するか。

    2022-08-26 21:53  
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     ふと思い立って、マインドマップ作成ツールを使って、自分の関心領域を一覧的な図にしてみた。

     細かくて見えないだろうけれど、何十かの項目で図が成り立っている。もちろん、過去から現在にかけて興味を持ったことすべてを書き込めたわけではないけれど、いまリアルタイムで関心を抱いていることはおおむね書けたと思う。
     で、このマップのなかに「ニア宗教」という項目がある。これはぼくの造語で、「宗教に接近し、また代替する文化」くらいの意味である。
     具体的には、サブカルチャー、ホストクラブ、ブラック企業、インフルエンサー、自己啓発、ビジネス書、スピリチュアルなどが挙げられている。ぼくは現代においてこういったカルチャーが宗教に取って代わる存在になりつつあると考えているわけだ。
     いま、日本においてはもちろん、世界的に見ても、宗教人口は減りつつあるという。たしかに現在、旧統一教会を初めとしてカルトが問題視さ

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  • 10年に一度の一冊!『実存的貧困とはなにか』を読む。

    2022-08-22 22:23  
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     いま、原田和弘『実存的貧困とはなにか ポストモダン社会における「新しい貧困」』を読んでいます。
     これがぼく的に大ヒットで、めちゃくちゃ面白い。ぼくにとっては『嫌われる勇気』以来の「ディケイド本(10年に一度の一冊)」です。
     ただ、必ずしも難解な内容というわけではなく、論旨は明快できわめて読みやすいものの、大きなハードカバーに細かい字で700ページ以上あるという「箱本」で、おそらく100万字くらいの分量があるので、なかなか読み終わりません。
     そこで、今回は簡単な紹介に留め、読了ししだい、詳細かつ具体的な感想を述べたいと思います。
     この『実存的貧困とはなにか』の主題は、タイトルにある通り「実存的貧困」です。このばあいの「貧困」とは、社会福祉学の概念としてのそれで、本書は従来の「貧困」に関する理論を批判しながら、新たに「実存的貧困」概念を提唱しています。
     ぼくは社会福祉学にくわしい

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  • オタク日本昔話。庵野秀明は何に立ち向かって『エヴァ』を作ったのか?

    2022-08-19 21:10  
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     ども、きょうは何を書こうか、書くべきか、ちょっと迷ったのだけれど、「オタク」に関する昔話をしておこうと思います。
     ぼくは1978年生まれで、今年もう44歳になるのだけれど(しくしく)、オタクとしてはいわゆる「第二世代」と「第三世代」の間くらいになります。
     その上の「第一世代」は1950年代後半から60年代前半くらいの出生の人たちを指します。具体的にいうと山本弘さんが1956年生まれ、唐沢俊一さんと岡田斗司夫さんが1958年生まれ、庵野秀明さんが1960年生まれ。若い頃に『宇宙戦艦ヤマト』を見て育った世代ですね。
     ひと口に「オタク」といっても、ここら辺の人たちは現代の若い「ライトオタク」たちとはまったく異質な考え方をしているように見えます。
     どういうことかというと、この時代のオタクは(かれらが若い頃にはその言葉もまだ存在していなかったわけだけれど)、「いい歳の大人になっても子供向けのアニメを見たりしている変わり者」だったのです。
     現在ではアニメやマンガの市場はきわめて成熟かつ多様化し、大人がアニメを見ていても、そこまで変わったことではなくなりつつあるといって良いでしょう。
     劇場版の『鬼滅の刃』あたりに至っては、まったく興味がないという人のほうが変わり者扱いされるかもしれないくらい。しかし、まるで昔は違ったわけです。
     もちろん、当時にも相対的に大人向けの作品はいくらでもあったには違いありませんが、この手のサブカルチャーに対する蔑視は現在とは比較にならないほど強かったことでしょう。
     で、そういう状況にあっては、オタクは自分の趣味に対してどういう態度を取るか決定しなければならなかった。
     いまの若いアニメオタクはそのほとんどが「なぜアニメを見るのか」なんてろくろく考えたこともないに違いないけれど、当時は考えなければならない状況だったのですね。
     そこで、オタクたちは趣味についての態度を考え、「顕教」派と「密教」派に分かれたのです。
     何だそりゃと思われるかもしれませんが、「オタク顕教」と「オタク密教」とは、竹熊健太郎さんが『私とハルマゲドン』というオウム真理教とオタクの関連性を語った本のなかで紹介している概念です。
     前者は「あえて」「わざと」「ネタで」オタクであることを選んでいる態度で、それに対して後者は「本気で」「ベタに」オタクである姿勢を指します。
     つまり前者の人は「なぜいい歳をして子供向けのアニメを見るのか?」という問いに対し、「いやあ、子供向けの幼稚な内容であることはわかっているんだけれど、「わざと」そういう作品を選んで見ているんだよ」という風に答える人であり、後者の人はそう訊かれたら突然に早口でその作品の魅力を語りだすようなタイプの人であるといえるでしょう。
     竹熊さんはある種、オタク密教的なネタ宗教として見られていたオウム真理教がとんでもない大事件を起こした経緯を問題視するのだけれど、それはまあ今回の話の筋とは関係ないので措いておくとしましょう。
     で、これは他の本にまたがる内容になるのだけれど、かれは当時、『エヴァ』が話題になっていた庵野秀明を「顕教徒」の代表的存在とみなし、しかも庵野さんが所属していたGAINAXを基本的には「密教徒」の集団であると語っています。
     そして、そこからある衝撃的な結論を導き出すわけです。つまり、庵野秀明はGAINAXで「ネタではなくベタで子供向けアニメを好きな奴」としてバカにされていた、と。
     これはあくまで竹熊さんの主観的な観測にもとづく意見なので、ほんとうにそうだったかはわからない。じっさいのところは『アオイホノオ』とかもろもろ読んで推測するしかないところなのでしょうが、この見解は理解できると思う。
     何といってもGAINAXは岡田斗司夫さんが社長をやっていたような会社ですし。いまとなっては新たに読む者もほとんどいないであろう『オタク学入門』とか読むとはっきりわかるけれど、岡田さんの態度はあきらかに密教的なんですよね。
     というか、竹熊さんが「オタク密教」という概念を考えたとき、初めから岡田さんのことを想定していたのではないかと思う。
     そしてまた、当時のGAINAXは、その岡田さんのような人たちがたくさんいた会社だったと、で、庵野さんはそのなかで特殊な存在でバカにされていたんだったと、竹熊さんはそういうわけです。
     繰り返しますが、どこまでほんとうなのかはわかりません。ただ、色々と伝聞情報をつなぎ合わせると「そういうことがあってもおかしくないかなあ」とは思う。
     いまとなっては日本を代表する天才映画監督として世界的に知られる庵野さんだけれど、当時はまだ若かったし、たぶんいまよりもっととがっていただろうから、GAINAXでもかなり「変な奴」として見られていたとしてもおかしくない。
     何より、庵野さんはあきらかに「ベタに」「顕教的に」子供っぽいアニメ、あるいは「メカと美少女」といったオタク的な文化を好きなわけです。
     もちろん、「オタク密教」的な人も「メカと美少女」が好きな気持ちはあるんですよ。ただ、「密教徒」はその気持ちを封印し、メタ的な態度で作品に接する。それに対し、「顕教徒」はどこまでもベタに作品を愛しているのです。
     で、おそらく庵野さんはその「ベタに子供っぽい作品を好きな自分」をどう処理するか悩んだのだのでしょう。『エヴァ』という作品と、その頃の庵野さんのオタクに対する批判的な態度は、ここら辺の事情を頭に入れておかないと理解できません。
     庵野さんのオタクに対する批判は、まず何よりも自己批判であったと見るべきなのです。
     『エヴァ』直撃世代のぼくは、『エヴァ』そのものというよりも庵野さんの「顕教」的な生きかたにものすごく影響されています。
     決して道化の仮面をかぶってシニカルに他人を笑い飛ばし、自分を人よりひとつ上のレベルに置いて自己防衛したりすることなく、「趣味に対して徹底的に真剣であるべし」というぼくの信条は、庵野さんの影響を直接的に受けている。
     もちろん、庵野さんもまたその上の世代(「オタク第ゼロ世代」)の宮崎駿さんあたりと比べると色々屈折しているということは、それこそ竹熊さんがくわしく述べているとおりなのだけれど、それでも庵野さんは「いつまで経っても子供っぽい自分」に対して徹底して向き合ったのだと思っています。
     その結果、テレビシリーズ版の『エヴァ』はあのようなSF設定もマクロ状況もすべて放り出し「男子中学生の悩み」にフォーカスした内容となった。
     それは「密教徒」からすれば「失敗作」として笑い飛ばすべきことなのだけれど、『エヴァ』はあからさまにそれでは済まない作品だった。
     その結果、岡田さんは『エヴァ』や『エヴァ』ファンを笑い飛ばそうとして竹熊さんと喧嘩別れする事件を起こしたりするわけなのですが、GAINAXがその後どういう顛末をたどったかを思うと、非常に感慨深いものがあります。
     結局、GAINAXでいちばん大人になれたのは「子供っぽい自分」を直視する勇気を持っていた庵野さんであって、GAINAXに残った人たちはまったく大人になれなかった、あるいは「ダメな大人」になってしまったとも思えるからです。うーん、諸行無常。
     ただ、まあ、こういう話は、いまとなってはほんとにただのむかし話ですよね。いまの十代に「オタク密教」なんて概念を説明したところで絶対にわかってもらえないでしょう。昔は遠くなりにけり。
     そのことを踏まえた上でもうちょっと付け加えると、ぼくがつくづく面白いと思うのが山本弘さんという人で、山本さんの態度はひと口に「密教」とも「顕教」ともいいがたいものがある。
     まあ、あきらかにベタに作品を好きではあるから「顕教徒」には違いないのだろうけれど、山本さんはアニメやSF小説が子供っぽい「にもかかわらず」好きなのではなく、子供っぽい「からこそ」好きだと主張するわけです。
     この違い、わかりますかね。庵野さんはおそらく「いつまでも子供っぽいものを好きな自分」に悩んだのだと思うけれど、山本さんは悩まなかったでしょう。それどころか「子供っぽいものが好きな自分」を誇りに思っていたものと思われます。
     ただ、それ自体は全然良いものの、その誇り方がどうにも歪んでいるのですよね。
     たとえば小説『サーラの冒険』第一巻のあとがきで、山本さんは自分には音楽がわからないと述べた上で、このように書いています。 

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  • 人はどのようにして自分の詭弁を信じ込むのか。

    2022-08-15 23:45  
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     朝日新聞デジタルの「非暴力抵抗こそが侵略から国民を守る」という記事が話題になっている。
    https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022081000009.html
     タイトル通りの内容で、「非暴力抵抗」を奨めているのだけれど、そのことの是非はこの際、どうでもいい。「非暴力抵抗」で国家を守り抜けるなど、バカげていることは一部の夢想的平和論者以外にはだれにでもわかる。
     ぼくがこの記事を読んで興味深いと思ったのは、人はどのようにして自分の非論理的思考を正当化するのかということだ。この記事そのものはある種ばかばかしいが、なるほど、人間の思考はこうやって狂っていくのかとわかることの意味は大きい。
     前後編とも無料で読めるので、ぜひご一読をお奨めする。ある意味では、非常に面白い記事だといえるだろう。
     じっさい、「非暴力抵抗」という言葉に対して即

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  • 『リコリス・リコイル』はドストエフスキーの児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

    2022-08-11 12:52  
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     ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
     一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
     そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
     さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏なもの」を秘めた作品だということです。
     一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで

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