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2014年9月の記事 21件

後味爽やかな傑作短編「宗像くんと万年筆事件」。

 その年の本格ミステリの最高傑作短編を集めた『ベスト本格ミステリ2013』に、中田永一「宗像くんと万年筆事件」が収録されている。第66回日本推理作家協会賞短編部門の候補作となったという作品である。  これが面白くて面白くて、ひさしぶりに夢中になって読み耽った。ちなみに中田永一はデビュー作「百瀬、こっちを向いて」が映画化され、『くちびるに歌を』で第61回小学館児童出版文化賞を受賞するなど活躍中の作家だが、この名前が乙一の別名義であることは周知の通りである。  いや、しかし、「宗像くんと万年筆事件」、実に素晴らしい。何が良いって、爽やかな後味がたまらない。中田永一(乙一)のほとんど全作品がそうなのだが、読み終わったあと、実に切なくも爽涼とした印象が残る。  中田は「少年と少女が出会って、ほんの一瞬だけ交流し、去って行く、という物語を予定していました」と書いているが、まさにその一瞬の交流の哀切さが胸に刻み込まれる。文句なしの傑作だ。  主人公は小学校である事件に巻き込まれ、ぬれぎぬを着せられたひとりの少女。その彼女をさっそうと救い出すヒーローとなるのが同級生の宗像くんだ。  もっとも、この宗像くん、見かけはちっともさっそうとしていない。むしろクラスの嫌われ者ですらある。  「宗像くんは小学五年生のときにうちの学校に転入してきて、それ以来ずっと友だちがいない。彼の嫌われている理由はあきらかで、ちかくによると、ぷんとにおうのだ。何日もお風呂に入っていないらしく、彼の毛は脂でてかっており、爪の間には真っ黒な垢がたまっていた。服は黄ばんでおり、あきらかに何日も、もしかしたら何週間も洗濯されていなかった。席替えの際、彼のとなりになってしまった女子児童は泣き出してしまい、彼がおろおろと困惑していた。」というキャラクター。  しかし、このダーティーな宗像くん、あるときに十円玉を借りた恩義を返すため、意外な知性と推理力を発揮して、主人公の無実の罪を晴らしてしまうのだ。しかも、かれは最後にはその十円を返してどこへともなく去ってゆく。格好いい!  この種のミステリでこんなにも爽やかな後味を覚えたのはいつ以来だろう。ぼくは現代の本格ミステリの最大の弱点は読み終えたあとの後味の悪さだと思っているので、こういう小説は大歓迎である。もっと読みたい。 

後味爽やかな傑作短編「宗像くんと万年筆事件」。

ご奉仕できるご主人さまが欲しいきょうこのごろ。

 どもです。愛の国を探して幾年月、そもそも入国ビザを持っていないことに気づいた海燕です。いいかげん深夜なんだけれど、どうも眠れないので記事を書いてみます(更新は朝の予定ですが)。  これはもう発表してもいいと思うので書くけれど、何だか色々あって、とある恋愛系のウェブサイトにライターとして記事を書いたりすることになりました。  半生一非モテのぼくが恋愛系の記事を書くとか、何とも(笑)な感じですが、まあ、そこは不誠実な記事は書きませんので、もし見かけましたら読んでやってください。  それにしても、恋とか愛とかよくわからないよなー。好きとか嫌いとか最初にいいだしたのはだれなのかしら。いやー、ほんとに恋愛ごとには縁がない海燕さんです。  こう書くと、そもそも積極的に出逢いを求めないお前が悪いんだろうといわれてしまうのですが、でもさー、女の子とか、怖いじゃん。ちょっと近寄れないよね。キモい死ねとかいわれたらほんとうに死んでしまいますよ。  ぼくは、同世代以下の男性の心理なら、ある程度は洞察し理解し解析することができると思うんだけれど、女性はね、ほんとにわからないですね。わからないものは、怖い。恐ろしい。ガタブル。  ちょっとね、自分を客観的に見てもおよそ女性に好かれることがありえるとは思えないですからね。嫌われる理由なら百でも思いつくけれど。  ぼく、いい人なんですけれどね(笑)。そうとう心優しい性格だと思うんだけれど、でもって男にはやたらにモテているんだけれど、女性相手はダメですねえ。非モテの星の下に生まれたのかもしれない。  加納朋子さんの『てるてるあした』という小説に、主人公の少女が自分は一生だれにも愛されないに違いないと思い込んで泣きじゃくる場面があったと思うんですけれど、あれは読んでいるぼくも泣けました。共感しまくり。  ぼくもたぶん一生涯、だれからも愛されず必要とされず終わるのかもしれないと思います。寂しいですねえ。ほろり。  いや、ね。いままでは、そもそも自分の人生はより面白い他人の人生の影のようなものだと割り切っていたから、それでも辛くなかったんだけれど、いざ自分の物語を生きようと決意すると、寂寞感が募ります。  ぼくはもともと他人に対し特に恋愛感情といえるほどの想いを抱くタイプではなく、女性に惚れたりはまったくしない人なんですけれど、それでも、非モテを長くやっていると、それでもやっぱり寂しくなって来るわけです。  いやー、ひとりで生きてくのって、辛いよね。世の中の男女は、どうしてああ簡単にパートナーを見つけられるんだろう。いやまあ、簡単でもないんだろうけれど、ぼくから見ると信じられないような高等技術を使いこなしているように見える。  何なの、かれらは。神の子なの? 愛の国からやって来た旅人なの? 理解できません。  まあ、たぶんぼくがひとり図書室に籠もって本を読んでいる間、がんばってコミュニケーションスキルを磨いてきた方たちなのでしょうが、ほんとうにぼくから見ると別世界の人種と映ります。  いいなー、ぼくも愛し愛されて生きたいにゃー。女性とはどうコミュニケーションを取ったらいいのかすらわかりませんが……。ぼくの恋愛スキル、たぶん小学生以下だろうなあ。レベル2くらい。  いやね、ぼくはめちゃくちゃ愛情にあふれている人ではあると思うんですよ(笑)。恋はしないけれど、愛は人一倍あるんじゃないかな。情は濃いです。  さらに自分が好きな人には果てしなく優しいですからね。どこまででも付き合うし。まあ、暇があるからなんだけれど、それにしてもね。自分でいうなっていわれるだろうけれど、いいんだよ、自分でそう思うんだよ。  でも、男性としての魅力があるかっていうと、それはないよなー、と。 

ご奉仕できるご主人さまが欲しいきょうこのごろ。

イノチの価値がわからない。

 さだまさしといえば、有名な歌手だ。何年か前、その肩書きに「作家」が加わった。一作の小説を書き上げ、いわゆる「文壇デビュー」を果たしたからだ。以来、定期的に長編小説を発表しては話題を集めている。  芸能人の作家活動というと、どうしても余技の印象が強いが、さだの小説は、端正、流麗、十分にプロフェッショナルの作品と呼ぶに値する。  なぜ、ほんらい音楽家である人が、こうも卓抜な構成と、美麗な文章で物語を紡げるのか、不思議でたまらないが、かれが無二の天才作詞家でもあることを考えれば、ほんとうはちっとも不思議なことではないのかもしれない。  『精霊流し』を、『無縁坂』を、『風に立つライオン』を生み出してきたさだの日本語に対する鋭い感性は、当然、小説にも活かされ、ひとつの繊細な言語宇宙を作り出している。  そのさだまさしの長編『アントキノイノチ』を読んだ。某プロレスラーの名前をもじったと思しい、ふざけているようなタイトル。正直、それほど期待してはいなかった。  しかし、いったん読み始めると、あっというまに物語世界がそこに立ち上がり、生と、そして死が紡ぎだすドラマティックな物語に酔いしれた。  さだの小説は、上品な辛口の日本酒に似ている。すいすいといくらでも呑めるので呑み耽っていると、気づいた時には酔いが回り、世界がぐらんぐらんと揺れて見える。それでいて決して悪酔いはさせられず、気分が悪くなるようなことはない。  かれの紡ぐ言葉たちにはどこかしら揺るがない「品」があって、それが物語世界に一本筋を通しているのだ。  『アントキノイノチ』は、ふざけたようなタイトルとは裏腹に、きわめてシリアスで深刻な物語である。主人公は、病み傷ついた心を抱えたあるひとりの少年。  そのかれが、自殺や孤独死で亡くなった人の部屋の始末を請け負う会社のいち員として働くうち、しだいに生の重みを知り、成長してゆくプロセスがリリカルな筆致で綴られている。  ごく淡々とした小説であり、あるいはもうひとつ物足りないと思われる方もいらっしゃるかもしれない。だが、エロスとタナトスの深遠な秘密に分け入ろうとするさだの書き方は、きわめて抑制されてはいるものの、奥の方に何か熱いものを秘めていて、読ませる。  数しれない美しい歌詞を生み出してきたさだは、しかしただ流麗で読み心地がいいだけの物語をよしとはしていないようだ。いくつかの生と、そして死が交錯する展開は、読むほどに力強く迫ってくる。  これは、いかにもさだらしく笑いのオブラートにくるみ込んだ生の賛歌だ。生きていることと、生きてゆくことの、その素晴らしさを切々と語ってくるような物語。まず傑作といっていい出来だと思う。  それにもかかわらず、ぼくがもうひとつこの長編に陶酔し切ることができないのは、ぼく自身の問題であるのだろう。ぼくには、命というものにそこまでの価値があるのか、いまひとつ確信し切れていないところがある。  あるいは世にいう中二病の、幼い偏屈に過ぎないかもしれないが、死ぬことは死ぬことで、殺すことことは殺すことで、それなりに意味があるように思えてしまう。  どうしても殺してやりたいような命は、ある。ぼくはその思いを消すことができない。 

イノチの価値がわからない。

自分という名の空っぽのわら人形。

 すっかり秋になりましたね。ぼくはようやくワードローブから長袖の服を取り出して着ています。この季節は体調を崩しやすいので注意が必要です。  今週の『3月のライオン』が爆笑の超展開を迎えていて、その話をしたいのですが、さすがにネタバレなので自粛します。いやー、おじさん、びっくりしちゃったわー。いったい何がどうしてこうなった。うーむ。  ちなみに『ベルセルク』がそれに輪をかけた素晴らしさだったので、今週の『アニマル』には満足です。展開はなかなか進まないけれど、やっぱりこれ、凄い漫画ですね。  さてさて、きょうは特に語ることもないので、自分語りをさせてもらおうと思います。どこから話したらいいものか。  そう、ぼくは長い間、自分は「他人の人生」を覗き見ることが好きで、それに特化した人間だと思って来ました。小説でも漫画でも映画でもいいのですが、他人の人生を垣間見てそこに共感することのほうが自分の人生を生きることよりも優先順位が高いタイプの人格なのだと。  じっさい、いままではひたすら本を読んでいればそれで幸せになれたのですよ。しかし、三十代半ばにして、それも行き詰まりました。いくら本を読んでいても、それだけではいまひとつ楽しくなくなって来たのです。  この世には無数の物語があり、数えきれないほどの娯楽作品が存在しているのに、それらを順に消化しているだけでは物足りない自分に気づいた。  それならどうすればいいのかと七転八倒して考えた結果、結局は「自分の物語」をアップデートしなければならないという結論に至りました。  つまり、自分の人生という物語の主役となって、自分の人生を充実させなければならないんだと。それまで放置していた自分の物語を充実させないことには、もうどこにも行けない、他人の物語を楽しむこともできない、そう悟ったわけです。  しかし、いざ、自分の人生を生きようと考えると、自分が何も持っていないことに愕然とさせられます。学歴もない、キャリアもない、結婚もしていない、恋人もいない、収入も少ない、容姿にも人格にも自信がない。通常、自尊心の根拠となるものが何ひとつないんですね。  つまり、ぼくは空っぽの人形でしかなく、何の「根拠」も持っていないだという事実と向き合わなければならなくなったのです。  幸いというか、それでも趣味はあり、友達はたくさんいるので、「これでもまだマシ」なのかもしれませんが、それにしても30年以上も何をして生きて来たのかと呆然としてしまいます。  つくづく思いました。この「自分の空っぽさ、何も持っていなさ」に直面することから逃げ、ひとを攻撃し、排斥し、侮辱し、安い優越感にひたってむなしさをごまかすことを覚えた人間が、「非モテの暗黒面」に堕ちていくんだろうなあ、と。 

自分という名の空っぽのわら人形。

非現実のパン屋さん。原田知世主演『しあわせのパン』は幸福をシェアしてくれる良作だ。

 衛星放送で放映されていた映画『しあわせのパン』を観ました。あまりといえばあまりにシンプルなタイトルに、あまり期待していなかったのですが、これがなかなかの出来。たぶん好みが分かれるとは思うけれど、ぼくはかなり好きです。  物語は、北海道の田舎にあるパン屋の春夏秋冬の日常を追いかけているだけで、ほとんど起伏らしいものもないのですが、これはそういうものとして受け入れるしかないでしょう。  そういう映画だと思って観ると、映像は相当に美しく、上品で、端正で、意外に観ていて飽きないものがある。  ふしぎなもので、「観れる映画」と「観ていられない映画」は、五分も観ていればわかります。これはべつにぼくが慧眼なのではなく、だれでもわかることでしょう。  それがいったいどんな技術に起因してそうなのか、そこまではぼくにも分析できませんが、退屈な映画は、退屈な小説や漫画以上にはっきりとわかります。そういう意味で、映画とはテクニカルな表現なんでしょうね。  偉そうにいわせてもらうなら、この映画は十分合格点。何となくまなざしが吸い寄せられるような画面を作ることに成功しています。  まあ、およそリアリティからかけ離れたお話であることはたしかで、原田知世と大泉洋が演じる夫婦が経営している田舎のパン屋がどうやって経営を成り立たせているのか、だれにも説明できないに違いありません。  『人生の楽園』というドキュメンタリー番組があって、そこでは始終、田舎町に引っ込んでパン屋やらピザ屋やらそば屋を経営している老人たちが出て来るのですが、引退後の道楽ならともかく、まだ若い夫婦がこんなところに引っ込んでどうやって暮らしているのか、まさに謎としかいいようがありません。  何しろ周りは家ひとつない僻地にぽつんとパン屋が建っているのだから、ある種、シュールな絵面。常連客はいるようですが、それ以外のお客はどうしているのだろう。  そういう疑問は見た人だれもが思い浮かべると思います。たぶんスタッフもわかって作っている。しかし、そういう突っ込みどころを「これはそういうものなのだ」としてスルーすることができたなら、これはなかなか楽しい作品です。  繰り返しいわせてもらうと、何といってもヴィジュアルが素晴らしい。いったいどこがどうきれいなのか、ぼくにもうまく説明はできないのですが、画面の構図がいちいち決まっています。  たぶん、舞台となるパン屋の調度なども相当良いものを使っているのでしょう、非常に画面が締まっています。  その「しあわせなパン屋」を訪れる客たちは、恋人にふられたばかりの女性であったり、両親の離婚に心揺れる少女であったり、あるいは何かもの悲しい雰囲気の老夫婦であったりと、それぞれに事情を抱えた人々ばかり。  かれらのココロの瑕が、優しいパンの味によって癒やされていく過程が、ほのぼのと綴られます。  見方によっては、非常に甘ったるい映画で、そういうところを辛く見る人も少なくないことでしょう。しかし、ぼくとしては、こういう映画をこそ高く評価したい。  現実はこの現実世界には十分にあふれているではありませんか? 映画はこの世にありえないファンタジーを見せてくれるからこそ映画なのだと思うのです。 

非現実のパン屋さん。原田知世主演『しあわせのパン』は幸福をシェアしてくれる良作だ。

日本時代劇の意地が詰まった一作、『柘榴坂の仇討』を見よ!

 映画『柘榴坂の仇討』を観て来ました。わりに古めかしいタイトルからもわかる通り、中井貴一主演の時代劇。浅田次郎の原作を『ホワイトアウト』、『沈まぬ太陽』の若松監督が手がけた映画となっています。  中井演じる主人公の侍、志村金吾は、幕末の大老である井伊直弼に仕える男。井伊という人物に惚れ込み、忠義を尽くすつもりでいたかれは、しかし、あるとき、水戸の暗殺者たちに主君を討ち取られてしまいます。  場所は桜田門外。世にいう「桜田門外の変」です。主君を失ったあとの金吾は、切腹も赦されず、ただひたすら主君の仇を探し求めることになります。  しかし、その仇たちも次々と死亡してゆき、やがて生きのこったのは、ただひとり、佐橋十兵衛という男のみ。文明開化の明治を迎え、時代が変わった頃、ようやく、金吾の仇討ちが実現するのですが――という筋立て。  13年もの時間を経て、時代おくれになってしまった金吾の執念は、それでも十兵衛に追いすがり、やがてふたりは運命の柘榴坂へと到達することになるのです。  うん、なかなかに良い映画でした。初めの雪が降るなか狐の面を被った暗殺者たちが襲いかかってくるシーンに始まり、すべてがいちいち純日本風。  あらゆるところに日本の美学が散りばめられていて、黒澤明の『乱』のようにありえないほど美しいというほどではないにしろ、実に端正な映画に仕上がっています。この映像美だけでも観る価値があるといって良いでしょう。  いま大ヒット上映中の『るろうに剣心』みたいな荒唐無稽なアクション・エンターテインメントも良いけれど、こういう古風で端正な時代劇もやはり素晴らしいですね。  一切の打算を捨て、13年もの月日をかけ、ただひと筋に仇討ちへと進んでゆく金吾の姿には、日本人が大切にしてきたある種の美学があります。  「時代が変わっても、変えてはならないものがある」というテーマが、これもまた時代を超えた現代日本への提言であることは論を俟たないでしょう。  金吾と十兵衛は、ふたりとも、新しい時代が来たなかで古い時代の恩讐に捕らわれている人間です。しかし、その寂しく物悲しい姿は、ある種の共感を呼びます。ふたりとも、変化していく時代よりもなお大切なものを持っているのです。  はたして、決着の柘榴坂において、金吾は十兵衛を斬るのか、斬らないのか――最後の最後まで緊迫感に充ちた芝居が続いてゆきます。  そんななか、意外な好演を見せているのが金吾の妻を務めた広末涼子。 

日本時代劇の意地が詰まった一作、『柘榴坂の仇討』を見よ!

空白の日。

 どもです。きのうの記事はひさしぶりに全力で書いてみたのですが、いかがだったでしょうか?  今回に限って全力というと、普段は手を抜いているみたいですが、そういうわけでもないんですよね。ただ、全力の時はかけている労力が段違いなのはたしかで、単純に数倍の時間がかかる上、それなりの集中力も要するので疲れます。  なぜそんなに時間がかかるのかといえば、書く端から推敲していっているから。この「推敲」というプロセスが入っているかどうかで、必要とする時間も文章の完成度も違って来ます。  ぼくは自分の文章をはてしなく推敲することが大好きな推敲フェチなのですが、時間がかかるので普段はあまりそこまでの労力をかけた文章は書きません。  その気になれば永遠に推敲していることもできるわけですからね。力を入れて推敲している時は、それこそ一文字単位で無駄を洗い出して書いているつもりなんだけれど、あとから読み返せばまだまだ無駄があるんでしょう。日々勉強です。  さて、べつだん、きのう頑張ったからきょうは精魂尽き果てたというわけでもないのですが、きょうはこれといったネタがありません。  『週刊少年チャンピオン』で『ANGEL VOICE』が完結しましたが、この話はあしたかあさってにでもまたあらためて語りたいところ。  はたしてこういうネタがない日にも記事を更新するべきなのか、それともスルーするべきなのかは迷うところなのですよ。  本来なら、毎日何かしらネタを用意するべきなのでしょうが、なかなかそういうわけにも行かないですから、ネタがない日は休むべきなのか、それともこういうゆるい記事でもいいから書くべきなのか、微妙ですよね。  そこらへん、読者の皆さまのご意見を伺いたいところではあります。  今週の『マガジン』の『ベイビーステップ』が良かった、みたいな記事ならいくらでも書けてしまうのですが、このところ、自らクオリティのハードルを上げてしまった感じがあります。以前はもっとくだらないことも書いていた気がする。  もちろん、クオリティは高いほうが良いに決まっているのだけれど、自分で制限を設けてしまうと自縄自縛になる可能性も高いわけで、いくらかゆるくやって行く方が良いのかな、という気も。ここらへんはほんと、迷うところですね。 

空白の日。
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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