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記事 7件
  • 京都アニメーションの事件と、悪と狂気、そして人間の心に残された光について。

    2019-07-30 14:13  
    50pt
     どもです。本日、41歳になりました。ハッピーバースデー>オレ。てれびんからサーティワンアイスクリームのチケットをもらったので買ってこようと思います。
     野郎からしかバースデープレゼントをもらえないわが身の哀しみよ。奴の悪意が身に染みるぜ。でも、サーティワンのアイスクリームはおいしいけれど。
     まあ、それはどうでもいいので、ネットで見つけた興味深い記事の話をしましょう。批評家の宇野さんの記事と、アニメ監督の「ヤマカン」こと山本寛さんの記事です。
     まず、宇野さんは山本さんが新海誠監督の京アニスタッフの無事を祈るツイートに対し、「ちょっと黙ってて」と呟いて強い非難を受けたことに対し、こう述べています。

     山本監督は絶望していたのだと思う。起きてしまったあまりにも凄惨な現実に、そして、その現実を受け止めきれない人々が、かつての同僚を、先輩を、後輩を殺された相手にゲーム感覚で石を投げてくるもうひとつの現実に。彼は改めて直面してしまったのだと思う。京都アニメーションを襲った犯人の悪と、こうして自分に石を投げて楽しんでいる人々の悪とが、確実に地続きであるということを。あの涙は、たぶんそういうことなのだと思う。
    https://note.mu/wakusei2nduno/n/n617c6cdb8ea0

     「ゲーム感覚」。非常に違和を感じさせもする言葉遣いですが、とりあえずそれは措いておいてヤマカンさんの記事を見てみましょう。
     かれは、犯人の「狂気」は京アニが「「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」その「代償」だといいます。

    片や僕は12年間、その「代償」を少しずつ、いや少しどころではないが、断続的に払い続けてきた。
    本当に毎日のように「狂気」が襲いかかり、炎上は何百回したか解らない。
    「どうしてヤマカンは俺たちの言うことが聞けないんだ!俺たちのために奴隷のように働かないんだ!」という、支配欲の塊となった人間たちからの強要・脅迫。
    その声が高まるにつれ、友には見放され、代わりに周囲に集まってきた人間たちは僕を都合良く神輿に乗せては、崖から放り捨てた。
    僕は体調を崩し、遂に心身共に限界を感じ、廃業宣言に至った。
    その一方で、僕が12年間、何度も悔し涙を流しながら払い続けた「代償」を、京アニは今、いっぺんに払うこととなった。
    いっぺんにしてもあまりに多すぎないか?僕は奥歯をギリギリ噛みしめながら、そう思う。
    しかし、彼らにも遂に「年貢の納め時」が、来たのだ。https://gamp.ameblo.jp/kanku0901/entry-12497416248.html

     はっきりいってしまえば、言語道断の意見です。ヤマカンさんのいう「狂気」という言葉には、中身がない。京アニがそれを「自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」とすることにも根拠がない。
     このような凄惨きわまりない事件に際してなお、私怨にもとづいてかれのいう「オタク」を攻撃しようとするかとも見える態度は、醜悪とも、卑劣とも思えます。じっさい、ネットでは口をきわめて非難されている。
     しかし、その表現から受ける酷薄な印象をぬぐいさって見てみれば、ヤマカンさんの発言は宇野さんのそれと内容は同じです。
     つまり、「悪」と「狂気」と使っている言葉こそ違いますが、インターネットで自分たちに「石を投げる」人の「悪」や「狂気」と、京アニ事件の犯人の「悪」や「狂気」は連続したものである、と語っているわけです。
     これをどう受け止めるべきか。非常に迷うところですが、ここでいきなり、きょう見てきた映画の話をしたいと思います。新海監督の『天気の子』(傑作)や山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』(大傑作)ではなく、ディズニーの『アラジン』。
     てれびんのろくでなしが見に行ってぼくに延々とネタバレ感想を話したから見に行こうという気になったのですが、これは意外な収穫でした。ぼくはオリジナルのアニメ版はべつに好きでも何でもないのだけれど、この実写版は素晴らしい。
     シナリオの基本線はそのままながら、人物造形が深みを増していて、非常に魅せます。
     物語の軸となっているのは、主人公アラジンと悪役ジャファーの対立です。アラジンはアラビアのある架空の国の孤児で泥棒の青年ですが、ジャファーもまたかつては泥棒であった身の上であり、ふたりは自分の凄さを知らしめたいという共通の野心を抱いています。
     そのため、ジャファーはどんどんダークサイドに堕ちていくのですが、魔法のランプを手に入れたアラジンもまた終盤でランプの精ジニーを自由にするという約束を破ろうとし、欲望のダークサイドに堕ちかけます。
     しかし、最終的にはアラジンは救われ、ジャファーはそのまま破滅することになります。ふたりの違いは何か? どこに差があったのか? 色々と挙げることはできるでしょうが、結局、それはアラジン自身、ジャファー自身が自分で選んだことなんですよね。
     ぼくはこの映画を見ていて、宇野さんはヤマカンさんのいうことをつくづく思いだしました。「悪」や「狂気」は連続したものであるという主張は、よくよく考えてみると、たしかにそのとおりであるとも思えるのです。
     しかし、それは宇野さんやヤマカンさんを非難する人々と京アニ事件の犯人の間でだけ連続しているのではなく、宇野さんやヤマカンさンを含むすべての人のなかにひそんでいるものだと思います。
     「悪」と「狂気」、少なくともその種子は、だれのなかにも、つまりアラジンとジャファーのなかにも、宇野さんとヤマカンさんのなかにも、かれらを非難する人のなかにも、そしてこのように語っているぼくのなかにも眠っている。
     あとはそれが芽吹くかどうかの違いでしかない。そして、それを芽吹かせるか抑え込むかを決めるのは自分。『アラジン』という映画はそういうことをいっているのではないかと。
     宇野さんはまだしも、ヤマカンさんの論理は論外です。自ら怒りや憎しみを集めに行っているとしか思われない。なぜ、自ら望んでこのような行動を取るのか、ぼくにはどうしても納得がいきませんでした。
     でも、かれは自分が引き寄せた「怒り」や「憎しみ」に対し同じ怒りや憎しみを返していくことであそこまでになってしまったのでしょう。
     自分は京アニ事件を予言した、自分は「狂気」と戦っていると主張して注目を集めようと画策するかとも見えるその姿は、まるで、かつての日の屈辱を晴らし、「自分は特別だ!」と思いこもうとするジャファーのよう。
     うん、やはりヤマカンさん自身もまた、自ら「狂気」というその心性と無縁ではないように思えます。かれは自分でその道を選んだ。
     ほんとうはだれでも、自分自身で愛と信頼に充ちた光の側へ行くか、怒りと憎しみに支配されて闇の側に堕ちるか、選ぶことができるのです。まさにアラジンとジャファーがそうしたように。
     もちろん、『アラジン』はただの映画であり、おとぎ話です。現実には、どんなに人を愛し、誠実に行動したとしても、だれもが地位を手に入れたり、プリンセスに選ばれるわけではない。
     それどころか、まさに京アニの無残な事件が表しているように、すべてが「悪」と「狂気」に蹂躙されることすらありえる。しかし、その「悪」と「狂気」に充ちたこの理不尽な世界のなかで、それでも、自分の意思だけは自分で決めることができるのですよね。
     ライトサイドを選ぶか、ダークサイドへ進むか、それを決定するのは自分以外にいないということ。愛すれば愛が、信じられば信頼が返ってくる。それに対し、怒りと憎しみに対してはやはり怒りと憎しみが押し寄せてくる。選ぶのは自分。
     宇野さんやヤマカンさんがいうことはたぶん一面では真実でしょう。でも、かれらは、特にヤマカンさんは自分の正義を信じるあまり、自らもまた「悪」や「狂気」を発芽させているようにも見える。
     ぼくはかれがなぜあえて怒りと憎しみしか返ってこないような行動を取るのか謎に思うけれど、その道を選んだのも結局はヤマカンさん自身なんですよね。
     ひっきょう、「おれはすごい! だれよりも特別なんだ!」と叫ぶほど人は孤立し、孤独に陥っていく。ジャファーのように。その反対に、何者でもない平凡な自分を認め、正直に世界と相対するとき、愛と信頼が返ってくる。アラジンのように。
     いや、それはウソだ。あるいは何ひとつ返って来ないかもしれない、それどころか愛に対しては面罵が、信頼に対しては裏切りがやって来るかもしれない。けれど、それでもなお、自分自身をライトサイドに留めるものは自分だ。
     古今東西、あらゆる物語で語られる光と闇の戦いって、つまりそういうことなんですよね。人間の内面の葛藤。そして選択。
     だれであれ、人は初めから「悪」と「狂気」に捕らわれているわけじゃない。生まれたときにはだれもが無垢なのだから。ただ怒りに対し怒りを、憎しみに対し憎しみを返しているうちにダークサイドに堕ちていくのでしょう。
     この世界で人間にはすべてが許されている。倫理だの法律だのといってみたところで、それはあくまで人間が作り出した人間のルール。神さまの法則というわけじゃない。神さまの作り出した理(ことわり)は人間にはどうにもならない。
     だから、巨大な暴力や悪意に対抗するすべはほとんどない。しかし、 「それでもなお」、ぼくたちは自分自身の行動だけは選択することができる。憎しみに対し愛で返すこともできるし、愛に対して憎しみで答えることもできる。そういうことをいっている映画だと思いました。素晴らしいですね。
     うむ。我ながらいいことを書いた気がする。41歳の海燕さんは違うな! お誕生日おめでとう! これからもよろしくお願いします。はい  
  • 同人誌、印刷完了!

    2019-07-25 15:44  
    50pt
     同人誌『栗本薫カレイドスコープ』、印刷されて送られてきました。これからBOOTHに送って通販を始める予定ですが、じっさいに販売されるのはコミケの後になるものと思われます。
     コミケでも販売する予定ですが、はたしてどれだけ売れてくれるか……。せめて印刷代くらいは回収したいので、ぜひお買い求めください。自分でいうのも何ですが、良い本に仕上がっていると思います。
     栗本薫作品にまったくふれていない方でも理解できるよう、また興味が湧くように書いたつもりですが、これがまったく売れないようだとぼくは破産してしまうので、買ってね! 具体的には60冊から70冊くらいは売れてほしい……。生々しいか。
     ちなみに、ペトロニウスさんも寄稿してくれています。ぼくの原稿と内容的にほぼ同じことが書かれています(笑)。やっぱりここら辺の発想は共通しているものがありますね。
     また、サークル・アズキアライアカデミア一同
  • シンジくん問題を考える。あなたはほんとうに本物の大人になれましたか?

    2019-07-16 00:38  
    50pt

    エヴァ、ゼロ年代あたりはシンジくんといったらいわゆる「ヘタレ主人公」筆頭のように言われがちだったけど、人権意識の向上した今のオタク界隈では「ネルフがマジでクソ」「シンジくんかわいそう」で満場一致してる雰囲気がある
    https://mobile.twitter.com/batapys1/status/1149831007719190528

     と、こういうツイートがあるのですが、ぼくはぼくなりにずっと「シンジくん問題」を考えています。
     どういういい方がいちばん正しく伝わるかわからないのですが――えーとですね、つまり、ここでひどいといわれているネルフにしても、かつてはシンジくんのような子供だったと思うんですよね。
     仮に、ゲンドウのような親を持ったシンジくんがまともな大人になれなくてもしかたないと考えるとしたら、ミサトだってかつてはそうだったのだろうし、ゲンドウもそうだったかもしれない。
  • この狂った世界をどう描くべきか?

    2019-07-13 10:10  
    50pt
     夏コミで同人誌『栗本薫カレイドスコープ』を出すべく、色々と準備を重ねています。
     この本はぼくの〈アズキアライアカデミア〉とは離れた個人同人誌の出版計画のいちばん最初のものになる予定なのですが、まあ、いい換えるなら「お試し」でもあります。
     これがちゃんと100冊なり150冊も売れるようであれば「次」も考えられるのですが、どうだろうなあ。まったく売れなかったら恐ろしいですね。十分にありえることですからね。ああ、いつものことながら同人誌は怖い。
     さて、今回はテーマが栗本薫ということで、ペトロニウスさんにも寄稿をお願いしました。叩き台の原稿を読ませていただいたのですが、これが面白い。
     やはり、ぼくとかペトロニウスさんの物語評価の根本は「そこ」にあるんだよなあ、とつくづく思います。
     何をいっているのかわからないでしょうからかるく説明すると、「そこ」とはつまり、「「世界」を描こうとすること」です。ぼくもペトロニウスさんも、「「世界」を描いた」物語が好きなんですね。これでもわからないか。
     ここでいう「世界」とは何か? それはつまり「ありのままの世界」のことです。このことについては、たびたび例に挙げて申し訳ありませんが、山本弘さんの『魔法少女まどか☆マギカ』の解釈が面白いので、引用させていただきます。

     スタッフのみなさん、ありがとう。 
     『魔法少女まどか☆マギカ』は本当に大傑作でした。
     DVD1~5巻、すでに予約済みです。
     震災の影響で完結が危ぶまれていた作品だが、むしろこんな時代だからこそ、この作品にこめられたテーマが胸を打つ。 
     「誰かを救いたい」 
     その願いや努力が報われない世界は間違っている。
    http://hirorin.otaden.jp/e173632.html

     なるほどなあ、『まどマギ』を見てこういう感想になるのか、といっそ感心してしまうのですが、この「間違っている」というところがポイントです。
     何を基準にして「世界」を「間違っている」というのか。それは、つまり、人間の価値、倫理、道徳、法律、感情、欲望、そういった「人間的なるもの(ヒューマニズム)」でしょう。
     本来、世界は人間の価値観とはまったく無関係に「在る」のであって、そこに「正しい」も「間違っている」もないはず。それにもかかわらず、それを「間違っている」といえるのは、人間の価値観を中心に世界を判断しているからに他なりません。
     「誰かを救いたい」という「願いや努力が報われない世界は間違っている」と山本さんはいいます。しかし、現実にはこの世界はそういう場所です。
     どんな真摯な願いや努力も報われる保証はまったくないのであって、むしろ真摯であればあるほどまったく報われないで終わることはめずらしくありません。
     つまり、山本さんはそういうこの世界の現実の形を、かれのヒューマニズムにもとづいて「間違っている」といっているわけですね。
     そして、前々回の記事で見たように、かれは物語においてはそういう「間違っている」世界ではなく、「正しい」世界を描くべきだ、と考えているのだと思われます。
     つまり、「ありのままの世界」ではなく、人間的な意味で「正しい」世界を描くことが物語だ、と考えているわけです。そういう意味で、山本さんが好み、また書こうとしている物語は「ファンタジー」である、といえるかと思います。
     これはこれで、わかる話ではあるんですけれど、栗本薫が描いた物語は、これとはまったく違う。まず、栗本薫の世界においては、ありとあらゆるヒューマニズムはまったく通用しません。
     そこでは、弱者は強者に利用され、搾取され、凌辱され、ときにはむさぼり食われすらするのであって、「正義」も「倫理」もまったく通用しないのです。
     つまり、栗本薫は「ありのままの世界」、山本さんが「間違っている」と告発するその意味での「世界」を描いている。その意味で、彼女の作品は「ファンタジー」ではなく「リアリズム」です。
     ここがわからないと、栗本薫の作品は読み解けない。栗本薫の世界はリアリズムであるが故に、人間的な倫理とか、善悪とか、価値とかがまったく通用しません。まさに山本さんがいう「「誰かを救いたい」 その願いや努力が報われない世界」なのです。
     したがって、作家は自分の正義を作品世界に投影するものだ、そうであるべきだ、という山本さん的な価値観では栗本薫の作品はまったく読み解けないことでしょう。
     面白いですね。大変面白いと思うのですが、いかがでしょうか。
     栗本薫が「世界」を描く作家だ、というのはそういうことです。栗本さんの物語は、何らかの「正義」や「正しさ」を伝えるためにあるわけではありません。
     そうではなく、ぼくたちが生きるこの世界の「ありのまま」の形をそのままに描きとることが目的とされているのです。
     山本さんがいうように、その世界は人間的な価値観から見れば、あまりといえばあまりに「間違っている」。しかし、栗本薫はその「狂った世界」をそのままで良しとします。
     そして、その「世界の法則(=「グランドルール」=「大宇宙の黄金律」)」を曲げることをこそ「間違っている」とみなすのです。
     こう考えてみると、栗本薫と山本弘がまったく正反対の価値観と作風のもち主であることがわかります。
     ここでは山本さんがいうようなヒューマニズムが一応は通用するところを仮に「社会」と呼ぶことにしましょう。そう定義すると、人間は「世界」のあまりの残酷さを恐れ、怯え、憎み、「世界」のなかに「社会」を作って自分たちを守ってきたといえると思います。
     しかし、人間がいくら社会を洗練されていっても、本来の「世界の法則」は変わらない。人間がどんなに「この世界は間違っている!」と叫んだところで、世界は小ゆるぎもしないのです。
     いい換えるなら、世界の在り方はつねに「正しい」。それがどんなに残酷で陰惨で理不尽であるとしても(人間の目から見てそう思えたとしても)、世界はいつもそのままで「正しい」。
     人間がたとえば人権は守られるべきだといっても天災が起これば人は死ぬし、こういうことは犯罪だから良くないといったところでその行為を実際に行う人間が絶えることはありません。
     栗本薫はその現実から目を逸らさない。そして、その、人間的な価値観からすれば「間違っている」、しかし現実にはどうしようもなく「正しい」世界のなかで、人々がどのように生き、そして死んでいくかを淡々と描きつづけるのです。
     それが栗本薫という作家です。山本さんのような価値観から見れば、その作風は邪悪とも醜悪とも映るでしょう。人間的な「正義」や「倫理」からかけ離れた描写が延々と続くわけですからね。
     しかし、ぼくは山本さんの現実をねじ曲げ、この世界の在り方を否定する「ファンタジー」よりも、栗本薫の「リアリズム」のほうが好きです。そちらのほうが前向きだと思うのです。
     まあ、ここで話したことも、山本さんのように「正義」や「倫理」の普遍性を信じる人にはどういったところで通用しない話ではあるのですけれどね。
     山本さんは「懐疑主義者」を自任していますが、ぼくから見ると「普遍的な倫理」の幻想を盲信しているように見えてしまいます。そして、それにもとづいてかれは人を裁く。それは「何者をも裁かない」栗本薫の作風と対極にあります。
     それもまた、わかる人にはわかる。わからない人には決してわからない話ではありますが……。
     なかなか良く書けたと思うので、前々回の記事とこの記事は、加筆修正の上、『栗本薫カレイドスコープ』に収録しようと思います。栗本薫作品未読者でもわかるように書くつもりなので、どうか、ぜひ、お買い求めください。
     貧しい海燕に愛の手を!
     よろしくお願いします。 
  • イベント参加者募集ちうです!

    2019-07-12 18:04  
    50pt
     来たる8月17日、〈第一回アズキアライアカデミア〉を開催します。
    https://eventon.jp/17700
     第一回と銘打ってはいますが、毎年開いているオフ会イベントです。今年は海燕、LD、ペトロニウスによる「講義」に加えて、二次会も開きます。ひょっとしたら三次会もあるかも。
     一次会が4000円、二次会も4000円と、一見、けっこうなお値段がするように見えるかと思いますが、ほとんどが場所代と食事代です。例によって赤字になることを避けた程度で、利益は最小限に留めています。
     非常に楽しい場になるかと思うので、ぜひぜひご参加くださいませ。現在、40人定員のところ、15人まで埋まっています。残り25人。たぶんこれも埋まるだろうと思うので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。
     今年はぼくもちゃんと資料を使ってスライドを作り、それなりに中身のある「講義」をするよ! 「少年の夢はいかにして血の色に染まるのか」という話になるかと思います。来てね!
     まあ、ぼく(たち)のオフ会の歴史も長くて、かれこれ十数年にわたって数十回続けているのだけれど、しだいに洗練されていっていまのスタイルになりました。
     結局、和室でごろごろしながらひたすらしゃべるのがいちばん楽しいという結論ですが、さすがにそれだけではアレなので、主催者によるトークを加えたわけです。その結果、11時間にわたって話し、また聴くというそれは楽しいイベントができあがりました。何て素晴らしい。
     よろしくお願いします。でわわ。 
  • 「戦争賛美」、「平和祈念」といったくくりこそくだらない。エンターテインメントは虚無に面する。

    2019-07-10 11:11  
    50pt

     渡レイによるマンガ『Fate/Grand Order-Epic of Remnant-亜種特異点3/亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負(1)』(長い!)を読み終えました。
     山田風太郎の小説『魔界転生』にオマージュをささげたとされる作品ですが、なかなか悪くない、十分に面白いと思います。
     ただ、この設定だと、ぼくは『魔界転生』のあの冷え冷えと凍てつくような凄愴さを思いだす。で、『魔界転生』って凄かったなあと、あらためて故人の天才を思うのです。
     以前から思っているのですが、『魔界転生』の何が凄いって、ひとつには、過去の講談や小説などに登場するヒーローたち七名を集めて柳生十兵衛と対決させるという、ようするに『Fate』シリーズを遥かに先取りした設定があるのですが、でも、ぼくは本質的には「そこではない」と思っています。
     いや、そこも大切なのだけれど、ほんとうに凄いのは、そうやって「人類最強決定バトルロイヤル」みたいな設定を作っておきながら、作者自身がそこに何の意味も見いだしていないところなのではないかと。
     『魔界転生』という小説は、まさに時代小説最強を決定する超絶バトルロイヤルを描きながら、どこかで作者自身は、「ばかだよね」、「くだらないよね」とその凄絶無比の魔戦を見下ろしているようなところがある。
     そもそも「最強」の称号に何の意味があるとも思っていないというか。そして、それでいて「最強決定戦」に挑む各キャラクターの執念の描写は凄まじい。
     何の意味もない、値打ちもないものに人生をも命をもつぎ込むその戦い――そこがほんとうに凄いですね。
     何をいっているのかわかってもらえるでしょうか? うーん、どう話すのがいちばん良いか。そうですね、ちょっとまえにTwitterで「『ヤマト』や『ガンダム』は戦争賛美か?」という論争がありました。
     このツイートから始まった話であるようです。

    「宇宙戦艦ヤマト」にしても「機動戦士ガンダム」にしても、どう言い繕おうが戦争賛美だと思うんですよ。
    まあ検閲すべきだとは思いませんけども、そこにある「カッコよさ」に無警戒なまま大人になってしまう人は少なくないので、ああいう作品を簡単に称賛することだけは、してはいけない。
    (・ω・)
    https://twitter.com/booskanoriri/status/1144820452088373248

     これに対して、さまざまな反論が寄せられたのですが、ぼくが見る限り、そのほとんどが「『ガンダム』は戦争賛美なんかじゃない!」というものでした。これがね、ぼくは心底なさけない、つまらない話だなあと思うのです。
     たしかに、『ヤマト』にしろ『ガンダム』にしろ、ただ戦争賛美「だけ」の物語ではないでしょう。そこには反戦的なテーマもあれば、また戦争の残酷さを描いた場面もあるでしょう。
     ただ、ぼくは『ガンダム』が「ほんとうは反戦的な作品だから」、この作品に価値があるとは思わない。そもそも戦争賛美だとか、反戦だとか、そういう「思想」の話は『ガンダム』の面白さを語るとき、わりとどうでもいいことだと思うのです。
     たとえ、『ガンダム』がどれほど「戦争の悲惨さ」を描いているとしても、その一方でアムロが格好良くザクを叩き斬るカタルシスがあることもたしかであり、そして『ガンダム』の本質はその「『ガンダム』かっこいい! アムロ、シャア、かっこいい!」ということのほうにある。
     戦争賛美だの、反戦思想だの、そんなものは「おまけ」でしかありません。
     べつだん、『ガンダム』に限らず、ほんとうに優れたエンターテインメントとはそういうものだと思うんですよ。それは何らかのお偉い「思想」を伝える、そのための「方法」じゃない、それじたいが「目的」なのであって、ただただ面白いとか、ただただ格好良いという以外、何の役にも立たないものなのです。
     したがって、そこには「虚無」がある。何の役にも立たない、何の目的もなく、何の意味もない。そういう性質のものだという現実がある。ほんとうに面白いエンターテインメントは必ずこの絶対的な無意味さ、「虚無」と直面する。ぼくはそう思っています。
     『ガンダム』が傑作なのは、間違えても反戦思想を伝える平和祈念アニメだからではありません。物語が面白いからです。そして、アムロやシャアがカッコいいからです! ただそれだけなのです。
     まあ、人によっては、「いや、実は『ガンダム』には面白いとかかっこいいとかそういう幼稚なことに留まらない、深遠な哲学があるのだ」というかもしれません。しかし、ぼくにいわせればその哲学こそくだらない。
     なぜなら、そこには、エンターテインメントを何らかの形で役立てよう、その価値を社会に還元しようという「欲」があるからです。それはエンターテインメントの純粋さを損なう「邪念」でしかありません。
     「ただ面白い」、「純粋に格好良い」、それだけで十分なのであって、それこそが本質であり、神髄なのです。『魔界転生』はまさにそういう「ただ面白い、それだけ」の物語でした。だからこそ、ぼくは神域の傑作だと思うわけです。
     きのう取り上げた山本弘さんの話を思いだしてみてください。山本さんは物語にかれが信じる「正義」を持ち込み干渉しました。つまり山本さんにとっては、その「正義」こそが至上の価値を持っているということなのでしょう。
     いい換えるなら、物語を「正義」を伝えるための「方法」として使っている。だから、山本さんの物語はたいして面白くならない。「虚無」と直面していないのです。
     わかってもらえるでしょうか? 先の『ヤマト』や『ガンダム』を巡る論争で、「『ガンダム』や『銀英伝』を読んで政治や戦争をわかったと思っている人たち」を批判的に語る意見をいくつか見かけました。たとえば、このような意見です。

    僕はガンダムに戦争賛美は感じないのですが、賛美ととらえてしまう人もいるだろうとは思う。
    昨今にわか軍オタがガンダムや銀英伝で覚えたような知識ひけらかすのを見ると、この手の戦争もの作品の功罪を考えざるを得ないよな……
    https://twitter.com/marukashi/status/1145190942598520832

     しかし、ぼくにいわせれば「知識」の習得に役立たないことは『ガンダム』や『銀英伝』の「罪」ではない。そもそもエンターテインメントは知識の習得のためにあるわけでも、道徳教育のためにあるわけでもないからです。
     いくら戦争や政治について最先端の正確な知識を盛り込んでいても、つまらないものはつまらない。その反対でも面白いものは面白い。そして、どんな「偉い」、「正しい」イデオロギーをテーマにしていても、ダメなものはダメなのです。
     つまり、つまらない平和祈念アニメより、面白い戦争賛美アニメのほうがエンターテインメントとしての価値は上だということ。
     それは平和祈念より戦争賛美のほうが正しいからではなく、そもそも「どんな思想が正しいか?」ということとエンターテインメントの魅力はべつの次元にあるからです。
     もっとも、この世で自分の信じる「思想」なり「正義」が最も大切なものだと信じてやまない人たちはいる。大勢いる。そういう人は本質的にエンターテインメントの消費者に向きません。
     だから、そういう人はエンターテインメントを語るときにも、必ず「政治」を持ち出す。現実社会をどう運営するかという「政治」がこの世でいちばん大切なことだと信じているからです。
     ぼくにいわせればそれは人間にとっての「普遍的な価値」を奉じる幻想にしか過ぎない。まさに、山本さんがそうであるように、ですね。
     そういう幻想を信じる人たちは、そもそもエンターテインメントなんて大して好きでもないのでしょう。現実が大好きで、「いかに現実社会の役に立つか」が最も大切なことだと自明視している。
     でも、ぼくの価値観は逆です。「役に立たないものほど面白い」。社会の実利に還元不可能であるものこそ価値がある。その意味で、一見すると政治や軍事にかぶれているように見える田中芳樹も「こちら側」の人だし、司馬遼太郎なども実は「こちら側」の人だと思うのです。
     かれらはたしかに虚無に直面している。だから、『銀英伝』の政治理念がどうとか、司馬史観がどうとか、どうでもいいじゃん!と思うわけ。それよりロイエンタールが、土方歳三が悲劇的にカッコ良く描かれているということのほうがよほど大切だとぼくは思う。
     それを幼稚だという人もいるでしょう。ですが、ぼくから見れば、「ただ面白いこと」、「ただ綺麗であること」以上の価値はありません。
     少なくとも、政治について正確な知識が得られるとか、子供たちを平和教育に洗脳できるなんてことがエンターテインメントの真の価値だとは思わないということです。
     その意味で、『ガンダム』や『銀英伝』はやっぱり傑作だし、上述の『Fate』はなかなかいい線を行っていると思います。
     とまあ、これに関連するような話を今度の夏のイベントでは話そうと思っているので、良ければご参加ください。近々、参加者を募集します。
     でわでわ。
     以上! 
  • 栗本薫作品の魅力とはつまりどこにあるのか?

    2019-07-08 11:08  
    50pt
     はいどーも、キズナアイ――じゃない、海燕です。先ほど、ペトロニウスさんと電話で話していたんですけれど、編集作業ちうの同人誌『栗本薫カレイドスコープ』の話題になりました。
     この本、ペトロニウスさんにもご寄稿いただく予定なのですが、「それでは、栗本作品の魅力とは何か?」と話しあったとき、ぼくは「作中人物に天罰を下したりしないこと」と答えました。
     いい換えるなら、「登場人物を善悪でジャッジしないこと」ということもできます。
     栗本薫は、作中で「悪人」を裁くということをしません。どのような残忍な所業の人間であっても、あるいは怪物、化け物の類であるとしても、自ら、生存競争の戦いに敗れ去らない限り、無理やりに物語から退場させられることはないのです。
     これがどういうことかわかるでしょうか? 栗本薫の世界に勧善懲悪は存在しないということです。そこにあるものは、完全なるリアリズムだけです。
     弱いものは敗れ、強いものが生き残る。そういう、どうしようもない過酷、苛烈な「パワーゲーム」を彼女は好んで描きます。暴力が渦巻く修羅の螺旋――その果てに、「それでもなお」、人間は愛と平等をつかみ取ることができるかということがテーマとなっているわけです。
     優しいといえば優しいし、きびしいといえば、この上なくきびしい。そのフェアな態度が最も象徴的に表れているのが、〈グイン・サーガ〉の一巻、『闇の中の怨霊』のいち場面です。
     この巻で、策士アリストートスは、何の罪もない無垢な少年リーロを無残にも殺害してしまいます。そして、あろうことか、天地に自分の無実を宣言します。それでは、その結果、何が起こったか? じつは、何も起こりはしないのです。

     天が裂け、地がまっぷたつに割れてかれのみにくいからだを飲み込むことも起こりはしなかった。
     また、うらみをのんだ小さな亡霊があらわれて、血だらけの指で誰かを指差してみせるようなことも。
     さんさんと陽光は床にふりそそぎ、アリの青ざめた醜い顔を照らしていたが――神々の怒りのいかづちがとどろいて世界を闇にとざすこともなく、また空にあらわれた炎の指が宿命の神宣を告げる文字を昏い空に描いてみせることもなかった。
     ただ、人々がしんとなって、この情景を見つめていただけのことであった。

     この後の巻でアリストートスは死ぬことになりますが、それは単にパワーゲームに敗れただけであって、作者が自ら裁いたわけではありません。
     これがつまり、「天罰を下さない」、「善悪でジャッジしない」ということです。どれほど残忍な悪行を為そうとも、それだからといって「悪」と認定されて物語から追放されることがないということ。
     したがって、栗本作品ではしばしば必然として強者が弱者を踏みにじり、食い物にすることになります。「それが現実だ」と彼女はみなすのです。そして、そのなかでいかに弱い人々が生き、死んでいくのかを描写する。そこがたまらなく好きですね。
     一方、非常に象徴的なことですが、たとえば山本弘さんなどは明確に「天罰」を下します。何しろ、本人がそう書いている。『神は沈黙せず』という小説のなかに、加古沢という「悪役」が登場するのですが、この人物を山本さんは物語の外の「作者の倫理」で裁き、殺しています。
     そのことを、かれはこのように語っています。

     僕は悪役としての加古沢に愛着を抱いていた。同時に、彼がのうのうと生き延びることは絶対許せなかった。現実世界では、悪が罰せられないことがあまりにも多い。しかし、せめて自分の創造した世界の中だけは、悪が滅び、主人公の苦闘が報われるものにしたかった。この世界ではどうだろうと、フィクションの世界では、神は正義を行なうべきであると。
    (『出エジプト記』において、神がエジプト王の心を操りながら、同時にエジプト人に罰を与えたことも、神とは作者のことだと考えれば矛盾はない。現代の小説においても、作者は悪を操りつつ、悪を許さないものである)
     もちろん、加古沢を滅ぼす自然な手段は他にもあった。たえば優歌に彼を殺させることもできた。しかし、それは正しくない、と僕は感じた。それではプロットとしては筋が通っていても、何かが決定的に間違っている。そこには「真の神」が介在する余地がない。
     だから、作家としてのタブーを破り、加古沢には自ら手を下すべきであると決心した。
    http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/kamiwaatogaki.htm

     これが山本弘なんだよなあ、と思います。山本さんは「フィクションの世界では、神は正義を行なうべきである」と本気で信じている。
     これは山本さんの信念なのでしょうが、ぼくから見ると、きわめてアンフェアな態度に思える。まあ、もちろん、山本さんの「正義」を評価する人もそれはそれでいるでしょうが、ぼくはいやですね。
     もっとも、「フィクションは正義や倫理を表すものであるべきだ」と信じている人は、ひとり山本弘だけではなく、大勢います。そういう人たちにとって、フィクションは自分の奉じる正義を表現するためのひとつの手段であるに過ぎないのかもしれません。
     これが、つまりぼくが栗本薫の作品を好きな理由であり、山本弘の作品を好んで読みながらも、ときにうんざりしてしまう理由でもあります。
     山本さんには「正義が正義である世界」という短編もあるのですが、この世界を「正義が通用しない、理不尽で狂ったところ」とみなすまでは、栗本薫も山本弘も同じだと思うのです。
     ただ、栗本さんがこの残酷な世界、狂った世界をそれでもあくまでも肯定していこうとするのに対し、山本さんは「そんなことは間違えている!」と否定する。そして、それが正しい立場だと信じている。そこに差がありますね。
     この点、皆さまはどのようにお考えでしょうか? 『栗本薫カレイドスコープ』、よろしくお願いします。