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  • 『タイタニア』のアリアバートとジュスランは田中芳樹によるキャラクター造形の最高傑作である。

    2020-09-18 14:12  
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     文芸業界でよく使用され、最近はだいぶシニカルに語られるようになったクリシェ(決まり文句)に「人間が描けている」というものがある。
     反対に「人間が描けていない」という形で使われることも多くあり、これはミステリ界隈などで批判的に使用されてはさまざまな議論を巻き起こして来た。
     おそらくまあ、「人物がリアルな人間のように迫力と実感をともなって浮かび上がって来る/来ない」という程度の意味だと思う。
     で、それと近く微妙に異なる意味の言葉に「キャラクター」がある。Wikipediaによるとこんな意味だ。

    「キャラクター(語源:character)は、小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム、 広告などのフィクションに登場する人物や動物など、あるいはそれら登場人物の性格や性質のこと。また、その特徴を通じて、読者、視聴者、消費者に一定のイメージを与え、かつ、商品や企業などに対する誘引効果
  • 批評の言葉が足りない!

    2019-10-03 08:22  
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     てれびんが観に行くということで、いっしょに付いていって『銀河英雄伝説』の劇場版「星乱」の第一章を観て来ました。内容は、まあ、ようするにただの『銀英伝』です(笑)。良くも悪くも。
     テレビシリーズ全12話の続編なんですよね。ぼくはテレビシリーズは途中までしか観ていなかったのでいまさらながらあらためてびっくりしたんだけれど、テレビシリーズでは1クールかけて原作の第1巻が終わっていないんですね。
     第1巻のクライマックスであるアムリッツァ星域会戦にすら至っていない。劇場版で初めてアムリッツァが描写されるんですよ。
     これはまた、このご時世で悠長というか、非常に気の長い話で、この調子で行くといったいこの先はどうなるのかよくわからない。たぶん劇場版三部作のラストで第2巻のラストまで行くのかなと思いますが、それすらたしかではありません。
     こんなスピードではたして原作をすべて消化できるのか、それとも初めからそのつもりはなくて、途中で終わる予定なのか、微妙な感じですね。
     まあ、物語そのものはすでにマンガやアニメで何度となく語られているものをそのままなぞっているに過ぎないから、途中で終わるならそれはそれでまたまったくかまわない話であるとも思います。
     劇場で見ると戦闘シーンなどは映像的に非常に迫力があって、なおかつやはりものすごく情報量の多い完成されたシナリオなのだなということを再確認できるのですが、あえて悪く見るなら特に斬新さもない「いつもの『銀英伝』」でしかないともいうことができるので、影響的には好きな人が観に行くくらいに留まるでしょう。
     非常に出来は良いんですけれどね。もし原作を未読という人がいたらぜひ観てほしいのですが、でも、いまから新たに『銀英伝』の世界に飛び込むという人も少ないでしょうね。
     原作は戦後エンターテインメントの世界に屹立する超大傑作なので、ぜひ読んでほしいのですが。まあ、そうはいっても読まないよなあ。べつに時代の最先端にある作品でもありませんしね。
     とはいえ、やはり何といってもぼくの読書人生でも圧倒的に面白かった作品のひとつなので、オススメはするんですけれど。
     原作はいうまでもなく非常に高い評価を得ている作品ではありますが、ある意味では過小評価されているのではないかとすら思います。
     数百人もの人物が絡む大群像劇を全10巻できれいに完結させてのけたという意味で、実に日本のエンターテインメントの歴史のなかでもまったく類を見ない虚構の大伽藍であるといってさしつかえないでしょう。
     じっさい、この種の架空の設定で群像劇を描くタイプの小説でここまで容赦なく完璧に完結しているものって、ほかにはほとんど思いあたらないですね。同じ作者の『アルスラーン戦記』がこのあいだ完結したのがあるくらいです。
     『グイン・サーガ』も『十二国記』も未完だし、これほど人気のある、広げようと思えばいくらでも広げられる作品をわずか3年か4年ほどで完結させてその世界を閉じてしまったことはほんとうにすごい偉業としかいいようがありません。
     つまり、圧倒的に独創性のある仕事なんですよ。それにもかかわらず、過小評価されているというのは、この作品を批評的な観点から分析した文章をほとんど見たことがないからです。
     栗本薫の『グイン・サーガ』もそうなのだけれど、エンターテインメントとしての純度が高ければ高いほど、「ただのエンターテインメント」として処理されて終わってしまう傾向があると思うのですね。
     田中芳樹にしても栗本薫にしても、ものすごく優れた物語作家であって、特にその全盛期の作品の影響力は、はっきりいうならそこらへんの直木賞受賞作などよりはるかに大きいものがあるはずなのですが、批評家は取り上げない。
     というのは、これらの作品がまさに王道の「物語」であって、特定のジャンルに収まり切らないということが大きいのではないかと思います。
     『銀英伝』はSF、あるいはスペースオペラ、『グイン・サーガ』はヒロイック・ファンタジーといわれていますが、いずれもその企画に収まり切る作品ではありませんよね。
     あえていうなら群像劇というジャンルなのであって、戦後エンターテインメントのなかで仲間を探すなら宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』あたりになるのではないか、と思ったりします。
     いや、『ナウシカ』は批評家ウケするんですけれどね。『銀英伝』や『グイン・サーガ』は批評家ウケしないんだよなあ。
     ひとつには批評家はどうしても作品のテーマの同時代性を見るんですよね。だから、その結果として大きなものを取りこぼす危険がつねにある。
     たとえば、一時期、ライトノベル批評やエロゲ批評は非常にさかんでしたが、それらはそのジャンルのなかのごく一部の作品を集中的に語っていた印象があります。
     具体的には、『ブギーポップ』シリーズとか、西尾維新とか、葉鍵系とか、セカイ系の作品だとかね。どうしてもそういう「わかりやすく、語りやすい」作品ばかりを取り上げることになってしまうんですよ。
     その一方で、それらの作品よりさらに広く流通している、つまりはっきりいってしまえばずっと売れている『スレイヤーズ!』だとか、『魔術師オーフェン』あたりは看過されてしまう。エロゲでいえば『ランス』シリーズとかね。
     みんな読んではいるしやってはいるんだけれど、それらの作品を語る言葉が確立されていないのでスルーされてしまうんですね。それで、批評的な意味で語りやすい作品ばかりが高く評価されることになる。
     これはじつにいびつな構造だと思います。アニメの歴史を語るときも、やたら宮崎駿とか押井守とか、いまだと新海誠あたりがクローズアップされるでしょう。
     もちろんこれらの人たちが偉大な巨匠であることは論を俟たないのですが、ほかにも面白い作品は山のようにあるのに、そしてじっさいにヒットしているのに、あまりスポットライトがあたりません。
     いや、もちろん、そういうメジャーな作品こそが重要なんだと考えてそう発言する人たちは大勢います。でも、そういう人たちはそういう人たちで明確な「批評の言葉」を持っていないんですね。
     つまり、少なくとも現代日本では、エンターテインメントのエンターテインメント的な側面を批評的に語りつくす方法論が確立されていないということがいえるんじゃないか。
     ぼくが求めているのはそれこそ『銀英伝』のような「ただただ面白い」作品を、その面白さに対するリスペクトを持って「なぜ面白いのか」、「どう見たらより面白くなるのか」、分析した批評なのですが、なかなかそういうものは見ないですね。
     で、その結果、どういうことになるかというと、「この作品の良さはそこじゃないんだけれどな……」みたいな、何かがずれた批評ばかりが乱立する結果になる。
     これは良くないと思うんだけれど、あまり問題視されている気がしません。ただ、やっぱり問題は問題で、たとえば最近、Twitterで繰り広げられた『彼方のアストラ』をSFとして評価するべきかどうか、という議論も、そこら辺から来ているものであるように思います。
     これについてはまたあらためて書くべきですね。というわけで、この話、続きます。次回はその話です。 
  • 田中芳樹とクイアなセクシュアリティ。

    2019-01-03 05:13  
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     きのうの続き。
     さて、そういうわけで、『アイの物語』のなかで山本さんは人間のあまりにも明確な限界を抱えた「愛」を否定的に捉え、マシンの完全な「i」を賛美している(ように見える)わけですが、ぼくにはこの「i」という概念が単なる錬金術の夢、ある種、形而上学的な架空の概念に過ぎないように思えます。
     ようするに、それはウソじゃね、と。ぼくはだれか、ないし何かを愛することはどうしても差別をともなうと考える人間です。
     それは人類がそういう生きものだというだけではなく、そもそも愛とは原理的にそういった性質のものだと思うのですね。いや、そういう限界を超えた愛があるんだ、といわれても、具体的に提示できないならそれはただの空想でしょうと。
     山本さんが、人間の差別的な「愛」に、つまり人間の差別性に非常に憤りを感じていることはわかるんですよ。山本さんの視点から見れば、人間はまるで不完全な存在だということ
  • 『銀英伝』は短編でできている。

    2018-05-11 03:04  
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     小説を書きたい。物語を綴りたい。そう思うのですが、まともに成功した試しがありません。
     まあ、才能がないのはしかたないにしろ、なぜここまでうまくいかないのだろう?とずっと考えていたのですが、ある本を読んだところ、「物語を「あらすじ」ではなく、キャラクターやイメージから作ろうとしているからだ」と書いてあり、あ、これだな、と感じました。
     動物が骨と肉でできているように、一般に物語は「あらすじ」と「細部」からできあがっています。
     もちろん、どこまでを「あらすじ」とし、どこからを「細部」とするかは恣意的な区分に過ぎませんが、この「あらすじ」から始める姿勢と努力がぼくには欠けていたようなのです。
     「あらすじ」にも色々と程度があるでしょうが、最もシンプルなものは一、二行程度にまとまります。
     たとえば、『ロミオとジュリエット』のいちばんシンプルな「あらすじ」は、「敵対しあう名家にうまれたロミオ
  • 新しいアニメ版『銀河英雄伝説』は構成に工夫を凝らしてきている。

    2018-04-23 02:46  
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     新しくなったアニメ版の『銀河英雄伝説』を見ています。これが面白い。原作とも以前のアニメとも構成を変更してきていて、原作ファンの目から見ても相当に工夫が凝らされていることがわかります。
     原作はぼくの読書人生でも屈指の大傑作だけに、最後までこの調子で行ってほしいものですね。
     『銀英伝』の傑作たる所以はいくつもありますが、まずひとつは完結していることです。
     そもそも大長編群像劇って基本的に完結できないものんですよ。一定以上に大規模な群像劇はあるキャラクターの行動がべつの行動を生み、また、登場人物が増えれば増えるほどその行動を描くために紙幅を要するため、際限なく長くのびていき、最後には未完に終わることがほとんどなのです。
     だから『グイン・サーガ』も未完だし、『十二国記』も未完、海外だと『氷と炎の歌』も未完ですよね。
     その意味で、600名以上もの名前のあるキャラクターを抱えた『銀英伝』が
  • 短編小説のラビリンスに迷い込んでみませんか。

    2017-11-26 07:00  
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     きょうは山本周五郎の記事が更新されているはずなので(予約更新なのです)、それに合わせて短編の話でもしたいと思います。
     その記事で書いた通り、山本周五郎は短編の達人でした。で、日本でも海外でも、文学者として名を成した人はそのほとんどが名作短編を書いています。
     SFやミステリといったエンターテインメント小説の世界でも短編は非常に重要です。短編は、単に「短い長編」ではありません。短いなかにぎゅっと内容を凝縮するためにはそれなりの計算と技巧を要求されるわけで、長編以上に精密なテクニックの見せ場なのです。
     そもそも、小説では(漫画でも)、構成の基本となるものは短編です。優れた短編を書く能力は作家の構成力の基本となるものだといっていいでしょう。
     20世紀最高の短編作家といわれたボルヘスの作品などを見てもわかる通り、短編が描ける世界は決して小さくはありません。必ずしも壮大な世界を描き出すために
  • 並行世界ものと一回性の物語はどちらがどう優れているのか?

    2017-11-24 14:41  
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     オタク界隈で「並行世界」とか「世界線」という言葉をひんぱんに目にするようになってしばらく経ちます。もともとはSFの概念なのだけれど、ライトノベルやアニメでこれらの言葉が使用されるようになったのは、あきらかにエロゲの影響ですね。
     (シナリオ重視系の)エロゲでは各ヒロインごとにルートがあり、異なる世界が展開するわけなので、多くのエロゲはパラレルワールドものであるといってもいいかもしれません。
     「世界線」というのは『シュタインズ・ゲート』あたりで有名になった言葉でしょうか。もともとはロバート・シルヴァーバーグの『時間線をさかのぼって』が元ネタなのではないかと思うのですが、まあ、よくわかりません。
     この種のそれぞれの並行世界でルートが分かれる展開はゲームの専売特許で、ライトノベルやアニメでは再現しようがない――はずだったのですが、最近はコミカライズなどに際して本編とは別ヒロインのルートを描
  • 世の中ってむつかしいね。

    2016-05-27 23:55  
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     どもです。ここ2日間、エネルギーが尽き果てて休んでいました。
     原因はたぶんその前の3日間で20冊くらい続けざまに本を読んだこと。
     せっかく早起きできたんだから本を読むぜっ!とばかりに読みまくっていたらあっというまに気力が尽きてしまいました。
     つくづく思うのですが、この世には面白いものがたくさんある。お金もそこそこある。時間すらぼくの場合は余っている。ただ、エネルギーだけが足りない。エネルギーをなんとかしないと人生を楽しみつくすことはできないなあ、と。
     いままではわりと時間のある限りコンテンツを消化しつくそうと思っていたのだけれど、たび重なる失敗にさすがのぼくも学習しました。
     いくらたくさんの作品があり、それを消化する時間があっても、エネルギーがないとすぐ倒れますね!
     やっぱり一日中ひたすら本を読みつづけるとか、映画を見つづけるとかは無理があるんだろうなあ。少なくともぼくの場合、3日ともたないようです。
     ぼくの人生テーマとして「どうすれば人生を最大限に楽しんで死ねるか」があるわけですが、とりあえずひたすら猪突猛進するビッテンフェルト的なやり方は問題があることがわかりました。
     というか、精神力と体力の限界を考えずに突き進むって『銀英伝』的には愚か者だよね。申し訳ありません、わが皇帝(マインカイザー)。
     まあ、1日に起きている時間がたとえば16時間くらいあるとして、その16時間を休まずコンテンツ消化しつづけることは無理だとわかったわけだから、次善は毎日適度な量を消化しつづけることかな、と。
     たとえば1日1冊は読むようにするとか。体力と精神力がもつギリギリまでスケジューリングして、あとは休む、と。
     ほんとうはそっちのほうが長期的に見ればたくさん消化できるような気もする。
     でも、そうすると必然的に時間が余るのですよね。その余った時間を何に充てるか。
     まあ休むことに充てればいいのだろうけれど、それはもったいないような気がしてならないんですよね。
     いや、そういって倒れていたらなんにもならないわけだけれど……。
     この、「時間を有用に使っていないともったいなくてならない」というけち臭い考え方、実に 
  • 小説、漫画、アニメ。30年の時を超え多面展開する『アルスラーン戦記』が凄い!

    2016-05-10 15:54  
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     この記事で今月30本目ですねー。我ながらよく書くわ、と思ってしまう。
     これだけ書いているとさすがに読者満足度は高いらしく、過去10日で退会者はひとりだけです。
     もちろん量だけ多くてもしかたないので、質と量を兼ねそなえた運営を心がけたいところですね。
     さて、きょう取り上げる作品は田中芳樹&荒川弘『アルスラーン戦記』の最新巻です。
     表紙は旅の楽師ギーヴ。たいして努力をしている様子も見えないのに天才的に強いという田中芳樹らしいキャラクターですが、この巻ではそのギーヴがアルスラーン、エラムらとともに活躍します。
     王族や権力者に反感を抱き、忠誠心などかけらも抱いていないギーヴがいかにしてアルスラーンに心寄せるようになるのか、原作でも見どころのひとつです。
     荒川さんはそこらへん、実にていねいに漫画化しているので、原作ファンも満足できるでしょう。
     もっとも、どこまでいってもあくまで「荒川弘の漫画」なので、原作の雰囲気を至上視する人のなかには不満を持つ人もいるかも。
     ただ、それはしかたないことだと思うのですよね。才能ある漫画家であればあるほど、単なる「原作の再現」に留まらないものを描こうとするだろうし、それこそがある作品の多面的なメディア展開の面白さでもあるわけですから。
     とはいえ、どこまでも「荒川弘の漫画」であるという事実を受け入れるなら、この漫画版は相当に原作に忠実に作られているといっていいでしょう。
     正直、もっとアレンジを加えてくるかと思っていただけに、意外なくらいです。
     ギーヴとアルスラーンのコミカルなやり取りとか、漫画オリジナルの描写もあるけれど、それも完璧に原作を消化していることがわかるものに仕上がっている。
     さすが一流の漫画家は違うなあ、とうなってしまいます。
     原作への忠実度という意味ではアニメより高いでしょうね。そのアニメはこのたび第2シーズン「風塵乱舞」が放送されるのだとか。
     どうしてサブタイトルを「王都奪還」にしないんだろ?と思っていたのですが、なんと全8回のショートシリーズだそうで、王都エクバターナ奪還まで話が行かないようなのですね。
     次はまた『王都奪還』だけのシリーズを作るのだろうか。うーむ。まあいいけれど、あまり中途半端なところで終わってほしくないなあ。人気はあるようだから途中で終わることもないかもしれませんが。
     それにしても、漫画版は第5巻にしてようやく原作2巻の途中です。
     この調子でいくと、漫画版が原作をすべて消化したら全50巻程度の超大作になってしまうわけですが、はたしてそこまでやるのでしょうか? ――うん、いや、やるのだろうなあ。
     そこら辺は『鋼の錬金術師』をみごと完結させた荒川さんのことだから特に心配はしていません。きっと時間はかかっても最後まで語り切ってくれることでしょう。
     問題は原作そのものがまだ未完だということなのですが――驚くべきことに今月、原作第15巻が出るそうです。
     全16巻完結予定のため、クライマックスまでのこり1冊を残すのみということになります。
     一時期は未完に終わる宿命かと思われたこの作品に、完結の見込みが出てきたということになります。
     というか、 
  • 口うるさい原作ファン、藤崎竜版『銀英伝』を語る。

    2015-10-09 00:51  
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     おそらく生まれて初めて『ヤングジャンプ』を買って、藤崎竜版の『銀河英雄伝説』を読みました。
     物語ははるかな未来、銀河帝国首都星オーディンに住むジークフリード・キルヒアイス少年がとなりに越して来たラインハルト少年に出逢うところから始まります。
     ほぼ原作通りの描写が続いているのですが、なるほどなあ、ここから漫画化して来るか、という感じ。
     原作はラインハルトがすでに帝国軍上級大将になって一軍を率いているところからスタートしていますからね。まったく印象が違います。
     ひょっとしたらこのまま少年ラインハルトの物語が続いていくのでしょうか。
     そしてどこかの時点で(アスターテ会戦?)、宿敵ヤン・ウェンリーが登場する、という構成になるとか。それは面白いなあ。
     描かれている出来事そのものはどれも原作に忠実なのだけれど、構成と演出が変わっているためにまったくべつの物語という印象になっている。
     ここらへんはストーリーテリングのマジックで、構成フェチとしては胸が躍ります。
     まだ全貌があきらかになったわけではないけれど、キャラクターデザインやファッション、メカニカルデザインは過去のアニメ、及び道原かつみ版の漫画にほぼ準拠している様子で、そこが物足りなくなくもないですね。
     どうせなら完全に新しいメカデザインを用意してほしかったという気もする。
     ただ、しばらく「さながら地球の中世ヨーロッパのよう」な描写が続いたあと、巨大な宇宙船が雲のなかから舞い降りて来る場面はとても印象的で、このひとコマだけでもすごくわくわくさせるものがある。
     そして、「高度な科学力は意図的に隠されている」という設定が加わった結果、1500年後の未来世界の生活が大きく変わっていないように見えることが不自然ではなくなっているし、世界の設定と描写に一本芯が通った。
     これはうまい手だと思います。自由惑星同盟側の描写が楽しみ。
     いや、ほんとうに物語っていろいろな語り方がありえるんだな、唯一の「正解」があってほかは全部外れというわけじゃないんだな、ということがわかって、個人的には感動的ですらありますね。
     最終ページは姉を皇帝に奪われたラインハルトが「僕は皇帝を斃す!!!」と宣言し、「これが後の世のいう「獅子帝」ラインハルトの出発点であった」と語られる場面で終わっているわけですが、まさに壮大なストーリーのオープニングという感じで素晴らしいです。
     つまり、この時点でラインハルトの皇帝打倒計画が成功することを宣言してしまっているわけで、原作未読者は「いったいこの無力な少年がどうやって皇帝にまでなるのか?」と続きが気になるのではないでしょうか。
     ぼくなどはどうしても原作を最後まで知っている人間の視点で読んでしまうわけですが、よく知らない読者のほうが多いはずで、そういう人に向けてとても親切な作りになっていると思います。
     主人公の動機と目的が定まるところで第1話終了というのは、連載漫画の初回として非常にきれいな作りですね。
     ぼくは口うるさい原作ファンだけれど、満足です。
     あとは