• このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ “輪るピングドラム” を含む記事 5件

希望は、非日常。きっと何者にもなれないぼくたちのための『アイアムアヒーロー』。

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」 『輪るピングドラム』  話題のゾンビ映画『アイアムアヒーロー』を見てきました。  うん、面白かった。原作は未読だし、普段はあまり見ないタイプの映画なのだけれど、十分に楽しんで見ることができました。  あたりまえの日常がしだいにゾンビ(ZQN)に浸食されて崩壊していくくだりはコミカルでありながら説得力に富み、そこだけでも素晴らしくインパクトがあります。  じっさいに世界が亡びるときってこういう感じなのかな、と思うくらい。  特に「テレ東がアニメをやっている限り大丈夫」からの、突然ZQNの特番を放送しはじめる展開のコンボは笑った。国が亡びかけているのにアニメを放送しているテレビ東京っていったい。  で、あたり一面にゾンビが蔓延するようになってからは後半戦で、主人公はゾンビ相手に八面六臂の活躍をします。  このゾンビの造形が個性的でありながらチープさがないあたりが凄い。邦画でもここまでできるんだなあ。  なんでも韓国でロケを行っているそうで、迫力満点のカーアクションシーンなどはそのあたりに原因があるのかもしれません。  クライマックスの主人公とゾンビの死闘は圧巻の出来。もうこれどうしようもないのでわ?というところから過激なサバイバルが続くのです。  この映画、主人公はクレー射撃が趣味で、ショットガンを持ち歩いているという設定なのですが、いったいいつこのショットガンが火を噴くのか、わくわくしながら見ていました。  その時こそダメ人間の主人公がヒーローに変身する瞬間であるのに違いないのですが、なかなかそのタイミングは訪れないのですね。  結局どうなるのかはネタバレなので語ってしまうわけにはいきませんが、当然、最後まで撃たないで終わるということはありません。  「アイアムアヒーロー」。意味深なタイトルの意味がはっきりとわかるその瞬間は、ゾクゾクするようなカタルシスがあったことは報告しておきます。  ただ、もともとぼく、ゾンビ映画、というかホラー映画全般がそんなに好きじゃないんですよね。  というのも、ぼくは正義が勝たないと気が済まない人なので(笑)、秩序が回復されない物語は好きになれないのです。  でも、この映画は楽しかった。最後までマクロ状況は放置されたままなのだけれど、ミクロスケールのカタルシスに的を絞ったシナリオが功を奏していると思う。  結局、この映画、オタクの願望充足映画なんですよね。  いまはそうでもないのかもしれませんが、昔ながらのオタクは日常生活のあまりの退屈さに耐えかねて「あーあ、世界亡びないかなー」とか考えたことがあるはず。  たぶん、この映画の主人公もその種の人間だろうと思うのですが、この映画のなかではかれの内心に反応したように世界はほんとうに崩壊してしまいます。  本編中のセリフにもあるように、主人公は「きっと何者にもなれない」ことに悩む現代的なキャラクターで、かれの願望は日常が崩壊し非日常が現出することによって叶うのです。  ダメ男がヒーローになれる世界が訪れるわけ。そこで現実世界では能なしだった主人公はまさにヒーローへと成長していくのですが――それでいいのか?という気もしなくもない。  有村架純が演じる女の子がいったい何者だったのか最後までわからないとか、シナリオ的にも色々問題がある作品ではあるかと思いますが、まあ、あくまで願望充足映画でありジェットコースターエンターテインメント作品なので、深く考えたら負けなのかもしれません。これはこういうものだと受け止めるべきなのでしょう。  なんといっても、 

希望は、非日常。きっと何者にもなれないぼくたちのための『アイアムアヒーロー』。

電子書籍『弱いなら弱いままで』を執筆しています。

 ども。暇を持て余すこと幾千日目の海燕です。  いやー、ニート飽きるわー。マジ飽きるわー。  1日にやるべきことといえばせいぜいブログを更新することくらいですから、とにかく時間が余る。余って余ってどうしようもなくなる。  そんなに暇を持て余しているなら、溜まっている本やアニメやゲームを一気に消化すればよさそうなものですが、そういうわけもいかない。  人間、いくら時間が余っているからって1日10時間もアニメを見たり漫画を読んだりことはできないものなのです。  そういうわけでどうにも暇で仕方がないので仕事をすることにしました。  といってもぼくに依頼をしてくれる奇特な人もいないので、かってに原稿を書いて電子書籍で出すことに決めた。  タイトルは『弱いなら弱いままで きっと主役にはなれないぼくたちのためのエンターテインメント論』になるんじゃないかと。  同人誌『BREAK/THROUGH』、『戦場感覚』に続く内容になります。  といっても、この2冊のようにむやみと読みづらい本にはならないと思います。  このブログと同じくらい読みやすく、また気楽に読め、それでいて心に響く、そういう内容を目指したいものです。  ボリューム的にはだいたい文庫本1冊ほど、10万字程度になるのではないでしょうか。  このブログで書いた内容も多く含まれることになるでしょうが、よければ読んでいただければ幸いです。  まあ、いつになったら出るのかはわかりませんが。来月か再来月あたりには出せるんじゃないかなあ。  同人誌と違ってコミケに合わせたりする必要がないぶん気が楽ですね。  いや、たぶんまったく売れないだろうし、儲からないだろうとは思うけれど、出して損はないからね。  とりあえず執筆作業は暇つぶしくらいにはなるはず。  また、そろそろいままで書いてきたことをまとめておく必要も感じているのですね。  この本にはいくつかのキーワードがありますが、それらはすべてこのブログで語ってきたことです。  扱われる作品もこのブログでおなじみのものになるでしょう。  そういう意味では案外読む意味はなかったりするかもしれませんが、買ってくれるとぼくの生活が楽になるので感謝します。  ほらほら、まとめて読むと案外面白いかもしれないし。当然、全編書き下ろしだし?   いや、ほんと、いつ出るのか、ほんとうに出るのか、さだかではないのですけれどね……。  でも、 

電子書籍『弱いなら弱いままで』を執筆しています。

幸福とは何だろう? 幸せをもたらす「ピングドラム」とは何なのだろう?

 ども。あいかわらず深夜に起きている海燕です。最近、ろくに陽の光を見ていないような気がします。いいかげん生活リズムを改善しなくては。  夜中に起きて何をやっているかというと、城平京さん原作の漫画『スパイラル 推理の絆』を読んだり、インストールしなおした『魔法使いの夜』をプレイしたりしているわけなのですが、いやー、世の中、面白いものがたくさんあって楽しいですね。  このほかにも万巻の書があり、常に進歩しつづけるコンピューターゲームがあり、また様々な映像が音楽があり――まず一生かけても消費し切れないほどの娯楽に充ちているのが現代社会だと思います。  そう、世界は面白い。読者(傍観者)として一生を過ごす限り、いかなる意味でも退屈はない。そのはずです。ところが、純粋な読者としてあろうとすると、やっぱり人生はむなしいんですよね。  ぼくはわりといままで読者で十分だと考えて来ましたが、30代も半ばになって、「やっぱり自分の人生を生きたいなあ」と考えるようになりました。  これはぼくの人生そのものを変えるほどのコペルニクス的転回だったりするのですが、つまり、読者からひとつの物語の主人公(行動者)へ、自分の役割をチェンジさせる必要があったわけです。  そうしないと、ただ読者であることも十分に楽しめないと感じたんですね。だって、この世の娯楽はあまりにも量が多すぎて、いったい何を選べばいいのかわからなくなるくらいなのですから。  しかし、いざ主人公として自分の物語を生きようとすると、そのむずかしさはまさに「リアルはクソゲー」レベルでした。  何しろ、36年間ひたすらに傍観者として生きて来たぼくは、何の武器もそろえていない。このきびしい世界を生き抜くための方法論をひとつも持っていないのです。  それでは、どうすればいいのか? 結局のところ、ひとつひとつ地道に努力して揃えていくほかないのだろうけれど、いまさらそんなことをしていて間に合うのか?という疑問がある。  だから焦るのだけれど、結局は地味なことを地味にこなしていくしかないんだろうなあ、ということもわかるんですよね。ひとつひとつ、始めたことを終わらせて、そのくり返しのなかで、少しでも成長していけるようがんばりつづけるよりほかない。  しかし、そもそもぼくはいったい何が欲しいのでしょうか? 「自分の物語を生きる」とはどういうことなのか? うーん、わかるようなわからないような。  「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを探すのだ」。いったいそのピングドラムとは何なのでしょう? ひょっとしたら既にぼくはもうそれを持っていて、しかしそれがピングドラムだとは気づかずにいるのかもしれないなあ、などと思ったりもします。  ふと見あげれば夜空にはぽっかりと欠落のような紙の月。あるいは幻想かもしれない「幸福」を望むことは正しいのか、間違えているのか、むずかしいところです。  思うに、幸福とは 

幸福とは何だろう? 幸せをもたらす「ピングドラム」とは何なのだろう?

聖母セーラームーンから『エヴァ』、『ピングドラム』へ続くさみしさの物語の系譜。(2222文字)

 YouTubeでレンタル可能になっていたので劇場版の『美少女戦士セーラームーンR』を観てみました。  監督は『少女革命ウテナ』、『輪るピングドラム』の幾原邦彦。いやー、幾原さん、『ウテナ』の前は『セーラームーン』を作っていたんですね。  ぼくは『セーラームーン』には全く詳しくなく、原作を読んでいない上にアニメ版を観るのはこれが初めて。  まあセーラー戦士の顔と名前くらいは全員一致しますが(基礎教養)、基本的には何も知らないと云っていい状況でした。  この『R』が名作と云われていることは知っていたけれど、あまり興味もなかったわけです。  で、初見の感想はというと――なるほど、これはいい話だな。『セーラームーン』ってこういう構造の話だったのか。  この劇場版の敵役は宇宙をさまよう少年フィオレ。おそらく十数年ぶりで地球に帰ってきたかれは悪魔の花キセニアンに心を支配され、かつて親友だった青年、衛(タキシード仮面)たったひとりをのこして人類を亡ぼそうとします。  そこにセーラームーンたちが立ちふさがるわけですが、フィオレの絶望的な孤独を前に、次々と斃れていき――というお話。  当然、最後はセーラームーンたちが勝利するわけですが、ただ暴力でフィオレを排除して終わるのではなく、フィオレの孤独を愛で抱擁する結末になっているあたりが幾原邦彦の作家性なのかな、と。  フィオレは物語の最初から最後まで「さみしい」と口にしつづけます。そのどうしようもない「さみしさ」を癒せるのは唯一、衛との友情(ボーイズラブにしか見えないわけですが)。  なぜなら、幼いころに家族を失った衛もまた癒やしえない「さみしさ」を抱えているからです。フィオレと衛は似たもの同士で、その頃に衛からもらった薔薇の花がかれにとっての宝物なのでした。  大人になったフィオレはセーラームーンが衛を騙しているのだと決めつけ、彼女を攻撃します。しかし、セーラームーンはかれに無私の愛を見せつづけます。  そして、物語の最後に、衛がフィオレに送った薔薇は実は幼い月野うさぎ(のちのセーラームーン)が衛に渡したものだということがわかります。  つまり、フィオレが衛からもらったと思っていた愛情は、実はうさぎに端を発していたものだったのです。  そのことを悟ったフィオレは地球を亡ぼすことをあきらめます。  つまり、これはフィオレの孤独とセーラームーンの愛の対決とセーラームーンの勝利の物語なんですね。  じっさい、この作品を見てみると、これが庵野秀明の『エヴァ』に影響を与え、また『ウテナ』や『ピングドラム』などに続いていくことはすごくよくわかります。  これはまさに『エヴァ』や『ピングドラム』などの「さみしさの物語」の原点だからです。愛に飢えたさみしい子供たちのお話。  『エヴァ』にしろ、『ピングドラム』にしろ、 

聖母セーラームーンから『エヴァ』、『ピングドラム』へ続くさみしさの物語の系譜。(2222文字)
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

著者イメージ

海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

https://twitter.com/kaien
メール配信:ありサンプル記事更新頻度:不定期※メール配信はチャンネルの月額会員限定です

月別アーカイブ


タグ