• このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ “★★★★★” を含む記事 27件

『ズートピア』は美しくもきびしい理想主義を謳いあげるディズニーの傑作映画である。

(メキシコ移民について)  メキシコは、ベストではない人々、問題があり、麻薬や犯罪を持ち込む人々を送り込んでくる。彼らは強姦魔だ、中には善良な人もいるかもしれないが。 「ドナルド・トランプの発言・暴言・名言まとめ:米大統領選2016」  物語の話をしよう。力強い物語の話を。  いまこそ、その需要がある。世界を憎悪が覆い、都市を反目が支配するとき、そのときまさに物語の力が必要になるのだ。  想像力を巡らせよう。気高い理想を語り、怒りと差別心を封じ込めよう。  ぼくたちにはそれができるはずだ。なぜなら、ぼくたちは偉大な夢を見るよう生まれついているのだから。  ディズニーの新作映画『ズートピア』はある崇高な理想の物語、そして、ときにその理想が挫折し、打ち砕かれる現実についての寓話だ。  主人公は新米警官のジュディ。ある田舎町に生まれた彼女は、保守的な両親の反対を振り切って警察学校を首席で卒業し、ウサギ初めての警官として動物たちの理想都市ズートピアに着任する。  しかし、あこがれのズートピアでジュディを待っていたもの、それはウサギでしかも女性の警官などだれも認めはしないというきびしい現実だった。  それでもくじけない彼女は、必死に努力し、48時間以内にひとりの行方不明者を探し出すという約束を署長と交わす。  もしそれができなければ警官を辞めるという条件だった。  ジュディは偶然に知りあったキツネで詐欺師のニックとともに捜査を開始するが、やがて彼女はズートピア全体を揺るがす大陰謀に遭遇してしまう――。  主人公が動物たちということで、一見すると子供っぽくも見える映画である。大人の視聴者にとっては、それほど面白そうには見えないかもしれない。  しかし、これは、今年を代表する大傑作だ。  シンプルでコミカルなシナリオが見ていて面白いというだけではなく、非常に深く考えさせられるテーマを持った作品である。  すみすみまで練られた脚本はただ完成度が高いという次元を超えて、観客に強く訴えかける力を持っている。つまり、「あなたならどうする?」と。  だれが見てもわかるように、無数の種類の動物たちが集うズートピアはアメリカ合衆国の暗喩だ。  つまり、この映画のテーマは「アメリカ合衆国の理想と現実」ということになる。  「だれでもなりたいものになれる」というズートピアの理想はまさにアメリカン・ドリームのことであり、そして、ズートピアが抱える問題はじっさいにアメリカが抱え込んでいる問題そのものである。  そういう意味で本作はきわめて政治性の高い映画であり、保守的にも見えるディズニーが、その実、決して単純ではないことがよくわかる。  ただ、「差別」という重いテーマを扱っていながら、この映画が決して重たいだけのものになっていないこともたしかだ。  基本的には痛快無比なエンターテインメントであり、ちょこまかと動きまわる動物たちのアクションを見ているだけでも楽しい。  ただ、大人の観客はその向こうに深い問いかけを感じるというだけのことだ。  そう、本作のテーマは差別問題である。優秀な成績で警官になったジュディはまず性差別に直面し、彼女の相棒ニックは「キツネは嘘つきで信用できない」という人種差別に苦しんだ挙句、その偏見をなぞるように詐欺師になってしまっている。  しかし、ジュディは決してあきらめないし、ニックもひょうひょうとした態度の裏に優しい素顔を持っている。  差別と反目が支配的なズートピア社会において、どこまでも理想を信じるジュディはさんざんに傷つき、痛めつけられる。それでも彼女は前進しようとする。その姿勢には胸が熱くなるものがある。  この映画が9・11以降のアメリカに伝えようとしているものはあきらかだろう。  そして、ドナルド・トランプが圧勝を続け、気高い自由と平等の理想が地に堕ちようとしているかに見えるいま、この映画は強く訴えかけてくる。  『ズートピア』はつまり「アメリカの理想を守ろう」といっているのだ。  そういう意味できわめて純度の高い理想主義の映画である。  ただ、さらにすばらしいことに、『ズートピア』は単なる理想主義の映画に終わらない。  まさに作中の言葉にあるように「人生はミュージカルではない」。  ジュディは 

『ズートピア』は美しくもきびしい理想主義を謳いあげるディズニーの傑作映画である。

いまさらだけれど『ガルパン劇場版』に心の底から感動する。

 『ガールズ&パンツァー劇場版』、いまさらですが4DXで見て来ました。  いやー、素晴らしかった。めちゃくちゃ面白かった。  たしかにこれは何度も見に行く人の気持ちもわかる。  全編どこまでも楽しく、面白く紡がれる娯楽映画の王道。  荒唐無稽きわまりないお祭り映画ですが、その娯楽に徹したエンターテインメント性の高さはほとんど感動的ですらある。  全国に「ガルパンはいいぞ」しかいえなくなってしまったガルパンおじさんが出現するのもむべなるかな。  あまりに素晴らしいものに触れるとひとは言葉を失うのですね。  ぼくはテレビ版を序盤で投げ出してしまった『ガルパン』初心者なのだけれど、劇場版はまったく問題なく楽しめました。  もしテレビ版を見ていないために見に行くことをためらっている人がいたらぜひ見てみてほしいですね。  テレビシリーズに関する知識はゼロでも苦労なく見れる映画ですよ。  まあ、いまでも上映している映画館は限られるだろうけれど……。  あまりに面白かったので続けてもう一回見ようかと思ったくらいなのですが、4DXは入場料が1000円高いのでやめました。  でも、ブルーレイで必ずまた見よう。うむ。  それにしても語りやすいようでいて意外にどう話したものかと迷う作品です。  ものすごくシンプルなストーリーで、はっきりいってしまえばそんなに大した話ではないのだけれど、それにもかかわらず深く心に訴えかけてくるものがあるのは、初めから終わりまでエンターテインメントに徹しているから。  いや、じっさい、これくらいの高い純度で娯楽を貫いた映画はめったにないのではないか。  全編どこにも面白くないところがない。隅から隅までパーフェクトに面白いのです。  ここまで純粋に面白いと、映画には小むずかしいテーマなんていらないのだな、とあらためて得心させられました。  たしかに「高尚な」映画ではないかもしれません。何もかもみなオタクの幻想でできあがった作品です。  ですが、そうはいったってここまでの高密度の娯楽性を見せられると、大抵の人は沈黙するのではないか。 冒頭からいきなりアクション、アクション、アクション、まったく退屈しない展開が続く。  それもアニメーションでしか表現できないであろう種類のアクションで、想像力の冒険とでも呼びたいような意外性のある描写になっています。  戦車ってこんなふうに動くのですねー。  って、いやいやいやいや、 

いまさらだけれど『ガルパン劇場版』に心の底から感動する。

『心が叫びたがってるんだ。』は感涙の神映画でした。

 幼い成瀬順のあこがれは丘の上のお城。  いつか自分もお城の舞踏会に参加できる日が来ることを願っている。  ある日、順はそのお城から父が出て来るところを見てしまう。  なんと、父は王子様だったのだ! 彼女はさっそくそのことを母に告げる。  順は自分が見つけた世界の秘密を共有しただけのつもりだった。  しかし、お城は実はラブホテルであるに過ぎず、父はそこで浮気しただけのことで、その言葉によって彼女の家庭は家庭は崩壊してしまう。  「全部お前のせいだ」。父から告げられた冷たい言葉によって深く深く傷ついた順は、なぞの「しゃべる玉子」と出逢い、言葉を封印される。  しかし、その心の底で想いは募っていくのだった――。  好評を博したテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のスタッフが再結集して制作した劇場アニメーション『心が叫びたがってるんだ。』は、そんなシチュエーションから始まる。  この時点で「トラウマと癒やし」の物語であることは想像できることだろう。  陳腐といえば陳腐な設定であり、しかも物語はその枠組みから特に外へ出ることはない。  それにもかかわらず、『心が叫びたがってるんだ。』はアニメーションの歴史が記憶するべき傑作に仕上がっている。  素晴らしいものを見せてもらった。もう、上映中ぼろ泣き。  この感動をだれかに伝えたくて仕方ないので、記事を書くことにしたい。  『あの花』のスタッフが作った劇場映画ということで注目された作品であるわけだが、個人的には『あの花』の10倍くらい感動した。  洗練されたシナリオといい、抑えたなかにも情感を秘めた演出といい、もう文句なしの出来。  劇場で映画を見るという体験がどんな至福を意味するものか、ひさしぶりに思い出させてくれる作品だった。  物語の主人公は、先ほどの成瀬順を初め、坂上拓実、仁藤菜月、田崎大樹の四人。  偶然に高校の「地域ふれあい交流会」の実行委員に選ばれたかれらは、いやいやながら活動を開始する。  そして、クラスは「ふれ交」でミュージカルを上演することに決まり――と、物語は進んでいく。  初めはひとり残らずやる気がなかったクラスに、しだいに情熱が伝染していくプロセスが熱い。  おそらくぼくが高校生だったとしても、「めんどうくさい」、「恥ずかしい」と感じ、やる気を出すことはできなかったことだろう。  だが、いまにしてわかる。こういうものは真剣になってやっておく価値のあるものなのだ。  もちろん、成し遂げたところでなんの意味があるのかといえば、何もないかもしれない。  とはいえ、そんなふうに考え、白けてしまっては何も始まらない。  くだらないように思えることでもとにかく参加してみる、そこからしか物語はスタートしないのである。  ここには非常に現代的なテーマがある。  つまり、これもまた、この行き止まりの時代をどう生きるかというテーマのひとつのバリエーションなのである。  くだらないと思えることでもまずは必死になってやってみること。  頭からばかにして否定するのではなく、とにかく参加して本気で楽しもうとしてみること。  思い出はそうやってできるものだ。  この映画のメインイベントは、いってしまえば、たかが高校の交流祭の公演である。  べつにそれをやり遂げたところでスターになれるわけでも、お金が入るわけでもない。  しかし、まさにそうであるからこそ、本気でやってみる価値があるのだ。  ぼくはここでわが最愛のPCゲーム『らくえん』を思い出した。  あの物語における目標は、売れないエロゲの制作だった。  それは高校でのミュージカル公演とはまったく違っているように見えるかもしれないが、本質的には同じことを目ざしているのだと思う。  まったく無意味なことに全身全霊をささげることによってしか見えてこない境地があるということ。  意味を問い、価値を考えるなら、そもそもぼくたちの存在になんの意味があるだろう?  広漠たる百億光年の大宇宙の片隅で、一瞬の火のようにともっては消えていくだけのぼくたちではないか。  そのぼくたちの生に値打ちがあるとすれば、それはその短い人生を強く強く燃やし尽くすからに違いない。  重要なのは、すかしてみないことなんだ!と僕はそこで悟ったんですよ。  斜にかまえて、こんなことやる意味がないとか、そういう先回りを考えてはだめで、とにかく、何でもやってみる、コミットしてみる、、、、やることがなければ、テキトーなことを思いついたら全力で、それが意味不明で価値がなくても、、、というかなければないほどいいかもしれません。やってみる。ここで重要な気づきは、もし目的に囚われた人生の奴隷になっている人は、むしろ無駄だと思えること、意味不明なこと、やると損なこと程いいんだってことです。意味不明なことに、死ぬ気で斜め上を行くような気持ちで全力でコミットしてみることが、自己の解放をもたらし現状にブレイクスルーをもたらすことなんだって!ていうプラクティカルな気づきです。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151018/p1  平凡な人生に火をともせ。  自分自身の心の声に耳を傾けろ。  何もかも無意味だと呟く連中を無視して、人生を楽しく、面白く、塗り替えろ!  しかし、夢中になって始めてみたところで、すべてがうまくいくわけではない。  もともとやる気がなかったクラスメイトたちを結集することは容易ではない。  かれらは何かあると疑問を抱き、やる気を失い、バラバラになろうとしてしまう。  そんなかれらに想いを伝えるのが、即ち、言葉の力である。  この映画ではひとを導き、正す言葉の力がストレートに描かれている。  順は言葉を喪い、語ることができなくなってしまったが、それでもなんとかして自分の想いを伝えようとする。  坂上も、田崎も、いつももどかしく正しい表現を探しながら言葉を扱っていく。  物語の重要なパートで、かれらの言葉はしばしば危機的な状況を救い、悪い方向へ進みそうになった状況を変える。  ここには、作り手の言葉への絶大なる信頼があると思う。  言葉こそがひとを救い、また変えるものなのだという確固たる信頼。  しかしまた、順がかつて平和な家庭を崩壊させてしまったように、言葉にはひとを傷つけ、悪しき感情を呼び覚ます負の側面もある。  ここで描かれているものは、言葉の持つ両義性なのだ。  ひとたび言葉を開放してしまったなら、それは時に呪いと化し、ひとを責め、傷つけ、縛りつける。  だが、それでもなお、言葉なしで生きていくことはできない。  なぜなら、いつだって心が叫びたがっているのだから。 

『心が叫びたがってるんだ。』は感涙の神映画でした。

もっと新しさを! 映画『ゴティックメード』は自己否定/自己破壊のプロセスそのものだ。

 何か良い作業BGMはないかな、ということで『花の詩女 ゴティックメード オリジナル・サウンドトラック』を借りて聴いています。  監督の意向により円盤が発売されていない作品なので、いまのところ作品を思い出すよすがとなるものはこのサウンドトラックと設定資料集くらいしかない。  『ゴティックメード』が『ファイブスター物語』と直接につながる作品であることがあきらかになったいま、円盤を発売すれば売れると思うのですが、原作・脚本・監督の永野護にはそんなつもりはさらさらないようですね……。  『ゴティックメード』は『ファイブスター物語』でいうところの星団暦451年の物語です。  本編のストーリーからおよそ2500年前の話ということになりますね。  それだけならまだいいのですが、この映画『ゴティックメード』を境にして『ファイブスター物語』の世界はその様相を一変させることになります。  それまでは騎士と生体コンピューター・ファティマ、それに巨大戦闘ロボット・モーターヘッドが活躍する世界でした。  しかし、ファティマは「オートマティック・フラワーズ」と呼ばれるようになって「アシリア・セパレート」という新たな戦闘服をまとい、何よりすべてのモーターヘッドが「ゴティックメード」へと姿を変えるのです。  それまでにもその展開を予感させるものはありました。  映画『ゴティックメード』の冒頭に現れるナイト・オブ・ゴールドらしき、しかし微妙に違うロボットは何なのか?  『ゴティックメード』の世界が星団史のどこかに位置づけられるとして、なぜこの巨大ロボットはモーターヘッドではなくゴティックメードと呼ばれているのか?  映画本編で一切活躍しないゴティックメードたちはいったい何のためにデザインされたのか?  しかし、ぼくを含むほとんどの視聴者がその微細な違和感をあたりまえのように捨て去ってしまったのでした。  そのときは、まさか永野護が世界ひとつすべての設定を捨て去り、リファインするつもりだなどとは想像すらできなかったのです。  かつてそんなことをやってのけた作家はなく、あるいはこの後もないかもしれません。  しかし、よくよく考えてみれば、その作業は「平行世界」を取り扱って来たゼロ年代からテン年代にかけてのアニメや漫画とシンクロするものでした。  ただ、永野は「平行世界」などという使い古された概念を使用することなく、一切の説明もなしに世界を入れ替えてしまったのです!  いままでも突然に超未来の話になったり、異宇宙、さらには神々の世界から物語が始まったりと、あらゆる意味で衝撃的な展開を遂げてきた『ファイブスター物語』ですが、それにしてもこれほどの展開を想像できたものはだれもいなかったでしょう。  連載30年にしてなお自分自身をアップデートしつづける。  ほかのクリエイターたちが追いついてきたならさらにまたひき離す!  その、想像力の冒険。  結果としてファティマやロボットのデザインはいままでにも増して異形となり、ある種、ピーキーな属性を持つに至りました。  好きなひとにとってはとてつもなく格好良く思える一方、そうでないひとにとってはまさに異常としか感じられないデザインではあるでしょう。  しかし、それでいいのだ、それこそが斬新ということなのだ、「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけるということはそういうことでしかありえないのだ――そこに永野のその壮烈な宣言を感じないわけには行きません。  いままでにも 

もっと新しさを! 映画『ゴティックメード』は自己否定/自己破壊のプロセスそのものだ。

アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

 いよいよ来週から『アルスラーン戦記』アニメ版がスタートします。  原作は田中芳樹のベストセラー戦記小説。  架空の王国パルスとその周辺の諸国家を舞台に、ひよわな王子アルスラーンの冒険と成長を描いた気宇壮大な大河ロマンです。  86年に始まった原作はこれまで既刊14巻が発売されていて、完結を目前に控えたところまで来ています。  原作は一度漫画化及びアニメ化されていますが、このたび、荒川弘という才能を得てふたたび漫画になりました。  荒川さんによる漫画は基本的には原作に忠実ですが、ところどころにオリジナル要素を盛り込み、壮麗な原作をいっそう勇壮な物語に仕立てあげています。  それがいまテレビアニメという形で展開するわけです。期待せずにはいられません。  そこで、この記事では「10分でわかる『アルスラーン戦記』」と題して、この未曾有の物語の説明をして行きたいと思います。 ■『アルスラーン戦記』ってどんなお話?■  広大な大陸を東西に貫く「大陸公路」の覇者、パルス王国はいま、西方からやって来たルシタニア王国の侵略を受けていた。  勇猛でしられるパルス国王アンドラゴラス三世はただちに軍勢を集結、アトロパテネの平原に布陣する。  無敵を誇るパルス軍が敗れることなど、かれは考えてもいなかった。  ところが、パルスの将軍として一万の兵を預かる万騎長カーラーンが味方を裏切ったことによって、パルス軍は壊滅、アンドラゴラスは敵軍に捉えられる。  そしてその頃、パルスのただひとりの王子であるアルスラーンはただひとり平原をさまよっていた。  かれは絶体絶命のところを「戦士のなかの戦士」ダリューンに救われ、ただふたり、戦場を抜け落ちる。  アルスラーン、ときに十四歳。  このひよわな少年がやがて長きにわたるパルス解放戦争を導いていくことになるのである――。  『アルスラーン戦記』は特にとりえがないように見えるパルス国の王太子アルスラーンの成長物語であり、パルスと野心的な周辺諸国を巡る戦記ファンタジーです。  ファンタジーとはいっても、魔法的な側面はそれほど強くありません。  後半になってくると邪悪の蛇王ザッハークの魔軍などというものが出て来てファンタジー色が濃くなっていきますが、当面、アルスラーンが取り組まなければならないのはパルス国を占拠してしまったルシタニア軍の討伐と国土の解放です。  したがって、あくまでメインの要素となるのは戦争や謀略。  そしてそこに、アルスラーンの出生の秘密が関わってきます。  そして、そもそもなぜカーラーンはパルスを裏切り、国土を灰にしたのか?  カーラーンを意のままに操るかに見える「銀仮面卿」と呼ばれる人物は何者なのか?   「銀仮面卿」に力を貸す暗灰色の衣の老人の目的とは何か?  アンドラゴラスが知っている秘密とは何なのか?  バフマン老人は何を悩むのか?  さまざまな謎が謎を呼ぶのですが、それらはすべてアルスラーンによるパルス解放にあたって解き明かされることになります。  ひろげられた大風呂敷がみごとにとじていく「王都奪還」のエピソードは見事としかいいようがありません。  まあ、そのあともさらに物語は続いてゆくのですが、この長い長い小説はいまになってようやく終わろうとしています。  これから読むひとはあまり長い間新刊を待たなくて済むかもしれません(はっきりとはわかりませんが……)。  田中芳樹は多くの魅力的なシリーズを生み出しては未完で放り投げていることでしられている作家なのですが、決して風呂敷をとじる能力に欠けている作家ではありません。  この流浪の王子と邪悪の蛇王を巡るあまりにも壮大なプロットがどのようにして完結を見るのか、期待しても良いでしょう。  「皆殺しの田中」と呼ばれるくらいの作家ですから、おそらく物語の終幕に至っては何かしらの悲劇が待ち受けているはずではあるのですが、その点も含めて続刊を楽しみに待ちたいところです。 ■どこが面白いの?■  先ほども書いたように、アトロパテネの野を命からがら脱出したアルスラーンに付き従うものは、最強の騎士ダリューンただひとりです。  それに対し、かれが打倒しなければならないルシタニア軍は、アトロパテネの野の会戦で多数の兵を失ったとはいえ、なお、その数30万。  いかにダリューンが無敵といっても、ひとりで30万の軍を倒すことなどできるはずがありません。  したがって、アルスラーンはパルス全土に残っている兵たちを糾合し、ルシタニア軍に匹敵する軍を生み出して戦いを挑まなければならないのです。  初めふたりだったアルスラーンたちが、やがて軍師ナルサスやその弟子エラム、流浪の楽師ギーヴ、女神官ファランギースといった人々の協力を得、また多数の軍勢を集め、しだいしだいに形勢を逆転していくそのカタルシスが『アルスラーン戦記』序盤の読みどころです。  いったい凡庸な王子とも見え、周囲からもそのように扱われていたアルスラーンがいかにしてこの非凡な人々をひきいる「王」にまで育っていくのか。その点もまた見どころのひとつでしょう。  そしてまた、きわめて劇的に演出された名場面の数々!  ことケレン味という一点において、『アルスラーン戦記』に匹敵する小説は日本にはいくつもないのではないでしょうか。  それくらい何もかもがドラマティックに描かれている。  そもそもいきなり無敵だったはずの軍隊の「敗戦」から物語がスタートするあたり、凡庸ではありません。  そしてその状態からの史上空前の逆転劇は大きなカタルシスがあります。  ひよわと見られていたアルスラーンはやがて「十六翼将」と呼ばれる最強の騎士16人を麾下にくわえ、「解放王アルスラーン」としてしられるようになっていくのですが、そこにまで至るまではいくつもの試練を乗り越えなくてはなりません。  物語が始まった時点では、アルスラーンはまだ何者でもないといっていいでしょう。  そのアルスラーンが、ちょっと「個性的」という言葉だけではいい表せないくらい個性的な面々をどのようにしてコントールしてゆくのか、ひと筋縄では行かない物語が待っています。  殊に旅の楽師にしてパルス最高の弓使いであるギーヴなどは、王家への忠誠心は皆無、美貌の女神官ファランギースに惹かれてアルスラーン陣営に入るという人物だけに、並大抵のリーダーに使いこなせるような性格ではありません。  しかし、最終的にアルスラーンはそのギーヴからすらも忠誠を誓われるようになっていくのです。  武術においても知略においても必ずしも秀でたものを見せないアルスラーンの才能とは何なのか?  ぜひ本編をお楽しみください。 ■『アルスラーン戦記』独自の魅力は何?■  そうはいっても、その手の戦記ものやファンタジーはもう見飽きたよ、というひともいるでしょう。  じっさい、『アルスラーン戦記』が開幕した頃にはライバルとなる異世界戦記作品といえば栗本薫の『グイン・サーガ』くらいしかなかったのですが、その後、雨後の筍の喩えのように膨大な数のその種の作品が生み出され、ファンタジー的想像力はすっかり陳腐化しました。  しかし、いまなお『アルスラーン戦記』はほかの凡百のファンタジーとはものが違います。  この小説のどこが特別なのか? 

アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

『ソードアート・オンライン』奇跡の第四部「アリシゼーション」が凄すぎる。

 ども。 何となくテレビゲームをプレイしたい気分になったので、『アサシンクリード』シリーズのナンバリングタイトル第四弾『ブラックフラッグ』を購入して来ました。  新しいゲームを始めるときはいつもそうであるように、はてしなくひろがる世界に心踊ります。  ただ、ヴィジュアル面では、やはりPS3の映像処理能力の限界は如何ともしがたい感じ。  これがPS4だったらはるかにきれいなのだろうし、まだ見ぬ未来のゲームマシンではさらに美しい世界を仮想現実で体験できるのでしょうね。  まさに『ソードアート・オンライン』。  『SAO』の世界はもう既に夢物語ではなくなりつつあるのかもしれません。  とりあえずSONYの「プロジェクト・モーフィアス」には期待したいところ。  さて、『SAO』は現在、セールス1000万部を超え、ライトノベルの歴史上でも記録的な数字を叩き出しつづけているようです。  ファンタジー世界を模した仮想現実空間で死の冒険を繰りひろげるというアイディアそのものはいまとなってはむしろ凡庸であるにもかかわらず、なぜ『SAO』はこれほど読者を惹きつけるのでしょうか?  ――いやあ、これが正直、よくわからない。  もちろん、『SAO』がでたらめに面白いことは論をまたないのだけれど、それにしてもいまどきめずらしいくらいのストレートな冒険小説であるわけで、「いまさらこういうのはちょっと……」という反応になっていてもおかしくなかったはず。  じっさい、同種のアイディアを使用した作品はそこまであたっていないのだから、いったい『SAO』の何がそこまで特別なのか? はっきり言葉にすることは意外に簡単ではないようです。  ひとつ考えられるのは、おそらく「いまどきめずらしいくらいストレートなヒーローものの冒険小説」であることが、かえってプラスに働いているんだろうな、ということです。  『SAO』の最大の魅力が、主人公を務めるキリトという少年にあることは間違いないでしょう。  長大な『SAO』のほぼ全作品に登場して無双しつづけるこの「黒の剣士」は、ほとんど孫悟空とかダルタニアンあたりに比肩する伝説的な存在感を有しています。  ただ、どこか少女めいた容姿に、不世出の剣の腕前、などとその個性を並べあげると、むしろ凡庸なキャラクターに思える。  なぜキリト少年だけがこうもスペシャルに読者を冒険へ誘うのでしょうか?  いろいろと理屈は考えられるのですが、正直、やっぱりよくわかりません。  すべては結局は『SAO』が「王道」の物語であること、そして「王道」はいつも最高に面白いのだということを示しているように思われます。  しかし、その「王道」が限りなく通じにくくなっているのが現代なのであり、だからこそ何かしら「王道」をひねった作品が出現しているはずだったのではないでしょうか?   いったい『SAO』やキリトをほかの凡庸な「王道」的な物語と区別しているものは何なのでしょう。  これはいまもってぼくの宿題で、はっきりした解答を示すことができていません。  まあ、ひとつの決定的な答えがあるわけではなく、作家としての総合的な実力が抜きん出ていた結果なのかもしれませんが。  じっさい、川原礫はその驚異的な執筆速度も含めて、現代最高のライトノベル作家といってもいいでしょう。  特に物語がグレッグ・イーガンめいたオーバードライブを見せる第四部「アリシゼーション」の魅力は別格です。  この「アリシゼーション」、電撃文庫版ではいまだに完結を見ていないのですが、ぼくはライトノベル史上最高のエンターテインメントだと思っています。 

『ソードアート・オンライン』奇跡の第四部「アリシゼーション」が凄すぎる。

そしてぼくたちはリア充にたどり着いた。『はがない』平坂読の最新作がマジで新時代を切り開いている件。

 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというけれど、しかし現実には人間は平等なんかじゃないよね――と一万円札のおっさんは言った。 そのとおりだなーと京は思う。 人間は平等なんかじゃない。 可児那由多は、あたしよりも価値がある。  平坂読といえばベストセラーシリーズ『僕は友達が少ない』(通称「はがない」)で知られているライトノベル作家だが、先日、その平坂の最新作が出た。  「妹さえいればいい。」というわかりやすいタイトルに「日常ラブコメの到達点」というコピーが付いている。 『はがない』がわりと好きなぼくは「またまたまたまた」と思いつつ、読んでみた。  ――素晴らしい。  ぼくはブロガーとして、小説や漫画や映画についての意見を文章にまとめあげることを仕事にしていて、どんな作品のことであれ一応は饒舌に語り上げるテクニックは身につけているつもりだ。 だが、ほんとうに凄い作品と出逢ったときは「やばい」しか言葉が出ず、「やばいやばいやばいやばい」と書いては消し去る作業をくり返すことになる。  『妹さえいればいい。』はまさにそんなやばい一作。 読み進めるほどに幸福感がつのり、「これはすごいのでは……?」という思いが「すげえ!」に変わっていった。  いやあ、これはほんとすげえっすよ。 「やばい」とか「すげえ」とか抽象的な言葉ばかり使って内容がない書評はろくなものではないが、ついついそういう表現をしてしまうくらい面白い。  2015年で接したすべての創作作品のなかで暫定1位。 べつだん、ぼくはライトノベルの栄枯盛衰自体はどうでもいいのだけれど、こういうものを読むと「ラノベ、まだまだいけるじゃん」と伊坂幸太郎作品のコピーみたいなことを思う。  そういうわけなので、このブログの読者の皆さん及びどこからかリンクで飛んで来た方々はぜひ読んでみてください。とってもオススメです。  あ、ライトノベルそのものに特に興味のない方はけっこう。 あらゆる意味でライトノベルでしかありえない表現をまとめあげた特濃の一作なので、ラノベ初心者は内容のクレイジーさに付いていけない危険がある。  というか、そういう人は冒頭2ページくらいで読むのをやめると思う。ためしにそのあたりをちょっと引用してみよう。 「お兄ちゃん起っきっき~」  そんな声が聞こえて目を開けると、俺の目の前に全裸のアリスが立っていた。  アリスというのは今年14歳になる俺の妹で、さらさらの金髪にルビーのような真紅の瞳が印象的な、文句のつけようのない美少女だ。 「ん……おはようアリス」  頭がぼんやりしたまま俺が挨拶をすると、アリスはくすっと笑って、 「眠そうだにゃーお兄ちゃん。そんなねぼすけなお兄ちゃんには――」  アリスの顔が俺に急接近してきて、そのまま――チュッ。 「……!」  アリスの柔らかい唇が俺の唇に押し当てられ、眠気が一瞬で吹き飛んだ。 「目が覚めっちんぐ? お兄ちゃん」  唇を離し、アリスは悪戯っぽく微笑む。その頬は少し赤い。 「今日の朝ご飯はアリスの手作りだりゃば。冷めないうちに早く来てにゃろ」  うん、頭おかしいですね。 大成功を収めたシリーズものの次の作品を、「お兄ちゃん起っきっき~」で始める平坂先生のアグレッシヴさにはマジで尊敬を覚える。  ほんとうはこの先にさらなる狂気の世界がひろがっているのだが、それはゲンブツで確認してほしい。  もちろん、すべてはあくまでネタであり、上記は主人公が書いた小説の一節という設定なので、この一節を見て「やっぱり読むのやめておこうかな」と思った人もどうか読んでやってください。  いや、この種のギャグをまったく受け付けないという人は無理をしなくていいけれど、たぶんこれがこの小説における最初にして最大の障壁なので、ここで挫折してしまうのはもったいない。 繰り返すが、ぼく的には年間ベストを争う傑作なのだ。  どこがそんなに面白いのか? 色々あるけれど、ようするにこの小説、才能と実力を兼ね備えたリア充連中がキャッキャウフフしている描写がひたすら続くリア充小説なのだ。そこがいちばん凄くて面白い。  主人公は妹萌えが狂気の域に達しているライトノベル作家・羽島伊月。 かれとかれのまわりに集まってくるライトノベル業界の残念な奴らがたまに仕事をしながらひたすら遊んでいるという、それだけといえばそれだけの内容である。  しかし、これが面白い。ほんとうに面白い。 ライトノベルの主人公をライトノベル作家にするのも、有名無名の実在作品を取り上げて作中に散りばめるのも、過去に作例があり、特に新しくはないのだが、この衒いのないリア充感は確実に新境地をひらいている。  この小説のテーマはそのまま「メインテーマ」と題された一章に記されている。  才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。  誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。  一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。  この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。  ここには「容姿」や「才能」や「金」に恵まれた人間が特別で、そうでない人間は不遇だという価値観がない。 「リア充」対「非リア」といったわかりやすい対立軸がさりげなく、しかし明確に解体されている。  これはリア充を仮想敵にした上で、その実、かぎりなくリア充的な日常を描いていた『はがない』から確実に一歩を踏み出しているといっていいだろう。 もはや 

そしてぼくたちはリア充にたどり着いた。『はがない』平坂読の最新作がマジで新時代を切り開いている件。

いま伝説が生まれる。奇跡の傑作『ソードアート・オンライン アリシゼーション』を読め!(2222文字)

 先日、『ソードアート・オンライン』の第12巻が発売されました。ぼくはウェブ版でひと足早く「アリシゼーション」編の結末まで読んでいるのだけれど、この小説はここらへんの話からいよいよ無類に面白くなってきます。未読の方は第2巻から第8巻までは飛ばしても問題ないので(おい)、ぜひ読んでください。  『ソードアート・オンライン』、特に第四部「アリシゼーション」は日本のテン年代のエンターテインメントを代表する大傑作です。これはライトノベルがどうこうという次元ではなく、日本のエンタメ小説全体を見わたしても傑出した出来の作品だと思う。  まあ、『十二国記』と違って大人の批評家たちはこの作品を高く評価したりしないでしょうが、でも、これほどめちゃくちゃ面白い小説はまずめったにあるものではありません。それだけは断言できる。  『ソードアート・オンライン』は「主人公たちがヴァーチャル・リアリィRPGの世界に閉じ込められ、生還を求めて冒険する」という、それじたいは平凡なアイディアから始まります。圧巻はアイディアではなく、作者のストーリーテリングにあるといっていいでしょう。  いまのライトノベルを見回してもちょっとこれだけ「語り」のうまい作家はほかに思いつきません。『ソードアート・オンライン』がほかのライトノベルを圧倒するセールスを誇っていることはあまりにも当然のことで、これほど魅力的に語られる小説はほかにないのです。  もちろん、その中身はいってしまえばチャンバラ小説で、何か特別に新しいところがあるわけではないかもしれない。しかし、その安定し洗練された「語り」は素材の新味のなさを補って余りあります。  美少年、美少女の主人公とヒロインを初めとする魅力的なキャラクターたち、いかにももっともらしく設定された舞台背景、そしてときにサスペンスを盛り上げ、ときにユーモアを満たして語り続けられる物語のおもしろさ、それらの要素が高い次元で合わさっているだけで十分に傑作に値するでしょう。  惜しむらくは第一章「ソードアート・オンライン」完結後に続くエピソードがマンネリ化しかけているところだけれど、それはもう、仕方ないこと。いくら優れた作家でもそうそう新しいアイディアなど思いつくものでもない。ぼくはそう思っていました。「アリシゼーション」が始まるまでは。  「アリシゼーション」はそのチャンバラ小説とセンス・オブ・ワンダーあふれるサイエンス・フィクション的アイディアを融合させた歴史的大傑作です。ぼくはライトノベル始まって以来の最高傑作だと断言します。  

いま伝説が生まれる。奇跡の傑作『ソードアート・オンライン アリシゼーション』を読め!(2222文字)
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

著者イメージ

海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

https://twitter.com/kaien
メール配信:ありサンプル記事更新頻度:不定期※メール配信はチャンネルの月額会員限定です

月別アーカイブ


タグ