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炎上中の「なろう」パロディ『チートスレイヤー』本当の問題点とは?

「愛のないパロディ」として炎上している『チートスレイヤー』を読んでみた。  いま、Twitterを初めとする各種SNSで『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』という漫画作品が(主に批判的な意味で)話題に挙がっています。  まあ、タイトルでわかるようにそれぞれが何らかのチートを与えられた邪悪な異世界転生者に対し、主人公が復讐を繰り広げていくという物語なのですが、そのチートキャラクター各人たちにひとりひとりに具体的なネット小説発のモデルがいると思しいことが問題視されているのですね。  具体的には、こんな感じ。  うん、ほかのはまだしも「双剣の黒騎士キルト」って『ソードアート・オンライン』のキリトそのままやんけ、と思ってしまいますね☆  いや、キリトくん、べつに異世界転生なんてしていないんだけれど、まあ、チートキャラクターといえばまず思いつくのはかれであることはわからないでもない。  ただ、キリトがチートだというなら『ドラゴンボール』の孫悟空や『ONE PIECE』のルフィを初め、あらゆるヒーローキャラクターはチートだといえなくもないわけで、「そもそもチートとは何なのか?」、「ヒーローの条件とはいったいどのようなものなのか?」という問いにも繋がっていきそうにも思えますが、そこまでの深みを期待できる作品でもないだろうな。  すでにネットでは「悪質なパクり」、「愛のないパロディ」などと批判されていますが、そういった意見ももっともなのではないかとは思う。  しかし、読まないで批判することもやはり良くないので、わざわざこの作品が連載開始した雑誌『ドラゴンエイジ』を買って読んでみました。  買ってみて初めて気づいたんだけれど、この雑誌、かなり大量の「なろう系」作品が連載されているんですね。そんな雑誌で「なろう小説」に喧嘩を売るような作品を連載していて、この作者さん、忘年会パーティーとかで袋叩きにあったりしないかしらん。  他人事ながら心配になってしまいます。いやまあ、ネットではすでに炎上しているわけですが。 「面白いか、面白くないか?」、それこそが問題だ。  で、本作を読むにあたってぼくが考慮したことはたったひとつ、「一個の作品として面白いのか?」。それだけです。  この作品がいわゆる「なろう小説」を初めとする具体的な作品のパロディであろうがオマージュであろうが、それは良い。  たしかに「双剣の黒騎士」やら「ネームド・スライム」やら、あきらかに元ネタを消化し切れていない印象があるので、単純に訴訟沙汰になったら負けるのでは? 「パロディ」とか「パクり」という以前にただの純粋な「盗作」という次元なのでは? といった疑問が浮かばないこともありませんが、この際、それも良い。  いや、良くないかもしれないけれど、少なくともいち読者であるぼくが最初に考えることではない。もし単に漫画作品として面白いなら、どんなにひどいパロディであっても、それはそれで許そう。ぼくはそういうふうに考えています。「面白いは正義」。  そもそも「なろう」に限らず、既存の有名作品のパロディでヒットした漫画はいくらでもあるわけで、法的、著作権的にどうであるかはともかく、この作品だけをその文脈で非難することも何か違っているように思えます。  それで、結局、『チートスレイヤー』は面白いのか? ……うん、さんざんひっぱるだけひっぱっておいて申し訳ないのだけれど、いやこれ、ダメですね。  もちろん、まだ第一話の段階なので軽々に判断はできないものの、とてもこの先、傑作になろうとは思われない。ごく普通に企画倒れのただのよくある凡作でしかないすね。  あえて称賛するなら、この作品を読むと、ネットではバカにする人も少なくない『ソードアート・オンライン』とか『Re:ゼロ』とかがじつはいかによくできていて面白い作品であるかが逆説的によくわかる。  『モナ・リザ』の贋作が『モナ・リザ』の威光を高めるように、といったらいい過ぎか。とにかく、全然面白くない。そういうわけで、この先は「具体的に何がダメなのか?」を他の作品を踏まえて語っていきたいと思います。 なぜ『チートスレイヤー』は面白くないのか?  この作品を読み終えたあと、ぼくは「この漫画、なぜこんなに面白くないのだろう?」と考えてみたのですが、まあ、その理由はいくつもあるでしょう。  しかし、そのなかで最も致命的なのは、「エンターテインメントとしての志が低い」ことなのではないかと考えます。  先述したようにこの種のパロディは歴史上無数にあるわけですが、それがただ単に露悪趣味的なパクりで終わるか、それとも元ネタをも超える傑作として評価されるかは、その元ネタに対する批評性にあるのではないかと思います。  つまり、元ネタの作品ないし作品群が暗然と抱える構造的な欠点や問題点を批評的に語ることができているかどうか、それがパロディのクオリティを決定する。  で、『チートスレイヤー』はその点で決定的に稚拙ですね。この作品に登場する異世界転生者たちは作中で「前世はただの陰キャ」だの「恋愛脳の非モテ」だのと批判されていて、あえていうならそれがいわゆる「なろう」的なネット小説に対する批判になっているわけですが、そんなの、いままでさんざんいわれていて、もうウンザリするくらい聞き飽きた話であるわけですよ。  いま、「なろう」的なものを書いている人たちはだれもがその点はわかった上でやっているわけでね、まず、批判なり批評としての底が浅い。ネット小説に対する「アンチテーゼ」としてまったく新鮮味がない。それが第一点。  この時点でもうわりとダメダメなのですが、まだいろいろと問題があって、そのなかでもけっこうどうしようもないのが、主人公のキャラクターがきわめて弱いことですね。  他作品からキャラクターを借りて来て敵役に仕立て上げている以上、この作品の主人公であるオリジナルキャラクターはそれらに匹敵する個性と魅力を持っていなければならないわけですが、実際にはこの主人公、ほんとにただのつまらない奴なんですよ。まったく何の魅力もない。ちょっと論外ですね。  それなら、この『チートスレイヤー』と同じような路線で「成功したパロディ」には、どのようなものがあるのか? 『ザ・ボーイズ』や『ウォッチメン』といった先行例。  ネットでは、すでにこの作品がアメリカンヒーローものパロディの『ザ・ボーイズ』と酷似しているという指摘があります。  ぼくは不勉強でまだ『ザ・ボーイズ』を観ていないので(これから観ます!)、それがほんとうなのかどうなのかわからないのだけれど、話を聞く限り、たしかによく似ているようですね。おそらく、同じようなアイディアから出て来た作品なのでしょう。  もっとも、当然ながらこの手のヒーロー・パロディにも歴史があって、この作品が特別だというわけではありません。先行例としては、ときにアメコミ史上の最高傑作とも呼ばれることがあるダークな超名作『ウォッチメン』などがありますね。  この作品ではたくさんのオリジナルヒーローが出て来ますが、当初の予定では既存のヒーローを流用する予定だったそうです。  というか、ヒーローを悪役にするという発想は、それ自体はきわめて普通のもので、だれもが最初に思いつくところなんですよ。最も魅力的な主人公とは最も強烈な個性を持つ悪役にもなりえることはわかり切ったことであるわけです。  だから『仮面ライダー』とか『ウルトラマン』とか『機動戦士ガンダム』などでも、最終的にはライダー対ライダー、ウルトラマン対ウルトラマン、ガンダム対ガンダムといった展開になっていきますよね。  その発想の根底には「もしあのヒーロー同士が戦ったらどっちが勝つのだろう?」という、いかにも子供っぽい、しかし本質的なクエスチョンがあります。  これはいまも昔も変わらず、人をつよく惹きつける問いで、この手の作品はいくつも挙げられることでしょう。  ちょっと路線は違いますが、『スーパーロボット大戦』なんかも同じような発想から出てきているものと見て良いでしょうね。「もしマジンガーとガンダムがいっしょに戦ったら?」みたいな。  そのなかでもぼくが傑出した名作と見ているのが、戦後最大の天才娯楽作家・山田風太郎の最高傑作『魔界転生』です。 

炎上中の「なろう」パロディ『チートスレイヤー』本当の問題点とは?

『転スラ』の人気の秘密は「面白さ」を「最小単位」で並列提供する「マルチ・カタルシス・システム」にあり!

 ペトロニウスさんがYouTubeで引用していた記事が面白い。例によっていくらか長くなりますが、引用します。 荒木:僕らの世代はなんだかんだで「頑張れば報われる」という右肩上がりを前提で生きてきた。会社に入って、新人時代は給料低くても地道な努力をすれば、いずれ偉くなって処遇もよくなるぞ。そんな「修行モデル」で生きてきたんです。つまり、今はつらくてもいずれペイする、という長期的な採算で帳尻を合わせる前提で頑張ってきた人は多いはずなんです。ところが、バブル崩壊後の不況や終身雇用の崩壊でじわじわとその前提が崩れていき、このコロナでとどめを刺されてしまった。この劇的な前提の転換を冷静に受け止めないといけないですし、子どもたちはもっと純粋にこの前提をインストールしていることを認識しないといけないと思っています。 すると、子どもたちにかけるべき言葉も変えなければいけないということでしょうか。 荒木:そう思います。修行モデルが通用しなくなった世界では、何が大事になるのか。それは、「今この瞬間が楽しいか」という一点ではないでしょうか。例えば、野球に打ち込む子どもに「毎日素振りを100回やりなさい。頑張れば3年後の大会でヒットを打てるはずだから」というロジックはもう響かないと思ったほうがいい。「不確定の未来に向けての努力」は、彼らのストーリーには通用しないんです。素振りの意味を言い換えるならば、「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」といった感じでしょうか。 つまり、努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている。 荒木:おっしゃるとおりです。すると、これからより大事になってくるのは、その都度その場で得られるリターンを自分で発見する能力です。昭和の大流行ドラマ『おしん』のような、耐え忍んで、耐え忍んで、耐え忍んだ先に……という期待感は、今の子どもたちは持ちづらくなっているでしょう。かつて、体育会系の部活で「体罰」が黙認されていたのも、受ける側の生徒たちが「この痛みの先に最高の結果が待っている」という文脈で許容できたからです。大人だって、会社の上司から理不尽なパワハラを受けても、10年後には「あの時の叱責があったから今の俺がある」と美談に変えられた。そのロジックはもう通用しないのだと自覚しないといけませんね。 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00128/00050/  ペトロニウスさんはこの話を「小説家になろう」の作品群と重ね合わせて語っています。よければ聴いてみてください。 https://www.youtube.com/watch?v=shffngyNx6A  ここで語られている「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」。これが、キーワードです。  「小説家になろう」の作品は、しばしば「努力」が描かれていない、と批判されます。努力もしていないのに成功するなんてリアリティがない、と。  しかし、現代において「長年にわたって努力を続けた結果、成功する」という「修行モデル」の物語はもはや説得力がないのですね。  かつては、努力を続けさえすればその果てに「報い」が待っているということが信じられたのでしょう。それは社会全体が「右肩上がり」の成長を遂げていたからです。  だけど、現代ではその成長がほぼストップしてしまっているから、どんなに努力したところで「報い」を得られる可能性は非常に少ない。そこで、「努力に対する成果の“収支”の確定」が、「極端に短期」でしか認識されなくなったわけです。  いま努力したらすぐに成果が欲しい。あるいは、そのような成果しか信じられない。それが、現代の若年層のリアルだと思います。  これに対して、「辛抱が足りない」といった説教をすることはできます。でも、繰り返しますが、そうやって「辛抱」したところで、報われる可能性はほとんどないのが現代社会であるわけです。その種の説教はもはや無効になっているといって良いでしょう。  そこで、LDさんがいう「面白さの最小単位」の話が出てくる。「面白さの最小単位」とは、つまり、「いかに短いスパンで読者に先を読むインセンティヴを与えることができるか」というテーマです。  LDさんがいうには、かつて「紙帝国」がメディアを支配していた頃と現代とでは、メディアのあり方そのものが変化してしまっていると。  たとえば漫画は、「紙帝国」の栄光の象徴であるところの『少年ジャンプ』が最大部数600万部を売り上げていたときには、「ひたすら物語を長大化する」ことが最適戦略だった。なぜなら、ヒット作が出たらそれを延々と長続きさせることが必要だったから  ところが、ソシャゲやネット小説など、他の多数のエンターテインメントと激しく競合しなければならない現代においては、そのやり方は通用しない。そこで、読者に先を読んでもらうため、「面白さ」を「最小単位」で提供する方法論が起こることになる。  これは、たとえばTwitter漫画などを見ていると最もわかりやすいことでしょう。そこではわずか4ページで「面白さ」を提供しなければならない。エンターテインメントの表現のあり方そのものがメディアの変遷にともなって根本的に変わってしまっているわけです。  現代においては、たとえば主人公が延々と「努力」を続け、その結果、大きな「成果」を得るといった「修行モデル」の描写、いい方を変えるなら「面白さの最大単位」を求める方法論は通用しない。  その理由は、そう、「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」からです。  それでは、「面白さの最小単位」とは具体的にどのようなものなのか? 色々考えられますが、最も端的なものは「小さな成功体験」でしょう。「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」というそれです。  いま、「小説家になろう」発のアニメ『無職転生』や『転スラ』で描かれているものは、まさにその積み重ねですね。『無職転生』では、ちょっと努力すると、すぐに成功する。『転スラ』に至っては、ほとんど何も努力することなしにひたすら成功だけが繰り返される。  もちろんそこには苦難も失敗もあるけれど、この場合、それは本質ではない。これは、「努力なしに栄光なし」という「修行モデル」の考え方すると、単なる甘ったるいファンタジーであるに過ぎません。「なろうは現実逃避だ」という類の批判が生まれることも無理はないといえるでしょう。  ですが、何度も繰り返しますが、「努力」と「成功(栄光)」をワンセットで考える思考のフレームそのものが、すでに過去のものになってしまっているのです。  こういった「修行モデル」なり「努力神話」のナラティヴはもう現代においては通用しない、とぼくは考えます。  『転スラ』は「面白さ」を「最小単位」にまで煮詰めるために、「努力」というパートをほぼカットした。いわば、「フリ」があって「オチ」があるという方法論から「フリ」の部分を切除してしまった。これが、『転スラ』から非常にスマートな印象を受けるその秘密だと思います。  しかし、「フリ」をカットして「オチ」だけがある、そんな物語が面白いのか? いや、あきらかに面白いのですが、それはなぜ面白いのか? そこがいまひとつうまく言語化できない。  そこで、他者の言説に目を向けてみましょう。飯田一史さんは、『転スラ』の魅力について、このように語っています。 作品内容に目を向けてみよう。『転スラ』は何がおもしろいのか? 用意しているおもしろさの種類が多様なのである。 キャラのかけあいの楽しさもあるし、複雑な物語展開もあれば、主人公リムルなどの転生者たちがなぜ異世界に召喚されたのかといった「世界の謎」もある。大集団同士が戦略を練って戦いあう「戦記」要素もあるし、コミュニティをいかにして導いていくかという「内政」要素もある。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79230?page=2  さすがというか、この意見は非常によくわかる。『転スラ』は「おもしろさの種類」が多彩なのです。よくなろう小説は『ドラクエ』をフォーマットにしているといわれますが、『転スラ』はむしろより現代的なゲームに近い。  ぼくはここでたとえば『ルーンファクトリー』というゲームを思い出します。『ルーンファクトリー』では主人公にはいくつものパラメーター、つまり成長要素が用意されていて、それがいろいろな行為によって少しずつ向上していきます。たとえば、ただ一定歩数を歩いただけでもあるパラメーターが上昇したりする。  『転スラ』はこれと似ているんじゃないか。最初の段階ではシンプルに主人公のレベルアップが「気持ちよさ」を生んでいるんだけれど、どんどんレベルが上がり、視点が高くなるにつれて、べつの「最小単位の面白さ」が開放されていく。  たとえば、主人公であるリムルの成長だけじゃなくて、脇役のだれそれの成長といった要素も入ってくるわけです。あるいは、国家の拡大とか内政の充実といった要素も出てくる。  そして、それぞれの要素で「ちょっとずつ気持ちよくなれる」ようになっている。いわば、マルチ・カタルシス・システム。これが『転スラ』の「面白さ」の根幹にあるものであるように思います。  なろう小説とはつまり「ビデオゲーム疑似体験小説」であるといって良いと思うのですが、『転スラ』にはロールプレイングゲーム要素もあれば、アドベンチャーゲーム要素もあれば、シミュレーションゲーム要素もある。  そして、つねにそのどれかの「ゲーム性」が動いていて、「小さな成功体験」が続く、なので読者は飽きずに見つづけることができる。そういうことなのではないか、と。  そのひとつひとつを取れば、おそらく『転スラ』より優れた作品はあるでしょう。もっとよくできた「成長もの(ロールプレイングゲーム)」もあれば、「内政もの(国政シミュレーションゲーム)」もあるだろうし、「学園もの(教育アドベンチャーゲーム)」もあるに違いない。  しかし、『転スラ』の特徴は、それらの「面白さ」を細かく細かく打ち出してくるところにある。ひとつひとつの「面白さ」は、あるいはカタルシスは小さいかもしれないのだけれど、それが次を読むインセンティヴを生み、いつのまにか「大きなストーリー」に、つまり「最大単位の面白さ」に到達して大きなカタルシスを得るまでになる。  ようするに『転スラ』から得られる教訓はこうです。「面白さは最小単位まで分割し並列せよ」。この作品の本質的な魅力は、たしかに「面白さが多様であること」にあるのだけれど、それだけでは言葉足らずかもしれない。 むしろ「多様な面白さが並行していることによって常に「小さな成功体験のカタルシス」が提供される仕組みができていること」にあるというべきではないかと。  いまでは最初から「最大単位の面白さ」を目指す「修行モデル」のような超長期的な物語スタイルは受け入れられない。しかし、 

『転スラ』の人気の秘密は「面白さ」を「最小単位」で並列提供する「マルチ・カタルシス・システム」にあり!

電子書籍『小説家になろうの風景』第一章

 はろー。「新世界系の風景(仮)」というタイトルの電子書籍を出したいと書きましたが、それはかなり手間がかかりそうなので、先に似たようなタイトルの「「小説家になろう」の風景」を出したいと考えています。  表紙はこんな感じのつもりですが、あるいはお金を出して依頼するかも。そのほうがまだマシであろ。  内容はまさにいま書いているところなのですが、60000文字~80000文字程度のかなり本格的な本を予定しています。読めば「なろう」の全貌がわかるとはいかなくても、とりあえず「なろう」がどういう場所で、どのような作品があるのか、ひと通り理解できる本を目指します。  で、とりあえず第一章は書きあがったので、ここに公開したいと思います。続く第二章以降も書き上がりしだい公開していきます。よろ。  第一章「「小説家になろう」のシステム」  この本をお読みのあなたは、「小説家になろう」というウェブサイトについて何らかの興味をお持ちのことだろう。  あるいは名前を聞いたことがあるという程度かもしれないし、その反対にディープな「なろう」ユーザーかもしれない。そのいずれであるにせよ、この本があなたの興味に応えるものになれば良いと願っている。  本書は日本最大の小説投稿サイト「小説家になろう」と、そこに掲載されている作品について、なるべくフェアに語ろうと試みた本である。  もちろん、「なろう」の掲載作品はあまりにも膨大であり、正面からその全貌を語ろうとするのは無謀である。いつか近い将来、AIがそのビッグデータを解析し何らかの答えを出す可能性は皆無ではないが、いまのところ、「なろう」の全体像はだれにもわからない。日夜幾千、幾万という数の「新作」が投稿されているのだ。当然だろう。  もちろん、「なろう」には「なろうマニア」ともいうべき重度の中毒者がたくさんいて、日々、隠れた傑作を探し出そうと試みつづけてはいるが、それにしても全作品を通読している者などいるはずもない。  「なろう小説」のほとんどが一定の読者を得ることもなく、また完結することもなくむなしくウェブの大海に沈み込んでいく現実を考えれば、ある程度読まれ、注目を集める作品がいかに少ないかはあきらかだろう。  「なろう」では、作品がどの程度読まれているかは、アクセス解析によって、また、「ポイント」によって一目瞭然である。  この「ポイント」という概念については後ほど解説するが、まさにこれこそが「なろう」のウェブサイトとしてのオリジナリティであり、またアイデンティティであるといって良い。それほど重要なものだ。  べつだん、「なろう」ではポイントがすべてなのだというつもりはないが、やはりポイントの制度はきわめて重要なのである。  が、先走ることはやめておこう。まずは「小説家になろう」がどのような仕組みで成り立つ、どのような個性のサイトなのか、その点についてまったくご存知ない方のために説明することとしたい。  「なろう」についてよく知っている人にとってはじつに自明のことに過ぎないかもしれないが、くわしくご存知ない方にとっては面白い内容であるはずだ。  ちなみに、「なろう」のようなウェブ小説を語った先行文献として、飯田一史『ウェブ小説の衝撃』がある。  「なろう」の作品を初めとするウェブ小説がなぜヒットしているのかについていささかアジテーション気味に分析したなかなか興味深い本だが、残念ながらこの本では特定のウェブ小説の内容にまではほとんど踏み込んでいない。  それに対して、本書では、『転生したらスライムだった』、『本好きの下剋上』など、「なろう」発のヒット作を取り上げ、その面白さとは何なのかについて可能な限り公正に考えてみるつもりだ。  ここであえて「フェア」とか「公正」という言葉を使うのは、「なろう」とその作品がお世辞にも中立的に語られているとは思えないからだ。  世の中に公開された作品が批判にさらされるのは当然のことだが、「なろう小説」は偏見によって攻撃されることが少なくない。  「なろう小説」がいわゆるライトノベルを含む従来、「小説」と呼ばれてきた作品群と比べてあまりに異質なのはたしかだが、だからといってバイアス丸出しで「どうせあんなもの」と判定してしまうのも良くない。  これからぼくは可能な限り中立の視点で、それでいてポジティヴに「なろう」の魅力と、面白さ、それから欠点とも思えるポイントについて話をしていく。「なろう」にくわしくない人には少々理解しがたい内容も含まれるかもしれないが、どうか付いて来てほしい。  そういうわけで、まずは「なろう」初心者向けに「なろう」とはどのようなサイトなのかについて解説することにしよう。もしあなたがすでに「なろう」についてくわしく知っているのなら、この章は飛ばしてもらってかまわない。  さて、どこから解説を始めたものか。そう、まず、第一に、「小説家になろう」は紛れもなく日本最大の小説投稿サイトである。世界的に見ればもっと大きなサイトもいくらもあるだろうが、とりあえず日本では「なろう」ほどのサイトは他にない。  本書を執筆している2020年10月時点で、投稿作品数は約76万、登録ユーザー数は192万人に及ぶ。べつだん、登録しなくても作品を読むことはできるから、実際の「なろう」ユーザーの数はもっとはるかに多いものと思われる。  そのアクセス数は凄まじいものであるはずだ。他に類似のサイトとして「カクヨム」などがあるが、いまのところ「なろう」ほどの規模にはなっていないし、おそらく将来的にも「なろう」に匹敵することはないだろう。  「なろう」はまさにウェブ小説界で「無双」を続ける超巨大サイトなのだ。  ネットにはいままでもこれからもいくつも競合サイトがあるだろうに、なぜ「なろう」だけがこれほど巨大に育ったのか。その理由はいくつもあるだろうが、わたしはやはり前述の「ポイント」と「ランキング」によるシステムが大きいものと考えている。  ポイントとは何か。じつは「なろう」では、読者が「ブックマーク」、ないし「評価」を行うたびにその作品にポイントが入る仕組みになっているのだ。  ブックマークとは、その作品を自分のページに登録しあとからも読めるようにすることだが、そうするとその作品には2ポイントが入る。そして、評価。これは★★★★★から★までの五段階評価で、★ひとつにつき2ポイントを入れることができる。  つまり、ひとりのユーザーがひとつの作品に対して最大12ポイントを入れることができるシステムになっているわけだ。評価の仕組みはわりあい最近になって改正されたものだが、この「ひとりのユーザーにつき最大で12ポイント」というシステムそのものに変わりはない。  で、「なろう」においてはポイントによる評価を自ら拒否した作品を除くすべてのこのポイントが付けられている。その内容が、恋愛小説であろうが、ハードSFであろうが、あるいは美少女満載の萌え小説であろうが、一切関係ない。ある意味ではきわめて公平な仕組みといえるだろう。  そして、また、このポイントのアップダウンによってすべてのポイントを公開している作品は「ランキング」に組み込まれる。  このランキングには「日間」、「週間」、「月間」、「四半期」、「年間」などがあり、それぞれがジャンルによって分けられている。  このランキングシステムも最近になって改正が加えられ、いま、「なろう」のトップページを見ると「月間ランキング」が掲載されている。かつて、ここには「累計ランキング」が載っていた。  この変更は、おそらく「なろう」の歴史が長くなるにつれ、「累計ランキング」があまり変わり映えがしないメンツに固定されてしまったことに原因があるのだろう。  長く「なろう」に載りつづけている作品のほうが必然的に有利な「累計ランキング」に比べ、「月間ランキング」はつねに変遷しつづけているわけで、見ていて面白い。したがって、この改革は合理的な判断であったと思える。  とにかく、「なろう」においてはこのポイントとランキングによって、ほとんどすべての作品が序列化されているわけだ。とはいえ、もちろんこのランキングは作品のクオリティがそのままに反映されているわけではない。  ポイントもランキングも、その作品に「票」を入れたユーザーの数をわりあい単純に加算したものであるに過ぎない。そもそも小説のクオリティを測る客観的な基準など存在しないのだから、あたりまえといえばあたりまえだ。  累計の上位に入っている作品がシンプルに「なろう」における最高傑作なら話は簡単なのだが、もちろん人の価値観は多様である。そう簡単にいい切れるものではない。  だが、ひとつだけたしかにいえることがある。ランキングの上位にランクインしている作品は、どれほどの非難を受ける内容であろうと、たしかに大勢の人から支持された作品であるということだ。  後述するが、「なろう」で支持を受ける作品にはある特定の傾向があり、その傾向がさまざまな議論を呼ぶことになっているのだが、それをどう考えるにしろ、とにかくランキングトップの作品はそれだけ読まれているし、たくさんの人が面白いと思ってポイントを入れた作品なのである。  その反対に、ランキング下位の作品は、あるいはほんとうは感動的な名作ではあるかもしれないが、読まれてもいないし、人気もないということになる。  この、往年の『少年ジャンプ』をも上回る徹底した「数の論理」こそが「なろう」を成立させる原理である。ポイントとランキングは純粋に機械的に処理されているので、特定の人間の意思が介在する余地はない。  もしかしたら、この話を読んでなんとくだらないシステムだと思われる方もいらっしゃるかもしれない。それでは「良い小説」がランキング上位に上がって来て読まれることがないではないか、ただ機械的にポイントの上下だけで作品を判断してはいけないのではないか、と。  一面、たしかにその通りであるとはいえる。この「なろう」のシステムでは、「なろう」に適していない作品はどうしても埋もれることになる。それがどれほどの名作であろうとも。  おそらく、三島由紀夫や芥川龍之介が現代に生まれて、ひとつ「なろう」に投稿してやるかと気まぐれを起こしたとしても、そのままではランキング上位に入る作品は書けないだろう。  「なろう」には「なろう」の流儀があり、それを踏まえているかどうかでポイントが入るかは決まってしまうところがあるのだ。その意味では、たしかに、これは名作や傑作を的確に探し出せるシステムではない。  くり返すが、どれほど優れた作品であっても、このシステムである限り、「なろう的」でないと埋没してしまうことになるのだ。その典型的な一例として、住野よる『君の膵臓をたべたい』がある。  最近、映画化もされたベストセラー恋愛小説だが、これはじつは最初、「なろう」に「短編」として投稿されたのだった。その結果、ある程度のポイントは集めたようだが、爆発的に注目を集めたりすることはなかった。  この小説がその真価を発揮したのは、「なろう」ではなく、商業作品市場だったのである。  わたしも読んだが、『キミスイ』はじつに優れた、感動的な作品だ。同時代性もつよく、タイトルもインパクト抜群で、だからこそ商業出版されたものはベストセラーになったのだと思われる。  しかし、それほどの作品であっても、「なろう」で大ヒットすることはなかった。あるいは、もしかしたら一度に「短編」として投げるのではなく「長編」として逐次的に送るなど、投稿のやり方を工夫していたら、もう少しポイントを集められたかもしれないが、いずれにせよ結果は大きく変わらなかっただろう。内容がまったく「なろう的」でないからだ。  それでは、「なろう的」な内容とはどのようなものなのか。これは次の章でくわしく説明するが、とにかく切なくハートフルな純愛小説は「なろう」ではそれほど大きな需要がないことはたしかだ。  それはタイトルを見ただけでもわかるものと思われる。現在、「なろう」の累計ランキングは以下のようになっている。 1位『転生したらスライムだった件』 2位『とんでもスキルで異世界放浪メシ』 3位『ありふれた職業で世界最強』 4位『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』 5位『デスマーチからはじまる異世界狂想曲( web版 )』 6位『Re:ゼロから始める異世界生活』 7位『陰の実力者になりたくて!【web版】』 8位『八男って、それはないでしょう!』 9位『ヘルモード ~やり込み好きのゲーマーは廃設定の異世界で無双する~』 10位『私、能力は平均値でって言ったよね!』  いずれも累計で数十万ポイントを稼いだ(つまり、どう少なく見ても数万人の読者がいる)作品だが、そのタイトルセンスは『キミスイ』とは対照を為す。  何というか、とにかくわかりやすいのである。いや、このタイトルのどこがわかりやすいのだ、まったく内容の見当がつかないではないか、とそう思われる方もいらっしゃるかもしれないが、そういう方は「なろう」について良くご存知ないのだと思われる。  「なろう」をある程度知っている人間にしてみれば、これだけでおおよその内容は推測できる。「なろう」においては、タイトルは内容の解説そのものである。  タイトルの時点で、それが他の小説とどう違っているのか、どのような話でどこに魅力があるのか、その点について説明し切れていない作品はほぼ確実に埋没すると考えて良い。  なぜか。「なろう」においては毎日、膨大な数の作品が新たに投稿されているからである。その内容も「似たようなもの」といっては失礼だが、それほど独創的な作品は少ない(そして、あまりに独創的な作品は「なろう」においてはウケない)。  だからこそ、タイトルだけでわかりやすく、その「キャッチコピー」を示すことが「なろう」で読まれたければ重要なのである。  ちなみに、「なろう」において読者が作品内容について知ることができる情報はタイトル、作者名、あらすじ、小説情報(ポイントなど)、感想、レビューといったものがあるが、このうち最も重要なのがタイトルで、次があらすじだ。  たしかに、その作品がヒットすればたくさんの感想が寄せられ、それを参考にさらに多くの読者が集まることになったりもするだろうが、それはあくまで「ヒットすれば」という条件の話である。  無名の書き手の地味な作品が投稿するや否やあっというまに注目を集め、ランキングを駈け上がり、さまざまな感想を集めるなどということがめったにない以上(逆にいうとたまにはあるのだが)、やはりタイトルは重要なのである。  もちろん、ランキング上位に入ることだけが小説を書く意味ではない。たとえほとんどだれにも読まれなくても、優れた作品であればそれでいい、そういう考え方もありえるだろう。  しかし、そのような考え方の人はそもそも「なろう」に投稿したりしないのではないか。わざわざ小説をネットに投稿する以上、「少しでも読まれたい」と希望している人ばかりだと考えて良いだろう。  小説を作家と読者のコミュニケーションの作法のひとつと捉えるのなら、その欲求はごく自然なものである。だからこそ、多くの読者が「なろう流」の作品をあえて選ぶのだ。  このことを是とするべきか非とするべきか、その判断はじつはむずかしいところがある。ただ自分の好きな作品を書いていて、それがたまたま「なろう」にマッチした作品だった、これは何の問題もない。  だが、そもそも「なろう」的な作品を書きたいわけでもないのに、ただポイントが欲しいから、ランキングを上がりたいから「なろう」の流儀に合わせるというのでは、やはり何か本質を外している気がしてならない。  いうまでもなく、そういう作家であっても、たくさんの読者を得られて幸せになれるのならそれで問題はないとも考えられるのだが、大方の場合、そう上手くはいかないものだ。  また、「なろう」が「なろう風」の作品以外は受けつけない一面を持つために、「なろう」発の小説が「どれもこれも似たような」作品になってしまっていることについては、深く考えていかなければならないだろう。  先に述べたように、「なろう」のランキングはポイントの累計を機械的に処理しただけのものである。したがって、「なろう」の運営があえて「なろう風」の作品を集めたわけでも、薦めているわけでもないのであるが、それでも結果として「なろう」には、ある特定の個性を持った作品ばかりが集まる傾向がある。  これは決して見過ごしてはならない問題だ。当然、「なろう」の運営や「なろう風の作品」が好きな読者にとってはそれで何ひとつ問題がないともいえるわけであるが、だからといってこのことに対する数多くの批判をスルーして良いというものでもないだろう。  いやそうはいっても、「なろう」にはたしかに多様性がある。「なろう」に純文学や、恋愛小説や、サイエンス・フィクションを投稿する人間は大勢いる。それらは専門のジャンルに分けられてもいる。その意味で、「なろう」は決して一種類の作品しか受けつけないわけではない。  だが、ランキングという人気投票においては、「なろう」に集まる作品はほとんど一種類に淘汰されてしまうのが現実なのだ。その一種類とは何か。「異世界ファンタジー」である。  先ほど挙げたランキングをあらためて見てみてほしい。何と、そのすべてが異世界ファンタジーなのだ。  それも、ここでいう異世界ファンタジーとは、従来の『指輪物語』や『ナルニアものがたり』、『十二国記』や『グイン・サーガ』、あるいは『アルスラーン戦記』や『西の善き魔女』などとは質的に異なっている。  それらを正統派ファンタジーとするのなら、「なろう」の異世界ファンタジーはまさに異端だ。くわしいことは次の章で紹介するが、もしあなたがトールキンやルイス、あるいはハワードやムアコックなどの古典ファンタジーに馴れ親しんでいるのなら、「なろう」の異世界ファンタジーを読むと面食らうに違いない。  それらはあからさまにテレビゲームの知識を前提にしており、さらには他の「なろうファンタジー」の常識を必要とするものなのである。  そう、「なろう異世界ファンタジー」は、それ自体、他の小説にはまったく似ていない特殊な「ジャンル小説」であるといえる。したがって、「なろう」に投稿する際には、少なくとも読まれたいと希望するのなら、この「なろう異世界ファンタジー」の知識をある程度備えていることがほぼ必須であるということができる。  良くも悪くも、それが「なろう」の現実だ。「なろう」は、いままで個人サイトなどに掲載してもほとんど読まれることがなかったアマチュアの小説を糾合し、多くの読者を獲得した画期的なサイトではあるが、決してアマチュア小説家の楽園ではない。それどころか、ほとんど戦場に等しい場所ですらあるかもしれない。  次章では、その「なろう小説」の内容的な最大の特色である「異世界ファンタジー」について詳細に語ることにしたい。それもまた、「なろう」について知っている方にしてみればあたりまえの内容になるかもしれないが、「なろう」にくわしくない方にはいくらか興味深い話だろう。  「なろう」は、「なろう的なやり方」を踏まえていなければほとんど一歩も進むことができないような、奇怪な生態系を持つひとつの小説ジャングルなのである。 

電子書籍『小説家になろうの風景』第一章
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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