• このエントリーをはてなブックマークに追加

2015年1月の記事 22件

「空気」に逆らって生きる。

 皆さん、いいかげん岡田斗司夫関連トークも厭になっている頃だと思います。ぼくも前の記事でもうやめようかと思っていたのですが、面白いコメントが付いたので、もうひとつだけ。  まずは前の記事に付いたそのコメントを引用します(読みやすいよう行頭にインデントを入れさせていただきました)。  海燕さんの意見の大半に同意します。  自分も岡田斗司夫の古いファンで、今回の事件の話を聞いても「岡田に裏切られた!」とは全く思っておらず、もともとこんな人だったというのが正直な感想で(80人彼女とかはさすがに驚きましたが)、むしろ興味の焦点は今後彼がどうやって今回の事態を収拾するのかという点にあり、どんなロジックで世間の道徳的批判に対抗するのか楽しみだったりします。  ただ一点だけ海燕さんと意見が違うのは、ネット上の反応に対する考え方です。  海燕さんは現状の「岡田斗司夫叩き」は明らかに不当だと仰っていますが自分はそうは思いません。  海燕さん自身、岡田さんに対して「道徳的共感」を行うことはむずかしいと言ってるように、ネット上の意見の大半はまさしく「道徳的違和感」を根拠に岡田氏を揶揄する物がほとんどのように思います。  殺人予告や脅迫をされたのなら確かに問題ですが、岡田氏のこれまでの他人を見下すような態度や言動を鑑みるに、傲慢な人間がヘタを打った瞬間に周囲から叩かれるのは火を見るより明らかなことで、岡田さん自身それは覚悟していたことではないでしょうか。 その上で世俗的な下々の者による道徳的批判には与しない。それが「オタキング」岡田斗司夫という人間なのだと自分は思っています。  それではその下々の者による道徳的批判は不当なのか?というと、これもまた「不当ではない」というのが自分の考えです。  なぜなら、岡田斗司夫が海燕さん言うところの「怪物」であるのと同様に、私達ネット民もまた別種の「怪物」だからです。  自分は海燕さんの「ぼくはその「怪物」を包摂する社会のほうが面白いと感じます」という意見に完全に同意します。  であるからこそ、面白おかしく岡田斗司夫を揶揄する怪物たちの言動を道徳的に批判するつもりはありません(法に反しない限りは)  そこで気になるのが海燕さんのネット民に対するスタンスです。  海燕さんはネット上の「怪物」と共存していくつもりはあるのか?  「怪物を包摂する社会」とは「怪物」をどのように扱う社会なのか?  海燕さんが言う通り岡田斗司夫が考えたかった問題とはこういうことなのではないかと思います。  非常に面白い意見だと思います。こういう反応が帰ってくると書いて良かったと思いますね。さて、ぼくの意見を書きましょう。  まず、ぼくは岡田さんに対して「怪物」とカギカッコ付きで記しています。これは「怪物と見られはするが実はそうとも限らない存在」というような意味を示したかったわけです。  あたりまえですが、岡田斗司夫がいかに冷酷といっても夜中になると牙が伸び羽根が生えてくるわけではないでしょう(たぶん。きっと。おそらく)。  岡田さんが怪物的であるとすれば、それはいわゆる「人間的情緒」に欠落があるという点にあるはずです。具体的には、女性に対する態度の無残さがそれを表しているように思います。この人には人並みの愛情とか共感といったものはあまりないのだな、と思わずにはいられません。  しかし、ぼくは人間に「人間的情緒」が必須のものだとは思いません。愛情とか共感とか、憐憫とかいうものが人間にどうしても必要だとは考えないわけです。  だから、岡田斗司夫も「怪物」ではあるにしても、同時に紛れもなく「人間」でもあるはずだ、ということを、まあ、いいたかった。「道徳的共感」がきわめてむずかしいキャラクターであるにしても、「人間」には違いない、と。  ちょっと余談になりますが、落語家立川談春の言行や文章をまとめた『談春古往今来』に、次のような話が出て来ます。  戦前、大物国士の用心棒で人殺しが趣味のような男がいたという。仲間内でもあいつにだけは逆らうなといわれていたが、その用心棒の飼い猫が死んだら三日三晩飲まず喰わずで泣き続けた。それを笑った男を用心棒、その男のカカトを切り取って殺しちゃった。親分が、カカトなんか切り取るんじゃないとたしなめたら、人間、カカトを取ると動けなくなるんです。それからゆっくりと殺すことを楽しむ、それが私の幸せですと答えたそうだ。実に心温まるエピソードではないか。  心温まるエピソードだと思うかどうかはひとそれぞれでしょうが、この話、ぼくは非常に面白いと思っています。ここにまさに「人間」がある。そう感じるからです。  「人殺しが趣味のような男」といったら、これは世間的には狂人、あるいはそれこそ怪物の類でしょう。その狂人にして怪物が、飼い猫が死んだからといって三日三晩泣き通す。まずここが面白い。  しかし、だからといってその男が「ほんとうはいい人」なのかといったらそうではなく、自分を笑った相手のことはこの上なく残虐なやり方で殺してしまう。  ある人間が、「いい人」とも「悪い人」とも、聖人とも怪物ともいい切れないこの矛盾。これが実に人間らしいなあ、と思うわけです。で、振り返るに、ぼくらの岡田斗司夫です。 (ここまで2155文字/ここから2219文字) 

「空気」に逆らって生きる。

あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?

 いま、岡田斗司夫さんの『僕らの新しい道徳』という本を読んでいます。「道徳」をテーマにした対談集で、この本のなかに『週刊少年ジャンプ』が道徳の記事として良いのではないか、という話が出て来ます。  たとえば、1980年代の『週刊少年ジャンプ』は「友情・努力・勝利」をテーマにしていましたが、この場合の「友情」は、フランス革命でいうところの「友愛(フラタニティ)」に近い。フランス革命はスローガンとして「自由・平等・友愛」を掲げていたけれど、これはあくまで目的を同じくするメンバー間の友愛であり、平等でした。フランス革命は全人類の平等を訴えたのではなく、共同体に属しているメンバーが平等であって互いに助け合おうと訴えたのです。  道徳には、有効範囲が設定されています。自分が共感できる仲間の範疇でしか道徳は共有できませんし、時代によっても変化します。1980年代の『週刊少年ジャンプ』読者と、2010年代の読者では、道徳観は違って当然。普遍でも不変でもなく、流行がある。だからこその『週刊少年ジャンプ』です。  この話は非常に面白い。ここでちょっと余談に走ると、個人的に「努力・友情・勝利」というスローガンから「努力」が抜け落ちて「友情」と「勝利」のみが強調されるようになったのがいまの『週刊少年ジャンプ』なのかな、と思っています。  仮に「努力」が抜け落ちたところに何か言葉を入れるとしたら「個性」とか「工夫」といった表現が入るのではないでしょうか。これはやっぱり「努力すればそのぶん成功するものだ」という幻想が説得力を失った結果なのではないかと思うわけなのですが、まあそれはいい。  重要なのは、ここで岡田さんが「道徳には有効範囲がある」として『ONE PIECE』を例に挙げていることです。これはすごくよくわかる話です。  『ONE PIECE』の主人公である海賊少年ルフィは「仲間」を強調し、仲間のためなら命をも惜しまない姿勢を強調します。  それが読む者の感動を呼ぶわけですが、一方でルフィは「敵」とみなした人間に対しては容赦しません。徹底的に暴力を振るうことでかれの考える正義を実行します。  「仲間」とみなした人間には最大の共感を、「敵」とみなした人間には最大の攻撃を。これがルフィの道徳だといっていいのではないでしょうか。  その態度は物語中ではポジティヴに描かれていますが、一面で独善性を伴うことも否定できない側面があり、だからこそ、『ONE PIECE』は超人気作でありながら賛否両論が分かれるところがあります。  で、ぼくは『ONE PIECE』の話は裏返すと『HUNTERXHUNTER』の話になると思っています。つまり、ルフィの海賊団の話はそのまま幻影旅団のスライドするわけです。  幻影旅団もルフィ海賊団と同じ道徳観を備えた集団です。仲間には絶対の忠誠を、敵には究極の無慈悲を。しかし、ルフィの海賊団と比べると、「仲間」と「敵」を明確に分けることのネガティヴな側面が強調されているように思います。  ルフィが、いくらか身勝手ながらも「正義」に拘っているのに対し、幻影旅団は「仲間の利益」だけしか考えない、そんな印象がある。  しかし、そのルフィにしても、自分にとって不快な人間の権益を代弁しようとは考えないでしょう。この世の何よりも「仲間」が大切。「仲間」の敵は自分の敵。ルフィはそう考えているように思えます。  いずれにしろ、「道徳には、有効範囲が設定されてい」る以上、どこかで「仲間」と「それ以外」を区切らなければならない。  そうなると、当然、それではどこまでを「自分が共感できる仲間の範疇」とみなすかという問題が出て来ます。つまり、どこまでを道徳的に共感できるフラタニティの友と考えるかということ。  『HUNTERXHUNTER』の作中では、この問いは人間ですらないキメラアントをも「仲間」とみなすか否か、という形できわめて先鋭的に展開することになりますが、ここではもっと現実的な問いを考えてみましょう。  つまり――「あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?」と。ぼくがいままでずっと書いて来たことは、あなたにこの問いに答えてもらうためなのです。  これまで縷々と述べてきたように、岡田斗司夫という人はかなり個性的な人物です。最近は「いいひと戦略」に則ってなのかどうなのか、わりと社会道徳に適合するよう振る舞っているように見えますが、本質的にはあまり道徳を尊重しているようには思えません。  というか、ぼくは岡田さんは内心では型通りの道徳なんて深く軽蔑しているに違いないと信じているんですけれど、まあ、まず「いいひと」とはいいがたいでしょう。  そしてまた今回あきらかになったことは、岡田斗司夫という人は女性を人間として尊重せず、ほぼモノ扱いするタイプの人物だということです。  何人愛人を作ろうと本人の自由ではありますが、それにしても相当共感しづらいパーソナリティというべきでしょう。  しかし、相当に豊かな才能を持っていることはたしかで、その能力は社会的に有用だといえそうです。  何といっても、岡田斗司夫がいなければGAINAXもなかったかもしれず、『トップをねらえ!』とか『ふしぎの海のナディア』といった作品もなかったかもしれないわけです。その能力は一定の評価に値します(もっとも、仮に『トップ』や『ナディア』がなかったとしても、ほかの作品が生まれただろうことは間違いありませんが)。  さて、あなたはそんな岡田斗司夫に共感できますか? 岡田斗司夫を「仲間」だとみなすことができますか? ご一考ください。  結論から書いてしまうと、「ぼくはできます」。岡田斗司夫さんのような人物もまた、同じ共同体の「仲間」として権利を与えられてしかるべきだと考えます。 (ここまで2375文字/ここから3099文字) 

あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?

「オタクはクリエイターより偉い」。岡田斗司夫のロジックを考える。

 てれびんに指摘されたのだけれど、最近、ずっと自意識の話をしていてワンパターンですね。いいかげん他の話題に行きたいところですが、敷居さん(@sikii_j)がTwitterで「納得いかん!」とシャウトしていたので、もう少しだけ岡田さんの話を続けたいと思います。  いや、じっさい書くことは色々あるんですけれど。ただまあ、ぼくは直接逢って人柄をたしかめたわけではないので、あくまで以下に書くことはぼくの妄想という域を出るものではありません。「こういう人なんじゃないかなあ」という推測でしかないわけです。そのことを前提としてお読みいただければ、と思います。  まず、岡田さんの人生の目的が何なのかという話なのですが、ぼくはべつだん、かれが「何かを笑い飛ばすこと」を目的にしていたとは思いません。  この場合、「笑い」は目的というよりはむしろ手段でしょう。それでは目的は何かというと、「その人物より上に立つこと」だったんじゃないかな、と。  つまり、何かを笑い飛ばすことによって、間接的にその存在より上に行く。そして「偉い」「賢い」「強い」「大人の」自己イメージを周囲から認めてもらう。それが目的だったのではないか。  究極的には「だれよりも賢くて偉い自分」というセルフイメージを確立したかったのではないかと思うのだけれど、まあ、はっきりとはわかりません。  ただ、岡田さんがひとの悪口をいうのが大好きだったことはいくらでも証拠があります。たとえば『史上最強のオタク座談会 封印』には、こんな発言があります。 岡田 こないだ『アニメガベストテン』とかあるじゃないですか。あれに俺ゲストで出たんですよ。そしたらね、その時××××××もゲストやったんですよ。で、「はじめまして」と言うてCDくれるんですけどね、「岡田斗司夫さん」いうてサインしやがるんですよ。それがなかったら売れたのに(笑)。書くなよ、オマエ! ババアが! めちゃくちゃ腹立って(笑)。  ちょっとこの人は何をいっているんだろう、という感じですが、もらったCDに為書きをされると売って金にできない、だからそういうことをする奴は性格が悪いといっているわけなんですね。  本人のつもりではハイセンスなジョークなのだろうな、と思うんですけど、本気でいっているのだとしたらひどい話です。「書くなよ、オマエ! ババアが!」じゃないよね。  こういう発言は山ほどありますね。というか、この本一冊全部、この種の発言なんですけれど。  で、まあ、こういう発言の裏にある想いは「人の上に立ちたい」というものだったとぼくは考えるわけです。権力志向というか。FREEexみたいな組織を作ったり、「オタクの王さま=オタキング」を名乗ったあたりからはそこらへんの心理が読み取れると思います。  オタク全体がある種の知的エリートとして社会に認められ、自分はその上にトップとして君臨する。どこまで本気だったかはともかく、岡田さんの野望とはそういう性質のものだったと考えていいのではないでしょうか。  ぼくとしては岡田さんはやっぱり自分の知性を認めてほしかったのではないかと考えています。漫画『アオイホノオ』のなかにもそんな描写があるようですけれど。  最近の岡田さんにはそういうイメージはないかもしれませんが、唐沢俊一さんとの対談集『オタク論!』とか、先ほどの『史上最強のオタク座談会』のシリーズなどを読むと、「口の悪い岡田斗司夫」をたくさん見つけることができます。  ぼくはそういう言動はやはりそれによってその対象より上に自分を置きたいという欲求の表れと考えるわけです。もちろん、これはべつだん岡田さんだけのことではないですけれどね。  たとえば庵野秀明や宮﨑駿は岡田さんにとって同世代ないし上の世代の天才的なクリエイターですが、岡田さんはかれらの作品の拙劣さを笑い飛ばすことによって擬似的にかれらより上に立つことができるわけです。  「まったく、宮さんにも困ったものだよね(笑)」みたいなセリフをさらっといえれば、そういう岡田さんを凄いと思う人はかなりいることでしょう。  じっさい、岡田さんはクリエイターより「客」のほうが上なのだ、とはっきり主張しています。『オタク学入門』からその一節を抜き出してみましょう。  このように、オタク文化の頂点に立つのは教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在だ。  それは作品に美を発見する「粋の眼」と、職人の技巧を評価できる「匠の眼」と、作品の社会的位置を把握する「通の眼」を持っている、究極の「粋人」でなくてはならない。つまり、僕がこの本の中で一貫していってきた一人前のオタク、立派なオタクということになる。  立派なオタクはオタク知識をきちんと押さえていて、きちんと作品を鑑賞する。当然これは、と目をかけているクリエイターの作品に関しては、お金を惜しまない。逆に手を抜いた作品・職人に対しての評価は厳しい。  これらの行動は決して自分の為だけではない。クリエイターを育てるため、ひいてはオタク文化全体に対して貢献するためでもある。そこのところをオタクたちは心得ている。  もちろん、クリエイターたちやマスコミの中にはオタク文化を西洋のサブカルチャーの一部と勘違いしていて「クリエイターは文句なく偉い」と考えている連中が多い。「作品はクリエイター様の心の叫びだ。ありがたく拝見しろ。わからないのはお前が悪い。顔を洗って出直してこい!」ここまであからさまではないにしろ、多くのクリエイターはこういう風に勘違いしている。  その勢いに呑まれている中途半端なオタクも多いが、実は違うのだ。やたら料理人を持ち上げたらその店はダメになってしまう。ちゃんと自分の舌で評価してこそ、よりおいしい料理が望めるというものだ。つまり職人の芸をきちんと評価する、という形が健全な文化の育成につながることになるということだ。  オタク文化の頂点に立つ「教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在」としてのオタクたち、そのさらに頂点に自分が立つ。岡田さんとしてはそういう夢を抱いていたのかなあ、とこの文章を読むと思わせられます。  で、なぜそんな大望を抱かなければならなかったのかといえば、それはやはり岡田さんの心に何かしらのルサンチマンがあったからなのではないでしょうか。 (ここまで2602文字/ここから2695文字) 

「オタクはクリエイターより偉い」。岡田斗司夫のロジックを考える。

正しい「いいひと戦略」のススメ。岡田斗司夫はどこでミスを犯したのか?

 ども。岡田斗司夫愛人問題についてはお口にチャックをするつもりだったんですけれど、どうしても書きたいことが出て来てしまうので、ここに簡単に記しておきます。  何しろ下世話な話なので、読まなくてもまったくかまいません。ただ、ぼくは個人的に岡田斗司夫という人を長年追いかけてきたので、いくらかこの話に興味があるということです。  いまの岡田さんを見ていると、「なるほどなあ、こういうふうに破綻するのか」という感慨がありますね。ひょっとしたらこのまま成功しつづけるのかと思っていたけれど、なかなかそういうふうには行かないらしいということが、実に興味深い。  ぼくはべつだんかれを責めるつもりも咎めるつもりもないのですけれど、いまの事態はひとつの「因果応報」というか、自分が選んだ生き方の結末ではあるのだろうな、と思わずにはいられません。  岡田さんを責めている側もあまり上品とはいいがたいように思うのですけれどね……。まあいいや。  ぼくが岡田さんのことを興味深く追いかけて来たのは、かれが「上の世代のオタク」だからです。つまり岡田斗司夫はぼくにとって行動の規範となる人のひとりであったのです。  そのシニカルな物言いにしろ、毒のある行動にしろ、良くも悪くもぼくに影響を与えています。  かれはある意味で非常に典型的な「インテリオタク」でした。基本的にインテリであるにもかかわらず、社会を建設的に進歩させていくプロジェクトに参画しようとせず、アニメや漫画といったサブカルチャーに耽溺してみせるという態度を示した最初の世代の人だったわけです。  いわゆる「オタク第一世代」ですね。ぼくはそこに非常に屈折した想いを見ます。ひと言でいえば、岡田斗司夫の考え方とは、社会で重要とされているものを笑い飛ばすことによって自己の優位性を確立しようという思想だったのだと思います。  アニメや特撮といった、世間的にバリューが確立されていない文化に「あえて」熱中してみせるという態度を示すことによって、自分のインテリジェンスを示そうというわけですね。  この「あえて」というところが重要で、かれから見るとそこに本気で熱中している奴は愚かであるわけです。ものごとの裏側を見、隠されたものを暴き、その批評的な行為によってあらゆる存在のメタレベルに君臨する――それが正しい「オタク」の態度ということだったのだと思います。  当然、そこではいかに他人の失敗や滑稽さを笑い飛ばすかということが重要になる。かれから見てくだらないことにベタに熱中しているような俗衆は嘲笑の対象にしかなりえません。  しかし、当然ではありますが、岡田斗司夫その人も完璧な人間というわけではなく、時には失敗したり間違えたりすることもあります。そうすると、自分自身がだれかの嘲笑の対象になったりもするわけです。  ぼくは岡田さんが抱えていた課題とは、いかにしてそういった「笑い」から自分自身を防御するか、ということだったのだと思うのです。  いい換えるなら、「ひとに笑われることなく、ひとを笑い飛ばしたい」ということですね。さらにいえば、決して「ボケ」に落ちることなく「ツッコミ」の立場を維持したい、ということであるかもしれません。  しかし、これはきわめて困難な課題です。なぜなら、ひとを笑い飛ばしたりすれば、当然、べつのだれかから笑われることもあるのが世の常だからです。  ぼくが考えるに、これを解決するための方法はひとつしかない。つまり、「何もしない」ということです。自分は何ら建設的な行動を取ることなく、ひとの失敗を笑いつづける。これを続けている限り、ひとは「頭のいいポジション」から脱落せずに済みます。  何しろ何もしないのですから、何か失敗することもない。弱点を抱え込むこともない。そうやって何もしないでひとを批判している限り、その人は無敵なのです。  いま、インターネットにはそういう人は大勢いますよね。特に何ができるわけでもないのだけれど、鋭く人を批判し嘲ることにかけては人後に落ちないというタイプ。  これは「ひとを笑い飛ばしたいが、ひとに笑われたくはない」という課題を突き詰めていくと、当然出て来る行動パターンだと思うんですよ。むしろ賢い人ほど、そうやって「何もしないという態度」を選択することになる。  そういう人にとって他人はみなバカに見えたりするのですが、では、その人に何ができるのかといえば、べつだん何もできはしなかったりするのです。  さて、そういった絶対安全圏から人を嘲るという行動は、とても魅力的なものですが、ひとつ問題があります。そうやって安全圏にひきこもっている限り、何もできないということです。  ひとを笑えば笑うほど、バカにすればバカにするほど、そのセーフティゾーンから出ることができなくなる。出てしまえば、自分がひとに投げた揶揄や嘲弄が倍になって返ってくるからです。  したがって、そういう人はリスクを犯す行動を何ひとつ取ることができなくなります。そして、「ひとの欠点がよく見える賢い自分」という自画像を手に入れる代わりに、一生何ひとつ成すことなく終わるのかもしれません。  まあ、それはその人しだいですが、とにかく絶対安全圏にひきこもっている限り、何ひとつ失敗をしないかわりに目立つ業績を挙げることもできません。  これは「ひとに認めてほしい」、「強く賢い自分を承認してほしい」と考える人にとっては耐えがたいことです。ぼくは岡田さんもそういうタイプの人だと思っているんですけれど。  それでは、「何か業績を成し遂げ」、なおかつ「傷つきやすい自意識を防御し切るためにはどうすればいいか」。これが岡田さんが人生において取り組んでいた課題だったんじゃないかなあ、とぼくは妄想します。  特に確固とした根拠がないのであくまで妄想ですが、まあそれを前提として話を続けましょう。  ごく単純に考えて、ひとを攻撃して、だれからも攻撃されないというポジションに就こうというのは非常にむずかしい話です。ほとんど実現不可能とも思える。自然の法則に反しているようなことです。  ただ、ひとつ方法があることはある。つまり、この話を考えて行くと、「攻撃されても、嘲笑されても傷つかないよう自分をチューンすればいいのだ」という結論が出ると思うのです。  ようするに、何か痛い指摘を受けたとき、「それはわざとやっているだけなんだよ」といい張れるようであれば自意識は傷つかない。  ピエロはピエロであることを指摘されても痛くないのです。なぜなら、それは仕事でやっているに過ぎず、仮面の下にはほんとうの素顔があるのだから。  つまり、常時、何かしらの仮面をかぶって素顔を見せずにいる限り、どんなに攻撃されても嘲笑されても傷つかない。むしろ、自分が「あえて」「わざと」やってみせている行為に対してベタに攻撃してくる人間こそバカなのだ、といい返すこともできる。  決して本心を見せないこと。弱点を晒さないこと。常に「仮面」で自分の自意識を守りつづけること。これを続けている限り、いくら攻撃されても決して自分の「本丸」は傷つかない。岡田さんの人生はその絶対防御の理屈によって動いていたように、ぼくには見えます。  それが今回、破綻してしまったようにも思えるわけですけれど、それはなぜなのかというところが、ぼくには興味深いですね。  さて、皆さんは今回、岡田さんはどこで失敗したと考えられるでしょうか? ぼくは、それは最初の釈明ツイートだったと思う。「愛人とのキス写真」なるものが出まわって話題になった時、岡田さんはTwitterでこのように呟いています。 twitterで「愛人とのキス写真」とやらが出回ってるけど、当たり前ですけどニセ写真です。LINEアイコンとか写真の構図とかめちゃ上手いけど。写真と告白文を作った本人からはすでに謝罪して貰ったので、自分的には一件落着ずみ〜。初笑い、できたかな? 今回で一番恥ずかしいのは、LINEアイコンがムーミンだと知られたこと(笑) でも今年は「恋愛本」を書く予定だから、実は過去の恋愛話を全暴露しようと画策していたんだよね。  これはいかにも岡田斗司夫らしい対応だったと思います。つまり、かれはこの危機的状況に対して「いつものように余裕綽々の自分」という「仮面」で対応しようとした。これが最大の失敗であったのではないか。  単純に事態を収束させるために何の効果もなく、むしろ火に油を注ぐことに繋がったということだけではありません。この後、かれはこの「仮面」を守ろうとしなければならなくなってしまったわけです。  つまり、一連の事態において守勢に立たされることになってしまった。これが決定的にまずいレスポンスだったのではないでしょうか。  ほんとうは岡田さんはここで自分に愛人がいることを認めるべきだったのだとぼくは考えます。そうしたとしても、ほんとうなら咎め立てされるいわれはないのですから。  しかし、かれは初手で開き直ることができなかった。そして、それがどんどん尾を引いていきます。まさに岡田斗司夫らしくないミステイクです。なぜ、岡田さんは初手でこんな他愛ない嘘をついてしまったのでしょうか。 (ここまで3751文字/ここから4445文字) 

正しい「いいひと戦略」のススメ。岡田斗司夫はどこでミスを犯したのか?

「いやな奴」はどこまでいやな奴なのか。

 どうも。長いあいだお待たせしました。インフルエンザからほぼ完全に回復したので、更新を再開します。  いやー、今回のインフルはしつこかった。熱はすぐに下がったものの全身の倦怠感がしばらく続き、だるだるっとした気分で家に張り付いているよりほかありませんでした。  やっぱり風邪ひいていると長い文章は書けないものですね。書いては消し、書いては消したりしていたのですが、どうしてもまともなものが仕上がらなかった。健康大事。  それにしてもこういう時、Kindleのシステムはものすごく便利です。自室にいながらにして欲しい本を欲しいだけ手に入れることができるし、また入手した本を読むこともできる。  ひと昔前だったら考えられないことだったわけで、まさに神システムというしかありません。不満は色々あるけれどね。  そういうわけで、以前、Kindleで落としていた今井哲也『ぼくらのよあけ』全2巻を読み上げました。漫画の長編化が進みつづけるきょう、全2巻の作品というと「さては打ち切られたか」と勘ぐられそうですが、この漫画はたった2冊できれいに終わっています。  特に傑作というほど飛び抜けた何かがあるわけではないのですが、いまどきめずらしい王道ジュヴナイルSFの快作といっていいのではないかと。  物語は2030年代の近未来を舞台に、地球へ落ちてきた異星の宇宙船を宇宙へ還そうとする少年たちのひと夏の物語を綴って行きます。  2030年代ということで現代に比べて科学が進歩していて、人工知能なども発達しているものの、基本的にはいまと変わらない社会の描写です。  じっさい、こういう近未来を描くのはものすごくむずかしいと思う。あっというまに現実に追い抜かれて古くなってしまいますし、現実的な未来予想をしただけではSFとして面白みがありませんから。  その、いまと少しだけ違う、しかしいじめもあれば犯罪も残っている社会で、ひと夏の冒険が繰りひろげられるわけです。  2030年代というと『攻殻機動隊』シリーズとほぼ同じ時代なのですが、あそこまで生活に大きな変化があるようには見えません。まあ、『攻殻機動隊』の世界は二度に渡る世界大戦を経験しているんですけれどね。  基本的にはとても面白いSF漫画で、『大長編ドラえもん』などに近い雰囲気を感じさせます。作中の男の子たちがストレートな人間関係を築いている一方、女の子たちは複雑で陰湿ないじめ関係を構築しているというあたり、ちょっと定型的かな、という気もしないでもありませんが。  というか、作中のすべての描写が、おそらくは意図的に「どこかで見たことがある」ものに仕上げられていて、それが長所とも短所ともいえると思います。まったく斬新なものを目指そうとしたというよりは、「なつかしい未来」を指向した作品だったのかな、と。  印象的なのは、脇役で出て来るいじめっ子の女の子。彼女はひたすら周囲をいじめる「いやな奴」として描かれるのですが、ある時、構図がくるっと逆転して、「いじめられる側」へと転落します。 (ここまで1253文字/ここから970文字) 

「いやな奴」はどこまでいやな奴なのか。
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

著者イメージ

海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

https://twitter.com/kaien
メール配信:ありサンプル記事更新頻度:不定期※メール配信はチャンネルの月額会員限定です

月別アーカイブ


タグ