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記事 485件
  • 傑作? 迷作? 『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観た!

    2021-06-16 00:41  
    300pt

    ひたすら「ぽかーん」。理解を絶する暴風映画。
     先ほど、映画『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観て来ました。いやあ、めちゃくちゃ面白かったけれど、まったくわからなかった(笑)。
     だれだよ、初見でも大丈夫とかいったの! 全然ちっともこれっぽっちも大丈夫じゃねえよ!! こんな映画、事前情報なしで見て理解できるわけないだろ!!!
     テレビシリーズの総集編だと聞いていたので、見ているあいだじゅう「???」が頭のなかを飛び交い、「こんな総集編があってたまるか!」と思っていたけれど、いや、新作だよね、これ。良かった。
     いや良くないけれど、テレビシリーズ続編の新作ならまだ理解できる。理解できなさが理解できる。これがほんとうに総集編だったならどうすれば良いのかわからなくなるところだった。
     まあ、どうやらある演劇系の名門学園に集った舞台少女たちの友情と葛藤の物語らしいのだけれど、もうストーリーはあってないようなもの、ひたすらヴィジュアルの絨毯爆撃が続くモンスタームービーですね。
     あるいはもしかしたらぼくが理解できていないだけという可能性もありますが、一般的なストーリーの構成から逸脱している作品であることは間違いありません。逸脱しているというか、だれが主人公なのかも良くわからない。
     でもまあ、テレビシリーズを見ていたらわかるのだろうけれど……いや、ほんとにそうか? これ、ひょっとしてテレビシリーズを見ていてもなおぽかーんとするやつなんじゃないのか?
     アニメーションの快楽を感じさせることはたしかだけれど、それにしても視聴者を信頼しすぎ。こんなシロモノがちゃんとエンターテインメントとして、何なら『ラブライブ!』あたりのお仲間みたいな顔をして、堂々と劇場公開しているあたり、ぼくらの日本という国は凄いと思います。
     文化的に成熟し過ぎやろ。いったい何をどうしたらこんな映画ができて来るんだ? しかもふつうにアイドル的な萌え美少女映画として見れなくもないし。何が何やら。
     
  • 炎上中の「なろう」パロディ『チートスレイヤー』本当の問題点とは?

    2021-06-14 01:09  
    300pt
    「愛のないパロディ」として炎上している『チートスレイヤー』を読んでみた。
     いま、Twitterを初めとする各種SNSで『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』という漫画作品が(主に批判的な意味で)話題に挙がっています。
     まあ、タイトルでわかるようにそれぞれが何らかのチートを与えられた邪悪な異世界転生者に対し、主人公が復讐を繰り広げていくという物語なのですが、そのチートキャラクター各人たちにひとりひとりに具体的なネット小説発のモデルがいると思しいことが問題視されているのですね。
     具体的には、こんな感じ。
     うん、ほかのはまだしも「双剣の黒騎士キルト」って『ソードアート・オンライン』のキリトそのままやんけ、と思ってしまいますね☆
     いや、キリトくん、べつに異世界転生なんてしていないんだけれど、まあ、チートキャラクターといえばまず思いつくのはかれであることはわからないでもない。
     ただ、キリトがチートだというなら『ドラゴンボール』の孫悟空や『ONE PIECE』のルフィを初め、あらゆるヒーローキャラクターはチートだといえなくもないわけで、「そもそもチートとは何なのか?」、「ヒーローの条件とはいったいどのようなものなのか?」という問いにも繋がっていきそうにも思えますが、そこまでの深みを期待できる作品でもないだろうな。
     すでにネットでは「悪質なパクり」、「愛のないパロディ」などと批判されていますが、そういった意見ももっともなのではないかとは思う。
     しかし、読まないで批判することもやはり良くないので、わざわざこの作品が連載開始した雑誌『ドラゴンエイジ』を買って読んでみました。
     買ってみて初めて気づいたんだけれど、この雑誌、かなり大量の「なろう系」作品が連載されているんですね。そんな雑誌で「なろう小説」に喧嘩を売るような作品を連載していて、この作者さん、忘年会パーティーとかで袋叩きにあったりしないかしらん。
     他人事ながら心配になってしまいます。いやまあ、ネットではすでに炎上しているわけですが。
    「面白いか、面白くないか?」、それこそが問題だ。
     で、本作を読むにあたってぼくが考慮したことはたったひとつ、「一個の作品として面白いのか?」。それだけです。
     この作品がいわゆる「なろう小説」を初めとする具体的な作品のパロディであろうがオマージュであろうが、それは良い。
     たしかに「双剣の黒騎士」やら「ネームド・スライム」やら、あきらかに元ネタを消化し切れていない印象があるので、単純に訴訟沙汰になったら負けるのでは? 「パロディ」とか「パクり」という以前にただの純粋な「盗作」という次元なのでは? といった疑問が浮かばないこともありませんが、この際、それも良い。
     いや、良くないかもしれないけれど、少なくともいち読者であるぼくが最初に考えることではない。もし単に漫画作品として面白いなら、どんなにひどいパロディであっても、それはそれで許そう。ぼくはそういうふうに考えています。「面白いは正義」。
     そもそも「なろう」に限らず、既存の有名作品のパロディでヒットした漫画はいくらでもあるわけで、法的、著作権的にどうであるかはともかく、この作品だけをその文脈で非難することも何か違っているように思えます。
     それで、結局、『チートスレイヤー』は面白いのか? ……うん、さんざんひっぱるだけひっぱっておいて申し訳ないのだけれど、いやこれ、ダメですね。
     もちろん、まだ第一話の段階なので軽々に判断はできないものの、とてもこの先、傑作になろうとは思われない。ごく普通に企画倒れのただのよくある凡作でしかないすね。
     あえて称賛するなら、この作品を読むと、ネットではバカにする人も少なくない『ソードアート・オンライン』とか『Re:ゼロ』とかがじつはいかによくできていて面白い作品であるかが逆説的によくわかる。
     『モナ・リザ』の贋作が『モナ・リザ』の威光を高めるように、といったらいい過ぎか。とにかく、全然面白くない。そういうわけで、この先は「具体的に何がダメなのか?」を他の作品を踏まえて語っていきたいと思います。
    なぜ『チートスレイヤー』は面白くないのか?
     この作品を読み終えたあと、ぼくは「この漫画、なぜこんなに面白くないのだろう?」と考えてみたのですが、まあ、その理由はいくつもあるでしょう。
     しかし、そのなかで最も致命的なのは、「エンターテインメントとしての志が低い」ことなのではないかと考えます。
     先述したようにこの種のパロディは歴史上無数にあるわけですが、それがただ単に露悪趣味的なパクりで終わるか、それとも元ネタをも超える傑作として評価されるかは、その元ネタに対する批評性にあるのではないかと思います。
     つまり、元ネタの作品ないし作品群が暗然と抱える構造的な欠点や問題点を批評的に語ることができているかどうか、それがパロディのクオリティを決定する。
     で、『チートスレイヤー』はその点で決定的に稚拙ですね。この作品に登場する異世界転生者たちは作中で「前世はただの陰キャ」だの「恋愛脳の非モテ」だのと批判されていて、あえていうならそれがいわゆる「なろう」的なネット小説に対する批判になっているわけですが、そんなの、いままでさんざんいわれていて、もうウンザリするくらい聞き飽きた話であるわけですよ。
     いま、「なろう」的なものを書いている人たちはだれもがその点はわかった上でやっているわけでね、まず、批判なり批評としての底が浅い。ネット小説に対する「アンチテーゼ」としてまったく新鮮味がない。それが第一点。
     この時点でもうわりとダメダメなのですが、まだいろいろと問題があって、そのなかでもけっこうどうしようもないのが、主人公のキャラクターがきわめて弱いことですね。
     他作品からキャラクターを借りて来て敵役に仕立て上げている以上、この作品の主人公であるオリジナルキャラクターはそれらに匹敵する個性と魅力を持っていなければならないわけですが、実際にはこの主人公、ほんとにただのつまらない奴なんですよ。まったく何の魅力もない。ちょっと論外ですね。
     それなら、この『チートスレイヤー』と同じような路線で「成功したパロディ」には、どのようなものがあるのか?
    『ザ・ボーイズ』や『ウォッチメン』といった先行例。
     ネットでは、すでにこの作品がアメリカンヒーローものパロディの『ザ・ボーイズ』と酷似しているという指摘があります。
     ぼくは不勉強でまだ『ザ・ボーイズ』を観ていないので(これから観ます!)、それがほんとうなのかどうなのかわからないのだけれど、話を聞く限り、たしかによく似ているようですね。おそらく、同じようなアイディアから出て来た作品なのでしょう。
     もっとも、当然ながらこの手のヒーロー・パロディにも歴史があって、この作品が特別だというわけではありません。先行例としては、ときにアメコミ史上の最高傑作とも呼ばれることがあるダークな超名作『ウォッチメン』などがありますね。
     この作品ではたくさんのオリジナルヒーローが出て来ますが、当初の予定では既存のヒーローを流用する予定だったそうです。
     というか、ヒーローを悪役にするという発想は、それ自体はきわめて普通のもので、だれもが最初に思いつくところなんですよ。最も魅力的な主人公とは最も強烈な個性を持つ悪役にもなりえることはわかり切ったことであるわけです。
     だから『仮面ライダー』とか『ウルトラマン』とか『機動戦士ガンダム』などでも、最終的にはライダー対ライダー、ウルトラマン対ウルトラマン、ガンダム対ガンダムといった展開になっていきますよね。
     その発想の根底には「もしあのヒーロー同士が戦ったらどっちが勝つのだろう?」という、いかにも子供っぽい、しかし本質的なクエスチョンがあります。
     これはいまも昔も変わらず、人をつよく惹きつける問いで、この手の作品はいくつも挙げられることでしょう。
     ちょっと路線は違いますが、『スーパーロボット大戦』なんかも同じような発想から出てきているものと見て良いでしょうね。「もしマジンガーとガンダムがいっしょに戦ったら?」みたいな。
     そのなかでもぼくが傑出した名作と見ているのが、戦後最大の天才娯楽作家・山田風太郎の最高傑作『魔界転生』です。 
  • テレビアニメ『スーパーカブ』ネタバレ感想。「それでも幸せになれるのか?」

    2021-06-11 10:24  
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    ライトノベル原作の傑作アニメ『スーパーカブ』第一話が神回で凄すぎる。

     この頃、ちょっとひとりのオタクとしてさすがに堕落し過ぎたことを実感していて、一から鍛え直そうと思い立ち、色々アニメを見たり本を読んだりしています。で、そのなかでも何かとんでもない傑作だと感じたのがアニメ『スーパーカブ』。

     これがねー、じつに凄かった。どうしてこの作品を見ようと思ったのかもう良く憶えていないけれど、だれかに教えてもらったのかな? まあ、人に奨められたとしても興味が湧かないと見ないので、何か直感が働いたのだと思います。

     正解でしたね。これは、素晴らしい。ほんとうに素晴らしい。おそらく原作もよくできているのだと思うし、漫画版も面白かったのですが、アニメのクオリティは圧巻です。

     アニメ版はストーリーやキャラクターデザインそのものは漫画と共通しているのだけれど、演出の方法論がまったく違っていて、そのため、アニメと漫画では大きく印象が異なっています。

     漫画が、わりと女子高生の日常ものとして楽しめるようキャラクターも含めてコミカルに描かれているのに対し、アニメのほうはもっとリアリスティックな演出になっている。

     まあ、主人公以外のキャラクターが続々とストーリーに参加して来る中盤以降はいわゆる「空気系」としても楽しく見れるのですが、それでもこのアニメの見どころはやはり「何もない女の子の世界が輝きはじめる瞬間」を描きだした序盤にあると感じます。

     才能も、友達も、恋人も、財産も、何ひとつ持っていない「ないないの女の子」である主人公が、なかば偶然にスーパーカブというバイクを手に入れたことから少しずつ世界が広がっていくところを丁寧に描写する第一話はまさに神回。

     ここにこそこの作品の神髄がある、と感じます。自転車と違い、一定以上の年齢にならないと乗れないバイクには自由の象徴という側面があって、だからこそ『十五の夜』では「盗んだバイクで走りだす」わけですが、この作品でスーパーカブが保証してくれるのはほんとうにほんの少しの「視野の拡張」でしかありません。

     しかし、その「ほんの少し」だけで世界は劇的に変わって来る。このアニメはそのことをじつに丹念に見せてくれます。

    スーパーカブと出逢ったことによって、少女・子熊の人生は一転する。

     2020年代に入っていよいよ驚異的な次元に達しようとしているテレビアニメとしても見るからに図抜けた作画と演出のスーパークオリティに支えられた「灰色の日常」の描写は、ちょっとこれはさすがにエンターテインメントとしてどうなのか?と思うくらい、ものすごく地味でありながら、しみじみと「何もない」、「だれにも頼れない」孤独感に満ちていて、何ともやるせなさを感じさせます。

     でも、それがスーパーカブとの出会いによって一転してまわりが鮮明に輝きだす場面を支えている。

     その後、物語を通し一貫して子熊のきわめて狭く限られていた世界は拡大していくことになるわけなのですが、それもべつに何らドラマティックなこととはいえません。ただちょっと古い原付を手に入れて移動が楽になった、それだけのこと。

     しかし、その、たったそれだけで人生が劇的に変わって来るというのが、そこまで彼女がいかに追い詰められていたのか逆説的に語っているのですね。

     「何もない」主人公がすべてを手に入れていく物語というと、ぼくは羽海野チカ『3月のライオン』を思い出します。でも、『3月のライオン』の主人公には、ほかに何はなくとも将棋の才能だけはあった。

     かれはその唯一の才能にすがるようにして懸命に努力を続け、状況を打破していくわけなのですが、子熊にはそういったスペシャルな才能は何もありません。さらに彼女は経済的にも限界的な状況にあり、また、何か活動を起こすようなモチベーションすら持っていません。

     ある意味ではこれ以上ないくらい追い詰められているのです。もうここまで来たらどうにも逆転しないのでは?と思ってしまうくらい、ギリギリのところにいる。

     それが、ただ「人を三人殺している」ためにやたらに安く売られいていた中古のバイクを入手した、それだけで変わる。そこにこの作品の見どころがあります。

     とはいえ、突然経済状況が改善するわけでもないし、失踪した親が帰って来ることもありません。そういう意味ではほとんど何も変わりはしないのです。それなのに、たしかに子熊の生活は一変する。この説得力。

    「ないないの女の子」に救済はありえるのか?

     これはもう萌えアニメとか、美少女アニメといって良いものではないように思います。たしかに可愛い女の子たちは出て来るのだけれど、状況設定に花やかさがまったくない。

     この作品、一応は萌え四コマとかいわゆる「空気系」に近いところに属するアニメーションではあると思うのだけれど、それにしてはあまりにも異色です。というか、その進化の樹形図の最新のところにある姿といったほうが良いのかも。

     空気系の進化の系譜、それは、まあ『あずまんが大王』まではさかのぼらないとしても、『らき☆すた』や『けいおん!』あたりから連綿と続いています。

     そしていまさらいうまでもないことですが、このジャンルの楽しさは、「女の子しかいない平和な仲良し空間」の演出にあるのだと思います。

     空気系のアニメでは、一般にたいした事件は起こりません。人が死んだり、異能バトルが起こったり、世界が滅びたりといったことは基本的にありえないわけです。

     だから従来の物語の方法論でいうとそれでは何も面白くないはずであるわけなのですが、その平和でのんびりとした「空気」そのものを味わうというのが、これらの作品の要目なのですね。

     ある意味では恋愛もののアニメから恋愛と男性主人公をカットしてできた世界といえるかもしれません。『スーパーカブ』も、やはりこの空気系の文脈で見るのが正しいのだろうとは思う。

     ところが、空気系として見るとこの作品はきわめて異色です。まず、空気系とは主人公の少女たちの「仲良し空間」を描くところに眼目があるのに、この作品の主役である子熊にはひとりも友達がいない。

     まあ、それだけなら、序盤でひとりぼっちの女の子が友達を増やしていくプロセスを綴った作品もあるからそこまでめずらしいことではないかもしれませんが、じつは彼女には両親すらいないのです。

     どうやらふた親とも死ぬか失踪するかしてしまったらしいのだけれど、とにかく現役女子高生でしかない子熊には「保護者」がいない。このきびしさ。ここを物語のスタートポイントに持って来たことが、この作品の特色です。
     
  • 結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

    2021-06-10 23:51  
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     映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を観た。観てしまった。
     タイトルの通り、オルコットの名作『若草物語』の映画化である。ぼくはあまりくわしくないが、過去、何度も映像化されている作品であり、日本でも「名作劇場」枠でアニメになっている。この映画はその最新のバージョンというわけだ。
     ただ、現代において、古典的な傑作を映画にする以上は、何かしら新たな解釈を求められる。だからぼくは最初、さてお手並み拝見といった感じで余裕しゃくしゃくに観ていたのだが、シリアスなテーマが浮かび上がって来るにつれてしだいに余裕がなくなり、最後には真剣に観入った。
     いやあ、これは素晴らしいですわ。まさに現代の傑作。ハリウッド映画ってまだこんなに美しい映画を撮れるのだなあ。凄い。
     物語の基本的な骨子は良く知られている『若草物語』そのままだ。メグ、ジョー、ベス、エイミー。それぞれ異なる個性を持つマーチ家の四人姉妹の少女時代が暖かな映像とともに綴られる。
     この四人の性格描写が絶妙で、長女としての責任を感じ大人びたメグ、奔放で破天荒なジョー、内気でおとなしいが優しい心を持ったベス、しょっちゅうジョーと喧嘩している勝ち気で頑固なエイミーと、四者四様のキャラクターが丹念に描かれていることはご存知の通り。
     しかし、この映画ではただオルコットの『若草物語』をそのまま再現するに留まらず、彼女たちの過去(少女時代)と現在(大人になってから)を交錯させながら描写することで、女性の生き方のむずかしさを描き切っている。
     女性の幸せが「結婚」にしかないと見られていた時代、自由な生き方を貫くにはどうすれば良いのか? はたしてほんとうに愛さえあれば人は幸せになれるのか?
     「愛」という感情と「結婚」という制度から構成されるいわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーに正面から疑義を突きつけていく展開は、まさに端正なフェミニズム映画といって良いだろう。
     もっとも、必ずしもそのような頭でっかちな解釈で見る必要はないかもしれない。何といってもそれぞれ負けず劣らずに美しく可憐な四人の少女たちを見ているだけで楽しい。
     長女メグを演じたエマ・ワトスンを初め、あたりまえのようにハリウッド映画らしい美人女優がそろっていて、きわめて花やかな映画である。
     ただし、『若草物語』のストーリーをまったく知らないと、過去と現在が錯綜する内容、特に序盤はいくらか混乱する可能性がある。おそらく、制作側は観客が『若草物語』の筋書きをそれなりに知っていることを前提に映画を作っているのだろう。
     そこは欠点といえば欠点なのだが、映画全体の素晴らしさを考えればささやかな瑕疵に過ぎない。これから観る人はひとつの愉快なエンターテインメントを観るつもりで気軽に鑑賞してほしい。
     物語の実質的な主人公は作家を目指すジョーである。四人姉妹のうち最も男まさりで自由闊達な性格をした彼女は、作家として身を立ててひとりで生きていくことを望んで幼馴染みのローリーのプロポーズも断わってしまう。
     だが、どうにかニューヨークに出て作家にはなったものの、「刺激的な」作品を求める編集者に合わせ、どうしようもなく俗悪なストーリーを綴る日々が続いている。
     いったい自分は何をやっているのか? 心中では疑問に思いながらも家族を養うためといいわけして自分の心をごまかしつづける彼女のもとに、妹のベスが病に臥せっているという報せが届く。ジョーは仕事を投げ捨てて家に帰るのだが、というところから物語は始まる。
     そこに昔日の家族の想い出の回想がインサートされていくわけだ。そのジョーたちの少女時代は全体に暖かな色調で描かれているのだが、一方で「現在」は寒々としたカラーが貫かれている。
     四人が四人とも、貧しい生活ではあっても、それぞれに自由で素直でいられた少女時代と、それぞれ生活の現実に追い立てられている大人時代が対比されているのである。
     そういう意味では、ロマンティックなラブストーリーに終始する作品ではまったくない。むしろ、「アンチ・ラブストーリー」といったほうが良さそうですらある。
     そう、全体を通して観てみると、この映画のテーマはあきらかだ。女性にとって「自由」と「結婚」は矛盾する、自由でありつづけたいと願うなら安易に結婚したりしてはいけないということなのである。
     ジェンダーフリーやリベラリズムが浸透し、女性もまたさまざまな生き方を選択できるようになった現代でもなお、どうしても愛や結婚に夢を見がちな女性たちに向け、シビアな現実を突きつけているといえるだろう。
     いや、ほんとうに凄い映画だ。感心したし、感動もした。しかも、物語そのものは単純に面白いのだ。うーん、素晴らしい。
     さて、この先は映画のクライマックスのネタバレを含みます。また、ここからは300円の有料部分となっているので、その点、よろしく。サブスクリプションに入会してもらうとこの記事はもちろん、他の記事の有料部分も読めます。 
  • 「生きものに感謝して食べる」って変だよね?

    2021-06-08 06:16  
    300pt
     いま、YouTubeで配信されている『100日後に食われる豚』という動画が話題らしい。
     「らしい」と書くのは、ぼくがこの動画にたいした興味もなく、きちんと調べてもおらず、くわしいことを知らないからである。
     タイトル通り、100日後に殺して食べる予定の可愛い豚の姿を配信しつづける動画らしいのだが、ほんとうにまったく興味が湧かないので、詳細に検索するつもりにすらならない。
     ウケ狙いのアイディアとしてはよくできているし、それはたしかにバズるだろうとは思うけれども、他人の動画がいくらバズったところでぼくには1円も入って来ないからね。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい。
     が、この動画を巡る言説には興味がある。ぼくが見るところ、否定的意見としては「悪趣味だ」というものが多く、逆に肯定的意見には「食育として意味がある」といったものが多いようだが、両者ともじつに面白い。
     なるほど、こういう動画に対してはそういうふうに考えるのが一般的なのだなあ、と感心させられる。みんな、意外と善良なのか、それとも動物に対しては人間に対してほど非情になり切れないだけなのか、どっちなんだろ。
     ちなみに、この企画に携わっている某企業の社長はインタビューでこのように語っている。

    S社長 いま流行っているSDGs(持続可能な開発目標)の中に、食品ロスをなくそうという目標があります。教育の現場や企業など様々な取り組みがありますが、その取り組みの意義を十分にPRできていないと見ています。楽しんでもらいながら、食品ロスに関して自分たちの行動を見直すきっかけをつくってもらいたいと思い、企画しました。私たちが食べているものの中にある命の尊さを考えてもらいたいと思っています。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/5e6869fdb456eb473eaa4282ff2ddfa230bf17ad

     ふむ、「命の尊さ」と来たか。何だろ。べつに食べても食べなくてもどっちでもいいとは思うのだけれど、こういう露骨に白々しいことはなるべくいわないでほしいですね。
     さすがにここまで胡散臭いことを堂々と語られると、ぼくのなかの消えやらぬ中二病ゴコロが反発しだしてしまう。
     いや、だって、ほんとうに命が尊いというなら、その尊いものを殺して食べちゃダメでしょ。尊い、尊いといいつつ一方的に生き物を殺害して美味しく食べちゃう行為にはどう考えても矛盾があるのでは、と思うのだ。
     ただ、もちろん、ぼくはだからこの豚を食べるべきではないとか、もっというなら人間は肉食をやめるべきだとか、そういうことをいうつもりはさらさらない。また、自分自身も肉食をやめようとは考えない。だって、焼き肉も唐揚げも美味しいものね。
     単に「命の尊さ」を掲げながら一方でその尊い命を食べることにはどうにも無理があるのでは、と感じるだけなのである。
     もっとも、このように語るとすぐに反論が返って来そうではある。そうではない、ここでいう「命の尊さ」とは、命のことを尊いと感じる知性を持ちながらも、それを食べることなしでは生きていくことができない人間が感謝の気持ちを抱きつつ命をいただくことを指しているのだ、命を尊いと感じることと命を感謝しながらいただくことは、べつだん何も矛盾していない、とか。
     そう、「命の尊さ」が云々と語るとき、必ず出て来るのがこの「感謝」というフレーズである。上記のインタビューにもこの言葉が登場する。

    ――「かわいそう」というコメントもありますね。
    A 想定の範囲内です。動画を投稿し始めたときは低評価が多かったのですが、4日昼時点での高評価は最大で92%、低いものでも66%です。視聴者の視点も変わってきているのかなという印象です。コメントでも「ブタはいつも食べているし、命に感謝しないといけない」、「いただきますを心を込めて言いたくなった」という感想が増えています。

     つまり、そこには何やら、人間は生き物のたったひとつしかない命をいただいているわけなのだから、その生き物に対するありがとうという気持ちを持って食さなければならない、という道徳があるらしいのだ。
     だが、あるいは申し訳ないことかもしれないが、ぼくはこの種のモラルもかなり怪しいシロモノだと考える。そもそも「いただきます」とはいうものの、ぼくたちが動物から命を「いただいて」いるというのは大いなるウソだろう。
     「いただく」とは「もらう」の謙譲語である。人間に食べられる動物たちはだれも「ぼくの命をあげるよ」などと許可を出してはいないのだから、人間が動物から「命をもらっている」という考え方はおかしい。「動物の命を一方的に奪って食べている」というほうが正確だ。
     どうも「動物を殺しているのだから感謝しなければならない」という道徳理念は、「自分が快適に生きるためだけに、ほかの動物を一方的に殺して食べている」という事実から目を背けるために利用されている気がしてならない。
     その意味で、ぼくは「食育」という概念に対してもかなり懐疑的である。子供たちに食の教育をほどこすなら、だれよりも大人たち自身が「生き物を食べるとはどういうことなのか」と真剣に考えなければならないと思うのだが「感謝の念さえ持っていれば殺して食べてもいい」というかなり倒錯的な観念で思考停止しているようにしか見えないからだ。
     いや、動物の殺害を「感謝」で正当化するのはやっぱり無理でしょ。一方的に殺して食べておいて「わたしの食欲を満たすために死んでくれてありがとう」などといいだすのはどうにもグロテスクではないだろうか。
     ただ、どうやらこの「感謝」という概念が「食育」の中核をなしていることはたしかで、農林水産省のウェブサイトを見ると、このように書かれている。

    食育基本法においては「食に関する感謝の念と理解」(第3条)として「食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない。」としています。また、平成28(2016)年3月に作成された第3次基本計画においても、重点課題の一つとして、新しく「食の循環や環境を意識した食育の推進」を定め、「食に対する感謝の念を深めていくためには、自然や社会環境との関わりの中で、食料の生産から消費に至る食の循環を意識し、生産者を始めとして多くの関係者により食が支えられていることを理解することが大切である。」としています。
    https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/h28/h28_h/book/part1/chap1/b1_c1_2_01.html

     いったい何に対する「感謝」なのか少しあいまいだが、どうも「自然の恩恵」に対するものでもあるような書き方である。
     しかし、あくまで意地悪く思考を進めるなら、「恩恵」とはいっても、自然動物はべつに対しどこまでも寛容に人間に自分を食べることを許して自分を恵んでくれているわけではない。
     「恩恵」とか「恵み」とはあくまで人間の視点から見てそういうふうに見えるというだけであって、一般に動物はみな、人間と同じように、もっと生きていたい、ほかの動物に食べられたくなどないという本能を抱いて生きていることだろう。
     それをあっさり殺して美味しく食べてしまうことを「恩恵」などと呼ぶことは、やはり少しくおかしい。
     とはいえ、だからといって「どうせ人間の身勝手で殺していることには違いないのだから、一切感謝したりする必要はない」というふうにシニカルな考えかたをすることも極端ではある。
     自分という人間が、生物が、ただ自分の欲望を満たすためだけに、ほかの生き物の命を奪いつづけて生きているという現実を淡々と直視した上で、その、素直に考えるなら恐ろしいともおぞましいとも罪深いとも受け取れるであろうことをどのように解釈していくべきなのか、何らかの哲学が必要になるところなのだろう。
     ぼくじしん、べつだん、何か簡にして要を得た究極の答えを持っているわけではない。ただ「感謝することが大切だ」という考えが安易に流れるなら、それは「とりあえず感謝さえしておけばいい」という思考停止と変わらないことになってしまうだろうとは思う。
     この世界は人間の目から見て残酷に思えるシステムでできているわけなのであり、人間にその残酷さを消し去ることはできない。また、はたして消し去るべきなのかどうかもわからない。
     そのことを明確に認識し、正確に洞察してなお、考えつづけることをやめない姿勢こそが大切だろうというのがぼくなりに思うところだ。それもまた、ひとつの欺瞞だといえばそうかもしれないが。
     さて、ここまでが、この記事の前半の無料部分。ここから先は『100日後に食われる豚』の「悪趣味さ」について、それははたして批判されるべきものなのかと考察していく。また、「ペット」と「家畜」の区分についても考えを進める。
     300円ほど払っていただくと読めるようになるので、ぜひどうぞ。ちなみにサブスクリプションに入ってもらうとほかの記事も含めて読めます。良ければよろしくお願いします。 
  • ほんとうに映画は幼稚な観客向けになったのか? 過去を美化し現在を否定する言説の問題とは。

    2021-06-04 02:25  
    50pt
     こんな記事を読んだ。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83706
     「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647)の続編で、「映像作品の観客が幼稚になってきている。あるいは、幼稚な観客の感想がネットによって可視化され、それが作品にフィードバックされた結果、作品もまた説明過多の幼稚なものになって来ている」という趣旨である。
     一読、なるほど、と思わせられる。たしかに、テレビ番組などは「説明過多」の傾向があるし、そこから論理的に考えるとそういう結論が出て来る。いや、まったくいまどきの映像作品は幼稚かつ低俗で困ったものだ……。
     うん? ちょっと待て。ほんとうにそうだろうか? この記事、論旨そのものはきわめてロジカルだし、うっかりするとつい安直に追随して「昔は良かったなあ」とかいいたくなる誘惑に満ちているのだが、それだけにここは眉に唾をつけて読んでみることにしたい。
     そうすると、色々と怪しい個所が見えて来る。たとえばこの記事の結論は、こうだ。

    「変えた、と言えば『シン・エヴァンゲリオン』がいい例ですよ。1995~96年のTVシリーズから25年間、ずっと“説明しない”でおなじみだった庵野秀明監督でしたが、『シン~』の終盤では、主要キャラクターが順番に登場して、心情をセリフで丁寧に説明してくれました。
    こんな親切な『エヴァ』は初めてです。庵野さんは常に時代に寄り添う人だから、“今はこういうターンだ”と思って、あえてそうしたんじゃないでしょうか」(佐藤氏)

     一瞬、たしかにそうだな、庵野さん変わったな、と思いたくなるのだが、ほんとうにそういえるのか。
     庵野秀明監督作品、特に『エヴァ』が「説明しない」作品だったことは事実だ。しかし、それは物語の背景設定について説明しないということであって、登場人物が心情をセリフで説明する側面がないということではないだろう。
     むしろ、『エヴァ』で名ゼリフとされているものは直接的に心情をセリフで説明したものが少なくない。何しろ第一話から「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」である。
     これは主人公・碇シンジの「そこから逃げ出してしまいたいけれど、逃げてはいけないと思う気持ち」をダイレクトにセリフで説明しているわけで、とても『エヴァ』が「セリフで説明しない」スタイルだとはいえない。
     よくよく考えてみると『エヴァ』の特徴はその直接さにあるとすら思えて来るくらいだ。たとえば「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」のようなきわめて直接的なセリフは、どう考えても「登場人物の心情をセリフで説明」しているものだろう。
     そしてまた、物語の背景設定について説明を省いていることは『シン・エヴァ』でも同じである。あいかわらず「ゴルゴダ・オブジェクト」だの何だの、よくわからない専門用語が膨大に登場して観客を幻惑する。情報過多で一回見ただけでは把握し切れないスタイルは何も変わっていないのだ。
     たしかに『シン・エヴァ』にはきわめて「親切」な印象があるのだが、それは「登場人物が急に自分の心情をセリフで説明するようになったから」だとはいえないとぼくは考える。
     それでは、それまでの『エヴァ』と『シン・エヴァ』では何が違っているのか。それは、ひとつには登場人物のコミュニケーションが円滑に行われているということなのではないか。
     この記事は『シン・エヴァ』について語ることが趣旨ではないのでこの作品についてこれ以上は踏み込まないが、『シン・エヴァ』を例に出して「庵野監督はリテラシーが低い層にも通じるように心情をセリフで説明するようになって来ている」とはいえない。
     そもそも、前編で佐藤氏自身が語っている「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」というのがほんとうなら、『シン・エヴァ』のアスカのシンジに対する態度はいまの観客には「通じない」はずではないか。
     『シン・エヴァ』におけるアスカの心情はそれこそセリフではほとんど説明されていない上に、愛情と嫌悪がないまぜになった非常に複雑なものである。もし佐藤氏のいうことが正しいのなら、それは「誤読」されて当然のはずなのだ。
     しかし、あの描写を見て「アスカはシンジのことが心から嫌いだから辛くあたっているんだな」といった感想を抱いた人はほとんどいないものと思われる。
     じっさい、ネットでは「アスカが何を考えているのかさっぱりわからなかった」といった感想は見かけない。つまりは、観客はアスカの「説明されない」複雑な心情を正確に把握することができているわけだ。
     ほんとうにいまはそういう描写が通じないのか、非常に疑わしいのではないか? ぼく個人の実感としては、むしろ現代のアニメは、特に京都アニメーションあたりの作品を代表格として、かつてでは考えられないくらい繊細な描写を行うようになって来ていると感じている。
     『リズと青い鳥』とか、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』とかね。『リズと青い鳥』なんて、相当にリテラシーが高くないと理解できない非常に高度な脚本だ。
     また、昔のアニメやドラマや映画がそれほど知的だったのかというと、「ぼくの実感は逆」なのである。昔、そうだな、たとえば80年代とか90年代くらいのフィクションは一般にもっと「幼稚」だったとぼくは思っている。
     もちろん、その頃の作品も色々あったので、それを乱暴に総括して幼稚だの低俗だのいうことはできないことは当然だけれど、少なくとも大衆向けにヒットした作品には知的な意味ではろくでもないものが少なくなかった。 

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  • この世に「絶対悪」は存在するのか?

    2021-06-01 12:35  
    50pt
     先月はまったく記事投稿ができず、ごめんなさい。このような状態のブログにお金を払いつづけている皆さんに感謝を。ありがとうございます。そして、ほんとにごめんね。良い記事を書こうと思うほどどうしても手が止まってしまうのですよね。とほほ。
     さて、そういうわけで、今月一本目の記事から始めます。
     いま、Twitterを中心に「一般社団法人この指とめよう」という組織が話題になっています。これ(↓)ですね。
    https://yubitome.or.jp/
     「ネット(SNS)における誹謗中傷をやめよう」という、それ自体はだれにも文句のつけようがない立派なココロザシを掲げた団体なのですが、その理念を掲げる当事者本人たちが過去にさんざん誹謗中傷を行ってきたことを各方面から指摘され、まさに議論百出の状態にあります。
     その全体はもちろん把握し切れないのですが、「おまえがいうな!」という指摘は完全に正当なも
  • 電子書籍シリーズを始めたよ。もし良ければ買ってくださいのお願い。

    2021-05-21 23:50  
    50pt

     「サークル・アズキアライアカデミア」の電子書籍シリーズ「アズキアライアカデミアブックス」の第一弾として『「小説家になろう」の風景【新装版】 未利用者でも理解できる! 日本最大の小説投稿サイトの野蛮な魅力』が出ました。
     われらアズキアライアカデミアによる電子書籍出版の第一弾ということになるわけですけれど、まだ色々なことが未定で、たとえば出版社部分の名義は「アズキアライアカデミアパブリッシング」とか何かに変えるかもしれません。その点はご了承ください。
     ちなみに内容的には「旧装版」とは表紙が違っているだけで、ほかは何も変わっていません。せいぜいあきらかな誤字脱字を直したくらいです。さすがに申し訳ないので、もう一章か二章くらい、加筆修正をしたいなあと考えています。
     いまはちょっと試験勉強で忙しいので、もうしばらくしたらきっと書くぞ。
     本の中身は、「なろう」の研究というか、分析ですね。「なろう」についての論考はたくさん出ていますが、クリティカルに本質を捉えたものはなかなかない気がします。
     この本がそうだ!というつもりはさらさらありませんが、まあ、がんばって書いたものなので読んでいただけたらありがたいと思います。
     「旧装版」の出版からまだ一年も経っていないにもかかわらず、すでに情報が古くなっているところもありますが、それは加筆でどうにかフォローしたいところです。アニメ版『無職転生』の話題とかね。
     それにしても、自分が書いたものがAmazonに並ぶのはなかなか良い気分ですね。いや、いままでもたくさん電子書籍を出しては来ているのですが、過去の本はすべて自分で装丁を描いているので、いずれもどうしようもなくしろうとくさい表紙で、あまり本を出したという気になれなかったのですね。
     それと比べ今回はそこをプロに頼んでいるので、さすがに完成度が高く、「ふふーん」と鼻歌のひとつも歌いたい気持ちになります。歌わないけど。やっぱり何でもケチらずプロに頼むべきところは頼んでみるものだ。
     ちなみに第一弾ということは当然ながら第二弾以降もあるわけで、色々と企画を練っているところです。アズキアライアカデミアの本となると著者はぼくだけではないわけで、まあ、色々なものを出したい気持ちはあります。
     じっさいにどこまで実現するかはまだわかりませんが、少なくとも一冊出してそこで終わりということにはならないはず。今回は古い本の「新装版」に過ぎませんが、新刊のことも考えています。ちょっとまだ企画がまとまり切っていないのですが……。
     もうタイトルを出してしまいましょうか。『シュミ充になる! 灰色の日常をカラフルに色取る新時代オタクライフスタイル・マニュアル』というのです。
     「マインドフルネス」とか「フロー理論」とか「ゲーミフィケーション」とか「ロゴセラピー」とか「ナラティヴ・アプローチ」とか「弱者男性論」などというテーマを扱いたいなあとぼんやり考えているところです。
     つまりまあ、趣味を究めて幸せに暮らそう!という趣旨の本ですね。フィクション作品からは『弱キャラ友崎くん』、『その着せ替え人形は恋をする』、それから来月あたりメディアワークスから出る『オタク同僚と偽装結婚した結果、毎日がメッチャ楽しいんだけど!』などを取り上げるつもりです。いや、何もかも未定なんですけれどね……。
     ブログの過去ログも膨大なものがあるので、それらも少しずつ本として整理していけたら良いなあと漠然と考えています。1冊12万文字の980円くらいで出そうかなあ、とか考える。
     ちゃんとした表紙で出せば少しは売れるんじゃないかな。売れるといいな。まあ、売れなくても電子書籍だからリスクはないんだけれど。
     などと弱気のことを思ってしまうのですが、アズキアライアカデミアから出した同人誌は相当の冊数が売れているので、ぼくの本だってちゃんと宣伝すればそこそこ売れてもおかしくないと思うんですよね。
     1巻につき300冊くらい売れてくれると、それだけでぼくの生活はだいぶラクになるんだけれど、さすがに無理な話かなあ。うーむ。最初から本にするつもりでブログで連載企画をやるというのもありですね。夢は広がる。この際、キビシイ現実は見ないことにしておきましょう。
     ちなみに、上記の『オタク同僚と偽装結婚した結果、毎日がメッチャ楽しいんだけど!』は傑作なので、オススメです。ペトロニウスさんから教わったのだったかな?
     「カクヨム」で連載していた作品なのだけれど、ぼくは何となく読み始めたら嵌まってしまって最後まで読み終えました。非常に面白かったです。オタク自己言及系の作品としては、『その着せ替え人形は恋をする』と並んで最先端の一作ですね。
     というか、ここまで来るともうオタクという概念はあまり意味を為さないところがありますよね。どう見たって超絶リア充なわけで。かつてのオタク暗黒時代を知っている人間としてはもう涙なしでは読めません。ぼくたちは、幸せになったんだ。
     というあたりで、今日はトートツに終わります。あしたは試験なのです。でわでわ。 
  • なぜ人はわかりあえないのか? わかりあうためにはどうすれば良いのか?

    2021-05-17 16:52  
    50pt
     このツイートが非常に興味深かった。

    スゴ本ブログのDainさんにご紹介いただいたジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』がすごく良い本で、何というか、「なぜヒトは分かり合えないのか」が分かった気がする。読了直後よりも、時間が経ってからじわじわと効いてくるタイプの本だ。なぜ証拠を示されてもヒトは考えを変えないのか?
    現在では、定常宇宙論よりもビッグバン宇宙論のほうが正しいとされている。創造論よりも進化論のほうが正しいとされている。でも、その「正しさ」、言い換えれば「蓋然性」を、定量的に比較できない。私たちの科学哲学が未熟で、「どれほど正しいか」を数値化できないからだ。
    では、なぜビッグバン宇宙論のほうが蓋然的だと見做されるかというと、既知の理論や証拠との矛盾が少ないからだ。なぜ進化論のほうが正しいと見做されるかといえば、既知の理論や証拠との矛盾が少ないからだ。この〝既知の〟という部分がクセ者なのである。この世に、すべてを知っている人はいない。
    群盲撫象。
    https://twitter.com/rootport/status/1392871408082984969

     つまりは、現在の科学体系も含めた「たしかとされていること」とは、結局は「蓋然性」の問題にしか過ぎないという内容である。
     それでは蓋然性とは何かというと、辞書には「ある物事や事象が実現するか否か、または知識が確実かどうかの度合いのこと」と書かれている。つまりそれが事実なのかどうかという「たしからしさの度合い」という意味だろう。
     だから、上に書いたことをいい換えるなら、「いま、たしかとされていること」は「ある程度たしからしいということでしかない」ということになる。そして、それを「80%くらい正しそう」とか「63度くらい正しそう」というように「数値化」して「定量的」に示すことはできない。
     よってある事実が「ほんとうに正しいのかどうか」を議論することはきわめてむずかしく、結局は主観の域を出ないということである。
     もちろん、社会的に「ほとんど確実に正しいだろう」というコンセンサスが取れている事実はある。たとえば、地球は宇宙に浮かんだ球体である、といったことはそうだ。
     しかし、この先のツイートに書かれているように、それに対してすら反対する人はいる。そして、そういう人を説き伏せることはきわめてむずかしいのだ。なぜか? そういう人は頭が悪くてこの世の真実を理解できないから、といってしまうことは簡単だ。
     だが、そうなのだろうか? それは結局、自分の説の蓋然性を盲信しているに過ぎないのでは? 上記のツイートは、このように続いている(長々と引用してしまってごめんなさい)。

    地球平面説を信じる人々を追ったNetflixのドキュメンタリー映画『ビハインド・ザ・カーブ』には、実験で地球が平らであることを証明しようとする人物が登場する。もしも地球が本当に球体だとしたら、自転により1時間に15度回る。ジャイロスコープでそれを検証することで、球体説を反証しようとする。
    彼は2万ドルもするジャイロスコープを購入し、何時間経ってもそれが傾かないことを検証しようとした。地球が平らであり球体ではないことを、実験で証明しようとしたのだ。結果、ジャイロスコープはきっかり1時間で15度傾いた。
    それを見た彼の反応は「誤作動かもしれない」だった。
    彼の頭の中には(YouTubeの動画などで学んだ)地球平面説の〝証拠〟が、すでに1000個も2000個も詰め込まれていたのだ。だから、たった1つの「地球が丸い証拠」を発見しても、平面説を捨てる気になれなかった。球体説に蓋然性を覚えるよりも、実験装置の誤作動を疑うほうが、彼にとっては蓋然的だった。
    扱うものが地球平面説だから笑っていられる。でも、本質的には私たちと彼らの間に大きな違いはない。彼らが「地球が丸い証拠」を知らなかったように、私たちだって、すべての物事について万全の知識を持っているわけではない。今までの信念を捨てるよりも、それを守るようなロジックを創造してしまう。

     もし逆だったら、と考えてみよう。たったいま、何か「地球球体説」を覆し、じつは地球は平面だったことを証明するような決定的な証拠が見つかったとする。たとえば全能の神とか宇宙人が地球は球体だと見せかけていただけだったとか。
     そのとき、ぼくたちはその「事実」を受け入れられるだろうか? おそらく無理だろう。まず大半の人は「そんなわけはない」と考えるはずだ。それが常識的な考え方というものだ。
     じっさいに飛行機などで地球を一周している人もいるわけだし、宇宙から見た写真もあるし、と数々の「反証」を思い浮かべ、その説を否定するに違いない。しかし、それはジャイロスコープの「誤作動かもしれない」と考えた人と同じような発想なのではないか。
     すでに自分の頭のなかに「膨大な証拠」があるとき、それに反する「新しい証拠」を受け入れることはきわめてむずかしい。
     これはもちろん、極端な話ではある。しかし、人間は自分が信じている説を補強するようにしか考えない、そうでない証拠が見つかったとしても「めずらしい例外だ」としか考えない、そういう傾向はたしかにあると感じる。
     たとえばぼくは歴史的にいわゆる南京事件(南京大虐殺)が起こったことは事実だと考えていて、その説を否定するネトウヨをバカにしたりするのだけれど、ぼくの説の根拠も結局は絶対的なものではない。
     じっさいに膨大な「証拠」があることはたしかだが、つまるところ、ぼくの説もそのようなさまざまな「証拠」をパッチワークのようにつなぎ合わせて作り出した、ひとつの「物語」でしかないともいえるわけだ。
     それでもぼくがその説を信じるのは、ぼくにとってそれが蓋然性が高い物語であると思えるからだ。その説を信じることのほうが、たとえば「すべて中国の陰謀だ!」といった陰謀論を信じるよりぼくにとっては蓋然的に思われるのである。
     だが、先に述べたように、それが「どのくらい真実なのか」を「数値的」にいい表して比較することはできない。だから、結局は「信じるか、信じないか」の話でしかなくなってしまいがちだ。
     ということは、おそらく、たぶんぼくは「南京事件があったということは紛れもない真実だ。その証拠はこれだけある」というふうに主張するべきではないのだろう。
     そのかわり、「南京事件実在論の蓋然性は高く、非実在論の蓋然性は低いと考えるべきこれだけの理由がある」と話を進めていくほうが妥当なのだと思われる。だれであれ人と対話するときには、相手の説にも相手なりの蓋然性があると考えるべきなのではないだろうか。
     たとえ、それがたとえ地球平面説のようなぼくにとって限りなく蓋然性が低いように思える説であっても。
     インターネットで対話(ダイアローグ)が成り立たない最大の理由は、蓋然性ではなく「絶対の真実」を持ち出して話をするからだろう。
     「自分の意見は絶対に正しい」、「相手の意見は絶対に間違えている」。そういった意見同士の対立はどこまでいっても妥協点を見いだせない。それは結局は相手に自分の主張に対する服従を求めているに過ぎないからだ。
     このようなぼくの考え方はいかにも素朴な相対主義に過ぎないように見えるだろうか。しかし、Twitterあたりでのあまりに独善的な「絶対主義」を見ていると、まずは素朴な相対主義に立ち返りたくなるのである。
     もっとも、問題はその先だ。素朴な相対主義者のぼくは絶対主義者に対してどう振る舞うべきなのだろうか。
     たとえば「アンチワクチン」とか「Qアノン」、あるいは「ネトウヨ」とか「パヨク」とか「ツイフェミ」みたいな人に対して、ぼくはどう話していけば良いのか。
     ぼくがいわゆる「原発処理水」の問題に対し興味があるのはそこなのだ。ぼく個人は処理水の安全性を信じる立場を取る。それがなぜなのかというと、情報に一定の透明性があると考えるからだ。
     処理水は東電だけでなく、日本政府だけでもなく、国際原子力機関や漁業関係者などによってチェックされる(とされている)。これら複数の機関がそろって陰謀を巡らせていると考えるよりは、じっさいに処理水が基準を満たしていると考えるほうが、ぼくにとっては蓋然性が高い。
     しかし、世の中には国も東電もIAEAも信じられないというひるわけなのだ。その人にとっては「国や東電やIAEAが共謀しているかもしれない」という陰謀論は十分な蓋然性を持つ。
     そういうことをいわれると、ぼくとしては自分の説のほうが正しく、陰謀論は間違えているという話をしたい誘惑を感じるわけだが、その種の話し方は決して陰謀論者を納得させられないだろう。
     相手はすでに陰謀論に蓋然性を感じていて、それに背く証拠は「めずらしい偶然」としか感じられないだろうからだ。となると、ぼくは相手の説にも相手なりの蓋然性があることを認めざるを得ない。
     そして、ここで相対主義の欠点が露呈する。素朴な相対主義的には「しょせん互いの世界観の差の問題ですよね。どっちもそれなりに説得力がありますよね」という話に持っていくしかないわけだが、それで済ませるにはあまりに問題が巨大すぎるのである。
     それでは、いったいどうすれば良いのか。
     ミステリファンならすぐに名前が思い浮かぶことだろうが、ある世界的に有名な作品の推理小説のトリックで「容疑者全員が共謀して全員分のアリバイを作って上で被害者を殺していた」というものがある。
     これはある意味で陰謀論トリックといえるのではないかと思う。じつは容疑者たちにはある隠された共通点(ミッシング・リンク)があるのだが、それが見えないためにそれぞれの人物の動機が見えなくなっているのである。
     あるいは政府と東電とIAEAにもその種の「ミッシング・リンク」があるのかもしれない。その部分が見える人にとっては、陰謀論は真実に思えるわけだ。
     もちろん、それも蓋然性の、世界観の問題に過ぎない。そして、それぞれの蓋然性は定量的に比べることができないので「自分の説のほうがこれほど矛盾なく事象を説明でき、蓋然性が高いぞ」といったところで、究極的にははっきり比較する方法はない。故にこそ人は理解し合えず、異なる価値観の持ち主同士で対話は成り立たない。
     だが、それでも社会的に「事実」を決定していかなければならないことはある。「風評被害」という言葉があるが、「被害」がある以上、「加害」もあるはずだ。
     科学的安全処置がほどこされた「原発処理水」をあくまで「汚染水」と呼び、どこまでもその危険性を叫びつづけることは必然的に廃炉作業を遅らせることに加担する「加害行為」であるとぼくは考える。
     だから、そういう人たちがかれらの蓋然性にもとづき、どれほど「東電や国なんて信用できない!」と叫んだとしても、処理水は放出するべきであると考える。
     しかし、そういう態度は結局は社会の分断を深めるだけであるのかもしれない。それなら、いったいどうすればいいのか?
     まずはある種の相対主義という土俵に乗ってくれる相手を探すことなのかな、と思う。ロジカルに陰謀論がウソであることを証明することはできない。そして、自分の説の蓋然性を数値化して比較し相手を説得することもできない。
     そうだとすれば、相手にも「すべては蓋然性の問題である」と理解してもらった上で互いの世界観を比較していく。それくらいしかできないのではないか。つまりは絶対的な意味での「真実」や「正義」を捨て去ることである。
     ぼくは南京事件の実在を唱えるだけの理由があるが、それが絶対的な正義であり真実であるという考え方は捨てるべきだろう。その種の「正義」を抱えているかぎり、人はどうしても傲慢に相手を踏みにじろうとするからである。
     ただ、だからといって「どのような事実を物語として採用するのも各個人の自由だ」ということにはならない。その種の考え方はあまりに行き過ぎている。
     たとえ数値化し定量的に比べることができないとしても、それぞれの説に蓋然性の差はあるのであって、それは無視して良いものではないのだ。
     だからこそ、最終的に互いに理解しあえないとしても、対話には意味があるのである。ふと、そんなことを思った。あなたの考え方はいかがだろうか? 
  • 「弱者男性(仮)のつらさ」とはいったいどこから来ているのか?

    2021-04-30 00:06  
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     杉田俊介さんの新作記事を読んだ。
    https://bunshun.jp/articles/-/44981
     いままで「弱者男性」と呼ばれてきた人たちの「つらさ」に別方向からスポットライトをあてた興味深い記事である。非常に面白い。が、一方でふしぎと共感がない。
     いままでは「弱者男性」と呼称されていて、杉田の言葉では「非正規的なマジョリティ男性」と呼ばれる人たちの「つらさ」に焦点があたっているのだが、ぼくじしんは特に「男性はつらい」とも「男性がつらい」とも思わないから、ほとんど共感できないのだ。
     ただ、かれらを横から見ていると、たしかに苦しいのだろうとは思う。本人たちが苦しいといっているのだから、その言葉を否定する根拠はぼくにはない。
     だが、見ていれば見ているほど何とも奇妙な気持ちにはなる。かれら、「弱者男性(仮)」ないし「非正規的なマジョリティ男性」たちは、何がそれほど苦しいのだろうか?
     そう、ぼくもまた、ただ外的な条件だけを見るならその定義にに十分あてはまっているはずだ。低収入だし、障害者だし、独身だし、恋人も、そしてもちろん子供もいない。しかし、ぼくはべつに自分が不幸だとは思わない。
     たしかにお金がないことは不自由ではあるが、時々、てれびんにたかって美味しい寿司を食べられたりする程度でそれなりに幸せである。それではぼくと、「かれら」とは何が違うのか? そこがぼくにはきわめて興味深い。
     すぐに思いつくのは、外的な問題が共通しているとするなら、異なっているのは内的な問題だろうということだ。外的な面においてはぼくは紛れもない「弱者男性(仮)」だが、内的にはそうでもないかもしれないわけである。
     いい換えるなら、ぼくは社会においては「弱者男性」だが、実存においてはそうではない、ともいえる。
     杉田はいう。「非正規的なマジョリティ男性」たちの生のつらさは、「半ば制度の問題、半ば実存の問題」である、と。ぼくにはかれがこのようないい方を選んだ、選ばざるを得なかった理由が理解できると思う。
     この記事を読んだうえで、いや、「男性」とか「女性」という区分で考えることそのものがそもそも間違いなのだ、あくまで個人の苦しみの問題でしかないのだから個人という単位で考えるべきだろうという意見を述べている人を何人か見かけた。
     これは一見すると正論にも見えるが、「男性」と「女性」のところを「白人」と「黒人」に変えてみるとその問題点がよくわかる(わかる人には)。
     たしかに個人の苦しみは個人のものだが、その背景には歴然と社会構造の問題があるわけであり、黒人差別問題(や、白人差別問題)をないことにできないのと同様、女性差別問題(や、男性差別問題)をないことにはできないのである。
     したがって、「非正規的なマジョリティ男性」の生きるつらさを語るとき、単に人間としての実存のつらさがあるだけだ、と語ることは端的に間違えている。
     既存の弱者男性論やら男性学ではまだはっきりと分析され切っていないにせよ、そこにはおそらく社会制度の問題が関わっているからだ。ただ、むずかしいのはそれは純粋に制度の問題なのであって、制度を改善しさえすれば良くなるともいい切れないことである。
     「非正規的なマジョリティ男性」ないし「弱者男性(仮)」の人生にどうしようもないつらさ、苦しみがあるとして(あるのだろう、きっと)、それはただ社会制度から来ているものだとはとてもいえそうにない。その過半はあきらかに個人の実存の問題であるように思われる。
     だからこそ、杉田は「半ば制度の問題、半ば実存の問題」というような少々あいまいないい方を採用したのだ。
     それは「弱者男性(仮)」のつらさを自己責任論に回収させないためのいい方でもあるし、その一方で「つまり弱者男性をケアしない社会が悪い」といったいい草に終始することを防ぐための論法でもある。
     杉田はつまりはこういいたいのだろう。いったい「弱者男性(仮)」ないし「非正規的なマジョリティ男性」たちの「つらさ」はどこから来ているのか? それは制度から来ているとも実存から来ているとも断定することはできない、その両者が複雑に絡み合ってできている、と。
     じっさい、そうなのだろうと思う。かれの論旨は非常に明快でわかりやすい。しかし――ぼくはやはりどうしてもここで描かれている「弱者男性(仮)」の姿にまったく共感できないのである。
     ぼくは昔から「非正規的なマジョリティ男性」に属するであろう人間たち、つまり過去に「非モテ」とか「弱者男性」とか呼ばれていた人たちに対してシンパシーがない。ただモテないとか金がないとかいったことがそれほど苦しいとは思われないのである。
     もちろん、一般的な生活が成り立たないほどの貧困は基本的人権が侵害されている状況であるともいえるし、それがつらいのは十分に理解できる。
     しかし、「非正規的なマジョリティ男性」の「つらさ」はそのようなこと(だけ)ではないだろう。
     むしろ、それがつらいのは、「一人前の男でありながら人並みの生活費すら稼げないなんて」とか、「同期のほかの連中に比べて自分は給料が少ない。完全に負けている」といった自意識に起因するものだろうと考えられる。
     あるいはかれらの収入が少ないことそのものは社会制度の問題かもしれないが、そこから派生している自意識の苦悩は制度の問題とばかりはいい切れそうにない。それはまさに「半ば制度から、半ば実存から」生じている問題なのだ。
     したがって、この種の問題を解決するためには、社会制度と自意識の双方をどうにかしなければならないことになる。
     まず、外的な社会制度的には、男性だけが特別に「もっと男らしくあれ」とか「一人前の男になれ」といった「男らしさの呪い」をかけられる状況を解決しなければならないだろう。
     これらの「呪い」、つまりジェンダーの存在を否定したり疑問視したりする人もいるが、ぼく個人は紛れもなくジェンダーは存在するものと考えている。
     ただ、すべてのジェンダーが即ち悪だとも思っていない。結局、それもまたこの社会の文化のひとつなのであって、個人に猛烈に強制されない限りはそこまで問題視する必要はないのではないかとも思うのだ(とはいえ、じっさいには猛烈に強制されているからやはり問題なのだが)。
     とにかくジェンダーの呪いは、女性に対してだけではなく、男性に対しても大きな影響を与えている。それらは解決されるべきである、とぼくは思う。その上でこれはごくまっとうな意味でのフェミニズム的発想である、と捉えている。
     そしてまた、内的な自意識の問題としては、多くの男性が程度の差こそあれ内面化しているそのジェンダーを自ら解体していく作業が必要になるはずだ。
     そこには、フェミニズム由来の「男性とは加害者の性であり、差別的なマジョリティ勢力に属しているのだ」という自意識を解きほぐす作業も含まれていなければならない。
     つまりは「非正規的なマジョリティ男性」の内面的なつらさとは、その手の「強い男性でなければならないという呪縛」と「男性であるだけでマジョリティであるという加害者意識」とが組み合わさってできているものなのではないだろうか。
     もちろん、その割合は人によって違う。なかには「じっさいには強くもないのに社会的に強者として扱われてしまいがちな男性としての被害者意識」を抱えている人たちも相当数いるだろう。
     ただ、その手の被害者意識も、やはりマッチョな意味で一人前の男性でなければならないという規範意識と無縁ではないようにぼくには見える。
     そう、ぼくが「自称弱者男性」たちの語りを見ていて思うのは、かれらはどうにもマッチョイズムへのあこがれを手放そうとしていないように見えるということなのだ。
     かれらは口々に「弱者男性」としての自分の苦しみを語るが、その裏には「可能であれば強者男性でありたかった」という想いが透けて見える。
     単なるぼくの偏見だろうか。そうかもしれない。だが、それでもやはりぼくにはそのような例が多いように見えてならない。
     もちろん、先述したようにその一方で自分が男性性を加害的なものとして「原罪」のように捉えている人も一定数いるのだから事態は複雑ではある。
     ただ、それでも「非モテ」だとか「インセル」だとか「弱者男性論者」の人たちのしばしば女性嫌悪的な語りを見ていると、やはり「マッチョになれなかっただけのマッチョイズム信奉者」がそのかなりの割合を占めているのを感じる。
     逆にいうなら、そういった「強くあらなければならないという男性ジェンダーの呪縛」や「フェミニズム由来の原罪的な加害者意識」や「幾重にも屈折したマッチョな男性性へのあこがれ」がなければ、「弱者男性(仮)」であることそのものは、べつだん、そこまで苦しいことではないのではないだろうか。
     ただぼくがそう感じるというだけのことではあるかもしれないが、いくら考えてもどうにも正体のわからない「弱者男性の苦しみ」をあえて分析するなら、そういうことになりそうだと思うのだ。
     ある人は男性である自分を、「差別者」や「加害者」、そこまでいかなくても「この社会におけるマジョリティ」として認識し、そのことに傷ついている。
     またある人は男性であることを「フェミニストによる男性差別の被害者」として認識し、そのことを憤っている。そしてまたまたある人は「マッチョな意味で一人前の男性」になれない自分自身を蔑んだり、哀れんだりして苦しんでいる。そういう状況がある。
     それがすべてまとめて「弱者男性(仮)」の「つらさ」として語られている感が、ぼくにはあるのである。不幸なことだ。「弱者男性(仮)」の皆さんには、ぜひ、幸せになってほしい。
     かれらが被害者意識を一転させて加害に転じるような「闇落ち」に至らないことを、切に願っている。