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記事 4件
  • 「地獄」から「天国」へたどり着くためのルートとは。

    2016-09-20 17:05  
    51pt

     恋愛工学の話は終わったと書きましたが、どうにも書きたいことが湧いて出てくるので番外編をひとつ。いや、まだ続くかもしれないので「番外編1」としておきましょうか。
     この話、いつまでも延々と続くような気もする。いいかげんいやになっている人もいるでしょうが、ぼくは書きたいことを書きたいように書くのだ!
     すいません、『麒麟館グラフィティー』の話も必ず書きます。赦してください。平身低頭。
     さて、ネットでおそらく最も手きびしく恋愛工学を批判した記事に以下があり、このように書かれています。

     僕は恋愛工学の信奉者を、特別にミソジニーだとか下卑た人間だとは思わない。頭悪いんだなとは思う。ナンパブログにも言えることだが、恋愛工学徒が書いたりしてるものを見て思うところがあるのは、「とにかくやりまくりたい!」とかじゃなくて「ただ普通に女の子と仲良くなりたいだけなんだ…」という人が少なくないことだ。その
  • 妥協なき不毛な議論を乗り越えるために。

    2016-02-15 02:05  
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     ちょっと興味があるので、原発とエネルギー問題について書かれた本を探し出しているのだけれど、Amazonのレビュー欄がみごとに政治的闘争の現場と化していて役に立たない。
     正直、実物を読まなくては何が正しく何が間違えているのか判断できないので、自分で書店なり図書館へ行って本を探すことにしたいと思う。
     電子書籍で入手できればそれがいちばん楽なのだが、そういうわけにもいかないようだ。
     余談だが、最近は物理書籍が邪魔に感じて仕方ないので、電子書籍以外の本をほとんど買わなくなっている。
     出版社の人には物理書籍と同時に電子書籍を出版するよう努力したもらいたいものだ。余談終わり。
     さて、個人的な意見を述べるなら、原発を巡る「議論」は、絶対正義と絶対正義の対決という印象で、不毛そのものといった様相を呈しているように思う。
     タバコを巡る論争と同じ現象が、さらにいびつな形で起こっている感じ。
     ぼくはこういう議論を「ハルマゲドン型」と呼んでいる。
     聖書にある最終戦争のごとく、絶対に譲らない善悪の戦いであるかのような論争という意味だ。
     ハルマゲドン型の議論は、永遠に進展することなく、ただ互いが互いに向けて自分の主張を延々と投げつけ続けるだけに終わる。そこに妥協の余地は一切ないのだ。
     したがって、ハルマゲドン型論争はいつも限りなく無意味である。
     議論とは普通、より正しい結論を導き出すために行うものだろう。
     しかし、ハルマゲドンと化した議論はいつまでも平行線をたどるばかりでいかなる結論も出ないのだから、労力の無駄遣いというしかない。
     もちろん、その議論を行う両者は、やり取りの不毛さはすべて相手側の愚かしさと無理解に起因すると考えるわけだが、お互いに心からそう思っているのだから世話はない。
     ハルマゲドン化した時点で、その議論には未来がないのだ。
     もっとも、ハルマゲドン型論争にも主観的な勝利なり決着はある。
     この種の論争が終わるときがあるとすれば、それはどちらか一方が相手に対し勝手に勝利宣言した時である。
     その時点をもって議論は決裂という形で終結を見る。
     そのような形の終結を見ない限り、この「議論」は、多くの場合、果てしない嫌味と皮肉と決めつけと揚げ足取りの応酬という形で続いてゆく。
     まるでよりうまく嫌味をいえたほうが勝利者だと決まっているかのように。
     大人とは、ひとより誠実に言葉を選べる人をいうのであって、他人を皮肉るのがうまい人のことではないのだが……。
     とにかくまあ、「自分は絶対に正しくて、相手がバカ」だと考える類の「自分は賢いので絶対にバカなミスはしないと思い込んでいる人たち」の繰り広げる「議論」とは、おおむねこのようなものである。
     場合によってはじっさいにどちらかが正しく、どちらかが間違えているのかもしれないが、それにしてもその議論に価値があるとは思われない。
     絶対対絶対の不毛を乗り越えるためには、問題の結論が絶対正義ならぬ灰色の領域に属していて、100パーセント自分が正しいとはだれにもいえないという認識が必要である。
     「議論」とは、それに参加する両者がこの「グレイゾーン思考」を備えていて初めて、有効になりえる可能性を持つ。
     もちろん、正か否か、完全に割り切ることができる問題もあるだろう。1+1は、いついかなるときも普遍的に2であって、3にはならない。
     しかし、 
  • 議論をすればするほど意見はダメになる。

    2015-08-16 04:44  
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     どもです。またか、と思われることと思いますが、ブログの名前を変えました。
     「いまどきエンタメ解剖講座」というタイトルで、いまどきのエンタメを解剖していきたいと思います。
     結局、「ハッピーエンド評論家」としてはなんら活動をしないで終わってしまったことになるわけで、これは失敗だったな、と思いますね。失敗だらけなのですけれど。
     もうひとつ、新しいパソコンはどうやら20日あたりに届くようです。
     3年保証込みで70000円程度の安いノートパソコンですが、それでもいま使っている機体と比べると格段に性能が良いはずなんですよね。
     ちなみにぶっ壊れたパソコンは4年前の3月11日、そう、東日本大震災の当日に購入したマシンだったりします。
     だからどうだというわけではありませんが、時が経ったなあ、と思わせられます。
     震災の傷はもとより消え去るはずもないにせよ、ひとつの機械が寿命を終えるだけの時間が流れたのだ、と。感傷ではありますが……。
     さて、きょうは「議論」の話をしたいと思います。「正義」の話といってもいい。
     インターネットを眺めていると、広く一般に、何か主張をする人が議論を避けることは悪いことだ、というコンセンサスがあるように思います。
     自分に正義があることをわかっているなら堂々と議論をすることができるはずだ、ということでしょう。
     なるほど、それは一理あると思います。理屈の上では。
     しかし、現実に目を向けてみると、議論をすることによって事態が改善したという例はほとんど見つけることができない気がするのです。
     議論をすればするほど何が正しいのかあきらかとなり、すべての真実がつまびらかとなって、現状の問題はことごとく解決する、というのはどうやら幻想に過ぎないのであって、ほとんどの議論はただ対立を深める役にしか立たないというのが事実ではないでしょうか。
     なぜそうなのか。
     それは、およそ議論と呼ばれるものはほとんど、自分の「正しさ」ばかりを主張して相手の「正しさ」を否定することに終始するからではないでしょうか。
     少なくともインターネットのレベルでは、議論と呼ばれているものは、いかに相手の主張に耳を傾けず、ひたすら自分の主張をくり返しつづけるか、その勝負という次元に留まっているように思います。
     結果として、議論をした論者は互いに自分の主張の正しさをさらに確信し、より強固な信念を抱くに至る。そしてその主張はより先鋭化することになるのです。
     これがぼくが「議論をすればするほど意見はダメになる」という理由です。
     そもそもその種の議論とは、ひたすらに「自分は正しい、正しいんだ」と主張しあうだけの言語的決闘であって、いささかならず品を欠くことは否めない。
     その種の決闘は、どうしたって一種の権力闘争の趣きを帯びます。
     したがって、初めは純然たるロジックで公正に「正しさ」を見極めるはずだった議論は、そのうち単なる口汚いののしりあいへと堕ちていくことになるのです。
     じっさい、ネットですばらしく白熱しながらなおかつ公正なまま進んでいく議論を見たことがあるという人は少ないでしょう。
     それくらい、議論はうまくいかないものなのです。
     もちろん、 
  • 「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。

    2015-05-15 00:41  
    51pt
     需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。
     さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。
     そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。
     ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。
     たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。
     正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。
     少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。
     しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。
     「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。
     ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。
     やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。
     完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。
     仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。
     やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。
     もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。
     「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。
     しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。
     それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。
     ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。
     だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。
     また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。
     これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。
     何がいいたいのか。
     ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。
     「無条件の正しさ」は存在しないということ。
     いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。
     たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。
     「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。
     しかし、だ。