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ゼロ年代からテン年代に至るアニメの演出が進歩していく流れを考える。

 きょうのラジオで、最近、アニメの演出がきわだって進歩しているよね、という話をしました。  ぼくの場合は『心が叫びたがってるんだ。』で思い知らされたわけなのですが、いやー、この頃のアニメってほんとうにレベル高いですよね。  まあ、ぼくはそこらへん専門ではないので詳しく語れないのですが、ゼロ年代を通してアニメの演出が別次元のものへ変わっていったという印象はあると思います。  特に日常系がはやったことから日常の演出がすばらしく進歩したと感じています。  そういう意味でのエポックメイキングな作品を一作選ぶとすると、やっぱり『涼宮ハルヒの憂鬱』だと思います。  ほんとうはその前に『AIR』があり、『フルメタル・パニック?ふもっふ』があり、特に『AIR』は個人的に衝撃の一作だったわけなのだけれど、それにしても一般的には『ハルヒ』のインパクトは大きかった。  さすがに最近のことなのでみんな憶えていると思うのですが、けっこうみんな『ハルヒ』でびっくりしたわけなのですね。  テレビアニメでここまでの作画が可能なのか、と。  そのあとの京アニの快進撃は皆さんご存知の通り。  『けいおん!』を初めとする数々の傑作を生みだし、最新作『響け! ユーフォニアム』に至っています。  『ユーフォ』にまで至るともう歴然としているのですが、アニメの演出はほんとうに進歩しました。  これも何かで話したのだけれど、昔だったらひょっとしたら宮崎駿くらいしかやらなかったことをいまはみんながやるようになって来ているという印象です。  それがどこで見られるかというと、たとえば『けいおん!』の劇場版だとか、『たまこマーケット』の劇場版に結実しているわけなんですけれど、あたりまえのテレビアニメでも高度な演出を普通に見るようになりました。  これっていまでこそ当然のようになっているけれど、ほんとはすごいことだと思うんですよ。  ぼく、90年代に青春期を過ごしているのですけれど、その頃の有象無象のアニメは、いま見るとかなりきついものだと思います。  もちろん、その時代にも名作はあり、『少女革命ウテナ』とかそれはそれは凄かったのですが、ここでいうのはそれには及ばない、歴史の露と消えていった作品群のことです。  いやー、あの頃はぼくもいろいろ見ていました。  『ハイスピードジェシー』とか、そういういまとなっては無名でしかない作品をたくさん見ていたのですが、それらの作品はきょう的な意味でのバリューは少ないと思うのです。  そして時が過ぎ、ゼロ年代が訪れて、ぼくは京都アニメーションと出逢うことになります。  『AIR』です。 

ゼロ年代からテン年代に至るアニメの演出が進歩していく流れを考える。

『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。

深い眠りに落ちる 少し前の手前の まどろみの中に似た 密やかな夜に 探し続けてるのは あのメタフィジカ 祈るように紡ぎだす ひとつの歌  「メタフィジカ」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25268427)  「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」。  20世紀最大の哲学者のひとりである(らしい)ヴィトゲンシュタインのこの言葉はあまりにも有名でしょう。  ヴィトゲンシュタインその人の真意がどうであったかはともかく、人間には「語りえぬこと」があるというそのことを思うとき、ぼくなどは何か神秘的なものを感じ取ってしまいます。 また、山田正紀のSF小説『神狩り』の冒頭には、次のようなヴィトゲンシュタインの箴言が意味ありげに掲載されています。  かつて、神は万物を想像することができるが論理的法則に背くものだけは創造できない、と語られていたことがある。すなわち非論理的なる世界については、それがどのようなものであるか語ることさえできないのだから。  さて、本題に入りましょう。  このタイトルと書き出しですでに引いている人も多かろうかと思いますが(笑)、気にせず始めることにします。  これはテレビアニメ『AIR』と『CLANNAD』、特にそのアフターストーリーのいち解釈を示そうとする記事です。  べつだん、これが「正解」だというつもりはありませんが、ちょっと面白い内容なのではないかとは思います。良ければお読みください。  さて、どこから語り始めたものか。まず、『CLANNAD』の話から始めましょう。  いうまでもなく『CLANNAD』はKeyのパソコンゲームを原作として京都アニメーションが制作したアニメですが、これが非常に難解な仕上がりで、ちょっと解釈に困る作品といえます。  少なくともぼくはいままで何が何やらさっぱりわからなかった。  その唐突ともいえる結末は、ともすると単なるご都合主義とも受け取られかねないものであるわけですが、よくよく考えてみると、ある程度は合理的な解釈を行うことが可能です。  じっさい、Googleを検索するといくつかその手の文章が見つかる。  ぼくは一応、原作ゲームもプレイしていますが、すでにだいぶ記憶が摩耗していてあいまいなので、ここではアニメ版に絞ってその解釈を追ってみましょう。  この文章(↓)あたりがよくまとまっていてわかりやすいと思います。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274730242  この解釈がどこまで「正しい」かはわかりませんが、とりあえず納得がいく解釈だとはいえるでしょう。  しかし、そもそも『CLANNAD』のシナリオライターである麻枝准さんはなぜ、これほど難解なストーリーを組まなければならなかったのでしょうか。  そして、なぜかれは『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『Angel Beats!』と自身がシナリオを務める作品において、「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「翼人」、「呪い」、「幻想世界」といった解釈のむずかしいスーパーナチュラルな現象を出現させているのでしょう。  答えは謎ですが、ぼくなりの結論をひとことでいってしまいましょう。  それは「想像できないものを想像しようとする」努力の痕跡であると思うのです。  「想像できないものを想像する」――ご存知の方も多いでしょう。いまから40年前の1970年代、23歳の青年SF作家・山田正紀がデビュー作『神狩り』が掲載されたSFマガジンに記し、その後、各所で幾度となく引用されることになる言葉です。  ネットで拾ってきたところによると、正確には以下のような文章だったようです。  なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。(中略)  では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。 「想像できないことを想像する」  という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。  SFだったら、それが可能なのではないか?  だめだろうか?  だめに決まっているじゃん、と思ってしまうわけですが、山田正紀はあきらめませんでした。  かれはその作家人生を費やし、幾度となく「想像できないもの」そのものである「神」と格闘しつづけることになります。  そして何より日本SF史上伝説の一冊といわれるこの『神狩り』はまさに「想像できないことを想像する」努力に貫かれた一冊です。  前述した哲学者ヴィトゲンシュタインが作中人物のひとりとして登場することでもしられています。  そこで焦点があたるのが「神の言語」というアイディア。この物語の骨子となる発想です。  『神狩り』は、古代文字――論理記号がふたつしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ「神」の言語を中心として展開していくのです。  「人間は関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という前提を乗り越える超越存在、「神」。  その絶大なる力を前にして、人間はただ翻弄されるだけの存在でしかありえません。  山田正紀は斬新にも、ここで「論理認識のレベルが異なる存在」として「神」を定義したわけです。  そもそも「神」とは、人の想像の外にある存在です。人間程度が想像できるようなら、ほんとうの意味で「神」であるとはいえないということもできるでしょう。  どんな天才であっても想像できないほど神々しい、眩いばかりの超越的存在、それが「神」であるはず。  ユダヤ教、キリスト教、イスラムといういわゆる「アブラハムの宗教」において、偶像崇拝が禁止されたのはこのためでしょう。  つまり、神は想像できないばかりか、描くこともできない存在であるのです。  それを仮初めにでも描いてしまったら、「神」そのものではなく、その偶像を崇拝することになる。  それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工職人が鋳て造り、鍛冶が金でそれを覆ったり、それのために銀の鎖を造ったりする。貧しい者は供物として腐りにくい木を選んで、細工職人を探し、動かない像を立たせる。あなたがたは知らなかったのか? あなたがたは聞かなかったのか? はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか? 地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?  『イザヤ書』  しかし、ひとはなかなかそのような抽象的存在を崇めつづけることはできません。  「決して想像できないもの」を信じよ、といわれてもむずかしいでしょう。  そこで、「神」の存在をなんとかして形にしようとする美術が生まれていったのだと思います。  おそらく宗教美術の歴史では、本質的に「描けないもの」である「神」とその世界をどうにか描くための努力がさまざまに行われたことでしょう。  あいまいな書き方をするのはぼくが美術史にまったくくわしくないからですが、たとえばイコンなどは「神」を描こうとする努力、つまり「想像できないものを想像しようとし、描写できないものを描写しようとする」行為の作例なのではないでしょうか。  そのほか、重要な作品としては、たとえばベルニーニの「聖テレジアの法悦」などがすぐに浮かびます。  いままさに天使が持つ矢に貫かれようとしている聖女テレジアの法悦を描いた官能的な彫刻ですが、注目するべきは彫刻の背後に描かれた光です。  この光はあきらかに「より上位の世界」、つまり「神の世界」から降りそそいでおり、聖テレジアはその耐えがたいエクスタシーに陶然としているように見えます。  彼女はある意味で「神の指先にふれた」のです。  「神の指先にふれる」――それはひとが感じえる最も崇高な「法悦」なのかもしれません。  さて、より近代的なエンターテインメント作品においても「想像できないものを想像し」、「描写できないものを描写する」その苦闘は続いています。  20世紀、多くの作家のなかで宗教心は褪せたかもしれませんが、ひとに想像力がある限り、「想像できないもの」への興味と憧憬が失われることはありません。  そして作家であるからには、「描写できないもの」をなんとか描写したいという野心を抱くものでもあるのでしょう。  その壮大な野心は結果として多くの名作を生み出しました。 たとえば、ときに「神学ミステリ」と呼ばれることもあるエラリイ・クイーンの傑作『九尾の猫』においては、最後の最後で推理に失敗し絶望する名探偵エラリイに向かって、傍らの人物が「神はひとりであって、そのほかに神はない」と語ります。  この台詞をどう解釈するべきかはむずかしいものがあります。  神のように推理しようとするエラリイの傲慢をいさめているようにも思えるし、その反対に神であろうとして失敗したかれをなぐさめているようにも感じられる。  いずれにしろ、この瞬間、読者はすべての運命の糸を操る存在であり、エラリイがどんなに必死に推理を展開してもなお届かない超越者である「神」の存在をありありと感じることでしょう。  ここでも、「想像できないもの」である「神」を「描かないことによって描く」という手法が採用されているわけです。  あるいは前の記事で取り上げた『ブラック・ジャック』などにしても、ブラック・ジャックが巨大な運命の前に敗北し、「神」に向かって叫ぶという場面が存在します。  これも同じような意図のシーンだといっていいのではないでしょうか。  しかし、これらの作品はべつだん、「神なるもの」を描こうとするところに狙いがあったわけではないでしょう。  一方、『神狩り』のように、あきらかに「神なるもの」を描くために物語を積み重ねたと思しい作品も存在します。  とりあえず、ここではひとが認識することはできず、まして描き出すことは到底不可能な神の次元、光の世界――それを仮に「超越世界」と呼ぶことにしましょう。  その「超越世界」をどうにか描き出そうとした名作といえば、SFファンにとっては小松左京の『果しなき流れの果に』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』といった作品が思い浮かぶところでしょう。  いずれも古い作品ですが、そのイマジネーションの壮麗さはいまなお読者を圧倒します。  さて、これらの作品はぎりぎりのところまで「想像できないもの」を想像しようとし、また描こうとしますが、それでもやはりそれを描くことはできません。  『果しなき流れの果に』は、長い長い物語の果てにある存在が限りない高次元へと登りつめようとし、そして失敗してあたかも太陽の陽に灼かれたイカロスのごとく「下界」、20世紀の地球という現実的な世界に堕ちていくところで閉じられています。  とまれ  階梯概念が指示した――だが、彼は、それにさからって、上昇をつづけた。秩序をやぶってまで、それにさからうエネルギーは、ひたすら共振にあった――上るにつれ、多元時空間をのせたまま流れて行く、超時空間は、はげしい、湾曲した激流となって遠ざかった――混沌とした晦冥の渦まく中に、朦朧とした概念があった。彼は、はげしく問いを投げた。  超意識の意味は?  低次の意識発生過程とのアナロガスな理解……  晦冥が晴れて、ふっと概念が姿をあらわす。  一方、『百億の昼と千億の夜』も、放浪の末に世界の終焉にまでたどり着いた主人公・あしゅらおうが、「この世界の外」に存在すると思われる何者かの言葉を仄聞するところで終わっています。  いずれも、直接に描き出すことができない「神なるもの」と「超越世界」を間接に描き出そとうした作品であると思います。  『果しなき流れの果に』のアイにしても、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうにしても、結局は「超越世界」に到達することはできないのですが、まさにその苦い敗北の味が読者に強い印象を与えます。  それは、先ほど取り上げたエラリイ・クイーンやブラック・ジャックの敗北と同系統のものであるといえるかもしれません。  もっと具体的にその次元に到達したものを描いているように見える作品としては、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』が存在します。  天才スタンリー・キューブリックの手によって映画化され、いまなお伝説的評価を受けているこの作品は、超越存在であるスター・チャイルドの出現を示唆して終わっています。  ここでは、超越存在の実在は明確に描写されているのですが、その具体的な行動は描かれていません。  スター・チャイルドがこの先、いったい何を行うのか、それはどこまでも謎なのです。  目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。  手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーター・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。――そして人間たちが考えるような歴史は終わりを告げるのだ。  同じクラークの『幼年期の終り』に出て来る超越存在であるオーバーマインドにしても、やはりその存在は描かれてはいても、具体的にかれらが宇宙をどうするつもりなのかはわからないままです。  これも結局は「描かないことによって描く」手法のバリエーションであると思われます。  一方、本格ミステリでありながら「神のトリック」を描くことによって、この世界への神の影響を描き出そうとした超異色作も存在します。  麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』。  この小説では、夏に雪が降るという超常現象(とも解釈できる現象)の上で、あたかも高次元の存在が起こしたかのような「神のトリック」が炸裂します。  はたしてそれがほんとうに「神のトリック」だったのか、それともありふれた俗界のトリックに過ぎなかったのか、ほんとうのところはわかりません。  しかし、多くの読者はその神秘的展開に「神」の存在を思うことでしょう。  少し毛色が違うところでは、乙一の『くつしたをかくせ!』という作品をご存知でしょうか。  この絵本では、世界中の子供たちがサンタクロースがプレゼントを入れられないようさまざまな場所に靴下を隠すという逆説的な物語が展開するのですが、最後の最後、子供たちの必死の努力にもかかわらず、すべての靴下にはプレゼントが入っています。  なぜ? それはわかりません。  ただ、サンタクロースは子供たちがどんなに巧妙に逃れようとしてもその裏をかくことができるのだ、と考えるしかないでしょう。  ここでのサンタクロースがあらゆる物理法則を乗り越えた「超越世界」の超常存在――「神」を意味していることはあきらかです。  つまりは、これもまた「神のトリック」であるということができるでしょう。  『くつしたをかくせ!』の本編にはサンタクロースは登場しません。  やはり、これもまた「想像できないもの」を「描かないことによって描く」作品のひとつなのです。  さて、いままでSFやミステリの作例を見て来たわけですが、より宗教に近いジャンルであるファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。  たとえば、C・S・ルイス『ナルニア国物語』、J・R・R・トールキン『指輪物語』などは、「超越世界」をどう描写しているのか。  トールキンはともかく、ルイスはあきらかにキリスト教の信仰をもとにして『ナルニア』を書いたといわれています。  それでは、ルイスは「ナルニア」こそがまさに「超越世界」そのものである、と考えていたのでしょうか。  そうではありません。ここでも「ナルニア」はあくまで「真の楽園」へ至るひとつのステップであるに過ぎないのです。  「真の楽園」は「超越世界」であるが故に描くことができない。そのためにその世界の「影」としてのナルニアを描く。そういう方法論だといってもいいでしょう。  あるいは、これは孫引きになりますが、より世俗的とも受け取られるJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにしても、このようないち場面があるそうです。 「僕は、帰らなければならないのですね?」 「きみ次第じゃ」 「選べるのですか?」 「おお、そうじゃとも」  ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。 「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」 「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」 「先へ」  ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。  「先」。  それは決して描けない「超越世界」を意味しているものと思われます。  つまり、SFにしろミステリにしろファンタジーにしろ、直接描くのではなく示唆することによってしか、「超越世界」の神秘を描くことはできないのです。  さて、ここでようやく麻枝准の作品の話に戻ります。  『ONE』から『Angel Beats!』に至る麻枝作品は、実は 

『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。

あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

 たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。  しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。  そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。  そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。  これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。  クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。  この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。  しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。  その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。  なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。  だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。  そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。  最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。  『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。  かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。  しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。  そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。  あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。  だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。  たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。  どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。  大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。  ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。  だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。  理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、 

あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

 アニメ『艦これ』の最終回の評価、さんざんだったようですね。  ぼくも見ましたけれど、たしかに「……」な出来。  とくべつ作画が崩壊したとかそういうことじゃないんだけれど、シナリオの脈絡がなさすぎる。  いや、脚本家としてはすべての描写に意味があると主張したいかもしれないけれど、ファンが一生懸命「解釈」しないと意味が通らない時点でやはり失敗でしょう。  シリアスをやりたいのかコメディをやりたいのかよくわからないですしね。シリアスな場面でむやみと萌えカットを挟むのはやめてほしいところ。  ただ、今回、このアニメ版が不評なのは、単純に出来が悪いという以上に、原作の設定を大きく改変しているという一点に問題があるらしい。  意味もなく原作を改変すると熱心なファンが沸騰するといういいサンプルですね。  その話を聞いてすぐに思い出したのがアニメ『真月譚月姫』であるキャラクターがスパゲッティを食べている描写があったこと。  本来ならまったくどうということはない一シーンなのですが、そのキャラクターは原作では根っからのカレー好きという設定なので、ファンは強烈な違和感を抱き、大きな話題になったのでした。  ことほどさように視聴者は作品のディティールに愛着を抱き、大切にするものだということです。  製作スタッフにしてみれば「そんなの、どうでもいいじゃん」と思うかもしれませんが、むしろそういう細部こそが作品に命がこもるかどうか決する決定的なポイントなのです。  『真月譚月姫』にせよ、『艦これ』にせよ、そこまでクオリティが低いアニメというわけでもない。  むしろそれなりにはよくできているからこそ、原作ファンは「何か違う」と感じてしまうのだと思います。  で、面白いのは、同じ『真月譚月姫』であっても、佐々木少年による漫画版の評判は非常に高いんですね。  ぼくも全巻読みましたが、たしかに傑作だったと思う。  ただ、漫画は漫画でオリジナル展開を付け加えたりしているんですよ。  それなのに、そのことに対して文句をつけるファンはほとんどいない。いったいどこが違うのか?  それについて、ぼくは昔、「わかってる度」という尺度を考えたことがありました。  「原作に忠実」と評されている作品でも、じっさいにはメディアが違うわけだからそこまで忠実に映像化しているはずはない。  やはり、原作の描写や設定を何かしら解釈して描き出していることには違いないわけです。  しかし、それらの作品では原作に対する理解とリスペクト、つまり「わかってる度」が高いから、ファンがそうしてほしいように解釈している。  結果、あたかも何もかも原作に忠実であるかのような印象を与える作品ができあがることになる――そういうことなのではないかと。  つまり、『月姫』の漫画とアニメでは「わかってる度」に差があるわけです。  「わかってる度」が高いとは、 

『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

15年目にしてまだ考える。『AIR』の感動って何だったんだろう?

 うにー。海燕です。どうも最近、このブログの内容は記事ごとに細切れにして話すにはむずかしい内容を扱っているような気がします。  難解というわけではなく、「わかる人にはわかる」話をしているのですが、はたしてこれはどの程度正確に伝わっているのか? 不安がなくもありません。  と書くのも、きょうはいままで書いてきたことを踏まえて、さらにわかりづらい話を展開しようと考えているからです。どうか、付いてきてくれると嬉しいな、と思います。  さて、この世には「ミクロ」と「マクロ」の問題が存在し、それぞれに対応する物語があるというところまで話をしました。  そして、マクロとミクロの物語では異なるテーマが存在するが、それらがリンクしあう物語もまたあり、その象徴となるのが「マクロの問題を一身にひき受けるヒーロー」であるということも話したと思います。  ちなみに、この「無限の責任(responsibility)を背負う、つまり無限の呼びかけに対して応答(response)するヒーロー」が、善悪二元論がまかり通るこの世界において、一身を「悪」に見立て、残るすべての世界を救済するという物語形式を、ぼくは「生贄の王の類型」と呼びたいと考えています。  典型的なのは『コードギアス』のルルーシュですが、この時、ヒーローはフレイザーのいう「森の王」(だっけ?)よろしく、全社会の全責任を背負って物語から退場するのです。  じっさいに退場するところまでは行っていませんが、アメリカのヒーロー映画の頂点である『ダークナイト』もこの類型ですね。バットマンはまさに「生贄の王」そのものです。  しかし、きょうはその話には深入りしません。実はきょう、ぼくはマクロをも超えた「ウルトラマクロ」というものがありえるのではないか、という話をしたいと思うのですよ。はっきりいって自分のなかでもまるで煮詰まっていない話なのですが……。  それでは、ウルトラマクロとは何か? それは神であり、楽園です。運命であり、悟りです。あるいはイデアとか超越という言葉を使うこともできるでしょう。  つまり、ミクロとかマクロといった区分が通用する現実世界を超えた超越的次元のことを、ここではウルトラマクロという言葉で指し示しているわけです。  ――怪しい話だと思いますか? ぼくもそう思います。しかし、一面でひとは現実的な要素だけで生きていくことはむずかしいということもたしかです。  「ひとはパンのみにて生きるに非ず」。そして、パンに加えてサーカスだけあればいいというものでもありません。何か日常世界を超えて気高いもの、美しいものにふれたいという想いが、人間にはやはりあるのだと思います。  もちろん、そんなものはいらないという考え方もあるし、そういう考え方だけでも十分に生きていくことができることはたしかですが、今回はそういうウルトラマクロを必要とする人々がいるということを前提として話をしたいと思います。  さて、 

15年目にしてまだ考える。『AIR』の感動って何だったんだろう?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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