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  • 検証。『進撃の巨人』は「セカイ系」の対極にある「新世界の物語」なのか?

    2014-10-15 04:30  
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     「新世界の物語」と「セカイ系」の話をちょっとどこかにまとめておかないといけないにゃー、ということで、ここに簡単に記しておきます。
     まあ、先日のラジオで話したことなんですが、あまりにも面白かったので文字にしておく必要があるだろうと。
     簡単にいうと「新世界の物語」と「セカイ系」は真逆であり対称である、という話なんですが。
     振り返ってみましょう。「新世界の物語」とは、ここ最近の漫画やアニメで登場して来ている「新しい世界」とは「現実」を指しているのではないか、という話でした。
     具体的にはこの記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582)で書きました。こんな内容です。

     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。

     これが「新世界の物語」です。ここまでは良いでしょうか? 今回話したことはこの続きにあたります。
     すべてはぼくが「それでは、久慈進之介の『PACT』はどうでしょう? これも「突然ひどいことが起こる」話だけれど、「新世界の物語」に含めることができるでしょうか?」とLDさんたちに訊ねたところから始まります。
     ここから、LDさんとペトロニウスさんの間で議論が発展していろいろと面白いアイディアが出て来たらしいのですね。その結論が、上記したような「新世界の物語」と「セカイ系」は対称を成しているという話です。
     ちょっとここはあまり軽々に断言できない、ほんとうのそうなのか?と思うところであるのですが、とりあえず話を進めてしまいましょう。
     まず、「新世界の物語」とは、「保護されていない現実」を舞台とした物語でした。それでは、「セカイ系」はどうなのか? それはつまり、「個人の内面世界を舞台とした物語」だったのではないか、ということなんですね。
     くり返しますが、ほんとうにそうなのかはまだよくわかりません。真偽をたしかめるためには、セカイ系の代表作といえる作品をひと通りさらい直してみる必要があるでしょう。
     しかし、ここでは当面、そういう理解で進めてみましょう。『ほしのこえ』であれ、『最終兵器彼女』であれ、「セカイ系」の作品においては、個人(主人公とヒロイン)と世界(セカイ)が直接に結びつけられています。
     つまり、そこでは個人の行動が即座に世界に影響を与えるのです。最も典型的なサンプルと思われる『最終兵器彼女』を見てみましょう。
     この物語の主人公であるシュウジとちせの行動は、「世界最終戦争」とダイレクトに結びつき、最終的には世界は亡んでシュウジとちせだけが生きのこります。セカイ系の宇宙とは一般にこういうものであるわけです。
     あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』(のテレビシリーズ及び旧劇場版)にしても、主人公である碇シンジの行動と決断がそのまま世界の命運を左右します。
     この「個」と「セカイ」が明確に分離されていない、むしろ融合してひとつになっているとすらいえる描写が「セカイ系」の特徴だといえるでしょう。
     ある意味で遠近法が消失した宇宙というか、「個」の内面が極限まで重視される世界ということもできると思います。
     さて、一方で「新世界の物語」では「個」と「セカイ」は明確に分離されています。いくら主人公が泣き叫ぼうが、あるいは必死に努力しようが、「世界の理(ことわり)」はそれとは無関係に動いていて、主人公やヒロインを圧殺したりもするわけです。
     このことが端的にわかるのが『進撃の巨人』序盤で主人公エレンが巨人に食われてしまう場面ですね。そこでは「主人公であろうがご都合主義のお約束で生きのこれる物語ではない」ということが示されているように思います。
     ここまでが、前提。ここからようやく『PACT』の話になります。『PACT』も、「壁」の描写こそありませんが、一見すると「新世界の物語」的であるように見える作品です。
     というのも、『PACT』でも次々とひどいことが起こるんですね。たとえば、これはネタバレになりますが、第1話の時点でメインヒロインと思われる女の子が死んでしまうわけです(あとで生きのこっているようにも見える描写がありますが、これはミスディレクションなのかな? クローンとか?)。
     ここだけ見ていると『PACT』も「新世界の物語」的な、「身も蓋もない現実」を描いているように見える。『進撃の巨人』のような斬新さがそこにあるということもできるかもしれない。
     しかし――しかし。それにもかかわらず、『PACT』は明白に失敗作である、とペトロニウスさんは喝破します。
     たとえば、日本を沈没させかねない危険な爆弾を解体しようとする主人公を守る兵士を見よ、と。
     かれは、あくまで任務を再優先に考える主人公に対し激発し、感情的に食って掛かる。これはリアリティのレベルを守りきれていない描写である。
     なぜなら、既にその同じ爆弾によってアメリカ合衆国が沈没しているという、つまり世界が半分滅亡しているような状況下において選ばれた兵士が、個人的な感情を責務より優先させることなどありえないからだ、と。
     つまり、この作品はテクニカルなレベルで完全に失敗している物語なのだ、と。まあ、納得が行く話です。ぼくも『PACT』が傑作だとは思いません。
     ところが、です。LDさんがその話を聞いて、しかし、と反論したらしいのですね。ペトロニウスさんのブログから引用するとこんな感じだったらしい。

     僕が言っているのは、技術レベルの話で、そもそも作者がやりたかったことの意を汲むべきだし、かなり失敗しているとはいえ、まったくそれができていないというわけでもない、とね。そこで、いやいや、そうじゃないです、、、、この技術的な問題点が、やりたかったこととコンフリクトしてて、、、という話になって、では、この物語がほんとうに示すことは何なのか?という話になり、、、という流れです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141010/p1

     つまり、『PACT』の失敗は単に技術的な問題「ではない」ということなんですね。
     『PACT』の問題点とは何か? それは作中の描写が作品の主題とコンフリクトしていることであるわけです。即ち、あまりにも「個」の感情を重視するあまり、「人類全体」が危機に陥っている状況下においてありえないような描写を行ってしまっているということ。
     思い出してみましょう。「新世界の物語」とは「個」の情緒と「世界」のありようが完全に分離している「現実」を描く物語でした。
     しかし、『PACT』においてはその「個」が「そんな世界のありようはおかしい!」と、いってしまえば甘ったるいことをいい出しているわけです。
     これが『PACT』の究極的な問題点です。さて、これはどういうことでしょう? つまり、『PACT』はどこかしら「新世界の物語」のように見えて、実は「セカイ系」的な作品なのだ、ということなんですね。
     ぼくなりにいい換えるならこういうことになるかもしれません。「セカイ系」は「個」の悲劇を描く物語である。つまり、「セカイ系」では「個」(主人公)と別の「個」(ヒロイン)の対幻想にもとづく悲劇は成立する。
     しかし、「新世界の物語」ではそういう「個」の悲劇はそもそも成立しない。なぜなら、その「個」の悲劇とは「無数にある悲劇」のなかのひとつに過ぎないからである、と。
     さらにいい換えるなら「セカイ系」は主人公とヒロインの関係を近景で見、「新世界の物語」は主人公を含む広大な世界を遠景で見ているということもできるかもしれません。
     したがって、『PACT』が失敗しているのは、「新世界の物語」的に過酷な状況設定を行っているにもかかわらず、「セカイ系」的な「個」を重視するロマンティシズムを持ちだしていることだ、ということになります。あんだすたん?
     ここまで考えてみると、「新世界の物語」と「セカイ系」はまったく正反対の、互いに相容れない物語なのだ、ということがいえそうに思えて来ます。
     そう、「個」の価値を極限まで重視し、そこに世界と同じだけの重みを見いだしたのがセカイ系だとするなら(ほんとうにそうなのかはよくわかりませんが)、「個」ではなく「全体」を見て、「個」とはあくまで「全体」のなかの一部分でしかない、と考えるのが「新世界の物語」ということが、当面はいえそうです。
     あるいは前者を左翼(レフトサイド)的な世界観、後者を右翼(ライトサイド)的な世界観と見ることもできるかもしれませんが、ここではあえてそういう政治的な言葉を使用する必要性を認めません。
     とりあえず、両者には「個」をどこまで重視するかという一点において、決定的な落差がある、ということを確認しておけば十分でしょう。
     そして、これはもちろんいずれが正しく、いずれが間違えているという性質のものではありません。ただ単に性格の違いがあるだけなのです。
     「セカイ系」の代表作としては『ほしのこえ』とか『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』あたりが挙がるでしょう。『新世紀エヴァンゲリオン』とか西尾維新の『戯言シリーズ』も同系統の作品であるかもしれません。
     ひとついえそうなことは、こういった作品がある程度ウケた頃とは、たしかに時代が変わったのではないかということです。
     もちろん、その背景にあるものは日本の社会の急速な変化であるのでしょうが、まあ、そこらへんはよくわからない。ただ、いま見るとこの手の作品は非常に甘ったるく感じられます。
     とにかく、たとえば『エヴァ』旧テレビシリーズでは碇シンジの存在は最後まで世界を左右しますが、それから十数年後の『新劇場版:Q』では「世界の中心」の座を外されます。
     そういう変化もまた、「セカイ系」と「新世界の物語」の対称性と似たところがあるように思われます。
     底なしに甘い、ロマンティックな対幻想の、心中ものの悲劇がウケた時代から、マクロ的な視点で世界を眺める、よりきびしい物語がウケる時代へ、とひとまずはまとめることができるかもしれませんが、ここは断定することなく保留しておきましょう。
     とにかく、これは非常に面白い話だと思うんですね。「新世界の物語」を巡る話が一歩進んだ感じ。
     もうひとつ「新世界の物語」について書いておくと、「新世界の物語」とはどうやらただ「あまりにもきびしい現実」を描くだけでは成立しないらしいということがわかって来たように思います。
     つまり、それは必要条件の第一に過ぎなくて、第二の条件がある。その条件とは「その過酷で残酷な世界において、どうやって生きのびていくか」ということである、と。
     ようするに「あまりにも過酷で残酷な現実を描き」、しかも「そこでどうやって生きのびていくか」を描き切った作品が「新世界の物語」のなかで名作として、あるいはヒット作として知られるようになる、ということかな。
     ちょっと系統が違いますが、『銀の匙』あたりがなぜヒットしたのかもここらへんの事情を踏まえると説明できるような気がします。
     あの物語では