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記事 9件
  • 『十二国記』の新刊を手に入れたぞ!

    2019-10-12 12:45  
    50pt
     まえの記事の「引き」をとりあえず捨て置いて話し始めますが、今年最大といわれる台風19号が近づくなか、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
     ぼくは朝からさっそく書店へ赴き、『十二国記』の最新刊を購入して来ました。ふっふっふ。いまから読むぞ!
     もし電子書籍でも刊行してくれていればこのあらしのただなか、王を求める麒麟よろしく歩き回らなくても良かったのだけれど、まあ、それはしかたない。小野さんのような究めつきに精緻な文章を書かれる方が電子書籍を避ける気持ちもわからなくはありません。
     とにかくシリーズ最新作『白銀の墟 玄の月』、第一巻と第二巻の入手には成功したので、現代エンターテインメントの最高傑作の一つを熟読、味読、耽読したいと思います。ああ、倖せ。
     田中芳樹『創竜伝(14)』も手に入れてあるので、こちらも併せて読みましょう。ひさしぶりに言葉に耽る歓びを味わえそうです。ほんとうに倖せ。
     
  • 天才作家連城三紀彦、その伝説の手際に戦慄する。

    2015-11-28 03:57  
    51pt

     綾辻幸人、伊坂幸太郎、小野不由美、米澤穂信という当代一流の作家たちが、いまは亡き天才作家の輝かしい業績を追ったアンソロジー『連城三紀彦レジェンド』を読んだ。
     随分と昔に買ったはずだが、読むのは遅れに遅れていまになってしまった。
     しかし、この本が素晴らしい一冊であることに変わりはない。
     レジェンド――伝説の人。
     物故したのち、そう呼ばれるに値する作家が、この日本に何人いるだろうか。
     ともかく、連城三紀彦その人は紛れもなく伝説となるべき存在であった。
     その作品をひと言で表すなら、華麗、ということになるだろう。
     とにかく無駄がなく、完成度が高く、しかもただそれだけに留まらない「艶」のある作品を書く人だった。
     ただ単によくできた小説を書く作家はほかにもいるだろう。
     だが、連城の書き方はほかのすべての作家と違っている。
     すべてがあまりにも完璧に洗練さているせいで、読む者に異常に華麗な印象を与えるのだ。
     それは晩年の作品に至るまでついに変わらなかった。
     まるで重力を無視して自由に飛ぶ蝶のような、とでもいえばいいのか、自由自在な作品は熱狂的な愛読者を生んだ。
     そして、その着想。
     一生涯を通じて、連城はほかのだれにも思いつくことができないだろうと思われるアイディアを次々にひねり出す天才トリックメーカーだった。
     連城の作品を読みながら、幾度、突然に重力が狂ったような酩酊感を味わったことだろう。
     卓抜な発想のトリックメーカーはほかにもいるだろうが、連城という魔術師は、そのトリックを操る手際が並外れて巧みだった。
     最後の最後まで読者にトリックの存在を気づかせない手際の素晴らしさ。
     そして、その文章の香気馥郁たる美しさ。
     探偵小説はトリックを成立させるためにときにその構造を歪めなければならないなどといういい訳は、一作の連城三紀彦を前に恥じ入って退散するしかない。
     なぜなら、連城の作品は、その内に驚天動地のアクロバティックなトリックを仕込まれていながら、何よりもまず小説として美しく完成されているからだ。
     この作家は、何かしら逆転のトリックを仕込むために、小説としての洗練を犠牲にするということをしないのだ。
     たとえ、あまりに破天荒なプロットのためにどうしようもなく全体の構造が歪むことがあるとしても、その歪みすらもが美しく整えられている。それが連城三紀彦独創の世界なのである。
     なんという作家だろう。
     たとえば 
  • 騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

    2015-06-21 03:40  
    51pt

     「幸せ」のことを考えている。
     幸せになるとはどういうことか、そして、幸せでありつづけたいならどういうことをすればいいのか。
     答えは明瞭ではありえないが、幸せになるためにはいくばくかの勇気と、そして素直さが必要であるという考えは揺るがない。
     勇気については、すでに語った。素直さとはどういうことか。
     つまり、自分が幸せになりたいと思っていると素直に認めることが大切だと思うのだ。
     そうでなければ、幸せになるためにはああすればいい、こうすればいいと教示されたところで、皮肉にほほ笑んでこう呟くばかりだろう。「そんなことで幸せになれるなら苦労はしないさ」。
     しかし、幸福とはどこか遠くにあるものとは限らない、心のありようひとつでいかようにも変われるものなのだ。
     それなのに「自分は決して幸せになれない」と考える人は、むしろ「不幸である自分」に何かしらの価値を見いだしている可能性がある。
     そうやって、素直になれない限り、幸せに手が届くはずもない。ひとは光の差すほうへ歩いて行くべきなのだ。
     と、こう書いていて思い出されるのは、北村薫の小説『朝霧』に出て来るこんなセリフだ。

    「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」

     「本当にいいものは太陽の方を向いている」。
     十数年前、初めてこの小説を読んだときは「ほんとうにそうだろうか」と疑問に感じたものだが、いまならいくらかはわかるように思う。
     「本当にいいもの」には、無明の闇のなかでなお光を目ざすような向日性がある。
     それは決してただ明るい光が燦々と照らすなかで生まれ育っているということではない。
     むしろ、絶望の闇のなかでこそ、それでも光を目ざすことができるかどうかが試されるのだ。
     たしかに、闇や悪や狂気といったものの深遠な魅力にくらべ、光には素朴なところしかないようにも思える。
     しかし、そうではない、光の道の奥深さは、それを歩いてみて初めてわかるもの、ナウシカもいっているではないか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と。
     もちろん、 
  • 運命を受け入れて生きるということ。

    2015-02-20 22:26  
    51pt
     えー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
     ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
     ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
     すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
     つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
     それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
     それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
     しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
     だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
     したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
     そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
     その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
     その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
     最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
     それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
     だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
     栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
     空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
     ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
     これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
     それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
     もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
    (ここまで2045文字/ここから2069文字) 
  • 「正しい意見」がいつも最大の価値をもつとは限らない。

    2014-05-24 12:48  
    51pt


     小野不由美の『十二国記』に「華胥」と題する短編がある。ある国家の衰亡を描いた作品だが、そのなかでこんなひとことが読者に突きつけられる。「責難は成事にあらず」。
     「何かを非難することはものごとを成し遂げることではない」というほどの意味だ。ぼくはつくづくこの言葉に考えさせられた。
     きょう、インターネットにはひとを非難する言葉があふれているし、だれよりぼく自身、色々な批判をくり返して来た。しかし、それらはしょせん、何かを成し遂げることではないというのだ。この言葉をどう受け止めれば良いのだろうか?
     ひとつには、こんな言葉は妄言だと切り捨てることができるだろう。批判には価値がある、間違えた意見を批判していかなければ社会はそういった意見が蔓延し、社会は腐敗してしまうのだ。間違えている意見を批判し正すことは必要な上に重要なことなのだ、と。
     これは一面で正しいように思う。『十二国記』にしても、批判は必要ないと云っているわけではないだろう。ただ、必要ではあっても、「成事」ではないと云っているのである。
     どういうことか。ぼくなりに云い換えるなら、何かを批判することは「マイナスをゼロにする」行為で、「プラスを生み出す」行為ではないということになる。
     「間違えた意見」という「マイナス」を減らしていくこともたしかに必要だけれど、それが「プラス」を生んではいない以上、その意見を述べている者がそれによって高く評価されないとしても仕方ないのだと思う。
     世の中には、時に間違えた意見を云っているひとが、いつも正しい意見を云うひとより目立っているように思われる場面がある。
     これは理不尽な状況であるようにも思われるが、しかし、収支決算としてみれば、いつも正しいことを云っていても批判ばかりしかしないひとより、時に間違えてマイナスを出しても、プラスの価値を生産できるひとのほうが評価されるのは当然のこととも云えるのである。
     それくらい、社会にプラスの価値をもたらす言説というものは貴重なものなのだ。
     さらに云えば、意見ないし主張の「正しさ」と「価値」はまた別なのかもしれない。「正しくても無価値な意見」はあるし、また、「間違えていても価値がある意見」もありえる。たぶん、「正しさ」こそがすべてだと考えると、色々なことが混乱してくるのだろう。
     いちばんシンプルな例を考えてみよう。だれかが「1+1=3」と主張しているとする。これは明確に「正しくない」意見だ。したがって、「それは間違えている!」という批判が集まることだろう。
     それらの批判は「正しい」。したがって、受け入れられるべきである。ここまでは、ぼくも納得する。
     しかし、「1+1=2に決まっているじゃないか」という意見は、既存の、あたりまえの常識をなぞっているだけに過ぎず、べつだん新たな価値を創出してはいない。それが「責難は成事にあらず」という言葉の意味なのではないだろうか。
     何かしらの批判が「マイナスをゼロにする行為」であるとすれば、「プラスを生み出す行為」とは、 
  • 『十二国記』、『タイタニア』、『ファイブスター物語』、次々と再開する名作たち。(2143文字)

    2013-10-06 07:00  
    53pt




    【『十二国記』と『タイタニア』】
     小野不由美の完全版『十二国記』が『図南の翼』までたどり着きました。『十二国記』全編のなかでも傑作と目される長編です。
     この先、物語は『黄昏の岸 暁の天』、『華胥の幽夢』と続いて未完に終わっているのですが、今後、それにつづく新作長編が発表されるという話。
     いったいこの先、どのような展開が待っているのか、期待は高まるばかり。
     12年ぶりの短篇集として刊行された『丕緒の鳥』も、たしかにすばらしいクオリティの作品ぞろいでしたが、何といっても陽子たちおなじみのキャラクターがひとりも出て来ない。そういう意味では物足りない内容でした。
     しかし、今後の新刊はおそらくそうはならないでしょう。ほんとうの意味で『十二国記』が再会する時は、間近に迫っているように思います。
     今年は『星界の戦旗』、『十二国記』、『タイタニア』、『ファイブスター物語』と、いままでなかなか続きが出なかった物語がいっきに再開した記念すべき年であるわけですが、いずれの作品も期待を裏切らない出来で嬉しいです。
     特に、あとでくわしく書きますが、田中芳樹の『タイタニア』は凄かった。「田中芳樹の全盛期はまだ終わっていなかったのか!」と刮目させられるハイレベル。
     正直、「いまの田中芳樹に『タイタニア』の続刊が書けるのだろうか?」と疑わしく思っていたのですが、いや、書けたんですね。恐れいりました。
     ほんとうに正しい意味での「小説」を読む歓びを、一ページ一ページ本をめくっていく楽しさを、ひさしぶりに思い知らせてくれる作品でした。
     この作品を読んでぼくは、自分がどんなに小説を読むことが好きだったのか思い知りました。

    【酷烈なる物語】
     近頃の萌え燃えなライトノベルも、もちろん悪くない。しかし、あらためていま『タイタニア』を読んでみると、 
  • 『十二国記』のここが納得いかない。(2211文字)

    2013-01-24 08:24  
    53pt



     今年、小野不由美『十二国記』の新刊が出るという。まずは短篇集になるようだが、長編が続くと考えていいのではないか。物語は素晴らしくいいところで中断している。十年ぶりに続刊を読めるとしたらこれ以上の歓びはない。
     『十二国記』は稀代の傑作である。だれもがそういうし、ぼくも異論はない。ほんとうに面白い物語だと思う。ただ、それでもぼくはこの小説にかすかな違和感を覚えることがある。批判というほどつよい思いではない。ほんとうに小さな、それでいいのか、という違和。
     それはこの小説の価値観に対する違和だ。『十二国記』の登場人物はそれぞれ偉い。立派である。初めは愚かだったり卑小だったりする人物も、時の流れとともに成長してゆく。ぼくはその立派さについていけないものを感じる。だれもがあまりにも偉すぎる。というか、物わかりが良すぎる。
     それをいちばん強く感じたのが、いまのところ最大の長編である『風の万里 黎明の空』だ。主人公である陽子を含めた三人の少女たちの放浪と成長を描いた物語だが、その成長がぼくには少々無理があるものに思えた。
     『風の万里 黎明の空』一編を貫くテーマは「自己憐憫に耽るな」ということだと思う。自分を哀れんで泣いてばかりいると、自分がだれよりも可哀想に思えてくる。それは何ら事態の解決につながらない。だからそうしてばかりいないで、行動したほうがいい、と。
     このテーマ自体には異論はない。ぼくもよく同じ趣旨のことをいうし、正しい考え方だと思う。しかし、ぼくにはどうにもその正しく、また高潔な考え方に違和を覚える。つまり、自己憐憫に耽るまい、と思ってもどうしてもそうしてしまうのが人間ではないか。
     たしかに自分を哀れむことは不毛かもしれないが、だからといっていつも凛としていられるかというとそうでもないはずだ。しかし、『十二国記』はそうした弱さを許さないように思える。そこに何か窮屈なものを感じざるをえない。
     これが『銀河英雄伝説』だと、そういう感想にはならない。ラインハルトは高潔だが、それは単にかれが特別な人物だからそうだというだけであって、だれもが高潔であるべきとは描かれていないと思うからだ。『銀英伝』には善人とはいいがたいが魅力的なキャラクターもたくさん出てきていて、それが作品を多彩に彩っていると思う。
     『十二国記』の場合は、やはり悪い奴はひたすらに悪い奴、というところがある。それが最もつよく出ているのが『東の海神 西の滄海』で、この作品の敵役である斡由は、初めは颯爽たる姿で出てくるのだが、結局、無残な醜態をさらして退場する。かれの役割は主人公のひきたて役であるに過ぎない。こういうところが、どうにも納得できない。
     
  • 小野不由美『十二国記』を再読する。堅牢たる名文で綴られるその不思議な世界。(1586文字)

    2013-01-02 14:19  
    53pt
    小野不由美『十二国記』の「完全版」がいま出ています。既刊を出し終えた暁には新作が続くそうです。いやあ、素晴らしいですね! まあ、今年中に新作が出るかどうかわかりませんが(たぶん出ないでしょう)、楽しみにしたいと思います。それにししてもあらためて読んでみると小野さんは本当に文章がうまい。非常に勉強になります。ぼくもこういうふうになりたいな。
  • マクロとミクロは相克する。目の前の子供を救うか、その子を犠牲にし世界を救うかの問題。(2078文字)

    2012-12-03 18:04  
    53pt
    本文にも書いたように、同じものを眺めるにしても、マクロとミクロのいずれの視点で見るかによりまったく違ったものが見えてきます。マクロの視点から見れば、巨大な大義のためには「個」を圧殺する必要が出てくることもあるでしょう。しかしミクロの立場から見ればそう簡単に圧殺されてはたまりません。このふたつの視点の相克が、物語を動かしていくものなのです。