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タグ “生活” を含む記事 14件

究極のスローライフとはどんな生き方か。

 以前にも書いたかと思いますが、ぼくの生涯の目標は「人生を楽しみつくす」ことです。  いままでのところ必ずしもうまくいっているとはいえませんが、短い一生で可能な限りこの世を楽しみつくして死にたいと思っています。  人生を楽しむには大きく分けてふたつの方法論があると思います。  自分自身で直接に体験することと、本や映画などによって間接に体験することです。  ぼくは35歳を過ぎるまで主に後者の楽しみ方を実践してきたわけですが、最近はそれだけの生き方に限界を感じ、直接に体験することも大切だな、と思っています。  これは「いくらフィクションを味わったところで現実の体験には及ばない」という意味ではありません。  ただ、直接体験と間接体験は補完関係になっていて、ある程度直接体験を進めないと間接体験を十全に味わえないようになっていると思うのです。  逆にいえば、色々体験すればそのぶんフィクションも面白くなるということ。  だから、いまのぼくの目標は「直接的、また間接的に可能な限り人生を楽しむ」ということになります。  これはつまり、同時に自分の人生とフィクションで同じテーマを追いかけることになることでもあります。  あるテーマを、自分の人生で実践しながら本の世界でも追いかけていくということ。  そして、ここ数年のぼくのテーマとして「スローライフ」があります。  日頃からニート生活をしているので、どうしたってスローな暮らしになるのですが、それだけではなく、正しくゆったりとした暮らしを楽しむにはどうすればいいのかとずっと考えていたのです。  以前はこのテーマに関しては禅がひとつの「ゴール」かな、と思っていたのですが、じっさいに禅について調べ始めたところ、さらにさかのぼってその源流である老荘思想にたどり着いてしまいました。  老荘思想とは、中国の古代哲学者である老子と荘子の思想のこと。本来、老子と荘子には直接の関係はないようなのですが、後世、ひとまとめにして老荘思想と呼んでいるようです。  その教えは「無為自然」という言葉に象徴されるように、心の拘りを良しとせず、まさにスローに過ごすことを薦めるもので、孔子に始まる儒教とは対照的なところがあります。  その思想をどう生活のなかに活かすか、いまぼくは考えているところです。  というか、老荘とか禅宗の教えに従って生きようとすると、必然的にシンプルライフとかスローライフといった生き方に至るようです。  モノに拘らず、ナチュラルに、自分の生きたいように生きる。あるいはそれが最も尊い生き方なのかもしれません。  『荘子』のなかの「胡蝶の夢」というエピソードはあまりに有名ですが、じっさい、人生はひと夜の夢のようなものに過ぎないとすれば、肩の力を抜くことも大切なのでしょう。  時には頑張ることもたしかに必要ですが、それと同じくらいリラックスすることも重要なのだと思います。ひとの努力など、巨大な運命、あるいは老子がいうところの「道(タオ)」には逆らえないものなのですから……。  否、おそらく 

究極のスローライフとはどんな生き方か。

丁寧に生きるということ。「生」のキラメキを捉えたい。

 ども。あまりこのブログに書くことではないかもしれませんが、最近、なんとか自分の「生活」をより良くしたいなあと思っています。  日々の「暮らし」を洗練させることはぼくの数年来のテーマで、つまりより生き活きと暮らしたいわけです。  森浩二の『自殺島』は、人生に絶望した自殺志願者たちがなぞの「自殺島」へ送り込まれサバイバルしながら「生」の輝きを取り戻す物語でした。  しかし、ぼくとしては平穏な都市生活を送りながらなんとかその「生」のキラメキを実感したいと思うのです。  そのためにはたぶんいまよりもっと丁寧に生きることが必要でしょう。  「生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら丁寧に生きろ」とは漫画『少女ファイト』の名台詞ですが、ぼくとしては「瞬間」ではなく長期間にわたって「生きている意味」を実感しつづけたいのです。  可能なら死ぬとき、「ああ、いい人生だった」といって死ねるような、そんな人生を送りたい。  そのために、自分のすべてを燃やし尽くすように烈しく生きるという手段もあるでしょう。  『あしたのジョー』とか『昴』のような人生ですね。どこまでも高みを目指して自己を燃焼させるスタイル。  そういう目的志向な人生も悪くはない。でも、ぼくとしては日々のあたりまえの「暮らし」のなかにこそ「生」を実感したいと思うのです。  たとえば、一冊の本、一曲の歌、あるいはひとすくいのそぼろあんかけ豆腐に「生」は感じ取れると思う。  目的は都市生活のなかで麻痺している「いま、生きている」というあたりまえの感覚を取り戻すこと。生き活きと暮らすこと。刻々と過ぎてゆく一瞬一瞬を噛み締めること。  それでは、そのためには具体的にどうすればいいのか。そう考えていくと、まずは早寝早起きして――という、きわめて平凡な地点にたどり着きます。  丁寧な生活はそういうところからしか始まらない。まあ、そういいつつもこうして夜更かししているわけですが、ほんとうは良くないと思うのですよ。  朝起き、夜眠る。太陽のリズムとともに生きていく。そんな当然のことの大切さを思います。  全然実践できていませんが、ほんとうは朝早く起き、前日のうちに準備しておいた仕事を早めに終わらせ、その後はゆっくりと翌日の仕事のために本を読んだり映画を見たりする、という暮らしを送りたいのです。  こう書くと、もうひとりのぼくが「じゃあ、送ればいいじゃん」とささやくし、まったくその通りなのですが、現実にはなかなか生活のリズムが整わない。  まるで丁寧に生きられていないなあ、と反省するばかりです。  生活に関するぼくの興味は、たとえば料理や、入浴や、睡眠、読書、音楽、映画、インテリア、菜園、狩猟といった方向へ向かいます。  狩猟はちょっとべつとするにしても、こういった生活のディティールをより良いものに変えていければ、もっと良い人生を送れるのではないかと思うのです。  最近、ぼくはわりと自炊しているのですが、生活リズムが整っていないせいで毎日同じタイミングで料理することができていません。  やっぱりまずは生活リズムからだよなあ、と思います。それが人生の「基本のき」だよな、と。  まあ、それでも自分で料理していくらかでも美味しいものができあがるととても嬉しいです。  それもまた「生活の喜び」のひとつでしょう。そういうささやかな喜びを丁寧に積み重ねていけば、いつかは「いま、生きている」という実感にたどり着けるのではないか、と漠然と思っています。  「いつか」なんてあいまいなことではいけないのかもしれないけれど……。  そういう文脈でいうと、映画『リトル・フォレスト』は田舎暮らしのなかでさまざまに自炊して暮らす様子を綴った物語で、「生」の実感が山盛りの素晴らしい作品した。  一種の「スローライフもの」なのですが、流行りの言葉で終わらない生々しさを捉えた傑作です。  「スローライフ」とか「シンプルライフ」とか「ミニマリズム」とか「断捨離」とか、綺麗な言葉に惑わされないよう気をつけたいものです。  そう、生活の魔法は一 

丁寧に生きるということ。「生」のキラメキを捉えたい。

生活を朝型に変えたい!

 ども。海燕です。  昨日、いくらなんでももう少し効率的に時間を使わないなあ、と何百回目かに思い立ち、『「時間がない!」を卒業する200のアイディア』という本を読みました(ぼくはなんでも本から入る)。  よくあるライフハック本ではありますが、なかなか示唆に富んでいます。  なかでもうなずけたのは「Facebook、Twitter、その他のソーシャルメディアをやめろ」というところ。  まったくもってもっともなので、いますぐやめることにします。  いや、Twitterにブログの更新報告は書き込むし、Facebookの仲間内のグループにもちょっと書くし、LINEはやめられないけれど、それ以外は、なんとか。  まあ、いまでもほとんど書いていないんだけれどねー。  あと、「テレビを見るな」というのももっともなので、実行に移すことにします。  これもいまでもアニメと一部特定の番組以外は見てはいないのですが。  また、「時間を有効活用する最初のステップは起きること!」とも書いてあったので、早起きしようと決心しました。  ええ、お察しのようにいままでに何千回か決心だけはしているのですが、今度こそやりとげようと思います。  どう考えても、ぼくは生活を朝型に変えるべきなんですよね。  朝6時に起き、7時までに朝食を食べ行動を開始し、午前中のうちに仕事を終え、午後はまったりしつつ翌日の準備をして、夜10時には寝るというのが理想。  いまはそれが 

生活を朝型に変えたい!

人生に対しツンデレになるな。

 ポジティブ心理学をご存知だろうか。  「なんでもポジティブに考えればうまくいく」という思想のこと「ではない」。  それは、鬱や病といった人生のネガティヴな側面を注視する既存の心理学と異なり、幸福や活力といったポジティヴな側面に目を向けようとする心理学のことである。  この新しい学問が誕生したのは1990年代のことで、爾来、いろいろな成果を積み重ね、いまでは心理学の大きな支柱のひとつとみなされるに至っている、らしい。  「らしい」と書くのはぼくもくわしい知識を持っていないからだが、興味は大いにあるので、イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』を読んでみた。  タイトル通り、実に多岐にわたるテーマが語られている本なのだが、個人的に興味深かったのは、そのなかの第13章「ポジティブ心理学を暮らしに活かすには」の結論だった。  そこにはこう書かれていたのである。「自分自身についてよく考え、得意なことをし、人生のよい面に意識を向け、他者に親切にしましょう」。  著者自身が書いているように、「あまりにも単純すぎるようにみえ」る結論なのだが、結局、これしかないらしい。  幸せになるためには、もっとポジティブになることが大切だという結論なのだ。  しかし、どうだろう、この種の理屈を鼻で笑ってしまう人は少なくないのではないだろうか。  ポジティブ・シンキングをすれば幸せになれるとは、ようするにひとに脳天気であれといっているようにも思える。  そんなふうにして幸福になるくらいならいっそ不幸であるほうがいい、そういうふうに思う人は大勢いるのではと思うのだ。  ぼくたち、と大きな主語を使っていいのかどうかわからないが、少なくともぼくのような人間は、口先では幸せになりたい、幸せになりたいといいながら、しかし、幸せという状態をどこか軽んじているところがある。  なんといっても、人間の苦悩の底知れない複雑さにくらべて、幸福はいかにも単純ではないだろうか。  それはまたどことなく軽薄であり、深刻さを欠いているように思える。  四六時中機嫌がよく、なんの悩みもないように見える人物は、友人としては最適だが、しかし、あまり強く尊敬する気にはなれない。  何かしらの悩みと苦しみこそがひとを複雑な存在にする――そうではないだろうか。  しかし、これは一面的な見方である。最近、ぼくはそう思うようになった。  幸せが単純だと、いったいだれが決めたのだろう?  まさに 

人生に対しツンデレになるな。

お金をかけず幸せに暮らすためには、技術が必要だ。

 日本一有名なニートとしてしられるPhaさんの新刊が出るそうで、クリスマスまでの日を数える子供のように楽しみに待っている。  タイトルは「持たない幸福論」、26日発売だとか。  26日になったら即座にKindleで落とそう。まったく便利な世の中である。  で、そのPhaさんが「お金がないと幸せになれないのか」という記事を書いている。 http://pha.hateblo.jp/entry/2015/05/22/003115  もちろん、イエスかノーでシンプルに答えられる問題ではないのだけれど、Phaさんのアンサーはイエスに近いようだ。  ぼくとしては「ある程度は収入があったほうが幸せになりやすい」と答えたい。  やっぱりいまの時代、大半の人間は社会のなかで生きているのだし、その社会で通用する通貨をたくさん持っているといろいろ便利ではある。  お金がたくさんあれば幸福というものではないことは諸々の調査があきらかにしているが、そうかといって極端な貧乏もやはり辛いものがある。  昔、「清貧の思想」と題する本がベストセラーになったが、清貧とはなかなかむずかしいもので、やはり大抵の貧乏はただ貧しいだけなのである。  ただ、貧乏が即座に不幸かというと、必ずしもそうではないらしいこともたくさんの証言がある。  また、現代日本のような社会インフラがきわめて高度に整備された社会における貧乏は、そうでない社会における貧乏とはまた性格が違っているだろう。  「貧乏」が即座に「貧困」ではないのだ。  『貧乏は幸せのはじまり』というなかなか面白い本があって、そのなかには赤貧の有名人のエピソードがいくつも出て来る。  ほほえましく読めるものもあれば、読んでいるほうが辛くなってくるものもあるのだが、それらを読んでいるとたしかに裕福さと幸不幸は関係ないのだな、と思えて来る。  すべてはその人の内面の問題。  もちろん、そうはいっても、凡人にとって貧乏は楽ではない。  凡人は、それが可能であるならおとなしく一定のお金がある生活を送ったほうがいいだろう。  ただ、最低限の収入でもなかなか楽しそうに暮らしている人たちがいることは事実だ。  社会の整備が進んだ上に、いろいろなものが極端に安価で入手できるようになった昨今、「貧しいが楽しい暮らし」を送ることは以前より容易になって来ている。  というか、 

お金をかけず幸せに暮らすためには、技術が必要だ。

「どこか遠くへ行きたいな」。海外移住という見果てぬ夢。

 「どこか遠くへ行きたいな」。  大林宣彦監督の名画『ふたり』のなかで、主人公の姉は口癖のようにそう呟く。  いま在るここではないどこか遠いところへ行ってしまいたいという想いは、非常に普遍的で、共感を呼ぶものだろう。  ぼくも時々、「いま・ここ」を離れて遥か遠くへ旅立ってしまいたくなる。  しかし、その想いを実行に移す勇気もないので、たとえばこんな本を読むのである。  『ロングステイ入門ガイド』。  世界各地で「ロングステイ」する方法について書かれた一種の入門書だ。  アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニアなど、さまざまな場所でのオススメ都市が書かれている。  こういう本を読むと、「どこか遠くへ行きたい」という熱はいっそう高まる。  いつかはほんとうに旅立つかもしれないが、その前に「言葉を覚えて、貯金を貯めて」などと瑣末なことに意識が行ってしまうあたりが凡人のつまらないところだ。  日常の重力を振りきる第二宇宙速度に達するためには、いかにも覚悟が足りない。  とはいえ、ぼくも一応、ノマドワーカーの端くれの土くれくらいのポジションにいる人間なので、その気になれば世界中どこに住んでも問題がないはずである。  だから、こうしてガイドブックを読みながら、「いつかは――」と夢見たりするのだ。  まとまった額のお金が貯まり、片言でいいから英語を話せるようになったら、その時は日常の重力圏から別世界へと旅立とう、と。  いくら狭くなったといわれていても、じっさい旅しようと思えば、世界はあまりにも広い。数しれない選択肢が存在する。  また、お金が続くかぎり移動しつづけることもできるし、どこか一箇所に長期滞在することも自由だ。  自由――そう、ひとが「いま・ここ」から遠くへ行きたがるのは、その旅路自体が自由を象徴しているからなのだろう。  どこか遠い場所には、さまざまな桎梏と軋轢に満ちた日常生活からかけ離れた自由が存在しているように考えるに違いない。  たとえそれが幻想に過ぎないとしても、やはりひとは「どこかにあるかもしれない」楽園を夢見てやまないものなのだ。  不世出のファンタジー作家としてしられるロード・ダンセイニに「ロンドンの話」と題する短編がある。 

「どこか遠くへ行きたいな」。海外移住という見果てぬ夢。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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