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記事 380件
  • シンジくん問題を考える。あなたはほんとうに本物の大人になれましたか?

    2019-07-16 00:38  
    50pt

    エヴァ、ゼロ年代あたりはシンジくんといったらいわゆる「ヘタレ主人公」筆頭のように言われがちだったけど、人権意識の向上した今のオタク界隈では「ネルフがマジでクソ」「シンジくんかわいそう」で満場一致してる雰囲気がある
    https://mobile.twitter.com/batapys1/status/1149831007719190528

     と、こういうツイートがあるのですが、ぼくはぼくなりにずっと「シンジくん問題」を考えています。
     どういういい方がいちばん正しく伝わるかわからないのですが――えーとですね、つまり、ここでひどいといわれているネルフにしても、かつてはシンジくんのような子供だったと思うんですよね。
     仮に、ゲンドウのような親を持ったシンジくんがまともな大人になれなくてもしかたないと考えるとしたら、ミサトだってかつてはそうだったのだろうし、ゲンドウもそうだったかもしれない。
  • この狂った世界をどう描くべきか?

    2019-07-13 10:10  
    50pt
     夏コミで同人誌『栗本薫カレイドスコープ』を出すべく、色々と準備を重ねています。
     この本はぼくの〈アズキアライアカデミア〉とは離れた個人同人誌の出版計画のいちばん最初のものになる予定なのですが、まあ、いい換えるなら「お試し」でもあります。
     これがちゃんと100冊なり150冊も売れるようであれば「次」も考えられるのですが、どうだろうなあ。まったく売れなかったら恐ろしいですね。十分にありえることですからね。ああ、いつものことながら同人誌は怖い。
     さて、今回はテーマが栗本薫ということで、ペトロニウスさんにも寄稿をお願いしました。叩き台の原稿を読ませていただいたのですが、これが面白い。
     やはり、ぼくとかペトロニウスさんの物語評価の根本は「そこ」にあるんだよなあ、とつくづく思います。
     何をいっているのかわからないでしょうからかるく説明すると、「そこ」とはつまり、「「世界」を描こうとすること」です。ぼくもペトロニウスさんも、「「世界」を描いた」物語が好きなんですね。これでもわからないか。
     ここでいう「世界」とは何か? それはつまり「ありのままの世界」のことです。このことについては、たびたび例に挙げて申し訳ありませんが、山本弘さんの『魔法少女まどか☆マギカ』の解釈が面白いので、引用させていただきます。

     スタッフのみなさん、ありがとう。 
     『魔法少女まどか☆マギカ』は本当に大傑作でした。
     DVD1~5巻、すでに予約済みです。
     震災の影響で完結が危ぶまれていた作品だが、むしろこんな時代だからこそ、この作品にこめられたテーマが胸を打つ。 
     「誰かを救いたい」 
     その願いや努力が報われない世界は間違っている。
    http://hirorin.otaden.jp/e173632.html

     なるほどなあ、『まどマギ』を見てこういう感想になるのか、といっそ感心してしまうのですが、この「間違っている」というところがポイントです。
     何を基準にして「世界」を「間違っている」というのか。それは、つまり、人間の価値、倫理、道徳、法律、感情、欲望、そういった「人間的なるもの(ヒューマニズム)」でしょう。
     本来、世界は人間の価値観とはまったく無関係に「在る」のであって、そこに「正しい」も「間違っている」もないはず。それにもかかわらず、それを「間違っている」といえるのは、人間の価値観を中心に世界を判断しているからに他なりません。
     「誰かを救いたい」という「願いや努力が報われない世界は間違っている」と山本さんはいいます。しかし、現実にはこの世界はそういう場所です。
     どんな真摯な願いや努力も報われる保証はまったくないのであって、むしろ真摯であればあるほどまったく報われないで終わることはめずらしくありません。
     つまり、山本さんはそういうこの世界の現実の形を、かれのヒューマニズムにもとづいて「間違っている」といっているわけですね。
     そして、前々回の記事で見たように、かれは物語においてはそういう「間違っている」世界ではなく、「正しい」世界を描くべきだ、と考えているのだと思われます。
     つまり、「ありのままの世界」ではなく、人間的な意味で「正しい」世界を描くことが物語だ、と考えているわけです。そういう意味で、山本さんが好み、また書こうとしている物語は「ファンタジー」である、といえるかと思います。
     これはこれで、わかる話ではあるんですけれど、栗本薫が描いた物語は、これとはまったく違う。まず、栗本薫の世界においては、ありとあらゆるヒューマニズムはまったく通用しません。
     そこでは、弱者は強者に利用され、搾取され、凌辱され、ときにはむさぼり食われすらするのであって、「正義」も「倫理」もまったく通用しないのです。
     つまり、栗本薫は「ありのままの世界」、山本さんが「間違っている」と告発するその意味での「世界」を描いている。その意味で、彼女の作品は「ファンタジー」ではなく「リアリズム」です。
     ここがわからないと、栗本薫の作品は読み解けない。栗本薫の世界はリアリズムであるが故に、人間的な倫理とか、善悪とか、価値とかがまったく通用しません。まさに山本さんがいう「「誰かを救いたい」 その願いや努力が報われない世界」なのです。
     したがって、作家は自分の正義を作品世界に投影するものだ、そうであるべきだ、という山本さん的な価値観では栗本薫の作品はまったく読み解けないことでしょう。
     面白いですね。大変面白いと思うのですが、いかがでしょうか。
     栗本薫が「世界」を描く作家だ、というのはそういうことです。栗本さんの物語は、何らかの「正義」や「正しさ」を伝えるためにあるわけではありません。
     そうではなく、ぼくたちが生きるこの世界の「ありのまま」の形をそのままに描きとることが目的とされているのです。
     山本さんがいうように、その世界は人間的な価値観から見れば、あまりといえばあまりに「間違っている」。しかし、栗本薫はその「狂った世界」をそのままで良しとします。
     そして、その「世界の法則(=「グランドルール」=「大宇宙の黄金律」)」を曲げることをこそ「間違っている」とみなすのです。
     こう考えてみると、栗本薫と山本弘がまったく正反対の価値観と作風のもち主であることがわかります。
     ここでは山本さんがいうようなヒューマニズムが一応は通用するところを仮に「社会」と呼ぶことにしましょう。そう定義すると、人間は「世界」のあまりの残酷さを恐れ、怯え、憎み、「世界」のなかに「社会」を作って自分たちを守ってきたといえると思います。
     しかし、人間がいくら社会を洗練されていっても、本来の「世界の法則」は変わらない。人間がどんなに「この世界は間違っている!」と叫んだところで、世界は小ゆるぎもしないのです。
     いい換えるなら、世界の在り方はつねに「正しい」。それがどんなに残酷で陰惨で理不尽であるとしても(人間の目から見てそう思えたとしても)、世界はいつもそのままで「正しい」。
     人間がたとえば人権は守られるべきだといっても天災が起これば人は死ぬし、こういうことは犯罪だから良くないといったところでその行為を実際に行う人間が絶えることはありません。
     栗本薫はその現実から目を逸らさない。そして、その、人間的な価値観からすれば「間違っている」、しかし現実にはどうしようもなく「正しい」世界のなかで、人々がどのように生き、そして死んでいくかを淡々と描きつづけるのです。
     それが栗本薫という作家です。山本さんのような価値観から見れば、その作風は邪悪とも醜悪とも映るでしょう。人間的な「正義」や「倫理」からかけ離れた描写が延々と続くわけですからね。
     しかし、ぼくは山本さんの現実をねじ曲げ、この世界の在り方を否定する「ファンタジー」よりも、栗本薫の「リアリズム」のほうが好きです。そちらのほうが前向きだと思うのです。
     まあ、ここで話したことも、山本さんのように「正義」や「倫理」の普遍性を信じる人にはどういったところで通用しない話ではあるのですけれどね。
     山本さんは「懐疑主義者」を自任していますが、ぼくから見ると「普遍的な倫理」の幻想を盲信しているように見えてしまいます。そして、それにもとづいてかれは人を裁く。それは「何者をも裁かない」栗本薫の作風と対極にあります。
     それもまた、わかる人にはわかる。わからない人には決してわからない話ではありますが……。
     なかなか良く書けたと思うので、前々回の記事とこの記事は、加筆修正の上、『栗本薫カレイドスコープ』に収録しようと思います。栗本薫作品未読者でもわかるように書くつもりなので、どうか、ぜひ、お買い求めください。
     貧しい海燕に愛の手を!
     よろしくお願いします。 
  • イベント参加者募集ちうです!

    2019-07-12 18:04  
    50pt
     来たる8月17日、〈第一回アズキアライアカデミア〉を開催します。
    https://eventon.jp/17700
     第一回と銘打ってはいますが、毎年開いているオフ会イベントです。今年は海燕、LD、ペトロニウスによる「講義」に加えて、二次会も開きます。ひょっとしたら三次会もあるかも。
     一次会が4000円、二次会も4000円と、一見、けっこうなお値段がするように見えるかと思いますが、ほとんどが場所代と食事代です。例によって赤字になることを避けた程度で、利益は最小限に留めています。
     非常に楽しい場になるかと思うので、ぜひぜひご参加くださいませ。現在、40人定員のところ、15人まで埋まっています。残り25人。たぶんこれも埋まるだろうと思うので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。
     今年はぼくもちゃんと資料を使ってスライドを作り、それなりに中身のある「講義」をするよ! 「少年の夢はいかにして血の色に染まるのか」という話になるかと思います。来てね!
     まあ、ぼく(たち)のオフ会の歴史も長くて、かれこれ十数年にわたって数十回続けているのだけれど、しだいに洗練されていっていまのスタイルになりました。
     結局、和室でごろごろしながらひたすらしゃべるのがいちばん楽しいという結論ですが、さすがにそれだけではアレなので、主催者によるトークを加えたわけです。その結果、11時間にわたって話し、また聴くというそれは楽しいイベントができあがりました。何て素晴らしい。
     よろしくお願いします。でわわ。 
  • 「戦争賛美」、「平和祈念」といったくくりこそくだらない。エンターテインメントは虚無に面する。

    2019-07-10 11:11  
    50pt

     渡レイによるマンガ『Fate/Grand Order-Epic of Remnant-亜種特異点3/亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負(1)』(長い!)を読み終えました。
     山田風太郎の小説『魔界転生』にオマージュをささげたとされる作品ですが、なかなか悪くない、十分に面白いと思います。
     ただ、この設定だと、ぼくは『魔界転生』のあの冷え冷えと凍てつくような凄愴さを思いだす。で、『魔界転生』って凄かったなあと、あらためて故人の天才を思うのです。
     以前から思っているのですが、『魔界転生』の何が凄いって、ひとつには、過去の講談や小説などに登場するヒーローたち七名を集めて柳生十兵衛と対決させるという、ようするに『Fate』シリーズを遥かに先取りした設定があるのですが、でも、ぼくは本質的には「そこではない」と思っています。
     いや、そこも大切なのだけれど、ほんとうに凄いのは、そうやって「人類最強決定バトルロイヤル」みたいな設定を作っておきながら、作者自身がそこに何の意味も見いだしていないところなのではないかと。
     『魔界転生』という小説は、まさに時代小説最強を決定する超絶バトルロイヤルを描きながら、どこかで作者自身は、「ばかだよね」、「くだらないよね」とその凄絶無比の魔戦を見下ろしているようなところがある。
     そもそも「最強」の称号に何の意味があるとも思っていないというか。そして、それでいて「最強決定戦」に挑む各キャラクターの執念の描写は凄まじい。
     何の意味もない、値打ちもないものに人生をも命をもつぎ込むその戦い――そこがほんとうに凄いですね。
     何をいっているのかわかってもらえるでしょうか? うーん、どう話すのがいちばん良いか。そうですね、ちょっとまえにTwitterで「『ヤマト』や『ガンダム』は戦争賛美か?」という論争がありました。
     このツイートから始まった話であるようです。

    「宇宙戦艦ヤマト」にしても「機動戦士ガンダム」にしても、どう言い繕おうが戦争賛美だと思うんですよ。
    まあ検閲すべきだとは思いませんけども、そこにある「カッコよさ」に無警戒なまま大人になってしまう人は少なくないので、ああいう作品を簡単に称賛することだけは、してはいけない。
    (・ω・)
    https://twitter.com/booskanoriri/status/1144820452088373248

     これに対して、さまざまな反論が寄せられたのですが、ぼくが見る限り、そのほとんどが「『ガンダム』は戦争賛美なんかじゃない!」というものでした。これがね、ぼくは心底なさけない、つまらない話だなあと思うのです。
     たしかに、『ヤマト』にしろ『ガンダム』にしろ、ただ戦争賛美「だけ」の物語ではないでしょう。そこには反戦的なテーマもあれば、また戦争の残酷さを描いた場面もあるでしょう。
     ただ、ぼくは『ガンダム』が「ほんとうは反戦的な作品だから」、この作品に価値があるとは思わない。そもそも戦争賛美だとか、反戦だとか、そういう「思想」の話は『ガンダム』の面白さを語るとき、わりとどうでもいいことだと思うのです。
     たとえ、『ガンダム』がどれほど「戦争の悲惨さ」を描いているとしても、その一方でアムロが格好良くザクを叩き斬るカタルシスがあることもたしかであり、そして『ガンダム』の本質はその「『ガンダム』かっこいい! アムロ、シャア、かっこいい!」ということのほうにある。
     戦争賛美だの、反戦思想だの、そんなものは「おまけ」でしかありません。
     べつだん、『ガンダム』に限らず、ほんとうに優れたエンターテインメントとはそういうものだと思うんですよ。それは何らかのお偉い「思想」を伝える、そのための「方法」じゃない、それじたいが「目的」なのであって、ただただ面白いとか、ただただ格好良いという以外、何の役にも立たないものなのです。
     したがって、そこには「虚無」がある。何の役にも立たない、何の目的もなく、何の意味もない。そういう性質のものだという現実がある。ほんとうに面白いエンターテインメントは必ずこの絶対的な無意味さ、「虚無」と直面する。ぼくはそう思っています。
     『ガンダム』が傑作なのは、間違えても反戦思想を伝える平和祈念アニメだからではありません。物語が面白いからです。そして、アムロやシャアがカッコいいからです! ただそれだけなのです。
     まあ、人によっては、「いや、実は『ガンダム』には面白いとかかっこいいとかそういう幼稚なことに留まらない、深遠な哲学があるのだ」というかもしれません。しかし、ぼくにいわせればその哲学こそくだらない。
     なぜなら、そこには、エンターテインメントを何らかの形で役立てよう、その価値を社会に還元しようという「欲」があるからです。それはエンターテインメントの純粋さを損なう「邪念」でしかありません。
     「ただ面白い」、「純粋に格好良い」、それだけで十分なのであって、それこそが本質であり、神髄なのです。『魔界転生』はまさにそういう「ただ面白い、それだけ」の物語でした。だからこそ、ぼくは神域の傑作だと思うわけです。
     きのう取り上げた山本弘さんの話を思いだしてみてください。山本さんは物語にかれが信じる「正義」を持ち込み干渉しました。つまり山本さんにとっては、その「正義」こそが至上の価値を持っているということなのでしょう。
     いい換えるなら、物語を「正義」を伝えるための「方法」として使っている。だから、山本さんの物語はたいして面白くならない。「虚無」と直面していないのです。
     わかってもらえるでしょうか? 先の『ヤマト』や『ガンダム』を巡る論争で、「『ガンダム』や『銀英伝』を読んで政治や戦争をわかったと思っている人たち」を批判的に語る意見をいくつか見かけました。たとえば、このような意見です。

    僕はガンダムに戦争賛美は感じないのですが、賛美ととらえてしまう人もいるだろうとは思う。
    昨今にわか軍オタがガンダムや銀英伝で覚えたような知識ひけらかすのを見ると、この手の戦争もの作品の功罪を考えざるを得ないよな……
    https://twitter.com/marukashi/status/1145190942598520832

     しかし、ぼくにいわせれば「知識」の習得に役立たないことは『ガンダム』や『銀英伝』の「罪」ではない。そもそもエンターテインメントは知識の習得のためにあるわけでも、道徳教育のためにあるわけでもないからです。
     いくら戦争や政治について最先端の正確な知識を盛り込んでいても、つまらないものはつまらない。その反対でも面白いものは面白い。そして、どんな「偉い」、「正しい」イデオロギーをテーマにしていても、ダメなものはダメなのです。
     つまり、つまらない平和祈念アニメより、面白い戦争賛美アニメのほうがエンターテインメントとしての価値は上だということ。
     それは平和祈念より戦争賛美のほうが正しいからではなく、そもそも「どんな思想が正しいか?」ということとエンターテインメントの魅力はべつの次元にあるからです。
     もっとも、この世で自分の信じる「思想」なり「正義」が最も大切なものだと信じてやまない人たちはいる。大勢いる。そういう人は本質的にエンターテインメントの消費者に向きません。
     だから、そういう人はエンターテインメントを語るときにも、必ず「政治」を持ち出す。現実社会をどう運営するかという「政治」がこの世でいちばん大切なことだと信じているからです。
     ぼくにいわせればそれは人間にとっての「普遍的な価値」を奉じる幻想にしか過ぎない。まさに、山本さんがそうであるように、ですね。
     そういう幻想を信じる人たちは、そもそもエンターテインメントなんて大して好きでもないのでしょう。現実が大好きで、「いかに現実社会の役に立つか」が最も大切なことだと自明視している。
     でも、ぼくの価値観は逆です。「役に立たないものほど面白い」。社会の実利に還元不可能であるものこそ価値がある。その意味で、一見すると政治や軍事にかぶれているように見える田中芳樹も「こちら側」の人だし、司馬遼太郎なども実は「こちら側」の人だと思うのです。
     かれらはたしかに虚無に直面している。だから、『銀英伝』の政治理念がどうとか、司馬史観がどうとか、どうでもいいじゃん!と思うわけ。それよりロイエンタールが、土方歳三が悲劇的にカッコ良く描かれているということのほうがよほど大切だとぼくは思う。
     それを幼稚だという人もいるでしょう。ですが、ぼくから見れば、「ただ面白いこと」、「ただ綺麗であること」以上の価値はありません。
     少なくとも、政治について正確な知識が得られるとか、子供たちを平和教育に洗脳できるなんてことがエンターテインメントの真の価値だとは思わないということです。
     その意味で、『ガンダム』や『銀英伝』はやっぱり傑作だし、上述の『Fate』はなかなかいい線を行っていると思います。
     とまあ、これに関連するような話を今度の夏のイベントでは話そうと思っているので、良ければご参加ください。近々、参加者を募集します。
     でわでわ。
     以上! 
  • 栗本薫作品の魅力とはつまりどこにあるのか?

    2019-07-08 11:08  
    50pt
     はいどーも、キズナアイ――じゃない、海燕です。先ほど、ペトロニウスさんと電話で話していたんですけれど、編集作業ちうの同人誌『栗本薫カレイドスコープ』の話題になりました。
     この本、ペトロニウスさんにもご寄稿いただく予定なのですが、「それでは、栗本作品の魅力とは何か?」と話しあったとき、ぼくは「作中人物に天罰を下したりしないこと」と答えました。
     いい換えるなら、「登場人物を善悪でジャッジしないこと」ということもできます。
     栗本薫は、作中で「悪人」を裁くということをしません。どのような残忍な所業の人間であっても、あるいは怪物、化け物の類であるとしても、自ら、生存競争の戦いに敗れ去らない限り、無理やりに物語から退場させられることはないのです。
     これがどういうことかわかるでしょうか? 栗本薫の世界に勧善懲悪は存在しないということです。そこにあるものは、完全なるリアリズムだけです。
     弱いものは敗れ、強いものが生き残る。そういう、どうしようもない過酷、苛烈な「パワーゲーム」を彼女は好んで描きます。暴力が渦巻く修羅の螺旋――その果てに、「それでもなお」、人間は愛と平等をつかみ取ることができるかということがテーマとなっているわけです。
     優しいといえば優しいし、きびしいといえば、この上なくきびしい。そのフェアな態度が最も象徴的に表れているのが、〈グイン・サーガ〉の一巻、『闇の中の怨霊』のいち場面です。
     この巻で、策士アリストートスは、何の罪もない無垢な少年リーロを無残にも殺害してしまいます。そして、あろうことか、天地に自分の無実を宣言します。それでは、その結果、何が起こったか? じつは、何も起こりはしないのです。

     天が裂け、地がまっぷたつに割れてかれのみにくいからだを飲み込むことも起こりはしなかった。
     また、うらみをのんだ小さな亡霊があらわれて、血だらけの指で誰かを指差してみせるようなことも。
     さんさんと陽光は床にふりそそぎ、アリの青ざめた醜い顔を照らしていたが――神々の怒りのいかづちがとどろいて世界を闇にとざすこともなく、また空にあらわれた炎の指が宿命の神宣を告げる文字を昏い空に描いてみせることもなかった。
     ただ、人々がしんとなって、この情景を見つめていただけのことであった。

     この後の巻でアリストートスは死ぬことになりますが、それは単にパワーゲームに敗れただけであって、作者が自ら裁いたわけではありません。
     これがつまり、「天罰を下さない」、「善悪でジャッジしない」ということです。どれほど残忍な悪行を為そうとも、それだからといって「悪」と認定されて物語から追放されることがないということ。
     したがって、栗本作品ではしばしば必然として強者が弱者を踏みにじり、食い物にすることになります。「それが現実だ」と彼女はみなすのです。そして、そのなかでいかに弱い人々が生き、死んでいくのかを描写する。そこがたまらなく好きですね。
     一方、非常に象徴的なことですが、たとえば山本弘さんなどは明確に「天罰」を下します。何しろ、本人がそう書いている。『神は沈黙せず』という小説のなかに、加古沢という「悪役」が登場するのですが、この人物を山本さんは物語の外の「作者の倫理」で裁き、殺しています。
     そのことを、かれはこのように語っています。

     僕は悪役としての加古沢に愛着を抱いていた。同時に、彼がのうのうと生き延びることは絶対許せなかった。現実世界では、悪が罰せられないことがあまりにも多い。しかし、せめて自分の創造した世界の中だけは、悪が滅び、主人公の苦闘が報われるものにしたかった。この世界ではどうだろうと、フィクションの世界では、神は正義を行なうべきであると。
    (『出エジプト記』において、神がエジプト王の心を操りながら、同時にエジプト人に罰を与えたことも、神とは作者のことだと考えれば矛盾はない。現代の小説においても、作者は悪を操りつつ、悪を許さないものである)
     もちろん、加古沢を滅ぼす自然な手段は他にもあった。たえば優歌に彼を殺させることもできた。しかし、それは正しくない、と僕は感じた。それではプロットとしては筋が通っていても、何かが決定的に間違っている。そこには「真の神」が介在する余地がない。
     だから、作家としてのタブーを破り、加古沢には自ら手を下すべきであると決心した。
    http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/kamiwaatogaki.htm

     これが山本弘なんだよなあ、と思います。山本さんは「フィクションの世界では、神は正義を行なうべきである」と本気で信じている。
     これは山本さんの信念なのでしょうが、ぼくから見ると、きわめてアンフェアな態度に思える。まあ、もちろん、山本さんの「正義」を評価する人もそれはそれでいるでしょうが、ぼくはいやですね。
     もっとも、「フィクションは正義や倫理を表すものであるべきだ」と信じている人は、ひとり山本弘だけではなく、大勢います。そういう人たちにとって、フィクションは自分の奉じる正義を表現するためのひとつの手段であるに過ぎないのかもしれません。
     これが、つまりぼくが栗本薫の作品を好きな理由であり、山本弘の作品を好んで読みながらも、ときにうんざりしてしまう理由でもあります。
     山本さんには「正義が正義である世界」という短編もあるのですが、この世界を「正義が通用しない、理不尽で狂ったところ」とみなすまでは、栗本薫も山本弘も同じだと思うのです。
     ただ、栗本さんがこの残酷な世界、狂った世界をそれでもあくまでも肯定していこうとするのに対し、山本さんは「そんなことは間違えている!」と否定する。そして、それが正しい立場だと信じている。そこに差がありますね。
     この点、皆さまはどのようにお考えでしょうか? 『栗本薫カレイドスコープ』、よろしくお願いします。 
  • 夏コミで本を出すよ! 買ってね!

    2019-06-27 05:50  
    50pt
     どもです。おひさしぶりです。しばらくブログも更新しないで何をしていたのかというと、ひたすら自分とサークルの同人誌の作業をやっていました。この一週間で本一冊分の原稿を書いたと思います(笑)。
     自分のほうの同人誌のタイトルは「栗本薫カレイドスコープ」になる予定です。これがね、自分で読む限りではめちゃくちゃ面白い。でも、はたして人が読んで面白いのかどうかは何ともいえない。
     普段のブログと比べて相当に気合いの入った(いい換えるなら堅苦しい)文章になっておりますので、栗本薫に興味のある方も、ない方も、ぜひご購入いただければと思います。面白いよ! と思うよ。ぼくはね……。
     まあ、この本の目標は第一に栗本薫作品の文学的価値を再評価することなのですが、第二は本単体として面白く読めるものにすることだったりします。で、その目標はたぶん達成できたんじゃないかと思うんですね。
     およそ120くらいのキーワ
  • 夏コミで『栗本薫ハンドブック』を出す(つもりで頑張る予定だ)よ!

    2019-06-16 23:27  
    50pt
     先ほど、夏コミで何か気楽な薄い本を出したいなー、でもエッチなマンガとか描ける才能はないしどうしよう、ということでLINEに巣くっている妖怪のてれびんに話しかけてみたところ、「栗本薫のハンドブックとか作ったらいいんじゃね?」といわれたので、「それは奥の手じゃろ」と思いつつ、ちょっと作ってみることにしようかと思いました。
     もちろん、ほんとの本気で究極の一冊を作ろうと思うと、たぶんとてもではないが夏コミには間に合わないと思うので、まあ、今回は「初心者向けの入門編」という位置づけの本を制作しようかと。
     つまり、栗本作品を一冊も読んでいないけれど興味はある、というような方に向けた内容です。ネタバレありきの分厚い批評本はいずれペトロニウスさんといっしょに作ったりするんじゃないでしょうか。たぶんね。
     まあ、そういうわけで、仮題『栗本薫ハンドブック(入門編)』を夏コミで売りたいなあと考えています。
  • 「海燕の実験小説講義」とか、聴きたい人います?

    2019-06-16 14:37  
    50pt
     まだ未決定&未発表ですが、今年の夏もペトロニウスさん、LDさんといっしょに〈アズキアライアカデミア〉のオフ会を開こうかと考えています。
     で、過去二回と同じく何か講演を行うことになると思うのですが、毎回、内容でLDさんに負けるのもくやしいので、今回はちょっと力を入れてやろうかと思っています。
     で、テーマは何にしたものかと思案したのですが、ぼくが好きな実験文学の話をしようかなと考えました。ほんとうはオタク系統の話をしたほうが良いのかもしれませんが、それはまあ、LDさんがやるだろうから、ぼくは「この世にはこんな奇妙な小説があるんだよ!」という話をしようかなと。
     ただ、あまり需要がないようだったらべつの話にしたほうが良いかもしれないとも思っています。どうでしょう? 以下のような小説について知りたいという方はいらっしゃるでしょうか?

    ・泡坂妻夫『生者と死者』(袋とじを開けるか閉じるかで内容が変わる)
    ・竹本健司『匣の中の失楽』(連続する作中作)
    ・黒田夏子『abさんご』(固有名詞のない小説)
    ・円上塔『文字禍』(るびの冒険)
    ・古川日出男『アラビアの夜の種族』(架空の物語が現実を侵犯する)
    ・ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(事典の形をした小説)
    ・スタニスワフ・レム『完全な真空』(架空の作品の書評集)
    ・イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(55の架空都市)
    ・レイモン・クノー『文体実験』(99通りの文体)
    ・レイナルド・アレナス『めくるめく世界』(一人称、二人称、三人称が混在)
    ・レオ・レオーニ『平行植物』(平行世界の植物図鑑)
    ・ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』(999行の詩とその注釈)
    ・ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(子供のための実験文学)
    ・ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(遊びとしての小説)
    ・ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(文体実験の極北)
    ・ニコルソン・ベイカー『中二階』(ひきのばされる時間)
    ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』(もし作家が発狂したら?)
    ・ルネ・ドーマル『類推の山』(架空の山を目指す)
    ・ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』(崩壊する文体)
    ・アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』(さまざまな時間の流れ方)

     まあ、このすべてを紹介するのは時間的に無理でしょうけれど、だいたいこんな作品について話をしようかと思っているということです。
     たぶん、「袋とじを開けるか閉じるかで内容が変わる」とかいってもわけがわからないと思うんですけれど(笑)、ほんとうにそうとしかいえないんですよ。
     これはちょっと小説の形をしたびっくり箱というか、良くもまあこんな小説を考えてなおかつ実践したなあと驚かされる、翻訳不可能、日本人しか楽しめない一冊です。
     同じシリーズに『しあわせの書』というのもあって、こちらもとんでもない仕掛けがほどこされた作品なのですが、ネタバレが絡むので話ができません。
     あとまあ、『ハザール事典』とか、架空の民族、国家に関する事典なんですよね。何しろ事典なのでどこから読むのも自由という、もはや小説なのか何なのかよくわからない本です。
     「実験小説の帝王」カルヴィーノの本のなかからはいちばん好きな『見えない都市』を選びました。ひたすら架空の幻想的な都市が叙述されるという、物語も何もない小説です。
     物語も何もないのですが、そこら辺の凡庸な物語と比べたら遥かに美しい。ぼくにとって理想の小説のひとつですね。素晴らしすぎ。
     あと、ナボコフの『淡い焔』。これは最近出た新訳のほうですね。999行に及ぶ架空の詩人の詩と、その注釈という形式の作品です。実験にもほどがあるだろうって感じですね。普通の意味では小説とはいえないと思います。
     それからまあ、お約束の『フィネガンズ・ウェイク』とか。文体が完全に崩壊しているというか、言語を解体してしまった作品です。書くほうも書くほうですが、良くもまあ訳したものだと思います。いや、意味はわからないんですけれどね。
     ことほどさように文学とは「何でもあり」、自由な精神の発露に他ならないのです。ぼくはとても面白いと思うのだけれど、オタク文化とは限りなく乖離しているので、はたして聞きたいという需要があるものなのかどうかさっぱりわかりません。
     うーん。どうしよ。しばらく悩みたいと思います。 
  • もしサノスの主張が「正義」なら、そのとき、アベンジャーズはどうしたのか?

    2019-06-14 15:57  
    50pt
     先日、見に行った映画『プロメア』のことを考えています。この映画、『天元突破グレンラガン』のスタッフによって制作されているのですが、ある意味、『グレンラガン』から「一歩も先に進んでいない」といえるところがあって、そこら辺が賛否両論を生んでいるようです。
     具体的にどういうことかというと、この作品の悪役(ヴィラン)であり、「ラスボス」であるところのクレイ・フォーサイトの主張(「悪の理論」)に対し、主人公たちの主張(「正義の理論」)が弱いのではないか、という話があるのですね。
     作中、クレイは滅亡に瀕した人類を救うためという理由で自分が選んだわずかな人たちとともに地球を脱出しようとするのですが、そのために新人類バーニッシュを犠牲にします。これは、ある意味でわかりやすい「悪」ではあるといえるでしょう。
     ですが、もしもクレイがほんとうに正義からこのやり方を選んでいたとしたら? そして、また、このクレイのやり方以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、主人公たちはクレイを純粋な「悪」として告発することができるでしょうか?
     実際には、クレイには私心から行動しているという瑕疵があり、また人類が滅亡に瀕しているという問題には未発見の解決策がある。だから、クレイを「悪」として告発することには意味がある。
     しかし、もしクレイにそのようなエゴがなく、また、解決策が存在しなかったらどうでしょうか? そのとき、クレイを告発する理由は存在しなくなってしまうでしょう。これがつまり、『物語の物語』のなかでぼくたちが延々と話している「天使」の問題です。
     「天使」とはつまり、「倫理的に隙のない絶対善としてのラスボス」のことなのです。
     倫理的に隙のないラスボスを正義の名のもとに告発することはできません。クレイのように私心(エゴイズム)から行動していたり、あるいは人類と世界を救う方法が他になる場合は、ある意味で主人公にとって都合が良いといえるでしょう。
     そのときは彼の「悪の理論」を高らかに論破し、「おまえのいうことは間違えている!」と叫んで殴り飛ばしてしまえばいい。それで主人公は正義のヒーローとしての立場を守ることができます。
     問題なのは、ラスボスが語る悪の行動を正当化する理論がほんとうに正当だった場合です。たとえば、ほんとうにバーニッシュを利用すること以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、ヒーローは倫理的な窮地に追い込まれることになるでしょう。
     いくら「おまえは間違えている!」と叫んでみても、説得力がないことはなはだしい。あるいは「正義」はほんとうに相手にあるかもしれないのですから。
     実は同じことが『アベンジャーズ/エンドゲーム』に対してもいえます。『エンドゲーム』のラスボスであるサノスは、宇宙の人口問題を解決するため、宇宙全体の人口を半分にしてしまうという目的を持って行動しています。
     その際にアベンジャーズと対立するわけですが、はたしてかれの行動はほんとうに間違えているといえるのでしょうか? 作中では、その問題はあいまいに処理されてしまった感があります。
     もちろん、作中ではサノスの主張の根拠はあいまいで、また、サノスはエゴを払拭しきれていない。そして、最後の最後では「わかりやすい悪役」に堕ちてしまう。
     つまり、サノスは「天使=倫理的に隙のないラスボス」ではなく「ヴィラン=倫理的に隙のあるラスボス」であるに過ぎなかったことになる。だからこそ、キャプテン・アメリカやアイアンマンの「正義」は相対的に保証されることにもなる。
     ですが、もしサノスに一切のエゴイズムがなく、またサノスの計画以外に問題を解決する方策がないとしたら? そのとき、やはり「天使」の問題が浮上することになってしまうでしょう。つまり、アベンジャーズはサノスに対する相対的な正義を主張することができなくなってしまうわけです。
     『エンドゲーム』は『プロメア』と同じく、サノスを「ヴィラン」の次元に留めることによって、この問題をごまかし、回避したように思えます。
     ですが、べつだん、それによってサノスの掲げた問題が解決したわけではありません。もしかしたら、サノスによって救われた人もいたかもしれないし、サノスのやり方のほうが正しかったかもしれないのです。ぼくはやはりそこに物足りなさを感じてしまう。
     ただ、『エンドゲーム』の圧倒的な好評を見る限り、そのような問題について真剣に考える人は少ないのかもしれません。そこにどのようなごまかしがあるとしても、大半の人は「天使」以前の物語、主観的な「正義」が主観的な「悪」を暴力で倒しておしまいという物語で満足なのかも。
     しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? そういう意味では、これから先の『アベンジャーズ』と、ハリウッド映画の展開が楽しみです。はたしてハリウッドに「天使」は降臨するのか? 皆さんもお楽しみになさってください。
     では。 
  • 安全保障のジレンマ。なぜ、外交だけで平和を維持することはできないのか?

    2019-06-08 04:16  
    50pt
     この頃、「無能な味方」問題について考えています。何かしら集団で運動しようとするとき、問題のある言動や行動を行う「無能な味方」にどう対処するかということです。
     個人的には、この「無能な味方」に対し、「そうはいっても味方だから」と甘い顔をすると運動は腐敗すると思う。
     フェミニズムがその典型ですよね。あからさまに問題があるツイフェミを放置したことによって、運動そのものが大きな反感を買うことになった。
     「敵か味方か」という党派性でしか物事の是非を判断できない人にとっては「問題行動を起こしていても味方は味方、その味方を批判する者は敵」ということになるのだろうけれど、「無能な味方」をかばいつづければその運動に自浄能力がないとみなされることは当然です。
     逆に「敵」に対するフェアネスも必要になると思っていて、たとえば安倍政権を打倒しようと思うなら、だれよりも安倍首相その人に対してフェアでなければならないのです。
     これはもちろん、甘い態度を取ることとは違う。批判するならするで、論理的に不正な批判は行わないということ。
     安倍政権だろうがトランプ政権だろうが、あいつは邪悪な「敵」だから手段を択ばず攻撃してやる、というのでは、しょせん多数派の支持は得られません。
     F35の問題などもそうですが、だれかを批判する目的で客観的なファクトをねじ曲げ始めるとその思想や運動はどこまでも堕落する。
     「安倍がギャンブル運営で年金15兆円を溶かした」などと非常に週刊誌的で煽情的な表現を使って安倍批判をあおる人もいますが、これはまったく事実と異なるし、そういうことをいっている人はどこまでも内輪の支持で終わります。
     そういう意味では、世の中、意外とまともなものなんですよね。このままではTwitterで感情的に吹き上がって「安倍政権を打倒できないのは日本人がバカだからだ」などといっている人たちはいつまで経っても政権を打倒できないでしょう。
     本気で批判するつもりなら、どこまでもフェアに批判しなければならないし、また、その余地は十分にあるのに、現実を見ず、脊髄反射的に情緒を爆発させる人たちは非常に残念です。
     政治は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』にあったように、「理想の火を掲げて現実の道を行く」ものでなければならないと思います。
     理想主義はけっこうですが、現実を無視することは許されない。逆にリアリズムの名のもと、理想を無視し始めても退廃する。そこら辺のバランスはむずかしいなあと思います。
     たとえば、日本は軍事力を使わず外交で平和を勝ち取るべきだ、という人たちがいます。ぼくももちろん、それができれば最善だと思います。
     しかし、リアリズムの観点に立つと外交努力だけで平和を維持することは、不可能ではないにしろ、限りなくむずかしい。「話せばわかる」というわけにはいかないのです。
     ローマの軍事理論家であるヴェゲティウスの「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」という言葉がいまに伝わっていますが、現実にはバランス・オブ・パワーが崩れるとき、平和もまた崩壊する場合が多い。平和のためにこそ軍事力が必要とされる一面があるわけです。
     ただ、それならどんどん防衛予算を増やしていけばそれだけで平和が維持できるかというと、当然、そういうわけにもいかない。防衛のための戦力は侵略にも使えるわけで、あまり軍事力を増強させつづけると周辺諸国の不信感をおあることになります。
     現代日本に周辺諸国への侵略の意図はないとは思いますが、諸外国から見てどう見えるかということはまたべつで、安全保障を求めて軍事力を増せばますほど、緊張は高まっていくかもしれないわけです。
     安全を求めれば求めるほど平和が遠ざかっていくという矛盾。この問題は平和学や政治学の世界では「安全保障のジレンマ」と呼ばれています。
     具体的な例としては、よく第一次世界大戦が挙げられるようです。第一次世界大戦は、当時、関係国のどこひとつとして戦争を望んでいなかったにもかかわらず、相互の不信が不信を呼んだ挙句、一本のマッチが大爆発をひき起こして開戦につながってしまった戦争だと見られているからです。
     このように、べつだん、国家やその指導者が血に飢えた狼ではないとしても、戦争は起こってしまうことがある。
     人類が戦争を克服できないのは、アニメでよくいわれるように人間がどうしようもなく愚かな生きものだからではなく、国どうしが互いに互いを信用できないからなんですね。
     ちなみに、この相互不信の問題は個人と個人のあいだにもあります。だから、国家が個々人の上に立って安全を保障する必要がある。そうでなければ、ホッブズが描いたように「万人の万人のための闘争」が起こるでしょう。
     しかし、現状で国家より上に立つ機関は存在しませんから、いまのところは国際平和はバランス・オブ・パワーに頼るしかない。SFでよくある「地球連邦」などが成立したらまたべつかもしれませんが……。
     ただ、それなら、このジレンマの克服は不可能なのかといえば、完全な克服はおそらくむずかしいものの、理論的には一定の緩和は可能だと考えられていますし、実際に緩和されているように見える例も存在します。
     互いに一切の軍備を放棄して完全な平和を実現することは困難だとしても、隣国間の緊張関係を解くことはできるということです。
     たとえば、ヨーロッパ諸国どうしとか、アメリカとカナダとか、あるいは日米は現状で互いに戦争を想定しなければならないような緊張関係にはありませんよね?
     同じ隣国どうしであっても、韓国と北朝鮮とか、インドとパキスタンといった例とはまったく違う。これはどこが違うかというと、互いに「まさか戦争を起こしたりしないだろう」と相手を信じることができるということ、つまり相互に信頼が存在している点が異なっているわけです。
     安全保障のジレンマとは相手を信じられないから軍備を強化するしかないという問題ですから、理屈のうえでは信頼関係を醸成すれば克服できる。
     そのためにこそソフトパワー(文化や政策の力)は必要になる。ただ、それだけではなかなか平和構築はむずかしいということも理解していてしかるべきだと思うし、じっさいに大半の人は理解していると思うのです。
     Twitterを見ると「軍事力なんていらない」みたいな極論をいう人も多いんですけれどね。それは声が大きい人が目立つだけだと思っています。
     声の大きい人たちはよく極論で対立をあおるけれど、そういう、エクスクラメーションマークを付けないと話ができないような人たちこそが戦争をひき起こすとぼくは思っています。
     自分の思いこみにもとづいて好き勝手に他者にレッテルを貼り、情緒的な正義感を暴走させ、敵か味方かといった対立構造でしかものを見ない。そういう人たちは、自分では平和を求めていると主張しますが、あきらかに好戦的です。
     ほんとうに平和を求めるなら感情的になってはいけないのです。「不正に対する正義の怒り」はたとえばフランス革命の原動力になったかもしれませんが、その革命で200万人が死亡しました。
     「もっと怒れ」などと感情をあおる人には注意が必要です。「正義の怒り」はたしかに人を行動的にさせるかもしれませんが、一方で盲目にしてしまうこともたしかです。
     先ほどの「戦闘機の爆買い」や「年金財政崩壊」に憤激する人たちもそうですが、自分では社会正義のために怒っているつもりで、いつのまにか視野が狭くなっていることは往々にしてある。
     社会の維持のために正義は必要ですが、感情的に暴走しさえすればうまくいくというほど世界は甘くないのです。
     あるいはなぜ感情的になってはいけないのか、と思われるかもしれません。正義のため怒りをたぎらせ、それを行動につなげることが「世直し」のためには必要なのではないか、と。
     それは一面の事実ではあるかもしれませんが、人間は感情に行動を任せるとしばしば判断を誤るものです。
     そもそも普段でも人間の行動には感情にもとづいたバイアスがかかっていて、純粋に論理的に動いているわけではない。これは社会心理学や行動経済学の世界では広く知られた事実です。
     たとえば、一般に人間は「名前と顔のある個人」については強い関心を抱きますが、「無数の名もなき人々」に対しては冷淡です。
     具体的にかわいそうな個人がいればその人のために感情を昂らせるけれど、それが十人、百人、十万人となると、とたんに冷たい態度しか取れなくなったりするのです。
     これは実験によってあきらかになっているファクトであり、かのスターリンはこのことを「ひとりの死は悲劇だ。しかし、百万人の死は統計に過ぎない」と的確、かつ冷酷に表現しました。
     じっさい、そうだろうと思います。理屈で考えるなら百万人の死はひとりの死の百万倍の悲劇であるわけですが、ぼくたちはなかなかそういうふうには認識できない。
     理屈ではそういうことだとわかっていても、たとえば遠いアフリカの紛争や虐殺事件に深い関心を抱くことはなかなか困難です。
     その一方で可愛い犬がみぞにはまって動けなくなったといったニュースには強い興味を抱いたりする。人間はそういう感情の生きものなのです。
     ですが、まさにそうであるからこそ、感情に支配されるのではなく、感情を支配しようと努力するべきなのではないでしょうか。
     ポール・ブルームの『反共感論』という本があるのですが、「共感」という感情にもとづく行動は、べつの見方をするなら差別的です。そのような感情に支配されることは危険だ。
     「心からかわいそうだと思える人たち」のためには動けても、「とても同情には値しないとしか思えない人たち」のためには動けないことになる。
     だからこそ、ぼくはあくまで理性にもとづいて行動するべきだと思うのです。少なくとも、そのようにあろうとするべきかと。
     「特定の個人やある集団に寄り添わない」理性による判断は、あるいは冷たいものと見えるかもしれません。
     しかし、「弱者に優しい」共感の政治がしょせんは「かわいそうに思える人たち」をひいきする差別的な行動でしかありえないのに対し、理性による判断は可能な限りフェアであろうとします。
     ぼくはそのほうがまともだと思う。だれよりも感情的な人間であるからこそ、そう考えるのです。
     おわり。