• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 33件
  • プロブロガーイケダハヤトに見る「炎上の作法」。

    2014-03-31 20:39  
    53pt


     イケダハヤトさんの『なぜ僕は「炎上」を恐れないのか ~年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術~』を読みました。
     駅前のジュンク堂までわざわざ買いに行ったんだけれど、よく考えてみれば当然、電子書籍が出ているよね……。しまった。Kindleで買うべきだった。まあいいや。
     どういう内容かと云うと、まあ、タイトル通りの話です。テーマは「炎上」。ひょっとしたら日本一炎上しているかもしれないプロブロガーであるところの著者が、「なぜ、炎上を恐れず挑発的な記事を書きつづけるのか」を語った一冊。
     その内容をひと言で表すと、「空気なんて読むな! 炎上を恐れず自分が考えたことを発信しつづけよう」に尽きます。このひと言を心から得心できているなら、この本は読む必要がないんじゃないかな。
     しかしまあ、いかにインターネット時代といえども、大半のひとは「炎上」とは無縁の人生を送っているはず。とにかくやたら炎上させまくって悪口を云われまくっている(ように見える)イケダハヤトさんのお言葉に耳を済ませてみるのも悪くないのでは?
     まあ、内容的には自慢話とも自己正当化とも受け取れるものが延々と続くので、ひとによってはただそれだけのものだと云って切って捨てるでしょう。
     でも、ぼくは自慢話を聞くのは嫌いじゃないし、「しょせん自己正当化に過ぎない」とか「自己正当化だからダメ」といった意見にはそれほど価値を見いだせません。
     じゃあ、あなたは自分の意見は正当じゃないと思っているんですか、という話ですよね。もし正当だと信じているなら、そのひと自身も自己正当化していることになるし、そうじゃないなら自分は正当だと思っていないくせにひとを非難するってどうよ?となる。
     つまりは「自己正当化しやがって」とは、あまり意味がある批判ではないと思うのです。よりまっとうな批判としては「あなたの発言内容は正当ではない」と云うべきであって、「自己正当化」そのものを問題視するのは違うんじゃないかな。
     それはつまり自分が正当だと信じていることを主張することそのもの自体が問題だ、と云っているに等しい。少々露悪的な表現を選ぶなら「自分が正しいと思っているなんてバカじゃないの」というたぐいの云い方です。まあ、いかにも日本人的な発想ではありますけれどね。
     話が逸れた。自身を日本でトップクラスのポジションにいるブロガーと位置づけるイケダハヤトさんは、どうすればその地位にたどり着くことができるかをつらつらと解説しています。
     といっても、具体的なブログ執筆の戦略はここには書かれていない。そのかわり縷々綴られるのは、いわば精神論です。
     イケダさんは、ブログやその他の分野において、トップに至るために何より大切なものは「情熱」であると語っています。何であれひとに差をつけるためにはかれらに増して圧倒的に時間をかけることが必要なのであって、そのためには情熱が欠かせないのだと。
     イケダさんはブログにも絶対的な時間をかけているそうです。わりに頑張っている日でも1日3時間程度しか書かないぼくとしては耳が痛い話です(インプットの時間を入れるともっと長い間「働いている」ことになりますが。でも、いくらぼくが厚顔でも、萌え漫画読んでいる時間を労働時間に入れられないわー)。
     で、でも、大切なのは時間だけじゃないと思うよっ。いやまあ、見ていればわかると思いますが、ぼく、あまり情熱がない人間なんだよね。
     徹底的に気分屋なので、安定して更新しつづけるということができない。いや、ほんとうはできるんだろうけれど、あまりその必要性を感じていないというか……。
     このブロマガ、平均してみれば1日に2,3本は更新している計算になるのですが、1日7、8本も更新される日もあれば、「0」の日もあるのは御存知の通り。
     いやー、プロフェッショナルとしてあるまじき話ですね。毎日必ず3本ずつ更新していたら、会員数はいまの倍くらいは行っていたと思う。無理だけれど。
     それにしてもネットだけで年収500万円稼いでいるというイケダさんの技術は驚異的なものがあります。この話を聞いて「それくらいおれだって稼げる」と思うひともいるかもしれませんが、おそらく無理です。
     まあ、絶対に無謀とは云わないけれど、ネットでお金を稼ぐことは、やってみるとわかりますが、相当大変ですよ。それこそ過激な内容であおって炎上を誘えばすぐに会員が増えると思っているひともいるだろうけれど、いや、それ、無理だから。
     特にメルマガみたいな会員制システムではまず無理。仮にそれで会員を増やすことができたとしても、すぐにやめていきますからね。だれもそういう価値がない情報にお金を払いつづけたりしないのです。
     イケダさんはアフィリエイトで収入を得ているようだけれど、 
  • 仮想現実の未来がやって来る。

    2014-03-31 12:12  
    53pt



     既に遅すぎるニュースですが、Facebookがヴァーチャル・リアリティヘッドセットのOculusを約2000億円で買収したそうです。 http://japanese.engadget.com/2014/03/25/facebook-vr-oculus-2000/
     このVRヘッドセットは非常な高品質で知られていて、それをFacebookが買収したということは注目ですね。
     SONYもプレイステーション4の世界を拡大するVRヘッドセット「Project Morpheus」を開発中ということで、いよいよ仮想現実の時代がやって来ようとしているように思えます。
    http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20140319_morpheus.html
     Googleの拡張現実メガネなんかも含めて考えると、あと5年くらいで「現実」の意味するものが劇的に変わるかもしれません。人類は新しい時代を迎えようとしているのかなあ、と思います。
     もちろん、仮想現実という技術そのものは何十年も前から存在していて、「ヴァーチャル・リアリティ」という言葉は決して目新しくはありません。ただ、それがあたりまえの技術として市井に広まってくるとなると、やはり世界は変わるのでしょう。
     10年後にはだれもスマートフォンをいじっているひとなんていなくなっているかもしれませんね。楽しみ楽しみ。
     さて、仮想現実という技術は映画『マトリックス』が象徴的に表現しているように、ディストピア幻想と結びついているところがあります。
     つまり、人類全体が仮想現実のゲームやセックスに耽溺してしまって、現実と向き合わなくなるのではないか、という予想があるわけです。
     ぼくは『マトリックス』三部作を最初の作品しか見ていませんが、とにかくそこで描かれていたのは、その種の「仮想現実ディストピア」の究極的に突き詰められた姿だったように思います。
     そこには、「現実から目を逸らすこと」に対する、倫理的な問題意識が横たわっているのかもしれません。果たして、現実の歴史もそのような道に進んでいくのでしょうか?  
  • 『風立ちぬ』問題。あるいは『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』は蛇足だったのか。

    2014-03-31 11:44  
    53pt


     昔、「『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。」と題して、以下のような内容の記事を書きました。

     ああ、長い夜だった。というわけで、昨日の夜、かんでさんとLDさんで「物語」の問題について話しあったわけですよ。予想外に盛りあがり、また収穫のある内容となったので、この日記で報告しておきたいと思います。
     そもそもの発端はかんでさんの『3月のライオン』批判です。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754961239&owner_id=276715
     ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、
    1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。
    2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。
     であったと思います。
     これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。
    「たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。」
     つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。
     で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。
     ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。
     『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。
     しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。
     これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。
     LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
     とはいえ、「世界の真実を比較的そのままに描く物語」というものも存在しえるかもしれません。話のなかでは、それは「芸術」といわれていましたが、ここでは「リアリズム」と呼びたいと思います。
     つまり、俗に「物語」と呼ばれているもののなかには、「世界の真実を比較的歪めずそのままに描くもの=リアリズム」と、「世界の真実をある視点から歪めて読者の共感を誘うもの=物語(エンターテインメント)」が存在するということができます。
     そしてかんでさんは「リアリズム」寄りの立場から、ぼくとLDさんは「物語(エンターテインメント)」よりの立場から話をしました。しかし、もちろん両者とも完全にそれぞれの立場にわかれているわけではありません。ある程度たがいの立場を察し、理解しあうことはできるのです。
     そこで、ぼくは「物語」の「あやうさ」を指摘しました。われわれ日本人には、じっさいにある「物語」に先導され、挙国一致体制で「物語」に殉じた記憶があります。先の大戦がそれです。
     そのとき、「天皇は偉大だ」とか「日本人は優れた民族である」といった「日本人の視点」によって切り取られた「日本の物語」が日本一国を支配したのでした。その物語にともに熱狂しない人間は「非国民」とされ、排斥されました。これこそまさに「物語」がもつあやうさです。
     「物語」はひとを扇動し、熱狂させますが、だからこそひとを非理性的なところへ連れていってしまうのです。「物語」にはひとつの「正義」だけを唯一の正解のように見せてしまう「力」があるのです。
     歪んだレンズを通せば歪んだ世界が見える道理なのですが、その歪んだ世界を真実の世界と錯覚してしまうかもしれないところに「物語」のおそろしさはある。
     しかし、同時に、そうとわかってなお、ぼくやLDさんは「物語」が好きであるわけです。その「歪んだレンズ」に映しだされるふしぎな景色に、それが残酷であり危険であるとしりながらも驚嘆せずにはいられないのです。
     ここらへんは非常に微妙な話になるのですが、世界は「物語」の押し付け合いによってできているという側面があります。たとえばアメリカにはアメリカの「物語」があり、アラブ諸国にはアラブ諸国の「物語」があるように、複数の「視点」があれば複数の「物語」が存在しているものなのです。

     ぼくがここで云いたかったのは、物語、あるいは少なくともエンターテインメントとは人間の認知能力の限界を反映したものだということです。
     もしあらゆる事象をあらゆる側面から同時に知ることができる全知の存在がいるとすれば、かれは物語を必要としないでしょう。ひとは自分の視点からしか世界を見ることができないために、物語を必要とするのです。
     つまり、ひとは神ではなく、物語という娯楽にはその限界が濃厚に反映されているということです。物語とはある視点から世界を切り取り、その視点に感情移入させ、感情を高揚させる方法論です。
     これはあきらかにアジテーションの方法論であって、倫理的に考えるならあきらかに問題があります。
     じっさい、さまざまなエンターテインメントは過去、集団を動員するためのアジテーションとして利用されてきた。いまでもハリウッドや中国あたりの映画などは、右寄りにせよ左寄りにせよ、製作者の政治思想を主張するために利用されている一面があるでしょう。
     つまりは物語の性質上、「比較的中立」の作品はありえるかもしれないにせよ、「完全に中立」なものでは決してありえないのです。
     まして、エンターテインメントとは、いかにひとを熱狂的に一方向に駆動させるかで評価が分かれる表現です。
     あるエンターテインメント作品が「面白い」とは、ひとをより感情的にさせ、理性的判断を麻痺させているに等しい、と云ったら、乱暴な断言と云われるでしょうか。しかし、そういう一面はあるはず。ただインテリジェントなだけでは、十分に面白いエンターテインメントとは云えない。
     そのように考えていくと、LDさんの云う「エンターテインメントの残酷さ」の正体がわかって来ます。あえて云うなら、エンターテインメントとは、人類の倫理的欠陥を象徴するものなのです。
     人間は本質的には倫理的にできていない。エンターテインメントについて考えていくと、その事実が浮き彫りになる気がします。
     どういうことか。ここで思い返してもらいたいのは「差別」の問題です。究極的な倫理を考えるなら、一切のひとを差別することなく平等に扱うことが「倫理的に正しい」ことでしょう。
     しかし、それは人間にはできないのですね。自分の視点から見て、より親しいひとにはより共感を覚え、より遠いひとにはあいまいな感情しか感じない――それが人間の当然の実相です。
     たとえば、ぼくたちの多くは家族が亡くなったら哀しみを感じる。その一方で、遠いアフリカの地の子供たちの死には何の痛痒も感じない。これは差別ではないでしょうか? ぼくは差別だと思う。
     ぼくが「ひとが差別から無縁ではいられない」と云うのは、そういう意味です。もしぼくたちがアフリカの子供たちに自分の家族と同程度の共感を得られるなら、アフリカの問題は既に解決されているかもしれません。その問題とはぼくたちの差別心が表面化した問題と云えなくもないわけです。
     それがあまりにも極端な例だと思われるのなら、べつの例を挙げましょう。ぼくたち日本人は3月11日になると、東日本大震災の犠牲者たちについて思いを馳せます。
     もちろんひとによって程度は違うでしょうが、ある程度は何かしらのことを考えるというひとが大勢を占めるのではないでしょうか。
     もし、「東日本大震災の犠牲者? しょせん他人ごとだからおれは知らないよ」と云ったら、「なんてひどい奴だ!」とバッシングされることは間違いないでしょう。
     ですが、考えてみれば、世界中至るところで悲劇は常時起きているわけです。なぜ、東日本大震災の死者のことは悼むのに、スマトラ沖地震の犠牲者のことは悼まないのか? ニュージーランドの地震の死者はいいのか?
     こう考えていくと、結局、ぼくたちは「日本人」と「外国人」で線を引き、差別しているという事実に気づかざるをえない。
     かつてTHE YELLOW MONKEYは「乗客に日本人はいませんでした」というフレーズに非難のトーンを込めて歌いましたが、じっさい、大半の日本人にとって、「同じ日本人」の動向のほうが、遠い外国の悲劇より、ずっと興味をそそられるものであるに違いありません。
     逆に云えば、遠い外国で起こっている限り、どんな悲惨な、残酷な、悪夢のような事件も、「大変だねえ」と他人ごとのように云ってスルーできるということ。これが差別でなくて何でしょう。
     倫理的に考えればあきらかに正しくない態度です。しかし――そう、それでは、ひとが取りうる最も倫理的な態度とはどういうものかと云えば、常に、世界中のあらゆる死者のことを嘆いていかなければならない、ということになりますよね。
     「世界にひとりでも不幸なものがいるかぎり、自分も幸せではない」という、ある意味で仏教的とも云える態度ということになるでしょう。これは宮沢賢治や金子みすゞの態度です。
     かれらはその天才的とも云える共感能力によって、ありとあらゆる存在の苦悩を感じ取ることができました。それが人間はおろか、あらゆる生物や、無生物にすら及ぶことはご存知のとおり。
     しかし、それはひととして不可能な態度と云うしかない。じっさい、金子みすゞなどは26歳にして自殺して亡くなりました。
     そのように突き詰めて考えていくと、物語というかエンターテインメントそのものが、人間の非倫理性を反映した「倫理的に正しくない」ものなのではないかというところに行き着かざるを得ません。
     さらにその考え方を先鋭化させていくと、最終的には「人間否定」に行き着きます。人間の不完全さそのものが戦争や差別やあらゆる問題の根源である、というのですね。
     この境地に到達した作家として、ぼくが思い浮かぶのが山本弘です。かれの最高傑作とされる(自分でそう云っていた)『アイの物語』は、人間に対する絶望に満ちています。
     この物語で描かれるのは、人類の衰退と、マシン(自立型ロボット)との世代交代です。ここで山本さんは、人間の愛の不完全さ、その差別性を俎上に上げ、それを超越した「完全な愛」を持った存在としてマシンを登場させています。少なくともぼくはそう解釈しました。
     ひとは上記のような理由で差別的にしかだれかを愛することができませんが、マシンは非差別的に愛することができるということのです。
     その愛が具体的にどのようなものなのか、それは作中で描かれていないので、よくわからないのですが、とにかく山本さんは「そういう愛は、人間には不可能だが、理論的には存在しえる」という立場に立っているようです。ぼくは理論的にも不可能だと思うのだけれど……。
     ともかく、長年、生まじめに人間の愚かしさと向き合ってきた山本さんが、このような「人間否定」の境地にたどり着いたことはよくわかります。
     この物語の結末において、人類は衰退し、最終的には滅亡していくであろうことが示唆されています。ぼくは山本さんは「愚かしい人間より、機械のほうが優れている」と云っているのだと解釈するしかありませんでした。何という絶望でしょうか。
     『ヴィンランド・サガ』でも、覇王クヌートはひとの愛が差別でしかありえないことを嘆いていましたが、まさに同じ理由で、山本弘は人間存在を否定するのです。
     「アイの物語」というタイトルもそう考えるとなかなか趣深い。結局のところ、物語とは愛であり、愛とは物語なのではないでしょうか? 愛も物語も、ともに神ならぬ人間存在の限界を示す概念であり、そして「人間らしさ」そのものです。
     だから、「物語とはある視点から世界を限定的に切り取るものであり、人間の差別精神そのものである」ということが云えると思うわけです。
     それでは、どうすればいいのか。開きなおって「物語は初めからそういうものなのだから、一切、政治的な配力はしなくても良い」と云ってしまうのか。
     しかし、そこまで割り切れるひとはなかなかいない。そこで、作中にエクスキューズを仕込むという手が良く使われます。
     たとえば、アメリカの正義を訴える戦争映画のなかに、「戦争の悲惨さ」の描写を入れておく。そうすると、「ああ、この映画は戦争の悲惨さを訴える視点をちゃんと確保しているのだな。決して戦争を礼賛した映画ではないのだな」と視聴者は安心し、よりシンプルに映画に入り込むことができる。
     つまりは、作品に複数の視点を用意することによって、ひとつの視点からのみ描き込まれることのヤバさを軽減させているのです。
     そういうエクスキューズのある作品が物語として上等である、という考え方はあるでしょう。たとえば、戦争反対の思想を織り込んだ戦争映画は上等だが、「戦争最高! アメリカ万歳! ヒャッハー!」というだけの作品は下等である、と。
     ある意味では納得できる考え方です。物語をそのテーマ性によって判断しているわけですね。しかし、それってくだらなくないか?ともぼくは思うのです。
     そもそも、テーマによって映画の良し悪しが測られるなら、初めから映画など作る意味がない。そのテーマだけを語っていれば良い。少なくともエンターテインメントを志すならそういうことになります。
     どう云いつくろおうと、エンターテインメントの醍醐味は観客の感情を昂らせるところにあるのだから、その「エンターテインメントとしての強度」を無視してテーマ性だけを語ることは本末転倒であるように思える。
     これはたとえば「反原発の思想にもとづいているから良いメッセージソングだ」といった価値観にもひそむ矛盾です。どんなに正しい、偉い思想にもとづいていても、くだらない曲はくだらない。そうではありませんか?
     つまりは、ぼくは思想は思想、エンターテインメントとしての強度は強度で分けて考えるべきだと思うのです。もっとも、ここらへんはむずかしい。それなら、エンターテインメントとしての強度があれば、どんなに思想的に歪んだ作品でも受け容れられるかというと、たしかに悩んでしまう一面はあります。
     ぼくは受け容れられると思うのだけれど、無条件にそうか、と云われると必ずしもそうは云えないかもしれない。悩ましいところですね。
     最近の作品で、巧みなエクスキューズを用意したことで好評を得た作品と云うと、『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版が思い浮かびます。この映画は、テレビシリーズにおいては残されていたある倫理的問題にみごとにエクスキューズを付けました。
     即ち、「まどかの行為の暴力性に対し、製作者サイドは無自覚なのではないか?」という批判に対し、「ちゃんと自覚しているよ」と答えてみせたわけです。
     作中、暁美ほむらはある意味で非倫理的な、邪悪と云ってもいい行動に出ますが、それはあきらかな「悪」として描写されているため、視聴者は不安になりません。ここに倫理的問題は存在しない、悪は悪として描かれている、というふうに考えるのです。
     しかし、ある意味で、この映画そのものが単なるエクスキューズに過ぎなかった、蛇足である、という意見は成り立つでしょう(ペトロニウスさんあたりはこの立場に立つのかも)。
     なぜ、いちいち「倫理的いい訳」を用意しなければならないのか? 口うるさい視聴者から「より倫理的に正しい」と認めてもらうことがそんなに大切なのか? ぼくとしてはそう考えなくもない。
     近頃、その倫理的問題がクローズアップされた作品に、宮﨑駿監督の『風立ちぬ』があります。『風立ちぬ』は、 
  • ニコ生告知。

    2014-03-30 20:53  
    53pt
    21時からてれびんとふたりでニコ生をやる予定です。川上さんと逢ったときの話とかするかも。http://live.nicovideo.jp/watch/lv174419508
  • ぼくは「ちゃんとした大人」になりたい。

    2014-03-30 10:24  
    53pt
    (初めに書いておくと、この記事は海燕の個人的な「日記」なので、海燕に特別に興味があるという奇矯な読者以外読む必要がない記事です。そういう一部の特殊な例外的な読者さん以外は読み飛ばしてくださいませ。)
     うにー。最近、マジメに考えて記事を書いているから疲れるにゃー。いやまあ、重要なのは量より質であって、1日に何本も書いたから偉いというものでもないよ、という意見はまともにごもっともなのですが、質を確保するために量を必要とする一面もあるよね。
     なぜ急にやる気を出してたくさん記事を書き始めたかと云えば――なぜだろう? やはり川上さんと逢って話をして来たことが大いに影響してはいるのでしょうが、実は変化はそれ以前から始まっていていました。
     どこがターニング・ポイントだったかと云うと、『嫌われる勇気』を読んだところですね。それはぼくにとってまさに衝撃的な「事件」でした。
     じっさいには『嫌われる勇気』そのものに偉大な効果があったというより、それまで蓄積していた経験値のおかげでレベルアップの機会を得た、というほうが正しいとは思います。
     何十年もかけて少しずつ成長してきたものが、大きな変化のきっかけを得て爆発した、というか。そういうわけで、信じてはもらえないかもしれませんが、いまのぼくは過去のぼくとはまったく違います。
     それはもう、劇的な違いがある。20年にもわたってぼくのなかに燃えていた「怒りのほむら」は、もうぼくを焼きはしません。どうしようもないかと思っていた劣等感や自傷的な意識もほとんどは消えてなくなりました。
     つくづく、ひとは変わるものなのだなあ、と思います。それは何かひとつの原因に還元できるものではなく、ひたすら地味に成熟しつづけてきたその結果なのだと考えます。
     ぼくは変わった。しかし、おそらくインターネットを見ていてもその違いはよくわからないでしょう。直接逢ってもわからないかもしれない。いや、わかるかな。服装が変わったから。
     以前のぼくだったら首に布巻こうとか思わなかったに違いない。ユニクロの780円だけれど(笑)。最近のぼくは似非リア充野郎と化しています。おかしなものです。
     かつて、ぼくは「ひとりの傍観者」であることを良しとし、その立場からなるべく世界に良い影響を与えたいと思っていました。しかし、いま、ぼくは「自分という物語の主人公」であることをひき受けたいと考えています。
     いや、自分のなかではほんとうに大きな変化なんですけれど、端から見ていると「また云っている」かもしれないなあ。でも、ほんとうに一段階レベルアップした実感はあります。何より感情のアップダウンがゆるやかになった。
     まあ、お前の内面になんか興味はないから、もっとコンテンツを紹介しろ、というひとも多いだろうけれど、もうしばらく話させてください。
     ぼくの人間としての目標は「ちゃんとした大人になる」ことです。それは経済的なこともそうですが、何より人間的に自立することですね。
     以前はそれはあまりにも遠い目標であるように思われていましたが、いまはだいたい七合目くらいまで来た気がします。あと、1年、2年というところかなあ。そのあたりが最後の勝負になってくるはず。
     いちばん辛いところは乗り越えたという実感があります。そのときはもう、七転八倒して苦しみましたが……。でも、いまはその苦闘にも意味があったのだと考えることができる。すべては無意味ではなかった。
     当面の目標は「大人になる」ということ。おそらく 
  • 「ちゃんとしたオタク」と「キモチワルいオタク」の落差。

    2014-03-30 04:58  
    53pt
     まだ書き足りないので、先ほどの記事と同じテーマでもう一本書いてみます。少々異なる角度から語ることになりますが、同じことを云っているのだということが、わかるひとにはわかるはずです。
     以前にも言及したことがあるかもしれませんが、栗本薫に「コギト」と題する短編があります。まったく有名な作品ではありませんが、ぼくはこの話がしみじみと好きです。
     それはある日突然、「自分ひとりだけの世界」に行ってしまった女の子の話で、彼女がその「自分ひとりだけの世界」で、ああでもないこうでもないと延々と思考を巡らすさまがひたすらに一人称で描かれます。
     そして最後だけ三人称になり、「その外の世界」を描写して終わるのです。タイトルの「コギト」とは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」から採られています。
     つまり、これもまたわかるひとにはわかることに、この小説は「唯我論の地獄」、即ち「すべてが自分に回収されるナルシシズムの檻」の辛さ、苦しさを描いているのです。
     自分ひとりだけしかいない宇宙。「他者」が存在しない世界。それは荒唐無稽な妄想のようですが、しかし、病んだ現代社会においては、ひとはどうしてもこのような生き方を強いられることになりがちです。
     ほんとうの意味で「他者」と触れ合うことをせず、ただ自分の頭の中だけですべてを完結させて、ぐるぐると想像だけを強化していく、そういう地獄。
     その「檻」からいかに脱出し、「健康な自我」を獲得するかということが、ぼくがずっと考えているテーマです。
     さて、世の中には「オタク」というひとたちがいます。このオタクというあり方も、見ようによってはある種のナルシシズムの表れと見ることができるでしょう。
     何しろ、かれら(ぼくら)は現実を見ない。延々と「自分だけの妄想の世界」を楽しみ、そこに耽溺し、「他者」とのコミュニケーションを遮断しているように思えます。
     じっさい、そういうオタクは大勢いるようにも見える。しかし、ぼくは必ずしもオタクが「自分ひとりだけの宇宙」に閉じこもっているとは思わないんだな。
     オタクでありながら「世界という名のコミュニケーションのネットワーク」に接続し、健康でありつづけることはできる。何であれ「自分が好きなもの」を通して、常に現実世界と接触しつづけることは可能であるわけです。
     『すべてはモテるためである』の二村ヒトシの言葉に従うなら、オタクであることそのものはキモチワルくはない。ただ、オタクをこじらせていることがキモチワルいのだということになる。
     オタクをこじらせるとはどういうことか。それはつまり、どちらがより偉いかを競う権力闘争にハマったり、ほんとうは軽蔑してる「仲間」と傷を舐めあったり、異性を蔑視して束の間の優越感にひたったりすることです。
     そう、いま思えば、『新世紀エヴァンゲリオン』で庵野秀明が批判していたのは、オタクそのものというよりは、この「オタクをこじらせたキモチワルいひとたち」のことだったのだろうと思います。
     そして、ぼくもまた、いまはその批判に共感します。繰り返しますが、オタクであることそれ自体はキモチワルくはないのです。
     いや、もちろん、オタクであることそのものがキモチワルいのだ、というひとはいますが、そういうひとはじっさいに「あるひと個人」を見ているというよりは、「自分の頭のなかのイメージ」を見ているに過ぎないから、無視してかまわない。ようするにそのひと自身がナルシシズムにハマっているわけなのですから。
     「オタクであること」はそれ自体は、「何か熱中できる好きなこと」があるということですから、ポジティヴなことです。しかし、「ちゃんとできない(不健康である)」オタクは、たしかにキモチワルいのです。
     くり返しますが、言葉の表面的な過激さに惑わされないでください。『すべてはモテるためである』から引用しましょう。

     あなたがオタクでありながら、オタク仲間とうわっつらでヘラヘラ【濃い冗談】とやらで笑いあいながら、心の底ではお互いを憎んだり嫌いあったりしてるのは、だからなんですね。類は友を呼ぶんです。そういうあなたたちを見て一般の人は「オタクってキモチワルい」と思うんです。お互いウンザリしあいながら酒呑んでヘラヘラしあってる「ちゃんとしてない一般人」のキモチワルさと、じつはよく似ているんですけどね。そのままだと、あなたは、いつまでたっても【ちゃんとしたオタク】にはなれないし【ちゃんとしたオタク】と友だちにもなれません。

     この場合の「ちゃんとしている」ということは、つまり「健康である」ということだとぼくは思います。もちろん、肉体ではなく、精神が健康であるということです。
     この社会においては、ひとは簡単に「エラソー」だったり「バカ」だったりする「キモチワルいひと」になってしまいます。「キモチワルいオタク」もまた、そのバリエーションのひとつです。
     二村さんが書いているように、それはじっさい、「キモチワルい一般人」の似姿であるに過ぎません。極端にオヤジ的だったりする態度を好むオタクのひとっていますよね。あれはある意味では自然なことなのです。
     そこから脱して「ちゃんとしたオタク」になることは、つまりは「ナルシシズムの檻」から脱出することと同じことです。ぼくはいま相当に「キモチワルい」自分を見つめ、「ちゃんとしたひと」になりたいと思う。
     『新世紀エヴァンゲリオン』では、 
  • 優しいひとの触わり方。セックスという究極のコミュニケーションについて。

    2014-03-30 04:04  
    53pt


     どうして朝にはたくさんあった時間がその日の夜にはなくなっているのだろう。わけがわからないよ。
     いや、こいつは暇だと云ってみたり、忙しいと云ってみたり、どっちなんだと思っておられる方もいらっしゃるかと思いますが、実は両方なのです。
     というのも、ぼくは基本的にはひきこもりのダメ人間なので、暇を持て余しているはずなのですけれど、マジメに記事を書こうと思うと途端に時間がなくなるんですよねー。
     もちろん、ただ書くだけならそれほど時間は取られないのだけれど、本を読んだり映画を観たりして資料をインプットするためには時間を取られるわけなのです。
     一見すると遊んでいるようにしか見えないし、じっさい遊んでいるだけなんだけれど、それでも時間がなくなることはたしか。労働時間そのものは1日30分から2時間だけでも、インプットの時間が必要なんだよね。
     ただ、てれびんあたりがきちんとスケジューリングして行動しているのを見ているとぼくの時間の使い方は非合理的だなあ、と思います。
     余談ですが、ぼくは基本的に年下年上かかわらず、ひとのことは「さん付け」して「あなた」と呼ぶのだけれど、てれびんだけは「呼び捨て」で「お前」です。てれびんはぼくの対人関係のルールを破壊しやがった恐ろしい奴なのです。
     ひと呼んで宇宙生物てれびん。ぼくは奴に散々世話になっているので云いたくはないですが、世の中には変わった人間がいるなあ、と感じますね。ぼくは普通だ。
     さて、きょうの「ベーシックレビュー」は花房観音『女坂』です。花房観音さんの作品は、以前、『花祀り』を紹介したことがあります。
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar24344
     これはね、ぼく的にとても面白い作品でした。つまりはエロい上にもエロい官能小説をずっと書いてきているひとで、『女坂』もその系譜の作品です。
     女の情念どろどろのエロティックな物語に仕上がっています。ぼくもとことんこの手のどろどろ系のお話が好きですね。
     オタク的な滅菌された物語とは180度対照的な作品ではありますが、でも、ぼくはどちらかというと「こちら側」の人間なのだと思う。いくら清く正しいオタク生活を送っていても、じっさいには情念系の人間なんだよなあ。どういうわけか。
     まあとにかくエロスな物語は好きです。エロティシズムとはつまり「ひととひとが触れ合うことの官能」のことなのですね。そしてセックスとはつまり「ひとの心と体に触れる」ための方法論なのだろうと思う。
     その際、「優しいひとの触わり方」について知らないひとは、ひととに「乱暴に触わって」しまい、相手を傷つける。
     性別ですべてを判断することはできないとはいえ、やはり男性が傷つける側にまわることのほうが多いでしょう。この『女坂』ではそんな男たちのあり方がきびしく断罪されています。
     花房観音とは、どこまで行っても「女」を描く作家なのですね。そこがまた、ぼくは何とも好きです。ぼくは女性のことはよくわからないけれども、だからこそ、そこにはある種のセンス・オブ・ワンダーがあるのだと思うのです。
     それにしても、いつも思うのだけれど、ぼくが書いていることの真意はどの程度のひとに伝わっているのだろうか。
     ぼくが最近ずっと書いていることは、つまりは「この病んだ近代社会においてほんとうに健康であるとはどういうことなのだろうか」というテーマなのですね。
     自然から切り離されて、人工世界ですべてが完結する近代社会においては、「生きている実感」を得ることがむずかしい一面があります。
     自分の頭のなかですべてが完結してしまって、ぐるぐると想像が回るなかで肥大化し、ほんとうの現実を生きることができないという現象が起こるのです。ペトロニウスさんはこれを指して「ナルシシズムの牢獄」とか云ったりしているのだと思うのです。
     その「自分ひとりだけしかいない世界」からいかに脱出し、ほんとうの意味で他者と、世界と関わりあうためにはどうすれば良いのか。そのための方法論のひとつとしてセックスがあるのでしょう。
     セックスとは「ひとがひとに触わる」行為であり、その真実は「体を通して心に触わる」ところにあるのだと思う。自分自身の「心の穴」を開放し、傷つけられるリスクを犯してなお、相手の心と体に触れる行為。
     そこではもう「体」と「心」を二元論的に分けて考える必要はなくなるはず。だから、 
  • あなたがモテないのはキモチワルいからである。あるアダルトビデオ監督による福音。

    2014-03-29 21:15  
    53pt



     二村ヒトシ『すべてはモテるためである』読了。Twitterでオススメされたこの本が超絶面白かった。同じ著者の『恋とセックスで幸せになる秘密』と合わせて読むと、「愛」と「依存」の秘密がすっかりわかってしまうかも。  タイトルだけだとありふれたモテ本のようだけれど、中身は重厚にして辛辣な「哲学書」。軽妙な調子で綴られるのは、「あなたはなぜモテない(愛されない)のか? どうすればモテる(愛される)のか?」という、きわめて深刻なテーマです。
     世の中には、「それは金がないからだ」とか「容姿が悪いからだ」と答えるひともいるわけですが、それはやはり「逃げ」だし、究極的な真実とは思われない。
     そこで二村ヒトシは喝破するわけです。「それはあなたがキモチワルいからです」と。おお、何という辛辣な意見。しかし、やはりそれがほんとうのところではないかと思うんだよなあ。
     それでは、そのキモチワルさの正体とは何なのか。ひと言で云えば、それは倒錯した自意識である、ということになる。ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの牢獄」とかいうアレです。
     ひとりで自意識をこじらせて腐敗させてしまっているひとはキモチワルいというのが二村さんの解答のようです。正直いって、すぐさま否定したくなる意見ではあります。懸命に悩んでいるひとを捕まえてキモチワルいとは何ごとか、と。
     しかしまあ、キモチワルいものはキモチワルいのであって、これはもう、どうしようもない。もちろん、二村さんはひとり高みに立って下界を見下ろし語っているわけではなく、自分自身へのダメ出しとしてこう述べているに違いありません。
     さらに二村さんは云います。キモチワルいひとは「バカ」と「暗い人」に分けられる、と。いやー、ネットに書いたら炎上間違いなしの意見ですね。いいぞ、もっと云っちゃえ。
     この場合の「バカ」とは「そもそも、ものを考えるという習慣がなかったひと」であり、「暗い人」とは、「考えすぎて臆病になって、ちゃんと考えられなくなってしまったひと」のことだと云います。
     どちらにしても、ひとりで自意識を倒錯させていることには違いはない。ようするに「適切に考えること」ができていないわけです。
     たかがモテないだけでこの云われよう、むくむくと反発心が沸き起こってくるのを感じます。でもね、ぼくが我が身を振り返って考えると、やはりどうしても認めざるをえないのです。ああ、やっぱりおれってかなりキモチワルいかも、と。
     この場合、言葉の表面の過激さに惑わされてはいけません。ここで語られていることは、あくまでも「愛するとはどういうことなのか」「愛されるためには、どのような条件を満たせばいいのか」という、いたってシリアスなお話なのです。
     二村ヒトシは自分をごまかすことを赦しません。なぜなら、そういうごまかしはそれ自体がキモチワルいから。もし「モテたい(愛されたい)」という欲望があるのなら、それはなぜそうなのか? 真摯に考えてみるべきだとかれは云いたいようです。
     そういう意味で、本書には「こうすればモテる」といった安易な方法論は何ひとつ出てきません。ひたすらに自分自身の「キモチワルい心のもつれ」をほどく方法が示唆されているだけ。
     そういう意味では、「これを読めばモテる」的なことを期待して読むと失望させられるでしょう。しかし、「ほんとうの意味で他者と向かい合うとはどういうことか?」「どのようにすればひとと正しく触れ合うことができるのか?」を考えているひとにとっては、本書はまさしく福音でしょう。
     べつだん、セックスの話がくわしく書かれているわけではありませんが、「優しくひとに触れる方法」を探しているひとには、この本は強く響くと思います。
     つまりは、モテとは自意識の問題なんですよね。それだけではもちろんないにしろ、それが大きく影響する。
     多くのひとは、「自分はモテない(愛されない)」という現実を前にすると、その理由を正面から問い詰めようとはしません。そこで、現実と正面から向きあってしまうと、いろいろと不都合なことがあるから、問題から逃避する。
     そして、「自分を認めないのは、異性のほうが悪いのだ」というふうに責任転嫁して、自意識をこじらせてしまうわけです。そして、もともとキモチワルいそのひとは、さらになおさらキモチワルくなっていく。
     ここでいう「キモチワルい」とは、ひとい不快な印象を残すということです。だれだって、他人の自意識の倒錯になど付き合いたくありませんから、キモチワルいひとがモテないのは自然なことです。
     しかし、本人にはなかなかその理が見えない。「問題は自分自身の内面にある」というファクトから目を背け、ひたすら「それ以外」のところに原因を求める。
     もちろん、顔が悪いとか、ファッションセンスがダサいといったことが問題であることは往々にしてあると思う。しかし、その問題を性格に把握して、しかるべき手を打てないことが、そもそも自意識に問題がある、ということなのです。
     あ、これはあくまで「モテたい(愛されたい)なら」の話ですよ? ひとに愛されたいとか好かれたいなんて夢にも思ったことがないというのなら、また話は別ですね。
     ようは「好かれたい、愛されたい」と思いながら、そのための適切な行動を取れないということは、どこかで自意識がほつれていたりねじれていたりするということなのです。
     あるいは二村さんが書いたことを読んで激怒するひともいるかもしれませんが、それもそのひとの自意識の問題である可能性が高い。もしただ的を外しているだけの意見だとすれば、それほど怒る必要はないではありませんか?
     そういうわけで、素晴らしい名著です。巻末には慶応大助教授の倫理学者との対話が収録されていて、これも読ませる。実に、実に面白い本で、かなりオススメなのです。
     べつにモテについて興味はないというひとでも、一読してみると得るものはあると思う。今年が終わる頃、年間ベストに連なってくるであろう一冊なのでした。
     それにしても、こういうことを書くひとが、どういうアダルトビデオを作っているのか? わたし、気になります! そこで、『マブダチとレズれ!』というレズビアンものの動画を購入して観てみました。
     数百もの作品のなかからこれを選んだのは、タイトルがエロそうだったからです。それ以外の理由はない。まあ、正直、あまり期待してはいなかった。まあ、AVだしね……。
     ところが、何たることか、これが、実にすばらしかったんですねー。さすがにここでその内容についてここで語ることはしませんが、いやー、なるほど、こういう作品を撮っているのか。
     実に面白い。はっきり云って一見の価値ありです。ぼくは生まれて初めてAVを面白いと思った。まあ、探せばほかにも面白いものはあるんだろうけれどね。
     おそらく(レズビアンものが苦手でないなら)女性にも響く作品であるはずです。というか、むしろ、これは女性のほうが泣ける内容である可能性が高い。
     いやまあ、ぼくは男だからわからないけれど、たぶんそう。これを見た女性の感想を聞いてみたいのだけれど、だれか「観てみてもいいよ」というひとはいないかなあ(チラッ)。
     ひょっとしたらキモチワルいと思うかもしれませんが、とりあえずぼくは感動しました。魂の慰撫と「優しくひとに触れる方法」についての作品だと思います。
     「ひとがひとに触れる」ためには、自分の 
  • 高河ゆんの若き天才時代。

    2014-03-28 11:03  
    53pt


     きょうから「ベーシックレビュー」と題した新コーナーを始めます。具体的にどういうものかというと、ただのあたりまえの作品紹介なのですが、このブログ、案外そういう普通の記事が欠けている気がするんですよね。
     よりディープに作品を深堀りしていくのも良いけれど、もっと浅くて読みやすい記事も必要なはず。あと、じっさい、ぼくは普段読んでいる本の大半をここに取り上げないので、それはもったいないよな、と。
     特に何かしらのコンテクストにのっとった作品じゃなくても、雑談ふうに語っていくことはできるし、それで十分記事になるんじゃないかと思ったしだい。まあ、これもペトロニウスさんの入れ知恵なんですけれどね。
     さて、そういうわけで、ベーシックレビュー、始めます。第一回は『佐藤くんと田中さん』。この漫画、以前にも取り上げた気もするけれど、まあいいや。
     永遠を生きるヴァンパイアの人生を、いまやベテラン作家となった高河ゆんがセンス抜群に描いた作品です。
     云うまでもなく古来、吸血鬼ものは枚挙にいとまがないくらいあるわけですが、さすがは高河ゆんというべきか、一風変わった作品に仕上げることに成功しているように思います。
     というのも、「永遠」を生きるヴァンパイアの佐藤くんの描写が非常にライトなんですよね。永劫を生きる者の者の孤独と哀切が、まったく描かれていないわけではないのだけれど、ごくあっさりと流されている印象。
     いかにも高河ゆんらしいセンスあふれる内容で、いやー、面白い。往年の高河ゆんの天才を忍ばせるものがありますね。けっこうオススメ。
     ちなみに、吸血鬼ものの長く続く歴史については、以下の記事を参考にしてください。まあほんとに参考程度にしかならない記事だけれど、過去ログの海から取り出してきました。
    http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110228/p2
     それにしても、高河ゆんさんって、あまり作品を完結させることができないタイプの作家さんなんですよね。いや、きちんと完結しているものもたくさんあるのだけれど、未完に終わった作品はそれ以上に多い。ぼくは、以前、「高河ゆんの未完伝説。」と題する記事を書きました。
    http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100328/p2
     高河ゆんの漫画で未完に終わったものがいかに多いかということを示した記事なのですが、どうもこの『佐藤くんと田中さん』も未完に終わるのではないかという気がする。そういう意味では、無責任な作家と云えなくもないかなあ。
     代表作である『アーシアン』がきちんと完結したことは喜ぶべきだけれど、もうひとつの代表作『源氏』が未完に終わったのは残念だよな。『源氏』、面白かったんだけれどね。
     個人的には、高河ゆんの作風は妊娠、出産、休養を経て、少年誌や青年誌に舞台を移したあたりからがらっと変わっている印象です。『妖精事件』以後の作品は何かが違う。
     それをまたいで描かれてる『恋愛』と『恋愛 CROWN』を読み比べてみると非常に違いがはっきりしている。まあ、ぼくしか感じない違いなのかもしれませんが、でもぼくはそう感じるのだ。
     ぼくはやっぱりそれ以前の作品が好きなんだけれど、まあ云っても詮なきことではあります。失われた過去は決して取り戻せはしないのだから。
     やはり 
  • ひとには「魂の格差」がある。

    2014-03-27 21:28  
    53pt


     羽海野チカ『3月のライオン』があい変わらず神がかって面白いです。中でも、第10巻に収録されることになるであろう主人公零くんの義母のエピソードは空恐ろしいような完成度でした。
     天才的な棋士であり、なおかつ常に努力を怠らない零くんの義理の母親になった女性の目を通して、「ひたすらに努力しつづけること」に憑かれた人間がいかに特別で、そうでない人間と違うものなのかが綴られています。
     その描写は、残酷です。そこで描かれているものは、「ひとは決して平等ではない」、「まったく同じ外的環境に置かれていてすら、志ある者とそうでない者の間では大きな差が生じてしまう」ということだからです。
     云ってしまえば、ひとには環境の格差以上の内面の格差、もっと云うなら「魂の格差」が存在しているということ。
     その非情な事実を正面から描いているという一点において、このエピソードは『3月のライオン』中の白眉というべき話になっていると思います。
     普段、この物語は、そういう「志ある者」たちだけに焦点を絞って描いているところがあるので、それはさほど特別なことのようには見えません。
     しかし、じっさいに「志なき者」を視野に入れ、かれらと比べてみると、零くんという少年は、ほとんどモンスターのように異質なのです。
     常に、耽溺するように努力しつづける少年と、現実から目をそらし、すべてを他人のせいにして、逃げまわる姉妹。その冷酷なまでの対比には、「魂の格差」というものがいかに大きく、しかも絶対的なものであるかが込められています。
     ひとには、そういうどうしようもない格差があらかじめ組み込まれているのだなあ、とため息をつかざるを得ません。それは環境の格差ではないことはもちろん、才能の格差ですらない。自分の存在そのもののクオリティの差なのです。
     どこまで真摯に自分を追い込み、不確定な可能性に賭けて人間の最大の資産である時間を蕩尽することができるか、というその能力の落差。
     もちろん、その格差も周辺環境に大きく依存するのだということはできる。「インセンティヴ・ディバイド」という言葉があるように、結局は優れた環境に置かれた者ほど高いモチベーションを持って努力することができるものなのであり、すべてが本人の責任ということはできないのだ、と。
     ですが、それなら、より酷烈な環境に置かれていたはずの零くんが逃げず、惑わず、ひたすら自分を鍛え上げ、自立していったことをどう説明するべきでしょう?
     かれよりよほど良い環境に置かれていたはずの義理の姉弟が、より安易な方向に逃れ、自分を偽って好きなように暮らしたことをどのようにいい訳すれば良いのでしょうか? 
     ひとはたしかに環境に影響され、外部要因に支配されるものです。ほんとうに酷烈な環境においては、十分に偉大な才能もついに芽を出すことはできないかもしれない。
     しかし、それでもなお、最後の最後には「すべて自分しだい」であることも事実なんですよね。すべてが「自己責任」であるはずはなくても、同時に何もかも「ほかのだれかが悪い」こともありえない。
     否――仮にそうだとしても、だからといって自分の人生を放棄してしまうわけには行かない。逃げれば、逃げたぶんだけ、ごまかせばごまかしたぶんだけ、「逃避の代償」や「怠惰の負債」が溜まってゆく。
     『3月のライオン』はそういうきびしい現実のなかで、それでも自分をきつく律し、信じがたいような「高み」を目指す人々を描いてゆきます。
     しかし、一方で、「そうでない人々」との「魂の格差」は実に巨大なものになっていくよりほかないのです。
     つくづく思うのは、おそらくはインターネットはそういう救われない人々の最期の救済の砦として機能するのだろうな、ということです。
     ネットでなら、