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記事 54件
  • サバイバーズ・ギルト。生きのこった者だけが負う荷物の重さを想う。(2137文字)

    2013-05-31 21:05  
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     ここ最近、どうにも体調が悪くて起きたり寝たりを繰り返していたのだが、そのあいだに石塚真一の『岳』を読み返した。
     日本アルプスでテント暮らしをしながら山岳救助ボランティアとして活躍する青年、島崎三歩とかれを取り巻く人間模様の物語。基本的には一話完結で、さまざまな山のドラマが描かれている。
     初めは不定期連載だったものがそのうち定期連載となり、映画化までされた上に全18巻完結にまで至ったという評判の作品だけあって、実に面白い。含蓄に富んでいる。
     個人的には登山の趣味はなく、また一生、山登りをすることはないだろうと思うのだが、物語のなかで山を駆け巡ることは悪くない気分だ。三歩は力強く野山を駆けまわり、読む者に広漠たる大自然の風景を見せてくれる。
     ただ、かれも優秀なボランティアではあっても超人ではなく、救えないものは救えない。だから毎巻、幾人もの死者が出る。読後感は爽やかではあるが、軽くはない。読み進めるほどになぜひとは山に登るのだろうと考えさせられる。
     「船は港にいるとき最も安全だが、それは船が作られた目的ではない」ということわざがあるが、登山家も同じなのだろうか。辛く苦しい冒険のなかでしか感じ取れないものがあるのか。
     一生、平地で生きて死ぬつもりのぼくが想像するに、ひとが山を登る理由は、ひとつには地上では見られないものを見たいという好奇心であり、もうひとつは肉体と精神の極限のなかで自分を試したいというチャレンジスピリットなのではないだろうか。
     並大抵のことでは生きている実感を感じ取れないという気もちはぼくにも多少はわからなくもない。自分の限界を究めてみたい。そう思うひとが山に挑んでいくのだろう。
     しかし、山の現実は過酷で、ひとの感傷を受け付けない。ほんの少しの油断が死に直結する。あるいは生と死を分かつものは純粋な偶然で、どんな努力も無意味だという局面もあるかもしれない。
     運命の分かれ道を、右に往くか、左へ赴くか、ささやかな幸運と不運が、ひとの生死を決定する。それが山なのだろう。自然、偶然に助けられて生きのこった者は運命に助けられた自分の責任を思わずにはいられない。
     「サバイバーズ・ギルト」という単語がある。サバイバーは「生きのこった者」、ギルトは「罪悪感」を表し、壮絶な事故や事件を超えて生きのこった人間が抱く罪悪感を意味する。
     
  • ぼくたちはこの社会に咎人を迎え入れることができるだろうか。(2229文字)

    2013-05-31 17:54  
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     石田衣良の小説は長編と短編を問わず大半を読んでいる。先日、読みさしだった『明日のマーチ』を読み進めていたら、ある衝撃的な展開に出くわした。以下、ネタバレあり。
     この小説はある日、突然に工場労働を解雇された四人の不正規雇用者の若者たちが数百キロ彼方の東京を目指し歩き始めるという筋立てである。
     四人の「抗議のための明日のマーチ」はしだいに人々の注目を集め、どんどん人数がふくれあがって行く。ところが、ある時、意外な事実があきらかになる。
     四人のリーダー格で「マスター」と呼ばれていた男が、昔、ある殺人事件にかかわっていたのだ。途端に「明日のマーチ」に非難が集まる。過去に殺人を犯した人間を、こんなふうにヒーローのように見なしていいのか、もっと責任を追求するべきではないのか、と。
     しかし、マスターの仲間である三人は、こんなとき都合の悪い人間を見捨てたら非正規雇用の自分たちを切り捨てる企業と同じだ、といってかれとともに後進を続けることを選ぶ。
     マスコミや人々の非難のなか、マーチは進んでゆき――と話は続く。この話を読んで、ぼくはつくづくと考えた。一度、殺人という罪を犯した人間を社会はどのように受け入れるべきなのだろうか、あるいはそもそも受け入れるべきではないのだろうか、と。
     この物語はマスターの側から描かれているから、かれが心から事件を反省し、申し訳なく思っていることが伝わってくるし、必然、かれに感情移入して読むことになる。
     しかし、当然ながら殺された人物の遺族にはその遺族なりの物語があり、あるいはそちらのほうこそほんとうに重要な物語かもしれないわけだ。
     物語の終盤では、マスターに家族を殺された一家がじっさいに登場する。マスターは被害者の家族に送金を続けていたのだ。ある被害者の父親はいう。
     「娘もわたしも、きみを頭のなかで何度殺したか、わからない。あの事件のあと妻は身体を壊すし、うちの家庭はめちゃくちゃになってしまった。だけどな、毎年命日には花を贈ってくれて、毎月慰謝料を送ってくれたのは、きみだけだった。民事の裁判で負けても、みんなゆくえをくらますか、自己破産するかで、きみ以外は誰も、自分の責任を果たそうとはしなかった」。
     そして、「わずかな額ですから」と続けるマスターに向かい、続ける。「いいや、きみは刑務所をでてから、送金を一度も欠かしたことはない。額ではなく、気もちがこもっていた。ありがとう」。
     かれらも、マスターの罪を赦したわけではない。だれに殺人の罪を赦すことができるだろう。しかし、その罪を赦せずなお、ひとを認めることはできる。
     綺麗ごととも思える展開かもしれない。しかし、この遺族の想いを思うとき、ひとの尊厳と、偉大さがわかると思うのだ。一方、当然ながら、決してマスターを赦そうとしない遺族も出て来る。
     
  • あなたも「不特定多数に好かれたいという病気」にかかっていませんか?(2215文字)

    2013-05-31 13:27  
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     何か本を読んでいて、その本筋とは関係がない一節に啓発されることはよくあることです。先日、石田衣良の『余命1年のスタリオン』を読んでいたら、「不特定多数に好かれたいという病気」という表現が出てきて、ハッとさせられました。
     自分とは直接利害関係がない不特定多数の人間から好意を持たれたいという気もちは病だというのですね。一面ではその通りだと思います。自分とは永遠に関係ないひとにまで好かれたいと思うのは、健全とはいいがたい。もちろん、それが強いモチベーションになることもありえますが……。
     かつて、この手の「病気」の持ち主は作家とか芸能人を目ざすしかなかったでしょう。しかし、いまではインターネットがある。たとえばブロガーになって不特定多数の好意を集めたいと望むひとは少なくないと思います。
     とはいえ、不特定多数はかぎりなく気まぐれですから、その機嫌を気にしていると色々と問題が生じます。ブログを使うときは不特定多数を気にするより特定少数の読者と交流することを考えたほうが幸福かもしれません。
     一方で、それは良くないことだ、不特定多数の目に留まるところで書いたものは不特定多数にとって価値があるものであるべきだ、という考え方もあります。
     したがってブログに何か書くとき、不特定多数に向けて書くか特定少数に対して書くかというのは重要な問題になります。これもいままでは不特定多数に向けて書くべきだ、なぜなら不特定多数の目に留まるところに書いているのだから、という意見が支配的だったように思えます。
     不特定多数の意見を得たくないのだったらチラシの裏にでも書いていろ、という言葉がよく使われていました。しかし、それはほんとうでしょうか? 不特定多数の目に留まるところに書いたものは不特定多数の意見を気にしなければならないのでしょうか?
     ここらへんはいまでも議論があるところで、特定の正解があるわけではないでしょう。しかし、少なくとも不特定多数に奉仕するために書いているわけではない、ということは自覚しているべきではないでしょうか。
     そうでないと、不特定多数の乱高下する意見にモチベーションが左右されることになってしまう。結局のところ、不特定多数に好かれたいという病気はひとを幸せにはしないのです。
     ひとにとってほんとうに重要なのは家族や友人や恋人といった特定小数の人間です。不特定多数は、どんなに熱烈に支持しているように見えても、すぐに手のひらを返しますからね。
     
  • 好きなことを好きなだけ好きなように。(2193文字)

    2013-05-31 12:00  
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     ども。病み上がりの海燕です。3日も休んで何をしていたかというと、病床でブロマガのネタ出しなどやりながら本を読んでいました。石塚真一の『岳』全18巻を読み返したりして。なかなか面白いですね、この漫画。
     おかげさまで体調はようやく回復し、現代医学の素晴らしさを実感しています。これが19世紀だったらそのまま死んでいたかもしれません。21世紀って凄い!
     まあ、昨日、一昨日は特に具合が悪かったのでひたすら寝ていました。そのあいだに大崎善生の『聖の青春』を読み返したりもしたんですが、これも凄い本です。そのうち記事にすると思いますが、未読の方はぜひ読んでください。感涙必至の名著です。
     しかしまあ、やっぱり3日も休むとモチベーションが上がりますね。やっぱりどうも毎日書きつづけるということは無理があるらしい。毎日書いているとどうしても惰性になりがちなんですね。
     もちろん、そういうモチベーションの乱高下に左右されず一定の水準の記事を書くのがほんとうのプロなんだろうけれど、どうもぼくはそういうタイプじゃないようです。そのときのモチベーションに記事の出来が著しく左右されるんですね。
     一応、プロブロガーを名乗ったりしていますが、どうやらぼくはそういう意味では「プロ」ではない。アマチュアもいいところで、好きなことを好きなだけ好きなように書いているときだけそれなりに面白いものを書けるというタイプであるようです。
     そもそも体調を崩したからといって休んだりしているのはプロにあるまじきことという考え方もあるでしょう。
     高熱を発しても舞台では明るく振る舞った北島マヤではありませんが、自分の側の事情は読者には関係ないのだから、どんなに辛くてもハイレベルなお仕事をしますよ、というのが本物なのでしょうね。
     栗本薫さんとか、末期がんの病床で、壮絶な苦痛のなかで、それでも小説を書き続けたわけで、もうプロとかアマとかそういう次元を超えた強烈な「業」を感じます。書くことに憑かれた人生。書くために選ばれた生涯。
     でもね、ぼくにはやっぱりそこまでは無理ですね。やっぱり身体を壊すと集中力もなくなるし、まともな記事は書けなくなる。そもそもぼく面白い本を読んだり良い映画を見たりしてテンションが高い時でないと良い記事は書けないんですよね。
     だからたいして面白くもない作品を面白そうに語るというのはぼくには無理で、そういう意味でもプロではないないんだろうなあ、と思いますね。プロの批評家という人種はそういう意味でもほんとうに偉いと思います。
     
  • エンドレス。

    2013-05-29 20:16  
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    きょうは体調が最悪なので申し訳ありませんが休ませていただきます。具合悪すぎワロタwwwという感じ。5月は一貫してからだの調子がおかしかったのですが、なかでもきょうは吐き気がエンドレスです。あした病院へ行ってきます。では。
  • アダルトでキュートな百合漫画『コレクターズ』に安定した恋人関係の理想を見たよ。(1666文字)

    2013-05-27 11:04  
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     ひとはそれぞれが異なる形の器で、だからときに衝突し、対立しあう。愛しあっているはずの恋人同士でもそれは変わらない。しかし喧嘩するほど仲がいいとは良くいったもので、たぶん、互いに正面からぶつかりあえることは悪いことではないのだろう。
     西UKO『コレクターズ』は始終喧嘩してばかりの恋人たちの日常を繊細に綴った一冊。キュートでスタイリッシュなカバーを見ればわかるように、いわゆる百合漫画に属する作品で、大人の女性カップルの何気ないやり取りをスウィートに描いている。
     主人公の片方は病膏肓に入る本好きで、他方は大の洋服好き。たがいにまるで価値観が違うふたりは、しょっちゅう喧嘩はするが、魂の奥底では似たもの同士で、深く求めあっている。
     彼女たちの喧嘩はいわゆる犬も喰わない痴話喧嘩で、周囲は呆れ顔で見守るばかりなのだ。相手の趣味に文句を付けることもコミュニケーションの一環、ふたりはたがいに相手なしではいられない「一対」なのである。
     ぼくはそれなりに百合漫画を読んでいるが、特別、百合が好きなのではないと思っている。ぼくにとって、百合というジャンルそのものは大した意味を持たない。
     百合だから好きだということはないし、その反対もない。面白い百合作品なら読むし、そうでなければ読まないというだけだ。百合そのものが好きでならないというひととは違うと思う。
     しかし、時としてつよく惹きつけられる百合作品もあって、そういう物語と出逢えたときは、幸運に深く感謝する。本書『コレクターズ』もそんな一冊といっていいだろう。
     上質の作品がいくつも載っていることで知られる恋愛漫画雑誌『楽園』で連載しているだけあって、この漫画は、とても趣味がいい。主人公たちの関係にしても、あまりに甘すぎず、そうかといって苦すぎず、めずらしいくらいバランスがとれている。
     主人公たちを囲む女性たちにしても、必ずしもレズビアンではなく、マニッシュなタイプもいるかと思えば男をとっかえひっかえしているタイプもいて、多様性に富んでいる。作家の健全なバランス感覚を感じる配置だ。
     男性にも女性にも色々なひとがいて、色々な関係がありえる。同性同士の関係も特別なものではなく、無数にありえるパターンのうちのひとつに過ぎない。そういう描きが心地良い。
     
  • それは少女と愛馬の物語。村山由佳の最新長編『天翔る』に深く充実した読後感をおぼえる。(2086文字)

    2013-05-26 18:14  
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     舞台は北海道。少女と馬の物語。と、こう書いたならもう、ははあ、とうなずかれる方もいらっしゃるかもしれない。村山由佳は過去にも広漠たる大自然を背景にした小説をいくつか書いているからだ。またあの手の作品か、と早合点する向きはあるだろう。
     しかし、小説はすべて、ひとつひとつが独立した生命体である。同じ作家から生まれた作品は、たしかに兄弟のようによく似ているものもあるが、しかしなお「兄弟のように別人」なのだ。ぼくたちは初めて出逢うひとを見る想いで新作を読まなければならない。
     じっさい、これはいままでの村山の作品とは似て非なる物語だ。『天翔る』。印象的な表題を付けられたこの物語は、少女とある馬の出逢いから始まる。
     そして少女は幾匹、幾人もの馬や人間との出逢いを通じてしだいに成長してゆく。成長。この言葉は何を意味しているのだろう。少しずつ人格が陶冶されていくことだろうか。
     そうかもしれない。ただ、ぼくは思うのだ。成長とは、単にパーソナリティがまろやかになるということではなく、ひとが「高み」へと駆け上がることを意味しているのではないか、と。
     そう、ぼくは時に思わずにはいられない。人間とは何と醜怪な生き物だろうと。ひとは妬み、怨み、憎しみ、ひとの足をひっぱり、ひとを蹴落とそうとし、意地悪をしては自分は悪くないと考える。
     そうかと思えば自分だけが正しいと思い込み、ひとを足蹴にし、ののしり、踏みにじり、殺しさ謁する。人間はどこまでも愚かしくも罪深い。何も他人のことではない。皆、ぼく自身が抱える醜さだ。
     だが一方ではそれだけがひとの本質ではない。ひとはそういった自分自身の弱さ、愚かさ、醜さを超越し、「高み」を目ざす存在でもある。
     「高み」。「天翔る」というタイトルからもわかるように、この小説の主人公もまた、その場所を目ざすひとりである。彼女は馬に乗ることによって、その天性を高めてゆく。
     実に100キロ以上の距離を走破するエンデュランスと呼ばれる競技が彼女の前に表れる。そして始まる刻苦の日々。少しでも自分の資質を開花させるためには、きびしい修行がなければならない。少女の貴重な天稟は、試練に晒されることなしに花ひらきはしないのだ。
     それと並行していくつもの哀しい出来事が彼女を襲う。世界はなんと非情で残酷な場所なのだろう。彼女はひとりだ。だれもその孤独を分かちあうことはできない。
     しかし、その哀しみが深ければ深いほど、待ち受ける歓びもまた大きい。過酷な競技を通し、少女は真の充実を覚えていく。
     
  • 読み終えた作品を採点することをやめることにしました。(2064文字)

    2013-05-26 16:49  
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     いつの頃からだろう。小説を読んだり、映画を見たりした時、その長所と短所とを洗い出し、美点や瑕疵を見つけ出しては、全体を「評価」するようになったのは。
     初めはたしかにそうではなかった。思い出すこともむずかしい幼少の頃は、ただひたすらに物語を楽しみ、その展開に胸躍らせるばかりだったはずだ。
     しかし、物心つくにしたがって、少しずつただ楽しむだけではなくなっていった。つまり、作品を見て採点することを知ったのである。これは傑作であるとか凡作であるといういい方を覚え、なるべく効率よく物語を楽しみたいと考えるようになった。
     それがさらに勢いを増したのは、ネットに感想を書き込むようになってからだろう。読むひとにわかりやすいよう、作品の評価を★の数で表わすようになり、常にその作品がどのくらいの出来かと考えこむようになった。
     途方もない傲慢とはわかっていた。本来、そのような形で表し切ることができるものではないことも。だが、それでもなお、読者の利便を考えれば、必要なことだと捉えていたのである。
     いま、ぼくはそうやって小説なり漫画なり映画を評価することをやめようと思っている。あるいは読むひとにとってはわかりづらくなるかもしれないが、何かがぼくのなかで変わったのだ。
     なぜともかく、この作品のここが良いと、あるいはここが難点だと、そう語ることそのものが好ましく思えなくなって来たのである。
     もちろん、自分自身はそういう評価を必要としている。ある映画を観に行こうかどうか迷ったとき、これは観る価値があるとはっきり示してある基準はとても頼りになる。
     いうまでもなく信頼できるひとが下した評価でなければ意味がないが、とにかくそういう基準が存在しているかどうかで大きな差があると感じる。とはいえ、ぼく自身はどうも、そういうことを考えることに疲労を感じるようになって来たようだ。
     ひとには求めておいて自分では与えないとは、随分と都合がいい話にも思える。だがここは「ひとそれぞれ」という言葉を使わせてもらおう。ともかくぼくはもう、作品を採点することをやめにしたいのだ。
     
  • 今月の反省と来月からの展望。(1363文字)

    2013-05-26 15:08  
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     げほげほ。止まらない咳と格闘する男、海燕です。いやあ、治らないですね。どうも咳とは意外に体力を消耗するものらしく、最近、始終、ふらふらしています。
     一応、三回ほど病院へ行って薬をもらって来たのですが、いまだ完治に至りません。まあ、一時に比べればだいぶ楽にはなったのですが、それでもまだ苦しい。
     今月の実に半分以上をこの咳とともに過ごしたことになります。辛かった。必ずしもこの咳のせいばかりではないでしょうが、今月はブロマガもイマイチ、イマニくらいでしたね。
     ほんとうはプロとしては常に一定上の質と量を提供しつづけなければいけないのでしょうが、どうもぼくは波があるようで、その時々で調子が良かったり悪かったりします。
     先月は非常に好調だったのですが、今月はどうも不調だった。量的にも先月の半分強くらいしか更新していませんし、クオリティももうひとつ、という感じです。
     それでは、何が好調と不調を決めるのか。よくよく考えてみたのですが、結局、モチベーションじゃないかな、と思いあたりました。高いモチベーションでもって書いているときは調子が良い。低いモチベーションのときは悪い。そういうものなんじゃないかと。
     で、それなら何がモチベーションの高低を決めるかというと、邪念が入るかどうかなんじゃないか。「もっと会員数を増やそう」とか、「もっとウケる記事を書こう」とか、そういう余計なことを考えているとモチベーションはてきめんに落ちる。そんな気がします。
     調子が良いときが続くと「しめしめ、この調子で行けばいいぞ」と思い、モチベーションが落ち、調子も悪くなる。こういう順番ですね。
     よく考えてみると非常にわかりやすい話ですが、じっさいに書いている最中にはこのことがわからない。邪念がで目が曇っているからです。
     つまりは肝心なのは「書きたいものを、書きたいように、書きたいだけ書く」、これです。そうでないと高いモチベーションを保てないらしい。
     あるいはプロフェッショナルとしてはそういう個人的な動機で書いてはいけないのかもしれません。でもなあ、ぼくはそういう意味ではまったくプロではないんですよね。
     自分の精神の波が高まった時点で書かないと面白いものが書けない。そういう性格らしい。これはもうどうしようもない。だって、書きたいことだけ書いている時とそうでない時で歴然と記事の出来が違うんだもの。
     ぼくはよく「もっとがんばらなければ」とかいうんだけれど、そもそも「がんばる」という時点で何かが違っている。自分で楽しんで書くことが肝心なのであって、無理に努力していると感じている時はその時点でダメなんですね。
     「あれ、こんなに書いてもいいんですか? もっと書いてもいいですか?」という気分の時だけまともな文章が書けるのであって、必死に努力しているとかいう時はその時点でお話にならないということ。
     まあ、そういうわけで、これからはやりたいことだけやってわがままに生きていきたいと思います。この文章を読んで呆れて離れていく方もいらっしゃるかもしれませんが、それはそれでもう仕方ありません。
     ぼくなりにぼくにできる限りのことをやっていきたいとは思っているので、どうかお付き合いいただければ、と思います。よろしくお願いします(ぺこり)。さあ、やるぞ! 
  • 忍法魔界転生! 鬼才山田風太郎、伝説の最高傑作をせがわまさきが漫画化する。(1992文字)

    2013-05-25 17:04  
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     暗黒と酸鼻の地獄編はつづく。『十 忍法魔界転生』と題された長編伝奇漫画、第二巻である。
     原作『魔界転生』は〈柳生十兵衛三部作〉の第二作にあたり、天才山田風太郎の数ある名作のなかでもさらに抜きん出た珠玉の金字塔、空前絶後の歴史的大傑作だ。
     この世に怨みを遺して死んでいった剣客たちが、女体を突き破りふたたび生まれ変わるという大奇想「忍法魔界転生」を軸に、剣侠、柳生十兵衛と魔界転生衆の壮絶無比な死闘を描いている。
     山田風太郎作品の特色であるエロスとバイオレンスは、この作品において、いっそう凄絶を極める。
     天草四郎や宮本武蔵を初めとする天下の大剣客たちが、飽くなき生命への執着からこの世に蘇ってきて、だれが天下無双かと戦いつづける。その天外の着想を、凄絶かつ艶かしい展開が彩っている。
     それにsちえもせがわまさきの描く女性たちは皆、一様に美しくも艶っぽい。いったいせがわまさき以外の何者が、『魔界転生』を漫画の形で生み出すことができるだろう。
     もちろん、いままでも山田風太郎作品はたびたびメディアミックスされてきた。それというのも、山田の小説が高度に視覚的で、いかにも画像や映像にふさわしいように思われるからだ。
     しかし、駄目なのだ。山田が綴る物語は、あくまで山田の超絶の文章があって初めて成立するものであって、絵にしてみた途端、その秘密の魔法は解けてしまう。
     一見するとこの上なく漫画にふさわしいように思えながら、風太郎世界を漫画に移し替えることは決してたやすくないのである。
     だが、見よ、この『十 魔界転生』は『魔界転生』の、あの妖異変幻な世界を紙上に生み出しえているではないか。それぞれに肉感的な男たちの、女たちの姿に魅了される。
     ただ剣士として最強であるのみならず、その人品においても最高であるはずの男たちが、次々と「魔界に転生したい」と望み、生前の人徳をすべて捨て去るさまは、実に悽愴、限りない。天下の大剣士たちにしてこの未練、これが人間の本質なのだろうか。
     それにしても、わかってはいたものの、この作品の構成にはやはり一驚させられる。何しろ、物語が第2巻までたどり着いてまだ主人公が姿を見せないのだ!
     タイトルにある「十」、柳生十兵衛は話がここまで進んでなお、影も形も表さない。この破格異形の構成こそ『魔界転生』の要である。この構成なくして、『魔界転生』は成り立たないのだ。