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日本人が書いたアダルトファンタジーが読みたい!
2018-12-24 02:0951ptうにー。積み(罪)コンテンツがたくさんありすぎてどこから手をつけたら良いのかわからない。と、とりあえずアニメでも流すか……という、かぎりなくダメな心理状態に陥っている海燕です。
『転スラ』面白いな! 『ゴブリンスレイヤー』面白いな! あと、ほかに『ゾンビランド・サガ』に、『SSSS.GRIDMAN』に、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』も……とやっぱりコンテンツを消化し切れないのでした。
もうどう考えても物理的に消化し切れる量を超えているので、全部はあきらめて、LDさんふうにいうなら「ぶざまを晒しながら」ひとつひとつこなしていくしかないのでしょうね。
とりあえずアニメ見よ。……うん、ダメだな。以前にも書いたかもしれないけれど、『ゴブリンスレイヤー』面白いですよ。
あくまでライトノベルの範疇ではあるけれど、いかにもなダークファンタジーでぼく好み。ゴブリンだけを殺しつづけ -
『HUNTER×HUNTER』と強さのインフレ、デフレ、そしてランダムウォーク。
2016-04-27 12:0551pt
『HUNTER×HUNTER』が連載再開してしばらく経ちます。
いまさらいうことではないかもしれませんが、めちゃくちゃ面白いですね!
今週号はなつかしの「天空闘技場」を舞台とした、ヒソカとクロロの死闘。
最初に「どちらかが死ぬまでやる」と宣言され、いったいふたりのうちどちらが勝者となり、敗者となるのか、目が離せません。
普通に考えれば、両者とも物語にとっての重要人物であるわけで、ゴンやクラピカと無関係のところであっさり死んでしまうはずはないと思えるのですが、そこは『HUNTER×HUNTER』、予断を許しません。
おそらく、この戦いが終わったとき、どちらか片方は闘技場に斃れることになるのでしょう。あるいは、両者ともが闘技場の土となる運命化も。
この、先の予想をまったく許さない展開こそが『HUNTER×HUNTER』の本領です。
ああ、戻ってきたのだな、という気がしますね。おかえりなさい。
ただ、クロロにしろ、ヒソカにしろ、いままでの物語のなかでは最強の存在であった「キメラアントの王」メルエムと比べれば、実力的には劣るはずです。
いかに「念能力に強弱という概念はない」とはいっても、メルエムはあまりに強すぎた。
だから、いまさらクロロ対ヒソカ戦をやってみたところで、盛り上がりに欠けることになる――はずなのですが、じっさいにはそうはなっていません。
この上なく緊張感のある死闘がくり広げられています。
結局のところ、「もっと強く、もっともっと強く」という方向性だけが面白いわけではない、ということなのですね。
たしかに、読者は一般に「もっと強いやつ」を求める傾向がある。
しかし、その読者の声に応えつづけていると、はてしなく強さは数的に上がっていくことになってしまう。
その「強さのインフレ」をまさに極限までやったのが『ドラゴンボール』であるわけですが、そこには「同一パターンのくり返し」でしかないという問題点があった。
で、『ドラゴンボール』以降の漫画はそこから何かしら学んで、同じことをくり返さないようにしているわけです。
その端的な例が『HUNTER×HUNTER』ということになる。
この世界では、いったん極限まで行った強さの表現が、ふたたび下のレベルに戻ることがありえるのです。
これについては、ペトロニウスさんが昔、『BASTARD!!』を例に「強さのデフレ」という言葉で説明していました。
「強さのインフレ」ならよく聞きますが、「強さのデフレ」とはなんでしょうか?
こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの第2部が、とても好きで、、、第2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェスネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第2部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第1部では雑魚キャラレベルだったはずです。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです、要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2
世界は、絶対的強者だけで成り立っているわけではないということ。
「頂点」の戦いがすべてで、そのほかの戦いには価値がないというわけではないということです。
「底辺」は「底辺」で、きわめて熱いバトルをくりひろげているわけで、その「底辺」を描き出すこと(=強さをデフレさせること)は、「世界の豊饒さ」を描き出すという一点において、大きな意味を持ちます。
つまり、ひたすら「強い奴」にフォーカスしている世界より、強い奴もいる、弱い奴もいる、それぞれがそれぞれのレベルで懸命に生きているということがわかる世界のほうが、より豊かに感じられるということだと思います。
『HUNTER×HUNTER』の場合、ヒソカにしろクロロにしろ、「底辺」には程遠い最強の一角を争うひとりであるわけですが、メルエムのレベルには及ばないであろうことは間違いありません。
しかし、そのふたりが、これほどの実力を持っているのだ、ということを示すことによって、世界はあらためて豊饒さを取り戻すのです。
ところで、「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれないリアルな世界」のことを、ぼくたちはLDさんに倣って「新世界系」と呼んでいました。
新世界系の物語は、「突然、異常に強い敵が現れるかもしれない物語」であるわけですが、いい換えるなら、「強い敵と弱い敵があらわれる可能性がランダムに設定されている物語」ということもできそうです。
つまり、そこではひたすら「もっと強く、もっともっと強く」という方向には物語は進まない。
「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれない」ともいえる一方で、その逆、「レベル99のときにレベル1の敵が現れるかもしれない」ということもできるわけです。
これは、一見するとつまらないようにも思える。レベル99のときにはレベル1の敵なんて相手になるはずがありませんからね。
しかし、「強さのデフレが豊饒な世界をもたらす」という視点で見ると、意味があることであるように思えてきます。
ようするに、新世界の物語とは、強さが単純にインフレしたり、デフレしたりするのではなく、その時々で乱高下する「強さのランダムウォーク」の物語であるということです。
『HUNTER×HUNTER』はだんだん -
どうすれば物語は面白くなるのか?
2015-04-12 22:3951pt
アニメ『アルスラーン戦記』が面白いです。
アニメーションとしての演出にそれほど傑出したものがあるというわけではないのですが、極上の物語をお金をかけて演出している凄みがある。
何しろ原作は日本の架空歴史ものを切り開いた傑作ですから、きちんと映像に仕上げればそれなりのものが出来上がるはずなんですよね。
そう、『アルスラーン戦記』はひとつの途方もなく面白い「物語」です。それでは、物語とは何なのかという話をいまからしたいと思います。
学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。
まあ、いわゆるワナビのなかにはただ作家になりたいだけで特に語るものがないというひともいるかもしれませんが……。
そして、これも重要なことですが、物語には「始点」と「終点」があります。
始めた物語はいずれ終わらなければならないわけですから、当然のことです。
『アルスラーン戦記』第一部の物語を例に取るとわかりやすいでしょう。この物語は王子アルスラーンの軍勢が敵国ルシタニア軍に敗れ去るところから始まり(始点)、やがてルシタニア軍を打倒し国を奪い返すところまでを描いています(終点)。
物語のすべてはこの始点と終点の間で語られることになります。
そして、作者はその物語をなるべく面白くするべく、始点から終点に至るルートにいろいろな事件を配し、可能な限り緻密に「構成」しようとします。
その構成の力量を「構成力」といい、また構成の方法論を「ドラマツルギー」といいます。
この構成が不十分であったり、また終点に至るルートや終点そのものがはっきりしないまま物語を語り始めてしまうと、作者自身にも物語がどこへ行き着けばいいのかわからなくなり、物語が未完に終わってしまったりします。
いわゆる「エタる(エターナルする)」という現象ですね。哀れ、港を出た船は目的地にたどり着くことなく、永遠の漂流者となってしまうわけです。
とにかく、物語を緻密に語っていくためには始点と終点、そしてその間のルート設定が大切だということです。
世の中にはこのすべてを天然の感覚でやってのける「天才」と呼ばれる人たちがいますが、ぼくには理解できない存在なので解説できません。わけがわからないよ……。
まあ、それはともかく、普通の人たちはそこでなんらかの計算を行います。
たとえば、終点の時点で主人公が幸せになっているためにヒロインを出そうとか、それでではつまらないからヒロインは悪漢に浚われてしまうことにしようとか、そういうことですね。
天才はしらず、一般的には、物語は終点、少なくとも先の展開が見えていて初めて厳密に構成できるものです。
たしかに全何十巻にも及ぶ長大な漫画とか小説はあり、そういう作品では終点までのルートがはっきりしていないまま書き始めていたりするのでしょうが、その場合はやはり構成の緻密さに限界があると思います。
大抵は途中で話を区切って構成するんですけれどね。
さて、この「終点」に近いけれど異なる言葉で、物語のすべての展開が行き着くところのことを、LDさんの言葉で「結晶点」といいます。クリスタライズポイントですね。
その物語のさまざまな展開はそこで結晶するべく進展していっているということでしょう。
わかりにくいでしょうか?
これも『アルスラーン戦記』を持ち出すとわかりやすいのですが、この物語では実にいろいろな謎があり、事件があり、伏線があります。
しかし、それらすべてはやがて王都エクバターナ奪還という一点に集約していくのです。
その瞬間にほとんどすべての登場人物が集まり、対決しあい、雌雄を決しあいます。
これは、よく考えてみると不自然といえば不自然なことです。
現実的には、なぞの銀仮面卿はどこかで偶然に足を滑らせ落馬して死んでいたかもしれず、王子アルスラーンはどこかでもたもたして見せ場に間に合わなかったかもしれないわけですから。
現実にはそういうことも十分ありえるわけですよね。しかし、物語を演出しようとして構成する以上、それはあってはならないことです。
やはりクライマックスにはいちばん盛り上がるように構成されていなければならないのです。
ちなみにこのクライマックスを意図して外すこともあって、そういう展開はアンチクライマックスとか呼ばれたりします。
旅の勇者が苦難の末、魔王を倒そうとしたらもう寿命で死んでいたとか、そういう展開が想像できますね。元々は修辞法の言葉だそうです。
が、それは、あとで説明しますが、あくまで例外。通常、面白い物語はちゃんと盛り上がるべきところで盛り上がるよう計算されているものだといっていいでしょう。
そして、面白い物語とは普通、始点と終点のあいだで波乱万丈の展開を迎えるよう構築されているものです。
何ひとつ事件が起こらず、老人がひたすら日向ぼっこをしているだけという物語は、少なくとも一般的な尺度では面白くない。
次々と深刻な事件が起こって、「いったいこの先どうなるんだ?」と読者/視聴者を惹きつけるのが良くできた物語というものです。
それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
ペトロニウスさんが「強さのデフレ」という文脈で、この「落差」のことを語っているので、ちょっと長くなるけれど引用しておきましょう。
こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの2部が、とても好きで、、、2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェ・スネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第二部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第一部では雑魚キャラレベルだったはずです。。。。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです。要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
そこで、、、、ヒロインのヨーコが、、、、圧倒的な敵に対して、主人公(覚醒前のね)を抱きしめて絶望的に空を見上げるシーンがあります。グリフォンだったか、、、一匹でもみんな大事な仲間がバタバタ死んでいくのに、それがものすごい数が現れたのを見て、、、、
そして、そこで主人公が覚醒して、、、、そしてガラやネイが戻ってくる、、、、という話になるのですが、僕は、このシーンがとても好きで、、、、というのは、一つは、
どうにもならない絶望感
と、
ありえないような絶望のどん底から一筋の光明のような希望が舞い降りる瞬間
が、見れるからなんですよね。物語って、そういうドラマトゥルギーの落差が欲しいなと僕は思うのです。
けれども、、、、この絶望のどん底感を描けるのって、とても難しいのです。なぜならば、主人公は、当然強者であり、世界を救うものじゃないですか。基本的にそういう前提が隠れているのが普通で、なかなかこの絶望が描けない。この絶望は、まったく力がない、一兵卒や一市民の視点からでないとわからないからです。そして、勇者やヒーローと呼ばれる存在の、「凄み」というのも、このどん底の絶望との「落差」を通してでないと、実はわからないんじゃないか、といつも思っています。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2
そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。
そのための方法論がドラマツルギーであり、展開の「定石」です。
定石とは、だいたいこういう展開にしておけば面白い物語ができあがるというパターンのことですね。
それはたとえば「フラグ」といった概念で理解することができます。脇役が急に昔の話を始めたら死んでしまう予兆だというようなあれです。
このような「死亡フラグ」は、もちろん現実には存在しません。物語のなかだけにある概念です。
物語はただなんとなく語られるわけではなく、状況の落差を生みだし、その上で結晶点を目指そうとして計算して語れるわけですから、効果的に落差を生むために伏線やフラグが多用されるわけです。
たとえば、主人公が昔いっしょに過ごした可愛い幼馴染みの女の子のことを思い出したら、これは伏線に決まっています。
ただたまたま思い出しただけで、その女の子がその後一切物語に関わってこなかったら読者は怒ることでしょう。
それが現実と物語の違いです。現実世界にはすべてを面白くするよう計算して事象を配している存在はいませんが、物語世界には作者という神がいるのです。
したがって、物語世界には始点があり、終点があり、結晶点があり、ドラマツルギーがあり、また定石があって、それらが物語を面白くしています。
しかし――しかしです。世の中にはなんとこの「定石」にあてはまらない物語が実在するのですね。
それは、
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