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作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

 前々回の記事「なぜ作家は衰えるのか。」の続きです。  あの記事は、結局のところ、作家は歳とともに「窮屈さ」に耐えられなくなっていくから衰えるのだという話でしたが、それではその「窮屈さ」の正体とは何なのか話したいと思います。  作家を縛る「窮屈さ」。それは結局、エモーション(感情)に対するロジック(論理)の束縛だとぼくは思います。  つまり、作家は自分の内なるエモーションに従って作品を書こうとするけれど、良い作品を書くためには精緻なロジックに従う必要がある。  そこで湧き上がるエモーションを管理しつづける作業は窮屈だといえます。  その窮屈さがしだいに耐えられなくなっていくというのが「作家衰退」の真相なのではないかと。  もちろん、エモーションそのものが枯れ果ててしまうこともありますが、そういう人は大抵が作家を辞めてしまうので「衰えた」という印象は与えない。  やはり問題はエモーションの暴走をどう止めるか、というところにある。  ここでむずかしいのは、作家本人にとってはエモーションが暴走している状態のほうが楽しいということです。  あるいはロジックという窮屈な枷のなかで書いているより、面白いものを書けているという実感を持てるかもしれない。  しかし、ぼくが岡目八目で見る限り、やはりエモーションを優先させすぎた作品はダメですね。  なんというかこうキャラ愛あふれる同人誌みたいなものになりがちです。  そう――ロジックによって管理しなければならないエモーションの第一が「愛情」なんですね。  キャラクターに対する、あるいは物語に対する愛情を的確にコントロールできなければ、面白い物語(「読者にとって」面白い物語)は作れない。  このあいだ、Twitterで話していて偶然、椎名高志『ゴーストスイーパー美神極楽大作戦‼』の「ルシオラ事件」の話になりました。  いまとなっては「ルシオラ事件」について知っている方のほうが少ないかもしれませんが、ようはこの漫画の脇役のひとりであるルシオラというキャラクターが人気が出すぎてしまい、また作者が愛着を抱きすぎて物語が破綻しかけるところまで行ってしまったという「事件」です。  最終的には一応、ルシオラは物語から退場して終わるのですが、かなり苦し紛れともいえる結末に多くの読者は不満を抱きました。  これなどは物語空間に横溢するエモーションを冷徹なロジックによって管理し切れなかった典型的な一例だと思います。  ルシオラなー。可愛いんだけれどなー。  でも、そのおそらく作者にとっても可愛い、愛しいキャラクターを、作劇のための「駒」として割り切る視点がなければ面白い物語は書けないのです。  シナリオメイキングとは 

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

なぜ作家は衰えるのか。

 ぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。  で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。  なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。  決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。  まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。  それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。  もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。  というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。  少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。  その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。  この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。  もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。  これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。  ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。  でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。  あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。  でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。  「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。  ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。  構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。  歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。  でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。  書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。  作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。  べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。  しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。  物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。  だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。  そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。  残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。  ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。 

なぜ作家は衰えるのか。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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