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記事 21件
  • 恋愛不感症なぼく。

    2016-06-30 22:46  
    51pt

    もしも正しいねがひに燃えて
    じぶんとひとと万象といつしよに
    至上福祉にいたらうとする
    それをある宗教情操とするならば
    そのねがひから砕けまたは疲れ
    じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
    完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
    この変態を恋愛といふ

     ども。きょうは高尚に宮沢賢治『春と修羅』から始めてみました。
     ここでそれに絡めてどうでもいい告白をすると、ぼくは生まれてからこの方、同性であれ異性であれ、だれかに恋愛感情を抱いたことがありません。
     もちろん人間的に好きな人はいるけれど、それはやっぱり「友情」の範疇だと思う。
     あるいは性的欲求を伴う友情を恋愛と呼ぶということなのかもしれませんが、その意味ですら恋愛経験はないですね。
     特定の人に性欲と友情の両方を感じたことは一度もありません。
     ちなみにぼくはいわゆる2次元キャラに対しても恋愛感情を抱いたことはないですね
  • なぜ一部の男性たちはボーイズ・ラブを嫌悪し非難するのか。

    2016-06-30 13:01  
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     溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』を読んだ。非常に面白い一冊だ。
     ぼくにボーイズラブ作品一般の知識がないために完全に理解したとはいい切れないが、それにしてもセンス・オブ・ワンダーを感じさせるような素晴らしい読書体験だった。
     この本はBL(ボーイズ・ラブ)小説ないし漫画の「進化」を語っている。
     そう、BLはいま「進化」しているのである。
     それはBLのヘテロノーマティヴ(異性愛規範的)で、ホモフォビック(同性愛嫌悪的)で、ミソジナス(女性嫌悪的)な一面の超克である。
     BLに対して、それらの作品はミソジナスでありホモフォビックであると、あるいはもっと直接に女性差別であり同性愛者差別であるのだという批判がある。
     その種の批判はどの程度的確なものだろうか。
     個人的には「一理はある」と認めないわけではない。
     ミソジナスだったりホモフォビックだったりするBL作品は過去に存在したし、いまも存在するだろう。
     『BL進化論』はBL作品における以下のような「ノンケ宣言」を引用する。

    「オレは男色やないっ、好きになったんがたまたま男の人だっただけや‼」
    「(……)あいつは冗談でも、オカマやゲイと遊ぶような男じゃないから」/(……)/「あいつ、ノンケなのよ。一度なんか迫ってきたゲイボーイ、蹴り殺しそうになっちゃってさ」
    「オレあ基本的にノーマルなんだよ」

     これらの「ノンケ宣言」は、素直に読む限りやはりホモフォビックな言説といわざるを得ないだろう。
     したがって、少なくないBL作品にホモフォビアを見て取ることは誤ってはいない。
     しかし、ここで注意するべきは、同時にそれはBLそのものの可能性がミソジニーやホモフォビアによって閉ざされていることを意味しているわけではないということである。
     ミソジナスではないBL、ホモフォビックではないBLは理論上は存在しえるし、現実に増えて来てもいる。それが『BL進化論』で語られている事実だ。
     つまり、ホモフォビックなBLやミソジナスなBLは単体として個別に批判されるべきなのであって、BL全体がホモフォビックでありミソジナスな表象であるという批判は成り立たないのである。
     それならば、なぜこうも「BLは同性愛者差別だ」という批判がくり返しくり返し語られるのだろうか。
     そこにはやはり批判者たちの「BLフォボア」ともいうべき心理が介在していると考えるしかない。
     ようするに 
  • オタクグループもまた普通の集団である。

    2016-06-27 10:13  
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     以下の記事が何か妙に心の琴線に触れるものがあるので反応してみる。

     そして、今日腐女子の友人たちに「結婚することになったんだ」と伝えた。
     反応は様々。
    「……ふ~ん、おめでと~」と反応に困っている子。
    「え? 彼氏いたの!? なんで言わないの??」とちょっと怒っている子。
    「人生の墓場乙で~すwww」とネットスラングを用いて煽る子。
     上記の反応をみて、どんな反応が適切か測りかねて、笑みを浮かべてる子。
     なんだか、やっぱりって気持ちとなんだかな~って気持ちとで複雑だった。
     
     学生の時から今までで10年以上の付き合いがあって、すごくたくさんの時間を共有してきた。
     普通に寂しかった。
    http://anond.hatelabo.jp/20160626224953

     うん、まあ、ありがちな話だし、「腐女子」という属性は特に関係がないように思える。
     しかし、この場合は腐女子でなく
  • 『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は「ダメ部活もの」の到達点か。

    2016-06-26 04:41  
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     『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を最終話まで見ました。
     いやー、面白かった。今季のアニメは豊作で、『カバネリ』とか『くまみこ』とか『マクロスΔ』とか面白そうな作品が色々あったけれど、終わってみるとこれがいちばん楽しかった。
     うーん、何なんでしょうね。特にどこが新しいとも思えないんだけれど、何か妙に面白い。
     体裁としては非常によくある「ダメ部活もの」。あるネットゲームに夢中になった面々が「ネトゲ部」という奇妙な部活を作って遊びまくるというそれだけのお話。
     まあ、『ハルヒ』とか『はがない』の直系ですね。
     この作品だけの特色というと特に思いつかないし、やたら胸を強調するカットとか、むしろ古くさいはずなんだけれど、どういうわけか楽しくてしかたない。
     めちゃくちゃ幸せなアニメでした。ぜひ二期を作ってほしい。無理かな。無理かも。こうなったら原作の続刊を読んでみるか、というくらい
  • 「読む」という不可能。

    2016-06-23 09:11  
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     「読む」ということについて考えます。最前、ぼくはTwitterにこのように書きました。

    「読む」とは、言葉の表面の些細な問題を超えて「相手の本当に主張したいこと」を読み取ることでなければならないが、同時に文章の細部にまで気を配って相手の主張を正確に読み取ることでもなければならない。この矛盾した課題をどうにか達成すること。それがひとが書いた文章を「読む」ということ。

     ようするにこういうことだと思うんですよね。
     何かひとが書いた文章を読むとき、その文章の表面的な事柄にこだわって「相手がほんとうに主張したいこと」を読み損ねることがあってはならない。
     一般に文章にはどうしたって飛躍があるわけで、細部を細かく批判していけば相手の主張を論難することはたやすいかもしれない。
     しかし、それは真に「読む」ことであるとはいえない。
     よく読めば相手の主張があきらかなのに、言葉の表面だけを問題にし
  • 非モテを「属性」のせいにはできない。

    2016-06-18 05:53  
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     皆さん、お元気でしょうか。ぼくは趣味で大学受験をするべく地道に勉強しています。
     世界史とかいまやり直すと非常に面白い。人類の歴史は戦争に次ぐ戦争で、そのたびに善悪とか文明対野蛮という二項対立的なフィクションが作られるんだなと実感しますね。
     人間はどうしたって自分を中心に考えるわけで、ちょっと文化が栄えると自分の国がオンリーワンな文明だと思い込む。
     それは大局的に見れば滑稽でしかないのですが、なかなかその幻想から覚めることはむずかしいようです。
     人ってそういうものなのだろうなあと思います。
     さて、最近色々と漫画を買いあさって読んだのですが、そのなかでも面白かったのがちぃ『花嫁は元男子』。
     ちぃというのは作者さんのお名前です。念のため。
     まあ、タイトル通り男性から女性へと性別適合手術を受けた人物の自伝ふう漫画なのですが、途中、主人公のちぃさんの恋愛遍歴を綴った部分があります。
  • 「自分の人生」という物語を避けることはできない。

    2016-06-13 23:56  
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     本を読んでいます。
     村瀬学『宮崎駿再考』と城戸義明『科学とは何か 科学はどこへ行くのか』と出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』を並行して読み進めいるところです。
     こう書けば聞こえはいいですが、ようするに読んでは投げ出し、投げ出しては読んでいるわけ。
     一冊の本に集中し切れない注意力の散漫さはぼくの欠点だとも思うのですが、しかし一方では幾冊もの本の内容が絡みあい、補いあい、あたかも一冊の本であるかのように響きあう楽しさがあることもたしかなのです。
     妙なる調べ響きわたる活字の交響楽。まあ、それはぼく一人にしか聞こえず、感じ取れない孤独の音楽であるわけですが、このようにして本をよむとき、ぼくはとても幸せだったりします。
     以前にも書いたように、本という本は必ずほかの本への「ハイパーリンク」が張り巡らされたネットワーク的情報源です。
     だからこそ一冊の本を読めばべつの本への興
  • 「何もない自分」を競争市場で売るにはどうすればいいか。

    2016-06-13 04:40  
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     ちきりんさんの『マーケット感覚を身につけよう』を読み終えました。
     どうしても読みやすい本から読んでいくことになってしまいますね。
     積読のなかには以前述べた『権力の終焉』や、コリン・ウィルソンの『至高体験』といった、難解とはいわないまでもかなり読みづらい本も混ざっているのですが、そういう本は必然的に後回しになります。
     堅くて厚い本を読むのは、どうしたって一日がかりですからね……。
     まあ、そういうわけで、『マーケット感覚を身につけよう』の話。うん、なかなか面白い本でした。
     ちきりんさんは、まず、インターネットの発達などによってさまざまな分野で「市場化(マーケット化)」が進んでいることを指摘します。
     そもそも市場とは何でしょうか? この本によれば、それは以下のような簡潔な定義で説明できます。
    ・不特定多数の買い手(需要者)と不特定多数の売り手(供給者)が、
    ・お互いのニーズを充た
  • 教養主義が崩壊した時代における教養とは。

    2016-06-13 01:28  
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     積読の夏です。
     いやー、目の前に読みたい本が溜まって溜まって、くらくらします。
     少なく数えても十数冊は積読していて、しかもそのほとんどがお堅いハードカバーと来る。
     いったいどこから崩したらいいものだと迷いますが、『フルーツバスケット』でこういうときは目の前の作業に集中することと語られていたので、とりあえず一冊ずつ消化していくことにしましょう。
     並行して消化するべき映画やアニメや漫画やゲームもたくさんあり、また基礎勉強もしたいし、色々大変です。
     この状況はひょっとしたら「忙しい」といってもいいのではないかと思いますが、まあ、ほんとうに忙しい人と比べたらやっぱり十分暇があるほうなのだろうなあ。
     そもそも締め切りがあるわけではないので、いくら時間をかけてもいいのだけれど、そういうこといっていると短い人生があっというまに終わってしまいそうな気がする。
     さて、きょうはそういうプロ
  • たまには勉強してみるのもいい。

    2016-06-11 17:14  
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     ども。ペトロニウスさんオススメの『権力の終焉』という本を読んでいます。
     うむ、むずかしい――という以前に字が細かい! こういう本こそ電子書籍で読みたいですね。
     というか、電子書籍版も出ているのか。買おうかな。
     まあ、こう見えて読書慣れしているからたいていの本は読むだけなら読めるんだけれど(理解できるとはいっていない)、字が細かい本は視力的にきびしいです。
     だれかスタニスワフ・レムの『天の声』を電子書籍化してくれないかな。そうしたら読むのに。
     レムの作品のなかでも難解をもって知られる長編ですが、内容の晦渋さ以前にフォントが細かすぎて読む気になれないのですよ。だから電子書籍にしてほしい。
     さて、こうしていろいろ本を読んでいると、いまさらながらに体系的に勉強したいという欲が湧き上がって来ます。
     数学、物理、歴史、語学――うーん、学生のころはまるでやる気にならなかったのに、いまに