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日常系作品の四象限図を作りたい。

 先ほど、『よつばと!』の第13巻と『イチゴ―イチハチ!』の第2巻を購入して来ました。  どちらも待ち望んだ新刊で、もったいなくてすぐには読めない。  こういう作品の存在はそれ自体が生きる張り合いになりますね。  この2冊を同時に読めるなんて、生きていて良かったと思うもん。  『よつばと!』にしろ『イチゴ―イチハチ!』にしろ、いわゆる日常系の物語なのだけれど、その描写はかなり進歩して来ているように思います。  日常系の魅力はいかに平穏な日常の楽しさを描くことができるかに尽きるわけですが、最近の日常系ってそこがほんとうに洗練されているなあ、と。  いやまあ、まだ読んでいないのでこれらの巻についてはわかりませんが、既刊の描写はそうだったのです。  三つほど前の記事で書いた「いま、青春群像劇が面白い」ということも、この日常系というジャンルと密接に関わっています。  というか、ぼくがいうところの新しい世代の青春群像劇もまた、日常系の成果として生まれて来たものだと思うのですよね。  『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』がやたら生活のディティールに拘るのも、日常のリアリティを演出したいからに違いありません。  それは『よつばと!』とか『海街diary』といった作品がありふれた日常をどこまでもていねいに描き出して来たことに通じています。  『妹さえいればいい。』はオタクネタが飛び交うので異質なものに見えるかもしれませんが、本質的には『よつばと!』などと同じ日常を楽しく過ごすことの賛歌だと思うのですね。  あるいは四象限の図とか作れるかもしれません。  「オタク⇔非オタク」、「目標がある⇔目標がない」の二軸で作る日常系マトリクス。  そこに『よつばと!』、『イチゴ―イチハチ!』、『けいおん!』、『響け!ユーフォニアム』、『ゆゆ式』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』、『バクマン。』(映画)、『SHIROBAKO』、『エロマンガ先生』、『妹さえいればいい。』、『海街diary』、『ちいさいお姉さん』、『冴えない彼女の育てかた』、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』あたりをマッピングしてみると、色々なことが見えて来るかも。  いや、これはぼくが反射的に思い浮かべたタイトル群なので、まだ欠けているものがいくらもあるに違いありませんが。  ちなみに目標意識が強ければ強いほど日常系っぽくなくなると思います。  ちょっと『バクマン。』を日常系と呼ぶのは抵抗がありますよね。  でも、ぼくの目から見ると、あの作品もまた紛れもなく同時代的な精神の産物と映るわけです。  Excelとかでちょっと作ってみるといいのだろうけれど、もうニート生活が長すぎてExcelの使い方なんて忘れたよ……。だれか作らない?  これらの作品を見ていくと、 

日常系作品の四象限図を作りたい。

いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。

 ども。11月も終わりですねー。  今年も残すは12月のみとなるわけで、毎年のことながら早いなあと思います。  ほんと、歳取ると一年が過ぎ去るのが速く感じますね。  今年のベストとして挙げたい作品はいくつかあるのですが、気づくとどれも青春物語ばかりです。  ぼくはもともと青春ものは大好きなのだけれど、今年はその方面に特に収穫が多かった気がします。  具体的には『妹さえいればいい。』であったり、『心が叫びたがってるんだ。』や『バクマン。』だったりするのですが、それぞれ共通点があるように思えます。  どうでもいいけれど、みんなタイトルのラストに「。」が付きますね。なんなんだろ、モーニング娘。リスペクトなのか?  まあいいや、その共通点とは「集団である目標を目ざして努力していること」です。  となると、『冴えない彼女の育てかた』あたりもここに含まれますね。  『エロマンガ先生』や『妹さえいればいい。』の場合、各人は個別で頑張っているわけですが、「良い小説を書きたい」という志は共通しています。  まあ、もちろん、集団で目標に向かうことは青春もののきわめてオーソドックスなパターンです。いま新しく生まれ出た物語類型というわけではありません。  しかし、いまの時代の作品がいくらか新しいのは、集団に必ずしも「一致団結」を求めない点です。  バラバラな個性の持ち主がバラバラなまま同じ夢を目ざす。そういう物語が散見されるように思います。  それは、やはりある種の「仲良し空間」であるわけですが、目標がある以上、もはや単なる仲良し同士の集まりではありえません。  そこにはどうしようもなく選別が伴うし、淘汰が発生する。実力による差別が介在してしまうのです。  それを受け入れたうえで、それでもなお、高い目標を目ざすべきか? それとももっとゆるい友人関係で満足するべきなのか?  その問いは、たとえば『響け! ユーフォニアム』あたりに端的に見られます。  そして、何かしら目標を目ざすことを選んだなら、そこに「祭」が生まれます。  ぼくたちの大好きな非日常時空間、「祭」。  その最も象徴的なのは文化祭だと思いますが、文化祭はいつかは終わってしまう。  それでは、終わらない祭を続けるためにはどうすればいいか?と考えたときに、お仕事ものに接続されるのだと思います。  『SHIROBAKO』ですね。あれは最も都合のいいファンタジーに過ぎないという批判はあるかと思いますが、でも、その裏には救いのない現実が存在するという視点はあるでしょう。  その上で、ファンタジーを描いている。終わりのない「祭」の夢を。  それは創作の作法として十分に「あり」なのではないでしょうか?  ちなみに、 

いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。

オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

 一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。  この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。  結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。  だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。  一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。  ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。  その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。  オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。  『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。  今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。  たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。  しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。  第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。  じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。  オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。  だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。  この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。  もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。  そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。  『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。  アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。  もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。  ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。  時代は変わったんだなあ、ということですね。  で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。  カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。  もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。  ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。  もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。  時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。  ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。  同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。  それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。  ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。  そこまで状況は変わって来ているのですね。  そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。  結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。  この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。  本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。  ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。  まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。  これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。  それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。  特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。  当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。  そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。 ・変わり者が多い ・Twitterではやたらとテンション高い ・男性声優のツイートをリツイート ・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう ・ゴスロリ系と思しき服装 ・一人称が「ボク」な子もいる ・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装 ・普段の外出は母のおさがりの婦人服 ・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ ・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ ・薄い本(BL同人誌)大量購入 ・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし  こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。  しかし、 

オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

『冴えない彼女の育てかた』に刻の涙を見た。

 最近、どういうわけか積読していたライトノベルを読もうという気になっていて、きょうは丸戸史明『冴えない彼女の育てかた』第2巻を読み終えました。  第1巻を読んだのはずいぶん前のことで、それからテレビアニメが放送されたりもしたのだけれど、なんとなく止まったままだった本をようやく読むことができ、感慨無量です。  さっそく第3巻にも取り掛かったから、こうなったら既刊全巻を読了する日も近いでしょう。たぶんね。きっとね。  で、感想なのですが、大変面白かったです。  第1巻も面白かった記憶がありますが、この手のシリーズものは読み進めれば進めるほどにキャラクターに愛着が沸き、よりいっそう楽しめるようになるもの。  この作品もご多聞に漏れず第1巻以上に楽しく読めたと思います。  しかし、いまさらながらに思い知りましたが、内容が古いですねー。  「主人公が小さなサークルを作って同人ギャルゲーを制作する」という突端からしてとても時代を感じさせるわけですが(いまどきギャルゲーて)、それ以上に「オタク」をことさらに強調する感性そのものが古い。  ここらへんのオタク自己言及テーマのカッティング・エッジはやはり『妹さえいればいい。』だと思うのだけれど、それと比べると二世代くらい前の作品に感じます。  まあ、これはあとがきで作者自ら語っていることでもあるし、特に欠点といえるようなことでもないとは思うのですが、それにしても古めかしい。  思わず「そうそう、昔はこうだったよね!」とうなずきながら読みましたとさ。じっさいにはさして昔のことでもないはずなのに……。  刊行されたのは数年前のことだからかもしれませんが、それを考慮にいれてもちょっと時代とずれている感じ。  逆にいえば、ここ何年かの「オタク」を巡る状況の変化には驚かされます。  新井輝さんの『俺の教室にハルヒはいない』あたりもそんな感じでしたが、もはやこの手の自虐的なひとり語りは通用しなくなっているのかもしれません。  時代は変わったなあ(しみじみ)。  具体的に何が変わったのかといえば、「オタク」という言葉を巡る自意識のあり方でしょう。  『冴えない彼女の育てかた』の主人公はかなり意識的に「オタク」と「リア充」を対比し、時に劣等感に浸ったりしているのですが、こういう形の自意識は最新のライトノベルでは解体されています。  オタクがどうこう、リア充がどうこうということをあえて意識する必要がなくなったのですね。  これはリアルに世相を反映していると思うのだけれど、そういう意味ではこの主人公は前世代的なキャラクターといってもいいのではないでしょうか。 

『冴えない彼女の育てかた』に刻の涙を見た。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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