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  • スタジオジブリの宮崎アニメはなぜ面白くも辛いのか。

    2015-04-14 19:40  
    51pt

     川上量生『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』読了。
     これが、もう、超面白かった。実に素晴らしい内容なので、皆さん、読んでください。いや、いいもの読んだ。得した得した。
     もっとも、「ぼくは」とても面白いと思ったけれど、ひとによってはあまりにあたりまえの内容だと思うかもしれず、また、まったく納得できないと感じる人もいるかもしれません。
     それくらい、賛否を呼ぶ内容だと思います。
     しかし、少なくともぼくにとっては非常に明快かつ爽涼に読める一冊でした。新書で安いので、ぜひ多くのひとに読んでもらいたいですね。
     この本は著者の川上量生さんが、スタジオジブリで「コンテンツ」について学んだことが書かれています。
     というか、この本一冊をかけて川上さんは「コンテンツとは何か」という問いに答えていこうとしています。
     それがみごと答えられているかどうかはぜひ自分で読んでたしかめてもらいたいところですが、ぼくはちょっと違う始点からこの本を「活用」してみようと思います。
     「面白い物語とは何か」という例のテーマを掘り下げるために、この本の内容を検証してみようと思うのです。
     この本には、「ストーリーか表現か」と題した一節が存在します。ちょっと引用してみましょう。

     映画をつくるとき、何をいちばん重視するかは人によって違います。鈴木敏夫プロデューサーは、よく会話のなかで「ストーリーか表現か」とひとりごとのように言うことがあります。
    「すべての大監督は最終的に表現に行った」というのは、鈴木さんがよく使う言い回しです。
     映画を見て、話のつじつまが合わないと文句を言う人がよくいるけれど、話のつじつまなんか合ってなくたっていいんだそうです。

     興味深い話です。
     なるほど、鈴木プロデューサーのいいたいことはよくわかる。
     ほんとうに「表現」として凄い映画を見たとき、観客は細かい粗なんて気にならない。
     観客が細かいことを気にしはじめるのは、ようするにその映画が気に入らなかったからだ、そういうことはできるでしょう。
     それなら、「ストーリーか表現か」といえば、大切なのは表現であって、ストーリーは二の次なのでしょうか。
     この本のなかでは明確な結論が出ていないませんが、少なくともクリエイターとは表現を重視する人々である、ということは書かれています。
     なぜか。これも本文中に記されています。

     ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼくは思います。
     たとえばウラジーミル・プロップというロシアの民俗学者は、『昔話の生態学』という本で、昔話の構造を三一の機能と七つの行動領域に分けて説明しています。ようするに、昔話はたくさんあるけれど、それらはどれも、主人公がいてその助っ人がいるとか、悪役がいるとか、なにかを探すたびに出るとか、少数のパターンの組み合わせとして分類できるということを明らかにしたわけです。
     ということは、たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高いのです。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度もくり返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということに、ストーリーはなりやすいのでしょう。
     一流のクリエイターにとって、いままでなかった新しいコンテンツをつくりたいという欲求は本能のようなものではないでしょうか。

     これも納得がいく話です。
     ストーリーはパターン化しやすく、しかもパターンが少ない。これは一定以上、小説や映画を体験している「物語読み」なら、理屈ではなく実感として納得がいくことでしょう。
     一般に、人間が共感しうる物語のパターンはきわめて少ない。
     少なくともマスに向けてエンターテインメント作品を提供しようと思ったら、ごく限られたパターンをくり返すしか方法がない。
     もちろん、あまりに定番のストーリーばかりでは飽きられてしまうから、表面上はあたかもまったく新しい展開であるかのように糊塗したりもするけれど、本質的にはわずかなパターンのリフレインであることを免れない。それは事実だと思います。
     そもそも究極的に突き詰めていくと、新しい物語なんて生まれようがないんですよ。
     たとえば、村上龍はすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という類型でできている、と喝破しています。
     つまり、小説(や漫画や映画)のストーリーとは、登場人物を何らかの試練に合わせて、それを達成できるかどうかを見る、それだけのものだというのですね。
     ここまで単純化してしまうと、たしかにどんな物語もこの放送から逃れられないように思える。
     実験的な文学作品ならともかく、大衆向けのエンターテインメントなら殊にそうです。
     だから、「ストーリーか表現か」と自らに問うたとき、「すべての大監督は最終的に表現に行」く。これはよくわかる話です。
     表現が膨大な奥行きを持ち、いまなお新しい可能性を秘めているのに対し、ストーリーにはもはや探索するべき道はないともいえるのですから。
     そう、たとえばハリウッド映画を見ればわかるように、マスに向けたストーリーテリングとは決まりきったものであるに過ぎないのだ。ひとまず、そういうことはできそうです。
     しかし、ぼくはそれで納得することはできません。そうはいっても、やはり「面白い物語」と「そうでない物語」はあると思うのです。
     ストーリーメイキングが数少ないパターンのくり返しであることは間違いないところですが、それでも「面白い物語」を生み出すことは簡単ではない。
     大金をかけて良質なストーリーを研究しているはずのハリウッド映画ですら、あきらかに「出来のいいシナリオ」と「出来の悪いシナリオ」は存在するように見えます。
     そして、それは「つじつまが合っているか、どうか」という問題だけではない。「つじつまは合っていないが面白いストーリー」は存在する。
     つまり、作劇とは単なるつじつま合わせではない、ということです。
     それにしても、なぜ、面白い物語をつくることは簡単ではないのでしょうか?
     ひとつには当然、技術的問題が考えられます。少数のパターンの組み合わせとはいえ、それを緻密に行うことが簡単ではないことは当然といえば当然です。
     少しでも「組み方」がずれてしまったらストーリーは台無しになりかねないのですから、繊細な心配りが必要なのです。
     もうひとつ、たとえばスポンサーの意向などでストーリーは狂わせられやすい、ということもいえるかもしれません。
     ハリウッドにはそういう事情で駄作に成り下がった作品がたくさんありそうです。
     しかし、それらだけではない。現に、宮﨑駿個人の天才の表出と捉えられる一面が大きそうな宮崎アニメにしても、やはりストーリーが破綻した印象の作品は多い。
     この理由も本文中に書いてあるのですが、宮崎さんははっきりとした「終点」を構想することなく物語を描き始めてしまうのですね。
     小説家なら、それこそこれも本文中に例がある栗本薫のように、先を考えずに書き始めるというひとはいますが、プロの映画監督では類例がないんじゃないかな。
     おかげで宮﨑駿の映画は、最後の最後になると「バルス!」で突然にラピュタ城が崩壊して終わりになるようなことになりがちであるわけです。
     セキュリティという観点から見てあまりにひどい話だと思うわけですが。
     とはいえ、『天空の城ラピュタ』はやはり何度でも鑑賞に値する名作です。

     じっさい、くり返しテレビで放送されては好視聴率を記録している。多少つじつまが合っていないことなどだれも気にしない。
     それはつまり、ストーリーに対して表現が優位だということの証明でしょうか?
     結局のところ、宮﨑駿の手がける素晴らしいアニメーションさえあれば、観客はストーリーのことなど気にしないものなのでしょうか?
     実は、ぼくはそうは思わないのです。
     一本のシナリオとして見たら、『ラピュタ』の問題解決方法は、相当に乱暴です。
     いくらでもツッコミが入る余地があるし、伏線の処理にしてもエレガントとはいいがたい。
     しかし、それでも『ラピュタ』には胸躍るストーリーがある。ぼくはそう思います。
     つじつま合わせとはべつの時点で、『ラピュタ』は面白い物語なのだと。
     それに比べると、やはり宮﨑駿の最近作、『ハウル』や『ポニョ』はいくらか辛いものがある。

     もちろん、それらは表現のレベルでは素晴らしい傑作でしょう。『ハウル』の空中散歩、『ポニョ』の波乗り、それらはまさにまれに見る大天才作家の力量を直接に実感させられる映像美です。
     しかし、やはり全体として見ると、いくらなんでも「わけがわからない」ように感じられるのです。
     シナリオの「わかりやすさ」という次元で、やはり『ハウル』や『ポニョ』は『ナウシカ』や『ラピュタ』といった初期作品に一歩譲るのではないでしょうか。
     その証拠に『ハウル』や『ポニョ』のシナリオは非常に要約しづらい。
     それに比べると『ラピュタ』は「鉱夫の少年パズーが、空から落ちてきた少女シータと出逢い、彼女とともに冒険し、ついに天空の城ラピュタにたどり着いて、悪漢ムスカを倒す話」とでも要約できるでしょう。
     ぼくの言葉を使うなら、話の「コンセプト」がわかりやすいのです。
     コンセプト。
     ふたつ前の記事で出て来た概念ですね。憶えておられるでしょうか。
     ぼくはこう書いています。

     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。

     『ハウル』や『ポニョ』では、この「伝えたいテーマやメッセージ」がはっきりしない印象があります。
     平和は大切だといいたいのか? 子供は無邪気で素晴らしいといいたいのか? 釈然としないまま映画館を出た観客は少なくないでしょう。
     もちろん、そういう観客は宮﨑駿が真に表現したいことを受け取るだけの力量がないだけだ、とはいえるかもしれない。
     しかし、まさに川上さんが書いているように、マスに伝えるためには「わかりやすさ」が重要です。
     『ハウル』や『ポニョ』は、表現のレベルでどれほど高度であるとしても、一個のエンターテインメントとして、やはりあまりにも「わかりにくい」のではないでしょうか。
     「つじつま合わせ」の強引さという点では、『ナウシカ』や『ラピュタ』と『ハウル』や『ポニョ』の間に決定的な差はないかもしれません。
     ですが、それでもやはり後期作品は初期作品に比べて難解な印象を受けます。ペトロニウスさんの『風立ちぬ』評を引用してみましょう。

     実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。
     その理由は、「意味が分からないから」だった。
     精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間で起承転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。
     もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの奔流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

     とても慎重な書き方をしていることがわかりますが、ようするに『ハウル』は「意味がわからない」、もちろん過去作品のコンテクストを慎重に検討していくとわかるのだが、自分の好みではあまりにも「わかりやすさ」が足りないように感じられる、といっているのです。
     ぼくはこの見方にほぼ同意します。川上さんはこう書いています。

     実のところ、ぼくはストーリーが気になるのでジブリの作品にはいろいろ不満があったのです。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』を映画館で見たときには、もちろんおもしろくはあったのだけれども、不満もいろいろありました。
     この二本をあらためて自宅で見てみたのです。そうすると不思議なことに、今度はなんの不満もないどころか大傑作だったのが分かりました。
     ようするに宮崎駿監督がどんな作品をつくろうとしたのか、正しい見方をわかっていなかったのでしょう。
     少なくとも宮崎作品については、やっぱりストーリーなんかどうでもいいのです。もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。

     そうでしょうか。ぼくはここで根本的な違和を感じます。
     はっきりいうなら「ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はない」とはいえないと思うのです。
     この世には、わかっていても何度でも体験したくなるストーリーというものが存在する。ぼくはそう考えます。
     なるほど、宮崎駿は「表現の人」であり、「ストーリーの人」ではないかもしれない。
     だから、特別、つじつま合わせには拘らない。
     宮崎アニメを見て「つじつまが合っていないし、終わり方が強引だから駄作なのだ」ということは、非常につまらない見方ということはいえるでしょう。
     しかし、それにしても、一本の映画はストーリーと表現の双方から成り立っているわけであり、「ストーリーなんかどうでもいい」とまで悟れる観客はそう多くないのではないでしょうか。
     大半の観客は「面白いストーリーを最高の表現で体験したい」と思って劇場を訪れるはずです。
     そして、その場合の「面白いストーリー」とは「細かいところまで精密につじつまが合っているストーリー」という意味ではない。
     「ハラハラドキドキ、わくわくするような展開が連続し、幸福な、あるいは切ない気持ちで劇場をあとにできるストーリー」の意味だと考えられます。
     ふたつ前の記事で、ぼくはそういうストーリーを「落差」という概念で説明しようとしています。

     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
    (中略)
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。

     そう、大切なのは「ドラマティック」ということ。
     『ラピュタ』にはその「ドラマティックさ」があきらかにあった。
     鉱夫としての平凡で退屈できびしい日常――そこに空からゆっくりと降りてくるひとりの少女! 冒頭からしていきなりドラマティックな名場面から始まるわけです。
     それに対して、『ハウル』はどうか?
     比較するならやはり印象が弱いといわざるえないのではないでしょうか。
     なぜなら、『ハウル』では「善」と「悪」、「明」と「暗」といった対立概念が明確ではなく、そのコントラストがはっきりしないからです。
     『ラピュタ』のムスカを単純に悪人といい切ってしまうのは間違いなのかもしれませんが、少なくとも物語のなかでは悪役として描かれており、かれに対決するパズー少年とシータには正義があるように観客には感じられます。
     しかし、『ハウル』においては、もはや何が正しく、何が間違えているのか、いったい監督が何を伝えたいと思っているのか、一見したところでは判然としない。
     つまり、『ハウル』はあまりにも複雑混沌とした物語なのです。
     それでもなお、膨大な観客がこの映画を見に行くのはやはり宮﨑駿の天才的な表現力を見るためとしかいいようがありません。
     しかし、だからといって、そういう観客たちがみな「ストーリーなどどうでもいい。表現の素晴らしさだけが問題だ」とまで割りきれているかというと、ぼくは否定的にならざるを得ません。
     さて、この本のなかで、「表現の人」宮﨑駿に対立する「ストーリーの人」として受け取ってもいいのではないかと見える人物がひとりいます。
     手塚治虫です。

    「父は、自分は表現では勝てないことを分かっていたのでストーリーで勝負したんですよ」
     そう、ぼくに語ってくれたのは手塚眞さんです。父とはもちろん手塚治虫さんのことです。
    「父は東映アニメ、それこそ高畑さんや宮崎さんにはかないっこないから、アニメーションでは最初から勝負しなかったんです。でも、こっちはストーリーがおもしろいから、そこで勝負するんだって」
    (中略)
     どうせアニメーションの技術では勝てないので、制作費と製作時間を減らして、そのかわり手塚治虫原作のおもしろいストーリーで勝負することで、国産初のテレビアニメ放送を実現したのです。

     この箇所を読むと、手塚治虫には宮崎駿や高畑勲ほどの表現の天才はなく、ただ「おもしろいストーリー」で勝負するしかない人だった、というふうに読み取れます。これは一面の事実でしょう。
     しかし、逆にいえば、手塚治虫はストーリーという一点においては、アニメーションの申し子、線の魔術師たる宮﨑駿にすらアドバンテージを保つことができた、ということもできるわけです。
     そう、手塚こそは実に戦後漫画界最大にしておそらくは最高のストーリーテラーです。
     こと「おもしろいストーリー」を描くことにかけては、手塚は絶対の自負を持っていたと考えられます。
     それでは、その「おもしろいストーリー」とはどういうものなのか。パターンが少なく、あっというまに陳腐化してしまうはずのストーリーで、手塚はなぜ衆に抜きん出た存在であることができたのか。
     そのひとつの答えが、先の「コントラスト」ということです。
     手塚は巨大な「対照性」のあるストーリーを生み出す天才だったのです。
     その才能の稀有さ、貴重さは、実にアニメーションにおける宮﨑駿に匹敵するものとぼくは考えます。
     これだけでは抽象的に思えるかもしれないので、具体的な作品を見てみましょう。
     なるべく有名なエピソードが良いと思うので、『ブラック・ジャック』から「ふたりの黒い医者」を選びたいと思います。
     ブラック・ジャック永遠のライバル、ドクター・キリコ初登場の話です。
     とても有名な話なので、おそらくご存知かと思いますが、そうでない方は↓を読んでみてください。
    http://bkmr.booklive.jp/manga-sociology-01-euthanasia
     このラストシーン、ブラック・ジャックが絶望的な葛藤のなかで「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」と叫ぶ場面は、伝説的な名場面としていまも語り草になっています。
     それでは、このシーンの何がそれほどひとの心を打つのか。いろいろあるでしょうが、そのひとつが「コントラスト」です。
     このシーンでは、ある階段の上段にいるキリコと、下段にいるブラック・ジャックが対象されて描かれています。
     この上下の差が、即ち、死と生、勝利と敗北、運命と人為といった対立項を読者に強く印象づけるのですね。
     ここで読者は一転して敗者の地位に立たされたブラック・ジャックに強く共感し、かれの感情に同調します。
     手塚が作劇の天才としかいいようがないのは、この最後のコマで、その前のコマで高らかに哄笑していたキリコがもはやブラック・ジャックになどなんの興味もないといわんばかりにしずかに去っていこうとしているところです。
     つまり、ここには「宣言」と「沈黙」という対立項もあるわけです。
     まとめるなら、「死を司り、運命を信じ、ついに勝利したキリコの沈黙」と「生を守ろうとし、人為の限りを尽くし、それでも敗北したブラック・ジャックの宣言」が対峙していることになる。
     これこそが、まさに手塚的な「おもしろいストーリー」を象徴するワンシーンといえるでしょう。
     いや、これは手塚の「表現」の次元の話ではないか、「ストーリー」の次元の魅力とはいえないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
     このワンシーンだけならそうといえるかもしれません。
     しかし、このシーンの前にここに続くストーリーがあり、そこではブラック・ジャックはキリコが殺そうとした患者の治療に成功した「勝者」であったのです。
     それなのに、一瞬でかれは「運命」の前に「人為」のむなしさを思い知らされる「敗者」の地位にまで突き落とされる。
     その「落差」にこそ読者は痺れるような快感を覚えているのであって、これはやはり「ストーリー」の次元で生み出された名場面といえるかと思います。
     冷静に考えてみれば、せっかく助けた親子が突然死んでしまうという展開は、伏線も何もない、シナリオ技法の点からはちょっと問題があるような展開です。
     しかし、それが巨大な「落差」ある展開を生み、強烈な「コントラスト」を感じさせる結末に至るとき、ひとはもはやそんなことを気にしないのです。
     むしろ、「一切伏線がないこと」こそがこのエピソードの真骨頂だといえるでしょう。
     物語を面白くしようと思ったら、「落差」や「コントラスト」はかくも大切だということ。
     波乱万丈の映画を「ジェットコースター」に喩えることがありますが、迫力あるジェットコースターとは緩急や高低に富んでいるものです。
     物語も同じ。「落差」がない展開は、どんなに巧みにつじつまが合っていても面白くないのです。
     なるほど、ストーリーは表現にくらべバリエーションに乏しく、パターン化して陳腐になりやすいことはたしかでしょう。
     しかし、同じパターンであっても、「落差の差」、「コントラストの差」というものは存在しえる。
     そして、その差は実に見過ごせないほど大きなものなのです。
     たしかに、ストーリー作りは表現ほど「自由」ではないかもしれない。
     それは「始点」と「終点」、そして「結晶点(クライマックス)」を意識して厳密に構成しなければならないものだからです。
     その意味で、ストーリーテリングとは表現とくらべて「窮屈」なものである、ということもできるでしょう。
     それはどこか数学の公式や音楽の作曲めいたところがあって、何かがちょっとでも狂うともう完璧とは見えないのです。
     そして、それにもかかわらず、一瞬で完璧なシナリオを作り出してしまう手塚のような天才もいるところも数学や音楽と似ています。
     モーツァルトは即興でみごとな曲を作ることができたといいますが、手塚はさしづめ「作劇技術のモーツァルト」ということができるかもしれません。
     この天才的な「劇的な落差を生み出すことの天才」があってこそ、手塚は宮崎駿といった「表現の天才たち」に勝負を挑むことができたのだ、と考えてみると面白いでしょう。
     戦後のエンターテインメントをざっと眺めてみると、ぼくにはもうひとり、「ストーリーの人」といいたい巨人がいます。
     黒澤明です。
     黒澤がシナリオを重視したことは有名で、「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる。だけどシナリオが三流なら、一流の監督がいくら頑張ってもうまくいきませんよ」といった発言がいまに残されています。
     かれはじっさい、脚本づくりに膨大な時間と労力を費やしたといいます。
     『コンテンツの秘密』のなかでは、この黒澤も最後には表現を選んだということが書かれています。
     これはたしかにそうだろうとぼくも思います。晩年の作品を見ると、「黒澤も最後には表現に行った」ということはできそうに見えます。
     しかし、ぼくは思うのです。それは必ずしもマスに歓迎される変化だったのではないのではないか、と。
     もちろん、一個の芸術作品としては『乱』は素晴らしい。『夢』は美しい。そういうことはできる。
     しかし、より一般的な視聴者にとってやはり黒澤明といえば、『天国と地獄』であり、『椿三十郎』であり、『七人の侍』なのではないか。

     それは宮﨑駿といえば『ナウシカ』であり『ラピュタ』である、ということとどこか共通したものがあるのではないでしょうか。
     たしかに、大黒澤も最後には表現に行ったひとりではあるでしょう。
     しかし、それは「緻密な構成力」が衰えたために、そういう方向に進まざるをえなかったという一面もあるように感じられます。
     そう、ぼくには厳密な意味での物語の構成力とは歳を取るにしたがって衰えていく種類の知的能力であるように思えるのです。
     その証拠に、巨匠とされる人の晩年の作品を見ると、どれも長い。これは短く無駄なくタイトにまとめあげるスキルが衰えているということなのではないでしょうか。
     ぼくひとりがそう考えているわけではなく、たとえば『ファイブスター物語』の永野護などは、連作短編エピソードである「ザ・シバレース」を描いた理由を、こう述べています。

     「ザ・シバレース」を描いた理由のひとつとして「運命の3女神」での反省があった。
     「運命の3女神」はとにかく長くなりすぎた。当時、作家として、シナリオライターとして、自分にはものすごい恐怖感があって。昔から作家や脚本家に、40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多いような気がしていて。実際に多くの作家や脚本を書く映画監督が、つくる話がどんどん破綻してしまっていくのを見ていたからね。まあ、小説でも映画でも実際にはつじつまを合わせる必要はないんだけど、それを飛び越えるくらいの勢いで破綻しているケースを見てきた。
     「アトロポス」を書き終えたころはもう30代半ばだったし、そういった不安から30代のうちに自分に足かせをつけて膨大な短編を残しておかないとって思ったんだ。
     若い作家と年齢を重ねた作家の違いを考えると、若い作家は勢いで膨大な短編を生み出しているんだよね。O・ヘンリーもそうだし、ジョン・アーヴィングもそうだし。近代作家もすごいいっぱい短編を書き残しているよね。そういったことを含めて、「ザ・シバレース」を描こうと思った。

     「40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多い」。これは、ぼくの印象と重なります。
     たとえば、あれほど天才的な物語作家であった栗本薫にしても、40代ごろからその作品は冗長化の一途をたどった印象が強い。
     しかし、それも当然といえば当然のことです。物語づくりとは「窮屈」なもの、年を取り、巨匠と呼ばれるようにまでなって、そういう「窮屈さ」を引き受けようとするクリエイターはそう多くはないということなのでしょう。
     永野護にしても、短編をつくる作業を「足かせ」をつけると表現しています。
     これは「窮屈さ」をひき受けるということとほぼ同じ意味でしょう。
     ぼくはそういう永野をほんとうに偉いと思うのですが、それはまたべつの話。
     とにかく、ある程度の自由が許される「表現」にくらべて、「ストーリー」を作ることは「窮屈」であり、歳をとった作家はその「窮屈さ」に耐えられなくなっていくのではないか、という話です。
     しかし、やはり作家にとって「おもしろいストーリー」はひとつの強力な武器であるわけで、仮に表現がクリエイターの権利であるとすれば、ストーリーはクリエイターの義務。そういうふうにいえるかもしれません。
     さて、このようにストーリーの良し悪しには「つじつまの整合性」のほかにも「波乱万丈さ」という基準があるわけですが、そんなハラハラドキドキのストーリーにしても、川上さんのいうように「分かってしまえばもう見る必要はない」のでしょうか。
     実は、ぼくはこの点についてもそうは思わないのです。
     これはつまり、ひとは先の展開がわからないからそれが気になって画面を注視するわけ「ではない」ということです。
     いや、もちろんそういう側面は強いでしょうが、それがすべてかといえば、決してそうではない。
     むしろ、先の展開がわかっているからこそ、それを見たくて画面に集中してしまう。そういうことがありえるとぼくはいいたい。
     表現という一点を取るなら、スタジオジブリの作品でも後期の作品のほうが、やはりそれなりのお金をかけているぶん、川上さんがいうところの「情報量」が多く、魅力的であるはずです。
     初期の『ナウシカ』や『ラピュタ』、つまりスタジオジブリ以前の作品は、それにくらべれば情報量的にシンプルでしょう。
     となると、必然的に後期作品のほうが初期作品より「再視聴、再々視聴に耐える」ことになりそうです。
     しかし、じっさいには必ずしもそうなっていないのではないでしょうか? 表現としていまではそこまで情報量が多いように見えない初期作品も、後期作品以上に「再視聴、再々視聴に耐える」ものである。こういったとして、反論はそこまで大きくないのでは?
     それはなぜかといえば、「あるコンセプトに基づくストーリー」の力だと思うのです。
     「つじつま合わせ」という点でいえば特に優れているとも思えない宮崎アニメですが、それでも、少なくとも初期作品、あるいは前期作品には「おもしろいストーリー」があった、とぼくは思います。
     つまり、そこでは「落差」や「コントラスト」を生み出すドラマツルギーが、わかりやすくシンプルな形で作用していたと考えるわけです。
     たとえば、あの有名なパズーとシータが「バルス!」と叫び、ラピュタ城が崩壊してゆくシーン。
     あのシーンはいまではテレビ放映されるたびにTwitterでシェアされ、何十万もの人がともに「バルス!」と叫ぶことになっているわけですが、これは当然、その人たちが『ラピュタ』を既に見ていて、先の展開を知っていることを意味しています。
     かれらはすべての展開を知ってなお、「バルス!」の瞬間をわくわくと待ち望みながら『ラピュタ』を見ているわけです。
     なぜこんなことがありえるのでしょうか? それは、物語という「波」に乗ることが気持ちいいからだとぼくは思います。
     そう、川上さんがいう「脳に気持ちいい表現」があるように、「脳に気持ちいいストーリー」というものもまた存在するのです!
     ぼくはそれを「波」に喩えます。
     つまり、上がったり下がったりという「落差」のある展開を楽しみつづけることは、ある種の「波」に乗ることに近いものがあるように思うのです。
     この「波乗り」の快感が忘れられなくて、多くのひとはくり返し同じ映画を見るのではないでしょうか。
     世の中には、手塚や、ある時期までの黒澤のような物語作家(ストーリーテラー)と呼ぶべき作家たちがいます。
     「表現」より「ストーリー」により長けたクリエイターのことです。
     もちろん、手塚や黒澤は「表現」においても天才的な人物だったかもしれませんが、かれらがなぜ大衆の心を掴んだかといえば、魅力的な「波」を生み出す才能を持っていたからでしょう。
     たとえば田中芳樹。
     もっというなら奈須きのこ。
     田中は、表現力という点だけを取れば、おそらくそこまで優れた作家ではありません。
     それほど文章がうまいわけでもないし、あまり表現のセンスが良くないところがある。
     奈須きのこに至っては、文章力という一点だけを取るなら、はっきりと稚拙です。
     特に初期は読むのが辛いくらいなのですが、それでも、田中や奈須はベストセラー作家になりおおせました。
     なぜ、そんなことが可能だったのか。それは、かれらが物語作りに比類ない天稟を備えていたからです。
     かれらは魅力的なストーリーを生むことに特化した才能と技能をもつ物語作家なのです。
     西洋では、ロバート・A・ハインラインとか、スティーヴン・キングなどがそういう作家にあたるでしょう。
     物語作家は落差(高低差)の大きいストーリー(波)を生み出すことに長けています。
     ある場面、もっというならあるひと言にそれまでのすべての展開が「結晶」するように緻密にドラマを紡いでいく、そういう才能のもち主なのです。
     たとえば、『銀河英雄伝説』の「ラインハルトさま、宇宙を手にお入れください。それと、アンネローゼさまにお伝えください。ジークは昔の誓いを守ったと」といったセリフ。
     あるいは『Fate/stay night』の「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は充分か」というセリフ。
     これらは、そのひと言に向かってそれまでのすべての物語が収斂していく、そういう言葉です。
     LDさんの言葉を借りるなら、これらのひと言こそが、その物語の結晶点、クリスタライズ・ポイントであるわけなのです。
     こういう「波」の頂点ともいうべきセリフなり場面を生み出すことができ、しかもその前後の「波」がそこに自然につながっていくように計算して構築できる才能、それが物語作家の資質です。
     だから、奈須きのこの文章技術をいくらばかにしたところで意味がない。それはまったく筋違いの批判です。
     いい換えるなら、名ゼリフとか名場面というものは、それ単体で成り立つものではないということ。
     そこに向かって徐々に高まっていった物語のテンションがついに最高潮に達する、その瞬間をみごとに捉えたセリフや場面が名ゼリフと呼ばれ、名場面と呼ばれるだけのことなのです。
     その瞬間には実に堪え切れないカタルシスがある。しかし、それはそれ単体で成り立っているわけではない。
     物語とは「波」。
     山あり谷ありで初めて成り立つもの。
     だからこそひとは既に展開がわかっていて、しかも表現として特別に情報量が多いわけでもない同じ物語をくり返しくり返し楽しんだりするのだとぼくは考えます。
     ストーリーはたしかにパターン化しやすく、一見すると簡単に模倣できそうに見える。
     だから、物語作家はしばしば低く見られ、ストーリーの価値は軽く受け取られることもある。
     しかし、そうではない、優れた物語作家とは天才的な表現者と同じくらい貴重な存在なのだ。ぼくがいいたいのは、そういうことです。
     それでは、 
  • 書評――川上量生『ルールを変える思考法』。

    2013-11-24 18:39  
    53pt




     最初に記しておきましょう。この記事はドワンゴから報酬をいただいて書いている依頼記事です。ある意味、ステマと云えなくもない(ステルスしていないけれど)。
     そういう記事は信用できないという方はいますぐ回れ右し、べつの記事へ飛んでもらってかまいません。ただし、記事の内容はぼくの裁量に任せられており、べつだん、正直な感想をねじ曲げることを求められているわけではありません。そのことは明記しておきます。
     そういうわけで、正直な感想を述べておくと、いや、面白かった。ただ、率直に云ってビジネス書としてはあまり役に立たないのではないでしょうか。内容があまりにユニークすぎる。
     この本を読んで、すぐさまビジネスの最前線に役立てることができるひとは、そのひと自身、相当にユニークなキャラクターでしょう。
     特に後半の人類史的パースペクティヴに立ってSF的な奇想に至る展開は圧巻。こういう内容が仮にもビジネス書として発表されたことはなかなか画期的なのではないかと思います。役に立たないだろうけれど(笑)。
     本書の著者は、ニコニコユーザーなら(たぶん)だれでも皆知っている、ぼくたちのドワンゴ会長、川上量生さんです。
     川上さんは本書一巻を通し、現実世界をひとつのゲームとみなし、それをいかに攻略していくか、その方法論を語っています。
     しかし、この場合のゲームとは、ある種のテレビゲームだけを指しているわけではありません。むしろ川上さんは「非電源型のシミュレーションゲーム」のほうにより強い思い入れがあり、テレビゲームを少々敵視しているようです。
     その云い分に対して、テレビゲームが好きなぼくとしては云いたいこともあるのですが、この際、それはどうでも良い。
     川上さんによると、かれが愛する「非電源型」のゲームの魅力は、ゲームのルールそのものをよりおもしろく、より魅力的に書き換えることができる点にあります。
     かれの話を信じるなら、それはいっそう現実に近い形のゲームなのです。現実世界、特にビジネスの世界などでは、ルールそのものが書き換えられていくことなどごく日常的な出来事なのですから。
     本書のタイトルは「ルールを変える思考法」ですから、まさにこの「ルールそのものに干渉する」ことが、ひとつのテーマとして取り上げられていることがわかります。
     川上さんの話によれば、このルールを疑い、時に変えることはビジネスにおいてもきわめて重要であり、「非電源型」の、高度な思考力を要求されるゲームは現実世界での生き方を決める際にも勉強になるということです。
     とりあえず、ぼくはそういうふうに理解しました。そして、ここで、ぼくはなるほど、と膝を打ちます。
     たしかに川上さんの云い分はわかる。ひたすら決められたルールを順守しつつ、その箱庭のなかで遊ぶゲームは、ある意味で現実から遠い。
     そこでは、現実世界の、基本的なルールすらいつねじ曲がるかわからないゲームを勝ち抜く作法は学べないかもしれない。
     しかし、一方で、世の中には、そういうゲームこそ高度だと考える一派があるわけです。たとえば、将棋やチェスを愛好するひとたちは、いまさらルールを変えてほしいとは思わないでしょう。
     もちろん、そのルールに何らかの難点があったならルール変更を申し出ることもあるかもしれませんが、基本的には、さだめられたルールはそういうものとして、その範疇で戦うことを選んでいるはずです。
     だから、そういう現実世界を生きるためにはあまり役立たないかもしれません。むしろ、その種のゲームに夢中になればなるほど、ひたすらに浮世離れしていくという傾向があることすら考えられる。
     しかし、まさに「役立たず」であるからこそ、その世界は美しい。