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記事 88件
  • ぼくがひっ越して来た頃、はてなにまだ村はなく、草原が広がっているばかりだった。(2194文字)

    2013-04-30 19:00  
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     きょうの6本目の記事です。できれば毎日このくらい更新して、3冊くらい本を読みたいのですが、タイムスケジュール的になかなかむずかしいですね。
     1本の記事を更新するために1時間かかるとして、6本で6時間。1冊本を読むのに2時間かかるとして、3冊でやはり6時間。合わせて12時間。まあ、不可能ではないけれど、これを毎日続けるとなると、さすがに疲れてしまう。休日とか計算に入れてないもんな。
     ちなみにきょうはまだ1冊しか読んでいません。この先、2冊読めば一応は理想的な1日になるはずですが、まあ、そうそう理屈通りに行かないですよね、当然。
     ただ、アウトプットばかりでインプットしないと必然的に記事のクオリティも落ちていくので、「読書も仕事のうち」というところがあります。仮初めにもプロブロガーを名のるためには、そのくらいのことはしたいところです。
     とはいえ、ひたすらに文字情報にばかり触れていると、さすがにウンザリしてくるのも事実。気分転換も兼ねて身体を動かす必要があるでしょう。ウォーキングは何とか続けているんだけれど、スポーツジムとか入ってみようかな。
     さて、ここまで十数行も雑談を続けてしまったので、今回は最後までこの調子で行くことにしましょう。記事の平均的なクオリティという意味では、ほんとうはこういう内容のない記事は書かないようにしたいところなのですが、でも、半分趣味で続けているブログですからね。やっぱり好きなことを書いていかないと続かない。
     好きなことを好きなように書いてお金が入ってくるというのが理想ですが、なかなかそうは行かないだろうな。まあ、書きたくないことをイヤイヤ書いたことなんて一度もないので、そういう意味ではほんとに好きなことしか書いていないかもしれないけれど。
     ぼくは2001年の1月1日に合わせていちばん最初のウェブサイトをオープンしました。これはホームページ制作ソフトで作ったサイトで、いま考えると、できそこないというか、試作品というか、実にこういいかげんなシロモノでした。
     その後、はてなダイアリーを始め、「いちいち改行タグを打ち込まなくてもサイトが更新できるなんて、なんと便利なシステムなんだ!」と感動し、そこで記事を更新するようになります。
     よく皮肉半分に「はてな村」といわれるけれど、ぼくの感覚では村民になったつもりはまったくありません。ぼくがひっ越して来た頃にはここに村なんかなかったんだよ、ただひたすら草原が広がっているばかりだったんだよ、という気もちです。そういう意味ではぼくは最初期の開拓村民のひとりということになるでしょう。
     で、そこで「Something Orange」というブログ(という言葉もその頃はなかったんだけれど)を始めて、そこで約10年間、アクセスが1000万ヒットに到達するまで活動しつづけました。
     いまのこのブロマガのアクセスを考えると1000万というのは大した数字じゃないんだけれど(いまのペースで行けば1年間で到達してしまう!)、まあその頃は何しろ無名のシロウトである上、「導線」もろくになかったわけですから、色々苦労もしました。
     1000万ヒットのうち3分の1くらいは何かしらの炎上で集めたアクセスじゃないかという気もします(そんなことはないんだろうけれど)。で、その実績が認められたのかどうなのか、ニコニコブロマガへ移ってきたわけです。
     先日、何気なく「Something Orange」を閉鎖しました。特に重大な理由があるわけではなく、「そろそろいいかな」と思っただけですが、わずかに感慨はありました。いやー、ほんと、長かったよね。
     ちなみに、閉鎖したとはいえ、ネット上にはログが残っているので、黒歴史を消し去ったつもりはありません。いったんネットに発表した文章はどうあがこうと痕跡が残るものなのです。
     
  • 「本気で遊ぶ」ということ。『FF11』でいちばん早くラスボスを倒したチームの話。(2558文字)

    2013-04-30 16:57  
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     このあいだラジオをしていて、ぼくが自分の活動のことを「「ごっこ遊び」のつもりでやっている」と表現してみたところ、友人のペトロニウスさんに怒られた(笑)。
     かれによると、「ごっこ」というような逃げ道を用意しておくのは良くない、また、そういう言葉を使っていると、言葉には言霊が宿っているからほんとうに成功できなくなってしまう、ということだった。
     一理ある、というか、非常によくわかる話である。ぼくとしてはべつだん逃げ道を用意しているつもりではなく、ただほんとうに夢中になって「ごっこ遊び」をしているだけなのだが、たしかにやるなら真剣にやるべきだろう。
     とはいえ、ぼくのつもりでは真剣にやっていないつもりは微塵もないのだ。ただ、どれほど真剣にやっていても、やっぱりこれは「真剣にやるごっこ」なのだ、という視点が抜けない。
     これはもう、病気のようなもので、普段からどこかでメタレベルから自分を見下ろす視点が存在しているわけである。それは一定以上読書したり、映画を見たりしているひとならごく普通に持っている感覚だと思うが、ぼくはわりとそれが強いタイプだ。
     いつもマクロの視点からミクロの自分を見下ろして笑っているようなところがある。どうしても「無名の一シロウトのくせにブロマガランキングで首位を取ろうとか、バカだなあ」と思ってしまうのだ。
     とはいえ、それで手を抜くかというと、まったくそんなことはなく、自分なりに真剣にやるのである。それはもう、ヒーローごっこに熱中する子供さながらに。そして、どんなに熱心にヒーローを演じている子供たちも、本心では自分がヒーローではないことをわかっているように、ぼくもまた、野心的にトップを目指したりする柄ではないことを心の底では理解している。ぼくがいう「ごっこ遊び」とはだいたいそんな意味だ。
     ちょうど為末大さんが『「遊ぶ」が勝ち  『ホモ・ルーデンス』で、君も跳べ!』という本を出すようだ。ホモ・ルーデンスとは歴史学者のヨハン・ホイジンガが提唱した概念で、「遊ぶヒト」の意味。為末さんもまた、「遊び」という行為に何かしらの可能性を見出しているのだろう。
     ひょっとしたら、かれにとっては、陸上選手として世界の頂点を目指した日々も、ひとつの「遊び」として認識されていたのかもしれない。ひとつのジャンルで世界一を目ざすという、途方もなくむずかしく、だからこそ面白い「遊び」。
     遊びといえば、ひとつおもしろい話がある。『日本的ソーシャルメディアの未来』という本に書かれている人気MMOPRG『ファイナルファンタジーⅪ』の話だ。少々長くなるが、引用してみよう。

    濱野 オンラインゲームは周りに死ぬほどはまっている人が多すぎて、逆に僕ははまれなかったんです。昨日もロフトプラスワンのイベントに大学時代の同級生だったtokada君という人が出てくれたんですけれども、彼は「ファイナルファンタジーXI」(FFXI)というゲームを6000時間プレーして、ラスボスとして設定されていた敵を日本で一番早く倒したチームに在籍していたんです。
     これはけっこう面白いポイントなんですが、当時のtokada君たちの攻略方法がすごいんですね。オンラインゲームって18人とかでチームを組んで敵を倒します。FFXIの場合はアライアンスというんですけどもね。だから、この18人とかで長期的に連携・協力しながらプレイしないと、ラスボスなんて倒せないんです。
     でも、ここでゲームの場合は問題が生じます。アライアンスは会社とか企業のような組織ではないから、うまいことチームメンバーのモチベーションを保てないんですね。論功行賞というか、人事評価しすてむみたいなものがアライアンスには備わっていないから、そんなに長期的にみんなで協力するといってもうまくいかない。
     例えば、ラスボスを倒すためには強力なレアアイテムが必要で、そのアイテムは5000体モンスターを倒して1個しか出てこない。その1個のアイテムを、18人では共有できないんですね。1個の目標のために、18人が協力するのは大変難しい。誰かひとりしか装備できないからです。では、どうすればいいか。
     そこでtokada君たちは、モンスターを5000体倒す間にゲットできるレアアイテムも含めて、各メンバーの貢献度を全部計算する仕組みを作って、それぞれが働いた貢献度に応じてほかのアイテムを売ってお金にして分配するという、簡単に言うと業績評価システムを作ったんです。FFXIには組み込まれていない評価システムを、自分でプログラムを組んでWeb上に作り、それを介して何十人規模のチームのモチベーション管理をやる。それで「誰よりも早くラスボスを倒した」という話を聞いたときは、こりゃすごいと思いました。ただの遊びにそこまでやるのか、と。

     
  • ホリエモンのメルマガ会員数は15000人。で、実際、いくらくらい儲かるの?(2221文字)

    2013-04-30 15:34  
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     イケダハヤトさんの記事(http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/23279)で見つけた、堀江貴文さんの発言。

    堀江:Market Hackね。ああいうメディアがどんどん育ってきて、収益を得られるように、彼らは広告だけど、僕はたとえばメルマガで1万5000人くらいいますが、津田さんのメルマガもさっき聞いたら8000〜9000くらい。藤沢数希さんのメルマガも5000人超えてるってことで、かなりそれなりの市場規模にはなってきているですよ。でもまだメルマガ市場って20億円くらいだと思うんですよ、マーケット。これがせめて100億円にはしたいよね。
    http://matome.naver.jp/odai/2136713291397662901

     ほうほう。堀江さんで15000人くらい、津田さんで8000~9000人、藤沢さんで5000人か。堀江さんが日本一だろうから、思ったより少ないですね。皮算用を承知でいうと、5000人くらいならぼくでも何年か真剣にやればたどり着けるんじゃないかという気がする。まあ、そもそも価格設定が違うし、その頃にはかれらはさらに先に進んでいるだろうけれどね。
     そもそも記事内容の良否こそが問題なのであって、どれだけ会員がいるかということはどうでもいいはずだ、という考え方もあるかもしれません。しかし、そんなことをいったって、こちらは商売としてやっているわけで、やはり会員数の増減は気になるポイントです。
     それに、お金を払って読んでくれる会員が一定数いるということは、その文章に対する社会的評価を表している一面があると思うんですよ。もちろん、それ「だけ」が評価ではないけれど、それをいうならブログやTwitterでの評価だって一面的なものに過ぎないわけです。
     ひとりの人間、ひとつのブログ、一本の記事に対しては常に複数の評価軸がありえて、ひとつの評価だけが正しいということはない。その意味では、会員数でメルマガの価値を測ることも、必ずしも間違えているとはいえないはずなんですね。
     これは視聴率でテレビ番組の価値を測ったり、販売冊数で本の価値を測ったりするのと同じことです。それのみではっきりした良し悪しを測れるわけじゃないけれど、一面を表してはいると。
     単なるアクセス数だけならひたすら過激なタイトルでひとを惹き寄せて炎上させ続けていれば増えるけれど、会員数はだれかに「お金を払ってでも読みたい」と評価してもらわなければ増えない。だからアクセス数よりは意味がある数字だと思います。
     それでは、こうして日本有数の会員を集めるに至った現代メルマガビジネスの寵児たちは、じっさいいくらくらい稼ぎ出しているのか?
     
  • すべてが対等なインターネットで、それでも対等な議論がむずかしい理由。(2130文字)

    2013-04-30 12:58  
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      自分が伝えたいことをどう記し、どう伝えるか、これはブログに限らず、文章をものす際の最大の課題点である。自分の頭のなかにぼんやりと浮かんでいるイメージを、いかにして言葉という形に練り上がるべきか、いつも悩むし、ほとんどの場合、成功しない。
     それはもちろんぼくの言語表現力が未熟なせいだが、言葉というものそのものに根本的な限界があるのだということも時に感じる。伝えたいものは非言語的な概念だったりするわけだから、それを言語のレベルに落とすとどうしてもニュアンスが変わってしまうわけだ。
     もちろん、こんなことは言い訳だ。言葉の限界をよく承知した上で可能なかぎりそれをうまく使っている達人たちはいくらでもいる。ぼくもまたそういう人々からたくさんのものを学んできた。つくづく先人たちは偉大だったと思う。ぼくもまた少しでもかれらを真似て言葉の限界が挑んで行きたいと考えている。
     ただ、そういう達人たちの文章ですら、完全にひとつの意味で受け取られることはない。やはり言葉はどうしようもなく不完全で、伝えたいものを伝え切ることは困難なのだ。そこで、リアルで対面するとき、ひとは言語以外の方法で意図を伝えようとする。
     たとえば表情によって、あるいは声色によって、さもなければボディ・ランゲージを使ってでも、自分が何を考えているのか知らせようとするのがリアルでのコミュニケーションである。
     逆にいえば、ぼくたちはリアルスペースでやり取りするとき、言葉以外のところから膨大な情報を得ている。そういった非言語的な情報を無意識に解釈することによって、複数の解釈可能性をもつ言葉の意味をひとつの解釈に絞り込んでいるわけだ。
     ネットで情報を発信し、また受信することのむずかしさは、この非言語的な情報がバッサリ切り取られているところにあるというのはよくいわれるところだ。
     もちろん、大切なのはロジックであってエモーションではない、表情や声色やボディランゲージに頼っている時点で情報の発信者ないし受信者として未熟なのだ、という考え方もあるだろう。一理ある。
     ただ、ネットの場合、発信しているのも受信しているのも言葉を扱うプロではない。どこにでもいるごく普通の人々が、ふだんリアルでコミュニケーションするのと同じ感覚でやり取りしているわけである。そこにふだん利用している膨大な情報が欠けているという自覚はない。
     だから、ネットではしばしば大きなトラブルが起こる。とんでもない喧嘩になったりする。そして、いざリアルで顔を合わせてみると、そのトラブルはあっさり解決してしまったりするのである。
     それでは、ぼくたちは何に注意して発信し、受信すればいいのだろう。たぶん最も良いのは、一回の発信、受信で満足することなく、やり取りを重ねて行くことだろう。たとえばある記事をブログに発表した後、その反響を受け止めて新しい記事を書くといったことは大切だ。
     ある情報を発信してそこで終わりとするのではなく、その後もコミュニケーションを重ねて情報を洗練させていくこと。また、受信した側も自分の解釈を常に懐疑しつづけ、新しい解釈の可能性をさぐりつづけること。そういうことができれば、インターネットの議論はいっきに建設的なものになっていくに違いない。
     
  • その勇気はどこから来るのか。絶対基準がない社会で無難を飛び越えてゆく天才たちの肖像。(2188文字)

    2013-04-30 10:44  
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     先日、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVDとBDが発売になりました。Amazonなどを見るかぎり、ほぼ絶賛一辺倒だった「破」から一転、賛否両論に分かれている模様。それももう「賛」と「否」が戦争でも起こしそうなほど強烈に対決しあっている。
     いやいやいやいや、このサツバツ! これこそ『ヱヴァンゲリヲン』ですね。まあ、内容が内容ですから、殺伐とすることも当然といえるでしょう。
     ひたすらに憂鬱だったテレビシリーズ及び旧劇場版から一転、かつてないヒロイックなエンターテインメントを演出し、時代の空気を見事に捉えたかと思えた前作をさらにひっくり返す怒涛の展開。一本すべてを主人公を落とすために使うという、娯楽映画としてふつうに考えればありえない構成。
     いずれも「まさにこれぞエヴァンゲリオン!」ながら、ついていけないファンが続出することもあまりにも当然というしかありません。いいかげん慣れている古参のファンですら「ようやる」と唸らざるをえないくらいですからね。
     「序」「破」とおおむね高評価の作品を積み上げてきて、第三作の「Q」でこの冒険、ほんとうに庵野監督及び制作スタッフの頭のなかはどうなっているのだろうと思ってしまいます。
     興行収入的には「序」も「破」も大きく超え、50億円オーバーという記録的な数字をたたき出しているのだから「勝負に勝った」といえないこともないけれど、これは多くのひとが期待した『ヱヴァンゲリヲン』ではないはず。
     もっとシンプルでわかりやすい映画を作りつづけていれば自然、平均的な評価も高くなったはずなのに、その可能性を平然と捨て、挑戦的に、冒険的にチャレンジしつづける。こういう姿勢には何かそら恐ろしいものを感じずにはいられません。
     結果として「Q」に対してはありとあらゆる批判と罵倒が集中することになったと思いますが、しかしなんぴとたりともこの作品を「無難な凡作」ということはできないでしょう。というか、これほど「無難」から遠い作品もないものと思われます。
     連載再開にあたって『ファイブスター物語』の全設定を一新した永野護もそうだけれど、常に自分の持っているすべてをベットしてさらなる展開を求めつづけるこのひとたちの勇気はいったいどこから来るのでしょう? わたし、気になります!
     いやまあ、ほんとうはわかっていることではある。「無難」という道は、最も安全に見えて、実は最もダメな道なのだということ。挑戦することを忘れたとき、ひとは死ぬのです。「いま持っているもの」を守りに入ったとき、そのひとはクリエイターとしてはもう終わっているのです。
     たとえどれほどの資産と名声を持っているとしても、それをすべて投げ捨てて「新しい領域」へ入っていけるもののみが超一流(プリマ・クラッセ)の名にふさわしい。庵野さんや永野さんはそういう種類のクリエイターなんでしょう。
     ひとはかれらを「天才」と呼ぶけれど、決して神に与えられた生まれながらの才能だけで勝負しているわけではない。むしろ、たゆまず自分を更新しつづけるそのきびしさこそがほんとうの才能なのだと思う。素晴らしい!
     
  • デジタルガジェットを使いこなせ! 有名ブロガーに学ぶセルフマネジメントの作法。(1677文字)

    2013-04-30 09:58  
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     昨日、読者が1000人増えるごとに利益還元企画をやるよ!とぶちあげたわけですが、合宿とかもいいなーとふと思いました。やっぱり温泉かなあ。いいよな、温泉。そのうち合同講演会もやる予定だし、今年は無理でも来年以降、色々なイベントを実行できるかもしれません。
     まあ、いまの時点ではただの思いつきですが、口に出していると思いつきも実現したりするものなんですよ。いつか温泉合宿オフをやることになったら、ぜひご参加くださいね。
     さて、いままで「忙しい」という言葉とはあまり縁がなかったぼくの人生ですが、この頃になってようやく「忙しいとはこういうことだったのか!」と理解できるくらいには忙しくなって来ました。
     まあ、ほんとうに忙しいひとから見れば「この程度でどこが?」というレベルだとは思いますが、毎日一定以上読書しようとか、更新しようとするとやはり必然的に時間が足りなくなって来るわけで、タイムマネジメントの必要性を痛切に感じています。
     まずは家族とテレビ見ている時間を削るべきだよなー。なんら人生の生産性に寄与していないもんなー。まあ、あれはあれで家族とのコミュニケーションの時間だともいえるわけだけれど。あと、こういう冴えない文章を書いている時間も無駄といえば無駄かもしれませんが……。ブログのクオリティを上げることも課題。
     で、そこで参考になるのが立花岳志『ノマドワーカーという生き方』。いままで何度となく読み返してきた本です。著者はブログ「No Second Life」を運営し、プロブロガーを自認する人物で、ほかにも『iPhoneダイエット』などの著書があります。
     有名ブロガーが本を出すのは特にめずらしくもなくなったご時勢ですが、かれの本は「どのようにしてブログを有名にしたか?」「どうやって運営しているのか?」そのすべてを赤裸々に公開してあるという点でバリューが高い。
     自己啓発系の話にはついていけないものを感じないこともないのだけれど、それでも全体的に内容は示唆に富んでいる。これからブロガーをやっていこうというひとには必読の一冊といっても過言ではないでしょう。
     興味深いのはやはりPhoneを初めとする最新のデジタル・ガジェットを使って生活を管理しているところ。それは睡眠、食事から、体重、仕事(ブログの更新)、イベントの運営、コミュニケーション、家族とのやり取りなど、人生のあらゆる側面に及びます。
     これらのデジタルガジェットなしでは著者の生活そのものが成り立たないといっても過言ではないでしょう。その徹底したライフデザインは非常に参考になりますね。
     
  • 読者数が1000人増えるたびに利益還元企画をやります!(853文字)

    2013-04-29 17:47  
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     いや、いまふと思いついただけだけれど。でも、じっさいにやってみたら面白いんじゃね? いま「ゆるオタ残念教養講座」の読者数は1000人未満なのですが、これが1000人、2000人、3000人などを超えたら、そのつど何か読者に利益を還元する企画をやろうという話です。
     具体的には、何か読者プレゼントをするとか、あるいはぼくのお金でみんなでメシを食うとかどうよ? さすがに1000人とかの読者全員を招いていたら還元しすぎなので、たとえば10名くらいの希望者を抽選で選んで無償でご飯をおごるとか、いいと思いませんか?
     もちろんぼくには何の利益もありませんが、まあ、読者の皆さんからいただいたお金を読者の皆さんにお返しするという意味はあるのではないかと。いやー、早く1000人に行きたいですね! 来月中はちょっと無理かなあ。遅くとも再来月には到達するのではないかな。するといいな。
     「ゆるオタ残念教養講座」では今後ともいろいろ企画を実施していきたいと思います。できれば人数が増えれば増えるほどたくさんお金を無駄遣いするというのが面白いと思っていて、5000人くらいになった時は何十万円とか使ってみんなで遊ぶとか、美味しいものを食べに行くとかしたいなあ、とか思います。
     
  • もっと本を読みたい! 生活時間に読書を組み込む実験。(2148文字)

    2013-04-28 03:51  
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     ども。絶え間なく憂鬱な日常をサバイバルする意識低い系男子の海燕です。いいかげんアウトプットがインプットの量を超えつづけ、書くことがなくなってしまったので、何冊か本を読んでみました。どれも面白い本ばかり。
     それにしても今月のインプット量の少なかったこと! ろくに本も読んでいないし、映画も数本見た程度。仮初めにもエンターテインメント情報を発信していこうというブロガーがこれではいけません。
     すぐにインプット不足になることは目に見えていますし、じっさいそうなりました。うーん、今月は持ち時間のほとんどをアウトプットに費やしてしまったのがまずかったようです。
     そのアウトプットにしても「思いついたら思いついたことを書く」という無計画なシロモノなので、更新頻度にばらつきがありますし、結局、そんなにたいした量を更新できていません(1日3本程度)。
     どうやら今後の課題が見えてきたようですね。「きっちり時間をマネジメントして、インプットとアウトプットの量を増やすこと」。ほんとうは毎日1,2冊本を読んで、5本くらい記事を更新したい。そうでなければ映画やアニメを見るとか。
     年間500冊本を読んで、1500本記事を書ければ、まあ満足かな。現状を鑑みればあまりにも遠い数字だけれど、このくらいならどうにかなるはず。で、そのためには、やはり生活改善がどうにも必須。
     いやまあ、いまのいいかげんで適当な人生に未練がないこともないんだけれど、あまりにもだらしない日常生活ばかり送っていると、やはり作業に差し障りがあるからね。何とかしたいところ。
     ぼくはもともと読書が大好きな人間だったはずなんだけれど、この頃、読書量は減る一方です。まあ、iPhoneのKindleアプリで月何冊か電子書籍を読んだりはしていますが、ぼくのなかではそれは「読んだ」うちに入らない。
     べつだん、忙しさにかまけてどうしようもなくというわけでもなく、単純に読書意欲が減退しているだけのようです。こういうブログを運営しているからには、せめて1日1冊は読みたいですよねー。現状だと夢のまた夢という感じですが……。
     そういうわけで、いまのぼくにとって毎日読書する時間と場所を確保することは緊急課題のひとつです。かつてはなんちゃって読書家を自称できるくらいには色々読んでいたぼくですが、最近は日常が堕落する一方、読書量も減る一方。これではいけない! 何としても生活を改善して読書時間を捻出しなければ。
     まあ、幸運にも1日何回かブログを更新することを除けば、これといった作業義務に縛られない生活をしているので、その気になればいくらでも時間は生み出せるはずなのですが、どうにもぼくにはそのためのスキルとパッションが欠けている。
     スキルはまだしも、情熱が足りないことは致命的。ここらで一念発起して、もっと本を読みたいところです。もともと本というか文字を読むことは大好きで、そこそこの活字中毒であるぼくがなぜ本を読まなくなったかというと、そこにはお約束の理由があります。
     
  • ノルガン・ジークボゥとは何者か? 『ファイブスター物語』考察。(1988文字)

    2013-04-27 08:44  
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     以下、例によって永野護『ファイブスター物語』を知らないひとには一切無用の考察。連載再開にあたって、突然、一切の設定が変更され、しかし物語そのものは何ら変わることなく進んでいくことになった『ファイブスター物語』。さて、来月の展開はどうなるのでしょう?
     この作品には、ひとつ他にない大きな特徴があって、それは「年表その他の設定により未来の情報がわかっている」ということです。ついに開幕した魔導大戦(マジェスティック・スタンド)にしても、アトールの巫女、じゃない、「時の詩女」マグダルの活躍によって星団暦3075年に集結することがわかっています。
     さらにその先の3100年にはボード・ヴュラードことミッション・ルース大統領が亡くなることもわかっていますし、3159年に大侵攻(モナーク・セイクレッド)が始まることも、その数百年後に天照がコーラス王朝を倒し星団を統一することも、すべては規定事項です。
     これはロボットやドラゴンに関する設定がことごとく変更されたとしても変わらない、『ファイブスター物語』の究極の根幹ともいうべき設定なのです。まあ、こんなことはこの文章を読んでいるひとにとっては常識の範疇に入ることでしょう。
     さて、その『ファイブスター物語』の「未」登場人物のなかにノルガン・ジークボゥという名の青年がいます。いまだに本編には登場していないのですが、連載中団から現在に至るまで少しずつ明かされてきた設定によってその存在があきらかとなった人物で、ファンの間では未来のフィルモア帝国皇帝レーダー9世(ナイン)なのではないかといわれているんですね。
     レーダー9はフィルモア帝国最後の皇帝で、天照とLEDミラージュ、じゃない、ツァラトゥストラ・アプターブリンガーによる侵攻に抵抗したとされる人物です。結局、天照とツァラトゥストラには勝てず、さらにこの戦いに際してカラミティ星は崩壊し、フィルモア帝国は滅亡してしまうことになります。
     連載がそこまで描かれるのかどうか限りなく怪しい、描かれるとしても何がどうなっているのやらさっぱりわからないような遠い未来、数百年後のエピソードなのですが、それでもそんな先の展開の伏線をきっかり敷いてくるあたりがF.S.S.の恐ろしさ。
     この作家は本気で数千年の物語を描き尽くそうとしているのです! 絶対に描き切れないことがわかり切っているのに……。
     
  • ひとは生きるため自由を捨て幸福という名の重石を背負う。(2351文字)

    2013-04-27 01:20  
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     羽海野チカ『3月のライオン』、小春日和の展開が続いていますね。主人公である零くんが抱えていた人間的問題はほぼすべて解決できてしまった感じだけれど、この先、いったいどこへ進むんだろう。そもそもこの物語はどこで終わるんだろうか。
     『ハチミツとクローバー』は全10巻で綺麗に幕を閉じたけれど、この話は10巻じゃ終わりそうにない。しかし、そうかといって、あまり長く続くとも考えがたい。ほんとうにいったい、物語はどこへ向かっていて、どこで決着が着くのだろうか。
     少年漫画的に宗谷名人を倒して終わりってことでもなさそうだしなあ。宗谷名人の耳の問題がふたたびクローズアップされる時は来るのだろうか。うーむ。と、思い悩んだりする日々を送っている最近のぼくです。
     いやー、おもしろい漫画が読めるということは素晴らしい。それだけで次回を読めるまで生きていこうという気になるもの。むしろ、いまのぼくにとって生きていくべき理由なんてそれくらいしかないといってもいい。もちろん、それで十分でもあるけれど。
     さて、そういうわけで、今回は「幸福」と「自由」の話。ひとは自由であることを求めるものだ、とはよくいわれることです。ぼく自身、いつもより自由になりたいと望んでいると思います。しかし、それはほんとうでしょうか? ひとは自由を恐れ、自由から逃避しようとするものでもあるのではないでしょうか。
     その証拠に、ひとは自ら自由を捨て、束縛を望むことがあります。良い例が結婚です。どう考えても結婚することによって人間がより自由になるとは思われない。子供が生まれればなおさら不自由になるでしょう。しかし、多くのひとがその不自由を「幸福」だと感じ、またそう語る。なぜでしょう? 幸福とは、より自由であることではないのでしょうか? 
     たぶんそうじゃないんですね。映画『草原の椅子』のクライマックスで、齢50歳にして新しい家族を抱え込むに至った主人公が、「これでもう勝手に死ねなくなった」と語る場面があります。印象的なひと言です。
     主人公はこの決断によってたしかに幸福を手に入れたはずなのですが、それでも、やはり「いつでも死ねる」という自由を失ってしまっている。ひょっとしたら幸福とは、自由を代償にしてしか手に入らないものなのでしょうか?
     あるいはほんとうにそうなのかもしれません。一般的にいってたくさんのものを持っている「リア充」ほど、色々なもので縛られていて不自由なのではないかと思います。たとえば恋人がいるひとは恋人に、家族がいるひとは家族に、仕事があるひとは仕事に、束縛される。
     何も持っていないぼくはそういう意味ではかなり自由です。しかし、どうもあまり幸福ではないような気がします。結局のところ、「自由」と「幸福」とは、対極にある概念なのかもしれません。幸福とはたくさんのものに縛りつけられている状況のことを指す言葉なのかも。
     ひとは自由になればなるほど、幸福感から遠ざかっていくものであるようにも思われます。ぼくは数年前、大好きだった祖母が亡くなったとき、いっきに自由になりました。なぜなら、もう「祖母が亡くなったらどうしよう」と心配する必要がなくなったからです。
     この先、両親が亡くなったらぼくはもっと自由になるでしょう。そうなったら、ぼくが死んだところで気にするひとはほとんどいなくなるわけだから、いつ死んでもかまわなくなるわけです。