• このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ “Pha” を含む記事 11件

オレはようやくのぼりはじめたばかりだからな、このはてしなく遠いダメ人間坂をよ。

 あした朝早く起きないと、と思ったらさっぱり眠れません。我ながらこういうところは神経細いよなあ。  いやまあ、きのうは昼近くまで寝ていたのでいま眠くならなくて当然なのかもしれませんが。  しかたないので、Phaさんの『しないことリスト』をぱらぱらと読み返しています。  Phaさんの文章は口語に近く、しかも力みがないのでとても読みやすい。こういうとき読むには打ってつけですね。  この本は以前にも紹介しましたが、人生において「しないこと」、「しなくてもいいこと」をリストアップした内容です。  リストは「買い物をしない」、「お金で解決しない」から始まって、「突き詰めない」に至るまで、36項目に至ります。  いずれも「ダメ人生の達人」としての極意が簡潔に示されていて、非常に参考になります。  これから先、ダメ人間として生きていくつもりのぼくとしては「先人の教え」にも等しい話ばかり。  いいよなー、この人。一切気負わずに脱力しているというか、無駄な力みがない感じ。ヒトとして素晴らしいと思います。  Phaさんと比べると、ぼくなんか、やっぱり無為に耐えられない性格をしていると思う。  その意味ではニートにもひきこもりにもあまり向いていない。基本的に無能だからひきこもりをやっているだけで、働けるものなら働きたいと思うもん。  もちろん、「労働」になんらかの美徳を認めているわけではないのだけれど、働いていないととにかく暇でしかたないのですね。  映画とかゲームとかでは暇をつぶし切れない。そしてやっぱり努力していないつもりでもいくらか努力してしまっているところもある。  ようするに中途半端でキャラが立っていないのです。  以前にも書いたかもしれないけれど、Phaさんはよく「だるい」と書きますが、ぼくはあまり「だるい」とは思わないのです。  もちろんやりたくないことはたくさんあるけれど、それは積極的にやりたくないという意味であって、「だるいからやりたくない」とは違う。  やっぱりPhaさんと比べるとぼくは体力が余っているんだろうなあ。だから、無意味なことにも力を注いだりしてしまうのだろう。  そこらへん、まだまだダメ修業が足りないな、と思います。  そうかといって、一般的な社会人として暮らしていけるほどのスキルも持っていないわけで、いや、ほんと、半端者ですね。  まあ、それがぼくという人間だからいいのだけれど。  ぼくはなんだかんだといってもやっぱり自己責任でひとと競って成果を上げることがけっこう好きです。  それはべつにそのことに高尚な意味があると思っているわけではありません。  当然、社会のためになるなどという幻想も抱いてはいない。  ただ、ある種の「ゲーム」として数字をアップしていくことが好きなのですね。  だからこそ、こうして1日に4本も5本も記事を更新しつづけているわけです。  「お金のため」といえばそうなのだけれど、やっぱり基本的には「暇つぶし」、「退屈しのぎ」というほうが近い。  もし書くことを「だるい」と思っていたら、これほど更新したりしないでしょう。  ぼくはふしぎと書くことについては一切「だるい」とは思わないのですよね。  へたすると1日10000文字とかをテーマに沿って書いているわけですけれど、それでも全然飽きないし、書き足りないくらいに感じる。  やっぱり書くことが好きなのだと思います。それが少額とはいえお金につながっているわけだからもう文句なしですよね。  つまりはぼくはやっぱりダメ道においても悟り切れない凡人でしかなく、Phaさんの遠い背中を見てはため息を吐くばかりです。  でも、 

オレはようやくのぼりはじめたばかりだからな、このはてしなく遠いダメ人間坂をよ。

毎日を遊んで暮らすことには才能がいる。

 Phaさんの新刊『しないことリスト』を購入しました。  「どうしてもこれをやらなければならない」という思い込みに縛られている現代社会に対し、「やらなくていいこと」のリストを作ることでの脱出を目指そうとする一冊です。  書かれていることはいままでの本とほとんど変わりありませんが、一貫性があるといういい方もできるでしょう。  全編、「怠け者の哲学」ともいうべき独特の思想が通底していて、とても面白い。  ぼく自身は日々、懶惰な人生を送っているわけですが、忙しくしている人は読んでみるといいかもしれません。何か気づきがあるかも。  あまりに世界が違い過ぎてなんの参考にもならないという可能性もありますが……。  ニートを自称するPhaさんはいわば「怠惰の達人」です。  忙しく働いている人からすればその生き方はただ怠けているだけに見えるかもしれませんが、じっさい本人が幸せそうなのだから傍から文句をいうような問題ではないでしょう。  ぼくから見ると、すごいなー、偉いなーと感嘆するばかりで、ぼくもこういうふうになりたいな、と思わせられるものがあります。  ぼくが実在の人物をそういうふうに評することはめったにないのですけれどね。  しかし、あまりに達人すぎて、凡人であるところのぼくにはとても真似できそうにないということもほんとうです。  Phaさんはいま、執筆などで年間100万円ほどの収入を得るほかは一切働いていないそうです。  それで暮らしていけるものなのかと驚きますが、つつましやかな生活をしていれば特に困ることもないようですね。  ぼくも同じくこのブログを更新するほかはほとんど働いていない身の上ですが、ぼくのほうはいまの自分に不満があるのですよねー。  というのも、ぼくは退屈に耐えられないのです。  仕事をしていないと、家族以外の人と逢ったり話したりすることもほとんどないので、どうしても日常が退屈になって来る。それが辛い。  ひきこもりの辛さですね。  普段から忙しい人からすればそんなものは辛さのうちに入らないというかもしれませんが、いや、じっさい、ほとんどやることもなくただ日々をむなしく過ごすというのも辛いのですよ。  アニメ見たり漫画読んだりここを更新したりする作業そのものはまったく大変じゃないし、むしろ楽すぎてどうなのだと思うくらいなのだけれど、日常の灰色さは真剣に辛い。  「やらなければならないこと」がいくつかあったほうがよほど楽だろうと思う。 

毎日を遊んで暮らすことには才能がいる。

無職を楽しむには条件がある。

 きのう、大人の日常系作品では「仕事」が重要なポジションを占めるよね、と書いたのですが、よく考えなくても当然、無職の主人公を描いた作品もありますよね。  その手の作品は必然的にどこか重くならざるを得ないのかな、と思い、参考までに『働かないふたり』を読んでみました。  うん、全然重くないですね。あくまで軽いコメディとして楽しく読める。  ただ、リアルニートの身の上からすると非常に身に詰まされる話で、ほんとうに楽しく読んでいていいのかな、と疑問に思ったりします。  あるニートの兄妹が主役の楽しい日常ものなのだけれど、このまま行くといつかは破綻する生活だよなあと思えて来るところが微妙に辛いです。  もちろん、そういうことは考えないで単なる日常ものとして読むこともできるのだけれど、いや、どうしても考えてしまうよなあ。  まあ、ぼく自身がこの兄妹と変わらないごくつぶしの生活を送っているわけなので、ことさらに非難しようとはまったく思いませんが、先の見えない人生にはどうしたってある種の緊張感がただようもの。  『のんのんびより』を読むのと同じ感覚で読むのは無理でしょう。  いや、『のんのんびより』だって未来は閉ざされているかもしれないけれど……。  そうですね、たとえば『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』にしたところで、主人公は作家という不安定な職業です。  あすをもしれぬ、とまではいかなくても、決して明るい未来が保証されているわけではない。  こうしてみると、案外、不安定な境遇こそがいまの楽園性を強化しているのかもしれません。  ある種の逃避には違いありませんが、将来が不安であればあるほど、いまは輝きを増したりするのかも。  いまの時代、日本全体が未来が見えない状況にあるわけで、将来の幸せまで確実に見えている人は少数派でしょう。  となれば、未来が見えないにもかかわらずいまの日常を楽しむ姿にこそ、リアリティがあるのかなあ、とも思います。  とはいえ、完全に社会と隔絶したひきこもり生活はどう想像してもあまり楽しいものにはなりそうにありません。  だから、どこかで社会との接点を持つ必要がある。  この場合は、 

無職を楽しむには条件がある。

退屈は人類最後の課題だ。

 先日教わった『地龍のダンジョン奮闘記!』というなろう小説がなかなか面白くて、読み耽っている。  タイトルだけ見ると異世界ファンタジーのようだが、じっさいには地龍に転生した主人公ができるだけ居心地のいいダンジョンを作ろうとするいわゆるスローライフもの。  最強の地龍に生まれ変わったくせに、徹底してニートな主人公の発想が心地よく、なかなか読んでいて楽しい。  ストーリーが一挙に動き出してからは面白くなるのかどうか微妙だけれど、何しろストレスがなく気楽なのですらすら読み進めてしまう。  考えてみればわざわざ異世界に転生してまでなぜスローライフを送らなければならないのだとも思えるが、現実世界の現実的な条件に縛られないあたりがこのジャンルの人気の理由だろう。  異世界ものではないが、『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』あたりも似たようなところに面白さの根幹があると思う。  多くの人が、派手な冒険や過酷な成長よりも、まったりとした成熟した日常にあこがれを抱くようになっているのかもしれない。  もちろん、その一方で冒険活劇はしっかりと生き残っているのだが。  ところで、ぼく自身もまずスローライフといっていい暮らしを送っている。  このブログそのほかでいくらかの収入を得て、毎日だらだらと暮らしているわけだ。  1日1回ジムに通うほかは、いくら寝ていてもだれにも怒られない。生きたいように生きられる。  自由で快適なひきこもりライフ。  しかし、この至福とも思える生活は、ひとが思うほど良いものではないともいえる。  なんといっても、退屈なのだ!  孤独はSkypeで話すなどして晴らすことができるが、退屈はまさにいかんともしがたい。  読書とか映画とかテレビゲームとか、そういう内向的な趣味には限界がある。  いくら面白くても自分のなかに情報を詰め込むだけでは飽きて来るのだ。  たぶん、行動することが必要なのだと思う。  前の記事で書いたように、くだらないことでもコミットしてみるのだ。  そうして本気になってバカをやって汗をかくことで、人生のむなしさを乗り越える。それしかない。  しかし、現実に地方都市でひとりひきこもりをやっているだけだと、できることは限られているのも事実。  ぼくはつまり「生きがい」が欲しいのだが、そんなもの、そこかしこに落ちているわけがない。  働きに出かけるか? しかし、いま現在、特にお金に不自由しているわけではないし、時給650円でバイトしたって、辛い思いをするだけでいいことはないと思う。  そういうわけで、悩むところなのだ。  この退屈という魔物を打ち倒すことができれば、ぼくのスローライフは理想的だといえそうなのだが……。  いったいどうすればいいだろう?  ぼくは本のなかに答えを探してみた。  何冊かの本は、プアでフリーでスローな人生こそが素晴らしいのだと示唆しているように思えた。  たとえば、こんな本たちである。 

退屈は人類最後の課題だ。

どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

 「いばや通信」のこの記事が非常に面白かった。 http://ibaya.hatenablog.com/entries/2015/06/29  ここで坂爪さんは「漁師とコンサルタント」という有名な寓話を取り出してこう書いている。 坂爪「これさ、俺は『半分同意、半分違和感』って言うのが正直な感想で、半分の同意は『そう言う生活を既に手に入れている漁師は非常に豊か!』ということで、根本的に、自分で自分の人生は最高だと思っている人は、その時点で(他の人間がとやかく言うものじゃないし)勝ち組だと思っているのね」 みっつ「はい」 坂爪「でね、半分の違和感は自分自身に対してなんだけど、『幸せな日々に飽きることはないのかな?』っていうことなの。毎日シエスタをして、自然を楽しみ、仲の良い人達とのんびり過ごす時間は絶対に豊かだと思うけど、もしも自分だったら『絶対にもぞもぞしてくるだろ!』って思うのね」 みっつ「はい」 坂爪「男の子的なもぞもぞ感、とでも言いましょうか。確かに幸せなんだけど、幸せなだけじゃ足りないんだよ。毎日同じことをしていたら必ず飽きるし、『新しい何か』をしてみたくなると思うんだよ。世界にはまだ俺の知らない面白い場所があるはずだ!って、俺は絶対に思っちゃう気がするんだよ」  まさにいまのぼくのことだな、と思う。  家はあるし、そこそこの収入もあるし、友人はたくさんいるし、娯楽もたくさんあるし、とても幸せなのだけれど、同時に「やることがない」という退屈さの地獄に閉じ込められた感がある。それがぼく。  もちろん、あまりに忙しいとそれはそれで苦しいことになるのだが、暇すぎることも楽ではないんだよね。  まあ、真面目に働いている人たちからすれば何をほざいているんだと思う悩みかもしれないが、しかし、この問題、リンク先で坂爪さんが書いている通り、本質的なものだとも思う。  「幸せなだけじゃ足りない」。  たとえ贅沢といわれようと、それはほんとうのことなのだ。ひとは幸福なだけでは生きていけないのである。  じっさい、ポジティブ心理学の本などを読むと、宝くじがあたった人の幸福度は予想されるほど高くないらしいということが書かれている。  その反対に、事故などに遭って障害を負った人の幸福度も意外に低くないようだ。  もちろん宝くじがあたった瞬間は嬉しいだろうし、怪我を負った瞬間は嘆くことだろうが、それらは長くは続かない。  ひとは幸運であれ、不運であれ、あっというまに慣れてしまう。そういう事実があるのである。  だから、ひとは「幸福」にも慣れるし、飽きてしまう。  子供の頃は「学校に行かずに漫画だけ読んで暮らせたらどんなにいいだろう」と思ったものだが、じっさいにそういう暮らしをできる身の上になってみると、やはり飽きるのである。退屈するのだ。  ニートをしていると、どうしてもこの問題に対する答えを出すことを求められる。  ニートブロガーのPhaさんは、一箇所に常住するのが良くないと考えて、他拠点生活をすることにしたようだ。  それが正解なのかはどうかはぼくにはわからないが、とにかく常に新しいことをしていないと退屈するというのが人間のさがであるらしい。  これは非常にむずかしい問題である。なぜなら、この問題に対しある対策を見つけ出して実行したとしても、それがあたりまえになるとやはり慣れ、飽きてしまうからだ。  この退屈という名の地獄に耐えることができる、あるいはそもそも退屈さを感じない能力が、即ち「無職の才能」なのだろう。  しかし、だれもがその種の才能に恵まれているわけではないし、坂爪さんのように大人気ブログの管理人になれるわけでもない。  それでは、どうすればいいのか? 

どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

働くのも自由。働かないのも自由。精神を解放する革命思想がここにある。

 先日書いた通り、Phaさんの新刊『持たない幸福論』を読み上げたので、その感想を書いておきたいと思います。  結論から書くなら、非常に面白かったです。  ぼくとしてはビシバシ心に突き刺さる知的にエンターテインメントな一冊でした。  書き手が「日本一有名なニート」としてしられるPhaさんということで、ともすると「ニートのススメ」みたいに読まれかねない本であるとは思いますが、ぼくにいわせればそういう内容ではない。  これは仕事や家族に関する集団幻想を片端から打ち破ろうとするラディカルな告発の書だと思うのです。  この本のなかで、Phaさんは「労働」や「家族」、「お金」といった価値の絶対性に対して次々に疑問を呈していきます。  その人でなければできない仕事などというものはないとか、家族もシェアハウスグループの一種に過ぎないとか、お金がなくても楽しく生きていくことはできるとか。  同い年でやはり無職ライフを堪能している者としては共感せずにはいられない意見ばかりなのですが、それらの幻想をかたくなに信じている人にとっては反感を感じずにはいられない内容でしょう。  これらの意見を通して、Phaさんは読む人をいわゆる「世間の常識」なるものから解き放とうとしているように思えます。  その意味でこの本は過激な告発の書であり、そして偉大な解放の書でもあるのです。  なんだかんだいって世の中にはまだ「働かざるもの食うべからず」とか「結婚して子供を作って一人前」といった宗教を信じ込んでいる人も多いことも事実。  そして、それで満足している人はいいけれど、苦しんでいる人も多いはずなのですね。  この本はそういう人たちに向かって優しく「苦しまなくてもいいんだよ」と語りかけます。  働きたくないのに働かなくてもいい、結婚しなくても、家族を持たなくても、後ろめたく思う必要はない。本書の内容を簡単に表すなら、そういうことになるでしょう。  決してニートになることを奨めているわけではありません。  そうではなく、「世間の常識」という形のない鎖から自分を解き放って生きてみませんか、と誘いかけているだけだと思います。  あらゆる常識や幻想を排して判断してみて、その上で「やっぱり自分は働いてお金を稼ぎたい」と思うならその道を歩めばいい。  そしてもしそうではなく「働くことってしんどいな」と思うようならなるべく働かないで済む生き方を選べばいい。  いずれにしろ優劣はない、そういう思想だといっていいでしょう。  つまり、「なんでもあり」ですね。 

働くのも自由。働かないのも自由。精神を解放する革命思想がここにある。

「無職の才能」が足りなくて。

 再度、記事に付いたコメントを転載させていただきます。  転載されたコメントの「メディアへの接触は自由である」というのは、ネットへの書きこみや投稿ができる状態でしょうか。  もしそうでないのならば、そのうち楽しくなくなると思います。これは他の記事でもコメントしたことですが、「自己承認欲求」が満たせないからです。  いくら面白いコンテンツを自由に消費できても、これだけだと「自分は世の中の何かに役だっている」という実感を得られません。  「自分は何のために生きているのか」「この世に自分は必要なのか」「このまま何も成し遂げずに死ぬのか」という疑問がわいてきて、楽しむどころじゃなくなってくるのではないかと。  自己承認欲求が無い人も、中にはいるかもしれません。でも、そういう人は少数だと思います。  たいていの人は、社会と関わって他人や自分自身によって「自分を何らかのかたちで認められる」ことがないと、欲求不満になってしまうのではないでしょうか。  ――ああ、承認欲求、ありますよねえ。  いまの世の中には楽しいことや面白いものが山のようにあふれているわけですが、やはりひたすらそれらを楽しんで面白おかしく生きていくことはできないようです。  いや、できる人もいるのだろうけれど、ぼくにはできない。やっぱり「ぼくはなんのために生まれてきたんだ?」とか思い悩んでしまう。  なんといっても人間は社会的動物で、社会との関係を構築せずに生きて行くのはしんどいのだと思います。  ひとは「他者」という鏡があって初めて自分の立ち位置を確認できるようなところがある。  ぼくにしてからそれは変わらず、お気楽なニート暮らしを満喫しているとどうも不満感が高まっていくようなのですよね。  ぼくですらやっぱり何かひとの役に立つことをしたいとか思ってしまうわけなのです。  そういう強迫観念に捕らわれず自由に人生を楽しめる人もいるのだろうけれど、どうやらぼくはそうではない。  そういう意味ではぼくにはあまり「無職の才能」はないのかもしれません。ただやむを得ず無職しているだけなんですね。 

「無職の才能」が足りなくて。

お金をかけず幸せに暮らすためには、技術が必要だ。

 日本一有名なニートとしてしられるPhaさんの新刊が出るそうで、クリスマスまでの日を数える子供のように楽しみに待っている。  タイトルは「持たない幸福論」、26日発売だとか。  26日になったら即座にKindleで落とそう。まったく便利な世の中である。  で、そのPhaさんが「お金がないと幸せになれないのか」という記事を書いている。 http://pha.hateblo.jp/entry/2015/05/22/003115  もちろん、イエスかノーでシンプルに答えられる問題ではないのだけれど、Phaさんのアンサーはイエスに近いようだ。  ぼくとしては「ある程度は収入があったほうが幸せになりやすい」と答えたい。  やっぱりいまの時代、大半の人間は社会のなかで生きているのだし、その社会で通用する通貨をたくさん持っているといろいろ便利ではある。  お金がたくさんあれば幸福というものではないことは諸々の調査があきらかにしているが、そうかといって極端な貧乏もやはり辛いものがある。  昔、「清貧の思想」と題する本がベストセラーになったが、清貧とはなかなかむずかしいもので、やはり大抵の貧乏はただ貧しいだけなのである。  ただ、貧乏が即座に不幸かというと、必ずしもそうではないらしいこともたくさんの証言がある。  また、現代日本のような社会インフラがきわめて高度に整備された社会における貧乏は、そうでない社会における貧乏とはまた性格が違っているだろう。  「貧乏」が即座に「貧困」ではないのだ。  『貧乏は幸せのはじまり』というなかなか面白い本があって、そのなかには赤貧の有名人のエピソードがいくつも出て来る。  ほほえましく読めるものもあれば、読んでいるほうが辛くなってくるものもあるのだが、それらを読んでいるとたしかに裕福さと幸不幸は関係ないのだな、と思えて来る。  すべてはその人の内面の問題。  もちろん、そうはいっても、凡人にとって貧乏は楽ではない。  凡人は、それが可能であるならおとなしく一定のお金がある生活を送ったほうがいいだろう。  ただ、最低限の収入でもなかなか楽しそうに暮らしている人たちがいることは事実だ。  社会の整備が進んだ上に、いろいろなものが極端に安価で入手できるようになった昨今、「貧しいが楽しい暮らし」を送ることは以前より容易になって来ている。  というか、 

お金をかけず幸せに暮らすためには、技術が必要だ。

「贅沢貧乏」に憧れて。お金を使い過ぎず豊かに暮らすことは可能か?

 お金が欲しい。  収入を増やしたい。  一方でそう願いながら、他方でぼくは「つましい生活」に憧れている。  むろん、貧乏を希望しているわけではない。清貧の思想とやらにかぶれたわけではさらさらない。  ただ、わが身の浪費を思うとき、もう少し少ないコストで快適に暮らしていけるのではないかと思わずにいられないのだ。  いまのままでは、仮に収入が倍になったとしても、その分をすべて無駄に使い尽くして終わるだけかもしれない。  それは相対的に贅沢な暮らしではあるだろう。だが、ぼくが考える「豊かな人生」とは異なる。  お金が欲しい、収入を増やしたいと強く望みながら、反面、ぼくは「極力お金に頼らずに生きて行く方法」について考えているわけなのである。  西園寺マキエ『稼がない男』を読むと、その「お金に頼らない生活」を成し遂げたひとりの男性の人生を見ることができる。  著者の恋人であるヨシオ(仮名)は、早稲田大学を優秀な成績で卒業し一流企業に就職しながら、あっさりとその就職先を捨て、「稼がない人生」に突入する。  ヨシオの年収はわずか150万円弱。かれは生活のすべてをその金額でまかなっている。  常識的に考えれば困難だが、そもそもあまりお金を使わない生活をしている上、生活に必要なあらゆる雑費を緻密に算出して管理しているため、この金額でも困らないのである。  もっとも、たとえば突然パソコンが壊れたとき、途方に暮れるしかないことも事実。  それでもヨシオはどこまでも楽天的で、「稼がない人生」をほとんど享楽的に味わい尽くす。  著者はこの心優しい「稼がない男」の生きざまを数十年も追いかけていく。  ぼくがこの本を読むと、「ああ、この収入でも生きてゆくことはできるのだな」となんとなく安心する。  そして、その上で自分はなるべく稼ごうと考える。  人間の幸福はお金では決まらない。それはたしかだが、一定額のお金はある程度の「自由」を保障する。  そして、ぼくはヨシオとは違って、その「自由」を放棄できるほどに悟ってはいないのである。  とはいえ、「最低金額での生活」はそれはそれで魅力的だ。  じっさい、様々なものが安価になったいま、無駄な出費を避ければ、限りなくローコストで楽しい人生を送ることができるだろう。  テレビアニメの録画にも、ニコニコ動画の鑑賞にも、LINEやSkypeでのやり取りにもほとんどお金はかからないことであるし。  山崎寿人『年収100万円の豊かな節約生活』を読むと、その節制生活をさらに突き詰めた人物を発見できる。  この本の著者は、生活のあらゆる無駄を切り詰め、年間わずか100万円で暮らしている。  この「楽しく」というところが重要で、かれの生活は決して暗くもなければ憂鬱でもない。  ただ無意味な出費を避けているだけで、かれは十分に「贅沢」な人生を送っている。  ぼくがあこがれる「つましい生活」の理想形がここにある。  何より、日々の食事に凝っているところに惹かれる。  そう、あえて大金を蕩尽しなくても、手間さえかければ美味なものは食べられるのである。ラグジュアリーなレストランの最高級ディナーとまでは行かないとしても。  「お金に頼らない人生」は 

「贅沢貧乏」に憧れて。お金を使い過ぎず豊かに暮らすことは可能か?

オフ会を開きたい。

 Pha『ニートの歩き方』を再読しています。再再読かも。読むたびに新しい発見がある、というわけでもないのですが、内容的にぼくの目ざすところと共通点があるので、読んでいると安心感がありますね。  もっとも、Phaさんは「だるい」という言葉を多用するんだけれど、ぼくはあまり「だるい」とは思わなくて、どちらかというと毎日の退屈さをどう解消しようか悩むくらい。  ただ人付き合いのストレスに致命的に弱いので、こうしてパラサイトライフを送っているだけであるわけです。基本的にぼくは意外と活動的な人間なのかも。  いや、人並み以上にエネルギーがあるわけでは全然ないんだけれど、やっぱり毎日だらだらしていると活力が余るんですよ。その程度にはアクティヴ。もっと外にでる機会を作れると良いんだろうけれどね……。  ぼくとPhaさんの差異はもうひとつ、Phaさんはなんだかんだ云って都会暮らしをしているところですね。都会にいるとひとと出逢う機会とか、圧倒的に作りやすいんだと思う。  その点は、新潟くらい大きな都市でも、ちょっと東京とは比較になりません。ひとと逢いたいなあ。そうかといって、東京でひとり暮らしというのもお金がかかる上にめんどくさいですしね。東京に行ったところでアクティヴに動けるわけじゃないかもしれないし。  「家族以外のひとと逢う機会がない」ということがひきこもり生活の最大のネックです。ほかはほとんど何も問題ない。まったりスローライフを満喫しています。  最近、興味を持ってその手のスローライフ本を読んでみるんですけれど、やっぱりダメですね。全部読んだわけじゃないのでたしかなことは云えませんが、他愛ないきれいごとばかり書き連ねてある本がほとんどという印象。  スローライフという発想そのものが間違えているとは思わないんだけれど、やっぱり極端なんですよ。科学の恩恵の偉大さをわかっていないとしか思えない本が多い。  こういう本は往々にして近代を批判しているんだけれど、資本主義と物質文明が生み出す「余裕」があって初めてスローライフなどと云い出せるのだという現実を無視している。  「貧しくても幸せな生活」はあるだろうけれど、食うや食わずの生活はやっぱり楽じゃないと思うわけです。たしかに経済発展「だけ」が大切なはずはないけれど、経済なんてどうでもいいからもっと豊かな自然と暮らそう!みたいなことを云われてもね。  何度か書いていますが、ぼくは「ほどほどスローライフ」がベターだと思っていて、いかにそれを成し遂げていくかが人生のひとつのテーマです。  「環境と調和した平和な暮らし」とかね、もう刺激が足りなくてうんざりするでしょうね。やっぱりそこは極彩色のアニメやら漫画があって、コンビニやファストフードがあってなんぼというところがありますから。  つくづく人生はバランスだと思う。極端に偏ることは良くない。自然の豊かさに触れたいことはやぶさかではないものの、「管理されない自然」に幻想を見るほど幼稚でもないということ。  結局、何であれ「そこそこ」とか「ほどほど」にとどめて暴走しないことが肝心なのかな、という気がします。そういうわけでPhaさんの提唱するニート暮らしには共感しつつ、でも、ぼく個人はお金も欲しいよなあ、ひとと触れあいもしたいよなあという気もするんですよね。  これも繰り返しになりますが、現代社会を幸福に生きるためには、 (1)お金。 (2)時間。 (3)関係。 (4)趣味。  の四点を充実させる必要があると思っていて、ぼくは「お金」と「関係(人間関係)」がちょっと貧しいかな、と。  正確にはネット上の「関係」は充実しているんだけれど、何しろ地方在住なので、休日ごとにひとと逢うという訳にはいかない。それが、非常に大きな課題ですよね。人恋しいよう。うう。一方で「時間」は限りなくあるし、「趣味」は恐ろしく充実しているんですけれどね。  とりあえず、オフ会でも開くか……。 

オフ会を開きたい。
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

著者イメージ

海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

https://twitter.com/kaien
メール配信:ありサンプル記事更新頻度:不定期※メール配信はチャンネルの月額会員限定です

月別アーカイブ


タグ