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タグ “作劇” を含む記事 4件

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

 前々回の記事「なぜ作家は衰えるのか。」の続きです。  あの記事は、結局のところ、作家は歳とともに「窮屈さ」に耐えられなくなっていくから衰えるのだという話でしたが、それではその「窮屈さ」の正体とは何なのか話したいと思います。  作家を縛る「窮屈さ」。それは結局、エモーション(感情)に対するロジック(論理)の束縛だとぼくは思います。  つまり、作家は自分の内なるエモーションに従って作品を書こうとするけれど、良い作品を書くためには精緻なロジックに従う必要がある。  そこで湧き上がるエモーションを管理しつづける作業は窮屈だといえます。  その窮屈さがしだいに耐えられなくなっていくというのが「作家衰退」の真相なのではないかと。  もちろん、エモーションそのものが枯れ果ててしまうこともありますが、そういう人は大抵が作家を辞めてしまうので「衰えた」という印象は与えない。  やはり問題はエモーションの暴走をどう止めるか、というところにある。  ここでむずかしいのは、作家本人にとってはエモーションが暴走している状態のほうが楽しいということです。  あるいはロジックという窮屈な枷のなかで書いているより、面白いものを書けているという実感を持てるかもしれない。  しかし、ぼくが岡目八目で見る限り、やはりエモーションを優先させすぎた作品はダメですね。  なんというかこうキャラ愛あふれる同人誌みたいなものになりがちです。  そう――ロジックによって管理しなければならないエモーションの第一が「愛情」なんですね。  キャラクターに対する、あるいは物語に対する愛情を的確にコントロールできなければ、面白い物語(「読者にとって」面白い物語)は作れない。  このあいだ、Twitterで話していて偶然、椎名高志『ゴーストスイーパー美神極楽大作戦‼』の「ルシオラ事件」の話になりました。  いまとなっては「ルシオラ事件」について知っている方のほうが少ないかもしれませんが、ようはこの漫画の脇役のひとりであるルシオラというキャラクターが人気が出すぎてしまい、また作者が愛着を抱きすぎて物語が破綻しかけるところまで行ってしまったという「事件」です。  最終的には一応、ルシオラは物語から退場して終わるのですが、かなり苦し紛れともいえる結末に多くの読者は不満を抱きました。  これなどは物語空間に横溢するエモーションを冷徹なロジックによって管理し切れなかった典型的な一例だと思います。  ルシオラなー。可愛いんだけれどなー。  でも、そのおそらく作者にとっても可愛い、愛しいキャラクターを、作劇のための「駒」として割り切る視点がなければ面白い物語は書けないのです。  シナリオメイキングとは 

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。

 勝木光『ベイビーステップ』を読み返しています。  第1巻から始めて、いま、第20巻くらい。全日本ジュニアの全国大会が始まったあたりですね。  あらためて読み返してみると色々気づくことも多いわけですが、今回特に思ったのは、作劇の方法論がほんとうに独特だな、ということ。  通常のスポーツ漫画とストーリー展開の方程式が異なっている。非常にオリジナリティが高い。  通常のスポーツ漫画の代表格として、たとえば『スラムダンク』を挙げたいと思いますが、『スラムダンク』と『ベイビーステップ』の作劇を比較してみると落差が露骨にはっきりしています。  『ベイビーステップ』のほうが変わっているんですよ。  いまさらいうまでもないことですが、『スラムダンク』の全体の構成は非常に美しく完成しています。  各試合が過不足なく描き込まれ、日本最強の山王工業への勝利で終わるという流れ。  主人公桜木花道は全体を通し一貫して成長していて、その頂点で物語そのものが完結します。  なんて素晴らしい。  しかし、逆をいうなら、あまりに美しくできているからこそ次の展開は予想しやすいということもいえるわけです。  すべてが「物語的必然」に沿ってできあがっているわけで、たとえば湘北が突然無名の高校に負けてしまうなんてことは起こりえない。  『スラムダンク』の展開は厳密な「漫画力学」にきれいに従っているということもできるでしょう。  しかし、『ベイビーステップ』は違います。  主人公であるエーちゃんがだれに勝ち、だれに負けるかが「物語的必然」で決まっていないように見える。  もちろん、適当に決まっているはずはないのですが、エーちゃんの試合結果は「漫画力学」とはべつの理屈でもって決まっているように思えます。  予想外のところで勝つこともあるし、負けることもありえる。  なぜそこで勝ち、負けるのか、「そのほうが面白くなるから」という理屈では説明できない。  読者から見れば非常に先が予測しにくい漫画といえます。  まあ、読者の予想を先読みしてあえて外しにかかる漫画ならほかにいくらでもありますが、『ベイビーステップ』の作劇はそれとも違う。  どういえばいいのか、「こうなれば面白いはず」という期待をかなりの程度、無視しているようなのです。  典型的なのが 

『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。

なぜ作家は衰えるのか。

 ぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。  で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。  なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。  決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。  まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。  それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。  もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。  というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。  少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。  その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。  この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。  もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。  これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。  ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。  でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。  あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。  でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。  「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。  ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。  構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。  歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。  でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。  書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。  作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。  べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。  しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。  物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。  だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。  そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。  残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。  ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。 

なぜ作家は衰えるのか。

面白い物語を作るためにどうしても必要なこと。

 ぼくは小説が好きで、たまに自分でも書いたりしているのだが、どうにもうまく物語を作れない。  全体の構造を把握しきっていないまま書き始めるせいもあるだろうが、たいてい、どこかでシナリオの欠陥があきらかになって作品が破綻してしまうのだ。  膨大な物語を読んできているにもかかわらず、ぼくには物語作りの才能がまったく欠けているらしい。  これがどうにも残念で、どうにかならないだろうかと考えていた。  べつだん、プロの作家になりたいとかそういうことではない。  自分が好きな世界を、自分自身で生み出すことができたなら素晴らしいだろう。そういう素朴な想いであるに過ぎない。  それにしても、何度となく失敗を繰り返していると、「なぜ、ぼくはここまで面白い物語がつくれないんだろう?」と疑問に思えて来る。  才能がないからといってしまえばそれまでではあるが、では、その「才能」とは具体的にどのような能力なのか。  呼吸をするように容易に面白い物語を作れる人たちと自分と、いったい何が違っているというのか。  どうにも納得が行かない気分になる。  まあ、いくら納得が行かなくてもじっさい差があるのだからしかたがないのだが、その「差」とはどこの差だというのか? いままでずっと考えていた。  そこで、先日、このような記事を読んだ。 http://d.hatena.ne.jp/nakamura001/20150429/1430327314  よくある「物語の作り方」的な記事なのだが、物語を作っていく手順を具体的に記したその記述を読み進めていくうちに、ふと、わかったような気がしたのだ。  ようするに、面白い物語を生み出すためには必要な手順があり、ぼくは無意識のうちにそれをいくつかすっ飛ばしていたために物語が破綻してしまったのではないか、と。  たしかに世の中にはときに天才的な物語作家がいて、「ただ思い浮かんだことをそのまま書いただけです」などという。  そういう作家たちは魔法のように自由自在に物語を生み出せるように見える。  つまり、かれらはあるとき突然指を一本立ててこう呟きはじめるのだ。「ここにひとりの人物がいるとしよう。それは――」。  そして、あっというまに筋が通った面白いシナリオを生み出してしまう。  しかし、こういう人を見て、「物語を作るためには天与の才能がなくてはいけないのだな」と考えてはいけない。  ただ、かれらは生まれ持った才能なり熟練の経験によって必要な手順をカットすることができるだけで、物語作りに正当な順番があることに変わりはないのだ。  重要なのは、完成した物語を見てもその手順はわからないということだ。  なぜなら、 

面白い物語を作るためにどうしても必要なこと。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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