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  • 星を見る少女と廃墟に立つ少年。『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』に「世界」を見る。

    2016-11-16 04:17  
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     先日、映画『この世界の片隅に』を観て来ました。素晴らしかった。まだ未見の方はぜひ、何らかの手段を用いてこの世紀の傑作を見てほしいと思います。『シン・ゴジラ』、『君の名は。』を初めとして豊作だった今年を締めくくる一作といえるでしょう。
     そして、今年の数ある名作のなかでもベスト・オブ・ベストというべき素晴らしい出来。日本アニメの、というより日本映像文化史上の最高傑作のひとつと位置づけられるべき神がかった作品だと思います。
     原作既読のぼくは開始5分くらいで泣きそうになっていました。まあ、それは極端な例ですが、これはちょっと凄いです。
     原作も大傑作だけれど、その原作に匹敵し、あるいは上回る驚異のクオリティ。この一作を生み出したことを日本のマンガ/アニメカルチャーは永遠に誇ることができると思います。それほどの作品です。
     とまあ、賛辞を並べ立ててはみたのですが、じっさいのところ、この映画のよさを語ろうと思うとむずかしい。ぼくがこの映画から受けた感動をそのまま言葉にすることは、少なくともぼくの能力では不可能といい切ってもいいのではないかと思います。
     しかし、何も語らないこともどうかと思うので、力足らずの言葉足らずではありますが、一応、語っておきたいと思います。
     「この世界の片隅に」。印象的なタイトルのこの映画は、戦時下の広島市と呉市を舞台にしています。
     「ぼんやりした」少女・すずが幼い頃から物語が始まり、それから時代を下って、彼女の降嫁と結婚生活を描き出していくのです。
     そして、日本が経験した「戦争」が、すずの視点から描き出されます。原作でも物語がすずの視点から離れることは少ないのですが、映画はさらにすずに近く寄り添っているように思われます。
     したがって、大所高所から見た「世界」のマクロ的な構造はここではまったく描かれません。描かれるものは、巧まざるユーモアに満ちたすずの穏やかな日常、ただそれだけです。
     「穏やか」という表現は戦争中の日常に似合わないかもしれません。じっさい、すずの生活のなかにはしばしば戦争の猛威が忍び寄ります。
     しかし、それでもなお、彼女はどこまでも「普通」であろうとし、そしてじっさいに「普通」でありつづけるのです。クライマックスにおいて、決定的な悲劇が襲いかかってくるその時までは。
     これは、戦争という巨大な「暴力」を含む「世界」と、その「片隅」に生を受けた「ひとりの少女」の対決の物語です。
     見終わってすぐ、ぼくは宮崎駿監督の『風立ちぬ』を思い浮かべました。『この世界の片隅に』は『風立ちぬ』とちょうど対になっている映画だと感じたのです。
     というのも、ぼくには『風立ちぬ』は「暴力に満ちた世界の「中心」で、加害者の立場に立たされることになった男性(少年)の物語」であり、『この世界の片隅に』は「その世界の「片隅」で、被害者の立場に立たされることになった女性(少女)の物語」であるように思えたからです。
     迂遠ないい方になったかもしれませんが、ぼくは前者が「加害者の物語」であり、後者が「被害者の物語」であるとは完全にいい切れないとは思います。
     ただ、かれらがそれぞれ加害者として、被害者として見られることは事実でしょう。そして、政治的、あるいは批評的、思想的にはその差異が重要であるのかもしれません。
     しかし、ぼくはそこにあえて意味を見いだそうとは思いません。かれらはかれらなりにひとりの人間として「この世界」と対峙したのであり、その望みの通りに生きたのです。
     その生きざまが心を打つかどうか? それが映画のすべてであり、そしてぼくはいずれの作品にもつよく打たれました。その生き方が道義的に正しいかどうかということは二次的なことです。
     とはいえ、『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎は主体的(アクティヴ)に行動し、自分の運命を決めていきます。かれが最後にたどり着いた「廃墟」は、かれ自身が選んだ人生の結果であるといえます。
     もちろん、だれしも完全に人生をコントロールすることはできない以上、かれもまた「世界」に満ちた暴力に巻き込まれたひとりであるということはできるでしょうが、そうはいってもかれは可能な限り「自己決定」したという意味で、「世界の中心」を生き抜いたということができると思います。
     対して、すずはどうか。彼女の生き方は、堀越二郎と比べるまでもなく、一貫して受動的(パッシヴ)に見えます。
     彼女は親が決めた人物と結婚し、その家でいくらか悪意のある行為を受けても抵抗せず、また、戦争という巨大な暴力に逆らおうともしません。
     それは、あの当時の多くの女性たちと同じ姿ではあるのでしょうが、そういう意味で、すずはまったく「普通」の女性です。
     あえていうなら絵を描く才能が秀でているということもできるでしょうが、それにしても「世界」を変えるような性質のものではありません。
     暴風のように「世界」のなかを荒れ狂う戦争という「暴力」に対し、彼女はどこまでも無力であるように見えます。この映画を、戦争によって多くのものを奪われた女性の悲劇として見ることも可能でしょう。
     ところが――ところが、そうではないのです。すずは「世界の片隅」で、「暴力」と戦い、そして、負けません。
     「世界」はさまざまな方法で彼女に襲いかかり、その圧倒的な力でもって「片隅」の少女を押しつぶそうとしたのですが、それでも彼女は屈しないのです。
     『この世界の片隅に』はすずの「戦い」の物語です。すずのまわりにある「過酷で残酷な世界」はすずの内面にある「完璧な世界」を打ち砕こうと幾度も幾度も押し寄せますが、決してそうすることはできません。
     それほどにすずは「強い」。そう、彼女は恐ろしく揺らぎません。彼女は外の世界で起こるあらゆることを受け止め、受け容れていきます。
     その意味ですずは、たとえば『コードギアス』のルルーシュのように「世界は間違えている」と叫んだり、『少女革命ウテナ』のウテナのように「世界を革命する力」を求めたりはしません。
     彼女はどこまでも世界に対し受動的なのです。彼女は作中、一度も世界を変えることを求めて「世界の中心」に躍り上がろうとはしません。
     彼女の居場所はどこまでも「世界の片隅」。そういう意味では、これはきわめて地味なドラマです。ですが、これがきわめて感動的なのですね。
     ぼくはすずの姿を見ていて、池澤夏樹『スティル・ライフ』の有名な冒頭を思い出します。

     この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
     世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
     きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
     でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
     大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
     たとえば、星を見るとかして。
     二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
     水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
     星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
     星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

     すずはまさに「呼応と調和がうまくいっている」人間です。つまり、先ほど述べたように、彼女の内面にある「広大な薄明の世界」は「完璧に調った状態」にあるといってもいいでしょう。
     彼女は「完璧な世界」を内側に持っていて、「(外の)世界との呼応と調和」を達成しているが故に、あえて「(外の)世界を革命する」必要がないのです。彼女にとって世界は完璧な場所なのですから。
     おそらく、ほかのどんな時代に生まれてもそうだったでしょう。しかし、彼女の内なる世界がどれほど完璧にできあがっていようと、外なる世界には嵐が吹き荒れている。
     したがって、 
  • 「地獄」から「天国」へたどり着くためのルートとは。

    2016-09-20 17:05  
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     恋愛工学の話は終わったと書きましたが、どうにも書きたいことが湧いて出てくるので番外編をひとつ。いや、まだ続くかもしれないので「番外編1」としておきましょうか。
     この話、いつまでも延々と続くような気もする。いいかげんいやになっている人もいるでしょうが、ぼくは書きたいことを書きたいように書くのだ!
     すいません、『麒麟館グラフィティー』の話も必ず書きます。赦してください。平身低頭。
     さて、ネットでおそらく最も手きびしく恋愛工学を批判した記事に以下があり、このように書かれています。

     僕は恋愛工学の信奉者を、特別にミソジニーだとか下卑た人間だとは思わない。頭悪いんだなとは思う。ナンパブログにも言えることだが、恋愛工学徒が書いたりしてるものを見て思うところがあるのは、「とにかくやりまくりたい!」とかじゃなくて「ただ普通に女の子と仲良くなりたいだけなんだ…」という人が少なくないことだ。その
  • 『フルバ』にも『カレカノ』にも罪はない。少女漫画と「真実の愛」幻想。

    2016-09-20 07:55  
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     恋愛工学に始まった「ナルシシズム/エロティシズム」の話は前回で一応完結しているのですが、今回はおまけ篇として宿題になっていた少女漫画の話を書いておこうと思います。
     まずは、「『彼氏彼女の事情』『フルーツバスケット』がアラサー女子の恋愛観にもたらした闇」という記事を引用しましょう。
    http://papuriko.hatenablog.com/entry/2016/09/13/184709
     タイトル通り、少女漫画往年の名作『彼氏彼女の事情』と『フルーツバスケット』を扱った記事です。この記事によると、両作品には以下のような共通点があるとされています。

    ・女子(主人公)が努力家、優等生、いい子
    ・男子(恋の相手)が特別な存在(人気者、特殊能力あり)
    ・でも男子は「過去のトラウマ」を抱え、心の闇を持っている
    ・男子、トラウマが爆発した時、女子を傷つけて避ける
    ・女子、そんな男子を偉大なる
  • 恋愛工学とは非モテを「妄想加害男子」にパワーアップさせる理論である。

    2016-09-15 09:19  
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     トイアンナさんの『恋愛障害 どうして「普通」に愛されないのか?』という本を読みました。恋愛に関して色々なトラブルを抱え込みがちな性格が、「恋愛障害」として整理されていて、非常に面白かったです。
     この本では男性と女性それぞれの恋愛障害を扱っているのですが、ぼくは男なのでまず男性に絞って見てみると、恋愛障害男子には、大別して「妄想男子」と「加害男子」があるとされています。
     妄想男子とは恋愛に関してネガティヴな妄想を抱いていて、そのために恋愛に積極的になれずにいる男性の事。そして、加害男子とは女性をモラハラ(モラルハラスメント)で傷つけたりセックスの道具として利用しつくす男性の事です。
     まあ、前者は非モテで後者はヤリチンかな、と思うのですが、ここではそのいずれもが「障害」として定義されています。
     ときに女性を傷つけるこのような男性たちもまた、自ら望んでそうしているのではなく、心に負った何らかの傷や認知の歪みのためにそう行動せざるを得ないのだという理屈です。
     ぼくはこの本を読んですぐに藤沢数希さんの「恋愛工学」のことを思い出しました。というのも、恋愛工学のロジックとはここでいう加害男子が女性を落とす方法論なのだと感じたからです。
     もっというなら、恋愛工学とは、妄想男子(非モテ)を加害男子(ヤリチン)に「成長」させるための理論であるといえるかもしれません。
     ただし、妄想男子の妄想を解決してくれる類のものではまったくないので、より正確には妄想男子を「妄想加害男子」にパワーアップさせる理論であるといったほうがいいでしょう。
     それでは、その「妄想」とは具体的にどんなものなのか? とりあえず、前回引用した藤沢さんのインタビューにおける発言を再度掲載しておきましょう。

    藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繫栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

     これです、これ。まさに妄想。この思想は世の妄想男子が抱え込んでいる妄想のなかでもかなりメジャーなものではないかと思います(ひょっとしたら藤沢さんのおかげでメジャーになったのかもしれませんが)。
     藤沢さんは「生物学的な理由」といっていますが、まあ、ある種の疑似科学ですね。信じちゃう人は信じちゃう類の意見です。
     ようするに「女に知性や理性なんてものはない。あるように見えるのは見せかけだけだ。女はより強い男とつがって子孫を残すことしか考えられない。なぜならそれが遺伝子の命令だからだ」という意見であるわけで、これは女性に対する徹底した不信と蔑視であるといっていいでしょう。
     いや、恋愛工学理論においては男性もまた遺伝子の欲求に従ってより多くの子孫を残そうと動いているに過ぎないことになっているのですから、恋愛工学の根底には女性というより人間存在そのものに対する不信があるといえるかもしれません。
     この種の「妄想」はじっさい非モテ界隈ではよく見かけるもので、恋愛工学のキー概念は本田透さんの著書でも同様のものを見ることができます。
     ただ、本田さんはそこで「オタクになること」を選び、自分の萌え妄想のなかで生きていくことを選んだのに対し、藤沢さんはあくまで女性に対してアプローチしていくことを選んだ。その差があります。
     それにしても、こうして並べてみると『電波男』と『ぼくは愛を証明しようと思う』の表紙デザイン、そっくりだな。妄想男子の妄想の中身は共通項があるということですかね。
     さて、以下に恋愛障害と恋愛工学の関係について書いていこうと思ったのですが、検索してみたらすでにまったく同じことを書いている人がいたので、まずはその記事から引用させてもらいます(ちなみに見出しは再現できないので、省略してあります)。

     恋愛工学では、決して、相手方女性の気持ちを考えてはいけない。真剣に考えれば考えるほど、相手が可哀想になって、ためらってしまい、その結果、何も手出しができなくなるからである。したがって恋愛工学の実践者は、自らの心をマシーンにして、ことをなさなくてはならない。
     まずはじめにすることは、 「目の前にいる女性をけなすこと」、これである。
     見た目、容姿、振舞い、話し方、仕事、趣味、なんでもいいので女性をけなす。けなすことによってまず、自分が相手方に対して優位な立場にあることを植え付ける。相手方女性がそこで傷つくのも、恋愛工学の手続きの一環である。
     傷つけることによって女性を動揺させる。
     動揺させることによって女性に、「この人は何か普通の男と違う♡」と思わせるのである。
     これは、普段けなされる機会の少ない女性、男から「かわいい」「きれいだね」と褒めてもらうことの多い女性、すなわち恋愛偏差値の高い女性に対して、絶大な効果を発揮すると言われている。
     けなした後、その次には、ちょっとした褒め言葉を与える。これは本心でなくともよい。あくまで工学的マシーンと化し、適当な点をでっちあげ、相手に心の報酬を与えるのである。
     ここで、恋愛工学士は、決して相手に媚びてはいけない。なぜなら女性をつけあがらせるからである。あくまで相手方が男性である自分より下位の存在であり、自分に対して抵抗できない存在であり、人間的に価値の低い人物であることを前提として女性に接する。
     すなわち相手方に、人間としての尊厳がないことを前提としたうえで温情主義的に褒める、という点にポイントがある。
     傷つけられた後、褒められる、これによって女性は、心が動揺し、ドキドキする。そしてこのドキドキを、男性への恋愛感情であると思い込むのである。
     いやむしろ、恋愛工学が説くのは、けなされ、雑に扱われ、傷つけられ、精神的に振り回されることによって生じる感情こそが、真の恋愛感情であるということ、これである。
     自分をけなすような権限のある男性が、自分を温情主義的に賞賛してくれる。
     これこそ、女性の快楽であり、恋愛感情が芽生える瞬間であり、恋愛工学の肝である。
    http://books.nekotool.com/entry/love-affair-disorder

     そうなんですよ。どうも恋愛工学では「女性をけなすこと」が重要な戦術とみなされているんですね。けなした上で、褒める。そうすると女性はドキドキして相手を好きになってしまうと。
     うん、それモラハラですよね、と思うわけですが、恋愛工学が「妄想加害男子」を生み出すための理論である以上、こういう戦術を用いることは必然です。
     ええ、まともなプライドがある女性だったら初対面の男からいきなりけなされたら「ふざけるなバカ野郎!」としか思わないでしょうが、その一方でこの戦術が通用する女性たちはたしかに一定数いると思います。
     そうじゃなかったら少女漫画や少女漫画原作の映画でドS男子だの壁ドンだのが流行ったりするわけないもん。最近やたらに見かけるドS男子は典型的な加害男子の一類型であるわけですが、そういう男性に惹かれる女性はたしかにたくさんいるわけです。
     で、なぜ、こんなめちゃくちゃな理論が時として通用してしまうのか? それは『恋愛障害』を読めばあきらかなように、女性側もまた恋愛障害を抱えているからです。
     『恋愛障害』では、「愛されない女性はパターン化できる」として、「愛されない女性」の特徴をいくつも挙げています。
     それは「いつも複数の男性と同時に付き合う」であったり、「恋愛したいが、異常な奥手」であったり、「自分を殺す「尽くし系女子」」であったりするのですが、共通しているのは強烈な「寂しさ」を抱えていることです。
     ひとりでいると寂しいから、手近な恋愛を求めてしまう。「愛されているという確信」が欲しくて、それを歪んだ形で叶えてしまう。そういうアダルトチルドレン的な「障害」を抱えた女性が(たぶんたくさん)いるのです。
     「寂しさ」というキーワードから、ぼくは例の『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』を思い出します。
      この本の著者の場合は「さびしすぎ」たときにレズ風俗に行って抱きしめてもらうというなかなかユニークな方法を選ぶのですが、より多くの「寂しい系女子」は異性との恋愛に救いを求めることでしょう。 簡単にセックスをさせてあげる代わりに「愛している」とささやいてもらったり、プレゼントを贈りまくる代わりに力強く抱きしめてもらったりという「取り引き」を恋愛の本質と考える女性はいま、相当数いるのではないでしょうか?
     愛されたい――切なる想い。しかし、加害男子たちはそこにつけ入ります。もちろん、妄想加害男子である恋愛工学の信徒たちも。
     かれらはそもそも女性と対等な付き合いをしようという気が最初からありませんから(女とは遺伝子情報の命じるままイケメンや金持ちを狙う下等な生き物だということをお忘れなく)、恋愛障害女子はかれらと付き合ってもほんとうに幸せになることはできません。利用されて、いずれ捨てられる運命です。
     こういう「不幸な恋愛」をしている女性は枚挙にいとまがないものと思われます。そして、恋愛障害を抱える「寂しい系女子」は何度、だれと付き合っても、同じパターンをくり返すことでしょう。
     彼女たちがその不幸な恋愛パターンから抜け出すためには一人前の愛され女子として成長するの「ではなく」、「健全な自己愛」を育て、ひとりでいても寂しくないようになるしかないのですが、なかなかそれはむずかしい。
     多くの人は「愛」と「依存」をはき違えたまま、いつまでも「不幸な恋愛」をくり返します。いわゆる「だめんず・うぉーかー」というやつですね。

     実はこういう人はたとえ自分に好意を向けてくれるまともな男性と出逢ったとしても、自分を傷つける男性のほうに向かって行ったりします。
     妄想男子からすると「不条理だ!」とか「これだから女は!」といいたくなるところかもしれませんが、これも恋愛障害の症状の一種と考えると事態はシンプルです。
     「自分を好きになる男なんて気持ち悪い」とかいう女性は、ようするに自分のことが嫌いなんですよ。心の底で自分にはなんの価値もないと思っているから、そんな自分を好きだという人を気持ち悪いと感じる。そして、自分に対して冷たい加害男子に惹かれてしまう。
     ここで、加害男子と寂しい系女子の間では、一種の「負のマッチング」が起こっています。無意識に「冷たくしてほしい」と願っている女性と内心で女性を憎んでいる男性は、ある意味、相性がいいわけです。
     まあ、世にいう「共依存」というやつですね。恋愛工学が考える「恋愛」とは、この共依存が成立した状態の事だといっていいと思います。
     しかし、ぼくはそれを恋愛とは考えません。この場合、「愛してやるよ」と思っている男性も「愛されている自分を確認したい」と考えている女性も、自分のことしか考えていないからです。
     ほんとうの恋愛が、自分とは全く考え方の違う「他者」との出逢いに始まる「複雑なコミュニケーション」であるとしたら、恋愛工学における恋愛とは歪んだ自己愛、ペトロニウスさんふうにいうなら、ナルシシズムなんです。
     そのことについて、こんなことを書いた記事もあります。

    冒頭で、なぜ「ドS彼氏」が人気なのだろうか、と書いた。逆説的ではあるが、凡俗さや迷い、逡巡といった普通の人間としての内面を見せず、相手を支配する強さのみ見せる男に少女たちが心惹かれるのは、彼の中に被支配という形で愛されている自分をうっとりと見つめるためなのではないだろうか。自分を特別な男に愛されるに値する存在だと考えるためには男の凡庸な内面などむしろ邪魔でしかない。
    http://mess-y.com/archives/32592/3

     まさにその通り。つまりは恋愛障害状態にある男性も女性も、相手の内面など見ていないのです。男性は「いい女とセックスできる強いオスの自分」という自画像を、女性は「格好いい恋人に愛されている自分」というアイデンティティを必要としているだけで、ここに「愛」はありません。双方とも自分しか愛していないわけです。
     それでは、双方がいかにしてこの「孤独な牢獄」を抜け出し、「他者」と、「世界」と出逢うのか、その具体的な方法論については『恋愛障害』に記されていますので、そちらを参照してください。
     ちなみに、 
  • 映画『君の名は。』のわりとどうでもいいポイントについて(ネタバレ)。

    2016-08-27 01:56  
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     新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』を観て来ました。
     えーと、あれですね、これは一切のネタバレなしで感想を書くと、「恋っていいよね」くらいしかいえなくなる類の映画ですね。あるいは「おっぱいっていいよね」でもいいけれど。
     しかもネタバレ厳禁タイプのシナリオ。まあひと言でいうと傑作だったんだけれど、細かいところをどう見るかで評価が変わってくる可能性はあると思う。
     いやまあ、細部をあげつらうべき映画ではないことはわかっているんだけれど、評価がわりと絶賛一色なので、ぼくはあえてそういう蛮行に踏み切ろうかと。
     くり返しますが、かなりの傑作なので、未見の方はこの記事は無視して映画館へ向かってください。なんだかやたらと「新海誠の集大成」という評価を目にするけれど、あえてシンプルにいえばそういう映画です。
     十数年前、下北沢へ『ほしのこえ』を観に行ってからずっと新海映画を追ってきたぼくと
  • 天使と欲望のパラドックス。

    2016-08-17 09:32  
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     昨日、一週間のあいだうちに滞在していた甥っ子が帰宅しました。疲れた。マジ疲れた。やはり子供は幼い頃から可愛がって育てなければならないと考える善良で親切なぼくは、全身全霊をあげて遊んであげたのです。
     それはもう、映画には連れていくわプールには連れて行くわ、博物館には遊びに行くわ、カートには乗せるわ、おもちゃは買うわ、ゲームは買うわ、本は買うわ、大盤振る舞いにして至れり尽くせりの大サービス。
     しまいに甥っ子は遊びすぎて疲れたのかじんましんを発症する始末で、何ごとも程々が大切だな、と思い至ったしだい。いや、ぼくが悪いわけではないと思うけれど。
     はしゃぎすぎなんだよな、奴は。ひとの部屋にはかってに入るし、冷蔵庫はかってに開けるし、うちに帰るときは「ただいま」というし、もう自分の家だと思っているんでしょう。ええ、それはそれは傍若無人なわがままの限りを尽くして帰っていきました。
     で、そのあい
  • 『シン・ゴジラ』が単なる愛国ポルノではありえない理由を『風立ちぬ』を通して説明する。

    2016-08-16 03:48  
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     ふと思い立って、もういちど宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見ています。『シン・ゴジラ』を見た後だと、この作品の歴史的意義がよくわかる気がしますね。この映画に関しては、ペトロニウスさんがこう書いています。

     これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、
     今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった
     といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。
     そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。
     未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、
  • それは「犯罪界のナポレオン」と呼ばれた男の物語。竹内良輔&三好輝『憂国のモリアーティ』が面白い!

    2016-08-08 15:50  
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     『ジャンプスクウェア』で新連載が始まった 『憂国のモリアーティ』が面白いです。
     「憂国のモリアーティ」。もう、このタイトルだけで傑作に違いないと確信できるわけなのですが、そうです、あの「犯罪界のナポレオン」モリアーティ教授を主人公にした物語なのです。
     といっても、もしかしたら知らない人もいるかもしれないので一応説明しておくと、ジェームズ・モリアーティはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズで、シャーロックをいったん死に追い込む最大のライバル。「犯罪界のナポレオン」の異名を持ち、ロンドンの闇を支配している大物です。
     物語は、いきなり、モリアーティとホームズの対決の最終局面である「ライヘンバッハの滝」のシーンから幕を開けます。
     もう、シャーロッキアンにとっては堪らないであろうオープニングですね。この時点ですでに素晴らしいわけですが、その後、時間をさかのぼって少年時代のモリア
  • 興奮と戦慄の超濃密庵野映画『シン・ゴジラ』を見のがすな!

    2016-07-31 02:07  
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     映画『シン・ゴジラ』を見てきました。もうネットでは評判になっていますが、あまり冴えなかった前評判をくつがえす大傑作。
     ちなみにネタバレにならないように簡単に説明すると、えーと、えーと……なんもいえねえ。ちょっとした情報ですらバラせない感じの作品で、ぶっちゃけ「面白い」とか「傑作」と述べることもはばかられる感じ。まあ、大傑作なんですけれどね!
     皆さん、ぜひネタバレを踏む前に見ておいてください。凄いから。
     すでにネットでは大絶賛の嵐が巻き起こっているようで、ひとつの作品の評価がここまで圧倒的な賛辞で埋め尽くされるのを見たのは例の『ガールズ&パンツァー劇場版』のとき以来。
     あれも相当に素晴らしい作品だったけれど、『シン・ゴジラ』の場合はみんなの感想に熱狂がこもっています。
     可笑しいのは、みんながみんな褒めるとき「これは賛否両論だろうな。おれは大好きだけれど」といって褒めていること。
  • 作家は読者の奴隷ではないし、そうなってはいけない。

    2016-07-25 02:59  
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     『妹さえいればいい。』最新刊を読み終えました。
     前巻はほぼギャグ一辺倒で、面白いことは面白かったのですが、お話そのものは何も進んでいない印象がありました。
     しかし、この巻では劇的に物語が進行します。いやー、面白いですね。ぼくはこういうものをこそ読みたいのだと思う。
     物語が進むとは、ただ状況が変化することではありません。状況が「二度と元には戻らない形で」変化すること、それを物語が進むというのです。
     この巻で、主人公たちの恋愛状況はドラマティックに変わり、そしてこの先、もう決して元に戻ることはありません。
     それは幸せなことではないかもしれないけれど、しかしとても印象的なことです。
     こういうものを読むとぼくはやはり「物語」が好きなんだなあと思いますね。
     平和で幸福で、どれだけ読み進めても何ひとつ変化がないようなお話もいいけれど、でも次の瞬間何が起こるのかわからないようなサスペン