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タグ “ハチミツとクローバー” を含む記事 4件

ああ神さま、なぜひとは「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのでしょうか?(2184文字)

 羽海野チカ『ハチミツとクローバー』は、いうまでもなくゼロ年代の少女漫画を代表するラブコメディの傑作だ。その終盤で、明るく、快活で、つねにひとから愛される弟に劣等感を抱いている兄の話がある。  かれはかれで優秀な頭脳の持ち主なのだが、究極的なところで自分を肯定しきる「根拠のない自信」を持っていないのだ。だから、かれはいつも不安に駆られている。それは自分の存在そのものへの懐疑と一体になった不安だ。  なぜ生まれてきたのか? ほんとうに自分が生きていていいのか? 自分になど何の価値もないのではないか? そういう、答えなどあるはずもない問いで自分を雁字搦めにするしかないタイプの人間だといってもいいだろう。こういう人々のことをぼくは「闇属性」と呼んでいる。  一方でかれの弟のように、自分の存在理由に一切の不安を持たないひとも、少数ではあるが、いる。そういうひとのことをぼくは「光属性」と呼ぶ。  闇属性と光属性の差は、色々なところで大きく表れてくる。生まれつき不安を抱いていないようにすら見える光属性の人々は、時として、闇属性のひとの羨望と嫉妬を集める。『ハチクロ』の作中でもそのようすは描かれている。 「忍… 忍…オレはずっと不思議だった どうしてこの世は「持つ者」と 「持たざる者」に分かれるのか どうして「愛される者」と 「愛されない者」が在るのか 誰がそれを分けたのか どこが分かれ道だったのか ――そもそも 分かれ道などあったのか? 生まれた時にはもうすべて決まっていたのではないか? ならば ああ 神さま オレのこの人生は 何の為にあったのですか」。  人生が何のためにあるのか、とそう悩み、嘆くことじたい、闇属性の特徴である。光属性のひとはそんなこと端から考えもしない。かれらはただ純粋に生きることを楽しむだけなのだ。  思う。それでは、闇属性の人間は、ひとたび光の道を見失ってしまった者は、どうあがいても光属性のひとには勝てないのだろうか。あるいはかれからすべてを奪ったところで、しょせん「根源的な自信」の差は埋めようもないものなのだろうか。  

ああ神さま、なぜひとは「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのでしょうか?(2184文字)

萌え版『ハチミツとクローバー』を見たい! 「男女複数非対称形萌えラブコメ」は可能か。(1721文字)

 今日、6本目の記事です。このあとも2本書く予定です。合計8本ですね。メールで読まれている方は、お前は1日にどれだけメールを送りつければ気が済むんだ、よっぽど暇なのか、と思われるかもしれませんが、よっぽど暇なのです。  読むことと書くことくらいしかやることがないマイライフ。読んでは書き、読んでは書きで、ぼくの一生は終わるでしょう。いい人生です。ベリベリキュートな彼女を作って楽しく暮らす人生は来世に持ち越すことにします。  さて、本題。今回は宮原るり『恋愛ラボ』の話。この作品のアニメ化が決まってしばらく経ちますが、原作でもさっそくアニメネタが取り込まれています。はたしてアニメがどんな出来になるのか、いまの時点ではまったくわかりませんが、期待して待ちたいと思います。最近のアニメは原作を壊さない傾向が強いからそんなに不安はない。  この『恋愛ラボ』のアニメ化が、萌え業界にとってひとつの試金石となるであろうことは以前書きました。というのも、『恋愛ラボ』はひとりの男性主人公を複数のヒロインが取り巻くというハーレム系式ではなく、主人公が複数のヒロインのなかからひとりを選ぶという一対多のラブコメ形式でもなく、複数女子×複数男子によるラブコメだからです。  これはいままでの萌え文化にはあまりなかったパターンで、はたしてこのパターンが受け入れられて人気が出るのかどうか、それともやはり「おれの好きな女の子がおれ以外の男とくっつくなんて許せない!」という拒絶反応が出るのか、注目したいところです。  もし、これが受け入れられるようなら、萌えカルチャーは新しいステージに入ることになるかもしれません。いままでは「女の子だけ」が主流だった仲良し空間ものに男が混じってくるきっかけになったりするかも。  で、ようやくこの記事のタイトルに繋がるわけですが、仮に『恋愛ラボ』が受け入れられたとしたら、その先に「男女複数非対称形萌えラブコメ」が生まれることがあるのかな、と。  『恋愛ラボ』はぼくの定義によると「男女複数対称形萌えラブコメ」であるわけです。どういうことかと、『恋愛ラボ』では恋人同士になる女子と男子があらかじめ「組」として設定されているんですね。  最終的にはこの女の子とこの男の子がくっつくんだろうな、ということが見ていてはっきりわかる。「ひとりの男の子をふたりの女の子が好きになってしまって――」みたいな恋愛関係の葛藤というものはないわけです。  だから、そういう葛藤が複雑に絡みあう萌え漫画とかライトノベルというものはできないものかな、と思うのです。つまりは萌え版『ハチミツとクローバー』。  

萌え版『ハチミツとクローバー』を見たい! 「男女複数非対称形萌えラブコメ」は可能か。(1721文字)

『ハチミツとクローバー』で考える才能論。(2052文字)

 才能という言葉にはふしぎな魅力がある。多くのひとがその言葉に惹きつけられ、多かれ少なかれ気にして生きている。  しかし、よく考えてみればこれほど正体不明の言葉もない。いったい才能とは何だろう? 何ができれば才能があることになるのだろうか?  ぼくの考えをいわせてもらえば、才能とは結果によって判断されるものである。だれかが結果として成功すれば、そのひとは才能があったといわれる。失敗すれば、才能がなかったと見なされる。それだけのものだ。  もちろん、成功失敗には努力や時間も大いに関係しているはずだが、大抵の場合、それは無視される。ひとはこう思うものなのだ。たしかに努力の問題はあるだろう。しかし、努力だけでそこまでひとと差がつくものだろうか? 才能の差があると考えなければ説明がつかない、と。  つまり、才能とは結果の巨大な格差を説明するためのマジックワードであり、ほとんど実体がない空虚な概念であるともいえる。  たしかに生まれつきの能力の差、といったものはあるだろう。それは努力の質や量だけでは説明し切れないものかもしれない。しかし、すべてを才能という言葉で説明してしまうことはいかにも安易だ。  他人の成功を「あのひとには才能があったのだ」というひと言で切り捨てられるひとには、たしかに才能がないのだと思う。  もしあなたが自分に才能があるかどうか気にしているようなら、その時点であなたにはほんとうに才能がない、といういい方もできる。才能があるひとなら、自分に才能があるかどうかなどと悩むこともせずにその行為に夢中になっているはずだから、という理屈だ。  自分には才能がないのではないかと悩む時点で大した才能はないのだ。天才は才能の有無に懊悩するより前にその物事を楽しみ抜く。  羽海野チカの『ハチミツとクローバー』に森田馨と忍という兄弟が登場する。心に暗いものを抱えた秀才である馨に対し、弟の忍は天才肌の人物で、一切ダークサイドを持っていないように見える。  

『ハチミツとクローバー』で考える才能論。(2052文字)
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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