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自分という人間がよくわからない。
2015-07-25 05:1951ptえー、月末近くで会員が減っていく時期なのですが、読者の需要を無視して自分語りをしたいと思います。
書きたいことを書きたいように書いていないと続かないですからね。
ぼくはよく自分という人間について考えます。自分とはどういう人間だろう、と。
するとすぐに答えが出ます。「よくわからん」と(笑)。
これは自分のことだからわからないという側面もあるでしょうが、客観的に見ても相当よくわからない人間なんじゃないかなーと思います。
もしかしたらぼくのまわりにいる人たちはぼくよりもぼくのことを理解しているかもしれませんが、ぼく自身はぼくのことをよくわからないなーと思っています。
ぼくの最も親しい他者である母なども「お前はよくわからない」といいます。
そうだろうな、と思うのですよ。ぼく自身がさっぱりわからないのだから。
もとより、人間なんてよくわからないものではあります。
ひとのことを理解できたと感じたとき、それはほとんど錯覚です。
でも、そのなかでもぼくは割合にわかりづらいほうに入っていると思うのです。
あるいはだれしも自分についてはそう思うのかもしれませんが。
ぼくが自分の性格を「よくわからん」というのは、人格に整合性が取れていないように思えるからです。
ぼくという人間はどこか矛盾している気がしてなりません。どこかでねじ曲がっているような……。
いや、これもすべての人がそういう側面を持っていることではあるでしょうが、ぼくはたぶんそのねじ曲がり具合がわりと大きいほうだと思う。
なので、自分で分析しきれない。
具体的にいうと、ぼくは我が強いのか弱いのかわからないなあ、と思います。
この場合の我が強いとは自分自身に対しどのくらいプライドを持っているか、ということに近い概念です。
基本的には頭がいい人ほど我が強く、自己主張もまた激しいとぼくは考えています。
で、その考え方でいくと、ぼくはあきらかに我が弱い人ということになると思うのですね。
そもそもあまり頭は良くないですし、主張するべき「自己」というものがいかにもあいまいですから。
そして、それでは肉体的な人間かというとそうでもないわけで、ぼくは空っぽな奴だなーと思います。
何をしたいとか、何が欲しいとかいうこともありないですしね。
この認識にはもうひとつ論拠があります。
以前にも書いたことがありますが、 -
勇気のレッスン。自意識が生み出すモンスターを制圧せよ。
2015-06-18 01:4651pt
さて、自意識を巡る一連の記事の最終回です。
前回の記事では「結局、ささやかな勇気を振り絞って現実と向き合うしかないよね」というところまで書きました。
一部に異様に面の皮の厚い人はいますが、一般にひとはみな繊細な自意識を抱えていて、なかなかチャレンジングに生きることができません。
それでは、どうすればその殻を破って、自分の世界を拡張することができるのか?
なけなしの勇気を振り絞るための秘策とは?
そんな方法がわかっていたら苦労しないよといいたいところですが、ぼくが自分の経験から導き出した答えとは「徹底的に現実と向き合う」ことです。
ひとはだれもみな何かしら偏見を抱えていて、事実とはずれた世界を現実として認識しているものです。
たとえば、ある人物に対して「どうにもいやな奴だ」、「あいつは四六時中ひとの悪口ばかり考えているのだろう」などと思い込んだりする。
しかし、現実にはどんな人間でも「悪」の結晶ではなく、雑多な思考を行いながら生きているのです。
ある人間を「いやな奴」という認識でカテゴライズすることは現実を「単純化」することです。
もちろん、人間は限られた脳の能力で超複雑な現実を把握しようとしているわけですから、「単純化」はだれもが避けられないことです。
せいぜいが偏見に振り回されないように努力することができるくらいで、一切偏見なく生きることはできないでしょう。
しかし、この偏見がひとを苦しめるのです。偏見は恐怖を肥大化させるから。
たとえば、ある人に「おはよう」と話しかける、それだけのことでも、偏見を抱えていると途方もなく恐ろしいことになってしまいます。
もし相手が自分に悪意を抱いていたらどうしよう、そうでなくても話しかけることで変な奴だと思われるかもしれない、あるいは突然殴りかかってくるかも、といった想像が連鎖的に暴走することで、ひとは一切行動することができなくなります。
その時、かれは「ほんとうの現実」ではなく、バケモノのように肥大化した現実を認識し、それと向き合うことで勇気をくじかれてしまっているのです。
いわば、「現実のモンスター化」。
ある意味では、自ら現実世界を強大な敵にしてしまっている。簡単なことを困難にしてしまってもいる。
こうやって認識を肥大化させつづけ、世界をモンスター化しつづけると、ひとはついには一歩部屋から外へ出ることもできなくなってしまいます。
とはいえ、 -
最高に面白い人生を生きるために。何が「自意識の牢獄」を開くのか?
2015-06-10 04:2751pt
『人生ドラクエ化マニュアル 覚醒せよ! 人生は命がけのドラゴンクエストだ!』という本を読みました。
いまどき「覚醒せよ!」ってすごいなと思うわけですが、ようするに『ドラクエ』をネタにした一種の自己啓発書ですね。
つまり、退屈な(あるいは苦しみに満ちた)人生を『ドラクエ』に見立てて考えることによって面白いものにしようという発想です。
著者によると、面白いゲームには三つの要素があり、それらの要素を現実に叩き込むと自然と人生はゲームらしくなってくるといいます。
その要素とは、「目的」であり、「ルール」であり、「敵」。
つまり、面白い人生を楽しむためにまず必要なのは「目的」ということになります。
もちろん、現実世界はゲームと違っていて、「あらかじめ設定された目的」がありません。
したがって、面白い人生を歩みたいと望むなら、自分の意志で「目的」を決める必要があります。
著者によると、その「目的」はとにかくワクワクすることでなければならない。
あたりまえといえばあたりまえでしょう。特に面白くもない「目的」を定めたところで、そこに努力し邁進しようという気にはなれないでしょうから。
まずは何かワクワクするような「目的」を決めること!
そこからしかすべてはスタートしない。それはほんとうにそうだと思うのですよね。
いま、ぼくの人生は非常に退屈であるわけですが、それは「目的」がないからなんだよなあ、とつくづく思います。
そう、自分の人生がつまらないのはどこまでも自分のせいなのであって、だれの責任にするわけにもいかないんですよね。
うーん、現実はきびしい。
しかしまあ、ぼくが人生に独創的な「目的」を設定できずにいることにも理由があります。
やはりとても叶いそうもない「目的」を設定することには躊躇があるわけです。
それはそうですよね。どんな「目的」でも設定するだけなら自由とはいえ、あまりにも高望みをすることは気恥ずかしい。
また、人生ゲームの「ルール」や「敵」は「目的」をさだめた瞬間に自動決定されるので、あまり高い「目的」を設けてしまうと必然的に過酷な「ルール」のもと、強大な「敵」と戦わなくてはならないことになります。それはいかにもしんどい。
つまり、人生ゲームを面白くするためには、まずは「適度にむずかしい」、「それでいてワクワクする」目標をさだめることが必要であるわけです。むずかしいですよね。
それだけではありません。何かしら「目的」を決定したなら、そこへ向かって努力しなければならないので、「新しい世界」を切り開いていく必要があります。
これが怖い。ひとは一般に「きびしいチャレンジ」には怯むものです。
失敗したらどうしよう。間違えたらどうすればいい? 恥をかいてしまうんじゃないか……。そんな雑念が心をよぎるからこそ、「新しい挑戦」に怯えてしまうのですね。
結局、ここでも問題になるものは「自意識」です。 -
なぜコミュ障は地獄なのか。
2015-06-08 21:1751ptTwitterでこんなツイートを呟いてみた。
「絵が描ける」とか「歌が歌える」とか「文章が書ける」ということは、その分野における自分の技術と折り合いがつけられているということだ。ほんとうはやるだけならだれにでもやれるのだ。ただ自分のあまりの下手さに耐えられないから「できない」と思っているだけで。
そうしたら、てす(@a1rou59)さんから次のようなリプライをいただいた。
@kaien そのうちで良いので、この「折り合い」の付かない感じ・自分の下手さに耐えられない感じをブロマガでkwsk。解決しなくて良いのですが、本当にこの感じに困ってしまって・・・
それでは、さっそくその件について書くことにしよう(あまり長く放置すると忘れ去ってしまう可能性が高い)。
上記のツイートで書いたように、ひとは、なんらかの物理的には可能な行為を、心理的な理由で「できない」と思っていることがある。
たとえば、高所恐怖症の人にとって、スカイダイビングやバンジージャンプ、フリーフォールのような行為は、物理的には可能だが、心理的には不可能なものである。
あまりにも心理的障壁が高いため、かれらはそれを物理的に不可能な行為であるかのように表現することがある。
「わたしにはどう足掻いてもとてもできない」、「あまりにも危険すぎる」とか。
しかし、それはやはり嘘なのであって、問題は99%まで心理的なものだ。
たしかに、1%以下の危険性がないでもないことは事実だ。
何かが狂って、予想外のトラブルが起こるかもしれない。パラシュートの金具が(入念にチェックされているはずにもかかわらず)壊れているとか。
だが、そういった確率は、たとえば日常生活のなかで殺人犯と遭遇する確率と比べてもそう高くないだろう。
冷静に客観的に考えれば、スカイダイビングやバンジージャンプに物理的な危険が伴うことはほとんどないということはわかるはずだ。
もし大きな危険があるならすぐに問題になって中止されているだろう。
もちろん、だからといってこういった行為が恐ろしくないことにはならない。
物理的な障壁は一切なくても、心理的な障壁は残る。
高所恐怖症の人はいうだろう、「そうはいっても、怖いものは怖い」と。
それはまったく納得のいく話である。ひとは理性だけで生きているわけではないからだ。
理性的に考えれば不条理な恐怖感であっても、並大抵では克服できないということはありえる。
だから、ひとはしばしばいい訳することになる。「スカイダイビングなんて、ばかみたい」、「まともな人間はそんな危険な真似をしたりしないよ」などなど。
この場合は、まだ身体的な危険がゼロではないぶん、そのいい訳も理解しやすい。
ところが、人間はほぼ99・99%身体的な危険がない場合でも、行動を尻込みすることがありえる。
つまり、歌を歌ったり、絵を描いたり、文章を綴ったりするという「自己表現」に関わる行為を避ける場合である。
ひとはときに
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