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  • 『新世紀エヴァンゲリオン』の狂気とは何だったのか。

    2014-10-29 11:27  
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     おそらくご存知のように、ぼくは物語が好きで、ずっと追いかけ続けている。その思考の軌跡はそのままこのブログに残されているわけだが、定期的にまとめて提示しなければ何を語っているのかだれにも理解できなくなることだろう。
     そこで、今回の記事では、いままでの思索をあらためて振り返り、過去ログの墓場に埋ずもれた論考を再び可視化するとともに、新たな一歩を踏み出すことを目指したい。
     さて、ぼく(たち)の思考はいま、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』といった作品が代表する「新世界の物語」にたどり着いている。
     「新世界の物語」とは、「いつ何が起こるかわからない過酷な現実」をそのまま物語化した作品群を指している。
     『進撃の巨人』の、「人が生きたまま巨人に喰われる」というゴヤ的にショッキングな描写が直接に表しているように、それは一切のヒューマニズム的価値が通用しない世界の物語である。
     日本では少年漫画が代表しているような通常のエンターテインメント作品では、通常、物語は「階段状」に展開してゆく。序盤から中盤へ、そして終盤へ、順を追うほどに敵は強くなり、試練は過酷となる。それが一般のエンターテインメントの描写であるわけだ。
     むろん、エンターテインメントの作法として、そのつど、「とても勝てそうにない敵」、「まるで乗り越えられそうにない試練」を用意しなければサスペンスが機能せず、読者の注目を集めることはできない。
     しかし、それでもなお、それらは最終的には超克されていくのであって、その意味でこれらの作品には畢竟、主人公の成長を促す「階段」が用意されているともいえる。
     この『ドラゴンクエスト』的に美しい予定調和展開は、特に『少年ジャンプ』でくり返し用いられ、膨大な読者を熱狂させた。
     とはいえ、それはフィクションの方法論として底知れない魅力を放っているものの、一面でリアリスティックとはいいがたいこともたしかである。
     現実ではもっと不条理なことが起こりえる。その人物の内面的/能力的な成長を待つことなしに最大の試練が襲いかかってくることもありえるのだ。
     その意味で、『少年ジャンプ』的な「階段状の物語」とは、クリフハンガーが連続する見せかけのサスペンスとはうらはらに、真の不条理が慎重に排除された予定調和の宇宙であるとひとまずはいうことができるだろう。
     ところが、「新世界の物語」においてはその不条理は前景化する。物語序盤において主人公であるエレンがあっさり殺害されるかと見せた『進撃の巨人』の描写がきわめて秀抜であったことは、既に多くの論者が書いている通りである。
     これはつまり「その世界の限りない不条理さ」をそのままに見せた演出であったわけだ。
     しかし、ただこういった「身も蓋もない現実」に登場人物を放り出すだけでは、物語はその猟奇描写で一部の残酷趣味的な読者を満足させるに留まり、広範な支持を集めることはできないだろう。
     そこで用意されるのが「壁」である。これはつまり『ドラゴンクエスト』的な「階段状の物語」世界と、真の意味で過酷な(ゲームバランスが調整されていない、とでもいえばいいか)「新世界」を分断する物語装置である。
     この「壁」が用意されることによって、物語は「新世界=身も蓋もない現実」と適切な距離を保ちながら展開してゆくことが可能となる。
     そして、この「新世界」的な「不条理な苛酷さ」は、虚淵玄脚本で知られる『魔法少女まどか☆マギカ』においても見ることができる。
     しばしば「鬱アニメ」と称されるそのダークな内容の骨子は、「ごく平凡な少女が突然、命がけの契約を結ばされ、戦場に放り出されて死んでいく」点にある。ここでは「契約」の内容をよく吟味せずに契約を結んでしまうたぐいの未熟者はまず生き残れない。
     少女たちの生きる日常世界そのものは決して「新世界」ではないだろうが、無邪気を装って彼女たちに死の契約を奨めるキュゥべえは「新世界から日常世界への侵入者」と見ることができるだろう。
     ここにおいて「壁」は存在せず、「新世界」と日常世界は地続きで、したがって少女たちの物語は決して階段状に展開しないわけだ。
     しかし、それではただ「新世界」的な「不条理な苛酷さ」を丹念に描けばそれで『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような傑作が生まれるのだろうか。換言するなら、『進撃の巨人』なり『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とは、その「鬱描写」にこそ存在するのか。
     しかし、思考を進めていくと、どうやらそうではないらしい、ということになる。
     そもそも「身も蓋もない現実」をただそのままに描くことは、特に作劇的工夫を必要としない、ごく容易な作業である。現実世界にはありふれている現実なのだから、ただそれを物語世界に移植すれば良い。
     じっさい、商業エンターテインメントならざる同人漫画などでは、そういった展開の物語を頻繁に見いだすことが可能だろう。
     しかし、当然ながらただそれだけでは一本の悪趣味な「鬱作品」を生み出すに過ぎず、せいぜいが一部にカルト的人気を誇る程度の作品に終わる。
     ここで発想の転換が必要である。現代(テン年代)において必要とされているものは、不条理に過酷な「新世界」そのものではなく、「その新世界のなかでいかに生き抜くか」、その実践的な描写であると考えるべきなのだ。
     「新世界」そのものはあくまで背景であって、主眼はあくまでもその新世界での主人公たちの行動にあるということ。この点を見誤ると、単に露悪趣味的な「鬱作品」しか出来上がらないだろう。
     この「新世界の物語」(より正確に語るなら「新世界と壁と階段状世界の物語」)は90年代の内的思索モード、ゼロ年代の決断主義(あるいは決断幻想)を経て物語がたどり着いた時代の最新モードである、とひとまず述べておこう。
     少なくとも豊饒を究めるテン年代サブカルチャーシーンを切り取る視点のひとつとして、「新世界の物語」というタームは機能するだろう。
     しかし、「新世界の物語」風のアンチ・ヒューマニズム的現実描写を行いながら、それでも「新世界の物語」とは呼びがたい作品も存在する。久慈進之介『PACT』のように。
     『PACT』は第一話にしてヒロインにあたる少女を死亡させてしまっている点などを見てもわかる通り、表面的には新世界的な世界観で貫かれているように見える作品である。
     また、そこには「壁」はなく、したがって物語は一貫して過酷である。しかし、そうであるにもかかわらず、『PACT』においては登場人物が奇妙なまでに感傷的で、「個」の権利を叫びつづける。
     つまり、世界観は新世界であるにもかかわらず、登場人物たちは階段状世界ないしより手厚く保護された世界の描写なのだ。これはいったいどういうことなのか?
     そう、『PACT』は一見して「新世界の物語」と見えるものの、似て非なるものを考えるべきなのだ。ここで思い出されるのが、既に風化しつつある「セカイ系」というジャンルである。
     『PACT』の描写は「新世界の物語」というよりセカイ系的なのではないか、と考えることができる――と、ここまでが「いままでのおさらい」。
     となると、次の作業は「セカイ系」とはどのような物語だったのか、その再考ということになるだろう。
     セカイ系とは 
  • 検証。『進撃の巨人』は「セカイ系」の対極にある「新世界の物語」なのか?

    2014-10-15 04:30  
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     「新世界の物語」と「セカイ系」の話をちょっとどこかにまとめておかないといけないにゃー、ということで、ここに簡単に記しておきます。
     まあ、先日のラジオで話したことなんですが、あまりにも面白かったので文字にしておく必要があるだろうと。
     簡単にいうと「新世界の物語」と「セカイ系」は真逆であり対称である、という話なんですが。
     振り返ってみましょう。「新世界の物語」とは、ここ最近の漫画やアニメで登場して来ている「新しい世界」とは「現実」を指しているのではないか、という話でした。
     具体的にはこの記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582)で書きました。こんな内容です。

     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。

     これが「新世界の物語」です。ここまでは良いでしょうか? 今回話したことはこの続きにあたります。
     すべてはぼくが「それでは、久慈進之介の『PACT』はどうでしょう? これも「突然ひどいことが起こる」話だけれど、「新世界の物語」に含めることができるでしょうか?」とLDさんたちに訊ねたところから始まります。
     ここから、LDさんとペトロニウスさんの間で議論が発展していろいろと面白いアイディアが出て来たらしいのですね。その結論が、上記したような「新世界の物語」と「セカイ系」は対称を成しているという話です。
     ちょっとここはあまり軽々に断言できない、ほんとうのそうなのか?と思うところであるのですが、とりあえず話を進めてしまいましょう。
     まず、「新世界の物語」とは、「保護されていない現実」を舞台とした物語でした。それでは、「セカイ系」はどうなのか? それはつまり、「個人の内面世界を舞台とした物語」だったのではないか、ということなんですね。
     くり返しますが、ほんとうにそうなのかはまだよくわかりません。真偽をたしかめるためには、セカイ系の代表作といえる作品をひと通りさらい直してみる必要があるでしょう。
     しかし、ここでは当面、そういう理解で進めてみましょう。『ほしのこえ』であれ、『最終兵器彼女』であれ、「セカイ系」の作品においては、個人(主人公とヒロイン)と世界(セカイ)が直接に結びつけられています。
     つまり、そこでは個人の行動が即座に世界に影響を与えるのです。最も典型的なサンプルと思われる『最終兵器彼女』を見てみましょう。
     この物語の主人公であるシュウジとちせの行動は、「世界最終戦争」とダイレクトに結びつき、最終的には世界は亡んでシュウジとちせだけが生きのこります。セカイ系の宇宙とは一般にこういうものであるわけです。
     あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』(のテレビシリーズ及び旧劇場版)にしても、主人公である碇シンジの行動と決断がそのまま世界の命運を左右します。
     この「個」と「セカイ」が明確に分離されていない、むしろ融合してひとつになっているとすらいえる描写が「セカイ系」の特徴だといえるでしょう。
     ある意味で遠近法が消失した宇宙というか、「個」の内面が極限まで重視される世界ということもできると思います。
     さて、一方で「新世界の物語」では「個」と「セカイ」は明確に分離されています。いくら主人公が泣き叫ぼうが、あるいは必死に努力しようが、「世界の理(ことわり)」はそれとは無関係に動いていて、主人公やヒロインを圧殺したりもするわけです。
     このことが端的にわかるのが『進撃の巨人』序盤で主人公エレンが巨人に食われてしまう場面ですね。そこでは「主人公であろうがご都合主義のお約束で生きのこれる物語ではない」ということが示されているように思います。
     ここまでが、前提。ここからようやく『PACT』の話になります。『PACT』も、「壁」の描写こそありませんが、一見すると「新世界の物語」的であるように見える作品です。
     というのも、『PACT』でも次々とひどいことが起こるんですね。たとえば、これはネタバレになりますが、第1話の時点でメインヒロインと思われる女の子が死んでしまうわけです(あとで生きのこっているようにも見える描写がありますが、これはミスディレクションなのかな? クローンとか?)。
     ここだけ見ていると『PACT』も「新世界の物語」的な、「身も蓋もない現実」を描いているように見える。『進撃の巨人』のような斬新さがそこにあるということもできるかもしれない。
     しかし――しかし。それにもかかわらず、『PACT』は明白に失敗作である、とペトロニウスさんは喝破します。
     たとえば、日本を沈没させかねない危険な爆弾を解体しようとする主人公を守る兵士を見よ、と。
     かれは、あくまで任務を再優先に考える主人公に対し激発し、感情的に食って掛かる。これはリアリティのレベルを守りきれていない描写である。
     なぜなら、既にその同じ爆弾によってアメリカ合衆国が沈没しているという、つまり世界が半分滅亡しているような状況下において選ばれた兵士が、個人的な感情を責務より優先させることなどありえないからだ、と。
     つまり、この作品はテクニカルなレベルで完全に失敗している物語なのだ、と。まあ、納得が行く話です。ぼくも『PACT』が傑作だとは思いません。
     ところが、です。LDさんがその話を聞いて、しかし、と反論したらしいのですね。ペトロニウスさんのブログから引用するとこんな感じだったらしい。

     僕が言っているのは、技術レベルの話で、そもそも作者がやりたかったことの意を汲むべきだし、かなり失敗しているとはいえ、まったくそれができていないというわけでもない、とね。そこで、いやいや、そうじゃないです、、、、この技術的な問題点が、やりたかったこととコンフリクトしてて、、、という話になって、では、この物語がほんとうに示すことは何なのか?という話になり、、、という流れです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141010/p1

     つまり、『PACT』の失敗は単に技術的な問題「ではない」ということなんですね。
     『PACT』の問題点とは何か? それは作中の描写が作品の主題とコンフリクトしていることであるわけです。即ち、あまりにも「個」の感情を重視するあまり、「人類全体」が危機に陥っている状況下においてありえないような描写を行ってしまっているということ。
     思い出してみましょう。「新世界の物語」とは「個」の情緒と「世界」のありようが完全に分離している「現実」を描く物語でした。
     しかし、『PACT』においてはその「個」が「そんな世界のありようはおかしい!」と、いってしまえば甘ったるいことをいい出しているわけです。
     これが『PACT』の究極的な問題点です。さて、これはどういうことでしょう? つまり、『PACT』はどこかしら「新世界の物語」のように見えて、実は「セカイ系」的な作品なのだ、ということなんですね。
     ぼくなりにいい換えるならこういうことになるかもしれません。「セカイ系」は「個」の悲劇を描く物語である。つまり、「セカイ系」では「個」(主人公)と別の「個」(ヒロイン)の対幻想にもとづく悲劇は成立する。
     しかし、「新世界の物語」ではそういう「個」の悲劇はそもそも成立しない。なぜなら、その「個」の悲劇とは「無数にある悲劇」のなかのひとつに過ぎないからである、と。
     さらにいい換えるなら「セカイ系」は主人公とヒロインの関係を近景で見、「新世界の物語」は主人公を含む広大な世界を遠景で見ているということもできるかもしれません。
     したがって、『PACT』が失敗しているのは、「新世界の物語」的に過酷な状況設定を行っているにもかかわらず、「セカイ系」的な「個」を重視するロマンティシズムを持ちだしていることだ、ということになります。あんだすたん?
     ここまで考えてみると、「新世界の物語」と「セカイ系」はまったく正反対の、互いに相容れない物語なのだ、ということがいえそうに思えて来ます。
     そう、「個」の価値を極限まで重視し、そこに世界と同じだけの重みを見いだしたのがセカイ系だとするなら(ほんとうにそうなのかはよくわかりませんが)、「個」ではなく「全体」を見て、「個」とはあくまで「全体」のなかの一部分でしかない、と考えるのが「新世界の物語」ということが、当面はいえそうです。
     あるいは前者を左翼(レフトサイド)的な世界観、後者を右翼(ライトサイド)的な世界観と見ることもできるかもしれませんが、ここではあえてそういう政治的な言葉を使用する必要性を認めません。
     とりあえず、両者には「個」をどこまで重視するかという一点において、決定的な落差がある、ということを確認しておけば十分でしょう。
     そして、これはもちろんいずれが正しく、いずれが間違えているという性質のものではありません。ただ単に性格の違いがあるだけなのです。
     「セカイ系」の代表作としては『ほしのこえ』とか『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』あたりが挙がるでしょう。『新世紀エヴァンゲリオン』とか西尾維新の『戯言シリーズ』も同系統の作品であるかもしれません。
     ひとついえそうなことは、こういった作品がある程度ウケた頃とは、たしかに時代が変わったのではないかということです。
     もちろん、その背景にあるものは日本の社会の急速な変化であるのでしょうが、まあ、そこらへんはよくわからない。ただ、いま見るとこの手の作品は非常に甘ったるく感じられます。
     とにかく、たとえば『エヴァ』旧テレビシリーズでは碇シンジの存在は最後まで世界を左右しますが、それから十数年後の『新劇場版:Q』では「世界の中心」の座を外されます。
     そういう変化もまた、「セカイ系」と「新世界の物語」の対称性と似たところがあるように思われます。
     底なしに甘い、ロマンティックな対幻想の、心中ものの悲劇がウケた時代から、マクロ的な視点で世界を眺める、よりきびしい物語がウケる時代へ、とひとまずはまとめることができるかもしれませんが、ここは断定することなく保留しておきましょう。
     とにかく、これは非常に面白い話だと思うんですね。「新世界の物語」を巡る話が一歩進んだ感じ。
     もうひとつ「新世界の物語」について書いておくと、「新世界の物語」とはどうやらただ「あまりにもきびしい現実」を描くだけでは成立しないらしいということがわかって来たように思います。
     つまり、それは必要条件の第一に過ぎなくて、第二の条件がある。その条件とは「その過酷で残酷な世界において、どうやって生きのびていくか」ということである、と。
     ようするに「あまりにも過酷で残酷な現実を描き」、しかも「そこでどうやって生きのびていくか」を描き切った作品が「新世界の物語」のなかで名作として、あるいはヒット作として知られるようになる、ということかな。
     ちょっと系統が違いますが、『銀の匙』あたりがなぜヒットしたのかもここらへんの事情を踏まえると説明できるような気がします。
     あの物語では 
  • 傑作か? 凡作か? 久慈進之介『PACT』を巡る議論の扉がいまひらく(かも)。

    2014-10-11 07:00  
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     ふたつ前の『東のエデン』の記事にハラルヤさんがコメントを付けてくれているので、ちょっと転載しておきます(読みやすさを考えて改行とインデントを加えました)。

     名指しで呼ばれたら来るしか無いですね。
     『東のエデン』は名作ですよ。TVシリーズ劇場版Ⅰ・Ⅱ全て含めて俺オールタイムベストですよ。
     ペトロニウスさんがなんか言ってますが今回ばかりはトンチンカンな戯言ですね。
     何故なら『東のエデン』はあの時代の僕の為に作られた作品なので僕以外の人間には観賞する権利なんか無いからです(狂信者かつ極右な意見)
     まあもう少し観賞対象者を広くして滝沢朗と同学年(昭和63年4月1日〜平成元年3月31日生まれ)または当時ニートだった人間の為以外には作られていないんです!(カルトな意見)
     さらにさらに鑑賞対象者を極限まで広く捉えたとしても「あの時代」(2009年4月9日〜2011年3月10日)の日本
  • 史上最大の爆弾解体サスペンス。久慈進之介『PACT』を見よ!

    2014-04-05 18:01  
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     時限爆弾――その、タイムリミットとともに爆発し周囲を炎に包む悪魔の兵器には、「解体」という対抗手段がある。そして、命がけで爆弾の解体に挑む「爆発物処理班」の活躍は、多くの小説や映画で題材として用いられてきた。
     タイムリミット目前の爆発物を前にして「青を切るか、赤を切るか」といった選択を強いられ、「のこり1秒」といったところで爆弾が止まるのはお約束。時限爆弾解体ものは、いまやひとつのジャンルとして確立されていると云っていいかもしれない。
     久慈進之介『PACT』は、その最新の一作にして、おそらくは過去作品にないスケールを誇るSF漫画のカッティング・エッジである。
     物語は、「窒素爆弾」と呼ばれる新型爆弾が、解体の努力もむなしく爆発するところから始まる。その、かつてない圧倒的な威力の爆発の結果はアメリカ合衆国「消滅」。それはひとつの大国を破滅に追いやるほどの絶対兵器であったのだ。
     そして、日本近郊に埋め込まれた新たな窒素爆弾がいままた爆発しようとしていた。世界中を恐怖と絶望に陥れた上で破壊しようとしているテロリスト集団に対抗できるのは、爆弾解体空前の天才、ひと組の青年と少女。はたしてこの最強コンビは人類絶滅の危機に立ち向かうことができるのか――?
     某誌で『PACT』の連載が始まったとき、ぼくは久方ぶりの興奮を感じた。シンプルかつインパクト抜群、あるアイディアを極限まで突き詰めたハッタリ抜群の背景設定を、最高だと思った。
     設定だけでここまで惹きつけられるのは個人的には『DEATH NOTE』以来と云ってもいい。そういうわけで、すわ大傑作か、と思ったのだが、うーん、ここまでの展開は、実は、もうひとつだったりする。
     いや、十分に面白いのだけれど、設定から連想される以上のエンターテインメントとしての「ベクトル性」は弱い気がする。やはりこれはドラマが弱いのではないか。
     各々のキャラクターがどういう人間で、どういうバックボーンを背負っていて、そのためにどういう行動を取るのかという点が、描かれてはいるのだが、もうひとつ胸に迫ってこない。
     巨大なマクロ状況のSF設定とミクロの人間ドラマを「セカイ系」的な荒業で繋ぐのは良いとして、その接続部分がなめらかさを欠いているというか。マクロ設定の圧巻の素晴らしさに対して、ミクロ設定がいまひとつ弱い気がしてならない。
     ぼくも何がどう問題なのかはっきり指摘できるほどの「目」を持っていないのだけれど……。
     比べるべきものではないのだろうが、近い時期に連載が始まった小畑健のSFアクション『ALL YOU NEED IS KILL』がさすがとしか云いようがない漫画のうまさを見せてくれている。
     これは原作の出来も良いのだろうが、やはり小畑さんが長い年月をかけて得てきたコマ割りやストーリーテリングの方法論は凄まじいものがある。とにかく、わかりやすく、伝わりやすく、登場人物の感情の一々が胸に迫ってくる。
     それほどわかりやすいテーマだとも思わないのだけれど、小畑健の匠の腕前にかかると、一切の無駄が省力されて、ごくシンプルな物語に見えてくる。その迫力。
     それに比べると、『PACT』はやはり弱いかな、という気がする。何が起こっているのか、何を見せたいのか、わからないわけではないのだが、エンターテインメントとして、もうひとつ、ふたつ、魅力の強さに欠けるかな、という気がしてならない。
     もっとも、それはマクロを重視するサイエンス・フィクションでは往々にして起こる問題ではある。
     最近の作品はそうはいっても