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2021年6月の記事 12件

『進撃の巨人』の「愚か者たちのデモクラシー」は本当に成り立つか?

杉田俊介氏が語る『進撃の巨人』論への強烈な「違和」。  杉田俊介氏の『進撃の巨人』論「『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体」を読んだ。  べつだん、いま読み終えたわけではなく、『進撃の巨人』全巻を読み返し終えたあとに反応しようと考えて放置していたのだが、それではいつまでも書けないのでいま書くことにした。つまり、本文はこの記事への批判的応答である。  ぼくは『宮崎駿論』や『ジョジョ論』を初め、杉田氏が公に書いた文章はその大半を読んでいる。その意味では、杉田氏の愛読者といって良いのだが、同時にこの人が書くものにはつねにつよい違和感を感じる。  それは、ぼくの目から見て、あまりにかれの書くものが傲慢に思えてならないことが頻繁にあるからである。  杉田氏の批評は、いずれもきわめて精緻に、論理的に考え抜かれていることが一読してあきらかだ。そして、それにもかかわらず、ぼくはその結論に納得できないことがしばしばなのである。  『天気の子』のときもそうだった。そして、『進撃の巨人』でもやはりそうであるようだ。なぜそういうことになるのだろう? 思うに、そこにあるものはひとり作品の上に立ち、作品の良し悪しを問うというか決めつける批評家というポジションそのものの傲慢不遜さなのだろうと思う。  それはただ「何となく偉そうで気に食わない」という次元のことではなく、ある作品を批評することがどのようにあるべきかを問う行為であるのだと考える。ぼくは杉田氏の批評のやり方がいまひとつ気に入らないのだ。  かれが書くものはいつもぼくにとって刺激的、かつ説得的であり、その意味で、ネットで散見される「感想」とはたしかに一線を画している。あたりまえといえばあたりまえだが、かなりハイレベルなクリティークがそこにあるのだ。  だが、そうであってなお、かれの文章には「何かが違う」という「世界観の違い」とでもいいたいものを感じる。それが率直な「感想」である。 「型通りの正論」という「気楽な作法」。  もちろん、そうかといって、その違和をただあいてを皮肉ったり、揶揄したりするだけで終わらせるわけにはいかない。それではまさにインターネットに跋扈する無数の過激な(過激なだけの)論者と同じでしかない。  だから、ぼくは自らが違和を抱く言論には自分なりの言論をもって対抗しようと思う。もちろん、杉田氏の書くもののように広く読まれることはないだろうが、ぼくなりに誠実に書いていくつもりだ。もし非常に最後まで読んでいただければありがたい(一応、これも有料記事だが、最後まで無料で読めるようにしておく)。  さて、それでは端的にいって、杉田氏の批評のどこにそれほどまでの傲慢を感じ取り、あるいは違和を抱いているのだろうか。ひと言でいうなら、それはかれのリベラルな「正しさ」との距離の取り方であると考える。  『天気の子』の批評でもそうだったし、今回の『進撃の巨人』でもそうなのだが、かれはつねに「正しい」ことをいっている。  世界が水没しているのに「大丈夫」なわけがない――その通り。人類の大半を虐殺する行為は「狂気のような自由」の矮小化である――なるほど。  それらは、たしかに一読すると「そうかもしれない」と思わせるだけの意見だとは感じる。ただ、それなのに、ぼくはどうしても杉田氏の意見に納得し切ることができない。  たしかに東京をなかば水没させたり、人類の過半数を虐殺したりする選択が倫理的に考えて「正しい」はずはない。どう考えてもどこかで間違えているに違いない。  それはそうなのだが、そのことは特に杉田氏の指摘を待つまでもなく、おそらくはそれぞれの物語の「内」と「外」のだれもがわかっていることだと思うのだ。  それをことさらに指摘して済ませる行為そのものに、ぼくは物語をそのメタレベルから一方的に裁断する読者、あるいは批評家という立場の、あえていうなら「気楽さ」を思わずにはいられないのである。どういうことか。 具体的にどこがどう問題なのか?  たとえば、『天気の子』だ。杉田氏はいう。 私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。  ぼくはこのくだりに非常な違和を覚える。なぜか。そもそも「最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまう」として、それの何が問題なのかと考えるからだ。  素直に読むのなら、この一節は、作品の受け手側の称賛なり批判は決して「作り手側の思惑通り」ではないと主張しているとしか読めない。  この場合、杉田氏は作品を批判しているわけだから、「自分の批判は意見は作り手の思惑を乗り越えたものである」と主張したいということになるだろう。  もっというなら、自分の意見は作り手の思惑を乗り越えているにもかかわらず、「最初から思惑通り」だという態度を取られることは不愉快だ、アンフェアだ、といいたいということではないだろうか。  その気持ちは、わかる。せっかく自分なりに作品に決定的な批判を加えたのに、「最初からそんな批判は想定済みでしたよ」という態度を取られたらつい「それは卑怯じゃないか」と思ってしまう、その心理は十分に理解できる。  だが、それでもやはりぼくは杉田氏のこの主張はどこか違っていると思うのだ。いったい杉田氏はいつから「作り手側の思惑」を超えることを目指していたのか。  もしあくまで自説に自信があるのなら、むしろたとえそれが「作り手側の思惑」通りであったとしても、おかしいものはおかしい、間違えているものは間違えている、そう主張するだけで満足するべきではないか。  それができないとするのなら、ただ「作り手側の思惑」を超えて何か鋭い批判を加えてやるというゲームに夢中になっている。そういうことでしかありえないではないだろうか。 批評家には謙虚さが必須であるということ。  そう、ぼくには、杉田氏は、わたしはこの作品に対して「作り手側の思惑」を遥かに超えた素晴らしい批判を行っているのだから、「作り手」である新海誠監督はそれを素直に認めるべきだ、そして自分の作品の拙劣さを反省するべきなのだ、といっているようにしか思えないのだ。  ぼくの見方は過剰なものだろうか。あるいは意地悪な見方に過ぎないだろうか。そうかもしれない。だが、そうであるとするならなぜ杉田氏はことさらに「作り手の側の思惑」を問題とするのだろう。  自分(たち?)の意見が「作り手側の思惑」の範疇にあるかどうかを問題にするのでなければ、このような意見は出てこないはずである。  そして、それならそうで素直にいえばそう良いと思うのだ。「自分の意見のような鋭い批判を、新海誠監督はまったく想像もしていなかっただろう。それなのに、あたかも思惑通りであるような態度を取るのはずるい。卑怯だ」と。  ほんとうに、そういえば良いと思う。なぜいわないのかといえば、そこまでいってしまえば、それがあまりにも傲慢な態度であることがだれの目にもあきらかになってしまうからだろう。  過剰な意見かもしれないし、意地悪な見方かもしれないが、ぼくにはどうしてもそういうふうに思われてならない。  そして、その傲慢さは本質的に「後出し」でしかありえない批評という行為にどうしても必要な謙虚さを欠く結果につながっているように感じられる。  もちろん、それはひとり杉田氏のみが陥った落とし穴というよりは、ある作品を後から語るとき、だれもが落ち込みかねない陥穽ではあるだろう。その意味で、かれ個人を攻撃して済ませるつもりはない。  だが、それにしても杉田氏の姿勢はその種の傲慢さに対して無自覚であり過ぎないか。むろん、そのような意見を「後出し」でいっているぼくもまた、だれかのさらなる「後出し」による批判にさらされる可能性はあることはわかった上でなお、そのように考える。 リアリティのシェアができていない。  ぼくは杉田氏のいうことが必ずしも端的に間違えているとは思わない。  『天気の子』にせよ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にせよ、『進撃の巨人』にせよ、たしかに批判されるべきポイントを抱えた作品ではあるだろう。杉田氏の批判は、紛れもなく作品の根幹を突いているところがある。  が、それでもぼくがどうしても納得がいかないと思うのは、ひとり「物語の外側、あるいはそのメタレベル」に立って、わかったような「正論」を説くだけの行為に批評的な意味を見いだせないからだ。  ある一連の物語のなかで、きわめて切迫した状況下において、ひとつの判断を下した「作り手」なり登場人物なりに対して、その外側からあたりまえの正論でもって説教する。もしそれが批評の本質なのだとしたら、批評とは何と気楽で他愛ないものだろうか。  杉田氏のいうように、気候現象は一面で人為の作用した「シャカイ」なのだから、人間に責任がないと考えることは間違えているかもしれない。しかし、「それなら具体的にどのように問題を解決すれば良かったのか」。  なるほど、杉田氏のいうように極限的な状況で二者択一を求められることじたいが「間違えている」ことなのかもしれない。だが、映画のなかの人物たちにとって、じっさいに二者択一を求められているように感じられることは紛れもない事実なのだ。  もし、杉田氏が映画のなかの登場人物たちと同様の責任感と切迫したリアリティを持って物語を語っているのなら、二者択一に限らない第三の、より優れた選択肢をきちんと提示しなければならないだろう。  それなくして、「二者択一など幻想だ。第三、あるいは第四の選択肢があったかもしれないのだ」といっても、無責任な放言としか思われない。  それはその通りではあるだろう。すべてを二者択一と捉えることはおかしいだろう。だが、そこにはそうとしか考えられない状況下に置かれた主人公を初めとする登場人物たちへの共感がない。同じリアリティをシェアしていないのだ。 プロフェッショナルが負うべき責任。  ぼくは何かおかしいことをいっているだろうか。映画の物語のなかで「正しい判断」を行う責任はその物語の登場人物が負っているのであって、単なる一観客が負うべきものではないといえば、それもまたその通りだ。  だが、少なくとも卑しくもプロフェッショナルな批評家たるものは、そのようなあたりまえの逃げ口上に終始して非現実的な「正論」を唱えて良しとするのではなく、よりシビアに自分を追い詰めていくべきではないのか。  そう、作品の外にいる立場なら、物語のメタレベルに立つその気なら、どのような「正論」でも語ることができる。最後まであきらめるな、もっと努力しろ、簡単に決めつけるな、幻想を捨て去れ――何とでもいえるだろう。  そして、また、そのそれぞれが何もかもたしかにお説ごもっともな話ではあるのだ。だが、それはすべて、物語の「外」から「内」へ投げかけられた、いわば野次馬的な意見でしかない。  批評家が単なる観客、野次馬を超越した意見を述べるためには、物語のなかの登場人物と切迫した状況を共有していなければならないはずなのだ。  そのリアリティのもと、それでもなお、自分の意見としてそれは間違えていると叫ぶのなら、たとえより悲惨な結果につながったかもしれないとしてもあくまで「第三の選択肢」を模索しつづけるべきだと主張するのなら、それはまさに一聴に値する意見だと感じる。  また、そのリアリティそのものが幻想なのだ、ほんとうの現実はもっと気楽で、多様な選択肢が用意されているものなのだと主張することも可能だろう。  問題は、そういった、見ようによってポジティヴともネガティヴともいえる価値観が、じっさいに物語で採用された価値観と比べ、人の心に響くものであるかどうかである。  もしその意見がまったく人心を打たないのなら、そのときは作品ではなく批評家こそが「時代のリアリティ」を読み損ねていることになる。批評家にはそういうふうに自分自身を賭ける勇気が必要だろう。 「血を流しながら」批評せよ。  かつて、宮崎駿はその昔に「弟子」であった庵野秀明について「庵野は血を流しながら映画を作る」と語ったという。しかし、ぼくにはそれはひとり映像界の鬼才である庵野だけのことではなく、程度の差こそあれ、多くのクリエイターに共通する話だと考える。  「作り手側」はいつも血を流しながら作品を作っている。物語のなかの登場人物も、それが何かしら優れた作品であるなら、多くの場合、血を流しながら判断を下している。  それでは「受け手側」はどうだろうか。はたして血を流しながら作品を語っているといえるのか。むろん、単なる一観客に「ちゃんと血の通った批評をしろ」と詰め寄ることはできないだろう。  だが、批評家は違う。プロフェッショナルな批評家は、少なくとも自分が裁断する作品を作ったクリエイターたちと同じくらいには血を流しているべきだ。ぼくはそう思う。  杉田氏の批評は、あえて明言してしまうのなら、いかにも血の流し方が甘いように思えるのである。ぼくの目には、いかにも自分を安全圏に置いてどうとでもいえるような正論を語っている印象がつよい。  そのようなやり方では、いかにロジカルな意味で「正しい」としても、有意義な批評とはいいがいように思う。それはつまりただ単に「正しくあることが容易な」次元に留まっていることしか意味していないと考えられるからだ。  むろん、それはいままさに「批評家に対する批判」を繰り広げているぼくにしてもいえることではある。したがって、ぼく自身もまた、はたして自ら血を流し、血の通った言説を展開できているか、シビアに問われなければならないだろう。  その上でいうなら、ぼくは血を流して話を続けるつもりである。この記事を単なる「上から目線での批判」に終わらせることはしない。ぼくはそうしたい。じっさいにそうできているかどうかは、読者諸氏ひとりひとりにご確認いただきたい。  とりあえず血を流す覚悟を持っているつもりであることと、ほんとうに血を流しているかはまったくべつのことなのだから。 杉田氏による『進撃の巨人』評の傲慢。  さて、ようやく『進撃の巨人』批評の話に移る。ここまでのぼくの杉田氏への批判の根幹は「物語のメタレベルから、傲慢にも一般論としての「正論」を述べているに過ぎない」というものである。  それでは、この『進撃の巨人』論においてはそれはどう違っているのだろうか。ざんねんながら、ぼくにはあまり違っているようには思えない。  杉田氏はあい変わらず非常に不遜な議論を繰り広げている、そしてほとんど血を流すことなく「正論」を語っている。かれの言説は、ぼくの(あるいは歪んでいるかもしれない)目にはそのように映る。  それは決して「その態度が偉そう」ということではなく、より本質的なところで謙虚さに欠けているという問題だ。  とはいえ、杉田氏の議論はじっさい、説得的なものである。かれは『進撃の巨人』は政治的な物語であると語る。まったく賛成だ。『進撃の巨人』が、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』などと違うのは、その高度な政治描写にあるだろう。  しかも、その政治性とは、真実が二転三転し、何がほんとうなのかまったく判断できないという「ポストモダンにしてポストデモクラシー」なストーリーに宿っていることも指摘している。  これもまた、そのような言葉を選ぶかどうかはともかく、間違いのないところだろう。『進撃の巨人』にはどこか一流のミステリーのようなところがあって、その時点で「善」であったり「悪」であるように見えたものが、後でまったく違う姿に逆転するといったことが次々に起こる。  そこにこそ、この作品の魅力があるわけだが、それは同時に「いったい何が真実なのか?」、その点を最後の最後までたしかめることができないということもであって、だからこそ、作中にはいつも一種の相対主義的なニヒリズムに陥りかねないような絶望的な雰囲気がただよっているのだ。  そこまでは納得できる見解だ。ぼくがついていけなくなるのは、その先である。 長い長い引用。  杉田氏はまた書いている。いくらか長くなるが、大切なポイントなので、引用させてもらおう。 その点では、むしろポイントだったのは、最後の結論に至る手前の、次のような可能性ではなかったか――地ならしによって人類殲滅戦争へと突き進むエレンを食い止めようとするミカサやアルミンたちの態度は、エレンとの友情を信じながら、敵対勢力との対話を尊重する、という対話型の平和主義であり、つねにどこか、甘っちょろい不徹底さを感じさせるものだった。それはエレンの覚悟や決断に匹敵していない、と思われていた。 しかし、最終回から振り返ってみると、そこには、『進撃の巨人』の連載の積み重ねによってはじめて生まれつつあった、新しい可能性があったように考えられる。 すなわち、第127話、第128話あたりの、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、リヴァイ、ハンジ、ライナー、アニ、ピーク、マガト、ガビ、ファルコ、イェレナ、オニャンコポンたちが一時的に形成する集団性に私は注目してみたい。 その場には、火を囲んで、敵と味方、仲間を殺された者、仲間を殺した物、裏切った者、裏切られた者などが複雑に重層的に入り乱れて、異様なまでに混乱した、わちゃわちゃした協力関係(デモクラシー)が形成されつつあった。ここに新しい重要な可能性があったのではないか。彼らは同じ普遍的な正義感を共有しているわけでもないし、何らかのコンセンサスがあるのかも疑わしい。彼らにとっては、憎み合うことと話し合うことがもはや見分けがたいのだ。 重要なのは、それでも彼らが、おそらく次のような最小限の前提を分かち合っていた、ということだ。マガト元帥の言葉に耳をすまそう。 「昨夜の…私の態度を詫びたい/我々は…間違っていた/軽々しくも正義を語ったことをだ…/この期に及んでまだ…自らを正当化しようと醜くも足掻いた/卑劣なマーレそのものである自分自身を直視することを恐れたからだ(略)/この…血に塗れた愚かな歴史を忘れることなく伝える責任はある/エレン・イェーガーはすべてを消し去るつもりだ…/それは許せない/愚かな行いから目を逸らし続ける限り地獄は終わらない」(第128話) 第127話、第128話あたりに開かれかけていたのは、いわば、愚かさをわかちあう人たちの協同的な関係、あるいは、愚か者たちのデモクラシー(無知と無能のデモクラシー)とでも呼ぶような何かだったのではないか。 「愚か者たちのデモクラシー」という切実な呉越同舟。  「愚か者たちのデモクラシー」。これもまた、『進撃の巨人』終盤の「わちゃわちゃした」呉越同舟的なグループの雰囲気を、なかなかに的確に表現した造語であるかもしれない。  ぼくは、物語のクライマックスにおけるアルミンたちの集団が、その言葉にふさわしい可能性を示していたことを認めるものである。  アルミンたちは、その時点で、何らシェアしあうべき「正義」を持ってはいなかった。かれらが共通して持っていたのは「自分自身の無知と無能の痛切な自覚」ともいうべき「愚かさの意識」だけであり、その意味でかれらのパーティはたしかに一群の「愚か者たちのデモクラシー」を成している。なるほど、そうかもしれない。  そこまでは、わかる。ただ、ぼくがそれでも杉田氏の見解に納得しがたいものを感じるのは、その「愚か者たちのデモクラシー」が成立するためには、ひとつの削り取ることのできない条件が存在していると考えるからだ。  これもごくあたりまえのことかもしれないが、「愚か者たちのデモクラシー」を成り立たせるためには、「自分はほんとうにどうしようもない愚か者である」という苦い自己認識と、「それでもなお、より良い選択を考えつづけることをやめはしない」という強烈な意思が併存している必要がある。そのいずれが欠落していてもこの「デモクラシー」は成立しない。  それでは、この両者は、アルミンたちのなかできちんと併存できているだろうか? ひとまずは、できていると見て良いように思われる。そのとき一時だけのことではあるかもしれないが、かれらは世界の滅亡を目前にして、ごく謙虚に自分の愚かさを省みている。  自分は、自分たちは正しくなどない、正義の見方などではない、ただのひとりの愚かな過ちを犯した人間であるに過ぎないのだ、と。そして、その上でそれでもエレンの虐殺行為は認められないと考えているわけである。  その、切迫した言葉たちよ。ここには最も切実な民主主義がある。素直にそう思う。 

『進撃の巨人』の「愚か者たちのデモクラシー」は本当に成り立つか?

『氷と炎の歌』、『ダークソウル』、ダークファンタジーの伝統とは。

 ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』、ゲーム『ダークソウル』など、さまざまなメディアで世界的に流行を続けるダークファンタジー。そのジャンルはどのような歴史と特徴を持っているのか、ひと通りのことを解説しました。 『ENDER LILIES』が面白そうだ。  明後日の6月22日、『ENDER LILIES: Quietus of the Knights』が発売される。「死の雨」によって壊滅した王国を舞台に、少女と騎士の昏い冒険が描かれる、とか。  「2Dグラフィックのマップ探索型アクションゲーム」を意味する「メトロイドヴァニア」と呼ばれるジャンルの作品で、バリバリのダークファンタジーだ。  「メトロイドヴァニア」という言葉は『メトロイド』+『キャッスルヴァニア(悪魔城ドラキュラ)』から来ているのだが、まあ、ようするにそういうゲームであるらしい。  すでに先行版が発売されていて大好評だし、何よりぼくはこの手のダークファンタジーが大好物なので、ぜひプレイしたいと思う。  いま、ゲームの世界に留まらず、映画でもマンガでもダークファンタジーは大流行だ。否、もはや流行というよりメジャーな一ジャンルとして印象した印象すらある。  世界的に見て、そのなかでも最も大きいタイトルはやはり『ゲーム・オブ・スローンズ』だろう。  ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』を原作に、「七王国の玉座」を狙い合うさまざまな野心家たちの策謀と戦いを、ドラゴンやゾンビといったファンタジー的なキャラクターをも絡めて描写したテレビドラマ市場に冠たる大傑作にして大ヒット作である。  原作も優れた傑作にして世界的なベストセラーだが、その人気が広まったのはやはり映像化されたことが大きいと思う。  また、ゲームの世界では、ダークジャンファジーと呼ぶべき名作が山のように発売されている。  どこからどこまでをそう呼ぶべきなのかは微妙なところだが、たとえば日本のゲームである『ダークソウル』などは、世界的に熱狂的なファンを抱えていて、「ソウルライク」と呼ばれるゲームもたくさん出ている。  『ドラゴンクエスト』の新作もどうやらダークファンタジー風味の作品になるらしい。このダークファンタジーのブームはどこから来ているのか、なるべくわかりやすく解説してみよう。 ダークファンタジーとゴシックロマンス。  歴史的に見れば、ダークファンタジーと呼ぶべき作品は、そのときはそう呼ばれてはいなかったにしても、じつは大昔からあった。  そもそも世界中の神話やお伽噺などがかなりダークな性質を持っていることは広く知られている通りであるわけで、そういう意味では数千年前からダークファンタジーは存在していたということもできるかもしれない。  ただ、それだけではあまりにざっくりした説明になる。より近代的な意味でのダークファンタジーに注目してみよう。  おそらく、いまのダークファンタジーにとって先祖ともいうべき作品があるとするなら、それはいわゆる「ゴシックロマンス」の小説たちだろう。  ウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まる18世紀のロマンス小説は、たしかに狭い意味でのファンタジーとはいえないだろうが、その昏い魂を凝らせたような展開の数々、また荒涼たる風景の描写は、非常にダークファンタジー的である。  エドガー・アラン・ポーという例外はあるにしても、その大半がいまの目から見ると冗長で無駄が多いように思えるところも含めて、ダークファンタジーはゴシックロマンスから生まれた、といっても良いものと思われる。  それらの作品については『ゴシックハート』、『ゴシックスピリット』といった解説書にくわしい。  悪の魅力と異国情緒(オリエンタリズム)あふれる『マンク』などは、今日のたとえば『アラビアの夜の種族』の遠い祖先といえるかもしれない。  ただ、これらの作品は一般にホラーの先祖とみなされていて、ダークファンタジーとのつながりを考える人は少ないだろう。  また、その雰囲気はいかにもダークファンタジーと似ているとしても、もっと直接的にいまのダークファンタジーと関係があるというものでもない。  その上、18世紀はあまりにも遠い。したがって、よりダイレクトにダークファンタジーといえる作品たちは、20世紀初頭のアメリカに見ることができるはずである。 100年前のヒロイックファンタジー。  いまの視点から振り返ってみると、エンターテインメントとしてのダークファンタジーの成立は、いまから100年ほど前、20世紀前半の頃なのではないかと思えて来るのである。  『ウィアード・テールズ』などといったアメリカの娯楽雑誌で、いわゆる「パルプフィクション」として誕生した「ヒロイックファンタジー」のうちのいくつかがそれだ。  いまではほとんどは取るに足りない凡庸な作品に過ぎなかったともいわれるヒロイックファンタジーだが、なかには素晴らしい名作もあった。  たとえば、ロバート・E・ハワードやC・L・ムーアなどの作家たちが物した『英雄コナン』や『ジレル・オブ・ジョイリー』などのシリーズがそれである。そのなかでも『コナン』のシリーズはいまに至るも名作中の名作として知られている。  これはいまから一万年以上も昔の時代に、頽廃した文明のなかで活躍した野生児「コナン」を主人公とした物語で、かなりダークでデカダンでエロティックな作品群である。  その即物性というか、ある種、プラグマティズム的な雰囲気も含めて、ある意味では、『コナン』は最初期のダークファンタジーといえるかもしれない。  これもまた、日本では100年以上が過ぎたいまでも新刊として読むことができる。いかに優れたシリーズであるかがわかろうというものだろう。  一方、当時のヒロイックファンタジー作家にはめずらしい女性作家であるムーアは、その傑出した感性で、きわめて官能的なファンタジーを綴った。彼女の「ジレル」や「ノースウェスト・スミス」のシリーズはいまでも読まれている。  また、「ジレル」にしろ「ノースウェスト・スミス」にしろ、「やおい趣味」的なフレーバーが濃厚で、そのような意味でも興味深い作品なのである。  そして、それらの作品よりさらにダークでデカダンな作品を物したのが、クラーク・アシュトン・スミスだ。  

『氷と炎の歌』、『ダークソウル』、ダークファンタジーの伝統とは。

「ディオのオンラインサロン」か? 「涼宮ハルヒのパラドックス」か?

鍵アカに閉じこもるイケダハヤト。  イケダハヤト氏がTwitterを閉じた。  ひと口に「閉じる」といっても色々あるわけだが、この場合は「自分のアカウントに鍵をかけ、外からは見れない状態にする」ことを意味している。  一時期は日本でも指折りに著名なブロガー、あるいは「インフルエンサー」として一世を風靡し、ブログで何千万円儲けただのといった景気の良い話をしてきたわけだが、巨額の仮想通貨がわずかな期間で無価値に落ちる暴落事件によって、事実上、命脈を絶たれた模様である。  いままでどれほどの非難と嘲笑を浴びせられようとも平気で通しているように見えた人物だけに、その零落はきわめて印象的だ。  が、この記事はべつだんイケダ氏を批判する性質のものではない。そうではなく、かれのようなインフルエンサービジネスがなぜ成立するのかというところから話を始めたいのだ。  この場合、「インフルエンサー」とはネットで巨大な影響力を持つ人材一般を指す。多くの場合、かれらはネットで活動する有象無象たちのあこがれと尊敬と嫉妬と敵意の対象であり、じっさいにそのひと言で人生を変えられてしまう人もいる。  たとえばイケダ氏の場合は「額に汗して働く」地味な生き方を嘲り、ネットなら簡単に巨万の富が作れるようなことを語る傾向があり、その言葉に動かされてかれのオンラインサロンに入った人もいるようである。  しかし、よくよく考えてみるなら、インフルエンサーとはほんとうは「何者」なのかさっぱりわからない人たちだ。とにかく「何者か」であることはたしかなのだろうが、それでは具体的に何を生み出したのかというと、さっぱりわからない。  どうやらかれらの存在意義は情報を右から左へ動かすことにあって、いくらか例外はあるにしろ、自分で何らかの作品を創り出すといった性質の仕事をしているわけではないらしい。  そういうインフルエンサーたちがある種、「時代の寵児」として扱われるのも、いかにもインターネット時代らしいことかもしれない。 オンラインサロンと「何者問題」。  ただ、ぼくはべつだん、インフルエンサーが悪いとは思わない。ぼく自身、有料ブログを運営しているわけであり、「ホリエモン」やイケダハヤト氏のオンラインサロンビジネスも、ともかくも合法である限り、あえて非難するほどのものでもないだろうと思っている。  ただ、そこに吸い寄せられた人が幸せになれるかというと、否定的にならざるを得ないこともほんとうだ。  インフルエンサーと呼ばれる人たちは一般に、そのよしあしはともかくとして自分の力で「成り上がった」のであって、だれかのオンラインサロンに入ったから自分もインフルエンサーになれた、といった話は聞かない。  つまり、高額のお金を払ってインフルエンサーの友達とか、インフルエンサーの知り合いになれたとしても、それはあくまでそこまでのことであって、自分自身がそれで「何者か」になれるわけではないのである。  あたりまえといえばあたりまえのことだが、このごく当然とも思える道理が、案外と通じない人もいる。そういう人たちは「何者か」が運営するオンラインサロンに入りさえすれば、自分もまた「何者か」になるのではないかと素朴に考えているようだ。  もちろん、決してわからない心理ではないし、上からの視点でそういう人を見下そうとは思わない。  「何者かになりたい」、無名の、凡庸な自分で終わりたくない。そういった想いは、ときとして人をつよく突き動かし、まさに「何者か」にのし上がるためのモチベーションを生み出すこともあるだろう。  ただ、それがあまりに簡単に、一定の努力や時間を費やすことなく「結果だけ」を求めることとなると、そういう人は容易にだれかの目的のために利用され、搾取されることになる。  精神科医の熊代亨氏は、そういった「何者かになりたい」という感情が政治やビジネスに活用される事態のことを、「何者問題」と呼んでいる。なかなか卓抜なネーミングなのではないだろうか。 ・シロクマ先生いわく。  熊代氏は書く。 もともと、「何者かになりたい」願いや「何者にもなれない」悩みは、若者がアイデンティティを獲得しながら技能や地位を獲得していくための有効なモチベーション源だった。現在でも若者の少なくない割合が、こうした願いや悩みをモチベーション源として巧みに活用し、アチーブメントへと結びつけてはいるだろう。 だが強力なモチベーション源は、ある種の弱点として狙いやすくもあり、ここまで述べてきたように、ビジネスにハックされたり政治に動員されたりする際のフックとして利用されてもいる。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84045  何者かになろうとすることそのものはかならずしも悪いことではない、だが、若者たちのそのような未熟な衝動は、しばしば「悪い大人たち」にハックされ、かれらの利益になるよう誘導されることとなる、ということだろう。  この社会には、人々の欲望を煽り、それを自分の利益になるよう巧妙に導いていくような「悪い大人たち」がたくさんいる。  かれらはときとしてこの腐敗し切った社会にうんざりしている若者たちにとってヒーローのように見えるわけだが、その実、じっさいには己の利益のことしか考えていない。  そういった人たちにハマってしまうと、多額の金銭を吸い取られることになることもめずらしくないだろう。  いや、単に金銭だけで済むのならまだマシなほうかもしれない。いったん悪質なカルト的集団にハマってしまったら最後、人生そのものを吸い取られてしまうことも十分にありえる。  そこら辺は漫画『テロール教授の怪しい授業』に描かれている通りである。この社会には至るところに落とし穴がある。 ・「安心するため」に「何者か」になりたい?  しかし、それでは、そもそもなぜ人は「何者か」になりたいと思うのだろう? なぜ素顔の自分自身では満足できないのだろうか? 有名になりたいのか? だれかにちやほやされたいのか?  これは、はっきりわかるようでいて、微妙にわからないところが残る問題だ。  「何者かになりたい」という衝動には、必ずしも欲得とはマッチしない一面がある。より一般的な「幸せ」を得るためだけなら、ただひたすら平凡に、地道に暮らしていっても良いはずだ。凡庸だが幸福に見える人間はいくらでもいる。それなのに、なぜ――。  と、LINEで話していたら、友人の哲学さんが、かの『ジョジョの奇妙な冒険』の一節を引き合いに出して説明してくれた。作中の「悪の帝王」ディオ・ブランドーが正義のために戦うアブドゥルやポルナレフといった人物を自分の配下ににしようと誘惑する場面だ。  ディオは語る。人間は「安心」を得るために生きている。自分に忠誠を誓えば永遠の安心感を与えてやるぞ、と。  アブドゥルもポルナレフもこの誘惑を敢然と拒絶してあくまで正義の戦いを続けるわけだが、しかし、かれらほどの人間ですらいっとき、この甘い誘惑に魅力を感じることを止められない。人にとって「安心」とはそれほどまでに価値があるものなのだ。  哲学さんによると、多くの人がインフルエンサーのオンラインサロンに惹きつけられるのも同じ理由だという。つまり、何らかの意味での「安心」を求めているのだと。  なるほど、説得力がある。たしかに人は「安心」を求める生き物だ。特に「アイデンティティのゆらぎ」に悩む若者は、「確固たる自分」を求めてやまない。そのためには「他人からの承認」がどうしても必要になるということなのだろう。  「ディオのオンラインサロン」に入会した者は、かれの「優しい言葉」ひとつを受け取るためなら何でもするようになる。「有名人からのお褒めの言葉」には、それだけの値打ちがある。 ・だれかに自分を承認してもらいたいという切なる願い。  ぼくなりの言葉に置き換えるならこうだ。「人は自分で自分自身を肯定できないから、他人に肯定してもらえる立場になりたがる」。つまり、その立場こそが「何者か」である。「何者か」とは、無条件に人から肯定してもらえる立場のことをいうのだ。  「何者でもない」ことがなぜ辛いのか。あえてきわめて端的にいってしまうのなら、だれも褒めてくれないからである。だれも承認してくれないからなのだ。  それはあまりにつまらないことに思えるかもしれないが、じつはこの「だれからも認めてもらえない」ということは、人間の精神をズタズタにひき裂くほど辛いことなのだ。それが、それだけが原因で自殺してしまう人だって少なくない。  人は、自分自身ではなかなか自分の価値を決めることができない。だから、他人から認めてもらいたがる。ネットでは時々、「バカッター」などと呼ばれる愚かな目立ちたがり屋たちが話題になるが、かれらにしてみればどれほど愚かしいことであっても、目立つことに意味があるのだ。  目立たなければ、そして凡庸な群衆のなかに埋没してしまえば、だれからも注目されず、当然、褒められることもない。それでは、自分の価値を発見してもらうこともできない。  その苦痛に比べれば、ほかのあらゆる道理が意味をなさないくらい、かれらの「何者問題」は深刻だと考えるべきである。  人はだれかに愛してほしい、認めてほしい、肯定してほしいと思う。それはきわめて普遍的な心理であり、たまたまいまの時代に「何者問題」として噴出しているに過ぎないのかもしれない。  しかし、一定以上の時間や労力を費やすことなくインスタントに「何者か」になろうとすることは、「ディオのオンライサロン」のような、あるいはオウム真理教のような悪辣なカルトに利用される危険を秘めている。  「自分に従えば何者かにしてやるぞ」という「何者か」の誘惑ほど危険なものはない。それでも、その言葉はどこまでも甘く、優しげだ。 涼宮ハルヒの矛盾と碇シンジの成熟。  京都アニメーションが映像化して、ライトノベル史上屈指の大ヒット作となった『涼宮ハルヒの憂鬱』は、自分の世界の凡庸さに耐え切れない少女の物語だ。  ハルヒは自己存在の卑小さに悩んでいる。彼女はあるとき、何万人もの人が集まった場所へ行って、その膨大な人間のなかで特別ではないワン・オブ・ゼムであるに過ぎない自分に気付いてしまったのである。  世の中には何十億という人間がいる。その膨大な集団のなかで、とくべつ目立ちもせず、また肯定もされない自分、その矮小さをハルヒは発見したのだ。  それは「もしかしたら自分などいなくなってしまったとしても、だれにも気づかれないのではないか」という存在不安との遭遇だったともいえるだろう。  じつは彼女はこの世界そのものを創り出した造物主であり、かぎりなく特別な存在なのだが、彼女自身がその事実を知ることはない。そのためにハルヒはいつもいらだっていて、少しでも何か特別なことを求めているのである。  「じっさいには神のように特別で万能なのに、いつも特別になりたいといらだつしかない」。この涼宮ハルヒのパラドックスは、じっさいにどれほど特別であっても、そのことを自覚できないかぎり、なんの意味もないことを示している。  ようするに、人が「安心」を得るためには、じっさいに特別なのかどうかが問題なのではなく、自分をどう認識するかが重要なのだ。  だから、「何者問題」を解決する最も成熟した方法は、どうにかしてインスタントに「何者か」に成り上がることではなく、「まったく何者でもない」自分を認め、許し、愛し、肯定することなのである。  『嫌われる勇気』で話題になったアドラー心理学でいわれるように、だれからも肯定されなくても自分を肯定できるように生きること。つまり、大人になることである。  そういえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、「世界の中心」としてのヒーローという幼児的な万能感を満たす立場から、「何者でもない」ひとりの大人になったのだった。  いかにも逆説的だが、「何者でもない」、平凡な存在としての自分を自ら愛しみ、無限に肯定することができるのなら、あなたはその意味でもはや「何者か」であり、ディオのオンラインサロンも涼宮ハルヒのパラドックスも知ったことではないだろう。  とはいえ、それはなんとむずかしいことだろうか。それでも、「何者かになりたい」子供でいるかぎり、その欲望を見透かしただれかに搾取されつづける。  その意味では、平凡な自分を楽しみ尽くす自在なライフスタイルこそ、オンラインサロンのインフルエンサーたちが教えてくれない、理想の大人のあり方なのかもしれない。ぼくもそういうふうに生きていきたいものだ。 

「ディオのオンラインサロン」か? 「涼宮ハルヒのパラドックス」か?

映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

映画版『映画大好きポンポさん』が腑に落ちない。  先日、すでに各地で好評を集める『映画大好きポンポさん』を観て来たのですが、いまひとつ自分のなかでどう評価するべきなのか納得が行っていないところがあって、考え込んでしまいました。  特にクライマックスのあたりをどう解釈するべきなのか、正直、良くわからなかったんですね。  通常、映画作りテーマの作品でも光があたることが少ない「編集」という作業にスポットライトをあてていることはわかるのだけれど、それが何を意味しているのか、主人公のジーンくんが何を選び、何を捨てているのか、明確には理解できなかった。  そのあたりのとまどいは哲学さんと放送したYouTubeを聴いていただければわかるかと思います。 https://youtu.be/Ivcr1xm0XGs  思いっきり腑に落ちない感じで話している。  そのことについて語るまえにまずは物語のあらすじから話をしますと、この映画の主人公は映画の都ニャリウッドへやって来て天才プロデューサー・ポンポさんのアシスタントをしている青年ジーン・フィニ。  「えっ、ポンポさんが主役じゃないの!?」と思われるかもしれませんが、ポンポさんはあくまでそのジーンくんが召使いのごとく忠実に仕える美少女プロデューサー。『ドラえもん』でいえばジーンくんがのび太、ポンポさんがドラえもんの役どころですね。  ジーンくんは、伝説の超大物映画プロデューサーから地盤も人脈も才能もすべて受け継いだニャリウッドいちの敏腕プロデューサーであるポンポさんのもと、映画作りのノウハウを学んでいくのですが、あるとき、ポンポさんが書いた脚本を映画化するというビッグチャンスが舞い込んできて――というところからストーリーは始まります。  まあ、おおまかなあらすじはほぼ原作通りですね。少なくとも前半前半のあたりはほぼ原作そのまま。原作に出てこないキャラクターが顔を見せたりして気になるところもあったのですが、原作既読のぼくは「まあまあかな」などと偉そうに思いつつ、スムーズに見れました。  ところが、映画は後半に入ると、お話は大きく原作から逸脱しはじめます。 いったい「それ」は何を意味しているのか?  それは、具体的には、映画の撮影が終わったあと、監督であるジーンくんが自ら映像を編集するくだりです。原作ではわずか数ページしかないこの場面が、映画では物語のクライマックスとして長々と語られます。  じつはぼくはここがわからなかったんですよね。どう考えたら良いのか、どうにも釈然としなかった。良い話のような気はするのだけれど、いまひとつ心から納得はできないというか、ナチュラルに受け止めることができなかったのです。  というのも、この後半で、ジーンくんはいままで撮った膨大なシーンを片端からカットしていくのですね。  良い映画を作るためには不要なシーンを捨てなければならないという信念のもと、いままで苦労して撮ったシーンの数々を捨て去っていくわけなのですが、それでは、そうやって「いらないもの」を捨てていったあとに残るものは何なのか? かれにとっての選択の基準とはどういうことなのか? そこがいまひとつわからなかった。ピンと来なかったんです。  良い映画を作り出すためには、スタッフがどれだけ苦労して撮ったシーンであっても、捨てなければならないことはある。それはよくわかる。その通りだと思う。でも、それでは、その良い映画、優れた作品とは何なのか?  この『ポンポさん』という映画は一種のメタ構造になっていて、物語が進んでいくにつれ、作中のジーンくんと、作中作(映画内映画)『Meister』の主人公、天才指揮者のダルベールとが重なり合っていくようになっているのですが、そのダルベールが最後に指揮に成功する「アリア」とはどのような性質のものなのか? ええ、白状しますと、もうさっぱり理解できませんでした。  作中の設定によると、アリアとは感情を乗せなければ表現できない曲であり、孤独で尊大なダルベールはいったんその指揮に失敗してしまいます。  その後、ヒロインのリリィと出逢って過去の感情や思い出を取り戻し、再度挑戦して成功するのですが、そのことは具体的に何を意味しているのか? ここがどうしても判然としなかった。 二度目の鑑賞に挑んでみた。  そこで、しかたないので、もういちど映画館に行って同じ映画を見てきました! 日々、赤貧にあえぐぼくとしては同じ映画を二度も見に行くというのはきわめてめずらしいことです。それくらい、この映画のことが気になっていたのですね。  ぼくがこの映画について抱いていた「謎」とはこのようなものでした。作中で、ダルベールは「感情」がなければ指揮できないアリアを成功させる。ということは、かれはリリィと出逢ったあと、「感情や思い出」を取り戻したと解釈できるはず。  したがって、そのダルベールと重ね合わせられて描かれているジーンくんもまた「感情や思い出」、いい換えるなら「愛」を取り戻したと見ることができるはずなのだけれど、作中の描写を見ると、かれはひたすら「友情」や「生活」といったものをカットしていっている。  これはなぜなのか? いったいジーンくんは捨てているのか得ているのか、どちらなのか? うーん、わからないよう、と。  どうも同じような感想を抱いた人はやはりいたようで、某映画感想サイトにはこのような意見が載っています。 「一番気になったのが追加撮影からのジーン。 まず追加撮影で何を撮りたかったのかが、イマイチピンとこない。 何よりマイスターのダルベールは作中劇でリリーと出会い、忘れてたものを取り戻し、それを音楽に還元したのでは? ジーンが映画以外を削ぎ落として作品を完成させたのならそこが一致してないのがモヤモヤする点だった。 結局削ぎ落とすのか、拾うのかがわからなかった。 「アリア」というワードも急に出てきた感じがしてしまう。後半にテーマ(情報量)が増えてちょっと集中しにくかった。」 https://eiga.com/movie/91732/review/02568914/  そうそう、ぼくもそう思ったのよ。ジーンくんは自分にとって大切なその他のものを捨てて、犠牲にして、映画を選んだように見える。  しかし、作中作のダルベールは「忘れていたもの」を取り戻して、アリアの指揮を成功させている。その意味でふたりは同じではない。それにもかかわらず、かれらは重ねあわされて演出されている。これは矛盾ではないのか、と。 ジーンくんは「映画の鬼」になったのか?  もし、ジーンくんは映画を作るという目的のためだけにすべてを捨て去って、ただ最高の映画を撮ることだけを目指す一匹の修羅になり果てただ、ということならそれで良いし、それはそれで凄い話なのですが、どうもそういうふうにも見えない。  創造や芸術の傲慢と狂気を描く、たとえば芥川龍之介の「地獄変」とか、そういう系統の物語だとは思えないのです。  たしかにかれは自らの「狂気(映画作成を至上目的とする傲慢なエゴ)」の命じるまま、「映画にとって不要なもの」すべてをカットし、自らの人生を重ね合わされた映画を編集しつづけるのですが、論理的に考えるなら、かれが最終的に「これがぼくのアリアだ!」と叫ぶほどの傑作を作ることができたのは、そこに「愛」があったからであるはず。  そうでなければ、「ただの傑作」はともかく、「かれにとってのアリア」は撮ることができなかったと思うのですね。  LINEで色々と話をしたところ、狂ったように編集にこだわるジーンくんの姿に、『シン・エヴァ』の庵野秀明さんを重ね合わせて見た人もいたのですが、ぼくが思い出したのはむしろ『かぐや姫の物語』の高畑勲さんでした。  高畑さんは映画を一本作るために、ほんとうに人が死んでしまうところまで追い込むような作り方をしているわけですよね。作品至上主義をつらぬいて、それでほんとうに死者が出ている、ということはまことしやかに語られているところです。  これはもう、映画の鬼というか修羅というか、そういう境地であるわけですが、ジーンくんがめざしたのもそういうところなのか。それだったらそれで凄いけれど、どうにもそうは思えない。  いや、高畑勲ではなく、宮崎駿の『風立ちぬ』でもかまいません。あの映画は、おれは自分が美しいと思うもののためなら人も殺すし国も滅ぼすんだ、良い仕事をするとはそういうことでしかありえないんだ、というテーマであったように思います。  『風立ちぬ』はそれによってものすごい傑作になっているのですが、ジーンくんもあの映画のなかの堀越二郎と同じような道を往こうとしているのか? ジーンくんはなぜ「かれにとってのアリア」を撮れたのか?  そう、ジーンくんが捨てて捨てて、最後に残そうとしたものは何だったのか?と思ったのですね。作中作のダルベールの場合、それは家族との思い出、家族への愛だった。それでは、その作中作を撮っているジーンくんにとっては何だったのか?  映画はかれとダルベールが重なるように作られているので、かれにもまた何らかの愛があるはずであるという結論が出て来そうなのだけれど、そうなのか? ジーンくんは映画しか愛していない男だったのではないのか? そんなかれの「アリア」とはどのようなものなのか? そこがどうしても解釈し切れなかった。  ダルベールは家族への愛があったから感情がこもるアリアを指揮できた。それはわかる。理解できる。では、ジーンくんはなぜかれにとってのアリアである『Meister』という映画を作れたのか? そこがわからない。  ただ映画しか愛していない男にダルベールにとってのアリアに相当するような映画が作れるのか?  ここで気になるのがジーンくんがすべての撮影が終わったあと、スケジュールを延長してまで追加撮影するシーンです。  それはダルベールと家族との確執と別れの場面であるわけなのですが、これはつまり、ジーンくんはダルベールが家族を愛していることを説明するシーンがこの映画には必要不可欠だ、それがダルベールの音楽の核心なのだから、とそう思ってその場面を撮影したのだと見るべきだと思うのです。  しかし、それだったらこの『映画大好きポンポさん』という映画にも、ジーンくんにとってのコアのところにあるものを説明する箇所が必要なんじゃないの?と思ったんですよ。  まあ、随分と長々と話してしまいましたが、ぼくはその点がどうにも納得がいかなくて、それでこの映画の評価を保留していたわけです。「どうやら傑作のような気はするけれど、まだ断定できないぞ」と。  

映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

傑作? 迷作? 『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観た!

ひたすら「ぽかーん」。理解を絶する暴風映画。  先ほど、映画『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観て来ました。いやあ、めちゃくちゃ面白かったけれど、まったくわからなかった(笑)。  だれだよ、初見でも大丈夫とかいったの! 全然ちっともこれっぽっちも大丈夫じゃねえよ!! こんな映画、事前情報なしで見て理解できるわけないだろ!!!  テレビシリーズの総集編だと聞いていたので、見ているあいだじゅう「???」が頭のなかを飛び交い、「こんな総集編があってたまるか!」と思っていたけれど、いや、新作だよね、これ。良かった。  いや良くないけれど、テレビシリーズ続編の新作ならまだ理解できる。理解できなさが理解できる。これがほんとうに総集編だったならどうすれば良いのかわからなくなるところだった。  まあ、どうやらある演劇系の名門学園に集った舞台少女たちの友情と葛藤の物語らしいのだけれど、もうストーリーはあってないようなもの、ひたすらヴィジュアルの絨毯爆撃が続くモンスタームービーですね。  あるいはもしかしたらぼくが理解できていないだけという可能性もありますが、一般的なストーリーの構成から逸脱している作品であることは間違いありません。逸脱しているというか、だれが主人公なのかも良くわからない。  でもまあ、テレビシリーズを見ていたらわかるのだろうけれど……いや、ほんとにそうか? これ、ひょっとしてテレビシリーズを見ていてもなおぽかーんとするやつなんじゃないのか?  アニメーションの快楽を感じさせることはたしかだけれど、それにしても視聴者を信頼しすぎ。こんなシロモノがちゃんとエンターテインメントとして、何なら『ラブライブ!』あたりのお仲間みたいな顔をして、堂々と劇場公開しているあたり、ぼくらの日本という国は凄いと思います。  文化的に成熟し過ぎやろ。いったい何をどうしたらこんな映画ができて来るんだ? しかもふつうにアイドル的な萌え美少女映画として見れなくもないし。何が何やら。  

傑作? 迷作? 『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観た!

炎上中の「なろう」パロディ『チートスレイヤー』本当の問題点とは?

「愛のないパロディ」として炎上している『チートスレイヤー』を読んでみた。  いま、Twitterを初めとする各種SNSで『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』という漫画作品が(主に批判的な意味で)話題に挙がっています。  まあ、タイトルでわかるようにそれぞれが何らかのチートを与えられた邪悪な異世界転生者に対し、主人公が復讐を繰り広げていくという物語なのですが、そのチートキャラクター各人たちにひとりひとりに具体的なネット小説発のモデルがいると思しいことが問題視されているのですね。  具体的には、こんな感じ。  うん、ほかのはまだしも「双剣の黒騎士キルト」って『ソードアート・オンライン』のキリトそのままやんけ、と思ってしまいますね☆  いや、キリトくん、べつに異世界転生なんてしていないんだけれど、まあ、チートキャラクターといえばまず思いつくのはかれであることはわからないでもない。  ただ、キリトがチートだというなら『ドラゴンボール』の孫悟空や『ONE PIECE』のルフィを初め、あらゆるヒーローキャラクターはチートだといえなくもないわけで、「そもそもチートとは何なのか?」、「ヒーローの条件とはいったいどのようなものなのか?」という問いにも繋がっていきそうにも思えますが、そこまでの深みを期待できる作品でもないだろうな。  すでにネットでは「悪質なパクり」、「愛のないパロディ」などと批判されていますが、そういった意見ももっともなのではないかとは思う。  しかし、読まないで批判することもやはり良くないので、わざわざこの作品が連載開始した雑誌『ドラゴンエイジ』を買って読んでみました。  買ってみて初めて気づいたんだけれど、この雑誌、かなり大量の「なろう系」作品が連載されているんですね。そんな雑誌で「なろう小説」に喧嘩を売るような作品を連載していて、この作者さん、忘年会パーティーとかで袋叩きにあったりしないかしらん。  他人事ながら心配になってしまいます。いやまあ、ネットではすでに炎上しているわけですが。 「面白いか、面白くないか?」、それこそが問題だ。  で、本作を読むにあたってぼくが考慮したことはたったひとつ、「一個の作品として面白いのか?」。それだけです。  この作品がいわゆる「なろう小説」を初めとする具体的な作品のパロディであろうがオマージュであろうが、それは良い。  たしかに「双剣の黒騎士」やら「ネームド・スライム」やら、あきらかに元ネタを消化し切れていない印象があるので、単純に訴訟沙汰になったら負けるのでは? 「パロディ」とか「パクり」という以前にただの純粋な「盗作」という次元なのでは? といった疑問が浮かばないこともありませんが、この際、それも良い。  いや、良くないかもしれないけれど、少なくともいち読者であるぼくが最初に考えることではない。もし単に漫画作品として面白いなら、どんなにひどいパロディであっても、それはそれで許そう。ぼくはそういうふうに考えています。「面白いは正義」。  そもそも「なろう」に限らず、既存の有名作品のパロディでヒットした漫画はいくらでもあるわけで、法的、著作権的にどうであるかはともかく、この作品だけをその文脈で非難することも何か違っているように思えます。  それで、結局、『チートスレイヤー』は面白いのか? ……うん、さんざんひっぱるだけひっぱっておいて申し訳ないのだけれど、いやこれ、ダメですね。  もちろん、まだ第一話の段階なので軽々に判断はできないものの、とてもこの先、傑作になろうとは思われない。ごく普通に企画倒れのただのよくある凡作でしかないすね。  あえて称賛するなら、この作品を読むと、ネットではバカにする人も少なくない『ソードアート・オンライン』とか『Re:ゼロ』とかがじつはいかによくできていて面白い作品であるかが逆説的によくわかる。  『モナ・リザ』の贋作が『モナ・リザ』の威光を高めるように、といったらいい過ぎか。とにかく、全然面白くない。そういうわけで、この先は「具体的に何がダメなのか?」を他の作品を踏まえて語っていきたいと思います。 なぜ『チートスレイヤー』は面白くないのか?  この作品を読み終えたあと、ぼくは「この漫画、なぜこんなに面白くないのだろう?」と考えてみたのですが、まあ、その理由はいくつもあるでしょう。  しかし、そのなかで最も致命的なのは、「エンターテインメントとしての志が低い」ことなのではないかと考えます。  先述したようにこの種のパロディは歴史上無数にあるわけですが、それがただ単に露悪趣味的なパクりで終わるか、それとも元ネタをも超える傑作として評価されるかは、その元ネタに対する批評性にあるのではないかと思います。  つまり、元ネタの作品ないし作品群が暗然と抱える構造的な欠点や問題点を批評的に語ることができているかどうか、それがパロディのクオリティを決定する。  で、『チートスレイヤー』はその点で決定的に稚拙ですね。この作品に登場する異世界転生者たちは作中で「前世はただの陰キャ」だの「恋愛脳の非モテ」だのと批判されていて、あえていうならそれがいわゆる「なろう」的なネット小説に対する批判になっているわけですが、そんなの、いままでさんざんいわれていて、もうウンザリするくらい聞き飽きた話であるわけですよ。  いま、「なろう」的なものを書いている人たちはだれもがその点はわかった上でやっているわけでね、まず、批判なり批評としての底が浅い。ネット小説に対する「アンチテーゼ」としてまったく新鮮味がない。それが第一点。  この時点でもうわりとダメダメなのですが、まだいろいろと問題があって、そのなかでもけっこうどうしようもないのが、主人公のキャラクターがきわめて弱いことですね。  他作品からキャラクターを借りて来て敵役に仕立て上げている以上、この作品の主人公であるオリジナルキャラクターはそれらに匹敵する個性と魅力を持っていなければならないわけですが、実際にはこの主人公、ほんとにただのつまらない奴なんですよ。まったく何の魅力もない。ちょっと論外ですね。  それなら、この『チートスレイヤー』と同じような路線で「成功したパロディ」には、どのようなものがあるのか? 『ザ・ボーイズ』や『ウォッチメン』といった先行例。  ネットでは、すでにこの作品がアメリカンヒーローものパロディの『ザ・ボーイズ』と酷似しているという指摘があります。  ぼくは不勉強でまだ『ザ・ボーイズ』を観ていないので(これから観ます!)、それがほんとうなのかどうなのかわからないのだけれど、話を聞く限り、たしかによく似ているようですね。おそらく、同じようなアイディアから出て来た作品なのでしょう。  もっとも、当然ながらこの手のヒーロー・パロディにも歴史があって、この作品が特別だというわけではありません。先行例としては、ときにアメコミ史上の最高傑作とも呼ばれることがあるダークな超名作『ウォッチメン』などがありますね。  この作品ではたくさんのオリジナルヒーローが出て来ますが、当初の予定では既存のヒーローを流用する予定だったそうです。  というか、ヒーローを悪役にするという発想は、それ自体はきわめて普通のもので、だれもが最初に思いつくところなんですよ。最も魅力的な主人公とは最も強烈な個性を持つ悪役にもなりえることはわかり切ったことであるわけです。  だから『仮面ライダー』とか『ウルトラマン』とか『機動戦士ガンダム』などでも、最終的にはライダー対ライダー、ウルトラマン対ウルトラマン、ガンダム対ガンダムといった展開になっていきますよね。  その発想の根底には「もしあのヒーロー同士が戦ったらどっちが勝つのだろう?」という、いかにも子供っぽい、しかし本質的なクエスチョンがあります。  これはいまも昔も変わらず、人をつよく惹きつける問いで、この手の作品はいくつも挙げられることでしょう。  ちょっと路線は違いますが、『スーパーロボット大戦』なんかも同じような発想から出てきているものと見て良いでしょうね。「もしマジンガーとガンダムがいっしょに戦ったら?」みたいな。  そのなかでもぼくが傑出した名作と見ているのが、戦後最大の天才娯楽作家・山田風太郎の最高傑作『魔界転生』です。 

炎上中の「なろう」パロディ『チートスレイヤー』本当の問題点とは?

テレビアニメ『スーパーカブ』ネタバレ感想。「それでも幸せになれるのか?」

ライトノベル原作の傑作アニメ『スーパーカブ』第一話が神回で凄すぎる。  この頃、ちょっとひとりのオタクとしてさすがに堕落し過ぎたことを実感していて、一から鍛え直そうと思い立ち、色々アニメを見たり本を読んだりしています。で、そのなかでも何かとんでもない傑作だと感じたのがアニメ『スーパーカブ』。  これがねー、じつに凄かった。どうしてこの作品を見ようと思ったのかもう良く憶えていないけれど、だれかに教えてもらったのかな? まあ、人に奨められたとしても興味が湧かないと見ないので、何か直感が働いたのだと思います。  正解でしたね。これは、素晴らしい。ほんとうに素晴らしい。おそらく原作もよくできているのだと思うし、漫画版も面白かったのですが、アニメのクオリティは圧巻です。  アニメ版はストーリーやキャラクターデザインそのものは漫画と共通しているのだけれど、演出の方法論がまったく違っていて、そのため、アニメと漫画では大きく印象が異なっています。  漫画が、わりと女子高生の日常ものとして楽しめるようキャラクターも含めてコミカルに描かれているのに対し、アニメのほうはもっとリアリスティックな演出になっている。  まあ、主人公以外のキャラクターが続々とストーリーに参加して来る中盤以降はいわゆる「空気系」としても楽しく見れるのですが、それでもこのアニメの見どころはやはり「何もない女の子の世界が輝きはじめる瞬間」を描きだした序盤にあると感じます。  才能も、友達も、恋人も、財産も、何ひとつ持っていない「ないないの女の子」である主人公が、なかば偶然にスーパーカブというバイクを手に入れたことから少しずつ世界が広がっていくところを丁寧に描写する第一話はまさに神回。  ここにこそこの作品の神髄がある、と感じます。自転車と違い、一定以上の年齢にならないと乗れないバイクには自由の象徴という側面があって、だからこそ『十五の夜』では「盗んだバイクで走りだす」わけですが、この作品でスーパーカブが保証してくれるのはほんとうにほんの少しの「視野の拡張」でしかありません。  しかし、その「ほんの少し」だけで世界は劇的に変わって来る。このアニメはそのことをじつに丹念に見せてくれます。 スーパーカブと出逢ったことによって、少女・子熊の人生は一転する。  2020年代に入っていよいよ驚異的な次元に達しようとしているテレビアニメとしても見るからに図抜けた作画と演出のスーパークオリティに支えられた「灰色の日常」の描写は、ちょっとこれはさすがにエンターテインメントとしてどうなのか?と思うくらい、ものすごく地味でありながら、しみじみと「何もない」、「だれにも頼れない」孤独感に満ちていて、何ともやるせなさを感じさせます。  でも、それがスーパーカブとの出会いによって一転してまわりが鮮明に輝きだす場面を支えている。  その後、物語を通し一貫して子熊のきわめて狭く限られていた世界は拡大していくことになるわけなのですが、それもべつに何らドラマティックなこととはいえません。ただちょっと古い原付を手に入れて移動が楽になった、それだけのこと。  しかし、その、たったそれだけで人生が劇的に変わって来るというのが、そこまで彼女がいかに追い詰められていたのか逆説的に語っているのですね。  「何もない」主人公がすべてを手に入れていく物語というと、ぼくは羽海野チカ『3月のライオン』を思い出します。でも、『3月のライオン』の主人公には、ほかに何はなくとも将棋の才能だけはあった。  かれはその唯一の才能にすがるようにして懸命に努力を続け、状況を打破していくわけなのですが、子熊にはそういったスペシャルな才能は何もありません。さらに彼女は経済的にも限界的な状況にあり、また、何か活動を起こすようなモチベーションすら持っていません。  ある意味ではこれ以上ないくらい追い詰められているのです。もうここまで来たらどうにも逆転しないのでは?と思ってしまうくらい、ギリギリのところにいる。  それが、ただ「人を三人殺している」ためにやたらに安く売られいていた中古のバイクを入手した、それだけで変わる。そこにこの作品の見どころがあります。  とはいえ、突然経済状況が改善するわけでもないし、失踪した親が帰って来ることもありません。そういう意味ではほとんど何も変わりはしないのです。それなのに、たしかに子熊の生活は一変する。この説得力。 「ないないの女の子」に救済はありえるのか?  これはもう萌えアニメとか、美少女アニメといって良いものではないように思います。たしかに可愛い女の子たちは出て来るのだけれど、状況設定に花やかさがまったくない。  この作品、一応は萌え四コマとかいわゆる「空気系」に近いところに属するアニメーションではあると思うのだけれど、それにしてはあまりにも異色です。というか、その進化の樹形図の最新のところにある姿といったほうが良いのかも。  空気系の進化の系譜、それは、まあ『あずまんが大王』まではさかのぼらないとしても、『らき☆すた』や『けいおん!』あたりから連綿と続いています。  そしていまさらいうまでもないことですが、このジャンルの楽しさは、「女の子しかいない平和な仲良し空間」の演出にあるのだと思います。  空気系のアニメでは、一般にたいした事件は起こりません。人が死んだり、異能バトルが起こったり、世界が滅びたりといったことは基本的にありえないわけです。  だから従来の物語の方法論でいうとそれでは何も面白くないはずであるわけなのですが、その平和でのんびりとした「空気」そのものを味わうというのが、これらの作品の要目なのですね。  ある意味では恋愛もののアニメから恋愛と男性主人公をカットしてできた世界といえるかもしれません。『スーパーカブ』も、やはりこの空気系の文脈で見るのが正しいのだろうとは思う。  ところが、空気系として見るとこの作品はきわめて異色です。まず、空気系とは主人公の少女たちの「仲良し空間」を描くところに眼目があるのに、この作品の主役である子熊にはひとりも友達がいない。  まあ、それだけなら、序盤でひとりぼっちの女の子が友達を増やしていくプロセスを綴った作品もあるからそこまでめずらしいことではないかもしれませんが、じつは彼女には両親すらいないのです。  どうやらふた親とも死ぬか失踪するかしてしまったらしいのだけれど、とにかく現役女子高生でしかない子熊には「保護者」がいない。このきびしさ。ここを物語のスタートポイントに持って来たことが、この作品の特色です。  

テレビアニメ『スーパーカブ』ネタバレ感想。「それでも幸せになれるのか?」

結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

 映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を観た。観てしまった。  タイトルの通り、オルコットの名作『若草物語』の映画化である。ぼくはあまりくわしくないが、過去、何度も映像化されている作品であり、日本でも「名作劇場」枠でアニメになっている。この映画はその最新のバージョンというわけだ。  ただ、現代において、古典的な傑作を映画にする以上は、何かしら新たな解釈を求められる。だからぼくは最初、さてお手並み拝見といった感じで余裕しゃくしゃくに観ていたのだが、シリアスなテーマが浮かび上がって来るにつれてしだいに余裕がなくなり、最後には真剣に観入った。  いやあ、これは素晴らしいですわ。まさに現代の傑作。ハリウッド映画ってまだこんなに美しい映画を撮れるのだなあ。凄い。  物語の基本的な骨子は良く知られている『若草物語』そのままだ。メグ、ジョー、ベス、エイミー。それぞれ異なる個性を持つマーチ家の四人姉妹の少女時代が暖かな映像とともに綴られる。  この四人の性格描写が絶妙で、長女としての責任を感じ大人びたメグ、奔放で破天荒なジョー、内気でおとなしいが優しい心を持ったベス、しょっちゅうジョーと喧嘩している勝ち気で頑固なエイミーと、四者四様のキャラクターが丹念に描かれていることはご存知の通り。  しかし、この映画ではただオルコットの『若草物語』をそのまま再現するに留まらず、彼女たちの過去(少女時代)と現在(大人になってから)を交錯させながら描写することで、女性の生き方のむずかしさを描き切っている。  女性の幸せが「結婚」にしかないと見られていた時代、自由な生き方を貫くにはどうすれば良いのか? はたしてほんとうに愛さえあれば人は幸せになれるのか?  「愛」という感情と「結婚」という制度から構成されるいわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーに正面から疑義を突きつけていく展開は、まさに端正なフェミニズム映画といって良いだろう。  もっとも、必ずしもそのような頭でっかちな解釈で見る必要はないかもしれない。何といってもそれぞれ負けず劣らずに美しく可憐な四人の少女たちを見ているだけで楽しい。  長女メグを演じたエマ・ワトスンを初め、あたりまえのようにハリウッド映画らしい美人女優がそろっていて、きわめて花やかな映画である。  ただし、『若草物語』のストーリーをまったく知らないと、過去と現在が錯綜する内容、特に序盤はいくらか混乱する可能性がある。おそらく、制作側は観客が『若草物語』の筋書きをそれなりに知っていることを前提に映画を作っているのだろう。  そこは欠点といえば欠点なのだが、映画全体の素晴らしさを考えればささやかな瑕疵に過ぎない。これから観る人はひとつの愉快なエンターテインメントを観るつもりで気軽に鑑賞してほしい。  物語の実質的な主人公は作家を目指すジョーである。四人姉妹のうち最も男まさりで自由闊達な性格をした彼女は、作家として身を立ててひとりで生きていくことを望んで幼馴染みのローリーのプロポーズも断わってしまう。  だが、どうにかニューヨークに出て作家にはなったものの、「刺激的な」作品を求める編集者に合わせ、どうしようもなく俗悪なストーリーを綴る日々が続いている。  いったい自分は何をやっているのか? 心中では疑問に思いながらも家族を養うためといいわけして自分の心をごまかしつづける彼女のもとに、妹のベスが病に臥せっているという報せが届く。ジョーは仕事を投げ捨てて家に帰るのだが、というところから物語は始まる。  そこに昔日の家族の想い出の回想がインサートされていくわけだ。そのジョーたちの少女時代は全体に暖かな色調で描かれているのだが、一方で「現在」は寒々としたカラーが貫かれている。  四人が四人とも、貧しい生活ではあっても、それぞれに自由で素直でいられた少女時代と、それぞれ生活の現実に追い立てられている大人時代が対比されているのである。  そういう意味では、ロマンティックなラブストーリーに終始する作品ではまったくない。むしろ、「アンチ・ラブストーリー」といったほうが良さそうですらある。  そう、全体を通して観てみると、この映画のテーマはあきらかだ。女性にとって「自由」と「結婚」は矛盾する、自由でありつづけたいと願うなら安易に結婚したりしてはいけないということなのである。  ジェンダーフリーやリベラリズムが浸透し、女性もまたさまざまな生き方を選択できるようになった現代でもなお、どうしても愛や結婚に夢を見がちな女性たちに向け、シビアな現実を突きつけているといえるだろう。  いや、ほんとうに凄い映画だ。感心したし、感動もした。しかも、物語そのものは単純に面白いのだ。うーん、素晴らしい。  さて、この先は映画のクライマックスのネタバレを含みます。また、ここからは300円の有料部分となっているので、その点、よろしく。サブスクリプションに入会してもらうとこの記事はもちろん、他の記事の有料部分も読めます。 

結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

「生きものに感謝して食べる」って変だよね?

 いま、YouTubeで配信されている『100日後に食われる豚』という動画が話題らしい。  「らしい」と書くのは、ぼくがこの動画にたいした興味もなく、きちんと調べてもおらず、くわしいことを知らないからである。  タイトル通り、100日後に殺して食べる予定の可愛い豚の姿を配信しつづける動画らしいのだが、ほんとうにまったく興味が湧かないので、詳細に検索するつもりにすらならない。  ウケ狙いのアイディアとしてはよくできているし、それはたしかにバズるだろうとは思うけれども、他人の動画がいくらバズったところでぼくには1円も入って来ないからね。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい。  が、この動画を巡る言説には興味がある。ぼくが見るところ、否定的意見としては「悪趣味だ」というものが多く、逆に肯定的意見には「食育として意味がある」といったものが多いようだが、両者ともじつに面白い。  なるほど、こういう動画に対してはそういうふうに考えるのが一般的なのだなあ、と感心させられる。みんな、意外と善良なのか、それとも動物に対しては人間に対してほど非情になり切れないだけなのか、どっちなんだろ。  ちなみに、この企画に携わっている某企業の社長はインタビューでこのように語っている。 S社長 いま流行っているSDGs(持続可能な開発目標)の中に、食品ロスをなくそうという目標があります。教育の現場や企業など様々な取り組みがありますが、その取り組みの意義を十分にPRできていないと見ています。楽しんでもらいながら、食品ロスに関して自分たちの行動を見直すきっかけをつくってもらいたいと思い、企画しました。私たちが食べているものの中にある命の尊さを考えてもらいたいと思っています。 https://news.yahoo.co.jp/articles/5e6869fdb456eb473eaa4282ff2ddfa230bf17ad  ふむ、「命の尊さ」と来たか。何だろ。べつに食べても食べなくてもどっちでもいいとは思うのだけれど、こういう露骨に白々しいことはなるべくいわないでほしいですね。  さすがにここまで胡散臭いことを堂々と語られると、ぼくのなかの消えやらぬ中二病ゴコロが反発しだしてしまう。  いや、だって、ほんとうに命が尊いというなら、その尊いものを殺して食べちゃダメでしょ。尊い、尊いといいつつ一方的に生き物を殺害して美味しく食べちゃう行為にはどう考えても矛盾があるのでは、と思うのだ。  ただ、もちろん、ぼくはだからこの豚を食べるべきではないとか、もっというなら人間は肉食をやめるべきだとか、そういうことをいうつもりはさらさらない。また、自分自身も肉食をやめようとは考えない。だって、焼き肉も唐揚げも美味しいものね。  単に「命の尊さ」を掲げながら一方でその尊い命を食べることにはどうにも無理があるのでは、と感じるだけなのである。  もっとも、このように語るとすぐに反論が返って来そうではある。そうではない、ここでいう「命の尊さ」とは、命のことを尊いと感じる知性を持ちながらも、それを食べることなしでは生きていくことができない人間が感謝の気持ちを抱きつつ命をいただくことを指しているのだ、命を尊いと感じることと命を感謝しながらいただくことは、べつだん何も矛盾していない、とか。  そう、「命の尊さ」が云々と語るとき、必ず出て来るのがこの「感謝」というフレーズである。上記のインタビューにもこの言葉が登場する。 ――「かわいそう」というコメントもありますね。 A 想定の範囲内です。動画を投稿し始めたときは低評価が多かったのですが、4日昼時点での高評価は最大で92%、低いものでも66%です。視聴者の視点も変わってきているのかなという印象です。コメントでも「ブタはいつも食べているし、命に感謝しないといけない」、「いただきますを心を込めて言いたくなった」という感想が増えています。  つまり、そこには何やら、人間は生き物のたったひとつしかない命をいただいているわけなのだから、その生き物に対するありがとうという気持ちを持って食さなければならない、という道徳があるらしいのだ。  だが、あるいは申し訳ないことかもしれないが、ぼくはこの種のモラルもかなり怪しいシロモノだと考える。そもそも「いただきます」とはいうものの、ぼくたちが動物から命を「いただいて」いるというのは大いなるウソだろう。  「いただく」とは「もらう」の謙譲語である。人間に食べられる動物たちはだれも「ぼくの命をあげるよ」などと許可を出してはいないのだから、人間が動物から「命をもらっている」という考え方はおかしい。「動物の命を一方的に奪って食べている」というほうが正確だ。  どうも「動物を殺しているのだから感謝しなければならない」という道徳理念は、「自分が快適に生きるためだけに、ほかの動物を一方的に殺して食べている」という事実から目を背けるために利用されている気がしてならない。  その意味で、ぼくは「食育」という概念に対してもかなり懐疑的である。子供たちに食の教育をほどこすなら、だれよりも大人たち自身が「生き物を食べるとはどういうことなのか」と真剣に考えなければならないと思うのだが「感謝の念さえ持っていれば殺して食べてもいい」というかなり倒錯的な観念で思考停止しているようにしか見えないからだ。  いや、動物の殺害を「感謝」で正当化するのはやっぱり無理でしょ。一方的に殺して食べておいて「わたしの食欲を満たすために死んでくれてありがとう」などといいだすのはどうにもグロテスクではないだろうか。  ただ、どうやらこの「感謝」という概念が「食育」の中核をなしていることはたしかで、農林水産省のウェブサイトを見ると、このように書かれている。 食育基本法においては「食に関する感謝の念と理解」(第3条)として「食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない。」としています。また、平成28(2016)年3月に作成された第3次基本計画においても、重点課題の一つとして、新しく「食の循環や環境を意識した食育の推進」を定め、「食に対する感謝の念を深めていくためには、自然や社会環境との関わりの中で、食料の生産から消費に至る食の循環を意識し、生産者を始めとして多くの関係者により食が支えられていることを理解することが大切である。」としています。 https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/h28/h28_h/book/part1/chap1/b1_c1_2_01.html  いったい何に対する「感謝」なのか少しあいまいだが、どうも「自然の恩恵」に対するものでもあるような書き方である。  しかし、あくまで意地悪く思考を進めるなら、「恩恵」とはいっても、自然動物はべつに対しどこまでも寛容に人間に自分を食べることを許して自分を恵んでくれているわけではない。  「恩恵」とか「恵み」とはあくまで人間の視点から見てそういうふうに見えるというだけであって、一般に動物はみな、人間と同じように、もっと生きていたい、ほかの動物に食べられたくなどないという本能を抱いて生きていることだろう。  それをあっさり殺して美味しく食べてしまうことを「恩恵」などと呼ぶことは、やはり少しくおかしい。  とはいえ、だからといって「どうせ人間の身勝手で殺していることには違いないのだから、一切感謝したりする必要はない」というふうにシニカルな考えかたをすることも極端ではある。  自分という人間が、生物が、ただ自分の欲望を満たすためだけに、ほかの生き物の命を奪いつづけて生きているという現実を淡々と直視した上で、その、素直に考えるなら恐ろしいともおぞましいとも罪深いとも受け取れるであろうことをどのように解釈していくべきなのか、何らかの哲学が必要になるところなのだろう。  ぼくじしん、べつだん、何か簡にして要を得た究極の答えを持っているわけではない。ただ「感謝することが大切だ」という考えが安易に流れるなら、それは「とりあえず感謝さえしておけばいい」という思考停止と変わらないことになってしまうだろうとは思う。  この世界は人間の目から見て残酷に思えるシステムでできているわけなのであり、人間にその残酷さを消し去ることはできない。また、はたして消し去るべきなのかどうかもわからない。  そのことを明確に認識し、正確に洞察してなお、考えつづけることをやめない姿勢こそが大切だろうというのがぼくなりに思うところだ。それもまた、ひとつの欺瞞だといえばそうかもしれないが。  さて、ここまでが、この記事の前半の無料部分。ここから先は『100日後に食われる豚』の「悪趣味さ」について、それははたして批判されるべきものなのかと考察していく。また、「ペット」と「家畜」の区分についても考えを進める。  300円ほど払っていただくと読めるようになるので、ぜひどうぞ。ちなみにサブスクリプションに入ってもらうとほかの記事も含めて読めます。良ければよろしくお願いします。 

「生きものに感謝して食べる」って変だよね?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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