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  • 冴えない青春が輝く瞬間を描く『灰と幻想のグリムガル』が面白い。

    2016-05-09 12:43  
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     5月に入って、そろそろ新作アニメの視聴も絞らないといけない時期に入っていますね。
     ぼくは『Re:ゼロから始める異世界生活』、『マクロスΔ』、『くまみこ』、『少年メイド』、『SUPER LOVERS』、『甲鉄城のカバネリ』あたりを中心に追いかけています。
     過去作で消化していないものもたくさんあるので、それも並行して見ないといけないと思うと、なかなか忙しい。
     ぼくの場合、アニメを見ることは「趣味」であるのと同時に「お仕事」でもあるので、あまりサボるわけにはいかないのです。
     まあ、そうはいっても長い間サボっていたわけですが。それでもね。
     さて、そういうわけでいまは『灰と幻想のグリムガル』の続きを見ています。
     まだ見終わっていなかったのかよ、といわれるかもしれませんが、そうなんですよ。もっと早く見ないとな、とは思うのですが……。
     『灰と幻想のグリムガル』、まだ見終わっていない段階でいうのもなんですが、今年を代表する傑作だと思います。
     ちょっとライトノベル原作とは思えないくらい(偏見か?)渋い雰囲気の作品ですが、ちゃんとそこそこ売れているようでひと安心。
     こういう作品がまったく評価されないようだと辛いですから。
     それでは、どこがそんなに面白いのか? 色々ありますが、やはりゴブリン一匹倒すのにも苦労する未熟な新米冒険者パーティにフォーカスして、その非日常的な日常を描き出した点が大きいでしょう。
     普通のアニメだったら(たとえば『ソードアート・オンライン』だったら)、あっというまに駆け抜けていくであろう冴えないポイントを執拗に描きだす面白さ。
     必然的に地味な展開にはなるんだけれど、そのぶん、弱者の冴えない青春にもある素晴らしい瞬間を描きだすことに成功している。
     世界が輝いて見えるような、そんな時。
     ぼくはこの作品はあきらかに最近の青春映画の文脈で語るべきものだと思っています。
     ここ最近の青春映画、『ちはやふる』、『バクマン。』、『くちびるに歌を』、『心が叫びたがってるんだ。』、『響け!ユーフォニアム』などは、いずれもスケールがごく小さかったり、最後に挫折が待っていたりするという共通点があります。
     『青春100キロ』もこの系譜に入れてもいいかもしれないけれど、あれはちょっと違う気がする。もっと古典的。
     それは置いておくとして、ここに挙げた作品はどの映画もどちらかというと「冴えない青春」であって、「全国大会優勝!」といった話にはならないのです。
     まあ、『ちはやふる』をちはやの物語と捉えると、いずれは全国大会優勝したりするかもしれないけれど、映画版はあきらかに太一が主人公だと思います。
     「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。
     しかし、 
  • いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。

    2015-11-29 05:57  
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     ども。11月も終わりですねー。
     今年も残すは12月のみとなるわけで、毎年のことながら早いなあと思います。
     ほんと、歳取ると一年が過ぎ去るのが速く感じますね。
     今年のベストとして挙げたい作品はいくつかあるのですが、気づくとどれも青春物語ばかりです。
     ぼくはもともと青春ものは大好きなのだけれど、今年はその方面に特に収穫が多かった気がします。
     具体的には『妹さえいればいい。』であったり、『心が叫びたがってるんだ。』や『バクマン。』だったりするのですが、それぞれ共通点があるように思えます。
     どうでもいいけれど、みんなタイトルのラストに「。」が付きますね。なんなんだろ、モーニング娘。リスペクトなのか?
     まあいいや、その共通点とは「集団である目標を目ざして努力していること」です。
     となると、『冴えない彼女の育てかた』あたりもここに含まれますね。
     『エロマンガ先生』や『妹さえいればいい。』の場合、各人は個別で頑張っているわけですが、「良い小説を書きたい」という志は共通しています。
     まあ、もちろん、集団で目標に向かうことは青春もののきわめてオーソドックスなパターンです。いま新しく生まれ出た物語類型というわけではありません。
     しかし、いまの時代の作品がいくらか新しいのは、集団に必ずしも「一致団結」を求めない点です。
     バラバラな個性の持ち主がバラバラなまま同じ夢を目ざす。そういう物語が散見されるように思います。
     それは、やはりある種の「仲良し空間」であるわけですが、目標がある以上、もはや単なる仲良し同士の集まりではありえません。
     そこにはどうしようもなく選別が伴うし、淘汰が発生する。実力による差別が介在してしまうのです。
     それを受け入れたうえで、それでもなお、高い目標を目ざすべきか? それとももっとゆるい友人関係で満足するべきなのか?
     その問いは、たとえば『響け! ユーフォニアム』あたりに端的に見られます。
     そして、何かしら目標を目ざすことを選んだなら、そこに「祭」が生まれます。
     ぼくたちの大好きな非日常時空間、「祭」。
     その最も象徴的なのは文化祭だと思いますが、文化祭はいつかは終わってしまう。
     それでは、終わらない祭を続けるためにはどうすればいいか?と考えたときに、お仕事ものに接続されるのだと思います。
     『SHIROBAKO』ですね。あれは最も都合のいいファンタジーに過ぎないという批判はあるかと思いますが、でも、その裏には救いのない現実が存在するという視点はあるでしょう。
     その上で、ファンタジーを描いている。終わりのない「祭」の夢を。
     それは創作の作法として十分に「あり」なのではないでしょうか?
     ちなみに、 
  • 友達さがしの向こう側で見つけた世界。

    2015-11-21 22:13  
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     けれども、いま2015年後半以降になって、連続で見たものを全部思い出してみても、特にライトノベルの最前線は、男女同数のように男性キャラクターがバランスよく出てくるようになってきている感じがするんですよね。大御所である『妹さえいればいい。』とこの伏見さんの『エロマンガ先生』も、なんというか、そういう感じになっている気がする。
     なんか、みんな同じ設定、同じ何かを見ている気がするんですよね。その「なにか」が、まだ言葉にできていないんですが、なんか似ているんですよね。黒猫一択のような、ヒロインにはまってしまうというのとは違う感じの魅力で、、、、伏見さんの『エロマンガ先生』も『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』も、どっちもやっぱり大事なのは、友だちを得ていくこと、それが大きな基盤のテーマですよね。ほとんどテンプレで、ほとんど同じなんだけど、、、、何かが決定的に違うんですよね。『エロマンガ先生』と『妹さえいればいい。』は、その何かがはっきり見えている感じがします。それが何なんだろう?って凄い思うんですよね。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151121/p1 いま、それ考えています(笑)。


     平坂読『妹さえいればいい。』と伏見つかさ『エロマンガ先生』の共通項を考えていくと、まずは当然、両者ともライトノベル作家を主人公にした作品であるということが挙がると思います。
     もちろんそれはどちらが真似したとか追随したという次元の話ではない。
     むしろ同じコンセプトを追求した結果、必然的に同じシチュエーションに至ったということなのではないかと思いますけれど、とにかく似たような設定を用いている。
     問題はそれが何を意味しているかということで、そこのところがよくわからない。
     わからないけれど、でも、「何か」があるとは感じるんですよね。
     なんだろう。それはたぶんこの二作品だけじゃなくて、最近、ぼくが感動した青春系の映画『バクマン。』とか『心が叫びたがってるんだ。』とも共通しているものなのだと思います。時代の最先端の精神。
     まず、これらの作品にあきらかに共通しているのは、何かしらの仕事ないし作業に集団でのめり込み、熱中し、夢中になって没頭するということです。
     『バクマン。』の結末を見れば自明ですが、ここでほんとうの目標になっているのは社会的成功ではない。他人の評価でもない。
     むしろ、熱中することそのものが価値となっていると思うのです。
     何かに夢中になって努力する。そのことそのものが目的なのであって、それが社会的にどう見られているかは問題ではないということ。
     『妹さえいればいい。』の最新刊で、主人公である伊月はもっと成功したいという夢を赤裸々に語りますが、それはべつだんベストセラーを出したいということではないということも並行して描かれています。
     かれが目指しているのは究極的には形がないスピリットであって、具体的な成功ではないのです。
     『バクマン。』は『少年ジャンプ』的な「努力・友情・勝利」を描きますが、「勝利」の描き方が以前とは異なっています。
     べつにナンバー1になることだけが勝利なのではない。敗北の苦い味を噛みしめることもまたそこではバリューなのです。
     で、大切なのはここでは男女入り混じった集団でひとつの目標を目ざしているということ。
     それは『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』ではライトノベルやイラストであり、『バクマン。』では少年漫画であり、『心が叫びたがってるんだ。』ではミュージカルでしたが、とにかく主人公たちに共通の目標というか志が設定してあるところが同じです。
     そしてかれらはその目標に向かって一心不乱に頑張りつづける。
     それは一種の「仲良し空間」には違いないでしょう。
     たとえば『ペルソナ4』や『仮面ライダーフォーゼ』で描かれたような。
     しかし、ただの「仲良し空間」ではなく、互いに切磋琢磨する関係であることもたしか。
     その結果、男女や友達の描きがどうなるか? 
  • ゼロ年代からテン年代に至るアニメの演出が進歩していく流れを考える。

    2015-11-15 18:15  
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     きょうのラジオで、最近、アニメの演出がきわだって進歩しているよね、という話をしました。
     ぼくの場合は『心が叫びたがってるんだ。』で思い知らされたわけなのですが、いやー、この頃のアニメってほんとうにレベル高いですよね。
     まあ、ぼくはそこらへん専門ではないので詳しく語れないのですが、ゼロ年代を通してアニメの演出が別次元のものへ変わっていったという印象はあると思います。
     特に日常系がはやったことから日常の演出がすばらしく進歩したと感じています。
     そういう意味でのエポックメイキングな作品を一作選ぶとすると、やっぱり『涼宮ハルヒの憂鬱』だと思います。
     ほんとうはその前に『AIR』があり、『フルメタル・パニック?ふもっふ』があり、特に『AIR』は個人的に衝撃の一作だったわけなのだけれど、それにしても一般的には『ハルヒ』のインパクトは大きかった。
     さすがに最近のことなのでみんな憶えていると思うのですが、けっこうみんな『ハルヒ』でびっくりしたわけなのですね。
     テレビアニメでここまでの作画が可能なのか、と。
     そのあとの京アニの快進撃は皆さんご存知の通り。
     『けいおん!』を初めとする数々の傑作を生みだし、最新作『響け! ユーフォニアム』に至っています。
     『ユーフォ』にまで至るともう歴然としているのですが、アニメの演出はほんとうに進歩しました。
     これも何かで話したのだけれど、昔だったらひょっとしたら宮崎駿くらいしかやらなかったことをいまはみんながやるようになって来ているという印象です。
     それがどこで見られるかというと、たとえば『けいおん!』の劇場版だとか、『たまこマーケット』の劇場版に結実しているわけなんですけれど、あたりまえのテレビアニメでも高度な演出を普通に見るようになりました。
     これっていまでこそ当然のようになっているけれど、ほんとはすごいことだと思うんですよ。
     ぼく、90年代に青春期を過ごしているのですけれど、その頃の有象無象のアニメは、いま見るとかなりきついものだと思います。
     もちろん、その時代にも名作はあり、『少女革命ウテナ』とかそれはそれは凄かったのですが、ここでいうのはそれには及ばない、歴史の露と消えていった作品群のことです。
     いやー、あの頃はぼくもいろいろ見ていました。
     『ハイスピードジェシー』とか、そういういまとなっては無名でしかない作品をたくさん見ていたのですが、それらの作品はきょう的な意味でのバリューは少ないと思うのです。
     そして時が過ぎ、ゼロ年代が訪れて、ぼくは京都アニメーションと出逢うことになります。
     『AIR』です。 
  • 『心が叫びたがってるんだ。』は感涙の神映画でした。

    2015-11-02 15:52  
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     幼い成瀬順のあこがれは丘の上のお城。
     いつか自分もお城の舞踏会に参加できる日が来ることを願っている。
     ある日、順はそのお城から父が出て来るところを見てしまう。
     なんと、父は王子様だったのだ! 彼女はさっそくそのことを母に告げる。
     順は自分が見つけた世界の秘密を共有しただけのつもりだった。
     しかし、お城は実はラブホテルであるに過ぎず、父はそこで浮気しただけのことで、その言葉によって彼女の家庭は家庭は崩壊してしまう。
     「全部お前のせいだ」。父から告げられた冷たい言葉によって深く深く傷ついた順は、なぞの「しゃべる玉子」と出逢い、言葉を封印される。
     しかし、その心の底で想いは募っていくのだった――。
     好評を博したテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のスタッフが再結集して制作した劇場アニメーション『心が叫びたがってるんだ。』は、そんなシチュエーションから始まる。
     この時点で「トラウマと癒やし」の物語であることは想像できることだろう。
     陳腐といえば陳腐な設定であり、しかも物語はその枠組みから特に外へ出ることはない。
     それにもかかわらず、『心が叫びたがってるんだ。』はアニメーションの歴史が記憶するべき傑作に仕上がっている。
     素晴らしいものを見せてもらった。もう、上映中ぼろ泣き。
     この感動をだれかに伝えたくて仕方ないので、記事を書くことにしたい。
     『あの花』のスタッフが作った劇場映画ということで注目された作品であるわけだが、個人的には『あの花』の10倍くらい感動した。
     洗練されたシナリオといい、抑えたなかにも情感を秘めた演出といい、もう文句なしの出来。
     劇場で映画を見るという体験がどんな至福を意味するものか、ひさしぶりに思い出させてくれる作品だった。
     物語の主人公は、先ほどの成瀬順を初め、坂上拓実、仁藤菜月、田崎大樹の四人。
     偶然に高校の「地域ふれあい交流会」の実行委員に選ばれたかれらは、いやいやながら活動を開始する。
     そして、クラスは「ふれ交」でミュージカルを上演することに決まり――と、物語は進んでいく。
     初めはひとり残らずやる気がなかったクラスに、しだいに情熱が伝染していくプロセスが熱い。
     おそらくぼくが高校生だったとしても、「めんどうくさい」、「恥ずかしい」と感じ、やる気を出すことはできなかったことだろう。
     だが、いまにしてわかる。こういうものは真剣になってやっておく価値のあるものなのだ。
     もちろん、成し遂げたところでなんの意味があるのかといえば、何もないかもしれない。
     とはいえ、そんなふうに考え、白けてしまっては何も始まらない。
     くだらないように思えることでもとにかく参加してみる、そこからしか物語はスタートしないのである。
     ここには非常に現代的なテーマがある。
     つまり、これもまた、この行き止まりの時代をどう生きるかというテーマのひとつのバリエーションなのである。
     くだらないと思えることでもまずは必死になってやってみること。
     頭からばかにして否定するのではなく、とにかく参加して本気で楽しもうとしてみること。
     思い出はそうやってできるものだ。
     この映画のメインイベントは、いってしまえば、たかが高校の交流祭の公演である。
     べつにそれをやり遂げたところでスターになれるわけでも、お金が入るわけでもない。
     しかし、まさにそうであるからこそ、本気でやってみる価値があるのだ。
     ぼくはここでわが最愛のPCゲーム『らくえん』を思い出した。
     あの物語における目標は、売れないエロゲの制作だった。
     それは高校でのミュージカル公演とはまったく違っているように見えるかもしれないが、本質的には同じことを目ざしているのだと思う。
     まったく無意味なことに全身全霊をささげることによってしか見えてこない境地があるということ。
     意味を問い、価値を考えるなら、そもそもぼくたちの存在になんの意味があるだろう?
     広漠たる百億光年の大宇宙の片隅で、一瞬の火のようにともっては消えていくだけのぼくたちではないか。
     そのぼくたちの生に値打ちがあるとすれば、それはその短い人生を強く強く燃やし尽くすからに違いない。

     重要なのは、すかしてみないことなんだ!と僕はそこで悟ったんですよ。
     斜にかまえて、こんなことやる意味がないとか、そういう先回りを考えてはだめで、とにかく、何でもやってみる、コミットしてみる、、、、やることがなければ、テキトーなことを思いついたら全力で、それが意味不明で価値がなくても、、、というかなければないほどいいかもしれません。やってみる。ここで重要な気づきは、もし目的に囚われた人生の奴隷になっている人は、むしろ無駄だと思えること、意味不明なこと、やると損なこと程いいんだってことです。意味不明なことに、死ぬ気で斜め上を行くような気持ちで全力でコミットしてみることが、自己の解放をもたらし現状にブレイクスルーをもたらすことなんだって!ていうプラクティカルな気づきです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151018/p1

     平凡な人生に火をともせ。
     自分自身の心の声に耳を傾けろ。
     何もかも無意味だと呟く連中を無視して、人生を楽しく、面白く、塗り替えろ!
     しかし、夢中になって始めてみたところで、すべてがうまくいくわけではない。
     もともとやる気がなかったクラスメイトたちを結集することは容易ではない。
     かれらは何かあると疑問を抱き、やる気を失い、バラバラになろうとしてしまう。
     そんなかれらに想いを伝えるのが、即ち、言葉の力である。
     この映画ではひとを導き、正す言葉の力がストレートに描かれている。
     順は言葉を喪い、語ることができなくなってしまったが、それでもなんとかして自分の想いを伝えようとする。
     坂上も、田崎も、いつももどかしく正しい表現を探しながら言葉を扱っていく。
     物語の重要なパートで、かれらの言葉はしばしば危機的な状況を救い、悪い方向へ進みそうになった状況を変える。
     ここには、作り手の言葉への絶大なる信頼があると思う。
     言葉こそがひとを救い、また変えるものなのだという確固たる信頼。
     しかしまた、順がかつて平和な家庭を崩壊させてしまったように、言葉にはひとを傷つけ、悪しき感情を呼び覚ます負の側面もある。
     ここで描かれているものは、言葉の持つ両義性なのだ。
     ひとたび言葉を開放してしまったなら、それは時に呪いと化し、ひとを責め、傷つけ、縛りつける。
     だが、それでもなお、言葉なしで生きていくことはできない。
     なぜなら、いつだって心が叫びたがっているのだから。