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非モテはほんとうに辛いのか? 宮台真司の本を読んで考える。
2017-12-14 14:0851pt誤って未完成の記事を配信してしまいました。ごめんなさい。
さてさて、宮台真司『君がモテれば、社会が変わる。』という本を読みました。ミヤダイさんの本は良くも悪くもとにかくクセが強くて、くどいところがあるので普段はあまり読まないのだけれど、たまに読むとやはり面白い。
この本のテーマはタイトルにもある「モテ」。といってもモテるための態度とか小噺とかそういうことではなく、「ひとがモテるということはどういうことなのか」を巡る話が展開しています。
いわばモテ哲学。中二少年のごとくモテにあこがれる(しかしモテない)海燕さんとしては興味津々なテーマです。
男と犬と子供にはモテるんですけれどねえ。女子にはモテないなあ。なぜだろうなあ。まあ、女性を怖がって近寄らないようにしているということもひとつの理由ですよね。
恋人とか伴侶はともかくとして、女性の友人はもう少し欲しいところ。ウソです。恋人も欲し -
アルテイシアさんのブログに恋愛相談したい。
2017-11-20 03:4951ptうに。前の記事は何なのだろう。ぼくにもわかりません。たぶん、突発的に何らかの猫の霊に憑依されたのか、それともてれびんとやり取りしすぎてSAN値が下がっていたのか、どちらかでしょう。
ええ、30分以上てれびんとやり取りするときは、正気を失う覚悟をしていなくてはならないのです。怖いですね。いくら人類防衛のためとはいえ、大変なお仕事です。みんなぼくに感謝しろ。
まあ、『キャットクエスト』のやりすぎという可能性も微レ存で、いや、このゲーム、ほんとによくできています。Switchで1200円で買えるので、オススメだよ!
さてさて、前の記事に「アルテイシアさんのブログにメール出したらいいんじゃね?」的なコメントが付いたので、何となくアルテイシアさんのブログ「恋愛Hカウンセラー アルテイシアの相談室」を読み返してみました。
気になったのは、この記事。「(心を鬼にして語る)非モテ童貞男子が彼女を -
楽して女子にモテたいにゃ! お前ら、その方法を考えるにゃ! 宿題にゃ!
2017-11-20 02:4851ptどもにゃ。海燕にゃ。はあ、金持ちになりたいにゃー。女子にモテてちはほやされたいにゃ! でも、そのために努力するのはイヤにゃ。勇気も出せないにゃ。
なので、お前ら、こんなにゃーが簡単に幸せになれる方法を考えるにゃ。あしたまでの宿題にゃ。よーく考えるにゃ。にゃーの猫生がかかっているからにゃ。
そもそも、にゃーがなぜ金持ちになりたいかといえば、おなごにモテたいからにゃ。つまり、にゃーの抱える問題は「モテ」というひとつに収斂するにゃ。にゃーはなんでもいいからモテたくてたまらないのにゃ。
宮台真司に『きみがモテれば、社会は変わる。』という本があるにゃ。いいタイトルだと思うにゃー。社会を変えるためにも、にゃーはモテないとならないのにゃ。
にゃーのまわりにはなぜか野郎が多いにゃ。にゃーは野郎と子供にはモテるのにゃ。この調子でおなごにもモテないけれど、なかなかそううまくはいかないようにゃ。なぜに -
恋愛工学理論は非モテのルサンチマンを救うか。
2016-09-10 05:0351pt先週号の『マガジン』を読んでいたら、「恋愛工学」で有名な藤沢数希さんがインタビューに出ていました。そのなかに、見過ごせない一節があったので引用しておきます。
藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繫栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。
ぼくはべつに恋愛工学について思うところがあるわけでも、くわしく知っているわけでもないのですが、これはないよなあ。
「工学」とはいっても、ここまで来るともうただのトンデモ差別理論ではないでしょうか。これは女性の反感を買うでしょうねえ。「女は優秀な男の子を生む本能を持っている」といっているわけですから。
子供を産まない選択をした女性とか、どういう説明をされることになるのだろーか。
この文章のどこがどうおかしいのかあえて説明はしませんが(説明しなくてもわかってもらえると信じている)、こういう理論を「科学的」とか「生物学的」と主張されると、さすがにどうかと思う。
でも、 -
恋愛弱者は死なず、ただ消え去るのみ。
2016-05-07 17:3151pt
その昔、孫子さんはいいました。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と。
「敵のことと自分のことがよくわかっていればいくら戦っても負け知らずになれるかもよ?」という意味だと思います。
異性愛者の場合、恋愛における男性にとっての「彼」とは女性。
じっさいのところ、女性たちは恋愛についてどう考えているのか? そこを知りたくて、アルテイシアさんの『オクテ女子のための恋愛基礎講座』を読んでみました。
結論から書くと、とても面白かったです。
この本が恋愛指南本として画期的なのは、恋愛のいろはについてくわしくない恋愛初心者、「オクテ女子」にターゲットを絞り、不特定多数の異性に好かれる「モテ」よりも特定の異性と建設的な関係を築く「マッチング」を重視していること。
色々あって「モテ」の不毛さに絶望したらしい著者は、幸せになるためには「モテ」より「マッチング」が重要だと力説します。
そのために必要なのは、受け身になって王子さまが訪れるのを待つのではなく、「みずから選ぶ」という姿勢。
結婚さえできればいいなら、男受けのみを追求して、男の望む理想像を演じればそれで済む。
しかし、結婚したあとも人生は続く。死ぬまでガラスの仮面を被って別人を演じ切るつもりでないかぎり、率直に自分自身を出してみずから伴侶を選んでいったほうがいい。
また、「どういう男を選ぶべきか?」を突き詰めると「自分にとっての幸せは何か?」に突きあたる、と著者は語ります。
そして、それでは、あなたにとっての幸せは? あなたがほんとうに欲しいものは何? 何を捨てられて何を捨てられない? その優先順位は? と、矢継ぎ早に問いかける。
この問いに答えられるようになることが、まずは「自分にとっての幸せ」を自覚するということらしい。
自分にとっての結婚の条件をあいまいにしないということ。すべてをきちんと言語化して、認識しておくということ。それが大切だという話のようです。
まったくその通りだなあ、とぼくも思います。
その後も色々と的確な(適格だと思われる)アドバイスが続くのですが、どれも非常に面白いです。
いや、女性の側も悩みやら劣等感を抱えて必死になっていたりするんだなあというあたりまえのことがわかります。
いや、読んでよかった。読んでよかったのですが―― -
運命を受け入れて生きるということ。
2015-02-20 22:2651ptえー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
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「オタクはクリエイターより偉い」。岡田斗司夫のロジックを考える。
2015-01-26 13:5551pt
てれびんに指摘されたのだけれど、最近、ずっと自意識の話をしていてワンパターンですね。いいかげん他の話題に行きたいところですが、敷居さん(@sikii_j)がTwitterで「納得いかん!」とシャウトしていたので、もう少しだけ岡田さんの話を続けたいと思います。
いや、じっさい書くことは色々あるんですけれど。ただまあ、ぼくは直接逢って人柄をたしかめたわけではないので、あくまで以下に書くことはぼくの妄想という域を出るものではありません。「こういう人なんじゃないかなあ」という推測でしかないわけです。そのことを前提としてお読みいただければ、と思います。
まず、岡田さんの人生の目的が何なのかという話なのですが、ぼくはべつだん、かれが「何かを笑い飛ばすこと」を目的にしていたとは思いません。
この場合、「笑い」は目的というよりはむしろ手段でしょう。それでは目的は何かというと、「その人物より上に立つこと」だったんじゃないかな、と。
つまり、何かを笑い飛ばすことによって、間接的にその存在より上に行く。そして「偉い」「賢い」「強い」「大人の」自己イメージを周囲から認めてもらう。それが目的だったのではないか。
究極的には「だれよりも賢くて偉い自分」というセルフイメージを確立したかったのではないかと思うのだけれど、まあ、はっきりとはわかりません。
ただ、岡田さんがひとの悪口をいうのが大好きだったことはいくらでも証拠があります。たとえば『史上最強のオタク座談会 封印』には、こんな発言があります。
岡田 こないだ『アニメガベストテン』とかあるじゃないですか。あれに俺ゲストで出たんですよ。そしたらね、その時××××××もゲストやったんですよ。で、「はじめまして」と言うてCDくれるんですけどね、「岡田斗司夫さん」いうてサインしやがるんですよ。それがなかったら売れたのに(笑)。書くなよ、オマエ! ババアが! めちゃくちゃ腹立って(笑)。
ちょっとこの人は何をいっているんだろう、という感じですが、もらったCDに為書きをされると売って金にできない、だからそういうことをする奴は性格が悪いといっているわけなんですね。
本人のつもりではハイセンスなジョークなのだろうな、と思うんですけど、本気でいっているのだとしたらひどい話です。「書くなよ、オマエ! ババアが!」じゃないよね。
こういう発言は山ほどありますね。というか、この本一冊全部、この種の発言なんですけれど。
で、まあ、こういう発言の裏にある想いは「人の上に立ちたい」というものだったとぼくは考えるわけです。権力志向というか。FREEexみたいな組織を作ったり、「オタクの王さま=オタキング」を名乗ったあたりからはそこらへんの心理が読み取れると思います。
オタク全体がある種の知的エリートとして社会に認められ、自分はその上にトップとして君臨する。どこまで本気だったかはともかく、岡田さんの野望とはそういう性質のものだったと考えていいのではないでしょうか。
ぼくとしては岡田さんはやっぱり自分の知性を認めてほしかったのではないかと考えています。漫画『アオイホノオ』のなかにもそんな描写があるようですけれど。
最近の岡田さんにはそういうイメージはないかもしれませんが、唐沢俊一さんとの対談集『オタク論!』とか、先ほどの『史上最強のオタク座談会』のシリーズなどを読むと、「口の悪い岡田斗司夫」をたくさん見つけることができます。
ぼくはそういう言動はやはりそれによってその対象より上に自分を置きたいという欲求の表れと考えるわけです。もちろん、これはべつだん岡田さんだけのことではないですけれどね。
たとえば庵野秀明や宮﨑駿は岡田さんにとって同世代ないし上の世代の天才的なクリエイターですが、岡田さんはかれらの作品の拙劣さを笑い飛ばすことによって擬似的にかれらより上に立つことができるわけです。
「まったく、宮さんにも困ったものだよね(笑)」みたいなセリフをさらっといえれば、そういう岡田さんを凄いと思う人はかなりいることでしょう。
じっさい、岡田さんはクリエイターより「客」のほうが上なのだ、とはっきり主張しています。『オタク学入門』からその一節を抜き出してみましょう。
このように、オタク文化の頂点に立つのは教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在だ。
それは作品に美を発見する「粋の眼」と、職人の技巧を評価できる「匠の眼」と、作品の社会的位置を把握する「通の眼」を持っている、究極の「粋人」でなくてはならない。つまり、僕がこの本の中で一貫していってきた一人前のオタク、立派なオタクということになる。
立派なオタクはオタク知識をきちんと押さえていて、きちんと作品を鑑賞する。当然これは、と目をかけているクリエイターの作品に関しては、お金を惜しまない。逆に手を抜いた作品・職人に対しての評価は厳しい。
これらの行動は決して自分の為だけではない。クリエイターを育てるため、ひいてはオタク文化全体に対して貢献するためでもある。そこのところをオタクたちは心得ている。
もちろん、クリエイターたちやマスコミの中にはオタク文化を西洋のサブカルチャーの一部と勘違いしていて「クリエイターは文句なく偉い」と考えている連中が多い。「作品はクリエイター様の心の叫びだ。ありがたく拝見しろ。わからないのはお前が悪い。顔を洗って出直してこい!」ここまであからさまではないにしろ、多くのクリエイターはこういう風に勘違いしている。
その勢いに呑まれている中途半端なオタクも多いが、実は違うのだ。やたら料理人を持ち上げたらその店はダメになってしまう。ちゃんと自分の舌で評価してこそ、よりおいしい料理が望めるというものだ。つまり職人の芸をきちんと評価する、という形が健全な文化の育成につながることになるということだ。
オタク文化の頂点に立つ「教養ある鑑賞者であり、厳しい批評家であり、パトロンである存在」としてのオタクたち、そのさらに頂点に自分が立つ。岡田さんとしてはそういう夢を抱いていたのかなあ、とこの文章を読むと思わせられます。
で、なぜそんな大望を抱かなければならなかったのかといえば、それはやはり岡田さんの心に何かしらのルサンチマンがあったからなのではないでしょうか。
(ここまで2602文字/ここから2695文字) -
正しい「いいひと戦略」のススメ。岡田斗司夫はどこでミスを犯したのか?
2015-01-24 22:5551pt
ども。岡田斗司夫愛人問題についてはお口にチャックをするつもりだったんですけれど、どうしても書きたいことが出て来てしまうので、ここに簡単に記しておきます。
何しろ下世話な話なので、読まなくてもまったくかまいません。ただ、ぼくは個人的に岡田斗司夫という人を長年追いかけてきたので、いくらかこの話に興味があるということです。
いまの岡田さんを見ていると、「なるほどなあ、こういうふうに破綻するのか」という感慨がありますね。ひょっとしたらこのまま成功しつづけるのかと思っていたけれど、なかなかそういうふうには行かないらしいということが、実に興味深い。
ぼくはべつだんかれを責めるつもりも咎めるつもりもないのですけれど、いまの事態はひとつの「因果応報」というか、自分が選んだ生き方の結末ではあるのだろうな、と思わずにはいられません。
岡田さんを責めている側もあまり上品とはいいがたいように思うのですけれどね……。まあいいや。
ぼくが岡田さんのことを興味深く追いかけて来たのは、かれが「上の世代のオタク」だからです。つまり岡田斗司夫はぼくにとって行動の規範となる人のひとりであったのです。
そのシニカルな物言いにしろ、毒のある行動にしろ、良くも悪くもぼくに影響を与えています。
かれはある意味で非常に典型的な「インテリオタク」でした。基本的にインテリであるにもかかわらず、社会を建設的に進歩させていくプロジェクトに参画しようとせず、アニメや漫画といったサブカルチャーに耽溺してみせるという態度を示した最初の世代の人だったわけです。
いわゆる「オタク第一世代」ですね。ぼくはそこに非常に屈折した想いを見ます。ひと言でいえば、岡田斗司夫の考え方とは、社会で重要とされているものを笑い飛ばすことによって自己の優位性を確立しようという思想だったのだと思います。
アニメや特撮といった、世間的にバリューが確立されていない文化に「あえて」熱中してみせるという態度を示すことによって、自分のインテリジェンスを示そうというわけですね。
この「あえて」というところが重要で、かれから見るとそこに本気で熱中している奴は愚かであるわけです。ものごとの裏側を見、隠されたものを暴き、その批評的な行為によってあらゆる存在のメタレベルに君臨する――それが正しい「オタク」の態度ということだったのだと思います。
当然、そこではいかに他人の失敗や滑稽さを笑い飛ばすかということが重要になる。かれから見てくだらないことにベタに熱中しているような俗衆は嘲笑の対象にしかなりえません。
しかし、当然ではありますが、岡田斗司夫その人も完璧な人間というわけではなく、時には失敗したり間違えたりすることもあります。そうすると、自分自身がだれかの嘲笑の対象になったりもするわけです。
ぼくは岡田さんが抱えていた課題とは、いかにしてそういった「笑い」から自分自身を防御するか、ということだったのだと思うのです。
いい換えるなら、「ひとに笑われることなく、ひとを笑い飛ばしたい」ということですね。さらにいえば、決して「ボケ」に落ちることなく「ツッコミ」の立場を維持したい、ということであるかもしれません。
しかし、これはきわめて困難な課題です。なぜなら、ひとを笑い飛ばしたりすれば、当然、べつのだれかから笑われることもあるのが世の常だからです。
ぼくが考えるに、これを解決するための方法はひとつしかない。つまり、「何もしない」ということです。自分は何ら建設的な行動を取ることなく、ひとの失敗を笑いつづける。これを続けている限り、ひとは「頭のいいポジション」から脱落せずに済みます。
何しろ何もしないのですから、何か失敗することもない。弱点を抱え込むこともない。そうやって何もしないでひとを批判している限り、その人は無敵なのです。
いま、インターネットにはそういう人は大勢いますよね。特に何ができるわけでもないのだけれど、鋭く人を批判し嘲ることにかけては人後に落ちないというタイプ。
これは「ひとを笑い飛ばしたいが、ひとに笑われたくはない」という課題を突き詰めていくと、当然出て来る行動パターンだと思うんですよ。むしろ賢い人ほど、そうやって「何もしないという態度」を選択することになる。
そういう人にとって他人はみなバカに見えたりするのですが、では、その人に何ができるのかといえば、べつだん何もできはしなかったりするのです。
さて、そういった絶対安全圏から人を嘲るという行動は、とても魅力的なものですが、ひとつ問題があります。そうやって安全圏にひきこもっている限り、何もできないということです。
ひとを笑えば笑うほど、バカにすればバカにするほど、そのセーフティゾーンから出ることができなくなる。出てしまえば、自分がひとに投げた揶揄や嘲弄が倍になって返ってくるからです。
したがって、そういう人はリスクを犯す行動を何ひとつ取ることができなくなります。そして、「ひとの欠点がよく見える賢い自分」という自画像を手に入れる代わりに、一生何ひとつ成すことなく終わるのかもしれません。
まあ、それはその人しだいですが、とにかく絶対安全圏にひきこもっている限り、何ひとつ失敗をしないかわりに目立つ業績を挙げることもできません。
これは「ひとに認めてほしい」、「強く賢い自分を承認してほしい」と考える人にとっては耐えがたいことです。ぼくは岡田さんもそういうタイプの人だと思っているんですけれど。
それでは、「何か業績を成し遂げ」、なおかつ「傷つきやすい自意識を防御し切るためにはどうすればいいか」。これが岡田さんが人生において取り組んでいた課題だったんじゃないかなあ、とぼくは妄想します。
特に確固とした根拠がないのであくまで妄想ですが、まあそれを前提として話を続けましょう。
ごく単純に考えて、ひとを攻撃して、だれからも攻撃されないというポジションに就こうというのは非常にむずかしい話です。ほとんど実現不可能とも思える。自然の法則に反しているようなことです。
ただ、ひとつ方法があることはある。つまり、この話を考えて行くと、「攻撃されても、嘲笑されても傷つかないよう自分をチューンすればいいのだ」という結論が出ると思うのです。
ようするに、何か痛い指摘を受けたとき、「それはわざとやっているだけなんだよ」といい張れるようであれば自意識は傷つかない。
ピエロはピエロであることを指摘されても痛くないのです。なぜなら、それは仕事でやっているに過ぎず、仮面の下にはほんとうの素顔があるのだから。
つまり、常時、何かしらの仮面をかぶって素顔を見せずにいる限り、どんなに攻撃されても嘲笑されても傷つかない。むしろ、自分が「あえて」「わざと」やってみせている行為に対してベタに攻撃してくる人間こそバカなのだ、といい返すこともできる。
決して本心を見せないこと。弱点を晒さないこと。常に「仮面」で自分の自意識を守りつづけること。これを続けている限り、いくら攻撃されても決して自分の「本丸」は傷つかない。岡田さんの人生はその絶対防御の理屈によって動いていたように、ぼくには見えます。
それが今回、破綻してしまったようにも思えるわけですけれど、それはなぜなのかというところが、ぼくには興味深いですね。
さて、皆さんは今回、岡田さんはどこで失敗したと考えられるでしょうか? ぼくは、それは最初の釈明ツイートだったと思う。「愛人とのキス写真」なるものが出まわって話題になった時、岡田さんはTwitterでこのように呟いています。
twitterで「愛人とのキス写真」とやらが出回ってるけど、当たり前ですけどニセ写真です。LINEアイコンとか写真の構図とかめちゃ上手いけど。写真と告白文を作った本人からはすでに謝罪して貰ったので、自分的には一件落着ずみ〜。初笑い、できたかな?
今回で一番恥ずかしいのは、LINEアイコンがムーミンだと知られたこと(笑)
でも今年は「恋愛本」を書く予定だから、実は過去の恋愛話を全暴露しようと画策していたんだよね。
これはいかにも岡田斗司夫らしい対応だったと思います。つまり、かれはこの危機的状況に対して「いつものように余裕綽々の自分」という「仮面」で対応しようとした。これが最大の失敗であったのではないか。
単純に事態を収束させるために何の効果もなく、むしろ火に油を注ぐことに繋がったということだけではありません。この後、かれはこの「仮面」を守ろうとしなければならなくなってしまったわけです。
つまり、一連の事態において守勢に立たされることになってしまった。これが決定的にまずいレスポンスだったのではないでしょうか。
ほんとうは岡田さんはここで自分に愛人がいることを認めるべきだったのだとぼくは考えます。そうしたとしても、ほんとうなら咎め立てされるいわれはないのですから。
しかし、かれは初手で開き直ることができなかった。そして、それがどんどん尾を引いていきます。まさに岡田斗司夫らしくないミステイクです。なぜ、岡田さんは初手でこんな他愛ない嘘をついてしまったのでしょうか。
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