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  • カザマアヤミが描く「イタオタ」の幸福な日々。

    2015-10-17 01:09  
    51pt

     カザマアヤミ『嫁いでもオタクです』を読み終えました。
     昨年のぼくのベストであるところの『恋愛3次元デビュー』の続編ということで、とても楽しみにしていたのですが、期待に違わぬ素晴らしい出来で、今回も大笑いさせていただきました。
     前作は女子高育ちで男性に対する免疫が一切ないカザマアヤミが、さまざまなカンチガイを乗り越えて結婚するまでを描いていたのですが、今回はその後の新婚生活のお話。
     普通ならスウィートになるはずのお話なのですが、そこは夫婦そろってずぶずぶのオタク、ひと筋縄で行くはずもなく、色々な事件が起きます。
     メイドロボに嫉妬して泣いたりとか、旦那と友達の関係に腐ってみたりとか……。
     全体的に下ネタが多めなので、前作と比べてひとを選ぶところはありますが、あいかわらず捧腹絶倒の内容で、面白いです。
     前作と合わせてオススメの本なので、良ければご一読ください。
     読み終えてひとつ思ったのが、この夫婦、ふたりともとても幸せそうなのだけれど、こういう人たちを「リア充オタク」とは呼ばないのだろうな、ということ。
     ふたりともどちらかといえば「イタオタ」に近いわけで、『新・オタク経済』的な見方からすれば、旧時代の人間ということになってしまうのかもしれません。
     しかし、ふたりはそんなこととはまったく関係なく幸せを満喫しているわけで、やっぱりリア充がどうこうという指標は信用ならないなあ、と思ってしまいます。
     大学がテニスサークルだからリア充だとか、将来を嘱望されているから勝ち組だとか、あまりに単純すぎるのではないでしょうか。
     そういう一面的な見方は人間の複雑さに対する侮辱だと思う。
     こういう話になると、ぼくはいつも北村薫の小説『鷺と雪』の一節を思い出します。

    「身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑(なみ)し排撃する。そのように思えてなりません」

     結局、人間という生き物はどうしようもなくひとを差別し、あるいは優越感に耽り、あるいは劣等感に悶える。そういう存在なのだろうと思うのです。
     劣等感を振りかざすことは優越感を抱くことよりまっとうなことのように見えるかもしれませんが、じっさいには「おれはこんなに可哀想なのだから配慮しろ」といっているに等しいこともあるわけで、そう単純には評価できません。
     結局のところ、リア充がどうの、オタクがこうのといってみても始まらない、各自がただ好きなように生きていけばいいのだろうというところに結論は至りそうです。
     もちろん、 
  • 「普通の顔」を喪うことをリアルタイム体験中だよ!

    2015-09-15 01:07  
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     ども、海燕です。
     いま、ぼくは全身脱毛症で困っています。
     全身脱毛症というのはぼくがかってに見立てた病名に過ぎませんが、じっさい全身の毛という毛が抜け落ちているのだから全身脱毛症といってもいいでしょう。
     初めは頭部の軽い円形脱毛症から始まったのだけれど、いまでは眉毛やまつ毛もほぼ抜け落ちているし、腋毛やすね毛もほとんど抜けてしまいました。
     きのう、皮膚科へ行って招待状書いてもらったので、きょう大学病院で検査してもらって来ます。またお金がかかるなあ。ぐぬー。
     しかしまあ、こういう病気にかかると、やっぱり「なんでおれだけが」という気分になりますね。
     じっさいにはぼくだけじゃないし、ぼくよりずっと深刻な病気の人もたくさんいるのだけれど、そういう正論に対しては「あー、あー、きーきーたーくーなーいー」と耳をふさぎたくなる。
     ぼくの場合は肉体的苦痛があるわけではないので、本人が気にしなければそれで終了なのだけれど、髪の毛はまだしもまつ毛まで抜けるとなると、さすがにストレスが大きいわけです。
     検索してみると同じような症状で悩んでいる人は大勢見つかる。
     ぼくはいいかげんおっさんだからまだいいけれど、これが年頃の女性だったりすると辛いであろうことは容易に想像できます。
     「ひとと違う顔」を持っているということはただそれだけで生きづらいことなのです。
     ぼくはべつにそこまで気に病まないけれどねー。うん、さすがにちょっと辛いけれど、まあ、べつにもとからイケメンだったわけでもないしな。
     ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、いまから何年か前、『ジロジロ見ないで “普通の顔”を喪った9人の物語』という本が出ています。
     これはそれぞれの理由で「普通の顔」をなくした9人の人物に取材した本で、初めて読んだときはそれはそれは大きなインパクトがありました。
     ああ、「普通の顔」をなくすということはなんと辛いことなのだろうと衝撃を受けたのです。
     しかし、それから何年か経っていまぼく自身もほぼ同じ状態になってしまったわけなのですが、「ユニークフェイス」の当事者となったいま、顔の問題が人生を決するほど大きいとはやはり思いません。
     結局、当人の受け止め方しだいなんですよね。
     ぼくの場合、とりあえず顔面の毛はほぼすべて抜け落ちましたが、それでひとの目が気になるかというと、まったく気にならない。
     そういう意味ではぼくはたぶんあまりひとの目が気にならない人なのだと思います。
     特にジロジロ見られているとも感じないし、差別的な扱いを受けたわけでもないし。
     これが会社勤めだったりするとまた違うのかもしれませんが、そこは気楽なフリーランス。
     まあ、せっかくなので普通の人が体験できないであろう状態を味わっています。
     いくらかストレスになっていないというとウソになってしまうし、「香港映画の悪役みたいな人相になってしまったなあ」と思わんこともないけれども。
     ちなみに『ジロジロ見ないで!』に出て来る脱毛症の女性は、撮影終了後、自殺されたということです。 
  • すずやかな風のように心を吹き抜けてゆく言葉を浴びていたい。

    2014-04-12 23:16  
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     ふと、なぜともなく、本を読みたくなる時がある。何の脈絡も、ひとかけらの理由もなく、突然に「その時」はやって来て、「ああ」と、のどの渇きに似た感覚を意識させられるのだ。いま、本を読みたいなあ、と。
     まさに先刻がそうだった。そこで、ぼくは深夜まで営業している書店まで向かい、何冊かの本を仕入れてきた。いずれも、ぼくの渇きを優しく潤してくれるに違いないと感じたものばかりだが、なかでもいちばん初めに頁をひらいたのがこの本だった。
     江國香織『都の子』。小説ではない。エッセイ集である。それも、ごく軽妙な、云ってしまえば他愛ないことばかり綴った一冊だ。まだ半分も読んでいないが、この先、最後まで読み進めて行っても、世界の深遠を暴き立てるような一行に出逢えるとは思えない。
     しかし、それにもかかわらず、いや、まさにそうであるからこそ、ぼくの渇きは確実に癒やされていった。何と云っても、ひとつひとつ正確に選び抜かれた言葉たちの無音の響きがすばらしい。何気なく頁をめくるたびに、白い行間から爽涼な風が吹き込んで来るかのよう。
     透明感と云うといかにも安っぽい表現になる。しかし、江國が選び出した言葉たちの、ふしぎに森閑と静まりかえった森のような空気、その静寂の圧力が心にじわじわと沁みこんでくるような雰囲気を表わすためには、やはり、この表現になると思う。
     ほんとうにこのひとは文章が巧い。ひと言で巧いというのではとても表し切れないくらい巧い。ふだんからインターネットで沢山の言葉にふれているぼくだが、それでも、こうも秀抜な手際で彫琢された、涼やかな文章の味わいは格別だ。
     ぼくはべつだん言葉の美食家を気どるほうではなく、むしろ雑食家に近いのだけれど、それでも、時には純粋で綺麗な文章を浴びて、心に溜まったよどみを洗い流す必要を感じることがある。
     心に沈み込んだ怠惰な心や、ひとを怨む想いを、ざぶざぶと洗い落としてしまいたい。そう思うのである。そのためには、江國の文章が最適だ。
     世の中に名文家と云われるひとは無数にいる。そのなかで、なぜ、江國の文章だけが、こうも涼しげに心を吹き抜けてゆくのだろう。
     くり返すけれど、特にそこに世界の真理が横たわっているとは思わないのだ。彼女が綴りだすのは、いずれも全くつまらない出来事ばかりである。
     仮にも作家によるエッセイの題材として選び出されたにしては、いかにも冴えない題材ばかりだと思う。だれが、パレルモのアイスクリームについて夢中になって読むだろうか。すくなくともぼくはそんな地味な街には興味がない。そのはずだ。
     ところが、じっさいに読んで行ってみると、いつのまにかその音もなく雨が降る沈鬱な街の描写にひきずり込まれている自分を発見することになる。
     これはまったく、言葉の手品だ。ひとつひとつの単語は、どんなうすい辞書にも載っている、ごくごくあたりまえのしろものに過ぎないのに、それが的確な順序で並べられてみると、途端に灰いろのパレルモが目の前にありありと浮かび上がってくるのである。
     そして、また、その底しれず憂鬱な街の一角で見つけた、魔法のようなアイスクリームの味わいまで胸に迫ってくるのだから、ふしぎと云うしかない。
     いったいどんな修行を積んだら、こういう言葉を綴れるようになるのだろう。それとも、初めからその指にそなわった力なのだろうか。
     もしも、自分自身でこういう言葉を綴れるようになれたら、どんなにか幸せだろうと思う。なぜなら、そうすれば、自分の心の泉から湧いてくる言葉たちで渇きを潤すことができるではないか。
     それこそ、正しい自給自足というもの。そうなったら、もう二度と魂の渇きを知ることはないに違いない。豪華絢爛、金いろの糸で織り込んだような言葉や、真鍮みたいに鈍くひかる言葉をも自在に生み出せるようになったらなお、良い。
     そういう「泉」を