• このエントリーをはてなブックマークに追加

今なら、継続入会で月額会員費が1ヶ月分無料!

記事 321件
  • 『二ノ国』はべつに障害者差別じゃないよ。

    2019-09-15 05:37  
    51pt
     話題の作品――でも何でもないが、映画『二ノ国』を見てきた。以下、ネタバレ。
     さて、見る前からあまり期待はしていなかったのだけれど、この作品、まあ、わりとどうしようもない映画である。よくいっても、せいぜいが凡作止まりというところだろう。
     人気テレビゲームの映画化ということで、ひょっとしたら原作をプレイしていたら違うのかもしれないが、少なくとも映画だけを見ている限り、まるで話の整合性が取れていないように見える。
     キャラクターデザインを含めた映像表現は、いかにも「スタジオジブリの亜流」という印象ではあるものの(じっさい、元ジブリのスタッフが関わっているらしい)、そこまで悪くないだけに、物語展開の強引さが際立つ。
     コンセプトのレベルでやりたいことはひと通り理解できるものの、それを物語に落とし込む段階で致命的に失敗している印象だ。これは、端的には脚本家の力量の問題だろう。
     とにかく、あえて一見を薦められるほどの出来ではないことは間違いない。で、そこまではいい。どう考えても良い映画とはいえないだろうが、しかしそれはある意味でしかたないことである。
     だれだってできれば傑作を撮って大ヒットさせたいに決まっているのだ。それが、どうしようもなく力及ばず、凡作、駄作、愚作、そのあたりに終わってしまうということは、ひとつの悲劇ではあるにしろ、ありえることである。
     ぼくは、現実の映画の出来を嘆きはしても、そこを責めるつもりはまったくない。よく気に食わない映画に対して「金を返せ!」という人がいるが、そういう人は定価以上の価値がある映画を見たら「もっと金を払わせてくれ!」と叫ぶのだろうか。そうは思えない。
     映画の価格はじっさいにどのような作品が出て来るかわからないところも含めて設定されているのであって、見てみて気に入らなかったからといって「金を返せ!」などと述べることは上品とはいいがたいと、「ぼくは」考える。
     ちなみに、ぼくは20年間以上ブログを続けているが、何かしら作品を評価するために「駄作」という言葉を使ったことは一度もない。そんなふうに思ったことがないからである。
     ただ、この世にはたしかにろくでもない出来の映画もあることはたしかなので、ぼく自身はそんなふうに思ったことは一度もないにしろ、「見て損した」と思う気持ちはある程度はわかる。
     その感情を批判の言葉にしてネットに上げることも「あり」ではあるだろう。しかし、作品を「差別」という言葉を使って作品を非難するとなるとまったく話は別である。
     あえてそういう言葉を使うときは、作品内に明確な差別意識が見て取れることを論理的に明示できなければならない、と考える。差別とは、それくらい重たい言葉だ。
     このようにいうのは、じっさいに『二ノ国』が障害者差別だという意見を見かけたからだ。ぼく自身はまったくそんなふうには感じなかったので、驚いた。
     たしかに、作中での車いすの少年の描写はリアリティを感じさせるものではなかったが、それをして差別とはいえないだろう。そんなことをいいだしたら、何らかのマイノリティに未熟な低い表現はすべて差別だということになる。
     現実には特に差別意識がなくても、単に知識が足りないとか、興味が湧かないなどの理由でリアルではない描写になってしまうことはありえるし、ある。
     それは映画としてはひとつの欠点であり、批判されてしかるべきではあるだろうが、その点のみを見て単純に差別だとはいえない。たとえば、海外映画で日本人が妙な描写をされているからといって、一概に差別であるとはいえないのと同じことである。
     それでは、そのことを踏まえて、『二ノ国』が障害者差別である、という意見を見てみよう。ネット上にはいくつか同様の意見が見られるようだが、今回はそのなかで最も目立ち、なおかつ論旨がわかりやすい以下の記事を選んで考えていきたいと思う。

    障害者への向き合い方として最悪であり、子どもに絶対に見せたくない理由を記しましょう。
    問題となるのは以下の2点です。
    主人公の少年のユウは足が不自由で車椅子生活をしています。そして…
    (1)異世界の二ノ国に行く(もしくは現実世界に戻る)ためのトリガーは「命の危険にさらされる」ということが提示される。ほぼ自殺行為である。
    (2)その異世界に行くと足が不自由だったユウは歩けるようになっている。
    https://kagehinata-movie.com/ninokuni/

     ぼくは、この記述を読んでもこの描写のどこが「障害者への向き合い方として最悪」なのかわからなかった。具体的には、以下のような論旨のようである。

    それはともかく、この(1)と(2)を、足が不自由であり、歩けるようになりたいと考えている、障害を持つ子どもの立場になってみればどう思うでしょうか?
    「僕も命の危険にさらされれば(自殺をすれば)ひょっとすると二ノ国に行けて歩けるようになれるかもしれない」
    もちろん、子どもがフィクションに影響されてそんなバカげた自殺行為を取るわけがないだろう、という指摘は正しいです。
    ですが、障害は本人にとってはとても深刻に感じている問題でしょう。
    こんなことを、例えフィクションのファンタジー作品だとしても提示してしまっていいのでしょうか。
    たとえ0.0000001%でも、そんな考えを誘発してしまう可能性のあるこの映画『二ノ国』を自分は許すことはできません。

     ひとつの意見として理解はできるが、まったく納得がいかない。まず第一に、そんなバカな子供はいないと思うし、仮にいたとしてもそれは映画の責任ではない、としかいいようがないと思うのだ。
     たしかに「そんなバカげた自殺行為を取る」子供は、「0.0000001%」かどうかは知らないが、いるかもしれない。しかし、それは『アンパンマン』を見て人に殴りかかる子供が出ることが『アンパンマン』の責任ではないのと同様、映画の責任とはいえないだろう。
     もし、この理屈で映画の評価を決めるなら、たとえば子供がジャイアンの影響を受けていじめをする可能性が「たとえ0.0000001%でも」ありえるから『ドラえもん』は良くない、ということもいえてしまう。
     しかも、この理屈は障害の部分を除いても成立するし、その場合、似たような物語はいくらでもあるのだ。
     たとえば、「命の危険にさらされると真の力が解放されて強くなる」という設定の物語があるとしよう。まあ、少年マンガあたりではよくある設定だ。『ドラゴンボール』とか。
     上記の理屈でいくと、この設定もまた、その作品を見た子供が「僕も命の危険にさらされれば(自殺をすれば)ひょっとすると真の力が解放されて強くなるかもしれない」と考える可能性が排除できないので最悪だ、ということになってしまう。
     あたりまえのことだが、映画を見た人間が何を考えるかは見た人の数だけ答えがあるわけで、「見た人間が現実と混同してバカげたことを考えてバカげたことをする可能性がまったくない」映画など作りようがない。
     いや、これは映画でなくてもそうである。たとえば、上記のブログを読んだ人が何を思うかだって、じっさいにはまったくわからないはずだ。
     このような「だれかを傷つけるかもしれない作品は悪だ」という批判は表現規制議論でたびたび出るものだが、このような理屈を認めることはできない。「0.0000001%の可能性」すらあってもならない、というのなら、あらゆる人間のあらゆる表現を否定しなければならなくなるだろう。
     記事はさらに続く。

    障害者であるユウが自身を「邪魔者」と自己卑下してしまう切ないセリフを覆すことなく、ファンタジー世界ではお姫様と添い遂げられ障害も治るという“逃げ”を使って、「邪魔者がいなくなって良かった」ということを、ハッピーエンドとして描いているというわけです。
    前述した自殺行為も酷いのですが……これを子供や障害を持つ方が観たらどう思うでしょうか。「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしまわないでしょうか。
    日野晃博はおそらく「そんなつもりはない」と答えるでしょう。実際そうでしょうよ。ていうか「え、だって障害者がファンタジー世界で足も治ってお姫様と添い遂げられるからいいじゃん」と思っているでしょうよ。
    だからこそものすごく不快なんです。そういう視点を全く考えずに、これを良い話として描いてやがるんだから!

     不快に思うのは自由だが、これもどこがまずいのかぼくにはさっぱりわからなかった。
     「これを子供や障害を持つ方が観たらどう思うでしょうか。「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしまわないでしょうか」といわれても、「それは人による」としかいいようがない。
     ひと口に「子供や障害を持つ方」といっても、その価値観は千差万別であり、当然ながら同じ映画を見ても多様な感想を抱くことが想像できるからである。
     もちろん、例によってだれかの「「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしま」う可能性はないとはいえない。
     しかし、くり返すが、それはどこまでいっても架空の可能性の話であり、映画が具体的に「障害者などいない方がいい」と主張しているわけではない。そのような描写もない。
     そうである以上、この映画から「障害者などいない方がいい」というメッセージを読み取るべきではないのだ。「だれかがこんなことを思うかもしれないから良くない」などといいだしたら、だれが撮ったどんな名作でも否定できてしまうだろう。
     『ローマの休日』を見て「王族に人権はないのだ」と感じて傷つくプリンセスもどこかにいるかもしれないではないか?
     それから、これは揚げ足取りになるかもしれないが、「強化」といっている以上、もとからそのような価値観を持っていることが前提である。つまり、この文章では、「子供や障害を持つ方」は一般にある程度「「障害者はいない方がいい」ような価値観」を持っているものとされているわけである。
     ある障害者差別を批判しているにもかかわらず、この言葉の使い方は良くないと思う。
     その後、記事はこのように続く。

    言うまでもないことですが、ファンタジー世界は現実にはありません。
    この映画の中ではファンタジー世界に逃げることができて、なおかつ障害が治る。
    でも現実ではそんなことはない、障害は一生付き合わねければいけない。その絶対的な事実がある以上、障害を持つ子供が観たら、この邪魔者がいなくなる結末に絶望してもおかしくないですよ(しかもそのファンタジー世界に行く手段は“自殺行為”である)。

     あたりまえだが、「障害は一生付き合わねければいけない」かどうかはケースバイケースである。障害にも色々な種類があるし、何らかの手段で完治するものだってなかにはあるだろう。
     あるいは完治まではいかないにしろ、改善することは十分にありえる。「障害は一生付き合わねければならない」ことを「絶対的な事実」と呼ぶのはどう考えてもおかしい。
     いや、まあ、そこは「治りようがない障害」だけの話をしているのだと考えてもいい。しかし、治しようがない障害を抱えている人が大勢ことが事実であるとしても、だから映画はそれが治るところを描いてはならない、ということにはならない。
     たとえば、一生にわたって重い心臓病を抱えて生きていかなければならない人がいるからといって、映画で心臓病で治るところを描いてはならないということにはならないだろう。
     たとえば『ブラック・ジャック』などでは現実ではとうてい治りそうもないような難病が奇跡的に治癒する物語がよくあるが、ああいう描写は一生、難病と付き合っていかなければならない子供たちを絶望させるだろうか。
     いや、もちろん、そういうことではないのだろうということは想像できる。
     問題は「ある障害を抱え、そのために自分を「邪魔者」と自嘲した人間がいなくなることによって物語がハッピーエンドになる」という結末が、障害を持った子供にショックを与えたりするかもしれない、ということなのだろう。
     「障害を持つ子供が観たら、この邪魔者がいなくなる結末に絶望してもおかしくないですよ」とはそういうふうに受け取るべきなのだと思う。
     だが、べつだん、映画は「障害者は邪魔者だからいなくなったほうがいい」と表現しているわけではない。作中のだれひとりとしてそのように主張してはいない。
     それでもそこにそのような差別的主張を読み取るべきだろうか? 当然、読み取るべきだと上記記事は主張しているように思えるのだが、ぼくはそうは思わない。
     ユウはどのような意味でも「ザ・障害者」という人間ではなく、かれが映画のなかでどのような行動を取るかは障害者一般がどのような行動を取るべきかとは無関係である。
     そうである以上、そこから過剰な意味を読み取るべきではない。たしかに、障害者が異世界へ行ったらなぜか障害が治ってしまうという展開が安易だという批判は成り立つだろう。しかし、それは映画脚本としての瑕疵ではありえても、べつだん、差別ではない。何ら障害者一般に単一のイメージを押しつけてはいないからである。
     押しつけていると感じる人は、そもそも障害者とひと口にいってもその内実も性格も多様である、という事実を無視しているのではないだろうか? ぼくにいわせれば、それこそがまさに差別なのだが。
     ある種の物語のなかでは、障害者の障害が治る(あるいは少なくとも改善する)場面は、しばしば感動的な場面として描かれる。
     たとえば『アルプスの少女ハイジ』ではクライマックスでそれまで立てなかった少女クララが立つし、『バジュランギおじさんと小さな迷子』ではやはりクライマックスでそれまで声が出せなかった少女が声を出す。
     たしかに、これらの作品の障害者描写がステレオタイプであるという批判は成り立つだろう。しかし、「クララを立たせたりしたら、決して立てないという事実を抱えた子供が絶望するかもしれないではないか」という角度での批判はやはりおかしい。
     クララも、ユウも「ザ・障害者」として生きているわけではないからだ。クララは障害者であるまえにまずクララなのであり、ユウもまた同じなのである。
     障害はかれらのアイデンティティの一側面であるに過ぎない。たしかに、おそらくユウが二ノ国に残る決断をしたとき、その地では自由に歩くことができるという判断もその事情に関わったことだろう。
     しかし、それは悪いことだろうか? それは「障害者はみな二ノ国のようなところへ行ってしまえばいい」という意味なのだろうか? どう考えてもそうは思えない。
     その決断はどこまで行ってもユウという個人が自分自身のために下した性質のものであり、「障害者みなかくあるべし」ということを意味してはいない。そこに「障害者みなかくあるべし」の規範を読み取ってしまうとしたら、何かが歪んでいるのである。
     上記の文章を読んでいてつくづく思ったのが、この人はユウのキャラクターの「障害者」という一面をきわめて大きく捉えているのだな、ということだ。
     これも繰り返しになるが、じっさいにはユウは当然ながら多面的な人間であって、足の障害はかれという人格の無数にある属性のひとつに過ぎない。
     ユウがコトナたちのまえで自分のことを「邪魔者」といったときには、たしかに足の障害のことも関わっていただろうが、それが理由のすべてではなかったはずだ。
     むしろ、カップルの間にもうひとり男が入り込むなんて邪魔者だ、というニュアンスのほうがずっと強かっただろう。
     それを捉えて、このような描写は障害者を絶望させるかもしれないと非難するのは、ぼくにはいかにも筋違いに思える。
     そもそも差別とは何か?という話なのだ。もちろん色々な表現ができるだろうが、ひとつには差別とは「現実の多様性を無視した過度の一般化」であるといえる。
     つまり、現実に色々な障害者がいることを無視して「障害者はみな性格が暗い」といったり、さまざまな同性愛者がいる事実を看過して「同性愛者はみな女っぽい」といったりと、多様な集団にたったひとつの個性を烙印のように押しつけることが差別だということだ。
     そうであるとしたら、ユウというある個人が下した判断に対して、障害者一般が下すべき判断だと見て取るのは、それこそ差別的ではないだろうか? ユウのことをただ障害者としてしか見ないのは、かれの複雑な人格に対する侮辱である。
     べつだん、ユウは全障害者を代表して二ノ国に残ることを決断したわけでもないし、障害者ならだれもが同じようにするべきだ、ともいっていない。それにもかかわらずそのように感じるとすれば、それは見るほうの問題だろう。
     そもそも障害者はいついかなる場合も絶対に邪魔者扱いされてはいけないし、物語のなかでそのように描写されてはいけないのだろうか? そうでなければ多くの障害者たちが傷つき、悩み、苦しんでしまうのだろうか?
     そんなはずはない。現実には障害者だろうが邪魔者扱いされることもあるだろうし、自分を邪魔者だと感じることもあるだろう。それ自体はまったくもって当然のことであり、それが差別にあたるかどうかはケースバイケースだ。
     たしかに障害者がその障害を原因として社会から排除されることはあるべきではない。しかし、何らかの障害を抱えた者ならいついかなる場合も気を使ってもらって当然、というのもそれはそれでおかしいのだ。
     たしかに『二ノ国』の結末はいかにも甘ったるく、他愛なく、思索性が足りないかもしれないが、それと差別であるかどうかとはまったくべつの話である。
     ぼくは『二ノ国』が障害者に対して差別的な描写を行っているとは特に思わない。そして、それはぼくが差別に対し鈍感だからだ、というわけではないと考える。違いますかね?
     上記記事の結末にはこのように書かれている。

    結論としては、こんな脚本を書いた日野晃博が法律で罰せられることを期待しています。

     何の法律なんだか。現代において実在する差別が批判されることは当然だが、火のないところの煙を見て取って正義の怒りに燃えることもそれはそれで問題である。差別について考えるときはどこまでも慎重でなければならない。当然のことではないだろうか。
     以上、ご一読ありがとうございました。 
  • いくつもの「それでも」を重ねて。

    2019-09-06 02:50  
    51pt
     ども。『マインドマップで語る物語の物語』、第八章の原稿をいじっています。これがいままでいちばん長くてですね、まあ、直しても直しても終わらない。いま、もう80000文字以上書いているのですが、これでようやく半分を越えたあたりじゃないかな。
     でも、冬コミまでもう時間がないんですよね。11月末が締め切りだと想定すると、あと3か月弱しかない。そのあいだに第八章と第九章を終わらせて、さらにそれを補う原稿も書かないといけないわけで、まあ、なかなか大変。がんばります。
     ただ、いま書いている第八章は、『物語の物語』全体のクライマックスともいえる箇所で、それはもうめちゃくちゃ面白いです。このシリーズで長いあいだ語られてきた「祭壇」と「天使」というふたつの概念にひとつの決着がつくポイントでもあり、「それまでの七章はこのためにあった」といっても過言ではない仕上がり。
     身びいき抜きでも素晴らしい内容だと思
  • 同人誌新刊、通販を開始しました。

    2019-08-21 07:49  
    51pt
     ども。コミケ、オフ会、甥っ子姪っ子の世話と、せわしない10日間が過ぎ、ようやくひと通りの作業が終わって落ち着いている海燕です。はあ、蕎麦茶がおいしい。
     コミケで本を買いに来てくださった方、ありがとうございました。それはそれは暑いイベントでしたが、どうにか死なずに帰ることができました。
     「ガンガンいこうぜ」ではなく「みんながんばれ」でもなく「いのちをだいじに」で行かないとマジで死にますからね。
     来年以降ずっと、開催時期をゴールデンウィークにずらしてくれないかな。みんな歓迎すると思うけれど、どうだろう?
     おかげさまで新刊もそれなりに売れ、赤字は避けられる見通しです。とはいえ、けっこうな量を刷ったので、まだまだ在庫は余っています。これ、すべて売れてもらえると嬉しいのだけれど、ちょくちょくイベントに出るとしてもまあ、この先数年はかかるかな、というところでしょうか。
     で、その余剰在庫を吐
  • 特攻による死は「無駄死に」だろうか?

    2019-08-16 05:44  
    51pt

    ネトウヨや愛国主義者は…
    「特攻隊は無駄死にではない」
    と言う。何度でも言ってやる、特攻隊の若者はアホでバカでマヌケで無責任な年寄り指揮官のエゴイズムによって「無駄死に」を有無を言わさず強制させられた犠牲者なんだよ。特攻作戦を完全否定する事が犠牲者の無念を晴らす唯一の手段なんだ。
    https://twitter.com/M16A_hayabusa/status/1160830120342409216

     こういうツイートを読んだ。
     で、この発言を巡って、「特攻は無駄死にだ/いや、無駄死にではない」という例によって不毛な(ぼくには不毛に思える)やり取りが行われているようだ。これがなかなか興味深いので、終戦の日の真夜中(というかもう翌日の朝か)に考えてみることにしたい。
     思うに、この問題について考えるなら、まずは「無駄死に」とは何か、「無駄に死ぬ」とはどういうことか、「特攻は無駄死にだ/
  • コミケ目前!

    2019-08-09 02:57  
    51pt
     ども。コミケもいよいよ近づいてきましたねー。というか、きょうからですね! ぼくが参加するのは11日(3日目)なので、まだ少し余裕がありますが、一応、前日には東京入りしている予定です。
     毎度のことですが、コミケの直前になるとドキドキします。う、売れるかなあ。今回はかなりの部数を刷ったので、足りないということはないと思いますが、できるだけたくさん売れてほしいことはもちろんです。
     『マインドマップで語る物語の物語』はもちろんですが、ぼくの『栗本薫カレイドスコープ』も売れてほしいところ。印刷代回収のためには、何十部かは売れてもらわないと困る。赤字になったら次回以降も続けて刷るのに勇気がいりますからね。
     たぶんどうにかなるとは思うけれど、事前の予想はまったくあてにならないから、ただひたすらドキドキするばかりです。
     皆さん、ぜひ当日はわがスペース、西館「け」の35bまでおいでください。ぼくは
  • 京都アニメーションの事件と、悪と狂気、そして人間の心に残された光について。

    2019-07-30 14:13  
    51pt
     どもです。本日、41歳になりました。ハッピーバースデー>オレ。てれびんからサーティワンアイスクリームのチケットをもらったので買ってこようと思います。
     野郎からしかバースデープレゼントをもらえないわが身の哀しみよ。奴の悪意が身に染みるぜ。でも、サーティワンのアイスクリームはおいしいけれど。
     まあ、それはどうでもいいので、ネットで見つけた興味深い記事の話をしましょう。批評家の宇野さんの記事と、アニメ監督の「ヤマカン」こと山本寛さんの記事です。
     まず、宇野さんは山本さんが新海誠監督の京アニスタッフの無事を祈るツイートに対し、「ちょっと黙ってて」と呟いて強い非難を受けたことに対し、こう述べています。

     山本監督は絶望していたのだと思う。起きてしまったあまりにも凄惨な現実に、そして、その現実を受け止めきれない人々が、かつての同僚を、先輩を、後輩を殺された相手にゲーム感覚で石を投げてくるもうひとつの現実に。彼は改めて直面してしまったのだと思う。京都アニメーションを襲った犯人の悪と、こうして自分に石を投げて楽しんでいる人々の悪とが、確実に地続きであるということを。あの涙は、たぶんそういうことなのだと思う。
    https://note.mu/wakusei2nduno/n/n617c6cdb8ea0

     「ゲーム感覚」。非常に違和を感じさせもする言葉遣いですが、とりあえずそれは措いておいてヤマカンさんの記事を見てみましょう。
     かれは、犯人の「狂気」は京アニが「「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」その「代償」だといいます。

    片や僕は12年間、その「代償」を少しずつ、いや少しどころではないが、断続的に払い続けてきた。
    本当に毎日のように「狂気」が襲いかかり、炎上は何百回したか解らない。
    「どうしてヤマカンは俺たちの言うことが聞けないんだ!俺たちのために奴隷のように働かないんだ!」という、支配欲の塊となった人間たちからの強要・脅迫。
    その声が高まるにつれ、友には見放され、代わりに周囲に集まってきた人間たちは僕を都合良く神輿に乗せては、崖から放り捨てた。
    僕は体調を崩し、遂に心身共に限界を感じ、廃業宣言に至った。
    その一方で、僕が12年間、何度も悔し涙を流しながら払い続けた「代償」を、京アニは今、いっぺんに払うこととなった。
    いっぺんにしてもあまりに多すぎないか?僕は奥歯をギリギリ噛みしめながら、そう思う。
    しかし、彼らにも遂に「年貢の納め時」が、来たのだ。https://gamp.ameblo.jp/kanku0901/entry-12497416248.html

     はっきりいってしまえば、言語道断の意見です。ヤマカンさんのいう「狂気」という言葉には、中身がない。京アニがそれを「自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」とすることにも根拠がない。
     このような凄惨きわまりない事件に際してなお、私怨にもとづいてかれのいう「オタク」を攻撃しようとするかとも見える態度は、醜悪とも、卑劣とも思えます。じっさい、ネットでは口をきわめて非難されている。
     しかし、その表現から受ける酷薄な印象をぬぐいさって見てみれば、ヤマカンさんの発言は宇野さんのそれと内容は同じです。
     つまり、「悪」と「狂気」と使っている言葉こそ違いますが、インターネットで自分たちに「石を投げる」人の「悪」や「狂気」と、京アニ事件の犯人の「悪」や「狂気」は連続したものである、と語っているわけです。
     これをどう受け止めるべきか。非常に迷うところですが、ここでいきなり、きょう見てきた映画の話をしたいと思います。新海監督の『天気の子』(傑作)や山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』(大傑作)ではなく、ディズニーの『アラジン』。
     てれびんのろくでなしが見に行ってぼくに延々とネタバレ感想を話したから見に行こうという気になったのですが、これは意外な収穫でした。ぼくはオリジナルのアニメ版はべつに好きでも何でもないのだけれど、この実写版は素晴らしい。
     シナリオの基本線はそのままながら、人物造形が深みを増していて、非常に魅せます。
     物語の軸となっているのは、主人公アラジンと悪役ジャファーの対立です。アラジンはアラビアのある架空の国の孤児で泥棒の青年ですが、ジャファーもまたかつては泥棒であった身の上であり、ふたりは自分の凄さを知らしめたいという共通の野心を抱いています。
     そのため、ジャファーはどんどんダークサイドに堕ちていくのですが、魔法のランプを手に入れたアラジンもまた終盤でランプの精ジニーを自由にするという約束を破ろうとし、欲望のダークサイドに堕ちかけます。
     しかし、最終的にはアラジンは救われ、ジャファーはそのまま破滅することになります。ふたりの違いは何か? どこに差があったのか? 色々と挙げることはできるでしょうが、結局、それはアラジン自身、ジャファー自身が自分で選んだことなんですよね。
     ぼくはこの映画を見ていて、宇野さんはヤマカンさんのいうことをつくづく思いだしました。「悪」や「狂気」は連続したものであるという主張は、よくよく考えてみると、たしかにそのとおりであるとも思えるのです。
     しかし、それは宇野さんやヤマカンさんを非難する人々と京アニ事件の犯人の間でだけ連続しているのではなく、宇野さんやヤマカンさンを含むすべての人のなかにひそんでいるものだと思います。
     「悪」と「狂気」、少なくともその種子は、だれのなかにも、つまりアラジンとジャファーのなかにも、宇野さんとヤマカンさんのなかにも、かれらを非難する人のなかにも、そしてこのように語っているぼくのなかにも眠っている。
     あとはそれが芽吹くかどうかの違いでしかない。そして、それを芽吹かせるか抑え込むかを決めるのは自分。『アラジン』という映画はそういうことをいっているのではないかと。
     宇野さんはまだしも、ヤマカンさんの論理は論外です。自ら怒りや憎しみを集めに行っているとしか思われない。なぜ、自ら望んでこのような行動を取るのか、ぼくにはどうしても納得がいきませんでした。
     でも、かれは自分が引き寄せた「怒り」や「憎しみ」に対し同じ怒りや憎しみを返していくことであそこまでになってしまったのでしょう。
     自分は京アニ事件を予言した、自分は「狂気」と戦っていると主張して注目を集めようと画策するかとも見えるその姿は、まるで、かつての日の屈辱を晴らし、「自分は特別だ!」と思いこもうとするジャファーのよう。
     うん、やはりヤマカンさん自身もまた、自ら「狂気」というその心性と無縁ではないように思えます。かれは自分でその道を選んだ。
     ほんとうはだれでも、自分自身で愛と信頼に充ちた光の側へ行くか、怒りと憎しみに支配されて闇の側に堕ちるか、選ぶことができるのです。まさにアラジンとジャファーがそうしたように。
     もちろん、『アラジン』はただの映画であり、おとぎ話です。現実には、どんなに人を愛し、誠実に行動したとしても、だれもが地位を手に入れたり、プリンセスに選ばれるわけではない。
     それどころか、まさに京アニの無残な事件が表しているように、すべてが「悪」と「狂気」に蹂躙されることすらありえる。しかし、その「悪」と「狂気」に充ちたこの理不尽な世界のなかで、それでも、自分の意思だけは自分で決めることができるのですよね。
     ライトサイドを選ぶか、ダークサイドへ進むか、それを決定するのは自分以外にいないということ。愛すれば愛が、信じられば信頼が返ってくる。それに対し、怒りと憎しみに対してはやはり怒りと憎しみが押し寄せてくる。選ぶのは自分。
     宇野さんやヤマカンさんがいうことはたぶん一面では真実でしょう。でも、かれらは、特にヤマカンさんは自分の正義を信じるあまり、自らもまた「悪」や「狂気」を発芽させているようにも見える。
     ぼくはかれがなぜあえて怒りと憎しみしか返ってこないような行動を取るのか謎に思うけれど、その道を選んだのも結局はヤマカンさん自身なんですよね。
     ひっきょう、「おれはすごい! だれよりも特別なんだ!」と叫ぶほど人は孤立し、孤独に陥っていく。ジャファーのように。その反対に、何者でもない平凡な自分を認め、正直に世界と相対するとき、愛と信頼が返ってくる。アラジンのように。
     いや、それはウソだ。あるいは何ひとつ返って来ないかもしれない、それどころか愛に対しては面罵が、信頼に対しては裏切りがやって来るかもしれない。けれど、それでもなお、自分自身をライトサイドに留めるものは自分だ。
     古今東西、あらゆる物語で語られる光と闇の戦いって、つまりそういうことなんですよね。人間の内面の葛藤。そして選択。
     だれであれ、人は初めから「悪」と「狂気」に捕らわれているわけじゃない。生まれたときにはだれもが無垢なのだから。ただ怒りに対し怒りを、憎しみに対し憎しみを返しているうちにダークサイドに堕ちていくのでしょう。
     この世界で人間にはすべてが許されている。倫理だの法律だのといってみたところで、それはあくまで人間が作り出した人間のルール。神さまの法則というわけじゃない。神さまの作り出した理(ことわり)は人間にはどうにもならない。
     だから、巨大な暴力や悪意に対抗するすべはほとんどない。しかし、 「それでもなお」、ぼくたちは自分自身の行動だけは選択することができる。憎しみに対し愛で返すこともできるし、愛に対して憎しみで答えることもできる。そういうことをいっている映画だと思いました。素晴らしいですね。
     うむ。我ながらいいことを書いた気がする。41歳の海燕さんは違うな! お誕生日おめでとう! これからもよろしくお願いします。はい  
  • 同人誌、印刷完了!

    2019-07-25 15:44  
    51pt
     同人誌『栗本薫カレイドスコープ』、印刷されて送られてきました。これからBOOTHに送って通販を始める予定ですが、じっさいに販売されるのはコミケの後になるものと思われます。
     コミケでも販売する予定ですが、はたしてどれだけ売れてくれるか……。せめて印刷代くらいは回収したいので、ぜひお買い求めください。自分でいうのも何ですが、良い本に仕上がっていると思います。
     栗本薫作品にまったくふれていない方でも理解できるよう、また興味が湧くように書いたつもりですが、これがまったく売れないようだとぼくは破産してしまうので、買ってね! 具体的には60冊から70冊くらいは売れてほしい……。生々しいか。
     ちなみに、ペトロニウスさんも寄稿してくれています。ぼくの原稿と内容的にほぼ同じことが書かれています(笑)。やっぱりここら辺の発想は共通しているものがありますね。
     また、サークル・アズキアライアカデミア一同
  • シンジくん問題を考える。あなたはほんとうに本物の大人になれましたか?

    2019-07-16 00:38  
    51pt

    エヴァ、ゼロ年代あたりはシンジくんといったらいわゆる「ヘタレ主人公」筆頭のように言われがちだったけど、人権意識の向上した今のオタク界隈では「ネルフがマジでクソ」「シンジくんかわいそう」で満場一致してる雰囲気がある
    https://mobile.twitter.com/batapys1/status/1149831007719190528

     と、こういうツイートがあるのですが、ぼくはぼくなりにずっと「シンジくん問題」を考えています。
     どういういい方がいちばん正しく伝わるかわからないのですが――えーとですね、つまり、ここでひどいといわれているネルフにしても、かつてはシンジくんのような子供だったと思うんですよね。
     仮に、ゲンドウのような親を持ったシンジくんがまともな大人になれなくてもしかたないと考えるとしたら、ミサトだってかつてはそうだったのだろうし、ゲンドウもそうだったかもしれない。
  • イベント参加者募集ちうです!

    2019-07-12 18:04  
    51pt
     来たる8月17日、〈第一回アズキアライアカデミア〉を開催します。
    https://eventon.jp/17700
     第一回と銘打ってはいますが、毎年開いているオフ会イベントです。今年は海燕、LD、ペトロニウスによる「講義」に加えて、二次会も開きます。ひょっとしたら三次会もあるかも。
     一次会が4000円、二次会も4000円と、一見、けっこうなお値段がするように見えるかと思いますが、ほとんどが場所代と食事代です。例によって赤字になることを避けた程度で、利益は最小限に留めています。
     非常に楽しい場になるかと思うので、ぜひぜひご参加くださいませ。現在、40人定員のところ、15人まで埋まっています。残り25人。たぶんこれも埋まるだろうと思うので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。
     今年はぼくもちゃんと資料を使ってスライドを作り、それなりに中身のある「講義」をするよ! 「少年の夢はいかにして血の色に染まるのか」という話になるかと思います。来てね!
     まあ、ぼく(たち)のオフ会の歴史も長くて、かれこれ十数年にわたって数十回続けているのだけれど、しだいに洗練されていっていまのスタイルになりました。
     結局、和室でごろごろしながらひたすらしゃべるのがいちばん楽しいという結論ですが、さすがにそれだけではアレなので、主催者によるトークを加えたわけです。その結果、11時間にわたって話し、また聴くというそれは楽しいイベントができあがりました。何て素晴らしい。
     よろしくお願いします。でわわ。 
  • 「戦争賛美」、「平和祈念」といったくくりこそくだらない。エンターテインメントは虚無に面する。

    2019-07-10 11:11  
    51pt

     渡レイによるマンガ『Fate/Grand Order-Epic of Remnant-亜種特異点3/亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負(1)』(長い!)を読み終えました。
     山田風太郎の小説『魔界転生』にオマージュをささげたとされる作品ですが、なかなか悪くない、十分に面白いと思います。
     ただ、この設定だと、ぼくは『魔界転生』のあの冷え冷えと凍てつくような凄愴さを思いだす。で、『魔界転生』って凄かったなあと、あらためて故人の天才を思うのです。
     以前から思っているのですが、『魔界転生』の何が凄いって、ひとつには、過去の講談や小説などに登場するヒーローたち七名を集めて柳生十兵衛と対決させるという、ようするに『Fate』シリーズを遥かに先取りした設定があるのですが、でも、ぼくは本質的には「そこではない」と思っています。
     いや、そこも大切なのだけれど、ほんとうに凄いのは、そうやって「人類最強決定バトルロイヤル」みたいな設定を作っておきながら、作者自身がそこに何の意味も見いだしていないところなのではないかと。
     『魔界転生』という小説は、まさに時代小説最強を決定する超絶バトルロイヤルを描きながら、どこかで作者自身は、「ばかだよね」、「くだらないよね」とその凄絶無比の魔戦を見下ろしているようなところがある。
     そもそも「最強」の称号に何の意味があるとも思っていないというか。そして、それでいて「最強決定戦」に挑む各キャラクターの執念の描写は凄まじい。
     何の意味もない、値打ちもないものに人生をも命をもつぎ込むその戦い――そこがほんとうに凄いですね。
     何をいっているのかわかってもらえるでしょうか? うーん、どう話すのがいちばん良いか。そうですね、ちょっとまえにTwitterで「『ヤマト』や『ガンダム』は戦争賛美か?」という論争がありました。
     このツイートから始まった話であるようです。

    「宇宙戦艦ヤマト」にしても「機動戦士ガンダム」にしても、どう言い繕おうが戦争賛美だと思うんですよ。
    まあ検閲すべきだとは思いませんけども、そこにある「カッコよさ」に無警戒なまま大人になってしまう人は少なくないので、ああいう作品を簡単に称賛することだけは、してはいけない。
    (・ω・)
    https://twitter.com/booskanoriri/status/1144820452088373248

     これに対して、さまざまな反論が寄せられたのですが、ぼくが見る限り、そのほとんどが「『ガンダム』は戦争賛美なんかじゃない!」というものでした。これがね、ぼくは心底なさけない、つまらない話だなあと思うのです。
     たしかに、『ヤマト』にしろ『ガンダム』にしろ、ただ戦争賛美「だけ」の物語ではないでしょう。そこには反戦的なテーマもあれば、また戦争の残酷さを描いた場面もあるでしょう。
     ただ、ぼくは『ガンダム』が「ほんとうは反戦的な作品だから」、この作品に価値があるとは思わない。そもそも戦争賛美だとか、反戦だとか、そういう「思想」の話は『ガンダム』の面白さを語るとき、わりとどうでもいいことだと思うのです。
     たとえ、『ガンダム』がどれほど「戦争の悲惨さ」を描いているとしても、その一方でアムロが格好良くザクを叩き斬るカタルシスがあることもたしかであり、そして『ガンダム』の本質はその「『ガンダム』かっこいい! アムロ、シャア、かっこいい!」ということのほうにある。
     戦争賛美だの、反戦思想だの、そんなものは「おまけ」でしかありません。
     べつだん、『ガンダム』に限らず、ほんとうに優れたエンターテインメントとはそういうものだと思うんですよ。それは何らかのお偉い「思想」を伝える、そのための「方法」じゃない、それじたいが「目的」なのであって、ただただ面白いとか、ただただ格好良いという以外、何の役にも立たないものなのです。
     したがって、そこには「虚無」がある。何の役にも立たない、何の目的もなく、何の意味もない。そういう性質のものだという現実がある。ほんとうに面白いエンターテインメントは必ずこの絶対的な無意味さ、「虚無」と直面する。ぼくはそう思っています。
     『ガンダム』が傑作なのは、間違えても反戦思想を伝える平和祈念アニメだからではありません。物語が面白いからです。そして、アムロやシャアがカッコいいからです! ただそれだけなのです。
     まあ、人によっては、「いや、実は『ガンダム』には面白いとかかっこいいとかそういう幼稚なことに留まらない、深遠な哲学があるのだ」というかもしれません。しかし、ぼくにいわせればその哲学こそくだらない。
     なぜなら、そこには、エンターテインメントを何らかの形で役立てよう、その価値を社会に還元しようという「欲」があるからです。それはエンターテインメントの純粋さを損なう「邪念」でしかありません。
     「ただ面白い」、「純粋に格好良い」、それだけで十分なのであって、それこそが本質であり、神髄なのです。『魔界転生』はまさにそういう「ただ面白い、それだけ」の物語でした。だからこそ、ぼくは神域の傑作だと思うわけです。
     きのう取り上げた山本弘さんの話を思いだしてみてください。山本さんは物語にかれが信じる「正義」を持ち込み干渉しました。つまり山本さんにとっては、その「正義」こそが至上の価値を持っているということなのでしょう。
     いい換えるなら、物語を「正義」を伝えるための「方法」として使っている。だから、山本さんの物語はたいして面白くならない。「虚無」と直面していないのです。
     わかってもらえるでしょうか? 先の『ヤマト』や『ガンダム』を巡る論争で、「『ガンダム』や『銀英伝』を読んで政治や戦争をわかったと思っている人たち」を批判的に語る意見をいくつか見かけました。たとえば、このような意見です。

    僕はガンダムに戦争賛美は感じないのですが、賛美ととらえてしまう人もいるだろうとは思う。
    昨今にわか軍オタがガンダムや銀英伝で覚えたような知識ひけらかすのを見ると、この手の戦争もの作品の功罪を考えざるを得ないよな……
    https://twitter.com/marukashi/status/1145190942598520832

     しかし、ぼくにいわせれば「知識」の習得に役立たないことは『ガンダム』や『銀英伝』の「罪」ではない。そもそもエンターテインメントは知識の習得のためにあるわけでも、道徳教育のためにあるわけでもないからです。
     いくら戦争や政治について最先端の正確な知識を盛り込んでいても、つまらないものはつまらない。その反対でも面白いものは面白い。そして、どんな「偉い」、「正しい」イデオロギーをテーマにしていても、ダメなものはダメなのです。
     つまり、つまらない平和祈念アニメより、面白い戦争賛美アニメのほうがエンターテインメントとしての価値は上だということ。
     それは平和祈念より戦争賛美のほうが正しいからではなく、そもそも「どんな思想が正しいか?」ということとエンターテインメントの魅力はべつの次元にあるからです。
     もっとも、この世で自分の信じる「思想」なり「正義」が最も大切なものだと信じてやまない人たちはいる。大勢いる。そういう人は本質的にエンターテインメントの消費者に向きません。
     だから、そういう人はエンターテインメントを語るときにも、必ず「政治」を持ち出す。現実社会をどう運営するかという「政治」がこの世でいちばん大切なことだと信じているからです。
     ぼくにいわせればそれは人間にとっての「普遍的な価値」を奉じる幻想にしか過ぎない。まさに、山本さんがそうであるように、ですね。
     そういう幻想を信じる人たちは、そもそもエンターテインメントなんて大して好きでもないのでしょう。現実が大好きで、「いかに現実社会の役に立つか」が最も大切なことだと自明視している。
     でも、ぼくの価値観は逆です。「役に立たないものほど面白い」。社会の実利に還元不可能であるものこそ価値がある。その意味で、一見すると政治や軍事にかぶれているように見える田中芳樹も「こちら側」の人だし、司馬遼太郎なども実は「こちら側」の人だと思うのです。
     かれらはたしかに虚無に直面している。だから、『銀英伝』の政治理念がどうとか、司馬史観がどうとか、どうでもいいじゃん!と思うわけ。それよりロイエンタールが、土方歳三が悲劇的にカッコ良く描かれているということのほうがよほど大切だとぼくは思う。
     それを幼稚だという人もいるでしょう。ですが、ぼくから見れば、「ただ面白いこと」、「ただ綺麗であること」以上の価値はありません。
     少なくとも、政治について正確な知識が得られるとか、子供たちを平和教育に洗脳できるなんてことがエンターテインメントの真の価値だとは思わないということです。
     その意味で、『ガンダム』や『銀英伝』はやっぱり傑作だし、上述の『Fate』はなかなかいい線を行っていると思います。
     とまあ、これに関連するような話を今度の夏のイベントでは話そうと思っているので、良ければご参加ください。近々、参加者を募集します。
     でわでわ。
     以上!