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冴えない青春が輝く瞬間を描く『灰と幻想のグリムガル』が面白い。
2016-05-09 12:4351pt
5月に入って、そろそろ新作アニメの視聴も絞らないといけない時期に入っていますね。
ぼくは『Re:ゼロから始める異世界生活』、『マクロスΔ』、『くまみこ』、『少年メイド』、『SUPER LOVERS』、『甲鉄城のカバネリ』あたりを中心に追いかけています。
過去作で消化していないものもたくさんあるので、それも並行して見ないといけないと思うと、なかなか忙しい。
ぼくの場合、アニメを見ることは「趣味」であるのと同時に「お仕事」でもあるので、あまりサボるわけにはいかないのです。
まあ、そうはいっても長い間サボっていたわけですが。それでもね。
さて、そういうわけでいまは『灰と幻想のグリムガル』の続きを見ています。
まだ見終わっていなかったのかよ、といわれるかもしれませんが、そうなんですよ。もっと早く見ないとな、とは思うのですが……。
『灰と幻想のグリムガル』、まだ見終わっていない段階でいうのもなんですが、今年を代表する傑作だと思います。
ちょっとライトノベル原作とは思えないくらい(偏見か?)渋い雰囲気の作品ですが、ちゃんとそこそこ売れているようでひと安心。
こういう作品がまったく評価されないようだと辛いですから。
それでは、どこがそんなに面白いのか? 色々ありますが、やはりゴブリン一匹倒すのにも苦労する未熟な新米冒険者パーティにフォーカスして、その非日常的な日常を描き出した点が大きいでしょう。
普通のアニメだったら(たとえば『ソードアート・オンライン』だったら)、あっというまに駆け抜けていくであろう冴えないポイントを執拗に描きだす面白さ。
必然的に地味な展開にはなるんだけれど、そのぶん、弱者の冴えない青春にもある素晴らしい瞬間を描きだすことに成功している。
世界が輝いて見えるような、そんな時。
ぼくはこの作品はあきらかに最近の青春映画の文脈で語るべきものだと思っています。
ここ最近の青春映画、『ちはやふる』、『バクマン。』、『くちびるに歌を』、『心が叫びたがってるんだ。』、『響け!ユーフォニアム』などは、いずれもスケールがごく小さかったり、最後に挫折が待っていたりするという共通点があります。
『青春100キロ』もこの系譜に入れてもいいかもしれないけれど、あれはちょっと違う気がする。もっと古典的。
それは置いておくとして、ここに挙げた作品はどの映画もどちらかというと「冴えない青春」であって、「全国大会優勝!」といった話にはならないのです。
まあ、『ちはやふる』をちはやの物語と捉えると、いずれは全国大会優勝したりするかもしれないけれど、映画版はあきらかに太一が主人公だと思います。
「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。
しかし、 -
いま、「主人公になれない者たちの物語」が熱い。
2016-04-10 01:5851pt
最近、ペトロニウスさんやLDさんと「いまの時代のトレンドは何か?」ということを話したりします。
この場合、話しているのがぼくたちなので、最新ファッションのトレンドではなく、アニメや漫画の流行のことを指しています。
で、色々と話してみたのですが、どうもよくわからないというか、はっきりした答えが出てこないのですね。
というのも、単純にトレンドを語るにはすでに市場が成熟しすぎているのだと思います。
いい換えるなら、支配的なトレンドが成立しないほど多様化が進んでいる。
一見すると甘ったるい萌えアニメばかり、安っぽいファンタジーばかり、といった状況に見えるかもしれませんが、よく観察してみるとあきらかにその観測は正しくない。実に色々な作品が共存しているのです。
たしかに『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』みたいなひとをダメにするアニメ(笑)もありますが、その一方で『灰と幻想のグリムガル』とか『Re:ゼロから始める異世界生活』のようなめちゃくちゃきびしい話も存在している。
その片方が市場を席捲するという状況ではもはやなく、常時甘ったるいものときびしいものの両極のあいだの作品がグラデーションをともなって提供されつづけているのが現状ということになるでしょう。
狭い観測範囲ばかり見ているとダメダメな作品ばかりが提供されつづけているというふうに見えるだけのことで、全体をしっかり見ていけばきわめて多様でしかも質が高い作品が存在する現状は明白です。
これはもちろん素晴らしいことなのですが、たぶんアニメや漫画だけではなく、ほかの文化ジャンルを見てもそうなのでしょう。
2016年現在、日本の文化状況はひと言では語れないほど成熟し多様化しているという見方が正しいように思われます。
だから、決して「いまのトレンドはこうだ!」ということはできないのですが、それにしてもきびしい物語が続いているなあ、と感じます。
ぼくたちの言葉でいうと「新世界系」ということになるのですが、登場人物を容赦のない現実に晒すことを特徴とする物語が散見される。
特に『進撃の巨人』以降、そういう物語が続いているように感じられます。
先述の『グリムガル』や『Re:ゼロ』のほかにも、たとえば『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』も非常にきびしい話ですよね。
ある意味ではそれはひたすらに甘い日常を楽しむ萌えラブコメの対極にある世界ということもできるわけですが、その両者が併存する環境こそが理想的な状況だといえるとぼくは思っています。
結局のところ、人生とはただ甘ったるいだけのものではありえない一方で、辛いだけのものでもありません。
ひどく残酷で容赦がないその一方で、信じられないような奇跡的な出来事も起こりえるのが現実の人生なのだと思う。
しかし、クリエイターがリアリズムに徹しようと考えるとき、ただひたすらに暗く救いのない現実「だけ」を描こうとする傾向があるように思われます。
それはそれでもちろん人生の一断面を正確に描き出しているのだけれど、それこそが人生の真実なのだといわれると何かが違っているように思われます。
たとえば甘い恋愛の喜びにしたところで、決して嘘ではありえないのですから。
だから、こんなアニメばかり見ていると人生がダメになる!と思われるような萌えアニメを見るのも必ずしも悪いことではないと思うのですよね。
たしかにそればかりを見ていると致命的に何かを間違えてしまうかもしれませんが、他方できわめてきびしい現実を突きつけるようなアニメもちゃんとやっているわけですから、それも並行して見ればいい。何も問題ないと思うのです。
そういうわけでそのきびしい物語の話をしたいと思います。
最近、『ちはやふる』の実写映画版を見て来ました。
これが面白くて、漫画版はちはやの物語であるものを、太一の物語に見えるよう再編集されているのですね。
漫画版でもちはやよりは太一が主人公のように見えなくもありませんが、映画は完全に太一の物語以外の何ものでもない。
これは非常に現代的だなあ、と感じ入りました。
原作を読んでいない人たちのために説明しておくと、太一とはイケメンで頭が良くて金持ちの息子、というすべてがそろった少年なのですね。
しかし、『ちはやふる』のメインテーマである競技かるたに関しては特別な才能を持っていない。
ほかのすべてを持っているのに、かるたにおいては二流ということに、強いコンプレックスを持っている。そういう造形のキャラクターであるわけです。
かれは物語の主人公にしてヒロインであるちはやに恋し、彼女の心を射止めるために好きでもないかるたに熱中するのですが、「かるたの神さまに選ばれていない」という劣等感は消せません。
映画はそんな太一にフォーカスし、かれの切ない想いを追いかけていきます。
これは非常に現代ふうの物語だなあ、と感じます。同時に、最近の青春映画ではよく見られるパターンでもあるな、と。
ここしばらく、ぼくは日本の青春映画を追いかけているのですが、それらは一様にひとつの特徴を備えているように思います。
あらかじめ敗北と挫折がプリセットされているということ。
『くちびるに歌を』でも、『バクマン。』でも『心が叫びたがっているんだ』でも、そこは共通している。
もちろん古典的な青春映画でも挫折は付き物ですが、これらの作品では最後の最後まで挫折が付きまとっています。
敗北と挫折を乗り越えて勝利を手に入れるという側面がなくはないのですが、『バクマン。』あたりに典型的なように、その勝利のさらに先にはやはり敗北が待っているのです。
『心が叫びたがってるんだ』などは最終的にはそれなりの成功にたどり着くのですが、それにしてもきわめて局地的な成功に過ぎません。
全国大会優勝!とか、そういうことではない。
このスケールの小ささがきわめて現代的で特徴的だと思います。
努力して大成功をつかみ取るという結果で終われないということ。
もちろん、ただスケールが小さいだけの物語は面白くない。
だからなぜそういう物語が登場してきているのかということが重要だと思う。
先に答えを述べてしまうと、それは「選ばれていない者たちの物語」を描くためではあると考えられます。
アニメ『輪るピングドラム』が「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉とともに始まったのはしばらく前のこと。
それから時間が経って、「きっと何者にもなれない者たち」が主役となる物語が続いているといういい方もできる。
これは映画ではなくアニメですが、『灰と幻想のグリムガル』がやはり最も特徴的だと思います。 -
北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。
2015-04-03 13:1551pt
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。
映画『くちびるに歌を』をみた。
圧倒されて言葉ひとつ出て来なかった。
これは、まさに吹き荒れる嵐のなか、なお青褪めたくちびるに歌声を保とうとする、その健気な人々の物語だ。
運命の無情な羽ばたきに吹き飛ばされながら、それでも心に太陽を抱きつづけようとする人たちの鮮烈な生の記録だ。
ここには〈世界〉がある。そして〈人間〉がいる。
どうしようもない巨大な歯車に押しつぶされながら、何とか一生懸命に生き抜こうとするひとの意思がある。
美しい。なんと美しい映画なのだろう。
傑作とか名画とか、そのような陳腐な表現はこの清新な一作に似合わないが、あえてそういうふうに呼ばせてもらおう。傑作だ。名画である。
ひとつ映画に限らず、今年ふれたあらゆる物語のなかでも、出色の一作ということができる。
話は、ある小さな離島の中学校に、ひとりの美貌の女性教師が赴任してくるところから始まる。
ささやかな約束によって合唱部の担当となったその教師は、しかしかれらを熱心に指導しようとはしなかった。
やがてその教師目あてに幾人かの男子部員たちが入って来て、部は分裂し、混乱する。
そしてあきらかになる教師の過去。彼女は元々、素晴らしいピアニストだったのだ。
それなら、なぜ自分たちのためにその天性の技量を振るおうとはしないのか? 合唱部の生徒たちの間にフラストレーションが溜まっていく。
しかし、そのうち彼女が心に抱えたひとつの〈瑕〉が明かされることになる。
一方、生徒たちもまた物語を抱えている。自閉症の兄とともに暮らす少年。実の父親に見捨てられた少女。そして、かれらの想いと教師の想いが響き合うとき、ひとつの奇跡が起こる――。
この映画が描こうとしているものも、ある種の〈諦念〉である。
主人公の少年は自閉症の兄の世話をする人生を受け入れている。自分の生の意味はそこにあるのだと、はっきりとわかっている。
父に見捨てられた少女はそれはどうしようもないことだときちんと理解している。
しかし、それでもなお、そこに「どうしても割り切れない想い」がある。
ひとがひとである限り、純粋に無私の境地には到達できない。どんなに割り切ろうとしても、やはりほんの少しだけ無念がのこる。
だから、そう、くちびるに歌を。
何もかも思い通りにならない、辛く、また切ない日々のなかでも、歌声を保ちつづけること、それが、
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